研究会抄録

ウェブ鼎談シリーズ第(14回)「戦後の労働運動に学ぶ」
講師:仁田道夫氏、石原康則氏
場所:三菱電機労働組合応接室
発言広場
【遅牛早牛】 時事雑考「2023年の展望-3月の政治と三角関係」
(春はあけぼの、朝から花粉と黄砂に悩まされる。梅か桜かと優雅に暮らしたいと思っていたが、咳と鼻水としょぼ目がつらい。ところで明日は回答日、かんけいないが期待感がたかまる。さて、今回は高市大臣vs小西議員、防衛費増などをテーマした。もちろん、かな多めではあるが、すこしもどした。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というか、べつの場面で原稿を渡したら後日「漢字に変えておきました」と断り書きがかえってきて、すこしめげた。ので、すこしもどした。「すこし」も「少し」のほうがいいのかしらと、細かいことが気になる。杉下右京じゃないのに。今回も例によって敬称を略す場合がある。)
1予算案の年度内成立が確実に-参予算委員会は、高市大臣vs小西議員の模様
予算案の年度内成立が確実となった。内閣では、想定内とはいえほっとした空気に包まれていると思う。後は緩まないようにということであろう。
ところで、この国会は防衛費にとどまらず反撃能力など攻めどころがおおいことから、はげしい論戦を予想していたが、意外なことに派手はでしい議論は参議院においてもすくないようにみえる。
もちろん、委員会をやたら中断するのが野党の仕事といった時代は過去のもので、今は冷静に理路整然とやるのがトレンドなので、議論をつくすという議会の役割からいえば好ましいながれだと思う。と思っていた矢先に高市大臣と小西議員(参)の総務省文書をめぐる「たたかい」が勃発した。
争点は、2015年5月の参議院総務委員会での「放送法第4条」でいう政治的公平性について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」としていた解釈を、当時の高市早苗総務大臣が「一つの番組でも極端な場合は、一般論として政治的公平を確保しているとは認められない」と、解釈を変更した感じの答弁をおこなったが、そこにいたる経過についての78ページにわたる文書(さまざまな記録文書の集合)を提示しながら、小西議員が官邸からの圧力の証拠ではないかと高市大臣に質問したところ「(後に高市氏にかかわる4ページ分についてはと限定し)ねつ造である」と答えた。しかし文書の性格については、後日松本総務大臣が、部分的に不正確なものがあるようだとの条件つきで総務省の行政文書であると明言した。
世間では、当事者(大臣)がねつ造であると主張する部分をふくむ行政文書などと揶揄する声もでるなど、にわかに騒がしくなっているが、もとはといえば、中身はともかく行政文書を当時の所管大臣がいきなり「ねつ造」と処断したり、辞任するしないの啖呵のやりとりなどがあって、出発点からいえばずいぶんと脱線した感じがする。
というのは、2015年5月の高市大臣の答弁が解釈の変更にあたるのか、また8年も前のことではあるが放送事業者にどの程度の影響を与えてきたのか、つまり「びびった」のか「蛙の面になんとか」だったのか、その点が重要であるのに、そこになかなか行き着かないところが、筆者的には気になるところであった。
さらに翌年(2016年)にはいわゆる「停波」発言があったことにも関連してくるのだろうか。思えばアベ政権のメディア抑圧の典型例なので、それなりの意味のある争点だとは思うものの、防衛方針の直角変更などにくらべれば内容としての喫緊性は低いと思う。さらに、松本大臣が「解釈変更ではない」と明言したようであるが、78ページの文書のなかにも触れられているが、もともと「極端な場合」は一つの番組でも公平性を欠くと判断しうるわけで、そうしておかないと、「めちゃくちゃな番組」をながしても「一つの番組(だけ)だからいいじゃない」という理屈がでてくることへの防波堤がひつようであり、そのために「一つの番組だけで」と「一つの番組でも」という使い分けが生じていると思われる。
筆者は、2015年5月の高市大臣答弁は、すでにある解釈にたいし最後の戸締まりとして補足強調しただけではないかと受けとめている。うがった見方をいえば、官邸のうるさい人対策として結構うまいやり方であったと思う。
というのも、もし解釈を「変更した」というのであれば、趣旨からして法律そのものの変更に匹敵するものだから、にわか雨のような与党委員の質問への答弁でコソッとすまされるものではないだろう。ことの重大性からいって、委員会は直ちに閉じて、改めて理事会では内容ではなく「扱い」を協議すべきであろう。まあ大臣陳謝ですめばいいが、おそらく辞任は必至で大騒動になったと思う。(一つの番組に照準あわせるという基準変更が趣旨であるならば、8年間も放置していた野党の責任もきびしく問われるべきである。)で、そうはならなかったということは、そのときの委員会は変更とはとらえてなかったということであろう。だから変更ではないと総務省はいうのであろう。
しかし問題は、「解釈変更などしていません」といいつつ、無言の圧力を放送事業者にかけるところにあったと思われる。もっとも圧力をうけたと発信する放送事業者は皆無であろうから、なにもなかったことになり、政府が追求されることもなく、またひょっとして放送事業者が自己規制し、報道番組における内閣批判のトーンが弱くなるというおまけがつくかもしれない、そうなれば仕掛けた側としては大成功といった話であろう。いわゆるダメもと論である。
だから、対策された官邸のうるさい人も、おそらくまんざらではなかったはずで、まとめてみれば為政側としてうまいやり方ではあったといえる。先ほど、「アベ政権のメディア抑圧の典型例なので」と記したが、典型というのは被害の表明がなければ追及されないという巧妙ではあるが、いやらしい手口を多用しているということである。
ということを踏まえたうえで、今回予算委員会で提起されたということであれば、なにか隠し玉があるのではないかと誰しも思うであろう。とくに、成りゆきを見守っている永田町界隈では、資料の出方が何かしら恣意的あるいは操作的すぎることから、暗がりの先には闇があると受けとめているようであるが、そこまでいってしまうと、○○の勘ぐりになるのであろうか。
ともかく、このケースでは放送事業者が「何か」をいわないかぎり放送の公平性をめぐる議論にはならないということで、結局傷ついたのは「だーれだ」となる。もちろん、「ねつ造」と反射的に反応したのが最大のミスであったことに間違いない。「ねつ造」と発すれば「だれが」と返ってくるもので、かならず犯人捜しがはじまるのだから、ご自身が大臣であったことを完全に滅却しておられたのであろう。だから自損事故というかオウンゴールというか、自業自得ではあるが、気の毒な感じがしないでもない。もちろん最初から「確認のしようがない」と答えておけばすんだ話だと思う。事実、78ページの文書のすくなくない部分は、今では確認のしようがないものであるのだから。