遅牛早牛
時事雑考、「2024年3月 液状化に向かう日本政治と安全保障」
【2024年度予算の年度内成立が確定した。難航したがほぼ予定の着地といえる。民主主義は多数決ではないが、民主政治は多数決である。だから造反のないかぎり内閣提出法案は可決されるはずであるが、不祥事があると政治日程が不安定化する。今回は「裏金事件」が災いしたが国会日程への影響は軽微といえる。
ところで、3月2日土曜日が休みにもかかわらず衆議院で予算審議がおこなわれたのは、与党側の要請を立憲民主党の首脳部が受けいれたからだと伝えられている。その理由は特別委員会の設置や政倫審の継続などの与党の譲歩がえられたことと、野党としてのまとまりを優先し日本維新の会や国民民主党の声を尊重したためということのようである。尊重なのか忖度なのかくわしいこは分からない。3月4日の月曜日でもよかったのではないかという声もあるが、それでは予算の自然成立日(参議院が、衆議院可決の予算をうけとった日から30日以内に議決をしなければ衆議院の議決を国会の議決とする)が4月2日となり、参議院の予算委員会の審議次第で年度はじめの処置が必要になる。現下の情勢を考えれば予算の年度内成立すなわち3月2日までの衆議院の可決に岸田総理としてつよくこだわらざるをえなかったということであろう。
この点について3月4日の参議院予算委員会では、立憲民主党の議員がえらい剣幕で岸田総理にせまっていたが、のがした魚は大きいということであろう。つまり、参議院予算委員会を舞台にしたかけひきにおいて、さらに参議院の政倫審をふくめて野党優位の審議をおこなうという目論見であったということであろう。
しかし、その目論見ははずれ参議院予算委員会としてはふつうに、できれば29日までに来年度予算案に対する参議院の意思を決定するひつようがあるので、攻守の立場が逆転というよりも元通りになったということであろう。
予算の年度内自然成立が確定したことで、岸田政権は一息つけるわけであるが、引きつづきの政倫審もきな臭いようで、さらに順調そうに見えるが賃上げにも中小・非正規の壁があり、日銀の金融政策も袋小路のようで、課題山積といえる。とくに、実質経済成長のマイナス化が不気味で、いいのは株価だけという政治的には嫌味な空気である。
さて、政治資金をめぐり関係議員一人ひとりの政治責任を追求する声は次の総選挙までつづくと思われる。安倍派なのかそれとも旧安倍派というべきかふと手がとまるが、安倍派の人たちがとくべつにグルーピングされるのは、天下無双の派閥として権勢をほしいままにしていたことが災いしているのであろう。世間では「盛者必衰の理」と受けとめていると思われる。そこで、グルーピングの通称として「裏金議員」というのは烙印がきつすぎるので賛成しかねる。(といっても、そうなるだろうが)また「還付議員」というのもあるが水漏れしそうで笑ってしまう。あるいは「簿外議員」というのもあるが、べつの意味あいが哀愁をよぶので止めたほうがいい。ともかく、世間のきびしい風を覚悟すべきだし、有権者には選挙で白黒をつける責任がある。これで投票率がさがるようでは有権者の負けということかもしれない。
保守派用語である「禊(みそぎ)」をつぎの選挙でうけるという発想があるのは有権者を甘く見ているからだろう。禊は選挙の前にやれということで、選挙で禊をやる議員は落選ということではないか。
あれこれいっても、まとまりの悪い野党にとって「裏金議員」追放の御旗をかかげられることは、政策の一致といった高いハードルを越えることなく、すり抜けられるという意味でホクホクであろう。野党連携の成功率が高くなるといえる。また低迷気味の立憲民主党がそれらの小選挙区で譲歩に徹すれば自民党を議席減に追いこめるかもしれない。
そういった野党連携に道をひらく機会を与えないためには、選挙の前までに党内できびしい処分をくだすこと以外に手がないのではないか。起訴されなかったからといって罪がないということではない。また、単純なミスともいえない。派閥が指示をするという意図的組織的な不記載であり、法違反である。岸田総裁には処分という大仕事がのこされている。で、処分される人たちはどうするのか。処分の内容にもよるが、公認の可能性があるのであれば受けいれ反省することになるであろう。そうでなければ集団離党するか引退するか、それとも党内で反抗するかなどパターンはいろいろ考えられるが、不記載という違反をひっさげての反抗では先が見えている。想像以上に前途多難である。
岸田総理の評価がわれている。それよりも、正直いって派閥解消が事態を複雑にすると思われる。つまり、自民党内の政局は派閥関係であったので分かりやすかった。しかし、派閥を解消すると今までの方程式がつかえないから、先が見えない。先が見えないと何ごとも決められないことになるのではないか。
