政策レポート

2014年2月28日

政権による賃上げ要請の功罪

1、景気対策としての賃上げへの思い

  今年の春闘(春季生活闘争)は、各労働組合が賃金改善要求などを経営側に提出し、これより3月中旬の回答日に向け、交渉が本格化していきます。

  今年は、昨年以上に安倍総理大臣が財界に賃上げを要請するという、これまでの春闘には見られなかった様相を呈しています。

  この背景には、4月からの消費税率引き上げによる景気へのマイナス要因を少しでも取り除くために、賃上げによって消費を増やして内需を拡大し、景気を回復させようという経済政策上の戦略があります。また、昨年末からいくつかの経済指標の下方修正が行われ、とくに昨年10月-12月の国内総生産の伸びは鈍くなってきた(GDP年率換算で実質1.0%増)という背景もあります。

  現在のところは、消費税率引き上げ前の駆け込み需要によって消費や設備投資は底堅く推移していますが、4月以降はその反動が予測され、さらに今年度補正予算と来年度予算では公共投資が実質的に減額されることもあって、景気の後退が大きく危惧されています。

  安倍総理大臣としては、三本目の矢である「成長戦略」が効果を上げるには一定の時間がかかるため、当面は、さらなる金融緩和政策をとるか、勤労者収入の増加による消費拡大に期待するしかありません。また、昨年、アベノミクスによる大胆な金融政策と公共投資の拡大によって景気は回復したと騒がれましたが、安倍総理大臣の賃上げ要請に対しても一部の企業で夏のボーナスが増額されただけで、予想されたとおり、アベノミクスの恩恵は勤労者までには及びませんでした。かけ声だけに終わった昨年の轍を踏まないためにも、今年の春の賃金交渉に対する安倍総理大臣の思い入れは一段と強まっているようです。

  というわけで、この賃上げ要請には、これまで下がり続けてきた勤労者の賃金水準を回復させ、生活を向上させようとする思いはさほど感じられません。これまで勤労者は、いかに賃金水準を下げられてきたかは、政府の統計を見れば明らかです。国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、平成24年の平均年収は408万円で、昨年の409万円に比べ1.0万円(0.2%)の減少となりました。この平均年収は1997年の467万円をピークに下がり続け、2010年に若干水準が引き上がりましたが2011年からは再度下降し続けています。また、厚生労働省の「毎月勤労者統計調査」でも、2013年の労働者一人当たりの現金給与総額は平均31万4054円で、昨年に比べ73円下回り、ピーク時の97年以降、過去最低になりました。

  これは、非正規雇用労働者が大幅に増加したことも要因の一つになっていますが、春闘における賃上げ要求の視点として、過去の賃金の下がった分を少しでも取り戻すこと、さらには、低賃金にある非正規雇用労働者の比率を下げ、全体として雇用の安定と勤労者の生活向上をめざす、という政策の方向性が示されるべきだと考えます。

 

2、賃金交渉への政府介入の評価

  財界に賃上げを要請する安倍総理大臣の言動に対し、労働組合にとっては、「賃上げ交渉を有利にすすめることができる」とする歓迎論がある一方で、「政府が労使交渉に介入することは自律的な労使関係を損なうものだ」、あるいは「春闘への政府介入の前例を作れば、今後、賃上げ抑制の時にも利用される」などの批判的な意見も見られます。

  慶応義塾大学経済学部の太田聰一教授は、①賃上げが総理大臣の要請によって引き上げた「特別なもの」なのか、あるいは労使が生み出した付加価値の配分交渉による「通常のもの」なのかの区分が不明瞭になり、この賃上げの「論理」の混迷が今後の交渉に混乱を招く可能性がある。②中小企業を中心に経営環境は依然として厳しい中で、全体のパイが小さいままで無理に賃上げをすれば、中長期的には企業体力が低下し、将来の競争力喪失、失業の発生を招くことになる。③非正規雇用労働者が増える中で、全体のパイ(社会的余剰)を大きくするためには労働生産性の向上が賃上げにとって不可欠であるが、非正規雇用労働者に対する職業能力の向上という視点は欠けている。④生産性を向上させ、社会全体のパイが膨らむ中で労使が賃上げを決めても、全体の雇用が維持・拡大されなければ失業保険や生活保護などの社会的負担がかえって重くなる――と様々な視点から論評されています。(「連合総研レポートDIO」第285号)

  政権がいくら賃上げを誘導しようとしても、非正規雇用労働者の職業能力の向上による生産性の向上や雇用の確保という施策が伴わないと、かえって社会的な負担は増え、景気には決してプラスにならないということでしょう。

  安倍総理大臣の言動は、1%程度のベースアップを要求している労働組合にとっては、ある意味で応援団となるものですが、一方で、このような春闘を取り巻く環境が続いていけば、長期的には労使の当事者能力は弱体化していくことも考えられます。他方で、経済政策的には、賃金引き上げ率が金融政策や公共事業と並び、国の政策決定の重要ファクターとして位置づけられ、常に政府・日銀のコントロール下に置かれる可能性も出てきます。さらには、時の政権によっては、経営側が政治介入に反発してかえって賃金抑制に突き進むことも考えられます。

  このように、政策当局による賃金引き上げ要請は、まさに労使交渉の現場からマクロ経済・金融政策に至るまで様々な影響を及ぼし、また予期しない結果をもたらす可能性もあることを当事者は肝に銘じるべきです。

 

