遅牛早牛

「同一労働同一賃金」昔から難問だった

◇  ずいぶんと昔の話であるが、行きつけの理髪店での店主とのやり取り。「5万円の床屋が東京にあるとテレビでやってました」「・・・」「5万円の散髪って一体どんなものなのか」「・・・」「で、うちでやるとしたらどんな内容になるかいろいろ考えてみたんですよ」「どうなったの?」「それがとても難しくって。シャンプーとか最高のものを使っても大した金額にはならないんですね。マッサージを念入りにやってもたかが知れているし、床屋がマッサージで金取ったらおかしいでしょう。」「まあそうだね」「うちでは1万円を超えるのも無理、5万円のサービスなんてとても無理です。」「土地代も安いしネ」

 

◇ 理髪(理容)は調髪、顔そり、洗髪、付加サービスで構成される。理美容師は資格職業で自営も多いことから料金と本人の取り分とは高い相関関係にあり、どの地域にあっても提供されるサービスは標準化されている。もともと養成機関を経て国家試験で資格認定されるので標準化の水準は高い。すなわち、同一労働といえる条件にあり、同一賃金の議論はやり易いといえる。あとは熟練度、おしゃれ度(芸術的付加価値)をどう評価するかである。

◇  さて、本題の同一労働同一賃金であるが、40年以上労働運動に携わった経験でいえば、「土壌を選ばず作物を植える」の一言に尽きる。同一労働同一賃金が間違っているということではない。それは夜空に輝く北斗星であって、正しい方角を示すものである。すなわち、同じ仕事しているのだから同じ給料をもらって当然だろう、という極当たり前の主張である。だから同じ仕事をしているのに差があるのはどういうことなのかという疑問には支払う側は答える義務があり、これらのことは公序良俗を維持するうえでも大切なことである。この原則は労働運動にとって基本中の基本であり、労使においても最大限尊重されるべきものである。したがって、仮に同一労働同一賃金原則から逸脱しているというのであるなら、それは賃金差別として厳しく扱うべきである。また争う道筋を整備する必要がある。問題は就労形態の違いや性差による賃金差を同原則に照らし議論することが問題解決に向けて適切であるのかということであり、今ここで指摘したいのは議論を始めることが問題の本質を見えなくしてしまうのではないかということである。つまり同一労働同一賃金の議論を始めると、「同一労働」をめぐり果てしない神学論争に陥りなかなか出口にたどり着かない。これがマニュアル労働であれば同一労働を立証することは容易である。だが日本の現実は随意労働ともいえる実態にあり同一労働をめぐる議論は完結しない。マニュアルで規定された労働にはそれ以上も以下もないことから同一労働について議論できるわけで、逆にその時々の状況で労働の内容が違ってくる場合にはどうやって同一労働をとらえるのか。そんなことが本当に可能なのか。これが核心である。

◇  また同一賃金同一労働と語順を変えてみれば、「この程度の賃金が得られる仕事は〇〇、◇◇、△△」とすらすら出てくるのが例えばヨーロッパの国々で、日本の場合は答えるのが困難である。つまり賃金と労働の対応関係が社会的にイメージ化あるいは意識化されているわけではない。特に労働という認識が薄い。だから同一価値労働と表現を変えた瞬間多くの人が方向感覚を失った気分に襲われる。価値労働といいだすと、これはどこかで値付けされたという意味で市場でとか交換可能だとか汎用性を有する労働という概念が必要になるわけで普通の人にはついていけない世界であり、こんな議論がはたして必要なのかと思う。したがって、単純に賃金差別禁止というジャンルで処理した方がわかり易い。

◇  差をつける合理的理由がない以上同一であるべきで、そうでないものは差別である。これは労働を基準に支払われる賃金についてである。しかし家族手当は違う。労働とは関係なく家族構成・扶養関係を基準に支払われるもので、賃労働の対価としては異色というか不適正でさえある。筆者が入社間もない組合員であるのかどうかさえ疑わしい時期に、昼休憩時に職場の前面に立ちタブロイド版を手に演説を始めた先輩社員がいた。後に職場委員だと知ったが、ひとしきり話が終わったとき、手を挙げていた。「先ほど家族手当という言葉がありましたが、私は反対です。家族と仕事とどういう関係にあるのですか、家族の多い方がいい仕事ができるのですか。おかしいでしょう。」筆者の人生において時々起こる事態である。空気は凍えるように張りついた。後刻係長に実験室に呼び出され、「余り言わない方がいいよ」「?」「俺のところは5人なんだ。」とうまく諭された。翌年、新たな年度の職場委員の選出が入れ札で行われ、一票を除きすべてに「加藤」と書かれていた。彼には組合のことを少し勉強してもらわなければ、ということであったらしい。少し勉強するのがこんなに長くなるとは思わなかった、当時は。ことほどさように賃金には議論を始めると果てしなく続く項目が多く、すっきりしない。

