遅牛早牛
時事雑考「2025年6月の政局-国会を閉めてから本番-」
まえがき
[ 国会が閉じた。少数与党としては何とか耐えたということか。評価は参院選に持ちこされたが、世論調査と実際の投票行動の差異があるのか注目されるところである。
やはり少数与党という形には無理がある。安定政権のあり方がこれからの課題となるのではないか。有権者もむつかしい判断を迫られることになると思われる。今回は令和の米騒動について後半に記述してみた。小泉効果の評価も気になるが、2025年産米のでき次第ともいえる。都議選の結果が気になる。
以下2025年6月24日追記。ホームページへの掲載時あたりから都議選の投票結果があきらかになっていった。自民党が大きく議席を減らした。6月に入ってからの回復感が霧消した感じである。公明党も思わぬ不調で、自民党とのつきあいが過ぎたということか。前回よりも高くなった投票率をあげる人もいる。立憲民主党は善戦したが、もの足りなさが不思議である。共産党についは活動のわりには評価が低い。立憲民主党との選挙区調整だけでは低落傾向からの脱却はむつかしいと思われる。
また、日本維新の会、れいわ新選組、地域政党「再生の道」も振るわなかった。首都ではあるが巨大な地方選挙区だから、7月の参院選の完全なプレバージョンとはいえない。しかし、傾向は事実なので真剣に受けとめるべきであろう。という意味で逆に注目されるのは参政党である。保守でありながら党運営はリベラルな感じで、この先も自民・維新・国民と競合する部分があると思われる。
ところで、その国民民主であるが、世論調査では、政党支持率あるいは参院選での比例投票先をみると、ピーク時の半分程度にダウンしている。という中で、あれだけ叩かれながら9議席というのはまずまずとの安ど感がながれているが、それはそれとして問題なのは、次点惜敗が立候補者数の三分の一もあることで、一連の不首尾がなければ15議席もあったということは、応援してくれた支持者との関係において反省すべきことも多いのではないか。
反省といえば、自民党の不調は支持者の離反によるもので、「政治とカネ」の問題は有権者の納得が一番なのに、まだ納得が不十分だということであれば参院選も厳しいといわざるをえない。以下の本文中では、小泉効果による印象好転によって、50議席を数議席以上上回るとの予想を述べているが、都議選の結果はそういった甘い見通しを打ち破るものであったといえる。
注)「読みにくい」ので、本文に見出しを2025年6月24日つける]
1.やはり、衆院委員長解任よりもはるかに内閣不信任決議案は重たかった!
6月19日、立憲民主党の野田代表が今国会での内閣不信任決議案の提出を見送ることを公式に表明した。筆者としては予想の範囲内のことではあるが、現実にそう判断するには別次元の重たさがあるのであろう。出すか出さないか、二つに一つの選択であった。いずれを選んでも議論はつきない。
選ばれなかった道はそこで消えるから「もし○○なら」という論法は余計なもので時間のムダである。今回の「見送り」に対して野党それぞれに意見があるとしても、閉会すれば過去の話となる。
昨年10月の総選挙の結果を「伯仲以上、政権交代未満」と解釈した。そして、この流れは今日においても変わっていないと思う。つまり、「政権交代未満」という民意が変わらないのであれば「見送り」には合理性がある。また野党第一党としての危機管理かもしれない。
ところで、前日の6月18日に衆議院は井林辰憲財務金融委員長を野党などの賛成多数で解任した。現憲法下では初めてのことである。それを「数の力」とわざわざ強調する報道もあったが、国会で決議が成立するのはすべて「数の力」であるから、とりわけ乱暴なこととの印象を与えるのはいかがなものかと思う。
報道によれば、井林委員長が野党の共同提出法案に対し委員会に付議しなかったことが理由ということで、解任された井林氏は「非常に暴力的なものを感じております」あるいは「来月1日から暫定税率廃止という無謀な法案が、これでおそらく政治的には廃案になると思う。国民生活に貢献したということで、私は政治家冥利に尽きる」と語ったとも。国民生活に貢献したという理屈はさすがに不気味であるが、委員長職を自身の政治心情の手段にしたのであれば不適任ということになる。
