遅牛早牛

時事雑考「ネタ切れ芸人化した政党への処方箋-遺伝子組み換え?」

(満月に酔ったわけではないが、酷暑の疲れのせいなのか例の妄想に見舞われることが多くなった。不安と倦怠が同居する今どきの政治におそらく妄想で、心の均衡を保っているのであろう。「足して二で割ればちょうどいいのだが」といってから愚痴る会はいつも解散となるのだが、近年の遺伝子操作をつかえばそういうことができるらしいのである。妄想の種はいつも政党への「なんとかならないものか」という愚痴が発端であった。まあ、良いとこどりは凡人のご都合主義といえるが、遺伝子組み換えによる政党の改造は有権者のかなわぬ夢かもしれない、と書けばすかしすぎであろう。気にいらないのであれば、政党改造に着手すればいい、それが有権者の権利というもので、、、。

 舞台はまわる。大陸は動く。事態は変わる。ひとつとして繋がるものがないのに、同期しているかもしれないが、誰もそれを知覚できないとしたら、なにも起こっていないことになる、のかと意味不明な文案が鼻だれのように落ちてくる、月を眺めすぎたからなのか。

 ところで、地球の温暖化もたとえば富士山が大噴火をおこせば噴煙などが日照を遮り低温災害を引きおこすので、すくなくとも温暖化が足ぶみ状態となる。祝うべきか。あるいは期せずして地球が寒冷期に入るとしたら、人類はふたたび石炭を焚くであろうか。

 さて、筆者は資本主義の暴走、社会主義の堕落、民主主義の危機という三題噺を枕にしてきたが、いよいよ啓蒙主義の怠慢、自由主義の閉塞を追加すべき事態となってしまった。で、もうやめた。もっとましなことをいうべきではないかと反省している。

 最後に、インフレは完全泥棒である。日銀は目こぼしをしている、泥棒が増えるまでは捕まえなくてもいいと。昨今のご時世をいえば、金融資産をもたない人びとは今や棄民状態にあるといえる。だから、強力な再配分をやらなければ気分は一揆状態になるぞ。何で真面目にやらにゃならんのだ、俺たちだけが。危機は風にのってやってくるから足音を立てない。ここは気をつけたほうがいいよ、と警告しておこう。例によって文中敬称略もあり。)

9月の内閣改造は不発、高い不支持率がつづく

 9月13日の内閣改造が岸田氏の目論見からいえば失敗であったといえる。目論見とは支持率の回復、つまり支持不支持の均衡にあったと推測するならば、せっかくの改造は空砲におわったといえるのではないか。さらに、新任大臣のいわゆる身体検査や初期故障のリスクを考えれば、これからの話ではあるが空砲どころか「やらなければよかった改造」といった声がでてくるであろうし、そうなれば党内的に厄介なことになりかねない。

 アンケートに回答する側には歴とした理由があるのだから、今回にかぎらず低い支持率には不思議な点はひとつもないといえる。だから、その理由を解明できないのであれば、政治家としては失格というべきであろう。有権者に理由なき不支持というものがあるとは思えない。

政権運営に有利な条件があるのに、どうして不人気なのか

 岸田氏は3枚のラッキーカードをもっている。税収増と野党の不協和と中国の強硬姿勢である。かるく70兆円をこえる税収と20兆円ちかい繰越金は政策の裕度をささえるうえで文句なしにプラスといえる。(2009年に発足した鳩山政権時はリーマン・ショックの影響をうけ40兆円を下まわった。)

 また、過日の国民民主党代表選で玉木氏が再選されたことから、「野党における大きな塊」論の進展がなくなり自公としてはひと安心であろう。

 さらに、処理水ひとつについても政治的いちゃもんづけに終始する中国外交への違和感あるいは嫌悪感は、まわりまわって政権をあとおしするもので、仮にこれがなければさらに数%ポイントほどは支持率が下がっていたと思われる。ロ朝接近も同様であろう。近隣国との緊張が高まることは今の自公政権にとってはプラスに働くように思われる。

 で問題は、にもかかわらず支持率がひくいのはなぜかということであるが、それは多くの人びとが「昨日よりも今日のほうが生活が苦しくなったが、明日はさらに苦しくなるだろう、○○○○○!」と感じているからで、カッコ内の伏字に意味がある。たとえば、「なんとかしろ」には少しばかりの期待感があるが、「しょうがねーな」はあきらめ気味で、「バカヤロウ」は反発・反抗である。このように情動(感情)表現をくわしくとらえないとほんとうのところが分からず、政治的にはあまり役にたつものとはいえない。まあ、一連の低評価は生活実感にもとづく意見表明と解釈すべきであろう。

 とくに、家計が物価に押しつぶされている現状について、「政権(政治家)は本当のところが分かっていない」と人びとが感じているところに問題があるわけで、これは統計ではなく、実感の問題なのである。だからエッフェル塔をバックにした記念写真を見せられると無性にむかつくのではなかろうか。神経を逆なでにされたということである。政治の本質は、感情の交差であり情動がそのエネルギー源であるというのが永田町の定説であるから、政権としては減税などで民心の慰撫に腐心すると思われる。