それと法案の取りまとめ、あるいは内閣提出法案の事前審査などの本来の議員任務がどうなるのかも重要である。立法府なんだから審議がおろそかになっては困る。全般的に法案審査の水準がさがっているようで、省庁への対応力もよわくなっていると心配する人もおおい。
年度内成立が確定したなどと喜んでいるようであるが、その予算にしても112兆円をこえる膨満ハリボテ予算ではないか。財政規律や行政改革はどこにいったのか。借金でつじつまをあわせているだけで、後世へのつけまわしではないか。いつまでも続けられるとは思えない。今のままでは危うい、と思う。
いまさらガラガラポンとはいわないが、せめて底にたまったドロドロだけでも何とかしなければ内憂の集積場になる。ということでやはり、「安倍派処分」と「長老追放」が岸田総裁の歴史にのこる大仕事であると思っている。
あとは、日米同盟の新定義であるが、「是々非々」というのは「ノーといえる日本」であり「任怨分謗」とは「なにがあっても支えていくから」ということで、どちらを選ぶのか。分断症状の米国だからわが国の選択は値千金といえるのである。彼は危険と分かっているのに賭けてしまう、そんな政治家かもしれない。】
1.「裏金」だから問題というよりも、表裏にかかわらず「政治資金」が問題というステージに入っているのではないか
「裏金」という言葉は下品なので使いたくないのだが、一連の騒動をひとまとめに表す言葉としては「裏金事件」に勝るものがないと思う。なので、しぶしぶ使うことにしている。そこで、収支報告書に未記載であることを根拠に「裏金」といっているのであろうが、すでに訂正済みであるのだから、裏金が表金になっているという理屈を盾にとれば、すでに実態としての「裏金」は存在しないといえる。しかし「裏金事件」はのこる、言葉としても。まあ、どうでもいいと思う人も多いだろうが。
むしろ問題は、記載済であっても使途に疑問があれば問題ということであるから、つまり「表金」も「裏金」も使途内容によっては問題であるといえるから、今では表裏にかかわらず「政治資金」そのものがターゲットであり、使途によっては「問題化」するわけで、話のスジとしてはすこし乱暴な展開となったと思うが、昨年の秋の無風状態からいえばこの展開の速さは尋常ではないといえる。岸田政権の不人気が追い風になっているのではないか。
つまり、不人気な政治だから「政治資金」そのものも政治問題化したということであろう。なので、収入も支出もガラス張りにするというのが世間のトレンドになっている。このトレンドは不祥事が発生するたびに網が絞られるように時間とともにきびしくなるもので、選挙でえらばれる者が抗うことはむつかしい。とくに、不祥事をおこした側が大声で異論をとなえることには憚りがあり、じわじわと追いつめられるということであろう。
そういうことで、自民党はすでにロープ際まで追いつめられているのだから、いっそのこと自民党として原則全面開示を提案するのが時局収集にあたっての最善策だと思うのだが、ロープ際クリンチ策でしのげるとでも思っているのであるなら甘すぎるということであろう。ときどき暴走するものの詰めが甘い性向がみられる。
2.ロープ際に追いつめられている自民党は、まだクリンチで逃げられると思っているのか
「それで国民が納得するとは思えない」とは耳にタコができるほど聞かされてはいるが、そうはいっても「国民」の姿はみえないし、その心をおしはかることは至難の業といえよう。さらに、折にふれ「国民」を自説にあわせて引きよせるコメンテーターの主張も形はずい分とマンネリ化しており、どの説をとってもどこかで聞いたようなスジ論ベキ論の焼きなおしで、スタジオは既視感にあふれている。当の本人はいわゆる「国民」になりかわりビシバシと正義の鞭をふるっているつもりなのであろうが、どの「国民」を代表してのことなのかは分からない。まさか1億2千万余の全国民を代表してのことではないと思うが、「政治と金」の問題の半分は有権者すなわち「いろいろな立場の人びと」にもかかわるもので、資金需要の大半は知名度向上と人的関係の構築であるといわれている。一般論であるが、効果がなければ金を使うことにはならないわけで、手にあまるほど多い懇親集会に参加し会費をおいていくことが無意味であるなら、やることにはなっていないといえる。だから、政治資金全般について見直すべしという議論は妥当ではあるが、政治資金が不要ということにはならない。あるいは資金パーティーも議員と参加者との意見交換の場として意義があるのだから頭から廃止すべきということにはならない。そういった具体的な政治活動がなければ民主政治がまわらないことも事実であるから、そのための政治資金はルールのもとにおいてひつようといえる。問題はルールの設定と遵守である。また、党内中間団体(派閥)が政治資金を独立してあつかうのであれば代表者の管理責任を明示しておくひつようがあるのではないか、と思う。
