遅牛早牛

時事雑考「2024年2月の政局-政治と金から賃上げへ-」

【この時期、酒蔵がひらかれ新酒がひろうされる。秋に収穫された新米が仕込みをへて35日ほどで酒になる。灘、西宮、伊丹と近隣の酒どころでは蔵びらきに酒好きが列をなす。その一人としてならんでいる。ならぶことが楽しい。30分ほどで番がきて、利き酒セットを紙製ホールダーにのせる、そしてたかだか50ccほどをゆっくりと口にふくんでいく。多く飲むことがかなわなくなって久しいが、陶然とあたたかい海にしずんでいく感覚にかわりはない。ということで2月の生産性は低下してしまうのである。

 ところで、昨年10‐12月期の経済成長率がマイナス0.1%となり年率換算では0.4%の減速となった、尋常ならざる驚愕の落ちこみである。良くないとは思っていたがまさかマイナスになるとはと多くの専門家も驚きを隠せない、とか気楽にいってんじゃね~よ(失礼)と毒づきたくもなる。そりゃ実質賃金が前年比で2.5%も減少しているのだから、個人消費が失速するのも当然のことであり、個人消費がふるわなければ経済はマイナス成長となるのは必然といえる。だから経済専門家は想定の範囲内であったというべきであった。

 ゆゆしき事態の原因は「物価にノックアウトされた賃金」すなわち昨年の賃上げが不足していたことにあるわけで、まさにこの国の経営者の多くがケチで予見力がないことの証左であるといえる。

 といいながら、岸田政権の責任はひとまず措くことにする。それは、なんでもかんでも政府の責任にして一件落着とするマスメディアや経済評論家の無為無能ぶりをまずは浮きぼりにしたいためであって、政権政党にたいする責任追求はこのさい有権者にまかせて、ここでは反政権を装いながら、本当のところは自分ではなにも考えてない「ブルシット・ジョブ」にいそしんでいる連中にたいして最大級の罵詈雑言でなじりたおしたいのである。

 ほんとうに賃上げ不足であった。昨年の賃上げ率が連合や経団連また政府調査においても近年まれにみる高さであったことは事実ではあるが、それで充分ではなかったのである。本当は秋の物価上昇を想定し9月にも賃金交渉を再組織すべきであったと思う。大手のためではなく未組織、小企業のためにである。

 神経質な筆者の気分の反映のようではあるが、経済運営において、この時期年率換算で0.4%もの落ち込みは致命的とさえ思うわけで、本文でもふれているが、2024年の賃上げでは実質賃金の落ち込みをどこまでリフトアップできるのかが焦点となるであろう。とくに連合傘下の労働組合が要求満額を確保できたとしても国全体としてみれば昨年の物価さえもリカバリーできない可能性のほうが高いことから「岸田賃上げ路線」は逆風にみまわれるのではないかとじつは心配しているのである。経団連と連合は当年度の物価状況を見ながら年央にも追加交渉にふみきることを考えるひつようがあるのではと思う。

 なぜなら4月には5000以上の品目の値上げが予定されている。2月は消費の底である。消費者の不安が最高潮になれば1-3月の成長率がさらに下振れするであろう。また中小組合への回答は5月が山で、未組織、小企業での賃上げは夏場の最低賃金と連関している。つまり8月の実質賃金の水準次第では半永久的に雇用者所得の回復が見込めないという氷河期にむかうような雰囲気になるのではということである。

 そういうことで、賃上げの確証もないのに「物価安定目標2%」をかかげてきた日銀の能天気な庶民窮乏化策に怒りをおぼえるのであるが、与党や霞が関からそういった声がでないのはどうしてなのか、と首をひねっている。さらに経済政策では役にたたなかったということで与党の存在価値も疑われる季節にはいるのではないか。ということで、今回は「裏金事件」にゆれる永田町と賃上げへの期待を中心にまとめた。】

1.政局は予算委員会からではあるが、「裏金事件」は余分なことであった

 例年2月の政局は予算委員会から始まる。今年は「裏金事件」をめぐり例年にない盛りあがりを見せている。しかし、内容はまったくだらしがないとしかいいようがないのである。ルールの上では「収支報告書に記載しておけばよかったのに」ということであるが、派閥といった中間団体が「政策活動費だから記載しなくともいい(記載しないでほしい)」と指導していたものだから、事件化してしまった。政策活動費は党からのもので、派閥から支給することはできない。どんな指導があったとしても、記載要領書どおりに記載すべきであったが、それができなかったところに派閥と議員の関係がかいまみえるということであろう。