もちろん、国会法(第48条)では委員長の議事整理権を認めているが、それに対抗する意味で本会議での解任が可能となっている。井林氏の語ったことは「法案に反対なので体をはって止めた」との趣旨であろうが、そのまま解釈すれば委員長としては公平中立を欠く対応であったと非難されて当然であろう。したがって解任は妥当であったと思う。
他方、残り会期がわずかなことを理由に、「法案成立の可能性がない」のに提出だけを目的にしているといった声があったようだが、法案提出にあたりその成立の可能性が条件であるという決まりは聞いたことがない。
それにしても、会期延長がないと誰が決めたのか、ひつようがあれば延ばせばいいということであろう。また、ネット空間では少数与党であることを失念しての反応も多いようである。
注目のガソリン税の上乗せ暫定税率については、検討するようなしないようなヌエ的態度でお茶をにごしてきたのが与党ではないか。そういえば昨年のことで、もう時効かもしれないが、12月11日の自公国合意事項に暫定税率廃止というのがあった。「議論するのも嫌だ」ではなく、ぎりぎりまで議論ぐらいはしっかりやったらどうか国会なんだから、ということではないか。
さて、会期の延長は両議院の一致を前提としているが、不一致の場合は衆議院の決定が優越する。ということで、野党主導の短期延長も不可能ではない。もちろん野党としての覚悟がひつようではあるが、せっかく「まとまれば多数派」を国民からいただいたのだから、もう少し活用してもよかったのではないか、と思っている。
2.「政局は参院選の結果を待つ」ということであるが、石破氏のしぶとさが目につく
石破政権については弊欄の主要テーマとして数回にわたりシナリオ的に記述してきたが、要は内部に脆弱性をかかえているという自覚ゆえの低速運転が安全なわけで、また期待値が低いのも幸いしているということであろう。
すべからく状況に適応していくとの姿勢は森山幹事長とも共有されており、少数与党政権が発する不思議な説得力が今国会の華であったと思っている。具体的にはスジを通さない、しかし政権は守るというすぐれて可撓性というか柔軟性に特化した政権運営は、それはそれで感心させられるものであった。とはいえそれだけでいいということにはならない。少数与党といえどもいずれ歴史の評価を受ける日がくる。もちろん、生きた政治に携わる立場からいえばそれは二次的であろうが、それでも「今どこにいてこれからどこに向かうのか」と自問できなければ石破氏が総理をやる意味はないと個人的にはそのように考えている。
筆者の昨年からの見立てはけっこうシンプルで、「参院選は石破氏で」という構図は参院選が終わるまでは動かないというものであった。そこで、参院選であるが4月あたりまでは与党にとっての厳しさがのこり、あわせて50議席の確保は微妙であるとしていたが、可笑しなことに農水大臣の交代をきっかけに自民党と政権の印象が好転し、獲得議席の予想水準が上昇していると思われる。「進次郎効果」と手ばなしで浮かれている向きもあると聞くが、コメ騒動界隈で低速運転のギアが一段上がっただけなのに、まるで新幹線に乗った気分になっている。備蓄米の90パーセント放出は必要性からいえば必然であったといえるが、問題の先のばしであることには疑いはない。それは徐々に明らかになることから、小泉大臣の本格的な仕事はこれからといえる。
印象好転による議席増は石破氏にとっては命綱ともいえるが皮算用の面もある。印象好転にはメディアの役割が大きく、いつまでもつのかという意味で自民党にとっては際物(きわもの)であることは変わらないので、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」といわれないように、いいかえれば少数与党であることを忘れないようにということである。
国際情勢への対応が政局を制するのか?