それにしても、じつに紊乱(ぶんらん)である。目にいるところもさりながら、見えないところから臭ってくる何かしらに対し人びとは不信をいだいているのであろう。
ところで、記載外の政治資金をもつことは違反であり、違反をまぬがれたいのであるなら税務上は一時所得(一定金額をこえれば申告しなければならない)とすべきであろう。それでは、パーティー券を購入した側としては合点のいかぬことで、あくまで政治活動のために遣うべしというべきであろう。唯々諾々と求めにおうじるから規律がゆるむのであって、購入側にも一定の責任があるのではないか。
今回は選挙でえらばれた議員の不祥事が問題化しているので、自民党はもとより政界も政治不信という大波をかぶったということであろう。わけても、当人たちがたいへんな不祥事とは思っていないところが一番のこまりごとで、そのうえ平身低頭であるから、悪いとは思っているのだろうと受けとめていたら、どうも動きがにぶい、次のアクションにつながっていない。というのは結局のところ、あまり悪いこととは思っていないようで、心底からの反省にはなっていないようである。表向きだけの反省では不信感は消えないであろう。
余計なことではあるが、自民党作成の一覧表に記載された80名余の議員のうち責任意識がうすい者もいるのではないか。もちろんゼロではないだろうが、コンマ以下の責任感のように思える。案外、派閥の責任を糾弾したいぐらいの思いかもしれない。また逆に被害者意識さえもっているのかもしれない。
いつも派閥が使い勝手のよい金つまり領収書をもらわなくともよい金を欲していたのは、総裁選対策にあることはだれもが気づいていたことであり、特別に証拠をひつようとするほどの話ではなかろう。
問題は、総裁選のどこかの段階で「権力を金で買う」ようなことがあったのかどうかであり、ほとんど立証できないとしても、そういったしくみを主権者である国民がどのように判断するかが重要であるから、そのような金権構造についてもあきらかにすべきである。また民主政治といったところで電灯のつかない部屋がのこされているかもしれない。ということを念頭におきながら、全プロセスの完全開示がより良い政治を生みだす決定打となりうるのか、またその条件についてしっかりとした議論がなされなければ落着とはならない、つまり再発するということであろう。
3.「国民」もいろいろだと思うが、ポピュリズム言説には注意を
さて、巨悪ではないか、悪質ではないかと考えるメディア的人びとは記載漏れという形式違反だけではおわらせたくないであろうし、反与党の政治的人びとはこれを契機に反転攻勢を考えるだろうし、販売数やアクセス数でかせぐ人びとはみっちり丁寧につづけたいと思っているであろう、ということでさまざまな考えの集合体としての「国民」なのであるから、いってみれば白色光のようなものである。その「国民」の8割程度の人びとはおそらく心的にネガティブではあるが、どの程度ネガティブ行動をとるかはまだきめていないというポジションにいると思われる。
ということをふまえると、内閣支持率にあわせてさまざまな項目が調査され、その結果が厳しいものになっていることとの微妙なズレを感じるのである。まあ回答者が心的にネガティブであることから、質問に対する答えは厳しいほうにバイアスがかかるのは当然でありしかたないとも思われる。また、調査そのものにも不確かさがあるというべきかもしれない。
一般的に金銭がからむ不祥事に対しては表層的な判断が先行するもので、やや感情的に反応する傾向がつよいといえる。だから、メディアの内閣支持率調査の結果については、いくつかの仮説的前提での解釈をおこなうべきで、たとえば収支報告書未記載であった議員は辞職すべきという回答が○○%であったと直に報道することには筆者などはその誘導性に違和感をおぼえるのである。
そういった違和感の根には、国会議員という立場はたとえば専制体制をめざす勢力にとっての攻撃目標であって、懐柔できなければ失脚をはかるのが常套手段といえるから、今回のような一連のプロセスには彼らの介入の余地が多々ありうるわけで、検察権力が終止符をうった案件について簡便な世論調査で議員辞職を迫るがごとき報道には、専制体制と親和する余地があるのではないかとやや妄想的ではあるが、危険なものを感じるのである。けっしてロシア的とかいっているのではなく、ポピュリズム言説が民主政治の基盤を腐食させるという文脈のほうに傾いての指摘である。
4.政治アクターや外国勢力にとって安倍派解散がどう映るのか?