 自民党による議員アンケートから記載漏れの議員一覧がしめされたが、それは番付表にも似た壮烈なもので、すでに収支報告書の訂正がおこなわれたそうであるが、それで問題が解決したわけではない。また副次的に派閥解消のながれができたが「だからどうしたの」というのが人びとの感想であろう。派閥解消がどれほどの意義があるのか現時点では評価できない、むしろカラスの勝手といった印象ではないか。

 簿外金とか裏金とか、とにかく使い勝手がいいのであろう。とはいっても一覧表をながめると3000万円超からひと桁万円までずいぶんとひらきがあるもので、事情はさまざまであるということか。その事情について、岸田総理は説明責任をうながしている。一覧表に記載された議員一人ひとりが説明するのか、しないのか、またどういう場でどこまで説明するのかに焦点がうつりつつある。予算委員会から政治倫理審査会へ予想通りといえば身も蓋もないが、そういうことであろう。「政治と金」以外の課題が山積している。経済運営はじめ外交防衛や子ども関係さらに財政規律などきめられた時間の中で効率の良い審議を期待したい。

 一連の動きを政局的にいえば「安倍派処分」であり「長老追放」であると思われる。それにしてもマスメディアわけてもテレビの情報番組やバラエティ番組の「であれば、であれば」の積みかさね、つまり希少確率の重畳によるシナリオ展開の「あやふやさ」と「あやうさ」それに「あやしさ」には面白くはあるがそれだけに問題(将来の危険性)も感じる。数か月あとになると思うが、最終の利得者があきらかになった時点で番組がはたした役割あるいは仕掛けた存在の有無が見えてくると思う。もちろん仕掛人などはいなくて単純に流れるままであった可能性がもっとも高いと思っているが、どうなることか。

2.対外政策の議論が不足しているのが最大の問題ではないか、遅い

 指摘されている還流(還付)あるいは留保金については、政治資金パーティーの売上金が原資であることから政治資金であることは明白である。ルール上は後日の訂正を認めているのだから、訂正された時点でルール違反ではなくなる。という法律のつくりが不適切であるかどうかは国会で議論すればいいということであるが、いかなる改正をおこなっても遡及はしないということである。

 また、還流分を現金でわたしたと聞いているが「李下に冠を正さず」という次元において不適切といえる。どの世界においても現金でのやりとりはつねに疑惑をはらむものであるから、現金をさけるのが普通である。

 ともかく派閥の事務統括者の責任は重大であるが、いずれにせよ主宰者が死亡しているので、さらなる解明はむつかしいと思われる。

 「裏金」といっても金額の多寡をべつにすれば出所が明確な簿外金ということで、出所を隠匿しなければならない金種でないことがせめてもの救いといえなくもない。

 さらに、扱いのむつかしい点がある。使途が問題であることに異論はないが、そこに立ちいるのであれば全党、全議員にまで範囲を広げなければ中途半端におわる。しかし、検察の手がはなれた案件にたいし何を根拠に使途を開示させるのかという最後の決め手を欠いた状態での追及には限界があるのも事実である。とにかく報告書などの訂正は随時発生しているのだから、軽微な訂正もふくめて開示を求めるのか、また金額で線引きをするのかなど、焦点を絞るひつようがある。切り口をつけたかぎりは最後までやりとおすべきで、時間切れとかいって追求をやめてはべつの政治不信を助長することになりかねない。

 さらに、最大の壁が「不明」である。これは「記憶にない」に匹敵するもので、「不明であることが犯罪である」という法律でもないかぎり突きくずすことは困難であろう。自民党の評判を落とすだけの作戦なら有効であるが、それではいかにも昭和的であり、旧態依然とのそしりを免れないと思う。

 さて、野党としてきびしく追及しているうちはいいのであるが、衆議院予算委員会を3月まで引っ張るのか、年度内予算成立を阻止するつもりなのか、などなど国会運営上の課題も多々あることから、いずれ野党としての決断の時がくるであろう。

 政治責任については最終的に有権者が選挙で審判をくだすということで決着をみることになるのではないか。野党としても次期総選挙を念頭に有権者の判断を積極的に求めるべきであろう。

 ところで、以前にも指摘したが、今年は世界的な選挙イヤーである。主要国の国政選挙の結果がわが国にとっての環境変化になることから柔軟な対応がひつようとなる。公開の場ではできない議論もおおいと思われるが、情勢についての認識だけでも共有化するひつようがあるのではないか。外交安保、紛争への対応、防衛体制、エネルギー需給、気候変動対策など活発な議論がひつようであろう。そういう意味で、「裏金事件」は国会審議にとって通行妨害のようなものである。自民党として責任ある処置を早急にとるべきであろう。