ところで、国際情勢は秒速で変化している。情勢によっては「石破野田」大連立ないしは政党再編をともなう連立くみかえの可能性がささやかれるであろう。
国際情勢への対応でいえば「武装同盟」の基本は動かないので、大連立は安保政策とエネルギー政策の2点が焦点になると思われる。この課題は政党がみずから決めることなので、外野からとやかくいうこともないのであるが、現在の立憲を支持している団体のうち労組関係の過半は反対すると思われるので、選挙のない3年間のうちの2年間に限定するという条件であれば「石破野田」体制はありうる。しかし、総選挙が近づけば自然解消する可能性がきわめて高いので、おもしろいだけの話であろう。
仮に参院選で改選議席を確保しさらに増という結果となれば、石破政権は与党内での安定をえることになり、ひょっとして解散総選挙をめざすかもしれない。情勢次第ではあるが、計略として総選挙の結果が単独過半数におよばなくとも、いくつかの野党に対し連立参加の機会を与えることで、安定的な政権運営が可能になればそれはそれで受けいれられると思われる。
とくに国際情勢への適応という視点でいえば、国内の分断を最小限におさえ、流れとしては安定政権の発足が望ましいと考える人びとが急速に増えると思われる。有権者が変われば政党は変わらざるをえない。くわえて政治には、主導したもの勝ちという事例も多いので、たとえば中道勢力が政権を唱えることができれば、1990年代に端を発したわが国の政治改革はいちおうの完結を見ることになると筆者は考えている。なにしろいつまでも政治改革に追いかけられるのも気鬱である。
とんでもなく勝手で失礼ないい分だが、自民の右と立憲の左には有能な人士が多い。であるが、今日のわが国の政治状況をふまえれば、政治が適応していく過程においては強力な左右の存在が障害になっていると断言できないまでも、ほぼそれに近いと感じている。されど肝心の中道に人少なしというのも事実であるから、慌てることはないのだが、まあ8月からの思慮であろうか。
それにしても、中道域のスターであった国民民主党の失速ぶりには目を覆いたくなるのであるが、急成長が内部統制の矛盾をあらわにするケースは枚挙にいとまがないもので、いずれにしても組織論的には停滞は避けられない。問題は停滞の時に成長のエネルギーを蓄えられるかどうかであり、くわえて政党として団結を維持することが肝要である。考えるべきことは多い。いずれ指摘したいが、政局の前にいちど党としての存在理由なり存在意義を掘りさげる必要があるのでは、と思う。豆腐を固めるのに苦汁(にがり)がいるように、政党には哲学がいる。とても青いが政治は哲学の実践であると考えている。
3.年金制度はファミリーヒストリーに組み込まれる時代だから、国会でやって
活発な議論が期待されていた年金改正法は立憲民主党のあんこねじ込みで修正成立した。与党と立憲が組むと馬力百倍の趣である。それにしても難解なことで、熟議といいながら「あんこ議論」に終始してしまった
報道では、参議院選挙を前にした年金論議は有権者の反発をまねくのではないかという与党議員らの怖れが法案提出遅れあるいはあんこ抜きの原因だったという、推測ではあるがさもありなんと受けとめている。
あらためて連合時代の知人の解説を聞きながら、厚労省の原案を国会でも議論してもよかったのではないかと思っている。失礼を承知でいわせてもらえば、国民の理解をえるまえに、国会の理解をえることが大事なので、国会では100時間とはいわないが十分な時間をかけて議論をしてほしいし、同時に制度の理解を深めてほしいと後期高齢者は願っている。
筆者も親の年金からはじまって子世代(ロスジェネ)の年金までがファミリーヒストリーの一部であったことから、理解度はそれなりのレベルであると自負していた。流用でも活用でも三世代のファミリーヒストリーでいえば差がないようにも思える。それにしても、あんこ論にいたるや自信を失いつつある。
それよりも「マクロ経済スライド」が、伸びる髭をあれこれ理由をつけて刈りこむ鋭利なカミソリに思えてならないのである。結果として物価上昇をカバーできる年金額はほぼ不可能であり、昨今のコメの値上がりには為すすべがなく戦慄を覚えているのであるが、知人の「あとは大幅賃上げを期待するだけ」というひと言が沁みる。
しかし、これほどの公的年金を支えている国は珍しいという評価があるのに、「有権者の怒りをかって選挙にマイナス」だからあんこ抜きとかいうのは、いかにも不利益改正にほかならないことを図らずも国会議員が証明したということか。国会が年金不信の発信地にならないためにも国会でのくわしい議論がひつようであろう。5年も先送っていいわけがない。
