遅牛早牛
時事雑考 「2024年の計、主要野党の対応について(その1)」
【あけましておめでとうございます。しかし、1月1日の能登半島地震と羽田空港航空機衝突事故には虚をつかれました。また衝撃的でしばし言葉を失いました。まだ不明の方も多く救助・救援活動がつづくなか、ひたすらご生存を祈るばかりです。さらに被災地域の一日も早い復旧と復興を心から願っております。ここに、亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、被災された皆さまにお見舞い申し上げます。】
【さて、年末に引きつづき2024年の政局について、主要野党を中心に分析をこころみたが、妄想がかなり多くなった。確かなことがいえないのである。それほど不確実であり、また国際情勢の影響をもろに受けるということであろう。たとえば、韓国がユン大統領に交代したとたんに、日韓の風景が一変したことが強烈な印象として残っている。同様のことが頻発するかもしれない。いわば良い目がでるか悪い目がでるかに似た不確実な世界ともいえる。
さらに、米国の握力が弱くなると世界各地で紛争がおきるということなのか。そうなると、ウクライナ、パレスチナの次は半島かしら。とか、いえばいうほどその確率があがりそうで怖いから慎むべきか。と言葉に自縛される日々となっているのである。
「これでは、検察のクーデターではないか」と匿名引用で伝えられているが、本当にそういったのか、安倍派の中堅幹部が。であれば傲慢感を伝えるに十分なひと言ではあるが、信じがたいことである。
やはり、賃上げが物価上昇に追いついていないというより大きく差をあけられているようだ。毎月勤労統計調査(速報)によると、昨年11月の実質賃金は前年同月比3.0%減で、4月(3.2%減)以来の低水準となり、20か月連続で減少している。統計の不連続があるのだろうが、日本経済の生命線というか、経営者の意思で決められる賃金であるのに、これほど難渋するのはどういうことなのか。やはり賃上げは力で獲得せよという啓示なのか。この春の結果次第で、大・中堅企業を中心とした労使関係モデルでは間に合わない、時代に合わないということになるかもしれないと思う。そうなると、そうとうな危機ではないかしら。「岸田さん、システムダウンが近づいていますよ」ということで、あとは「狂乱賃上げ」だけかな、特効薬は。
漢字かな比率は気をゆるめると漢字過多になる。また「言う」よりも「いう」をもちいているが、かながつづくと切れ目が判じづらくなるので、例外的に漢字を使うことがある。同音異義語がある場合も紛らわしいときは漢字使用としている。などなど、ルール化しているつもりでもAIではないので、不徹底の儀は容赦ねがいたい。例により、字数超過につき(その1)(その2)に分割した。】
「非自民非共産」というゾーニングで野党結集が成功するのか
まず立憲民主党、いつまで待っても準備中のモラトリアム状態からの脱却を
◇ 「非自民非共産」という政治におけるゾーニングにより野党結集が可能になるのか。これが2024年はじめの注目課題になりつつある。しばしの間うずもれていたこのテーマが息を吹きかえしつつあるのは、昨年末に露見した安倍派を中心とする政治資金パーティー売上金還流裏金事件をめぐる騒動と岸田政権の支持率低迷によるものであり、同時に現在の与党にかわる政権の受け皿論がにわかに浮上したことによるものであろう。という流れをうけ、泉代表を中心とする立憲民主党(立民)とそのシンパジャーナリストからの発信が活発になっている。これには懐かしのメロディーといった風情もあって、筆者の世代には心地よいところもある。
また、総選挙を念頭においた市民団体を仲介役とする政策のすりあわせも地味ではあるが前進しているようだ。たとえば「消費税減税」が後景におかれたことはすり合わせ議論が洗練されたというか、まあ現実感をとりもどしたと評価できるもので、昨年暮れの増減税騒動をふりかえるならば妥当な判断といえる。
とはいえ、このような狭域というか限定的なうごきでは、現在与党をおそっている危機的状況に的確に対応できるものとはいいがたく、政治状況を変革するには不足感があるといわざるをえない。
それでも立民をとりまく情勢はわずかながらも好転していると思われる。まだまだ微風かもしれない追い風をうけて、立民シンパジャーナリストも二大政党的政権交代を念頭においた立民復活シナリオの発信に余念がないようで、ともかく野党第一党のまわりが活気づくのは久しぶりのことで、閉塞感のつよい現状にあっては悪いことではないと思っている。