3.2月は党大会の季節

 2月は党大会の季節でもある。野党は「裏金事件」を奇貨として攻勢にでているが、これも事件の影響をうけてのことといえるわけで、立憲民主党の泉健太代表は「金権政治の自民党を国家権力から叩き出す」と意気軒昂である。元気になったのはよかった、野党第一党は鼻から火を噴くぐらいでなければ、と思う。また、国民民主党もさすがに自民党とは距離をおくようで、たしかにトリガー条項についてはさんざんな目にあったといったほうがいいのであろう。内心それ見たことかという向きも多いが、何もしなければ何も得られないのであるから、小政党としてはひとつの挑戦といえるかもしれない。挑戦には失敗がつきものではあるが、ややギャンブル性がたかかった嫌いはいなめない。

 そこで、「トリガー条項は国民民主を立憲のほうに行かせないための策である」と解説する自民党議員がいるとかいないとか、出所が不明なのでそういう解釈もあるという程度にとどめるが、自民党としてそんな不実なことをしなくても国民民主党が立憲民主党に近づくには高いハードルがあるというのがこの業界の常識であろう。筆者も前の回で憲法改正、安保法制、原発の三大反対を立憲民主党が譲歩しないかぎり連立構想はむつかしいと記したが、いまのところ情勢に変化はないと思っている。

 立憲民主党の幹部としては「(国民民主党が)考え方を改めるなら懐ふかく」ということのようであるが、なにを改めればいいのかよく分からないという醒めた反応が大勢のようである。ぶっきらぼうではあるが別段悪意のある発言ではないと思われる。それよりも日本共産党との関係をどうするのかが気になるところである。選挙に神経質な党内ムードからして手を切る路線はないというべきであろう。いつものことではあるが、野党(選挙)協力というのはそれぞれに都合よく解釈するのが礼儀作法のようで、まずは「かいも~ん(開門)」のかけ声ありきということであろう。そういうものであって、先々を深く考えていたのでは始まらないということか。その理屈も分らなくはないが、先々を考えないところがこの国の政治の欠点だと思う。今回も同じことのくりかえしになるのであればいよいよ野党冬眠のはじまりといえるであろう。

 ところで、国民主党にとっての鬼門は、権力をにぎると金にだらしがなくなる自民党の金権体質であるから、これを機会にしっかりと希薄化しておこうという、国民民主党としての防衛機制がはたらいていると思われる。またいくどとなくふれてきたが、同党の与党化は2メートル先とはいわないが少なくとも50センチ先の針の穴に糸を通すぐらいむつかしいことである。個別政策やいくつかの選挙区での協力がバーター的にあるかもしれない。しかし、たとえば公明党的なポジションは無理であろう。その理由は支援団体には自民党に親和性をもてないところがおおいということで、単純なことなのである。野党として国会での共闘はとうぜんのことで、能登半島地震を念頭におけば対応はおのずから定まってくると思われる。

  

4.実質賃金が前年比2.5%もダウン!経済へのダメージが心配である

 実質賃金が前年比で2.5%も下まわっているというのに、政府も日銀も口先はともかくいい気なものである。この春の賃上げについてでさえ、日経連や連合の動きからいって状況は順調であると判断しているようであるが、それはとんでもない勘違いというべきで、表示されている引上げ率は定期昇給分をふくめているので、5%をこえる要求を満額獲得したとしてもベースアップとしては3%程度にとどまることから「2.5%もの実質賃金のへこみ」を埋めるのが精一杯ではないかと思う。

 しかも、2.5%というのは40分の1で、勤続年数40年を前提に年功賃金を設計すればちょうど一年分の階差にあたる。また、リース料でいえば(筆者の若いころは40分の1で即算していたが)2.5%というのは今日ではそうとうに高い水準である。ようするにキツイ、きつすぎるのである。たとえれば、いきなりの消費増税に遭遇したようなもので、ただちに倒閣運動がはじまっておかしくない状況といえるのである。いわんや内閣支持率がよくなることはないと断言できる。とくに、低所得層にとっては生活のきりさげに直結するものであるから、普通の政府であれば何らかの支援を速攻でおこなうであろう。6月減税で間にあうのか。「遅いです。足りないです」

 定期昇給分は個人としては収入増である。しかし、理屈のうえでは給与序列階梯の位置どりの移動からうまれる増分であって、階梯水準の上昇をともなわないかぎり原資増とはならない、すなわちベースアップとはいえない例がほとんどである。また、ときどきの人員構成(採用、異動、退職)によっては階梯水準の平均値が上下することがあり、その場合は原資の年次比較での増減をともなうが、厳密な比較検証がされているのか残念ながらよく分からないといえる。