4.自民党の「実質1%、名目3%の賃金上昇率」について
自民党の参院選公約の中に、「物価高を上回る賃上げ実現に向けて、実質1%、名目3%の賃金上昇率を達成し、2030(令和12)年度に賃金約100万円増」という柱があることが19日に報道された。待ってましたというわけではないが、待望久しい賃金目標が政権政党からだされたのである。
これも国会で議論をしてほしかったといえば、素人まるだしのもの言いと笑われるであろう。「そんなもんまともに受けとる奴がおるか!」という見方と「野党に手の内をさらしてどないすんねん。まして国会でやったらボロボロにされるで」と、関西圏ではそういうことであろう。
しかし、春の賃金交渉に政府とくに官邸が旗をふりだしたのは2015年あたりからか、連合はいうにおよばず経団連にも強く要請しはじめたのである。また、2023年9月には専任の補佐官を官邸に配置し、去年今年の春の交渉では5パーセントを超える賃上げが実現されたというあたりまでは上々の首尾であったといえる。
問題は、さように赫々たる成果を上げながら、どうして実質賃金が長期低落傾向から脱却できないのかということである。正直にいって、自民党に全国統計に反映される実質1%の賃上げを実現する権能があるのか、あらためて質問してみたいのである。
わが国の労組推定組織率は、2024年の調査では16.1%であり、83.9%の労働者は労働組合をもたないのである。労働組合がなくても賃金交渉は可能であるが、それがうまく働く確率はずいぶんと低いもので、要求はできても交渉にはいたらず、交渉ができても物価上昇をこえて実質賃上げの領域にはほとんどいたらないのが残念ながら実情といえる。
さらに、人数比でおおよそ3人に1人がひと桁規模の企業(事業所)に勤めていると推定される。企業もさまざまであるから一概にはいえないが、一般論でいえば賃金体系いわゆる定昇制度などはないケースのほうが多いのである。
したがって、統計上の観測値として、物価上昇率との関連から実質賃上げを割り出すのであろうが、個別賃金において実質賃上げつまり実質ベースアップを確認することは存外にむつかしいのである。つまり、賃金交渉というのはミクロな現象であるから、賃上げという善意の意志をもって行政が民間に介入するためには強力な法律と執行機関を準備しなければむつかしいというのが経験にもとづく結論である。
せっかくのことなので冷水をかけることは避けたいが、大工道具なしでは家を建てることはできない、また図面がなければ資材の調達すら困難である。
さらに指摘すれば、経済成長を前提に一次分配である賃上げを論じてきた伝統的な考え方を変更するのかという議論がある。どう考えても、「はじめに成長ありき」というのが保守政党のマクロな賃上げへの姿勢であり、それをミクロでいえば「はじめに企業収益ありき」となるので賃上げはどうしても後景においやられる。ということで経済界も政界も意識においても無意識であっても賃上げは副次的項目であると考えていたわけで、その基本をたとえば「はじめに分配ありき」という考え方に転換できるのかという設問への答として、経済界や政界もそれはできないというのが現実というものではないか。
ここでその是非を争う気はないが、経済界や政界(与党や一部の野党)が企業収益優先、労働分配はあくまで恩恵的所産と考えるかぎり、残念ながらわが国の経済的苦境の大きな要因の解決にはいたらないであろう。というのが1970年代から労働運動で仕事をしてきた筆者の感想的結論である。という状況がすでに30年以上つづいていることからも、改革とか刷新とか言葉はおどっているものの、本質は不変なので悪いけど自民党の発想では先進国水準はむつかしいと考えている。
G7でもわが国の不調は7不思議のひとつであろう。といった冗談は措き、今日までの経済不調はすぐれて政治問題といえるもので、分配不足が消費不足を生み、将来不安が需要を冷やしている、というのも本来政治が解決すべき問題であり、経済界が解決できるものではないといえる。
経済団体あるいは業界団体は、本来的に競争原理をベースにしていることから、自主的に問題解決できるようには作られていないし、むしろ談合防止の観点のほうが業界の内部統制よりも優先される建付けになっている。つまり、本質的にまとまりにくいといえる。また、そこに業界としての健全性を見いだす人びとも多いのかもしれない。
