遅牛早牛

希望の党「愛は燦々とふり注ぐ?」

 小池百合子と前原誠司は戦犯なのか。「排除発言さえなければ」と怨嗟の声は続く。「騙すより騙される方が悪い」そうだが、だれがだれを騙したのか。解明されないうちにページはめくられる。新しいページでは民進党大塚が「三党物語」を、希望の党玉木が「寛容な改革保守」をそれぞれ説き始めた。今日、衆目はここに向く。

 すべては旧聞に、そうごみ袋に入れられ街角に並べられ、もうすぐ収集車が来る。政治はリアルタイムで動く。だから過去にこだわっていては置いてきぼりを食らうだけだ。とはいっても過去を整理しなければ未来は開けない。

 「政治は結果責任です」いまさらあれこれいっても往生ぎわが悪いだけ、と前原は民進党代表を辞任し、小池は「創業者としての責任がある」はずなのに玉木執行部の旅立ちを契機に共同代表を辞任した。当面都政に専念するようだ。それでいいと思う、二人の場合は。

 問題は希望の党のこれからである。人は出生時の事情を背負って旅立つ。政党もおなじ。不遇の出生といえる。出生の事情を解きほぐしながらこの党のこれからを考えてみた。

 名前とはうらはらにこの党には選挙期間を通していいことはひとつもなかった。蹴飛ばされた道端のごみ袋のような扱いだった。「今さら希望に票など入れる人がいるの。まるでブラックジョークだね。」と揶揄されていた。泡沫政党ならいざ知らず、多くの前議員を抱える新党のこんな選挙見たことない。痛々しい限りである。だがそれも同情を誘うどころか逆に「身から出たさび」「選挙に受かりたいだけ」「自業自得」など罵詈雑言の誘発に終始した。

 それに政策も貧弱だった。12のゼロはいいけれど、何やらかき集めた感が強く、項目間の脈絡がわからない。中道右派が改めて改革にこだわる、のだ。との気合いは伝わるが、理由と方法が不明だ。民主党政権での経験、多くは失敗と受け取られているが、を踏まえて少しは気の利いたことをいえなかったのか。

 振りかえればあの日あの時、言葉使いとして「排除」は不適当であったが、「選別」は適当であった。全員受け入れたのでは小池新党の意味がない。民進党をまるまる緑色の風呂敷に包みこんでどうするの。だから引き算が始まるのは当たり前のことではないか。しかし出てきたのは割り算。これは明らかにやり過ぎだった。過ぎたるは尚及ばざるがごとし、である。この間、民進党支持者は置いてきぼり、目が回る暇もないうちに舞台がまわる。せめて9月28日の民進党両院議員総会の全会一致のわけを聞かせて欲しいものだ。

 さて流れは選挙に自信のあるもの、プライドのあるものは無所属で、不安の強いものは急きょ立憲民主党で戦うことになった。にわかつくりではあったが、希望の党の失策と失速で追い風となった。だから立憲も無所属もあまり文句はでない。

 負けたのは希望。つまりは希望の自損事故といえる。だから「なぜ一千万票近い比例票が入ったのか」といいたい。実に不思議なことではないか。私はこの静かに希望の党を支持した有権者の思いを解きほぐすことから第48回総選挙の総括は始まると思う。

 話が前後して申しわけないが、9月25日それまでの若狭・細野ラインの取り組みをリセットしたうえで、創業者小池は希望の党をスタートさせた。以来投票日まで有権者が知り得た新党の中身はどれほどのものであっただろうか。直前の都議会選挙での政治イメージが一年前の都知事選挙と相まって保守政党の出ではあるが改革に強い使命感をもつ女性政治家として好印象を与えたことは確かであった。このどこまで行っても中道から左には外れない、また改革に強い使命感をもつという、このことが小池カラーの真髄ではないか。これはまた日本新党の目指したものといえる。

 個々の政策はさておき、中道および中道右派としての政治的位置、これこそが一千万近い有権者が反応し、評価したことではないか。であれば今後の道筋は明らかであろう。とはいえ今までもこれからも中道政党の進路は険しい。ましてや中道右派ともなれば更に険しい。隣接政党との厳しい競争が待ち受ける。左右の端面政党のような言い切り路線は選択できない。エッジの鋭さは今ひとつ鈍い。曖昧に見えるかもしれない。そこを左右から突かれる。

 しかしよく考えてみれば、安倍自民党が右側を開拓し支持の安定化を獲得したけれど、それは中道を軽んじたともいえるわけで明日の安定を確かなものにしたわけではない。右側を満足させ続けることは難しい。今日北朝鮮からの脅威が国民の不安につながっている状況にあって、何もしなくても政権優位であるはずなのに、獲得議席ではない得票率における支持はさほど高くはない。逆に脅威が去ったときどうなるのだろうと自民党の関係者は不安を覚えているのではないか。世論が右にシフトしたことは間違いないが、その程度は想定を下回っている。

 また国民は安倍総理が言いつのるほどの国難とは思っていないのではないか。少なくとも選挙結果を見る限りにおいては。

 さらに米大統領の立ち居振る舞いから国民が感じ取った何かしらあるものは、米国第一の商売の匂いこそすれ危機のそれとは少し違うというものではないか。

 状況を侮ることは許されないが、解散の大義を国難とし、米国大統領のアジア歴訪を北朝鮮包囲網の構築と圧力強化の橋頭堡の完成に活用しようとする政治劇場の思惑はそれなりの意味はあったのだろうが、国民の反応は「そういうことなら政府はしっかりやりなさい」という至極普通のもので、外に危機を作りもって内を治める手法はやや不発の感がある。こういった反応の中に右に遊んだ政権への醒めた国民の思いを感じる。

 「与党大勝」と新聞の見出しは踊るが、ほろ苦い酔いざめともいえるこの感じはどこから来ているのか。それは大勝の裏にある自公政権のある種の脆弱性がけっこう臭いを放っているからではないか。

 真ん中から右方面。ぽっかりと空いた広大な空間。立憲が限りなく左旋回する以上、希望が埋めるしかないだろう。平衡感覚が政治の羅針盤である。多くの先輩方がめざしながら挫折した右に開かれた中道政党の堂々たる離陸。分厚い中間層が支える中道政党こそが、何が起こってもおかしくない政治状況にあって最も必要な政治アクターといえる。少なからず期待するところがある。

 地味な集団ではあるが、ここは大いにおまけして激励をした。同時に代表に意見するにふさわしい表現を身に着けてほしいと思う。「王殺し」は政治劇の主要テーマではあるが、何事にも文化性が大切である。洗練なき手口に尊敬は集まらない。

 「小池ブランドを踏みつけてあなたたちはどうするのですか。感じが悪い、です。理屈ではありません。美意識です。そしてこのマイナス印象は容易に解消されないでしょう。政治のもといは愛です。愛燦々とふり注いでこそ希望が生まれるのです。」

2017年11月16日

加藤敏幸