それはそれとしても、例によって日本維新の会(維新)や国民民主党(国民)への一方的な降伏勧告とも解される文意が散見されるのが気になるところである。さらに、その文意がとにかく政権を打倒することが第一であり、とりわけ現在の自公連立政権の崩壊こそが人びとが幸福になるための絶対条件であるという、じつに明快かつ戦闘的な文脈につつまれていて、ある種の懐かしさを感じるが、しかしあたかも野党総動員令に近い言葉が頭をもたげはじめているところなどは、さすがに錯誤感もはなはだしいといわざるをえない。
つまり、当の立民のメンバーはどのように考えているのかといえば、そこは明快でも戦闘的でもないようで、シンパとはかなりのギャップがあるのではないかと受けとめている。あるいは、立民幹部になにかしら気迷いがあるのではないかとも感じられるのである。
いいかえれば、微風にせよ追い風を受けているのだから、どんどん前進せよという内外野のシンパ群団の声援にポーズだけでも応えなければという気持ちと、内閣支持率がこれほど低迷しているのに、立民への支持がさほど高まらないことに自信喪失している部分、さらにいかにも左派的な基本方針に疲れている部分など、さまざまな感情が複雑にからみあった集合体の様相を呈しているようで、申しわけないが思わず「今さら思春期はないでしょう」と愚痴りたくなるのである。
「それほど深くはないのでは」とは旧友の反応であるが、悩める立民そのものではなく立民ををとりまくシンパ群団には「何が問題なのか」という見方において、立民からはなれていった人びととの間に、現実感覚というかその種のギャップを感じるのであるが、そういうギャップの存在を論考してもいよいよ無駄なような気がするのである。
その理由は、ひと昔前まではそういった左派シンパ群団にも揺るぎない存在感があり、なつかしの左傾向言論空間をつうじて多少なりとも世間に影響力を行使していたと思っているのであるが、今では「何、それ?」で済まされることのほうが多いのであるから、論考のひつようを感じないということである。
あと十年もすれば立民すら「ナニソレ」化するかもしれないのである。と危惧されているのに、立民そのものが「いつまで待っても準備中」というモラトリアム状態にあることも、不思議といえば不思議なことかもしれない。
ともかくも、熱烈な支持者というのはまずはありがたい存在である。とくにイケイケどんどんといった状勢にあっては、一騎当千が大げさではないようにも思えるのである。しかし、政党として環境変化への適応を模索する段階(自己革新)においてはとても手におえない桎梏となることも事実である。それを邪魔と思うようでは政治家失格であるから、いかに現実的に対応できるかが政治家としての器量とされている。さらに、熱烈な支持者の思いを違えるというのはなかなかに苦しいことなのである。そういった心理葛藤をのりこえてはじめて新天地へ向かえるのであろうが、その向かう先が政権をになう政党なのか、それとも批判力のある万年野党なのか、目標の設定によって当面の行動が大きく変わるのであろう。筆者は、今の立民シンパ群団はいろいろあるが、多くは後者であると考えている。声高に政権打倒とはいうが権力には恬淡ではないかと思っている。
この季節、立憲民主党にとって単なる寒のゆるみなのか、それとも本格的な春の兆しなのか、所属議員それぞれが生唾を飲む思いの中にいるように見えるのだが、ここで「(失礼ながら)しっかりしろ!お前らが主役だろ」と檄りたいのである。
2024年は政界大再編の年か?どうなるのかは国際状勢次第であろう
◇ さて、2024年の政局について「大再編ありや」との問いかけをかなり受けているが、国内情勢だけを分析しても答えはなかなかでてこないと思っている。というのも今年は、五輪イヤーでもあるし選挙イヤーでもあることから、わが国からみた国際情勢が70をこえる国での選挙結果によって大きく変わりうると考えるのが自然であり、いくら国内の論理で予想をつくしても、それだけでは的を射るどころか、的を見つけることすらむつかしいというべきであろう。新年からすこし偉そうないいぶりとなったが、国内政局が国際情勢の影響を直にうける時代になったと考えている。