個人的見解という防護服を身にまとったうえで、資本さらには起業家の本性は強欲であり、資本主義経済はそれをエネルギーとしていることも間違ってはいない。むしろそうであるからこそ今日の隆々たる発展があるといえる。したがって、ここでの議論はその強欲性については肯定的に受けとめるということなのであるが、問題なのは強欲性を生(き)なりに受けとめながらも、経済界がたとえば人権とか労働への分配あるいは遵法とか、そういった外部価値を優先できるのかということにある種の問題があるように思える。もちろん、コンプライアンスなどの過度な強制は角を矯めて牛を殺すことにつながるという点には留意すべきである。
事例として、過去深刻化した公害問題を考えれば企業はもちろん業界団体あるいは経済団体などの働きをふりかえれば、やはり国会での議論を踏まえたしかるべき公権力の行使こそが迅速かつ問題解決に有効であったということで、世の中はそういうものであろう。
もともと、経済界には苦手なことがあることは承知のうえで、ここ数年、賃上げへの経団連の論調が変化し、2年連続で連合界隈では5%を超える賃上げが実現した。これは大いに評価されるべきであろう。逆にいえば、そのぐらいこの国の労働への分配がひどすぎて、健全な経済運営に仇をなしていたと経済界もようやく気がついたということではないか。賃上げと物価上昇の好循環といわれて久しいが、賃上げを惜しんだことの咎めが国内需要の長期停滞というもっともきついものになったことで、経済界も人々と共に歩むことの大切さを感じたのであればいいのであるが、さてどうだろうか。
また、労働市場の流動化を求める声が高まっていると聞くが、テーマによっては経済団体は参加企業への統制力を欠くところがあり、さらに地域零細企業については別建てとなっている。もちろん、企業活動は自由が原則ではある。しかし、個別の企業において不都合な事態が頻発すれば労働者は防衛的にならざるをえない面があり、もともと労働市場の流動化については賛成する向きも少なくないのであるが、表だって賛成の声がでないのは現場での不都合な事態への危惧がまだまだ大きいからであろう。
技能実習制度もしかりであった。連合などの全国中央組織は国際組織に対する窓口であり、ILOはじめ国連機関とのかかわりは深い。国際的な労働団体の認識の中には、経営者を信頼することはできないという思いが共有されている。わが国の労使関係は国際的には異質な面があり、それが共感を呼ぶことはなかった。
ということで、労働市場の流動化策が必要であり、それが労働者にとっても利益になるということであれば、経済界が率先して環境整備をはかることから始めてはどうか。良好な労使関係におたがいが甘えてきた面もあったが、結局おたがいのためにはならなかったいう思いが多少残っている。
労使自治は尊重されるべきではあるが、自治でやれることの限界もこれまた厳然としてあるのだから、政権政党である自民党が所得政策的に実質賃金で1パーセントの上昇を参院選の公約に掲げることは現下の状況において是とするにしても、法律に基づく権能を背景にしなければとうてい無理ですよ、ということである。
あるいは、従前どおりの個別交渉をベースに考えているのであれば、労組法改正による交渉力強化策と組織率向上策ならびに先行交渉結果の一般拡張適用が無理であれば最賃への反映ぐらいをうちださなければ誰も本気とは思わない。
さらに、男女の賃金格差を政府がモノサシをもって差別であると宣言する、あるいは「同一労働同一賃金」が道理にかなっていると考えるなら、定年区分での賃下げを防止すべきであろう。
今日、「日本を動かす 暮らしを豊かに」ということで賃金改善に着目したことは多とするが、現場の労使交渉にゆだねていては来春は物価上昇分ぐらいではないか。トランプ関税がひきおこす経済混乱や米国によるイラン攻撃の余波がよみきれないので、個人消費はさらに低迷するのではないか。
自民党の労働者政策はまだまだ生煮えで腰が引けているようで、これでは新しい支持層を獲得するにはいたらないと思う。
5.「令和の米騒動」の本質は、主食が前年比倍額になるという失政にある
「令和の米騒動」は責任者不在のドタバタ劇になってしまった。そもそも戦時あるいは天変地異でもないのに、主食のコメが一年間で倍額になるということは先進国としては異例であろう。さらにいえば、にもかかわらず政権がびくともしないというのもこれまた奇蹟としかいいようがなく、例によってよくは分からない政情であると少しく首をかしげている。