 2.5%の実質賃金減とは統計による全体的傾向であって、個別にはさまざまな状況があるといえる。また、定期昇給制度を採用していない企業もおおく、とくに小企業においては都度の事情によって賃金改定が恣意的におこなわれることがおおいともいわれている。さらに、時給日給制の場合には地域の労働需給や時給相場の影響もあり、かならずしも実質賃金維持というモメンタムに影響されているとはいえない。そういう意味において、中央の賃金交渉とは系統が異なるものといえる。

 ところで、このホームページは労働運動の活動家のための「伝承」であるから、いわずもがなのたとえば「定期昇給」あるいは「賃金体系維持分」といった事項については説明をはぶいている。昔はそれでも良かったといえるのであるが、昨今では取材にあたる記者ですら不確かなようで、そういった取材端点での理解不足が報道内容に影響をあたえているようにも思われる。新聞紙はまだしも、ウェブニュースやバラエティ番組にいたっては、もちろん専門家の解説がはいるばあいは正確性や意味性が適切におぎなわれているものの、読者や視聴者において誤解や不明感がうまれる余地がまだまだあるように思えるのである。

 たとえば、物価上昇分を賃金交渉においてどのように扱うのかについては、「過年度方式」と「当年度方式」があるが、前者は確定数値(一部推定)であるが後者は予想値となるので交渉としては前者の過年度方式のほうが扱いやすいといえる。しかしインフレが常態化すると常に一年遅れとなり、景気後退がはじまるときの交渉ではどうしても取りそこねたという損失感がうまれ、おおきな不満がのこる。とくに、未組織や小企業領域では「賃上げとは遅く始まり早く終わるもの」との疎外印象が強く、こぼれおちた感じが賃金への期待感を減じている。ということから、消費拡大へのけん引力としてはどうしても弱くならざるをえないといえる。といった解説がひつようなのか、またテレビなどの視聴者になじまれるのかなど議論のあるところだと思う。

  

 さて、経団連と連合の舞台での賃金交渉がほぼ要求満額という成果を生みだしたとしても、さらに5月6月に賃金が毎月勤労統計調査速報において実質増に転じたとしても、その実質増分がいつまでもつのかといえば、まさに日々の物価との競争できまるといえる。その物価については、日銀が物価安定目標を2%としているのだから、理屈をいえば来年度中のどこかの時点でかならず賃金の実質増ゼロポイントが訪れるわけで、それが6月なのか8月なのか、あるいは10月まで粘れるのか、いずれにしても実質賃金が水面を上下しているつまり溺れかけているということになる。

 さらに、83.7%におよぶ未組織領域や小企業での賃上げがどの程度の成果をえられるのか、正直なところ見通しがたっているとは思えない。ということで、個人消費をささえる実質賃金が溺れかけているというのが現実であるといえる。こういうのを弱含みというのではないか。

5.個人消費は弱含みで推移-景気後退のリスク 好循環の鍵は価格転嫁

 そこで、わが国の経済運営において個人消費が弱含みというリスクをほうちしていいのかとふつうに疑問に感じるところであるが、実質賃金が2年連続してマイナスであることにくわえて、経団連と連合の舞台においてさえも定期昇給分こみの5%程度の賃上げにとどまらざるをえないということであれば、雇用者所得について国全体を俯瞰すれば結果において一昨年水準を実質で回復することはむつかしいのではないか、と予想しているので個人消費が来年度中におおきく失速するという悲観に苦しんでいるのである。

 という気分のなかで、1月23日の『春季労使交渉に向けて労働組合側からは昨年を上回る賃上げを要求する方針が示されている。大企業を中心に経営者から賃上げに前向きな発言も見られる。サービスを含む価格が緩やかな上昇傾向にあることや先日の支店長会議での報告などを踏まえると賃金から販売価格への波及も少しずつ広がっていると考える』( NHK NEWSWEB 2024年1月23日 17時27分)という植田日銀総裁の発言には「えっ、そんな生ぬるいことでいいのか」とあきれると同時に議論に火をつけたくなったということである。

 植田総裁の発言のどこかがまちがっているというわけではない。また場違いというものでもない。しかし、何かがいちじるしく不足しているのである。率直にいわせてもらえば、経団連と連合が協働する春の賃金交渉はいわば見本市であって、どこまでもうわずみの世界であり恵まれた環境下での交渉なのである。だから、日銀総裁が引用すべきは経団連と連合が奏でる交渉ではなく、83.7%の未組織と小企業の世界の賃金決定についての見解あるいは鼓舞であって、そういった領域の賃上げについてのリアルな見解を発信しなければ、会見する意味がないのではないかと思う。つまり会見で述べられたようなことは手あかがつくほど衆知のことなのである。