つまり、分析も評価も予想も国際情勢からきりはなしては議論できないという時代になっていることから、どうしても野党に対しては辛口になってしまうのは行政組織上しかたのないことであり、本気で二大政党的政権交代を考えるのであれば、たとえば影の内閣に海外情報部門をおくといった大きな工夫をしなければ、政権交代のたびに外交機能の断絶が生じるという、国家としては致命的状態になるというのが筆者の問題意識である。
とはいえ、海外情報部門というのは官民いずれにおいても金食い虫であり、政党交付金の規模ではまかないきれないもので、無理であると思われる。
あるいは、政権交代から外交・防衛・治安などをきりはなし、それらの分野における継続性と安定性を確保するといった対応策を講じるひつようがあるのかもしれない。できるかどうかはべつの議論であるが、そういった対策がとられていない状況下では、有権者が政権交代のデメリットのほうに過敏になるのはやむをえないことであり、その結果政権交代を忌避することになるかもしれない。これでは1994年の、政権交代の可能性を開くという政治改革の趣旨を大きく逸脱することになる。
そういった点も鳩山政権以降の教訓でもあるのだが、そのような議論をぬきにして、ただ政権交代と連呼してみても、「2009年の政権交代」に学んでいないだけではないかという不安のほうが強くなるのである。わが国にとって、数少ない政権交代は貴重な歴史そのものであったのだから、学ばずしてなんとするのか。
また、立民応援団が優れて国内志向的であり、さらに地政学を嫌っているのではないかとの印象も強く、現下のような厳しい国際情勢を踏まえれば、立民を政権交代の受け皿として評価する声が聞こえてこないというか、どこまでいっても少数派であることはまちがいないようで、前回述べたあらたな平和論の構築とあわせて、国際分野における知見のさらなる蓄積が求められていると思われる。これは、政権を離脱した政党すべてにいえることでもある。また、国のあり方を考えるうえで政権交代を制度化することは重要であり、そういった基盤整備がなければ、選挙の結果として「できちゃった政権交代」とならざるをえないことから、それではあまりにもハプニング性が強すぎるというか、いわゆる薬の効きすぎになってしまうと思われる。それでなくても、米欧政治が不安定化する時代なのに、わが国までが政治に不安定性を抱えこんでどうするのよ、というのが本音であり、ひそかに危惧するところである。
よりましな政権交代への工夫かひつようである
◇ それでも政権交代をという声がマスメディアを介して広がるかもしれないが、そういった民意は民意として受けとめなければならないから、準備もひつようであろう。さらに、どうせ(?)交代するのであるなら、よりましな交代を企図すべきであって、そのでき栄えでいえば数パーセントの違いが、以降の成果なり災厄の水準をきめる重要なファクターであると、これは職業人としての経験則なのであるが、確信している。
そこで、連合の芳野会長が共産党との協力関係を容認しない姿勢を堅持していることに対し、「野党総がかり」で政権を追いつめることが自明であると考えている人たちから、きつい非難をうけていると聞くが、もともと政権打倒が連合の主たる目的ではないことははっきりしている。さらに、政党との支持連携関係についても前例踏襲という意味での、立憲民主党あるいは国民民主党支持であると聞いている。
そこで、立民と国民の基本政策の違いについての、連合内での議論が停滞しているように思われるし、経過からいってそれもいたし方ないと思うのであるが、聞こえてくるのは地方連合からの、一本化しないと力がでないという声に代表されるもので、あくまで方法論の次元のものと思われる。それらについて連合本部では、方法論が上訴して上部概念である政党としての目的論や政策論を浸潤するパターンを容認することについての議論は未着手のようである。地方連合が思いきり力を発揮できる体勢を求めて、ルーツ(民主党)をおなじくする両党に理念的政策的溶融をせまることを一概に否定することはできない。そういった経路こそが現場主義のひとつの表現方法であると考えられるからである。(筆者は、目的のために手段があるのだから、手段のために目的を曖昧にすることは組織としては避けるべきである、と考えている。)
しかし、そういった現場主義にもとづく要請を政党サイドが受けいれることができるかどうかは微妙というしかない。もちろん立民の泉代表は柔軟姿勢を見せているようではあるが。たとえば、FNNプライムオンラインによるストーリー(1月6日9時)「野党3党首 政権構想を語る 共産党次期委員長は?」によれば、
-引用開始-