 こういった世間の評判に、急ぎテコ入れするためなのか9月25日、物価と賃上げに焦点をあわせた経済対策がうちだされ、5本の柱がしめされたものの、項目表示だけで中身はこれからということで、こういったところが不人気の理由であろう。せめてガソリン価格のトリガー条項を10月から適用するぐらいのことをいわなければ、人びとはおさまらない。という切迫感が欠落している。これでは、のほほん内閣といわれてもしかたがないであろう。

 せっかく3枚ものラッキーカードをもっているのに、臨場感と切迫感を欠いているものだから、何をいっても信用されず、とうぜん期待感も高まらないということであろう。

 ただし、不支持率が高い状態を放置すると、党内政局にみまわれる可能性が高くなるので、攻撃は最大の防御であるから「師走選挙」をぶつけてくるかもしれない。そうなるとギャンブルであって、大義なき迷惑解散となるから、生活苦の責任追及として不満票が投じられるかもしれない。

 「減税が解散の大義になる」のであれば、構造的買収政策ではないかといった批判が渦巻くであろう。さらに与党の一部ではいまでも解散論がくすぶっているもようであるが、仕事もせずに自分のことだけを考えていると有権者が受けとめれば「お仕置き心」に火がつくかもしれない。いずれにせよ自公が政権を失う情勢にはないと思われるが、議席減の可能性があるかぎりギャンブル選挙はやらないのが一番、であろう。それは岸田失脚をねらう罠かもしれない。

 ところで、10月22日投票予定の衆参補欠選挙(衆長崎4区、参徳島・高知区)が注目をあびている。そもそも結果が解散総選挙の判断基準になるとは大げさであろう。二つの選挙とも与野党対立となっているからわかりやすいので、メディア好みである。いずれもサンプリングとしての条件を欠いている。なんといっても自民党が内々におこなっている小選挙区ごとの動向調査が中心である。ということで報道のための選挙となりつつある。これも一種のあおりであろう。

来年9月の総裁選を軸に政局がつくられていくが、ストレスが高まると暴走するかも

 岸田政権が来年の9月をこえて存続できるかどうかは今のところ定かではない。筆者としては、小泉政権よりも労働を大切にするという点で相対的に評価している。安倍政権、菅政権との比較はにたりよったりという意味でむつかしい。率直にいって、賃上げあるいは最賃への対応は改善されてきたといえる。といっても、そういった外部からの評価が党内論議に影響をおよぼすことはないであろう。しかし、今日のわが国の経済的衰退の原因が長年にわたる賃上げ不足にあると考えるならば、政権政党として労働への分配に正面から取りくむべきであって、そのためにも労働団体や経済営団体とは密接に交流するひつようがあるといえる。

 また、政労使の対話促進が時代の要請であることを理解しているのであれば、もちろん選挙を離れてのことではあるが、多角重層的に意見交換などの交流を活発化したほうがいいに決まっている。そういう視点でいえば、岸田首相が10月5日の連合大会に出席し、賃上げを中心とする労働条件の改善などについて積極姿勢を示したことは時宜にかなうものといえよう。もちろん、これは入口の評価であって、結局全国的にどれだけの賃上げが達成できたのかという出口の評価はこれからであるが。

 こうした動きに対し、たとえば立憲民主党の一部からは分断策であるといった批判(ぼやきかもしれないが)がもれてくるのは一面しかたがないと思っている。しかし、後ろむき感がつよく報道を目にした職場組合員からは、立憲も賃上げ応援団であるのだからポジティブに反応してくれてもいいのではないかといった声もでてくるであろう。これは報道自体に針小棒大効果というバイアスがかかっていることから生じているもので、少数の意見を継続して取りあげているうちに、党全体が不平不満分子の集まりのような印象がつくられるのである。おそらく少数の特定議員のブツブツ発言が選択的にとりあげられていると思われるが、そのブツブツといった声がとりあげられる度に、イメージ的に立憲は損をしていると思う。もったいないことである。

ネタ切れ芸人化していることが真の危機ではないか、つまり知恵の枯渇である

 さらに、政労使の対話促進ということでは、労働界においても旧来のしきたりにこだわらずに、いってみれば自由闊達に、さらにタブーをおそれずに発信することも、多少の条件がつくだろうが、きわめて重要ではないかと思われる。

 ところで、与党の中核である自民党はネタ切れ芸人化しているのではないか。この一言でプッツンするようであれば、はじめからサヨナラである。新ネタもないのに舞台で威張るな、虚心に人の意見を聞きなさいと、岸田さんのかわりにいいたいところであるが、自民党には画期という考え方がなさそうなので、新しいことをいう気にはなれないのである。