思いだせば昨年の秋も深まったころに、前年同月比で90パーセントをこえる値上がりではないかとにわかに騒がれだしたのであるが、「そのうちに新米が市場にでるから、いずれ価格は落ちつく」という当局の説明をうのみにしたのがまずかった。前任の大臣のことである。
そこで重要なキーワードである「落ちつく」というのは、価格が前年の水準に戻るということではなく、供給サイドとして「高値安定」に落ちつくという意味であったと、筆者も今ごろになって気がついたのである。
つまり、とってつけたように備蓄米31万トンの入札による放出を急きょおこなったものの、小売市場への流入量はきわめて少なく、放出によって品不足が解消しさらに小売価格も下がるのではとの切実な消費者の期待はみごとにうらぎられたといえる。
という状況下で、前大臣の失言があり、事実上の更迭(5月21日)となったのがドタバタ劇の第一幕であった。失言よりも失政が原因だと思う。
変な話ではあるが、石破政権にとっては偶々(たまたま)のことだったと思うが、ようやく人気抜群の小泉進次郎氏の出番となり、期待通りの迅速な施策展開によって石破氏が救われたと世間は受けとめている。余談ではあるが5月半ばあたりから世論調査での自民党の復調と国民民主党の不振が見えはじめた。
というように自民党への逆風がやわらいだ理由は、「政治とカネ」がマンネリ化してしまったことと、(政権にとって)タイミングよくコメ問題が誰もが参加できるテーマとして登場したことが一番であろう。身近なテーマではあるがかなり複雑で、さらに真相が見えにくいので野党にとって攻めづらく、また政権の傷になりにくいという意味で、つくづく石破氏はついていると思えるのである。
それにしても、弱い石破氏を相手に参院選をたたかいたいから、石破氏への不信任案をちゅうちょしていたのであるが、衛藤氏への不信任案提出で野党五党が共同歩調に動いたことが農水大臣更迭のきっかけであったと聞けば、小泉氏を引きだしたのが野党ということで、ノーマークというのか、ともかく皮肉なことであったといえる。
6.メディア的には小泉進次郎氏は絵になるから、中身よりもインパクト優先
同じテーマでは3か月以上はもたないメディアが、可笑しいほどのタイミングで、それもネタとしては久しぶりの「進次郎もの」の登場であるから、理屈抜きで映像放流に勤しんだのはとても分かりやいというか、むしろマンネリ打破という線では痛快であったとさえいえる。
とはいってもコメの需給構造の問題はこの30年間まず手つかずであったから、備蓄米のほぼ90パーセントを放出したうえでさらに、ミニマムアクセス米10万トンの早期(9月を6月に前倒し)契約、さらには禁断の輸入米の投入へと小泉大臣が突進すればギリギリのところで持ちこたえていたコメ管理体制がいよいよ崩壊しはじめることになるのではないか。
コメ管理体制の肝は、輸入米を主食用としては販売しないということであろうから、関係者にしてみれば小泉大臣の動きはヒヤヒヤもので、まさに心配の種ではあろうが、政局的には7月までの季節ものであって、わけても選挙がおわれば元の鞘におさまることになるというのが大方の予想といえる。だからJAをぶっ壊し複雑な流通を破壊するといったシナリオは7月限定メニューと思われる。
しかし、話は飛躍するが、矛盾だらけでそれをテープでぐるぐる巻きにしてようやく体面を保っている今の制度は「崩れはじめると、もうどうにも止まらない」ことになりそうで、とくに、小売り市場での不足分を輸入米で手当してしまうと、極端にいえば輸入米価格(キロあたり関税49円+調整金292円+消費税8%をふくむ)が小売価格の基準になる可能性が気になるし、その結果銘柄米をふくめ米価体系の見直しが始まるというのが筆者の予想である。(キロあたり368円の関税、調整金、消費税を交渉国が見逃すはずはなく、CIFでキロ100~150円の輸入米の破壊力は強烈である)
よく、適正価格といわれているが、政府がほぼ全量規制をおこなう制度での公定価格以外は市場に任せるのが一般的なルールであるから、適正価格はないというべきで、それをあたかも適正価格というものがありうると思わせる発言は文脈的にミスリードといえる。
もともとコメが特別であったのは消費者にとって安かったからで、5キロ4000円を超える価格がつづくならば、主食としては「選択肢の一つ」にならざるをえないのであって、多くの人びとの日々の献立はまず安いことが基本であるから、消費者の懐具合にあわせて主食の座はさまざまに移りゆくと思われる。