5日夜のBSフジ「プライムニュース」で野党3党の党首が相次いで出演し自公連立にかわる政権構想などについて考えを述べた。
立憲民主党・泉代表「何でもかんでも全部やろうではなくて、必ず変えるという政策項目については、心あるメンバーで新しい政権を作れるのではないか」
立憲民主党の泉代表は、岸田政権に「正当性はない」として、特定の政策課題の実現を目指す「ミッション型内閣」の樹立を訴えた。
-引用終了-
ということで、特定の政策課題に特化した『ミッション型内閣』による連立政権構想を今のところイメージしているようである。
これも一つの策であり、たしかに2021年あたりまでは一定の説得性を有していたと思われるが、2022年2月のロシアのウクライナ侵略を契機に安全保障に対する国民の意識が大きく変化したことにより、いってみれば時代遅れになってしまったということであろう。もちろん、ウクライナ侵略は政府でさえ予想していなかったもので、立民の失策というものではない。今日段階では、安保法制を外した『ミッション型内閣』が機能するとは思えないのである。
ということで先ほどの引用をつづければ、
-引用開始-
しかし、これに先立ち、日本維新の会の馬場代表は、憲法改正や安全保障分野の政策などで立憲の党内がまとまっていないとして、連立政権に難色を示した。
日本維新の会・馬場代表「泉さんが野党を結集させて野党政権を作るということであれば、まず自分の政党の中をまとめてください。わたしは宿題は立憲さんにあると思います」
-引用終了-
ということで、にべもなく断られた形になり、前提におけるすれ違いもあることから泉代表には気の毒なことであったと思う。しかしこの馬場代表の発言は、政権の受け皿論について混迷する現状にあって、啓示ともいうべき価値があると筆者は受けとめている。それは、憲法改正や安全保障分野の政策で、立民があゆみよることができれば、連立政権への道がひらける、すなわち第一歩をふみだせるということであろう。(この解釈は文意として正確であると思うが、いざとなったときには心変わりが生じるのは政界の常であるから、正確な文意との表現の保証は政治的にはないというべきであろう。)
いいかえれば、憲法改正反対・安保法制破棄・原発廃止では永遠に野党をまとめることができないことになる。ここでの永遠というのは強調表現ではあるが、野党における大きなかたまりをつくる気があるのであれば、前述の3項目については大胆な譲歩を考えるべきではないかというのが筆者の提案なのである。
ただ、この提案が立民の多数派に受けいれられる可能性についてはきわめて懐疑的である。その理由のひとつは、彼ら彼女たちが支持層から大きな反発をうけるこの提案を、つまり政治的意味を理解したうえで受けいれることができるほどの打算と蛮勇をもちあわせているとはとうてい思えないからである。まして、支援団体や応援団さらにシンパジャーナリストにしてみれば、今までの主張が紙くず以下の嘘八百になってしまうのであるから、悪質な裏切りにあったもどうぜんであり、公序良俗にてらしても受けいれる義理はゼロ以下といえるからである。
というように、端から無理と分かっているのに筆者があえて提案の運びにでるのは、いささかのかかわりもあるのだが、それよりもこれ以上事態を悪化させると「非自民非共産」での政権協力ができなくなるという帰還不能点に突入する怖れが強く、そうなれば多くの人びとに多大な迷惑をかけると考えるからである。
もちろん、帰還不能点はもとは航空用語であって、行先で給油可能であれば問題とはならないが、筆者が提起しているのは、後世の考察によって「あの時に○○しておけばこのような惨めなことにはならなかったのに」という後悔の念とともに語られることを是非にも回避したいからである。
普通にいえば、帰還不能点のわななどはやすやすと逃れられるものと考えられるし、そうであるのだが、外部要因が想定外の変動にみまわれたときに、わが国の政治が、どの程度の対応力を発揮することができるのかという一点において、不適応となる可能性がきわめて高いと考えているのである。だから、国家遭難の事態をなんとしても避けたいとの思いから、困難な政治シーンにおいてもっとも重要な役割をはたすべき第二政党の硬直化した部分を事前に手当てしておきたいという畏れおおい考えをもつにいたっているのである。
これはあくまでも予期せざる帰還不能点を回避することを主眼とする論考であるから、随時状況適応という流れるままの政治を志向する向きには雑音にもならないと思うのであるが、ひょっとして理解されるかなという射幸的感覚でいってみたまでである。
