遅牛早牛

時事雑考「暑い夏は仕事の手を休め、振り返ってみよう」

◆何事も振り返ってみると見えてくるものがある。1年。2年。3年前の事柄をゆっくりと思い返しながら、見慣れた映画を何回も見るように。

◆2017年の通常国会は悪い意味で佐川理財局長(当時)の独り舞台だった。質問が集中する中で答弁の強弱が変遷していく。そして、メモ、資料など残っていないとの強弁に至った。なぜそこだけが強拍(強い調子)だったのか、疑問に火がつく。

◆私が言うお役人とは、高い教育と学力、鍛えられた人間関係能力また現実適応能力や使命感などを持つ精鋭集団であって、キャリア、ノンキャリアの区分を問わず仕事のできる人たちである。19847月、全日本民間労働組合協議会の事務局に出向いて以来、私の立場はいろいろ変わったが、もう34年交流は続いている。

◆彼らには彼らの作法や仁義があり、当然保身もある。もちろん中央官僚としての矜持は高い。日々生身の彼らと接触する中で、裏も表もあるがままに受け入れてきたつもりであったが、あの強拍答弁だけは意外であり信じがたいことであった。

◆国会答弁は国民への答弁である。だから可能な限り断定はしないしできない。答弁は留保の範囲内で行う。だからわかりにくいし、かったるい。「イエスかノーかで答えてください」と迫る議員の中に親しい人もいたが、この手の質問を支持する気はない。イエスかノーかで答えられることは政治でいえば確定事項、済んだことである。国民感情から離れていると批判されるかもしれないが、答弁は質問者への答弁である以上に主権者への答弁であり、答弁によってもたらされる事象への責任を負う。「責任倫理」であるから省内での確認が前提である。答弁者がその場その場で判断して応えられることは少ない。自分の判断で答弁したのなら、自分で責任を取るべきなのは当たり前だが、取りようのない責任がある。だから、たった一つの答弁にも膨大な手間をかける。決して個人の判断に帰せられることの無いよう、過去営々として積み重ねてきた答弁システム、このぐらい重厚でなければ国権の最高機関である国会へ対峙することはできないではないか。だから戦前の議会でも答弁は大変であったし、戦後は民主政治を支えるインフラの一つであったと思う。それが崩れた。なぜか、国会がなめられたからである。国会よりも気を遣わなければならない権力ができたからである。

◆「イエスかノーか」でいえば佐川氏は「ノー」と答えた。それも強く。その瞬間、国会の権威が失墜したのである。権力者の顔色をうかがいながら堂々と国会に対し嘘をつく。驚天動地の事態であるが、これも日常化していくのか。

◆北朝鮮の脅威をテーマに201710月総選挙におよんだ。解散総選挙の霊験?あってか、2018年春、想定外の米朝対話が進んだ。この何とも言い難いチグハグ感に、打ち切りたい別の何かがあっての解散ではなかったか。というのが素直な感想ではないか。それを「げすのかんぐり」というほどお前たちは偉いのか。国会を何回シャッフルしても国民の疑惑は晴れない。国会の荒れようも変わらない。ゲップが出そうなほどのモリカケの満腹感ではあるが、本当は消化もせず排泄もせずの、尾籠な表現だが「フン詰まり感」が正しい。

◆さて今回の振り返りの帳尻は、財務省の債務超過、国会のシステムダウン。そしてこれで名宰相といわれることはなくなった。長いだけだわ。

◆さらに言えば、国民に嘘をつく財務省の格付けはBBB、これじゃ人材は集まらないでしょう。嘘をつかれてもブツブツしか言えない国会は落し物窓口を訪ねるべし、「私たちの誇りは届いてないでしょうか。」と。官邸権力は三権分立を毀損し、官僚の魂を抜き、外交ごっこに堕した。「What」は大事だが「How」はさらに大事である、民主政治では。人心はすでに離れている。

加藤敏幸