 さらに、今年の要点はどれだけ価格転嫁それも人件費引き上げ分をおりこんでの、そうとうたかめの転嫁ができるのかというすぐれて現場に直結する交渉なのである。そこで、圧倒的に差のある力関係において原材料費やエネルギー価格の上昇分はもとより従業員の人件費上昇分をふくめて対等な交渉ができるのか。もちろんゆるゆるとではあるが政府の仕掛けもできつつあると聞いているが、しかし市場経済であることから行政の介入にはおのずから限度があるといえる。

 さらに、価格転嫁を強いられる側にすれば、転嫁分は即コスト増であるから、業績に直結することを思えば並たいていのことではなかろう。それこそ資材部門、外注部門にとっては天地がひっくりかえるほどの出来事になると推察されるのである。

 くわえて企業内では、製品系統や工事系統ごとに採算が管理されていることから、全社一括での発注費引きあげなどが簡単にできるとは思えないのである。という困難さの巨魁が山のようによこたわっているのであるが、政府や日銀の認識あるいは動きをみていると、問題の困難さを十分理解しているようには見うけられないのである。

 今回の賃金交渉は昨年よりも数字は上向き、さらにひろがりもでてくると思われる。しかし焦点は、現時点でのマイナス2.5%をリカバリーしたうえで、来年(2025年)の賃金改定時まで実質賃金プラス状態を守りぬくことができる水準を獲得できるかどうかであろう。

 実質賃金プラス状態を維持できれば、働く人びとの経済への信頼が回復し個人消費が上向くと考えられるが、逆に実質賃金が1%をこえて目減りした状態がつづくのであれば、経済とりわけミクロにいえば賃金への人びとの期待感が消失することになると思われる。デフレからの離脱がまがりなりにも実現しつつある現時点において、働く人々の期待感の消失がはじまるということはとりもなおさず個人消費の減退のはじまりであり、経済失速の原因となるものである。だから、労働組合があるなしにかかわらず、また企業規模や業種のいかんにかかわらず使用者たる事業者は物価上昇をのりこえられる賃上げを実現しなければ日本経済を守ることができないという、300万社長たちの闘いがはじまったといえるのではないか。さらに、政府の助勢や補助にたよらずに社長自ら発注元と闘うのでなければ衰退日本に歯止めをかけることができずに、さらにワンランク下の経済国になりさがるということであろう。賃上げは重要な経済行為であって労働組合だけに押しつけてはならない。これ以上の発言は下品になるのでやめるが、ともかくもこの春は政府すなわち岸田政権にとっても重大なる正念場といえるのである。

6.構造問題を放置し、政治状況を優先した30年間の終着地が先進国の劣等生?

 さて、日銀はそのような賃金決定構造の下流域のことは存知せず、ひたすら上流域である経団連と連合の動向によって大勢がきまると無意識のうちに思いこんでいるのではないか。それが認識不足であると思う。春闘はとっくの昔に終焉しているのである。ひさしぶりに賃上げが脚光をあび、良きながれと感じることは同感ではあるが、主戦場は下流域であり未組織や小企業の領域での賃上げなのである。という認識を日銀としても積極的に吹聴すべきであろう。

 日銀総裁は賃上げに水をさすことはできるが、促進させることはできない、現にできていない。つまり、いろいろ理屈をいってみても賃上げは日銀の責任外であるのだから、どうしてもあなたまかせの姿勢になってしまうのであろう。では、政府はどうなのか。これも誘導政策や環境整備では役割をはたすことができるとしても、計画経済ではないのだから直接の介入は不可能である。個別の賃上げについては政府も日銀もあくまでも脇役というよりも傍観者の立場にちかいといえるのである。

 また、経団連と連合の世界は組織率16.3%の枠内にとじこめられているのであって、未組織領域83.7%や小企業においてはじつのところ政府も日銀も経団連も連合も主役はおろか脇役にさえなれないのである。ほんとうにさびしい舞台風景といわざるをえないのである。

 このように、極論すればさわがれているわりには主体者というか当事者不在なのがこの国のおおかたの賃上げ風景なのである。主役も脇役も不在の、観客だけの舞台がまわるはずがないではないか。