各国の選挙結果次第で、緊急事態に
◇ わが国にとって緊急ともいうべき事態が発生する原因として「各国の選挙」が列挙される時代になったという認識を共有化していくには少し時間をひつようとするであろうが、来年2025年にもなれば楽観悲観ともにまぜあいながら、情勢の激変に人びとは刮目せざるをえないであろう。
もちろん中国、北朝鮮にはそのような選挙はない。ロシアではほぼ恣意的に結果をつくることができる。一時バイデン大統領が主張した民主主義国対権威主義国という構図は選挙制度の実態をふまえた区分けであると思われるが、その権威主義国においてさえ権力基盤の動揺が生じるかもしれないのである。
まして、民主主義国では人びとが直接的な投票で政権を彫塑できるのであるから、安定性あるいは連続性という価値基準からいえばそうとうに忌むべき事態といえる。民主主義国のほこるべき自由で公平・公正な選挙制度が、今では国内はもとより国外に対しても大きなリスクとなりつつあるのだから、これこそバイデン大統領の皮肉といわざるをえないが、彼がこの事態の責めをおうべきということはないのである。むしろ民主制政治の構造的欠陥に起因する問題であるから、世界の民主主義国家を自認する国々はわが国もふくめ謙虚にふりかえるひつようがあるのではないか、ということであろう。
だからといって、中国の覇権主義やロシアの復古拡大主義また北朝鮮の危険な冒険主義を容認することは、事態をさらに悪化させることを肝に銘じるひつようがある。まあ、いうのは簡単であるが、ウクライナ、パレスチナ、さらに他の地域で紛争が勃発、拡大すればいよいよ朝鮮半島あるいは東アジアで不穏な事態にいたるリスクが、あくまでリスクなのであるが、高まることになるかもしれない。政治的判断の過誤は連鎖しやすいのであるから、民主主義国対権威主義国といった単純な二項対立構造にとどまってはいられないということであろう。
70か国をこえる選挙と「民主主義の危機」
◇ もともと「民主主義の危機」として普通に認識されていたので、やや枕詞的につかわれすぎた観もあってか、いざという段にはゆるゆるとした脱インパクト状態に陥っている。ではあるが、危機であることは変わらないのである。おそらく資本主義体制にあっては民主主義はつねに浸潤されていくのであろう。
さて、権威主義国である中国への対抗上、日米はインドの戦略的価値に着目し、インドを民主主義国の中核に招きいれたが、インドの選挙についてはグレー域がのこることから、バイデン大統領の主張の普遍性が保証されているとはいえない。あくまで概略的でイメージ先行と思われる。
という前提のもとで、1月13日の台湾総統選挙にはじまり70国以上で国政選挙がおこなわれるのである。選挙模様は各国さまざまであるが、高い確率で結果を予想できるようでいて、かなり不確実でありまた情勢において不穏な雰囲気もあるようで、結局ふたをあけてみないと分からないということではないか。
さらに、世界的に民主主義(国)の後退が懸念されており、台湾総統選のあと韓国総選挙、EU議会選挙などぞくぞくと重要な選挙がつづくが、各国における民主勢力の動向をはかるうえでも注目度が高いといえる。そして最大のものが11月の米国大統領選挙である。ということで、選挙イヤーイベントがサイクル化し、各国のそれぞれの結果がますます国際情勢に大きな影響をあたえることになるのである。
とりわけ、民主主義国の拡大を期待する先進国にとって、他国ではなく足元の選挙がリスクファクターになる懸念もあり、そういう意味では世界の民主主義国を中核とする政治構造の脆弱性が高まったともいえる。さらに、米国の大統領選にいたっては同盟国でさえ息をのむ思いなのであるから、皮肉なことに米国を震源地とする政治衝撃へのそなえを真顔で検討せざるをえない時代がきてしまったとの感嘆だけではすまされない事態となっているのである。イランなど反米をかかげる国々はこの際という衝動にかられるであろうが、それは世界広域紛争の引き金をひくことになるもので、先進国としては強く自制を求めるというのが当面の公式見解となるであろう。もちろん、これらの懸念は未然のことであるから、冷静な対応がひつようである。かように、国際情勢が国内政局に一等大きな影響をあたえるとの見方が一般化するのにさほどの時間はかからないであろう。
国際情勢が混沌とすればするほど、国内的には安定志向が強まる
