遅牛早牛

年頭に「無災厄」を祈る

 「あけましておめでとうございます」と新年を寿ぎながら、例年になく力の入らない正月だったと思う。何がめでたいのか。とりあえず無事に新年を迎えられてよかった。という意味ではその通りだが、逆に無事に迎えられないケースとはどのような事態なのかしら。

 年末に飲み過ぎて体調を崩したり、老親が危篤になったり、家族が交通事故にあったり、といった個人的事情において無事ではないこともありうるから一言めでたきかなとつぶやいてもいい。独り言だから、いい。

 しかし誰かと向かい合ってめでたい、めでたいと言い合うにはそれなりの実態なり実感が必要ではないか。実態や実感もないのにめでたい、めでたいと言い合うのはいわば形式に流れているわけで、別にケチをつける気はないが、今年の年頭のある種のけだるさ、むなしさが何かしら形式に流れている漫然たる生活態度から来ているように思える。漫然とした日々の生活の積み重ねのどこに問題があるのか。少しばかり形式に流れたってどういうこともないだろう。ではあるが、めでたくもないのにそう言い合っていることが無意識世界に安穏な気分をもたらし、どちらかといえば「いいではないか」「いいじゃないか、いいじゃないか」との理由なき現状肯定の気を意識世界に送り出すきっかけを作ることになる。つまり本来深刻にまた真剣に考察すべき場合なのに漫然と状況に流されて過ごすことになる。これが問題なのだ。

 正月のあいさつに限らず、「問題なし、問題なし」と毎日叫び続ければ、頭の中から問題は消えてしまうであろう。人は吐いた言葉に支配される。

 安倍政権は「我が褒め」の風を持つ。一度二度はいいけれど、年中やっていると難を生む。青は赤ではない。赤でもないのに青を赤だ、赤だと言い続ければ、青は赤になる。もともとの赤は赤だから結局青と赤の区別はつかなくなる。せっかく青と赤を識別することができるようになったのに元に戻すとは、退化ではないか。少なくとも退行である。

 人は見たいものを見、見たくないものは見ない。網膜には映っているが大脳の情報処理過程で欠落する。直視する、直視できる前提は正直であることだ。まず自らに正直であること。

 すこし厳しいかもしれないが今「めでたさ」を共感しあえる状況にはないと思う。むしろ災厄のなさを祈りあうのが関の山ではないか。だから、たとえば「無災厄」「無災厄」といいかわし合うほうが時代にふさわしい。今日は安泰であっても明日はわからない。「災厄」の予感があっても「僥倖」の予感はない。残念ながら今年は「災厄」の年である。これが筆者の正直な感想である。

201815

加藤敏幸