 つまりは上場大企業を中心とした世界観のもとでの賃上げ論がひろく人びとのあいだに定着するなかで、口では中小企業対策が重要とさけんでいても、本質的に産業構造が改革され企業間においては支配被支配の関係から契約と公正競争の関係へと進展することを、とくに政治が望まなかったことが先進国のなかの低賃金国にあまんじなければならない主要な原因とあったのではないか。経済の二重構造といわれた企業規模格差や非対称な取引関係といった産業構造の前近代的問題などの改革の目的のひとつは構造由来のムリ・ムダ・ムラをなくし、全体の付加価値の増大をはかるものであるから、そういった改革をおこたることは経済全体の効率すなわち生産性にはマイナスに作用していると思われる。また、中小企業経営者を支援組織にもつ保守政党においては、産業構造の改革よりもぬるま湯的なあるいはその場かぎりの支援策、さらに政治家の役割がきわだって分かりやすい利益誘導策が中心政策として位置づけられていることによって、選挙に勝ちつづける基盤を強化しているということであろう。ここらあたりに政策の合理性よりも政治事情を優先してきたことの弊害が渦巻いているような気がしてならないのである。

 さらに、労働組合の結成などの労働問題については、本来小企業領域でこそその必要性がたかいにもかかわらず、労働法制においても現実の労働行政においても小企業領域での労働運動の希釈化をうながすような、あるいは意図せずともその方向に流れているとの解釈も見方においては可能であると思われる。ようするに、ポスト戦後レジームのあとに位置すると筆者がかってに考えている「シン戦後レジーム」の柱としての「非労組化」「弱労組化」が暗黙裡に目的化され進行していったともいえるのである。具体的には、労働運動が機能しないことが常態であるとする領域の100%化が進行しているのである。非労組というよりも無労組というべきかもしれない。

 という主張にたいしてはきわめてイデオロギー性がたかいとの指摘がかえってくると思われるが、筆者としてはそういった現象の進行過程において特段の考えをもっていたわけではなく、むしろある意味ニュートラルあるいはややノンポリ的であったと自覚している。

 しかし、今日時点における問題意識は「非労組化」や「弱労組化」の最終目的地が、労働者であるにもかかわらず労働者としての共通利益の存在すら想像できない、いわゆる無関心層の生成という民主政治としてはきわめて原生的ではあるが危険な政治状況ではないかと考えるわけで、そういった無関心層の遊水池ができることは保守層として「してやったり」と歓声をあげるはずのものであろうが、原生的ではあるが危険といっているのは、民主政治においてかならずおきる無関心と迎合化がうみだすマイナス効果が「してやったり」と歓声をあげている者たちの足元をも最高に侵食しているという最高に皮肉な事象であることをしめしたいのである。

 さらに悪しざまにいえば、賃上げすらできないような未組織率83.7%という状況をつくりだしたことが、結果として30年にもわたる経済停滞を引きおこした主因ではなかろうかと思いつつ、まさに過ぎたるはなほ及ばざるがごとしを地でいっているということではないかと思うし、労働問題をうまくやりすごしたことの結果が先進国ではいちばんの劣等生になってしまったということで、ほんとうにバカみたいな話なのである。  

 個々の利益誘導の全体合成が歴史にのこるような大停滞であったといってしまえばたしかに要約のしすぎといえるが、賃上げができなくとも国あるいは経済総体が確実に成長していけるようなしくみがありうるのか、と自問すれば永久輸出国でないかぎりむつかしいと気がつくはずではないか。と思いつつ、賃金抑制をやりすぎて失敗した連中に罵声をあびせるなど思いもよらないが、それでもわが国だけがおちいっている連鎖波及的(システミック)な衰退をさけるにはやはり経世済民というべき経済運営の精神というか哲学の必要性をあらためて思いおこすのである。富の分配をどのように想起するべきかなどと、この忙しい時に源流をめざすと帰れなくなるからほどほどにすべきであるが、それでも議論しておかなければ国の分断に対応できないのではないかと思われる。だから富の分配を考えなおすのが「新しい資本主義」というのであろうと、いろいろ考えてみたものの、今では尻切れトンボ状態のようで考えただけ損した感じである。言葉だけがのこるのかもしれないと思いながらも、何もないよりかはましと独りごちながら「新しい資本主義」ってすごい矛盾の塊ではないかとも思いはじめている。社会主義でもなく、もちろん共産主義でもないすごく按配のいいものはないのかといった感じの問いかけであったかもしれないのだが、遠目はともかく近づけば近づくほどにぼやけているのではないか、こういうのをキシダっぽいというのであろう。

7.賃上げが実装化されていないのに物価安定目標に支持があつまるのか?