◇ という問題意識をふまえながら、二大政党的政権交代などといった贅沢な議論のまえに、野党第一党の硬直化した方針に柔軟剤をかけるべしと思いこんでいるのである。また、これは今は消えてしまった日本社会党の故土井たか子氏や故堀昌雄氏の選挙に参加したころから始まる長いながい考察の結末としての終着駅ともいえるもので、かなり私小説的であることから公的にとりわけ立民の諸氏にだけは知られたくない筆箱の中身なのである。
ということで、あらためて憲法改正反対・安保法制破棄・原発廃止の基本方針を譲歩して、立民・維新・国民との連立協議にのぞむべきであるといいたい。もし無理である、できないというのであるなら、大きなかたまり論は無理であると宣言すべきであろう。
そこで、立民としてけっして憲法改正に反対なわけではないというのであろうが、それは欺瞞である。また、国民投票をふくむ改正手続きについての議論を促進させるべきである。さらにいえば、国会が発議し、投票で国民が承認するのであるから、議員に対する党議拘束を外すべきであって、議論はするが拘束しなければ、連立協議の障害にはならない、と思う。
二点目の安保法制破棄については、反対する気持ちが分からないわけではない。とくに、集団的自衛権についての解釈変更は政治的禁じ手ともいうべき臭さが残るもので、反対ののぼりを降ろすことができない理屈も分る。そこで、問題は2015年以降、これらの安保法制にしたがいわが国の防衛が現実に運営されてきたことも事実であり、その「現実に」というところに日米同盟の深化がピッタと嵌りこんでいるのである。だから5年たてばさらに深化するのである。破棄とは、この現実を消し去るということなのか、そのうえでやり直すということなのか。と考えれば破棄はできることではない。往事の安倍的手法は非難されるべきではあるが、現実を消し去ることができないことも事実である。
三点目の原発廃止はポピュリズムというべきであるが、民主政治の本質はポピュリズムに依拠しているので、それをもって非難することはできない。だから廃止を唱えることを批難する気はない。国民経済の発展と民生の向上をはかる方策が他にあるならそちらを採用すればいいのであるが、エネルギー資源の確保の困難さは日をおうごとに深刻化していると同時に、その不確実性もたかまっている。そういう現実をふまえれば、今日段階で目くじらをたてて議論するテーマとは思われない。すべての原発はいずれ廃炉となることだけは確かで、その点でいえば世界の原発は安全に廃止されなければならないといえる。たしかにドイツは原発廃止国の先頭を走っているが、隣国の原発に依拠しない前提で考えることも必要ではないか。また、EU全体としての気候変動対策との整合性もふくめ総合的な議論がひつようであろう。
という大雑把なとらえ方をしながら、政権を視野にいれるかぎり上述の3項目が立民にとって一丁目一番地の政策とする情勢にはないのではないかと思っている。もっといえば、現在の5パーセントほどの支持者ではなく、将来の20パーセントをこえるであろう予定支持者の期待にそった方向での政策変更にはやく着手することをすすめたいということである。
もちろん、このままりりしい批判政党の道を選択することもありうるとは思うが、そうであるならそのようにいうべきである。自分たちは政権獲得に一線をひきリスクをとらずに、時として鵺的にふるまっているにもかかわらず、他党が政権構築に汗をながしリスクをとろうとしていることに干渉するのは得策とはいえない。火急の折なお支持率が低迷する、というのには立派なわけがあるのではないか。
◇ 今回は「非自民非共産」というゾーニングによる野党結集がうまくいくのかというテーマで話をすすめているが、1980年代に統一事業に参加した経験から、「この指たかれと、一番大きい子が指を高々と掲げたのでは、小さい子はとどかない。だからしゃがむんだよ。」と教えられた。ということから、すこし強引ではあるが「もし、指を立てるのであれば、立民はしゃがむべきである。」といえるかもしれない。
今日では大きなかたまり論の阻害者は維新でも国民でもなく、しゃがまない立民である、という見方にも耳をかたむけるべきである。何が正しいかという点への強いこだわりを感じるが、このテーマはすぐれて政略的なものであるから、実現に軸足をおいた発想が有用だと思われる。考えられるさまざまな方法の中から実現可能性の高い順で選ぶべきである。
たとえば、3者の合意形成ゲームと考えれば、維新と国民に先ほどの3項目を受けいれさせることは可能性ゼロにちかいから、立民として挑戦するだけ無駄であり、時間価値をふくめ大損となるからやめたほうがいい。