 画期というのは、たとえば安倍政権時代はどちらかといえば国家意識を個人よりも前面におく人びとを右派あるいは保守派として政治勢力の中心におくという1945年以降でいえば画期的な配置をおこなった点で安倍氏の行動は革新的であったと思う。残念ながらその方向は筆者の価値観とはズレているもので、賛同することはできなかったが、そういった価値観があることを認知することにやぶさかではないのであって、過度に重視することには議論があるという立場であった。もちろん、そういった右派あるいは単純保守派に居場所を用意することに政党としての合理性があったとしても、たとえばLGBTの議論において自民党内の伝統的家族観を主柱にした保守的価値観がLGBTをどこまで受けいれることができるのかについては、ただの保守政党であるならまだしも政権中核政党であるかぎり、基本的人権の延長線上にある人権としてLGBTを正面からとらえなければ民主主義国としての体面をたもつことができないという文脈において、そのことを回避することは難しかったといわざるをえないのである。いってみればしぶしぶの受容であって、そんなことでさらにすすむことができるのかという疑問は依然として残っている。

 という事情があったとしても、これは岸田政権による画期であったといえる。しかし、LGBT法案の最終処理にあたってはいささか紛乱気味にみえたし党内議論はまだまだ続くと思われる。しかし、画期は画期である。

新しい資本主義が画期となりえるのか、すこし「ちまちま」してきたぞ

 同じように、「新しい資本主義」が資本に対する労働の価値の向上を意図するものであるなら、おそらくこれからの議論の中でその脈筋がかならず現れてくるであろうから、その中身によっては自民党の価値観の遷移を意味することになると思われる。もちろん、こういった判断は慎重におこなわれるべきものであるが、重要な画期となる可能性についてはすなおに受けとめるべきであろう。

 という、これも例によっての妄想ではあるが、情勢の変化にあって自民党が政権政党でありつづけるためには、いつまでも資本優先の価値観にしがみついているわけにはいくまい。時代を展望するなら労働優位の価値観を導入するひつようがあるわけで、この点についての党レベルでの認識が自覚的であるか無自覚的であるかは措き、資本が大衆に対し酷薄非情な本質を有していることを十分理解し、さらに資本主義市場経済には国民の福祉に貢献しえない、というよりも仇をなす側面があり、また経済活動では貧富の格差がますます拡大しているという不都合が内包されていることなどについて、従来の自民党にはない感受性を開拓しなければ少なくとも労働者の側に立つということにはなりえないであろう。

 同様の文脈から、多数を制すべき選挙において労働をないがしろにすることはおそらく禁忌事項になるのではないかと思われる。禁忌事項といってしまうとやや表現過剰の感じがしないでもないが、数年後にはほぼジャストミートな表現であったと認識されると思う。というのは、羊頭をかぶっても羊にはなれないから、せめて禁忌事項を設けることで羊たちの逆鱗に触れないよう自らを戒めるということが、労働者の支持をかためるためには必須のことであるといえる。

自民党の民間労組への接近の歴史は古い

 さて、保守政党として政権の座にあった自民党が、民間とはいえ労働組合を政治パワーとして、さらに敵対対立関係ではなく協調協力関係として認知していく流れは、半世紀前から静かにはじまっていた。とくに自民党が単独で政権を維持することができなくなったころから、党内イシューとして浮上していたのではないかと考えている。もちろん選挙対策上の動機が主であったことはたしかではあるが、組織化された労働者に対して、自民党の公認候補に投票することの意義なり便益を公開の場でうまく説明することは、思われているほど簡単なことではない。まして歴史的に水と油に近い関係の両者を、一体どういう理屈をたてれば結びつけることができるというのか、まさに政治的難事であるから、それにはひと工夫もふた工夫もひつようであったということであろう。

 そこで、たとえば1970年代後半には、民間労組の政策・制度課題への関心がたかまる中で「政策推進労組会議」などの活動が活発化し、対政府要請とあわせ、各政党に対しても選択的ではあったが要請行動が展開された。その流れをひきつぎ、さらに労働戦線統一へむけて「全日本民間労働組合協議会(全民労協)」が1982年に発足し、多方面にわたる政策・制度課題を重点分野として活動を活発化させていった。もともと、制度政策については賃金などの主要労働条件に付随する項目として、社会保険などを中心に要求化がすすんでいたが、労働者のための政策・制度要求として本格的に取りくんだところが新機軸であったといえる。

 といった労働界の新しい動きに当時の自民党が少なからず影響を受けたことはまちがいないことで、いわゆる55年体制の膠着性のなかに閉じこめられていた労働界への接近を、たんなる選挙戦術上の思惑だけではなく、国家経営に労働者の意向を反映させるというすぐれて先進国的な装いにひかれて、憲法や安全保障分野でキリキリと対立するのでなければ、新しい人たちと生産的な議論をやってみてもいい、あるいはやりたいという意欲が議員レベルにおいても生まれていたということであろう。もちろん、個々の議員の思惑としては選挙への助勢があったことはいうまでもないことである。

 ことほどさように、疎遠ではなかったのである。そういえば、1987年の全日本民間労働組合連合会(民間連合)の発足にあたり、当時の竹下首相が大会レセプションに出席し、「...抱きしめたい...」と発したが、その言葉を耳にしたときの吃驚を今でもおぼえている。民間連合は名前のとおり民間労組だけの団体であった。この時点で、2年後に官公労組との合流が成就するとは一般的には思われていなかっただけに、抱きしめたい空気もありえたのかもしれない。