◇  毎月支払われる給料には多くの項目、すなわち構成要素がある。労働に対し支払われるといっても、労働能力に値段をつけるのか、労働の結果に値段をつけるのかによって大きく分流していく。労働能力は知識(学習歴)、経験(習熟)、才能(個人差)によって支えられるもので、本来そのポテンシャルをいい、うまく発揮される場合とされない場合がある。「係が休みで半日コピーにかかりきりだったよ」という優秀な技師はその時間せっかくの能力を発揮できなかったわけで、仕事と賃金の関係でいえばいわゆるオーバーペイであるが、労働能力に対し支払うのなら何ら問題は起こらない。しかし仕事の内容に対し支払うのであるなら、優秀な技師に長時間コピーなどさせてはいけない。どちらにしてもこの場合支援体制の在り方と管理が問われる。他方成果に対し支払う場合は目標を明らかにする必要がある。目標の第一項目は日程である。一人一人の仕事の日程は最終納期から逆算される。積み上げではなく逆算というのはどこかで無理が生じるということである。目標の第二項目は仕様確定である。これらの納期と仕様は営業項目であるから企業の戦略判断の影響をもろに受ける。「ここは我社として大いに挑戦しましょう。」と社長はかっこをつけるが、挑戦とはリスクをとることで、設計から製造にかけてあちこちに地雷が埋まっている状態に他ならない。目標の中に未知の要素が混じりこみ、結果に対する責任のあり方などあいまい度が高まる。多くの業務において厳密な事前段取りが重要ではあるが、これが結構なおざりにされている企業が多い。段取り八分とはよく言ったもので、これができない企業や組織は業績主義とか成果給など標榜しない方がいい。運不運の成果主義になってしまう。結論をいえば、同一賃金という場合の同一性を担保するのは同一賃金体系によらざるを得ないわけであるから異なる系統間の同一性の確保は簡単ではない。同一の職能系統の同じ職群で同程度のランクであれば同一賃金の確保は可能であるが、そのような集団で同一労働同一賃金が争点になることが果たしてありうるのだろうか。公正処遇に努めより納得性を高めるために工夫を重ねているのだから本末転倒ともいえる事態ではないか。これは別の問題である。

◇  同一労働同一賃金を業種間、企業間で展開するには少なくとも労働を詳しく定義する必要があり、また実態がその定義通りに運用されていなければ意味がない。一般に企業が手にしている業務記述書、あるいは職務権限に関する記述書は企業内定義のもと企業内言語で書かれており社会的に共通化さたものではない。仮に業務構造の共通化記述に成功したとしても、その業務遂行のために権限と責任関係を明確にしかつ具体としての人をイメージしながら職務編成を行い最終的に個々人の職務を定義するのは煩雑であるだけではなく、下位レベルになればなるほど実態の影響を受けやすく、現状追認になりやすい。これは完全に方言であって共通化は難しい。企業としては相当な費用が発生することからも、よほどの理由がない限り共通化を図る気はないであろう。これらの作業はあくまで企業内での最適解を求めるためのもので、おそらく他社あるいは他業種との共通化を図る意義を見出すことはないであろう。このような実態において行政が手間暇かけてやる意味があるとは思えない。これらは産業別労働運動の任務ではないか。

◇  同じ社員でありながら雇用形態によって通勤費に差が生じることは受け入れがたいことである。通勤費は「労働の提供のために必要な費用は会社が負担する」もので、雇用形態とは関係ない。規則は公正に適用すべきで、優遇措置においてもその理由は明確に説明されるべきである。

◇  最後に「同じ仕事」と「同じような仕事」は違う。前者には論理上の説明が必要であるが、後者は感覚的であり情緒的対応で応答するのは困難である。また労働基準法にかかわる議論であるなら、差別禁止の措置なら分かるが、罰則を背景に基準を示すことの意味を明確にすべきである。何事も議論は必要であるが、本来労使自治に委ねるべきことを無理に問題化するべきではない。それは政治利用ではないか。「何のために」、いまだに見えてこない。

◇ 訃報ありまた訃報あり秋終う

加藤敏幸