天下無双であった安倍派が遭難により主宰者をうしなったことは悲劇的であった。また、「裏金事件」により派閥解散をよぎなくされていることについては自業自得的ではないかと内心膝をうつ向きも少なくないと思われる。とくに議会勢力以外の政治アクターや外国勢力にとってはわが国を攻略する上でのハードルの消滅にあたるのかもしれない。とくに外国勢力にとってのハードルの消滅とは人体でいえば免疫機能の喪失にもひとしく、ここは議論のあることを承知のうえで有体(ありてい)にいえば、選挙によってえらばれた議員の身分を軽々にあつかうことは外部からみればあたかも免疫力の低下をしめしていると判断されるのではないかと危惧するものである。という理屈で問題の渦中にある議員を免罪する気はさらさらないが、陥没した道路はその深さによって処置がちがってくるのであるから、いつまでも問題を舐めつづけることはできない。内訌の種となる問題には早く区切りをつけるべきである。
5.党内的には「安倍派処分」と「長老追放」が当面の課題ではないか
ところで、前回にも述べたが「安倍派処分」と「長老追放」が党内での課題であるから、予算成立までには「政治と金」の厳正化策があわせて強行されると予想している。(2月2日土曜日に衆予算委員会、本会議が開催され予算案は可決された)
つまり、「裏金事件」を契機に「政治と金」の厳正化と党内権力構造の再建の二大テーマが惹起されたといえるが、後者においては「処分後の安倍派」と「追放後の長老」の処遇が重要であり、いずれにせよ牙と爪をとりのぞき人事で処遇すること、つまりは馴致(じゅんち;手なずけること)をはかることになるであろう。まあ、そんな高度なことが簡単にできるわけがないということであるが、目標が高すぎて混乱するかもしれない。
そういえば「旧統一教会問題」も安倍派案件といえなくもないことから、現権力中枢としては「相手の出方しだい」という戦術問題に帰結するわけで、安倍派処分についてはほどほどにこなしていけるのではないかと思っている。
「大山鳴動、でネズミ何匹なの?」と聞かれたが、貉(むじな)とか古狸という話ではない。そういう話でいえば、自民党内の権力が選挙公認権と役職人事権と資金配分権で構成されていると推察するならば、大黒柱や床柱ではない列柱においては勝ち馬に早くのることが肝要であると彼ら彼女らは考えると思われるので、ブームがないかぎり新しい馬が勝つことはむつかしいといえる。とくに「早く」が肝心なので、小石河とかで工作する時間はないというべきであるが、地方からの党員中心の風がおきれば小石河などの連合の可能性もなくはないといえる。しかし、党としてのメリットよりも議員個人のメリットが優先されるという議員心理がはたらくかぎり、どれほど不人気であるといっても「岸田再選」の可能性を排除することはできないと考えるべきであろう。正直なところ展開次第では分派、分裂あるいは長期抗争の可能性もあるわけで、人びとの野党への支持がいまいちであることが自民党のダラダラを助長している感がある。まあ、おおきなリスクたとえば党内抗争が潜んでいることは確かであろう。
もっといえば、内外ともに課題山積の政治状況にあって国民的人気という不確かな理由でもって「人」を代え、もって難局に処するとは笑止千万というほかに言葉はないのである。要するに「選挙に勝てる顔」とは「自分の選挙だけが大事」という自己保身と「有権者はイメージだけで投票する」というポピュリズムの複合体なのであろう。イメージは政治的能力を保証するものではないのであるが、それ以外に判断基準として何があるのかというと、この国では経歴書以外には何もないのである。そうではあるが、「変えればよくなる」というのは迷信に近いもので、結果の責任は有権者に帰属するのであるから、投票行動をおろそかにしてはならないということであろう。今回の「裏金事件」にしても任命責任ではなく選出責任もあるのだから、説明責任という点では議員一人ひとりの後援会での説明も重要であると思う。
6.政権交代と外交の関係
すでに外交の時代にはいっている。内政と外交との相対をいえば外交に重心が移っている。あるいは移すべきである。という意味でいえば残念ながら政権交代の時期ではない、少なくとも筆者はそう考えている。なぜなら、国外が変動している時期の外交は安定性に軸足をおくべきであって、相手が動いているときにこちらが動くと相手が間違うリスクがあるので、こちらは動かない方がいいということである。もちろん政権交代阻止というほどのことではないし、また政権交代可能な政治状況を歓迎するといった政治のあり方論を否定するものでもないが。
