遅牛早牛

変わり目ー政局も報道もー

 本欄201782日掲載の『「軽傷」「重症」「致命傷」』において ―― 安倍官邸は72425日と衆参において開催された総理入りテレビ入りの予算委員会で加計問題などの疑惑払しょくに努めたが「120日」と言う荷物を新たに背負い込んでしまった。そもそも初手の侮りが事態の悪化を招き、偉そうに「怪文書」と切り捨てたものだから反発は収まらない。それにしても厳しい野党時代の経験から暴飲暴食をつつしみ生活習慣病の克服に精励したはずなのに、驕りは何の病なのか。とはいっても「軽傷」には違いない。しかし、止血帯は傷口を外している。感染症の心配も。―― と記したが、出血が止まらず感染症を起こし重体となった。昨年10月の総選挙の勝利も感染症対策にはならなかった。どこかで素直にわびればひどくはならなかったと思う。人は小さな嘘を取り繕うために大きな間違いを犯すものだ。

 だから政局の安定をはかるためには、大事小事にかかわらず臨機の処置が肝要である。思えば鳩山政権において、「最低でも県外」とは中長期課題である、と仕切り直すことも選択肢としてあったと思う。が抱え込んでしまった。国内にある米軍基地は国家主権から最も遠く、交渉はできても決定はできない。さらに言えば、国内に新たに基地を設けることは拡張をふくめ、地方自治体群の協力なしには不可能である。だから「ごめん、少し急ぎ過ぎました。しかしその方向で安全保障体制との関連もふくめしっかり時間をかけ検討していきます。」というのが現実的な対応であったと思う。反省のひとつである。

 綸言汗のごとし、首相発言の撤回は難しい。時間が経つとさらに難しい。これまで安倍首相は強気の発言で野党の追及をかわしてきた。が今追求を受けている「もり」「かけ」「日報」は一年越しの長期戦となっている。また前二者は安倍首相夫妻に起因する。「法律違反事項はない」、「推定無罪」とか擁護派の声も聞こえるが、だから本件にかかわる国会での質疑を禁止せよということにはならない。 

 たしかに働き方改革はじめ議論すべき課題が多いことも事実である。しかしそれをいうなら、なぜ昨年秋に臨時国会を召集しなかったのか。憲法の規定要件を満たした野党要求を無視しつづけたではないか。加えて十月の総選挙である。国難を争点としたわかりにくい解散総選挙。国難とのイメージを植え付けられたかの国は、現在各国との首脳会談を提案し、実行している。国民の多くは国難とは何であったのか、今なお疑問に感じている。途方もない時間の無駄だった。

 さらに言えば、与党責任である。真相解明にきわめて消極的で、証人喚問などを駆け引き材料に大切な時間を空費してしまった。官邸のための国会対策に堕している。これでは国民の議会不信を助長するばかりだ。

 さらに重要なことは、国会に配布された資料が長期間改ざんされたまま質疑の元になっていたことである。これほどまでに馬鹿にされて、何が国権の最高機関だ。国会は行政府に対し、今後の対処策を示すと同時に内閣の責任を明らかにさせ、処断を求めるべきである。国会が緩いから内閣は目を閉じ、耳を塞いでいる。この状態こそが国難ではないか。事態決着の時期を明示し果断に行動することが国会議員の役割である。であるのになお官邸の顔色をうかがうのか。潮目は変わった、のだ。

 もう一つ変わり目の景色がマスメディアの政治報道と評論である。改ざんをスクープした新聞社と官邸との軋轢は有名である。また多くの大手新聞社の報道姿勢には官邸との距離感がにじみ出ている。それが報道の味付けにもなっていて分かりやすい。系列のテレビ局も同じようである。わけても面白いのは政治評論家の立ち位置である。有名な〇氏は官邸寄りで、時として代弁者よろしく、ディープな情報源を匂わせながら官邸擁護を婉曲に述べる。他方△氏は政権に辛いが不思議なぐらい慎重である。二人が並ぶと組み合わせの妙と言うべきか、仕組みを知った上で聞く分には害はない。しかしこの数年におよぶ阿諛追従の報道システムも変わり目にある。

 そのきっかけのひとつが今年32日の文書改ざん報道であった。朝日新聞のスクープに対し、「単純誤報説」、「文書取り違え説」、ネットでは「でっちあげ説」が飛び交った。そうあって欲しいとの願望を抱えながら。

 しかし312日財務省は改ざんを認めた。当然のことながら官邸擁護派の敗北である。理財局単独主犯説も財務省止まり説も見事なほころびを見せ、それを唱えた官邸擁護派は恥の上塗り状態になり、410日愛媛県庁職員の備忘録を知事が認定してからはさらに無残な醜態をさらすことになった。すなわち擁護のための屁理屈を逐次投入し続けた結果、後顧に耐えられない推察や思惑からなる雑言を公共空間に垂れ流したといえる。

問題は単なるスクープ競争の勝敗にとどまらない。官邸擁護の味付けを内包する報道は権力批判において劣後する。だから真実を暴き出すという荒々しい作風を欠く鈍刀報道に陥る。

 また権力に親和的な報道者は、当然権力から親和的に遇されやすい。各紙とも日々、首相の動きを報じるが、その中から面談、会食の回数を計測すればそれぞれの親和性の一部を推し量ることができる。

 いま報道の基本姿勢が疑われている。権力者の懐に飛び込むのも手段として許容される。通常では得られない情報を入手することも国民の知る権利に応える意味で大切であろう。しかし批判すべき時には、手のひら返しと揶揄されようが自身の信念に従って、堂々なすべきである。でなければ、「みっともない」報道といわれても仕方がないではないか。仲良くなりすぎてものが言えませんでは情けない。報道とは権力との対峙、対象とのせめぎ合いが本質ではないのか。当の本人には分からないかもしれないが、茶の間からは阿諛追従に感染していることはまる見えだ。実にみっともないからもういい加減にしなさい、というのが変わり目の声である。

加藤敏幸