 逆に、官公労組との合流が4年後の1991年であったならばどうなっていたのかと思えば、やはり2年後の1989年が最善であったとの意を強くするもので、かりに合流が4年後であったなら、官民統一が不首尾におわっていたかもしれないわけで、当時の指導層の的確な判断に対し脱帽するばかりである。

 とくに官公労組としては、民間による先行期間が4年もつづけば「...抱きしめたい...」勢力からの接触あるいは誘惑行為がつよまることを警戒しての判断であったのか、もちろんさまざまな要因が考えられるので単純化は避けるとしても、今となってはわからないというべきであろう。ともかく官公労組としては政府との関係はさておき、自民党と民間労組の接近あるいは接触についてはそうとうに神経質(ナーバス)になっていたと記憶している。

選挙区調整がむつかしいという玉木発言をどう解釈するか

 あれから35年、永田町では国民民主党の連立政権入りが政局イシューとなるなど、重要政策の整合性だけではなく人間関係をふくめさまざまに語られている。そのなかで、筆者には玉木代表の選挙区調整がむつかしいとの指摘がスッと入ってくるのである。それは十増十減にゆれた自公の関係をみれば明らかであろう。所属議員・予定候補者の議席獲得をさまたげる方針はかんたんには受けいれられないということである。筆者は過去に「一再、二金、三党、四理、五政」が議員の通常の価値序列であると述べてきた。なによりも優先されるのは議員をつづけることであるから、所属政党でさえ選択の対象となるのである。ということで、再とは再選であり、以下資金、政党、理念、政策とつづく。もちろんそうでない議員も少なくないが、どちらかといえば〇〇を選ぶという回答を本音ベースで集大成すればそのようになるというのが、筆者の考えである。良い悪いということではない。あえていえば自己保存の法則であろうか。人類共通の原理だと思っている。だから、大政党といえども現職議員の意向を無視することはできないのである。

 そういった、国政全般からいえば議員一人ひとりの議席の確保という小さなことが、大きな構想にとっての最大の関門となるのであるが、その関門の土台となっているのが小選挙区制なのである。したがって巷間ささやかれている国民民主党を支援する民間産別(労働組合)の自民党候補への応援問題も、自民党の期待とは無関係に小選挙区制を前提に議論されるもので、中央に対しては地方あるいは地域のそれぞれの事情が優先されるはずのテーマになると思われる。その場合の原則は「ダメな人はだめ」という地方・地域の自己主張の貫徹であり、同時に中央方針の尊重ということであろう。この地方・地域の自己主張の貫徹と中央方針の尊重とは、時として衝突するもので、とくに国民民主党支持の民間産別の地方組織は連合の地方・地域組織の構成組織であることから、どちらかといえば円滑対応に腐心することになる、いってみれば近所づきあいを考慮しながらの対応とならざるをえないのである。つまり、宥和的な対応にはしりやすいといえる。

 しかしながら、小選挙区制の当選者は一人だけというルールがきびしく立ちはだかり、宥和的な対応を拒むのである。旗幟を鮮明にすることが、選挙以外の重要なテーマでの連携になんともいえないわだかまりを生むのであるから、分裂した選挙への対応は地方・地域をささえる労働組合の役員にとって忌々しいものと感じられるであろう。

 政治活動への取りくみの意義はひろく理解されているが、取りくみが快適でなければどうしても後まわしになるのが人情というものであろう。そうならないためには、構造つまり政治活動優先の流れをつくらなければならないが、それよりも選挙制度の不備をうったえる方が近所づきあいとしては上々であろう。 労働運動はもともとネットワーク指向であり、助けあいであるから屹立した関係を好まず、同調行動に傾きがちである。

 ということから、連合が支持政党において並立状態にあることを合理化する方便として、すべての悪弊が選挙制度に由来するという主張に集約される可能性も小さくないと思われるのである。そういう日がくるかもしれない。

 ということで、連合が2党並立支持であるかぎり、小選挙区あるいは実質1議席を争う小選挙区状態では選挙区での調整が必須のものとなり、調整がなければ2019年の参院選静岡選挙区(当時の国民民主党現職に対して立憲民主党が対立候補を擁立したが落選し、両党間に禍根をのこした)の二の舞になるおそれがあると思われる。

 この静岡の変(筆者)は、現職に対し新人をぶつけるという事実上の敵対行為をとったことから、政党の攻撃性を象徴する出来事であったといえる。2党並立はやむをえないとしても、友党であってほしいという連合の期待はうち破られたといえるわけで、下世話にいえば連合の顔に泥を塗った政党が連合からの支援を当然のものと考えているところに曰くいいがたい不快感を覚えたのである。このあたりからよく分からない世界に入っていったと思っている。

 また、比例区における分裂損の発生が連合首脳に大きな衝撃を与え、このことがあらためて大きな塊をめざすという動機を生んだものと思われる。

 翌2020年9月の立憲・国民合流が連合の仲介(汗かき)で成就したものの、完全合流ではなく現在の玉木国民民主党との2党体制というかたちは変わらなかったことから、国民の目には大量の議員移籍としか映らなかったもので、残念ながら新しい政治潮流をつくるにはいたらなかったのである。