 日銀のかかげる物価安定目標というのは、あくまで賃上げが確実に実装され、ほぼリアルタイムで実質賃金が維持されるか、あるいは上昇傾向にあってこそ議論の対象となりうるものであると考えている。しかし、昨年のように実質賃金が2.5%もの高率で目減りしている状況では「何のための物価目標なのか」と人びとから疑われてもしかたがないといえる。この国の人びとは怒りのまえに諦めが先行する傾向にあるが、実質賃金がおおきく低下しているのに安定目標と強弁するのはそうとうな強心臓というべきではないか。まあ日銀らしいといえばそうなのだが。

 物価安定といってみても賃上げでカバーできない水準であれば、現実問題として生活が破壊されることになり、むしろ「生活を破壊する物価安定目標」というほうがあたっていると思われる。

 ここらあたりについては政府も日銀も緘黙しているが、実質賃金が2.5%も減価している生活破壊の現実をふまえるならば、デフレからの脱却という政策目標でさえはたして適切であったのか、さらにそのために目標とした2%にどんな理屈があったのかといった疑問と、世界の中央銀行が2%でそろっているからといった無思考まるだしの横並びであったのではないかという疑念が湧出してくるのである。

 労働者のほとんどが2.5%分むしり取られているのである。インフレは強盗よりもひどいのだと大昔に先輩から聞かされたが、日銀は2.5%分を保障するべきではないか、といえば過激なことをと白い目でみられると思うが、そういう過激なことをいわないから、日銀が10年ものあいだ政府というより政権のちょうちん持ちをつづけたのではないか。というのが未組織小企業労働者の心情であるとまではいわないが、日銀がけっして庶民の味方でないことだけは確かであろう。もちろん日銀の役割や苦悩を理解していないわけではないが、感情は感情として偽ることはできないのである。

 今日この時間においても自民党の国会議員のおおくは「裏金事件」の釈明で頭のなかがいっぱいであろう。しかし、本当の政治家であれば2.5%もむしり取られた人びとへの救済策を真剣に議論するはずであると思う。さらにいえば、自民党議員の後援会には地域の主要な企業経営者が名をつらねているのだから、わが国経済浮揚のためにさらに働くものの生活救済のために、各社において物価にうちかつ賃上げの断行をつよく要請してはどうかしら、そこまでやれば「岸田総理は本物だ、自民党が本気になった」との評価が労働者のあいだにひろがるであろう。まあ、そうはならないところに政党の本質があるということなのである。

8.口先はともかく経済界は反賃上げ団体であった、簡単には賃上げなどできない

 先ほどの日銀総裁の会見からもわかるように、経団連と連合によってわが国の賃上げがいかようにもデザインできるという根拠なき思いこみがあるように思われる。わが国の賃金決定システムはその中核部分については比較的明瞭であり定式化されてはいるが、それは推定組織率16.3%(2023年)の領域内のしくみであって、未組織領域である83.7%についてはほとんどが要求書すら用意されていない実情にあるといえる。もちろん労働法規の要請による従業員代表はいるものの賃金交渉のようなハードな任務に耐えられるものとはなっていないのである。

 ということから連合などが組織している春季交渉の成果が未組織領域にひろく波及していく構造にはないというのが実情といえる。そういえば、春闘といわれていた30年以上も昔のことを実体験的に記憶にとどめている世代のおおくはすでに第一線をはなれていることから、現役の活動家にとっても全労働者規模にわたる賃金引上げはまさに未体験ゾーンといっても過言ではなかろう。

 同様のことが使用者側にもいえるわけで、どちらかといえば人件費圧縮に血道をあげてきた、すくなくとも世間からはそう思われている経営者団体や労務管理部門が2年ほどまえから唐突にも方針を180度転換したのであるから、ギクシャクするのはいたし方ないといえる。しつこくいうが、表向きはともかくバブル崩壊以降は人件費削減が経営のメインロードであって、浪花節的な労務管理は旧態であると徹底的に排除されてきたのである。

 端的にいって株主総会でかんけつに説明できないことは排除というよりも掃除されてきたといえるかもしれない。労働と経営との仲介の任にあたるはずの労務管理が軽視され、コストカットや人件費削減に辣腕をふるう者が枢要の地位につくという時代がおよそ30年あまりもつづいたことから、賃上げが死語になるほどにわが国の賃金は停滞していったのである。賃上げ機能をうしなった経済がデフレ化を強めていったことは分かりやすいといえばわかりやすいのであるが、それ以上に悲劇的であったといえる。

 また、人口減少による生産消費両面にわたる縮小や高齢化による一人あたり付加価値の減少など絵にかいたような分かりやすい現象がおこっているにもかかわらず、それを直視せずに何とかなるのだという昔軍隊の精神主義のような非現実的楽観主義によりかかりながら、みんなで赤信号をわたって事故にあったようなものである。