だから、安さを忘れた主食はたんなる嗜好品というべきで、1個1万円をこえる果物があるように、5キロ1万円をこえる超銘柄米がでてきても何ら不思議ではない。問題は、所得階層での下位50パーセントの世帯の需要をみたせるかどうかということだから、一部であっても5キロ2000円前後の備蓄米に早朝から列をなさなければならない事態を深刻に受けとめずに、これぞ進次郎効果などとたわいなく喜んでいる姿を見るにつけ、自民党政治の底の見えない劣化を感じてしまう。くどいようだが、コメを買うのに何時間も列をつくらなければならない事態を為政者は恥いるべきであろう。
7.消費者の懐具合との関係が決め手、生産者の都合を優先するなら税金で、となる
ということで、消費者の懐具合にあわせられないのであれば、食糧安全保障の象徴でもあったコメはいわゆる普通の農産品に堕することになるといいたい。
そこで、家計を圧迫する高価格品となったうえで、そもそもコメだけの自給率100パーセントが食料安保においてどれほどの意味をもつものなのか、筆者にはよろしく理解ができないのであるが、コメだけでもという政策意志が本当にあったのであるのなら、これほどの誘導(減反)政策をすすめることはなかったのではないか。
一般論として自由化がすすめば食糧安保という理想とコメ余りによる生産者窮乏という現実とのギャップがさまざまな不都合を生むようになると理屈のうえでは明白であったにもかかわらず、政府は抜本策をさけつつとりあえずの処置に明け暮れたといえる。もちろん、行政もさることながら議会や政党が支持勢力との関係において、問題の摘出や将来像の策定に注力すべきだったといえるが、現状は緊密な支持関係に安住しすぎた結果といえるかもしれない。
昨年からの「令和の米騒動」の原因は収穫量不足と、流通経路もふくめて量的把握が時代遅れで役にたたなかったことにあるといえる。流通経路における量的把握ができていないのに、コメが流通段階で滞留しているといった「流通目詰まり論」を報道(メディア)するのはさすがに無責任であろう。また、食糧安全保障そのものが実態を欠く情緒的観念にすぎなかったという意味で、枕詞的につかうのは止めたほうがいいのではないか。もし、いかなる事態においても「コメの完全自給」を目指すのであれば、生産から流通、消費、備蓄までの全工程を高度な管理下におかなければ政策として完結しないということであり、そのためには莫大な管理コストが生じることになるが、そんな金があるなら備蓄米の活用を拡大したほうが合理的であろう。
8.「流通で目詰まり」していたのではなく、「情報が目詰まり」していた?
さて、「収穫量は足りている」とか「流通で目詰まりしている」といった裏付けのない話は措き、小売店にコメがない(2024年8月ごろから)という量的不足問題と、昨年比でとんでもない値段になったという価格問題とが並走していたのであるが、価格上昇は2023年産米の出回り末期である2024年春先からはじまっていたのである。この2023年産米がおもに高温障害のために精米すると量目が作況指数を大きく下まわっていたことが後の供給量不足の原因となったと思われる。だから、このタイミング(2023年春先)でどう考えていたのかが政治的には重要であったといえる。
ということで、初期において前述の二つの問題を整理することなく、ただひたすらに2024年産米に期待をかけすぎたことから対応が遅れたのではないかという指摘はあたっていると思う。たとえば2024年8月30日の坂本哲志農水相(当時)の記者会見での、コメが不足しているのではないかとの質問に対し、「 現状におきましては、南海トラフ地震臨時情報とその後の地震等による買い込み需要などを背景とする、今般の短期的な米の品薄状況などに対しては、今後新米の出回りも踏まえれば、(備蓄米の放出には)慎重になるべきと考えています。一部店舗において米が棚にないということが見られますが、全体的に見て小売店あるいはスーパーに対して、米が並び始めたと考えています。」と答えた。(農水省ホームページから引用)
問題意識の欠如が初動をおくらせた結果としての小売りでのコメ不足と価格高騰という悲惨な現実をまえに、2025年の2月になってようやく量的不足への対応としてJAなどに入札備蓄米31万トンを販売し、また5月末から価格対策として随意備蓄米(古古米とか古古古米など)合計50万トンを指定価格で小売り業者に直販するという、江戸幕府の「救い米」的発想で市中に大量放出し、高すぎて買えない層への緊急対策として提供したものの、合計81万トンの投入が市場にどういった影響を与えるのか、とくに高値止まりしている5キロ4000円台の銘柄米などの価格下落につながるのか、小泉大臣としてはしばらく神経を使うところであろう。