2023年10月の総選挙での立憲民主党の敗北は「大きな塊」の否定なのか

 これも2021年10月の総選挙における立憲民主党の議席減の原因のひとつであったと思われる。もちろん6月に共産党からでた連合政権話などが主因であると思われるが、右(みぎ)翼を切りはなしていた枝野政権構想に民意が蝟集(いしゅう)することには無理があったということであろう。

 もともと憲法をはじめ安全保障やエネルギー政策において路線上の違いが大きいことにくわえ、人的融合においても信長的ではあったが秀吉的ではない政治手法の蹉跌といえるもので、筆者の勝手な感想ではあるが、なかなか天下人が育たない政党ではないかと思っている。

自民党候補を民間労組が応援する可能性は、水面下の動きにとどまるのか?

 ここで自民党候補を民間労組が応援する可能性について整理をすれば、現状において、先ほどの民間産別(地方組織)の自民党候補への応援は、あったとしても水面下の動きに限定されるものであり、労働組合的にいえば機関討議を経ない方針は方針ではないことから現実にはありえる話ではない、といえる。 

 もともと民主的運営を旨とする労働組合においては、新規方針などは策定から職場の意見集約まで最低でも2年はかかるもので、2025年の参議院選挙でさえ間にあわないことになる。

 まして、いつおこなわれるかわからない総選挙(衆院選)については簡単には対応できないといえる。また、民間労組のほとんどはユニオン・ショップ制をとっていることから組合脱退は原則解雇となる建前であるので、争訟対策からも民主的運営あるいは活動についても十分な説明が求められているのであるから、とくに政治マターについてのトップダウンは困難である。それどころか、運動の範囲と活動内容については全組合員の意向を慎重に忖度しながら方針を作成しているのが実態のようである。

 すこし感想を述べれば、上述のように苦労しながら自民党の候補者を応援できるようにしつらえていざ実行したとして、どれほどの価値のある議員なのかという疑問がついてまわるし、それ以上に不祥事が多い。さらにまともに説明ができない者もいて、当選してからの後始末が大変であると誰しも考えるであろう。推薦提案した者にとって、責任のとりようのない事態のないことの保障がないのであれば「やめといた方がいい」となるであろう。もちろん、自民党が正真正銘の労働者政党になるのであれば話は別なのだが。

労働運動はそもそもネットワーク重視で、近所づきあいを大切にする傾向がある

 労働界における近所づきあいのウェートが高くなると変化のスピードが落ちると(なんとなく)一般化できる。つまり革新性が低くなるのである。大昔、労働組合が革新勢力の一角に位置づけられていた。それはマスメディアの分別処理の都合からうまれたもので、おそらく支持政党区分から類推されたものと思われる。正直なところずいぶん粗雑なものであったといえる。とくに中道政党をながらく支持してきた労働組合団体が厳然と存在しているのに、まるで55年体制をそのまま引き写した保守対革新という2項対立図式を敷石にして、労働組合を革新勢力にかってに組みこんだものだから、いってみれば中道の芽のうえにコンクリートブロックをおいたようなものであった。報道による固定観念化が現場の労働運動の選択肢を狭めた面もあるのではないかと思っている。

 本論にかえって簡単にいえば、労働運動の大綱は労働者の権利や利益を守る点において守旧性が高く保守的であり、権利や利益を拡大する点においては進取性が高く革新的である。この二面性は課題や状況によっていれかわる。

 さらに、国際労働運動の中心は国際自由労連であり、連合はその主要メンバーである。現在郷野晶子氏(連合参与、UAゼンセン出身)が会長をつとめている。また、わが国は国際労働機関(ILO)の設立メンバーとしてその発展に尽力してきた。といった国際労働運動のネットワークが果たす役割はますます重要になると思われる。とくに、国際自由労連は労働基準あるいは人権では進歩的ポジションにあり、わが国の労働運動への影響は小さくはないといえる。

労働運動を活動域によって類別すれば

 さて、わが国で労働運動といったときに、文脈上すこし整理をしておかないと多少の混乱を生じさせるおそれがある。そこで、労働あるいは労働者にかかわるさまざまな動きを風呂敷で包みこんだ総体概念としての労働運動を1類、連合などの労働団体を中心とした、主体が明確な労働運動を2類、産業別にとりくまれている労働運動を3類、企業あるいは企業グループを活動域とする企業域労働運動(企業別)を4類、都道府県域あるいは広域行政域または単位行政域での所在労働組合(地方組織、支部組織をふくむ)による労働運動を5類として、筆者は手元の作業をこなしている。2、3、4類と5類の相当部分については系統化された組織によって担われているもので、それらの活動資源は労働組合役職員、活動家(組合員)、労働組合費がほとんどである。労働組合費については連合・連合総研による「第20回労働組合費に関する調査報告(2021年11月実施)」に詳しい。この調査にもとづき、1~5類の労働運動へどの程度の資源が投入されているのかについては、労働組合費の流れから概略を把握することができると思われるが、これについては後日のテーマとしたい。