 賃上げをうしなった経済は欠陥経済である。収奪過多、分配不足では経済はまわらない。と考えれば自公政権の性格がみえてくるであろう。とくに経済にとっての労働のはたす重要な役割について、「労働だから敵だ」といった幼稚な考えに犯されていたわけではないと思うのであるが、労働の価値をたかめることが経済にとって最重要課題であることへの理解がとてつもなく中途半端であったと筆者は思っている。

 企業活動とくに生産における付加価値が労働をつうじて生みだされるものであり、さらに市場をつうじて賢い消費が企業の製品・サービスの付加価値を洗練させる役割をになうことから、いずれにせよ労働への分配が効率的な経済サイクルをささえていると普通にいえるのであるが、それがどういう理由があってか分からないのであるが、経済サイクルにおける「労働への分配」をえげつなく遮断したものだから、花も咲かない実もならない経済におちいったといえる。というストーリーなどは眼中にはなかったのであろうが、ようやく理解が深まってきたと思っているのであるるが、ひょっとして連合が民主党政権を支援したことが自公の労働にたいする認識を歪めたのかもしれないと「人間ってやつはずいぶんと感情的なんだね」と時代遅れのかってな感慨にひたっているのである。(だから隠居しているんだ)

 

9.そういえば故安倍元総理も賃上げには熱心であったが

 そういえば2013年来官邸は労使トップに賃上げをつよく要請してきたが、空振りであったといえる。そういった動きにたいして当初は官製春闘ではないかと厳しい視線をあびたが、官製だろうが何だろうが「上がらないものは上がらない」ということであって、かけごえの問題ではなかったといえる。それは上がらないという仕組みの問題であり、上げようとしていないということであった。

 それが昨年になって近年まれにみる賃上げが実現したものだから経団連と連合が合意すれば賃上げが実現すると誤解した向きもいたかもしれないが、やはり物価上昇と労働市場のひっ迫感の影響がおおきかったといわれている。これは50年もまえから指摘されていることで経験的にも納得のいくところである。

 たとえば運輸業界だけにかぎらず、労働規制の強化により労働市場がおおいに締まれば、労働単価は上昇すると思われる。したがって、働き方改革は一般的に賃金上昇にむかうと考えられる。ということであるが、いわゆる『ブルシット・ジョブ』(デヴィッド・グレーバー)が指摘している「クソどうでもいい仕事」は生産性向上にはつながらない。労働生産性が低いからと賃金をあげない口実を述べている経営者はどうでもいい仕事の掃除に取りくむべきであろう。

 賃上げは社内改革を促進し、生産性をたかめ社員のやる気をひきだすもので、経営者にとって損なことではないといえる。冗談のように聞こえるかもしれないが、エクセレントカンパニーだから賃金が高いのではない、賃金が高いからエクセレントカンパニーになったかもしれないのである。どうでもいい議論ではあるが低賃金のエクセレントカンパニーを見かけたことはないのである。

 驚異的な円高のころからコストカットが表通りにあらわれ、人員削減あるいはリストラが広まっていった。くわえて新自由主義的な規制緩和至上主義が人的コストを徹底的に削減し、社内教育費をゼロベース化していったのである。 

 ふりかえれば企業社会の砂漠化とデフレの進行が同期化していたと感じるのであるが、因果関係については整理がつかない。今となっては「人を大切にする」経営のほうがレジリエンスにおいてはるかに優れていたように感じるが、懐古的すぎるのかもしれない。

10.物価に追いつく賃上げをめざすなら7%をこえる水準ではないか

 ところで、実需に裏づけられた物価上昇を生みだす賃上げをというのであれば、定昇込みの5%に日銀の当年度物価目標の2%をくわえた7%をこえる要求を組み立てなければ理屈は成立しないといえば経団連は吃驚するであろうが、労使が本気で考えればそういうことではないかと思う。まあ、過年度物価上昇率の評価をどうするのかによって、当年度の要求がかわることになるが交渉単位における継続性の問題もあるうえに、企業間競争の機微にふれる部分もあるので概論でかたづけられるものではない。むろん、月例賃金にくわえ一時金の交渉もあわせておこなわれている。月例賃金と一時金の比率は一般的に7:3といわれている。年収ベースでの議論で吸収するということであろう。

 さらに、83.7%の未組織領域や小企業での賃上げの実現という難所がひかえており、賃上げ相当分の価格転嫁がどのていど実現するのか、勝負はこれからである。とりわけ、物価を追いかける賃上げにとどまるかぎり好循環にはならないことはあきらかであり、早い段階で賃上げが物価をおおきく上まわる状態にもちこまなければ、道はひらけないということである。

◇立春や新酒五杯が分かれ道

注)3か所下線部分を追加。2024年2月19日7時15分

加藤敏幸