遅牛早牛

暑い夏は国体を思うべし②

 前稿で『なぜ負けるとわかっていながら戦争を始めたのか』『それは誰にも止められなかったのか』との疑問を、まあ人生の宿題として時々思い巡らせてきたと述べた。戦後生まれだが、戦争を引きずる世代として個人的にも歴史認識の決着を図りたいと願いながら、牛の道草のようにだらしのない時を過ごしてきた。そしていよいよ電池残量が気になる齢となり本気で焦っている。それにしても難しい宿題だとぼやく日々が続く。

 そういう日々の焦りの中で、ふと見つけたのが、『国体論 菊と星条旗』(白井聡 集英社新書)だった。いまどき国体か、であるが、なるほど国体なのだと得心した。つまり、白井聡氏の主張は当たっている。論証とか検証などというややこしいことは横におき、共感するものがある。

 白井氏がまとめている年表を眺めると確かに既存の年表形式の歴史観とは趣の違うイメージが浮かんでくる。2018年は明治維新の1868年から150年目にあたる。敗戦の1945年は1868年からは77年目に当たり、1945年に77を足せば2022年になる。だから1945年に折り目を付ければ、年表は1868年からはじまる右半分と1945年からの左半分とに分かれ、2018年の今年は1941年(昭和16年)に重なる。なんてことはないが、明治維新体制と戦後体制といずれも崩壊のプロセスとして重なる。氏はそこに歴史の相似を見て取り、相似以上に内実の相関を指摘する。いや、相関ではなく体制踏襲である。

 何が踏襲されたのかは、さまざまな解釈があるであろう。さらに戦後体制が崩壊過程にあるとの認識については、政治的にも異論が噴出すると思われるが、ここは提起者白井聡氏の案内に従うのが礼儀なので、一読をお薦めする。

 氏が第1章の冒頭で『二〇一六年八月八日、テレビを通して発せられた、つよい「言葉の力」に筆者は釘付けとなった。自分が見聞きしているものは一体何であるのか、それを考えれば考えるほど、衝撃の感は深まっていった。』(p.14)と記している。もちろん今上陛下の「お言葉」への反応である。

 氏の受けた「衝撃の感」は私も同様であり、その方向も似ている。同時に、氏が1977年生れであることに別の衝撃を受けた。子どもと同世代なのだ。

 俎上の文脈は相当に世代性の強いものであり、どこまでいっても戦後10年間までの生まれに限られるのではと、ばくぜんと考えていたことが間違いであった。世代をまたぎ議論が生きていることに安ど感を覚えている。

 氏は『 今回強調され、想起せしめられた―そして、憲法上の規定でもある―のは、天皇は「日本国の象徴」であるだけでなく、「国民統合の象徴」であるということだった。』(p.31)と今上陛下の意を推量している。

 この象徴論については、氏も指摘しているが、近年あまり議論がなかったもので、「象徴天皇」は国民各層に強く刷り込まれているが、何を象徴しているのかについての議論は無風状態に近い。

 さて「日本国の象徴」とは日本国の代表者であることを表し、明治憲法における天皇大権との落差は大きいが、無条件降伏を受け入れざるを得なかった敗戦国としてかろうじて国体の保持がかなったことになる。では「国民統合の象徴」とは何か。それはほっておくと国民が統合されない、すなわちバラバラになってしまうということである。

 つまり1945年はそういう情況にあった。少なくとも天皇不在では統治できなかった。飛躍した言い方だが、新しい共和国ではまとめようがなかったし、発想すらなかった。占領統治との関係を含め「国体論 菊と星条旗」に詳しい。

 では2018年はどうなのか。国家統合、国民統合に憂いはないのか。内閣総理大臣で足りるのか。三権分立は機能しているのか。議会は国民の代表としてその意を戴しているのか。1945年から73年、経済的成功はあったとしても、永く豊かな歴史に彩られる国民国家が目の前に息づいているといえるのだろうか。独立国家としての誇りをどこに感じることができるのだろうか。いずれにせよ国家経営の基盤劣化が甚だしい現実を直視すれば、人々は気楽にとらえているようだが、国民統合にヒビが入る危険を心配せざるを得ない。国民統合にヒビが入ることは国家統合の瓦解につながり、いずれ国家崩壊を招く怖れがある。だから国民統合という国家にとって最も基本的な役割を誰が担っているのか。そしてそれは具体的に何をもって示されるのか。実に深い、日本国にとって重大な課題がここにある。忘れていたのか、わざと忘れたふりをしていたのか。いずれにせよ国家存立基盤にかかわる根本課題である。

 この根本課題は端的に天皇不在でやっていけるのかと言い換えることができる。「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」において「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」という発言があったと聞くが、それは今上陛下に「日本国の象徴」として憲法第7条の国事行為に専念すべしと宣言することに近い。国民統合機能について真剣に思料し、事実行動・行為として表されたことが誠に無為であったと断じる立場がこの国のどこにあるのか。また「国民統合の象徴」としての役割は不要あるいは余分なことだと断じたとして、では憲法の要請すなわち統合原理にいかなる体制をもって応えるのか。この国は何があっても、つまり放置していても統合される自然統合国家なのか。「お言葉」を起点に考えるべきことのあまりの多さと重さに驚かされる。真摯に対応することが求められるのではないか。