 総論としては、労働運動の影響力調査という分野であるが、大きな話のようではあるが、わが国の2022年全国推定組織率が16.5%であることから、運動の規模、影響力などにおいて圧倒的な存在とはいえないというのが一般的な認識であろう。しかし、最賃・賃上げなどがはたす役割を考えればけっして埋没運動ではなく、十分であるかどうかは別にして、結果的に大きな社会的影響力をもつ運動であるといえる。

現在の連合に対する評価はややうわすべりではないか

 もし、労働運動に対し実力を超えた評価が世上に流れているのであれば、それは2007年夏の参議院選挙からはじまる民主党政権ものがたりのインパクトが強かったことから、とくに連合を中心とした労働運動をヒーロー視した伝説が当事者や関係者において喧伝されたあたりに原因があると思っている。しかし現象としては2回の国政選挙にかぎった事例であって、さらにそれは呼び水効果はあったが、流れた水の総量ではなかったということであろう。ちなみに組織労働者数は約1千万人、その70%弱が連合系であるが、最大700万人弱の組合員がこぞって運動に参加したわけではない。たしかにムードは高まっていたが、行動はかぎられていたわけで、民主党政権誕生の主力は有権者全体におよんだ自公政権への失望と政権交代への期待であったというべきであろう。

 もし、労働運動(連合など)に選挙への大きな影響力があるのであれば、2010年参議院選挙から2012年総選挙、2013年参議院選挙、2014年総選挙などにおいてもう少しましな結果がえられたのではないか、と思われるのである。それとも、労働運動内部に民主党政権の崩壊がもたらしたトラウマをかかえてしまったのか。ともかく、途方に暮れてからすでに10年の年月がついやされているが、いつまでも過去の栄光にとりつかれているのではなく、身の丈に合った運動をつくりあげることに専念したほうが現実的であろう。いつまで政党のスポンサー気分でいるのかしらと思うし、報道機関の政治部発のバイアスのきいた政局観からは距離をおいたほうが労働運動体の健康にはいいのではないかとも思う。

[ ここでの労働運動は、おおむね2類、3類を中心に、さらに具体活動をささえる4類と5類をくわえたものとしてイメージしているが、報道されている多くは2類すなわち連合など(などには全労連他をふくむ)での話題にかぎられているといえる。また3類では産業別組織ごとに支持政党が立憲民主党、国民民主党、共産党の3党にほぼ分別されている。したがって4類では加盟する産業別組織の色分けの範囲で具体活動の程度を自主決定していると思われる。

 5類は、組織系統の縦ラインでの方針に従っていることから全国模様のミニ版といえる。ときに、地方あるいは地域事情において、縦ラインとはすこし異なる具体行動をとりうるケースが発生している。それらは事前調整を経ての近所づきあいマターとしてあつかわれていると思われる。このレベルでの活動が運動総体の総熱量を決めるもので、いくら理屈をこねても燃えあがらなければ運動は失敗なのである。まして理屈(理論武装)においても「大きな塊」以外に組合員の気持ちを鼓舞する政治参加論が用意されていない現状では、2007年から2009年までの超高熱量をこえることにはならないと思われる。とくに「大きな塊」論はあくまで選挙戦術論であって、政党と議員のための方便だと受けとめられている。ということで、それはすでに限界なのである。

 まとめれば、労働運動の熱量(エネルギー)の多くは4類の領域にたくわえられている。さらに、4類における政治活動への凝集力は現在のところ弛緩気味であり、あらためて政治価値について整理をしなければ大きな力にはならないと思われる。]

さて妄想を思考実験するが多くは「ありえへん」話である

 ところで、前出の玉木発言はかなり意味深長なもので、たとえば現職もふくめて国民民主党の予定候補者全員を自民党が推薦してしまえば、最低でもバーター的に国民民主党としてもどこかの選挙区ではお返しをしなければバランスがとれないという理屈から、包括推薦は無理としても部分推薦はありうると考えるべきであろう。もちろん、支援4産別との事前協議がひつようであるが、連合における中央・地方での近所づきあいを考えれば波風の立たない方式が選択される可能性がつよいので、おそらくは個別かつ限定的な推薦あるいは一段下の支持が視野にはいってくると思われる。

 こういった、いってみれば細やかなあるいはちまちました対応がお試しセットとして選ばれることは結構多いといえる。もちろん、何のためのお試しなのかと問われれば野暮な質問はやめてくれとはいえないから、現場での明瞭な説明はできないと思われる。産業あるいは業種によって雰囲気が異なるので、臨機応変の対応をせざるをえなくなるのではないか。悪ければ止めればいいし、良ければつづければいいということである。しかしながら、歴史的な政党支持の議論からいっても、そのような話し言葉の感覚で選挙区調整から生じた自民党支持という歴史的方向転換がスムーズに了承されていくのであろうか、といった疑問がつきないのであって、表向きは細やかなお試しセットであったのに、気がつけば歴史をかえる大門のかんぬきをはずすことになるのであるから、まず職場がまとまらないのが普通であろう。

