遅牛早牛

平成の忘れ物

◇ 年の瀬を迎えた。来年は新しい年号を受け取る。したがって平成最後の年の瀬である。平成はバブル経済の絶頂期にスタートしたが、間もなくバブル崩壊に襲われ、「失われた20年」という経済エレジーを奏でながら、また身の丈を超える財政支出にすがりながら、ひたすら景気回復を願いつつ世紀末と新世紀をしのいできた。そして、かすかな光明を見出した時「リーマンショック」に襲われ振り出しに戻った。振り返れば財政赤字の山だけが残された。停滞ではない、借金の分だけ後退したのが実情である。

◇ また平成は東西冷戦終結と時を同じくして始まり、ソ連解体からEU結成を目撃し、また中国の台頭を目の当たりにした時代でもあった。国内では消費税導入、非自民政権の発足、小選挙区制の導入などそれまでの55年体制を揺るがせる構造改革がなされ、本格的な政権交代が複数回実現したがその評価は未だ定まっていない。加えて発足時こそ異次元とも評される超低金利のおかげで活況を呈したアベノミクスも安定した経済成長のエンジン役を果たすまでには至っていない。

一方人目を惹く政治スローガンが跋扈し、政治を問題解決の仕事部屋から、人々の関心を掻き立てあおるだけの見せもの広場に引きずりだした。選挙がそんなに怖いのかと、広場を取り巻く人々に借金で手に入れたパンを配ることに専念している政治家に聞きたいと思うがしかしそれは気の毒なことである。むしろパンを配られて喜んでいると思しき人々にそのパンは20年後の子供たちのもので、あなた方は今未来を齧っているのだというべきではないか。

◇ 他方いくつかの国において政治的立場の違いによる対立の激化から国民の分断が酷くなった時代であった。総じて時代精神は統合から分断へ様変わりしたといえる。振り返ればEU結成とその拡大が時代運動としての「統合化」のピークだったのではないか。しかし今は統合がもたらす負担と、逆の分断が引き起こす負担(紛争)のいずれがより重大な問題なのか冷静に考えるべき時代であろう。それにしても相変わらず国家・地域間の紛争は頻発しており、難民・移民問題は、それに過剰に反応する世論への各国政府の対応が要領を得ず、真の問題の所在を突き詰めることなく政治宣伝の材料に使われ、いたずらに緊張感を高めている。不幸なことである。

また異常な被害を引き起こしている気候変動への対策は被害に追い付いていない。気候変動に限らず環境汚染などは人類の生存を包み込む地球自体に強烈なダメージを与え続けている。ここにも未来を齧る現代人のエゴイズムが垣間見られる。

◇ 日本では平成時代といい、世界では世紀をまたぐ30年というこの期間は結果として解決よりも問題を多く残したといえる。すなわち解決のための方法論が見出せない「模索・彷徨」の時代であった。特に欧米諸国を中心に築かれた民主政治は、それを支える精神の弱体化と制度自身のほころびが相乗しながらより悪い状況に移行していると危惧される。成熟していると思われる先進国の民主政治自身が非効率でありおまけに適切な進路を定められないという醜態を晒している。また時として発生する暴力が、民主的プロセスにおいてさえ避け得ない必然的仕掛けであるのかと悄然たる思いに陥ってしまい、残念である。

◇ 今となって思えばそれほどのものではなかった。二百年の歴史の総和ともいえる民主政治とそれを支える民主主義ではあるが、先進的政治モデルのメッキの剥落が止まらない今日、欧米型民主政治を到達目標とすることの妥当性に対し素朴な疑問が途上国を中心に沸き起こっても不思議ではないし、同時にそのことが国際的な問題解決のための求心力の希薄化を生み出しているように思えてならない。いいかえれば先進的モデルとして民主政治を掲げかつその現実的成功を示すことによって開発途上国を中心とした各国を強くグリップしていくというシステムが難しくなった、ということである。しかしグリップ力の低下は握力ゼロを意味しない。ある意味相対的低下であって、問題は中程度の握力でモノを落とさないようにするにはどのような術を使えばいいのか、ということになる。一方多くの開発途上国としては、以前は植民地政策で散々な目にあわされたうえに今度は優れた政治形態として民主政治を押し付けられ、しかも箸の上げ下げまで指図されて、おまけに直近の経済は超大国の立ち居振る舞いの大波を食らう。いいことは少しもないと思っていると、中国という一党支配の社会主義国が大いに発展しているうえに、大判振る舞いの援助を与えてくれるではないか。本当に欧米型民主政治しかないのか。中国方式も悪くはないのではないか。自然に湧きおこる疑問である。

 「(政治)価値観を同じくする国々」との連携は重要ではあるが、空腹を満たしえない民主政治は豊かな専制国家に圧迫される。平成あるいはこの30年間は既存の民主政治の脆弱性が露呈した危機の時代でもあった。そしてそれは中国が要らざる野心を養う危険な時代でもあった。

 

◇ 大戦の無かった時代であった。しかし十分といえるほど平和な時代では無かった。また国家でない集団が戦った。すべてが破壊されてもなぜか武器だけは供給された。このような中で紛争解決に対する国際機関の弱体化が顕著であった。冷戦終結後すでに三十年も経過するにもかかわらず平和構築維持システムの確立が遅れている。特に常任理事国間の利害がぶつかる事案への対応策がないという構造瑕疵が放置されている限り国家間の協力による平和の構築とか人類の進歩という言葉は使うことはできまい。また大戦が無かったのは核抑止力と通常戦力の能力向上による抑止力によるもので、人類は知性ではなく恐怖心という感情で今なんとか平和状態に止まっているといえる。今日理性あるいは知性が世のハンドルを握っているという誤解を見直す必要がある。またこれがリベラル衰退の原因の一つでもある。