 余分なことだが、内閣総理大臣といえども支持層の利益を代表することに権能を最大活用する立場であるからは国民統合の役割を担えるはずがないことを認識すべきであろう。政ごとは賛否を背負うことから、政治家は人心の収れんする立場になれない。

 ということで前述の有識者は「公務の負担軽減等」などと矮小曲解した問題に答えるのではなく、「国民統合の象徴」としての天皇の役割について正面から答えるべきではなかったか、残念なことと思う。

 いささか感情に走る物言いではあるが、国民統合の難しさも知らず、保身のために国民をあおり、国論をいたずらに分断しようとするグループと、鎮魂と祈りに自らの存在と信念をかけ、憲法の要請に誠実に答えようとする両陛下との信じがたいほどのギャップに義憤を禁じえないのである。

 なお問う。選挙で議席を確保さえすれば何をやってもいいのか。戦後レジームとは何なのか。押しつけ憲法などと簡単に決めつけているが、この憲法に至る道程は150年以前に遡るもので、このプロセスの吟味なくして正しい解釈には至らない。私は護憲主義者ではない。しかし軽薄な改憲論者でもない。保守たるもの、今日に至る過去からの流れについて、よくよく深甚なる考察を加え、偏ることない判断に立って、守るべきものを抽出し公論に付すべきである。どんな政党が政権をとっても国家の礎石は国民統合を担う者である。独立戦争だとか革命という歴史事実が国民統合の礎石になっている国とは事情が違う。

 間違っても分断、分裂国家にはならないと思い込んでいるから、強引かつ無節操な政治に走るのではないか。それは掌上の悟空に等しい。歴代の内閣総理大臣、衆参議長で国家の礎石といわれる人物はいない。これがわが国の政治家の限界である。主権者は国民であるが、国家形成あるいは国家統合に寄与した立場をもたない。

 現行憲法において主権者たる地位を与えられている国民が、その地位を得るためにいかなる寄与、貢献をなしたのか、今一度振り返り、思い起こすことなくして国体にかかわる議論を前に進めることはできない。それは国体の一方の主人公である天皇の寄与、あるいはありようについては多々論じられているが、主権の受継者である国民の寄与、あるいはありようについては語られることが少なかった。今日までの70年余にわたる主権者意識の希薄さの底流に、与えられた立場から一歩を踏み出すべく主体性の発揮にいたる跳躍が不十分であった歴史的現実があり、それがこの国の国体を語るうえで言葉にできない不均衡感を生じさせている。

 つくづく1945年の迎え方が国体論のキーコンセプトだと思う。まず終戦ではなく敗戦とすべきであった。現実は国家崩壊と悲惨かつ全面的な敗北である。二百何十万の兵士の多くは敵の弾薬ではなく、飢えと病で殺された。その責任のほとんどが軍にあった。つまり自国に殺されたのである。その上多くの自国民、他国民をも死に至らせた。むごいことであった。

  だから、戦争指導者、軍の責任者を処罰すべきであった。天皇の名においてなされたことは天皇の名において責任を取らせるべきであった。事情は良く分かるし言っていることの非現実性は十分承知しているが、机上の議論としてとどめるとしても、占領国に処罰権をはく奪されてどうすると言いたい。要は天皇国家としての後始末の問題で、天皇大権はどこに行ったのか、いつ消えたのか、本当に締まりのないことではないか。

 では、我が人民としてはどうなのか。もちろん人民などは一人もいなかったし、今もいない。しかし親、子、伴侶、兄弟、家族、友、愛する人を殺されて悲しみだけで怒りはなかったのか。命以外の多くのものも失った。焼失したものも多い。

 1945年以後食料はじめ物資不足はひどく、栄養失調、医薬品不足などによる後発被害も甚大であった。どんな言い訳をしても歴史上最悪の国家であったことに間違いはなかろう。その非を国民として一言の糾弾にもしえなかったのは一体何事なのか。この問いには仮説で答えるしかないと思う。そして考えられる仮説の一つは、「責任を負うべき者」の不在である。糾弾の的がない。原因者や仕掛け人は数多いるが、責任者はいない。止めるべき者がいない、だから被害は未曽有に広がったのだ。

 この国には、「責任」という概念も思想も生き様も何もない。最初に引き金を引いたものは特定できる。しかし誰に責任があるかの問いには「空気」としか答えない。これが宿題に対する答えの一つである。また今日の政治状況もしかり。忖度はあるが責任は宙に浮いている。

 すなわち責任倫理の思想がないのだ。議論すべき国体論のキーコンセプトがここにある。 

 

加藤敏幸