遅牛早牛

妄想か、貴族院時代へのタイムトラベル

 着席してから議長がギャベルを叩くまでの数分間は思いを巡らせる自由時間であった。参議院本会議場は荘厳な雰囲気を漂わせ21世紀を忘れさせる空間であった。また天井はステンドグラスを通して自然光を取り入れていることから間接的に外の天気がうかがい知れる、どこかと繋がった感じの空間でもあった。

 約70年前そこは貴族院。議場の調度は桜木が中心でその堅い木地が反響を硬くしているのは当時も同様であったに違いない。

 「この席にはだれが座っていたのだろうか」。

現在の議事堂は昭和11年11月に竣工した。この年の2月26日には雪の中クーデター未遂事件が発生している。いわゆる2.26事件である。翌昭和12年7月7日盧溝橋事件が発生し大陸における事変は日中戦争へと拡大していった。そういう時代であった。

 その時代、竣工間もない帝国の議事堂貴族院本会議場に座った人たちは何を考えていたのだろうか。私たちはその後の歴史を知っている。昭和12年、中国国民党と共産党は内戦を停止し抗日戦争に集中する道を選んだ。泥沼化する大陸戦線。事態収拾にてこずる日本政府。とてもまともとは思えない流れの中で、昭和16年の対英米開戦は昭和20年8月、おびただしい人命を犠牲に未曾有の敗戦で終結した。そして貴族院は昭和22年5月2日廃院となった。

 華族制度が天皇を守るための藩屏であるなら、貴族院は天皇による君主制を守るための防波堤である。選挙で選ばれる衆議院は政党の支配を受ける。選挙は民衆に依ることから、貴族院は皇族・華族議員と勅選議員による民主主義への対抗装置として設計された。

 その貴族院が議事堂竣工後11年を数える前に廃院となった。栄華を極めたであろう貴族院議員たちは天皇制を守るどころか、自らの身分、地位、名声まで失ってしまった。歴史は過酷である。

 振り返れば300諸侯が治める列島国家が1868年、天皇が治める君主国家に変貌し、およそ20年後帝国憲法に基づく議会制君主国家に成長。半世紀の後「列強」に伍する地位を獲得していった。しかし天皇を擁する若き帝国は誕生後80年を待たず瓦解した。

 議長のギャベルの音を聞くまでの数分間、かつて真新しい桜木の椅子に座した栄えある貴族院議員たちの往時の思いについてあれこれ考えを巡らせる。

 結局、彼らは時局に流されるだけの議員であったのか。流れゆくその先をどうして見通せなかったのか。その先にある巨大な滝壺に向かって、なぜ掉さすがごとく事態を加速させたのか。私たちはその後の歴史を知っているからそう指摘できるのであるが、結果を知っていなくとも「これはまずいことになるのでは」という単純素朴な疑念の一つも持たなかったのか。想像力とはいわなくとも、空想のかけらもなかったのか。と、もうこの世にはいない多くの貴族院議員たちに向かって難詰している。そう独り言でなじっているのである。

 あと十年もしないうちに、あなた方が守るべき天皇は進駐する他国の元帥のもとを訪ね恭順の意を示さなければならないのだぞ。攘夷を掲げ臨んだ維新の結末がこういうことなのか。まさに天皇の危機ではないか。何のための貴族院なのか。まったく不甲斐ないことだ。と心中の非難はエスカレートする。

 一方、衆議院では昭和11年5月7日齋藤隆夫衆議院議員(兵庫県)の有名な「粛軍演説」が行われた。隣の院とはいえ、歴史に残る名演説ではないか。それをあなた方はどう聞いたのか。齋藤演説の言わんとするところは、若き将兵が高官顕官を殺戮する背景には軍部上層部にそれを容認する風潮があり、これはいずれ議会制君主政治を破滅させる、というものである。飛躍を恐れずに言えば、体制を崩壊させるものそれは軍部である、ということだ。この演説に触発されたか、時局は軍部暴走の抑制に動くが時遅し、残念ながら結果は歴史の示すところとなった。

 だから、体制の敵は軍部、すなわち軍は天皇体制を害すという認識をどうして持てなかったのか、と思う。いかん、いかん、もはや妄想の域に近づいているな、とその瞬間ギャベルの音を聞くのであった。

 また別の日は、実に軍部は卑怯ではないか。天皇の名において、あれだけの犠牲を出したのにもかかわらず、責任を認識していない。軍部って誰だ。まてよ、軍部以上に卑怯なものがいるではないか。

 齋藤隆夫議員は昭和15年2月2日有名な「反軍演説」を行い、後に衆議院議員を除名された。除名議案の賛否の詳細は興味深いが、圧倒的多数で可決されている。これにより日本の議会は議会でなくなり、大政翼賛会の時代となったのである。

 声を出すべきものが恐懼し沈黙する。また暴力におびえ世論に阿諛する。明治維新は英傑たちの果断な行動により成し遂げられたが、深い影を持つ。暗殺である。その流れが維新後60年を経て、軍人テロにより議会を沈黙させたのか。

 命が惜しいから沈黙し、やがて国を失う。幸いにも日本は再生し昭和27年主権を回復するが、華族制度は崩壊した。栄枯盛衰話ではない。爵位は与えられただけのもので、自ら牙をむき、爪を研ぎ戦おうとする気概を持たない華族たちの没落は不可避であったのか。罰を得た、と思う。地位に安住し責任を果たさなかったものが受ける罰である。

 貴族院廃止の後、一院制を押すGHQとの困難な交渉を乗り越え参議院の設置が決まった。その設立は昭和22年5月20日であった。当然貴族院とは不連続である。

 議員であった12年間、幾度も本会議場に座ったが、ここに座るものの責任は重い、実に重い。主権者たる天皇の地位を危うくし、恥辱を甘受せしめ、政治体制の崩壊を食い止められなかった貴族院議員たちや藩屏足りえず没落した華族たちへ辛辣な批判を寄せながら、ひるがえって現在の国会議員たちは主権者のためいかなる役割を果たすべきか、あるいは果たすことができるのか、ギャベルの音の直前まで思い重ねさせられた本会議場は時空機のような空間であった。

加藤敏幸