さて、外交主軸とはいっても内政と外交はセットであるから連携と均衡が重要であるといえる。ということで、同盟国との外交的安定性が担保されてはじめて政権交代が選択肢になりうるというぐらいの慎重さがひつようであるという考えである。
2009年に発足した民主党政権の蹉跌の原因は山のようにある。とりわけ災害・事故という不運もあったが、民主党自身が作りだしたものも多い。そのひとつが、在沖縄米軍基地移転問題であった。「最低でも県外」がいつのまに政権公約になったのかは筆者の立場ではしかと説明できないが、一度ことばとして発したものは回収できない。
たしかに沖縄に70%もの基地が集中していることを改善するには「県外に移転先を求める」しかないことは一面の真理ではあるが、46人の知事は総論についてはともかくも各論では大反対であろう。また、米軍の意向も鍵となる。ということから46人の知事と同盟国の意向を無視してできることはかぎられている。そういう意味では「最低でも県外」とは「まほうのことば」であって、願望としては分かりやすかったが、政治の世界では「まほうは効かない」ので不要なことばであったかもしれない。
7.有事には日米同盟体制が国内政治を包摂することの意味
そこで、日米安保条約にもとづく日米同盟体制は情勢というか事態によってはわが国の法制あるいは政治をも包摂するものになるとの認識については、当時の民主党内をいえばバラついていたと感じている。それは正しいとかあるいはあるべき姿といった政治価値についての議論からは離れたもので、いわば有事への対応であって、具体的にはある状況下(有事)にあっては事実上わが国は米軍との共同統制下に置かれるというシナリオを党内で共有できていたかといえば、そうではなかったということであったと思う。2010年前後をいえばそういう時代であったと思う。
もちろん共同統制下という状況が具体的にどういうものであるのかさえも、よくは分からなかったというのが正直なところであって、まず議論のおこしようもなかったといえる。
さらにいえば、米軍基地およびその関連施設が攻撃された場合には、米国は個別自衛権としての反撃を実行するのであろうが、在日米軍基地への攻撃は「わが国の施政の下にある領域」への攻撃であるから、わが国としても個別自衛権としての反撃を試みることになる(と思うし、そうあるべきだ)。で、その日米それぞれの反撃が専守防衛なのかという問いかけが政治的に意味をなすのかという議論もあるはずであるが、おそらく高速でスルーされるであろう。
また、米軍の反撃は敵基地攻撃に輪をかけたものになる可能性が高いと思われるが、それはわが国とは無関係なもので「もうやめろ」とか「もっとやれ」というべきものではないであろう。といいながらも日米密接不可分の実態からいって、「米軍の戦闘にまきこまれる」と人びとが不安に思うところだけを除去することはできないので、実態はまさにまきこまれることになると思われる。さらに、状況によっては攻守同盟体になるのが日米同盟の必然性ではないかと考えている。こういった思考展開が中朝ロの連携強化の動きからつよく影響されていることを否定するものではないが、むしろ中国の台頭とその国家意思が周辺の安全保障環境を強引に変形しているとの認識にたてば、事態は中国政府によって誘引されいるといったほうが正確であろう。おそらく十年単位の時間軸で東アジアの安全保障は中国にふりまわされることを覚悟するひつようがあると思われる。と同時に、日米同盟もそのことに引きづられるとまではいわないが、少なくとも対中国対応(シフト)の性格を強めるであろう。ということで、残念ながら在日米軍基地がなくなる日はまだまだ遠いということである。
8.米軍の抑止力へのリアルな信頼感
すこし横道にそれているが、たしかに考えてみれば米軍基地を狙い撃ちすることほど、いかなる国にとっても危険な行為はないわけで、たとえ想定話であったとしても適切なテーマ設定とはいえない。ただ、そのことは米軍基地が強力な抑止力を保持していることの証左といえる。すくなくとも、わがまますぎる迷惑施設と反対派からは揶揄され、その指摘がまんざら間違いとはいえないと感じていても、この国の人びとは絶対的な報復力を背景にした抑止力をリアルに信頼しているのではないか、と思っている。
