遅牛早牛

複数野党は政権構想を事前に明らかにすべきではないか

近頃の選挙では、有権者は選択を強要されていないか

 今の時代、民主選挙が定着していることから有権者は主体的な投票行動をとっていると考えられているが、実態は政権政党への権力付与を追認する 選挙になっており、形式はともかく内容からいえば十分に自由とも公正ともいえない。

 また、投票は有権者一人ひとりの選択の結果であるから、初めに選択ありと思われている。つまり「選択」という主人公が目の前のいくつかの選択肢を評価し選別するものだと思われているようだが、ここ何回かの選挙を見る限りそうではなく、逆ではないかと思うようになった。つまり、選択肢が選択を強要しているのが真相ではないか、と。分かりやすくいえば、自公を選ばなければあの悪夢の時代に戻ってしまうぞという強迫に近い強要が暗黙の世界から匂ってくる。

「他に適当なものがないから」仕方なく選ぶのは真正な選択ではない

 他に適当なものがないから仕方なく選ぶことが真正な選択といえるのか。これは哲学論ではなく、民主政治を支える自由で公正な選挙といえるのかという手続き論としての問いかけである。選択肢が選択を強要するからといって、その選択肢に対し言いがかりをつけているわけではない。有権者にとって十分と思えるだけの選択肢が用意されなければ、自由で公正とはいえないのではないかという素朴な主張である。

 もちろん、自由で公正のレベルには程遠くとも選挙は選挙としての意味があると断じたうえでの問いかけである。

ここ何回かは政権追認型選挙ではないか

 ここ何回かの選挙とは、2012年暮れの民主党から自民党へ政権が移行してからの国政選挙のことである。先ほど述べたように、選挙における選択肢の第一であった自民党あるいは自公政権を非難する趣旨ではない。むしろ、場合によっては政権選択ではなく政権追認の選挙があってもそれはそれで現実的ではないかということを担保しながらの主張である。

 つまり、国政選挙にはその都度争点といわれているテーマがあり、それには、たとえば郵政民営化とか憲法改正あるいは消費増税先送りといった政策内容(コンテンツ)と、選挙結果が政権交代または連立組み替えあるいは政党の役員構成にかかわるなどの政局(プロセス)がらみのテーマがあるが、政局がらみでは政権選択につながる大選挙と、そこまでにはいたらない小選挙と表現を分けてもいいように思える。

 その意味で、2009年と2012年の総選挙は政権選択に直結したことから大選挙といえるし、2014年と2017年の総選挙は、政権側の意向と打算が前面に出た、政権交代の可能性をできるだけ消し込んだ、政権追認を強要する小選挙といえよう。このように政権選択の実現の可能性によって、大選挙、小選挙と表現を変えれば有権者としても投票に臨む気持ちを整理することができるし、野党も毎回急ごしらえの政権公約や選挙協力協議など踏み台の上でなお背伸びするような危なっかしい真似をしなくてもいいわけで、場合によっては政権批判に集中できることからわが国の政治シーンは国民の関心も含め密度が上がると思われる。

 こんな議論をしなければならないのは解散総選挙が多すぎるからで、両院で安定過半数を制している与党がどうして解散総選挙を行うのか、与党内で意見が割れているならまだしも、国民投票代わりに総選挙を行うなといいたい。国会での議論で十分決着できるではないか。まして野党の準備ができていないタイミングでとか陰でいって、野党攻撃に解散権を使うなど覇道からも踏み外した行為である。解散権が抑制されるなら政権選択につながる総選挙の性格が明確になり、わが国の政治シーンの視界は良好になるであろう。

政権選択が可能な選挙には条件がある

 そもそも2年余の間隔で行っている総選挙において、毎回政権選択に釣り合う内実を整えるためには、少なくとも野党の態勢が連立政権を射程に入れた安定的実態になければ、ことは絵に描いた餅でしかない。しかるに、現政権に対抗すべき今日の野党の現状を見るにとても政権選択などと大仰な表現ができるとは誰しも思わないであろう。

 これは有権者にしてみれば不十分な状態で、有権者に問うべき政策においても、政局においても、現政権に対抗すべき選択肢が十分熟成されていない状況で、さあどうすると問われても戸惑うばかりで、とても政権選択など連想しえない心境ではないか。

 これは言葉遣いの趣味をいっているのではない、現実から遊離した言葉を何回も聞かされるうちに、人々はばかばかしくなって本質的な関心を失っていき、その終着駅が無関心の固定化である。これは、論理を飛躍させれば政権交代への関心を失っていく悪しき政治状況の浸潤ともいえる。

 だから、有権者に政権選択を迫る大選挙は本来数年に一度か、十年に一度といった十分煮詰まった、さらにいえば野党の側に十分な準備が整った状況でこそ、意味ある選択がなされるというものではないだろうか。それ以外の国政選挙は政権政党あるいは野党への支持のありようを問う小選挙と思い切って割り切る方がいいのではないか。

政権交代への期待が根腐れしていく状況を放置してはいけない

 政権交代あるいはその可能性があることが、政治に緊張を生み、競争をもたらし、結果として国民の利益につながることは論を待たない。これは定説である。問題は、定説であっても現状が未熟であるから、政権交代は画餅にとどまり、国民の役に立っていない。未熟であるのはまずは政治の世界の努力が足りないからで、特に野党の努力が不足している。

 考えてみれば、議員にとっての最大の課題は再選であり、次の選挙をどう凌ぐか、とは議員になってみなければわからない類の話であり、表向きはともかく、ごく一部の恵まれた議員以外日々焦燥するものである。焦燥のあまり多くの議員は足元に気を取られ遠くを望むことができなくなっている。視野狭窄。木を見て森を見ず。同情すべきところも多いが、それでは有権者はたまらない。

 二年以内に想定される次の総選挙においては、複数野党として知恵を絞り、政権選択の有力選択肢として堂々のエントリーを果たしてほしいと思うし、そのためには与党が過半数を割ったときの連立のあり様を事前に示唆してほしいものである。事前に措置できなければ、出たとこ勝負の泥縄になってしまい、せっかくの過半数割れという選挙結果が混乱に終始すれば、次回以降に大きな禍根を残すことになるであろう。二大政党に収斂していない複数野党時代の有権者に対する野党の責任とは政権構想を示すことであり、それでこそ政権選択選挙における真正な選択肢が提起されうるという議会制民主主義の原理原則を今一度かみしめてほしいものである。

◇子ら並び落葉踏みつつ曲がり行く

加藤敏幸