 ここで妄想とクギをさしているのは、あまりにも影響が大きくしたがって被害も大きいことから、4産別の組織運営を配慮してのことである。そのうえで議論の相手は立憲民主党であり同党をささえる連合と産別を想定しているのであるが、憲法・安全保障・エネルギー政策などについての「このままでいいのか」という問いかけである。もちろん、立憲民主党の姿勢が変わらないことは想定内であるが、内部に議論がないわけではないだろう。焦点は同党をささえる連合と官公労系産別と民間産別である。連合には機微すぎるテーマであることから、簡単には動けない立場なのであろう。大げさにいうつもりはないが、1989年の現在の連合発足時に立ちかえる議論が提起されている。それが、10月6日の連合大会後の記者会見での玉木発言であったと筆者は受けとめている。「憲法・安全保障・エネルギー政策について議論してほしい」という玉木代表のレターのあて先は立憲支持の産別が主であろう。ここが一ミリも動かないのであるのなら、国民民主党として他の政党との連携を考えるしか道はないと、筆者がかってに翻訳してみたが、レターをうけとった側にすれば「何を今さら」ということであろう。じつをいえば2020年9月までにこなすべき議論であったと思っている。だから最後通牒になってしまうかもしれないのだ。

 ということで、玉木は強気すぎるのではないかとの批判がでるかもしれないが、つぎの総選挙は、習近平路線への評価であり安全保障のレベルをさらに上げるかどうかについて国民に判断を求めることになると思われる。米中の歴史的和解がないかぎり、わが国としてはっきりさせるべきであろう。

 先の国民民主党の代表選挙において4産別が玉木支持を変えなかったことが意味するのは「憲法・安全保障・エネルギー政策」については不動であり、さらに安全保障での対中宥和策には否定的であって、したがって日米同盟の強化は是認するということであろう。

 ここまで翻訳してしまうと身もふたもないうえに、立憲民主党との溝も埋まらないことから、ガチンコ勝負になるのであえて議論をすることもないということになると思われる。船はもう遠くに行ってしまったということである。

事態は変わる、次のステージへ

 そして、いつものことのように「つぎのステージへ」ということになるのであろうか。仮想のストーリとはいえ一方的な推薦とは非常にドラスチックな提起であるといえるが、仕掛けられる労働組合がどういう結論をだすにせよ、時間が足らないであろう。しかし、慌てることはないのである。むろん、このような非常識ともいえる提起は架空のもので、筆者のかってな作り話つまり妄想であることは重ねて指摘しておきたい。

 しかし、少なくとも自公国連立を口の端に掛けるのであれば、どのような選挙協力がなされるのかについては、たとえもちあわせがないとしても、ためらうことなくそのイメージぐらいは語るべきである。つまり、自公でおこなわれているレベルの選挙協力ぐらいはやって当たり前でなければ、連立構想といった脂っこい食事は喉をとおることはないでしょ、ということである。

 このように筆者がしつこくほじくってはいるが、自公国連立が指呼の間にあるとは思えないし、思ってもいない。近いといってもそれは山の向こう側のことである。とはいえ、玉木発言の解釈は「逆順によって通じる可能性を暗示している」ようにも思われるのである。逆順とは、議員・予定候補者の議席確保ができれば固い扉も開かれるということであって、すでに重要政策とか基本政策については車内通過しているということなのかもしれない。

 もちろん、そういう話があるということではない、断じてないのである。あるのは思考実験であって、その目的は予測であり、蓋然性の追求である。このようなことを年から年中つづけているのは、それほど暇なのであるが、そういった思考実験を重ねることにより、情報の分析を深め、予測の精度をあげていくのが狙いである。これをやっておかないとやすやすとフェイクにひっかかるのである。

 さて本論にもどり、このような求愛行動にも似た包括的な選挙協力のおしつけは、おそらく支援団体にも複雑かつ深刻な影響を与えるであろう。とくに、候補者が産業別労働組合の組織内候補という位置づけの場合、さまざまな波紋を生むことはたしかで、過半は「余計なことはしないで」ということであろう。しかし、選挙区事情によってはそうともいってはおれないことになるのかもしれない。

 また、民主党復古をめざす人々にとっては悪魔に魂を売るにひとしいことであるから、たとえば連合を分断するのかといった、魔除け呪文を唱えるであろう。しかし、非常に残念なことではあるが2017年の「希望の党政変(筆者)」いらい連合の分断がはじまっていることはまぎれもない事実であって、すでに5年余の時間が流れているのに、今眼前にあるのは二党それも仲の悪い二党による並立状態なのである。

 さらに、さきほどの選挙区(国民主党現職)に他の野党が候補者を立てた場合においては、まず当選をめざすということであれば、自民党の推薦は貴重なものとなるであろう。このおしつけ推薦というものにどれほどの現実味があるのか、筆者自身疑問を禁じえないのであるが、政治の世界はまさかの連続であるから油断はできないというべきである。