 しかしハンドルを握るべき適切な「もの」は見出だされていない。見出だされるまでは右翼が薄っぺらな芝居を演じるだろうが、それが始まった端からものにならないことは誰しも分かってはいるが、本筋が出てこないのだから観客は沈黙しているだけである。これこそ悲しき喜劇ではないか。

◇ スマートホンは通信通話機能付携帯電網電脳機と表現できる。それにしても著しい進歩である。どんな名称を与えられても、この手のひらに乗る器械が世界を変えたことは事実である。日常生活はもちろんのこと、経済、社会、軍事そして政治の風景を大きく変えた。中世における活版印刷の普及は折からの宗教改革を支えた。ラテン語聖書を各国語に翻訳し、大量に印刷することなくして宗教改革はあり得なかったであろう。スマートホンはほとんど瞬時に空間を超えていく。電網は人に無限の繋がりを感じさせる。では中世にスマートホンがありせば宗教改革はさらに成功したであろうか。いや誠に難しい問題が横たわるのではないか。それは情報伝搬が余りにも速すぎると、情報を受けそれが何を意味するのか、子細に思いを巡らせる暇を持てない、つまり人間の内面を灌養すべき当たり前の時間を持てず、ただ反応するだけのいわば思索過程を持たない人々を多く産み出し、反射的、刹那的対応に傾斜するのではないか。それはとっさの判断をささえる思考回路ばかりを発展させるもので、何時間あるいは何十時間の学習の後でようやく到達できる論証や思索をないがしろにするものである。便利であるものには害もある。何ともいえない便利さにナイーブな喜びを感じる幼稚さが表通りを闊歩した時代であった。

◇ 特に政治過程に必要な再考、熟考を失うことの危険を強く感じるもので、たとえば途上国の民主化プロセスにおける情報機器の役割は相当に皮相的で、残念ながら伝搬も速いが崩壊も速い事例に事欠かない。なぜ崩壊が速いのか、それは反民主化勢力のほうが情報処理に長けているからであって、今なお欧米型の民主政治の敷衍を期待する向きには、すべての情報通信を掌握し支配の道具として活用する方法を反民主勢力の方がうまく保持しうるという意味で大変残念な状況にあるのではないか。 

 第二次世界大戦後に世界標準として確立した欧米型民主政治モデルは、いま驚異的な情報処理テクノロジーの発展とグローバル経済化の進展により「シロアリに喰われた」木造建築に成り果てようとしている。それは守るべきものを守らなかったからで、今からでも遅くはない、電網空間を飛び交う超多数の「フェイク」が数の多さをもって人々に受け入れられるゆゆしき事態を深刻、真剣に考えなければならない。「事実」への真摯な態度を取り返さなければ私たちはこの文明を続けることはできない。文明の基盤は教養であり、それは事実を直視することから始まる。教養を蔑視し失った時代といえる。

◇ 民主主義と民主政治は今日もっとも重要な概念あるいは規範であると身から染みだすように思っている私たちであるが、その私たちに加わらない人々が多数という数概念を大きく超越する規模で存在し、その人たちはその重要性を意図的に後回しにしている。

 グローバル経済が進展し、中国をはじめ開発途上国といわれた国々の経済はおおいに発展し、人々の生活もそれなりに豊かになった、という意味で経済発展の時代であった。そしてグローバリゼーションの受益国の筆頭は中国である。しかしその経済発展の最優秀選手が今壁に突き当たっている。先ほど欧米型民主政治の危機を述べたが、この民主政治の土台は民主主義であり人権尊重である。問題は人権の存在を認め、その最大限の尊重を保障する体制であるかどうかで、欧米型民主政治がある面シロアリに喰われ弱くなっていることは否定できないが、だからといって人権意識が浸食されているわけではない。民主的政治形態にある程度のバリエーションがあったとしても、こと人権に関しては犯すべからざる基準がある。

 食品安全基準のベースは人権である。労働基準のベースも人権である。反戦平和のベースも人権である。政治的権利の保障もベースは人権である。自由もベースは人権である。この人権基準を今少し緩めるのかさらに強化するのか。さてどうすべきか、放置して済むことではない。この30年見て見ぬふりをしてきたのか。少なくとも経済発展が優先であり、経済発展につれて人権状況も改善されるだろうという楽観主義の仮面をかぶった融和心理が事態の悪化を招いている。いずれの国も程度の差こそあれ各種の人権問題を抱えてはいるが、中国に関して言えば、これ以上の経済発展は今のままの人権状況では無理ではないか、という技術覇権、安全保障につづく壁があるのではないか。すなわち人権をないがしろにしての経済発展の価値はあるのかという問いかけに答えられるのか。そしてこれは中国だけの問題ではない。人権を国是とする国の課題でもある。不法入国者を取り締まるにしても人権に配慮すべき事柄があり、それこそがアメリカ建国の基本精神ではないか。自国のみで完結しないのが人権というもので、そこには普遍性が内包されており、閉じこもり人権主義は論理矛盾をきたす。いつまでも目をつむることはできない。わが国としても、人権こそ経済発展の陰で粗末に扱われた平成の忘れ物ではなかろうか。

 

加藤敏幸