いずれにせよ、小売り段階では今後(2025年秋以降)は備蓄米の投入はないことから(むしろ31万トンを返却しなければならないのでマイナス)、2024年産、2025年産が中心になる。何をどれだけ買うかは消費者がきめることであるから、簡単にいえば消費者による淘汰がはじまることになると思われる。
しかし、主食は多くの人びとにとって嗜好品ではなく必需食品、それも大量に消費するものなので家計への影響が大きいといえる。つまり、余裕のある家計では食味優先、余裕のない家計ではがまんできる範囲での低価格志向、それらの中間としてときどき食味を大切にしながらもベースは価格優先といった大きくは三極化すると思われる。という文脈でいえば、普及品ともいえるボリュームゾーンを5キロ3000円台という生産者側からの期待値を消費者側がすんなりと受けいれられるのか、ということでもちろん幅があるとしても、生活感をふまえればかなり高い気がするのである。
そういった筆者の感覚はともかく、問題はコメだけではなく食品全体が値上がりしていることにくわえ、その結果としての実質賃金の低下という労働者的には懐具合の悪化もあって、家計上はコメへの支出が圧迫されているといえる。ということで、コメが主食の座を維持するためといえば大げさではあるが、5キロ2000円まででなければ低所得層がコメを主食とすることはむつかしいのではないかとも思うのである。(懐具合は昨年よりもきびしくなっている)
5キロ2000円というのは、小売り価格でキロ400円、生産点では精米後キロ200円から300円(精米前では180円~270円)という生産者からいえば意欲がそがれる水準ではないか。
性能をふくめて品質がよければかならず売れるという命題が成立するには多くの条件がひつようである。残念ながら、5キロ4000円台というのは余裕のある家計の話であり、さらに5キロ1万円であっても富裕家計ではまったく問題ないのであるが、わが国の過半の家計では価格優先ということで、5キロ3000円台ということであるなら淘汰されるリスクを負うことになると思う。つまり、急速に麺類などへの切りかえが生じると危惧される。
9.2025年産米がポイント、不足感があれば緊急輸入となるが、価格をどうするのか?
つまり、現在政府としては量的充足に注力しているのであるが、2025年産米が量的にどれだけ見通せるのかについては正直なところ分からないので、推論にとどまらざるをえないとしても、入札備蓄米の31万トンには返却特約があることを考慮すれば、2025年秋からの米穀年度(11月~10月)ではさらにひっ迫(供給不足)する可能性がのこるといえる。
と同時に、消費者側の事情でいえば実質購買力が右肩下がりであるかぎり、高いコメには手がでないことも現実であることから、全体として供給減かつ需要減による均衡と低価格帯への需要増が同時に起こるというシナリオも考えられる。
そこで、5キロ2000円というのは輸入米を前提にしたものであると仮定すれば、三極化する需要構造への対応として、5キロ5000円以上になると思われる高級銘柄米と5キロ2000円までの家計にやさしい輸入米および5キロ3000円台の普通米という供給体制が考えられるのではないか。ということであれば、暗黙の禁忌であった主食用輸入米の解禁にいたる緊急輸入米の登場が政治課題として浮上するであろう。
小泉氏は当面の対応として緊急輸入も思案していると思われるし、参院選挙を考えれば7月までは自民党も容認の雰囲気であろうが、8月になれば警戒感が永田町をおおうと思われる。実際のところは8月以降の議論になると思われるが、6月時点で、自民党としては参院選での与党議席が50を切る可能性はほぼないとの判断にたてば、小泉大臣の主食用としての緊急輸入は「トロイの木馬」になるといった疑問が主流になると思われる。
もちろん2025年産米の収量次第の議論ではあるが、低価格米の需要は消費者側の強いニーズであるから、大凶作であれば即刻輸入、大豊作であれば値崩れということで、少なくない離農者が発生すると予想すれば抜本改革がさけられないということで、メディア的には小泉大臣の秋の陣に注目があつまると思われる。
◇かき氷 打ち水越える トカゲかな
加藤敏幸
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