 逆に、たとえば立憲民主党がおしつけ推薦を提示すればどうなるであろうか。もちろん、現在の泉・岡田執行部のテイストとは大きくかけ離れた手法であるから間違ってもそうはならないと思うが、選挙協力を微視的に眺めれば選挙区ごとの事情を踏まえたうえでの「相手に塩を送る」ことにつきると喝破するなら、野党選挙協力の多様性には事欠かないであろう。政治的に中道ということは右にも左にも手を伸ばしうるということで、かなめ役を果たせるということである。

 異なるところをあげつらえばすぐに別れられる。同じところを養えばいつまでも共に歩めるわけで、自民党による分断策だと不満をいうよりも、敵よりもはるかに強力なメリットシステムを提示すればいいだけの話ではないか。最終的に決めるのは支持者であり、4産別の組合員であるから、その人たちの気持ちをつかみとればいいのである。仕掛けている自民党にも同じことがいえる。何を与えることができるのか、目録を見れば本気度がわかるというもので、「ちょっかい」だけでおわるなら未遂事案であるから、そろそろ幕引きではないか。「自党の議席を削るほどの胆力もないのにちょっかいだすなよ、オッサン」というのが関西風シメの言葉である。

連立参加は最後の最後、連携しながらも是々非々の対応が最善策と思う

 国民民主党の連立参加は世間ではさほどの関心事にはなっていない。どちらかといえば立憲民主党との決定的な決裂のほうに関心がよっている。それもそのはずで、巨大与党に20余の議席を加算して何かがかわるものでもないことから、世間では今さらの話となっている。ということで賞味期限は切れているといえるが、品質期限はまだまだ先のことで、波乱ぶくみの面もあると思われる。

 今回は思考実験という試みで選挙区調整について妄想してみたが、仮に自民党内での調整をまたずに強行すれば党内は大揉めとなり離党者がでるであろう。さらに4産別を取りこんだとしてもそれは「トロイの木馬」であって、いずれ党は割れる、であろう。よく考えなければならないのは、取りこむのは票というよりも運動体そのものであるから、いってみれば遺伝子の注入にほかならない。投票(者)に一定の傾向が生じれば政党はやがてその傾向に染まるのである。つまり、時間をかけて自民党の体質に変異をもたらすことになる。穏健ではあるが、4産別は歴史に鍛えられた労働組合の集合体であるからけっして侮ってはならない。

 と警告じみた言辞を吐きながら、なお二つのことを考えている。ひとつは伝統的な保守政党への労働組合による介入であり、もうひとつはネタ切れ芸人化した自民党の新しい血の獲得である。

 前者をいえば、この数年における立憲民主党的野党に4産別はおそらく絶望したのであろう。また、国民民主党の規模では未来を展望することができないことから、大きな力強い宿主をさがしているのかもしれない、たぶん無意識であると思うが。とはいっても、それほどに彼ら彼女たちが野心的であるはずがないと筆者は思いこんでいた。しかし、よくよく考えてみれば今日のわが国の衰退に対して、もっともつよい危機意識をもっているのは経済活動の最前線で日夜奮闘している彼ら彼女たちであるということから、切羽詰まった結論として「なんとかしなければ」と思いつつ、最適解を模索しているうちに、最大政党の部分乗っ取り案(表現が過激であるが)が浮かびあがってきたとしても何らおかしくはないと思われる。

 後者については、自民党内にネタ切れの自覚症状が確実にあるということで、衰退日本を生みだしたのは自分たちであるとは決して思ってはいないのであろうが、しかしその衰退に対する処方箋において、日常的に知恵の枯渇をひしひしと感じているのであろう。いくら権力を握っていても役立たずであることは隠しようがないのである。そろそろ異質な血統の導入を検討するべき時期にいたったとの思いがでてきているのかもしれない。

 知恵において枯渇、策において飽和であるから、外部導入もやむをえないということであろう。そう考える人にとって、4産別は光り輝いて見えるのであろう。

 まあ、一間(いっけん)先の針穴に糸を通すほどの難事であるから、もともと心配することも期待することもないと思うが、それでも今の一強多弱といった救いようのない政治空間に閉じこめられるよりはそうとうに明るい展開ではないかといえる。

 筆者的には、自民党が労働者の味方になるのであればいい話だと思うが、そうもいかないだろう。

 もう昔話となったが、2003年に民主党(当時の代表は菅直人氏)と自由党(当時の代表は小沢一郎氏)が合流(吸収合併)したものの、消費増税をめぐり党内抗争が激化し、2012年7月には小沢グループは「国民の生活が第一」と称する新党を結成し、民主党とは袂を分かった。民由合流は政権交代を実現したことでいえば功績大といえるが、その後の流れをみるかぎり民主党の政党基盤の確立にはプラス面よりもマイナス面が多かったというのが筆者の感想である。

 今日、民主党由来の二つの政党を観察しながら、経過のなかでおこった離合集散が政党に何をのこしたのか、また政党において継承されるべきDNAとは何なのかについて日々反芻している。

 

◇名月や家路の汗をそのままに

加藤敏幸