この米軍のリアルな抑止力への信頼が思考過程だけによって形成されたというよりも、湾岸戦争、アフガニスタン紛争、イラク戦争などなど、たえまなく世界で戦火をまじえてきた米国の軍事力の実像については、膨大な映像や記事・解説をつうじて形成されたのではないか、と考えているのであるが、さらにそれは今でも破壊神として、またあざやかな映像として人びとの脳裏にきざまれていると思われるのである。
筆者の感覚でいえば、在日米軍基地への反対運動が狭小化され、その主張がふしぎなくらい粗雑化していったのも、るる述べてきた抑止力への信頼が人びとに根づいていったことと無関係ではないと思われる。このことに関連して、米軍基地のあることが攻撃目標となるとの懸念が今なお囁かれていることは事実である。そういう声があることをふまえれば、基地の全面返還と米軍の撤退の可能性がゼロではないというよりも、日本政府あるいは日本国民がそれをつよく望めばその可能性はいちじるしく高まるものであって、この問題はどの程度の防衛力を保持するのかもふくめ、わが国自身が決めることであろう。
9.有事における統治は戦時下体制である
さて、在日米軍基地への攻撃があったとして、日米両国の軍や部隊の間では密接な連携がはかられることは当然のことであると思うが、人びとの不安をやわらげ日常生活をささえるという有事における統治については、人びとのあいだでは今のところ対応策はないにひとしいわけで、まず情報統制に入るのか、もっといえば大規模なサイバー攻撃により各種のインフラも寸断されるとか、フェイクニュースが日常化するといった事態になると想像できる。そういった(緊急)事態には、天災への対応とはまたちがった総合的な対策がひつようであることは論をまたない。というように、(緊急)事態の一部を切りとっただけでも目がまわりそうなのであるが、これがたとえばウクライナの状況を引きながら展開されるであろう抑止議論と、現に攻撃された惨状をまのあたりにしながらの防衛議論とでは、議論の次元がまったく異なるものになると思われるし、人びとの受けとめ方そのものがおおきく変わってくるのは当然であるといえる。
さらに、ウクライナや中東でおこっていることは、まさに手段をえらばない殺戮に徹することであり、理性よりも行動が先行していくという地獄絵さながらであるから、同様の事態がわが国でただちに起きるということではないと思うが、また被害の規模にもよるが救出救護だけでも大変なことであろう。
それにしても、そういった議論すら不要というのはまことに恵まれていたというよりも、むしろ無防備すぎたというべきかもしれない。とここまでの論は論としても、問題はこの先どのような議論が可能であるのかという一点に集約されるもので、議論としては煮えすぎた料理の処理にも似て、もはや廃棄するか知らぬ顔でテーブルに持ちこむかが焦点であって、多少の議論があるにせよ「このままテーブルに持ちこむ」ことに落ちつくというよりも「そうせざるをえない」といって議論は打ちきられるであろう。戦時下体制とはそういった一面理不尽なところがあるのであろう。だからとはいわないが、事前の議論がすぐれて大事であると思われる。
火をつける前の本格的議論は往々にして敬遠され、本格的議論がはじまるときにはすでに煮えすぎているというケースが多いのである。
実質的に日米同盟に昇格している日米安保条約体制が従前よりもより高い抑止力を保持していると同時に、さまざまな不都合やリスクを包含していることも周知のとおりである。という段階(ステージ)にあって今さら引きかえし、はじめからやり直すことが現実的とも、可能であるとも思えないのではあるが、さりとて中国との関係において対立激化の道をあゆむことにも、内心身がすくむ思いがするのである。この身がすくむ思いという懸念を宙にうかせた状態でのわが国の政権交代がいいのか悪いのか、またどうすればいいのかというのが筆者の問題意識なのである。
10.地政学的に米中間の緩衝地か、あるいは米の橋頭保か
わが国のリベラルといわれている人びとが、(筆者としては)信じられないぐらいの熱量で「日米安保条約反対」を1960年また1970年とつづけて闘ってきたことの意味を、前述の文脈で理解しはじめたのは、2010年になって中国の外交的対日姿勢が強圧化された時期とかさなるのである。もちろん習体制の方針あるいは体質の反映もあったのであろうが、それよりも2009年秋のわが国の政権交代が中国からみてすき間のように見えたのかもしれないとも思うのである。さらに尖閣諸島国有化をめぐる二国間の騒動へと事態がうごき、不穏な空気のもとでわが国としては対中抑止力の獲得についてのすそ野の広い問題提起や時間軸を重視した議論がはじまったといえる。