3、所得政策の歴史と意義

  時の政権は経済の安定運営をはかるために、インフレ抑制の要請があれば金融を引き締め、賃金抑制政策を取ろうとし、一方、国内需要を喚起したい場合は、金融を緩和し、公共事業を増やし、そして賃金水準の上昇やボーナスの増額を期待します。政府が、民間企業における賃金交渉に介入したり、公務員の賃金をコントロールすることはマクロ経済政策的には十分にあり得る話で、これを賃金面における「所得政策」と呼んでいます。

  所得政策は、これまでインフレ時において、賃金・物価・配当などを抑制する目的で実施されてきました。アメリカは、1971年8月から32ヶ月にわたり賃金・物価・配当の増加率にガイドラインを設けて賃上げを抑制する所得政策を実施しました。またイギリスも、1972年11月から翌年3月まで賃金・物価を凍結し、その後4月からはガイドライン方式を導入して、賃金、価格、企業利益、配当などを抑制する所得政策を実行しました。

  我が国では、1975年(昭和50年)の春闘でこの所得政策がソフトな形で行われました。政府は60年代後半より物価安定のために所得政策について経済審議会などで議論をしてきましたが、1974年の春闘が賃上げ率32.9%、平均2万8981円の賃金引き上げになったことから、所得政策の実行に舵を切りました。まず政府は、74年春闘後の5月に、大幅賃上げは経済のバランスを悪化させ、賃上げ率32.9%は卸売物価を9.5%、消費者物価を10%程度上昇させる、とのハイパーインフレの危機を煽る試算を発表しました。そこで、12月の経済対策閣僚会議で具体的施策を議論しましたが、欧米が実施しているような法的規制による賃金規制ではなく、「労使双方が状況を理解して妥当な賃金水準を作り上げるよう努力してほしい」と労使に自粛を求める考えを表明し、経済企画庁が消費者物価上昇率を翌75年は15%以下、翌々年は10%以下に抑えるとの目標を掲げる「ソフトな所得政策」を打ち出したのです。しかし、日経連はこの政府の意向を受け、75春闘では「賃上げ率を15%以下とする」という強い方針を打ち出しました。また、労働組合側にもインフレを警戒する流れが生じ、結果的には、75春闘は13.1%の賃上げ、そして翌76春闘は8.8%の賃上げに止まり、この日本的な所得政策は、一定の成果を上げたわけです。

  これら過去に実施された所得政策は、インフレ防止のための賃上げ抑制政策として実施されたものですが、現在、我が国で実施されようとしているのは、賃金引き上げを求める所得政策です。この政策がどこまで実効性を持つかは、次に述べる「所得拡大促進税制」がどこまで有効に機能するのか、そして政府の意を汲んで経営者側がどこまで労働組合の要求を飲むのかの決断、そして交渉に臨む労働組合の姿勢にかかっていると思います。

 

4、「所得拡大促進税制」の効果

  政府は、賃上げのかけ声だけでなく、唯一、賃上げを後押しする施策として昨年に引き続き、「所得拡大促進税制」の活用を強調しています。

  この制度は、従業員に支払う給与総額が前年度比で5%以上(25・26年度は2%以上、27年度は3%以上に改正)増えれば、増加分の10%を法人税から税額控除するという制度です。

  具体的には、例えば前年度の賃金支払い総額が20億円とすると、当年度で5%の1億円増やす賃上げをすれば、その10%の1000万円を税額控除できるというものです。一見すれば、節税効果を見込んで賃上げが実施しやすくなりそうですが、1000万円の節税をするために節税分の10倍分の経費(賃金)を増さなければならない、ということでもあります。また、税額控除には、納めるべき法人税額の10%(中小企業は20%)という上限がありますので、この利用は人件費比率が比較的低く、法人税の納税額が大きい企業に限られ、インセンティブとしては弱いのではないか、という意見もあります。

  とは言っても、この税額控除分は賃上げ原資の一部になることは間違いなく、収益を上げている企業では、労働組合もこの制度を交渉材料に使うべきでしょう。さらに、この制度は、賃金支払い総額にカウントされない派遣・請負労働者などを直接雇用に切り替えるインセンティブも与えます。労働組合も非正規雇用対策の一環として、この副次的な効果も交渉に生かしていくべきでしょう。

 

5、終わりに

  今春闘における安倍総理大臣の賃上げ要請は、前述のように、あくまで景気対策を目的としており、その内容も「賃上げ促進のための雰囲気作り」、あるいは「財界・経営者側に立つ政権として経済運営に協力して欲しいとするソフトな圧力」というレベルのものです。また、一定の賃上げが達成されれば、強いリーダシップをもった政権として、その成果を政治的宣伝に利用しようとする「いかがわしさ」も感じられます。

  賃金水準の決定要因は、全体の経済情勢や個別企業の業績とその見通しであり、何よりも交渉の当事者である労使の力関係にあるわけですから、労働組合としては、周りの声に左右されることなく、要求の実現に向けて全力を尽くすという本来の姿に立って交渉に当たるべきです。とりわけ今春闘は、中小企業を中心に経営環境は依然として厳しい状況にあるものの、例年になく賃上げで経営側に攻勢をかけることができる環境下にあります。皮肉にも、自民党政権と民主党を支援する労働組合が同じ方向を目指すことになっていますが、消費税や社会保障関係の負担増を前に、労働組合は組合員の生活と雇用を守るという責任を十分に意識し、賃上げの成果を引き出してほしいと考えます。