しかし、このゲームは成功すれば3者に大きな配当があたえられるので、提案者である立民がゆずることですんなり出口にでられる構造になっている。つまり、立民の譲歩の結果により3党連立政権構想が合意できれば、次回総選挙では勝利の可能性が高くなると思われる。つまり、ゲームとしては高配当が期待できるといえる。立民の立場でいえば、何かキツネにつままれたように受けとめていると思うが、ビジネスの世界では普通のことである。たしかに党内世論をかんがえれば、このような譲歩がむつかしいものであることは当然であるが、3党のうち譲歩できるカードをもっているのは、立民だけである。もっとも維新は原発ゼロを受けいれる余地を持ってはいるが、気候変動やエネルギー資源の高騰を考えれば受けいれないであろう。国民はもっとも譲歩の余地がなく、これは連合を介して何回も試みられた合流の経緯によるもので、結局のところ硬直的対応しか手がない立場にあるといえる。
ということで、立民が大幅に譲歩するのが唯一の解決策すなわち成功の道といえるのである。たしかに党内からは支持者の反発をおそれる声がでるとは思うが、政治的統合というのは、大が小にすべてを与えて呑みこんでいくことである。それをケチな条件をつけるから逃げられるのだ。これが「与えることは取ること」の真意である。
いまここで、3党が3項目を洗いながした形で、連立政権合意にいたれば、有権者はいかに反応するであろうか。おそらく2025年の衆参同時あるいは同時期選挙しか与党に打つ手はないであろう。また、政治改革の内容と進展によっては公明党が連立から離脱せざるをえないかもしれない。ということで条件が整えば2025年夏には政権交代が実現する可能性があるというのが筆者の政局予想である。もっとも妄想性の高さは否定しないが。
◇ 異論なり反論があることを承知のうえで、政権交代の条件式が前述の3項目を洗いながすことであるとの提起をおこなったが、それは論理的にはそうとうに単純なものといえる。
現在の国民民主党が2020年9月の旧両党の合流にあたり同一行動をとれなかった最大の理由が理念的政策的違いであったこと、さらに日本共産党との距離感の違いもあって、やむなく別流を選択したことを考えれば、立民として両党の違いとして認識されている事柄に対し多少の譲歩もなしに今日段階における連立結集が成功するとは毫も考えていないであろう。簡単にいえば、2020年9月の合流はその意図は妥当であったとしても、理念的政策的すり合わせにおいて点睛を欠くといえるもので、今日の両党協力に齟齬をきたす原因になってしまったといえる。前述の3項目に象徴される理念的政策的な違いについては、正面から議論すれば抜き差しならないものであることはじつに明白である。
2020年9月までになぜ克服できなかったのかと当時の関係者を難詰したいぐらいであるが、当時の事情があったのであろう。また、連合首脳までがくりだしての調整であったと聞けば、沈黙するしかないというべきである。とはいえ、その時点で今日における両党の理念的政策的反目については容易に予想できたとも考えられるのである。この時点で、政治的平行線が敷設されたともいえる。当時は筆者もこの並行線を交差させることは不可能であると失意感さえ覚えたものであるが、すでに2021年10月には総選挙、2022年2月にはロシアのウクライナ侵略などの重要イベントを経験するなかで、中国の覇権主義の激化や北朝鮮の核化などわが国を取り巻く情勢がさらにきびしさをますなかで、最後のチャンスとしての野党協力の可能性についてのいささかの議論として「非自民非共産」のゾーニングを条件とする立民、維新、国民の3党による連立政権の可能性、すなわち政策的あゆみよりの余地について、空想段階ではあるがテーマとして浮上しているのではないかと思われるのである。
寿限無寿限無のような長いだけの口上になったが、筆者は3党協力を熱望する立場ではない、いままでの主張もそうであった。むしろ令和政治改革による与党の抜本的な改質によって中道政権をめざすべしとの考えの方に傾いている。だが、いきなりその方面の議論に走ることは、経過からいって均衡を欠くものになると承知しているので、今回、立民の大はばな譲歩による3党協力のひとつの可能性を提示したのである。
◇旗開き悲観つよめる能登羽田
加藤敏幸
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