そんな中にあって、「米中衝突不可避論」があるのかないのか不明を恥じているところである。しかしながら、太平洋をはさんだ東西パワーが必然的に衝突するという、筆者としては論ずるにはいたく単純な娯楽歴史物だと思うのであるが、そういう筆者の思いを置きさるにように2020年代において米中の軍事的拮抗関係が抜き差しならない関係にいたっていることは事実といえる。
そこで、不可避とまでいうひつようはないと考えながらも、しかし現実問題として米中の軍事的拮抗が亢進しているのだから、なにかの拍子で発火する可能性はありうると考えるべきなのかもしれない。娯楽歴史物とはいってはみたもののわが国としてはまことに迷惑な話であり、とうてい受けいれられるものではないということであろう。
しかし、世界地図で確認するまでもなくわが国は米中衝突の緩衝地あるいは橋頭保という両面をもっており、今日的には米国の橋頭保として高いリスクをせおっているといえる。緩衝地ではなく橋頭保であるというのが太平洋戦争の結果からもたらされた地政学的現実であるということであろう。
修辞はともかく、緩衝地であるべきとの立場と橋頭保に徹するとの立場に二分されているわけではないが、1960年に改定された「日米安保条約」にわが国の筆頭署名者としてその名を刻んだのは故岸信介氏であり、氏の外孫である故安倍晋三氏が米国の橋頭保としてのわが国の立場を確定させたといえば、ストーリーとしてやや走りすぎであろうが、系譜をいえばそういうことである。
というわけで2014年7月1日の臨時閣議において、集団的自衛権の行使は違憲であるとの従来からの政府解釈を変更し、そのうえで翌2015年5月「平和安全法制」案を国会に提出した。そして同年9月17日の参議院本会議で可決され、2016年3月同法の施行にいたった。電光石火の早業といえるし、一連の動きは早い段階から準備されていたと思われる。(「平和安全法制」との表記が公的ではあるが、意味において筆者は「安保法制」としている)
今日、立憲民主党も「日米同盟を基軸に」ということであるから、米国の橋頭保という地政学的位置づけに異論をもっていないと思われる。筆者の偏見かもしれないが、ひょっとして立憲民主党(野党第一党)などが米中間の緩衝地としての役割をわが国がひきうけるべきといった地政学的検討ぐらいはしているのではないかと多少期待してみたのだが、よくは分からない。
外交防衛を主要争点にはしないという考え方は2009年の民主党政権時代に学んでいるという意味でクレバーであるとしても、政権交代を視野にいれるならば、そういう対応は安定感という評価軸においてはプラスであるものの、改革軸からいえば不足という意味でマイナスであろう。
ここらあたりの議論は、対米関係を「是々非々」あるいは「任怨分謗(にんえんぶんぼう)」のいずれの路線で仕切るのかという隠居の議論として提起しているつもりである。もちろん例により筆者としても結論にまではいたっていないのであるが、それはおき国民の多くはトータルでいえば親米であり、実態をいえば日米軍事同盟に安心しながら、また思索においても安住しているといえる。という実情というか人びとの受け止め(心的態度)からいって、立憲民主党の前回の総選挙での日本共産党との連携という方向感が人びとに違和感をもたらせたのではないか。さらに、日米同盟の変質をも容認するのではないかとの有権者サイドの疑念をうみ、それが投票行動におけるブレーキとなったのではないかとの考察がマスコミ的にも支持される流れがつくられたと思われる。
表むきでの路線問題はいちおうの決着をみた雰囲気であるが、この日米同盟機軸という表現が軍事同盟の性格がつよく、さらに地政学的に米国の橋頭保という役割を受けいれまた決め打ちすることは、当面どころかそうとうに未来に対して決定的であるといえると思われる。
未来決定的というのは文字通り未来すなわち進路を固定化された方向に決定していくということであり、あらゆる選択肢ではなくかぎられた選択肢に限定をしていくということでもある。という意味でいえば日米一蓮托生の気分であろうが、それではズバリ片想いにすぎないのであって、米国にすれば「合従連衡」といった戦略戦術レベルの話にすぎないという見方こそが妥当であると思う。そういう意味では長期的に共有できる共通の利益を見いだすことが重要である。だれでも考えることではあるが、実際のところ難しいものである。
11.野党第一党の外交的センス-連続性と新規性の連携と均衡-
二国間関係を情緒的にとらえることが間違っているということではない。人それぞれが背負っているものがちがうのだから、いろいろなとらえ方があって当然といえる。しかし、政党それも野党第一党がたとえば日米関係をいかなる文脈でとらえるべきかは個人的感慨をこえたものであると考えるのが一般的であろう。という意味で「よりクールに」というのが野党第一党に求められる立場ではないかと思う。
ともかく、クールな視点の必要性は米国大統領選挙をながめていれば自然と理解されるであろうし、だれしもそう思うであろう。また親米感情は今がピークであり、対米信頼感もそうである。しかし、来年においてもそうであるのかは分からないといえる。保証となるものは何もないのであるから、日米関係がゆらげば日米同盟もゆらぐであろう。そうなると、とくに自民党の動揺は小さくないと予想される。日米関係とは自民党と米国すなわち自米関係であったのだから、新しくもない新大統領の口からでる「ことば」の中に、自民党が築いてきた日米関係の成果を破壊する趣旨がふくまれる危険が小さいとはいえないであろう。
という意味において、政権交代をかたるのであれば立憲民主党は自民党のものとは違うあたらしい日米関係のあり方や構想を有権者にしめすべきではないかと思うし、それはとりもなおさず「シン・日米同盟」あるいは「シン・平和主義」の提唱を意味するものであろう。つまり、筆者は堂々とした矛盾を提唱しているのである。外交、防衛、治安などにおいて確たる連続性を担保しなければ政権交代におよぶべきではないといいつつ、他方で交代するには前政権すなわち自公との明確な差異性をしめすべきであるといっているのであるから、一見すればまさに矛盾といえる。しかし、政権交代とは人びとからいえば安心と期待であって、この二要素はいずれも欠くことができないのである。すなわち連続性と新規性の調和がなければ、人びとは政権交代に意義を見いだすことができない、したがって失望の沼に沈んでいくのである。どういう風に連続性と新規性を組あわせていくのかについて人びとに理解を求めていくのがいわゆる説明責任であって、世間で普及している政治漫談とは本質的にちがうものである。
さて、同党においては幸いにも日米基軸といいながらも少なくない外交についての各論が提起されていると聞く。また2月以降の役員体制にもあらっと思わせる面もあり、いい意味で落ちつきを感じるのであるが、そのことと政権運営を自公政権とはちがう色彩で表現できるのかは次元を異にする課題であろう。
(筆者の立憲民主党論は、2022年2月9日の弊欄時事雑考「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」など多数)
ともかく一から十まで、なんでもかんでも大統領選挙しだいという雰囲気になっていることは否定できない。また、わが国の有権者が政権交代を望むかどうかも不明であるし、もっといえば人びとの政治熱量がさらに高まらないことには息がつづかないとも思う。くわえて、あたらしく政権を担当する人たちの能力適性についてもきびしい議論があってしかるべきであろう。場当たり的な政権交代ではわが国が直面している課題に対応することは困難といえる。2012年の民主党政権崩壊は当事者以上に支援してきた有権者にとって深い心的外傷(トラウマ)になっていると思われる。政権交代の可能性が高まれば高まるほどに、当時のトラウマが頭をもたげてくるのではないかと恐れているのである。
12.五分の確率で混乱の時代がくるのではないか
米国の暦で本年の11月5日までは、米国大統領選挙で世界は大騒動であろう。さらに、11月5日からは別の意味で大騒動がつづくであろう。底のぬけた楽観主義にたてば、米国の斬新な挑戦によって人類の新たな進路が切りひらかれる可能性に期待するといえるのであろうが、普通の楽観主義であれ普通の悲観主義であれいずれの立場にたっても五分の確率で混乱の時代がくると予想するであろう。もちろん2024年3月の時点のことである。
◇冬曇り光(ひ)なし雪なし酒もなし
加藤敏幸
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