遅牛早牛

時事雑考「日米同盟の向こう側『任怨分謗』か『是々非々』か」

【10月、11月はなぜか忙しくてペースが落ちた。(ファイルの日付が10月23日だから20日近く抱え込んでいたのである!)それとは関係ないが、岸田内閣の支持率も落ちている。「6月解散がラストチャンス」であったと考えていたのだが、案の定、年内解散はないことになったらしい(11月9日)。

 ところで、減税案が不人気のようだが信じがたいというのが一般論ではある。そりゃ給付金のほうがてっとり早いとは思うが、税の増収分の還元策という理屈からいえば、減税のほうが本筋かなと思っていたら、財務大臣によると全部使ってしまっているので還元の原資はないということらしい。これには「なんじゃそりゃ、ホイ」と思わず合の手をいれたくなった。

 さらに、少子化対策の財源あるいは防衛力強化のための増税などが出番をまっているというから、誰しも「ちょっとまて、オイ」といいたくなるであろう。まさか「なんじゃそりゃ、ホイ」「ちょっとまて、オイ」が響きわたる合の手国会になることはないと思うが、なんかギクシャクしていて、また暴走的で、そのうえ刹那的ではないか。

 いまだに実質賃金の下落が止まらない。物価に連敗の賃金。来春まで待てない、生活が持たない。これほど生活がピンチなのに減税が嫌われるなんて思いもしなかったが、やはり来年の話だから超遅すぎるということであろう。

 まさか、減税の実施時期に総選挙をぶつけるつもりなのか?そうであればすごい仕込みと思うが、それだと品質期限切れになるのではないか。

 ところで、岸田さんはいじられキャラなのか。あるいは誰だかわからない匿名者によるいじり過ぎなのか。メガネを疑似標的にするあたりは手練れの仕事で、大げさにいえば諧謔的殺意を感じる。

 そういえば、立憲民主党の泉健太代表も似てきている。政権を狙うのは5年先というのは本音だろう。それでも意欲的すぎるという声さえあるのだが、多くは、まあそんなものだろうと思っているのではないか。しかし、代表が本音をいうのはまずいというか、「5年先までもつわけないのに、なに呑気こいてんだ。」ということかもしれない。第一党と第二党の党首が似た者どうしではないかという指摘はどうだろうか。そのためにも、早く党首討論をやってくれ!】

 

衆・参補欠選挙はあまり参考にならない

◇ 10月22日の衆・参補欠選挙は、いずれも与野党激突の一択となったことから、今後の政局をうらなう貴重な材料になるのではと注目を集めていた。中には与党の2敗を期待していた向きも少なくなかったようであるが、結果は一勝一敗の引きわけとなった。この選挙結果からいったい何が読みとれるのかと騒いでいた人たちに聞きたいものである。

 たとえば参院選(徳島・高知)では、広田氏が保守系の経歴をもち、かつ衆参での議員歴をもち、くわえて知名度が高いことからもともと有利であった。さらに、徳島では知事選の影響もあって、いわゆる保守不活性選挙となったことなど、地域事情のウェートが高く全国的な参考にはならないと思う。あえていえば、広田氏の「完全無所属」宣言が勝因ともいえるわけで、立憲民主党の反転攻勢が立証されたとはいえない。とはいえ泉代表は一息ついているのではないか。

 もう一つの衆院選(長崎4区)は、他の野党の協力をえながら立憲公認候補としては善戦したものの、この先7000票の差をくつがえす戦術が見通せないことを考えれば、逆にきびしい結果だったといえる。形式ではなく、協力の中身が問われている。

 これで年内はおろか春先までは解散はできないとうそぶく議員には、もとより無理のある解散話を、あなた方が弄んでいただけではないかといいたい。正直いって自民党政治の怪しさには辟易しているというのが、少なくない有権者の感想だと思う。だから、低支持率は岸田さんだけのせいではなくて、構造問題を30年間放置してきた「そういった政治家」をふくめた政治システム全体への批判でもあると思う。だから、何かが足らない政治全体のあり方についてしっかりと反省しなければ、人びととの距離がちぢまらないのではないか。

対米高評価が政権を支えている

◇ ところで、人びとの政治への評価には長周波の成分があると思われる。あまり表にはでてこないが、有権者は当面の問題だけで政治を評価しているわけでもなさそうで、10年20年の積みかさねられた評価もあわせて総合的な判断をしているように思われる。だから、二か月に一度程度の内閣支持率調査から何を読みとるのかについては、つねに総合的な判断がひつようであって、なぜそうなのかと同時に、なぜそうではないのかといった分析もひつようであろう。

 たとえば、米国に対する評価は対中国とは逆相関であると仮定してみれば、中国が高圧的にでてくると、わが国の世論は米国に傾くようにみえる。徐々に明らかになると思われるが、安倍・トランプ時代に米国からの購入をきめた超高額兵器が、わが国の情況ではうまく機能しないのではないかといった、従来であれば紛糾・混乱しそうな話もおおむね凪状態のようである。そろそろそういった日米の政治的蜜月を演出するための莫大な支出の経済性あるいは効果性などについての議論が浮上するのではないかと思う。

 もちろん国防にかかわる費用は国民の理解が前提であり、とりわけGDP比2%基準といった基本方針は長期にわたって維持されるものなので、また当然国民負担も増えることから十分な議論をへたうえで決められるべきである。にもかかわらず、中身の議論をすっ飛ばし、予算獲得だけに走っているのではないかと疑問に思う。民主制からいっても、そのような対応をつづけるならば政権運営に対し厳しい批判が生じると思われる。

 さらに「増税」という言葉を軽々にあつかっているが、政局からいえば「増税」は爆発物ともいえるもので慎重にあつかうべきものである。まことに不用意というか、不用心でこれでは不支持率が高くなるのはあたりまえであろう。

 ということで、昨今の内閣支持率の低きこと、不支持率の高きことはあんがい日米関係への不信?不満?不安?などから来ているのではないか。と藪医者の見立てではないが、例の妄想がはじまるのである。

中国・ロシア・北朝鮮が米国の好感度をあげているのではないか

◇ 人びとにとって思いがけない防衛予算の膨張の原因について適切な説明を欠くと、日米関係の重要性について別の解釈が生じるわけで、ようやく正常化しはじめた安全保障の議論がふたたび不都合な事例によって陰謀論の世界に迷いこむかもしれない、という心配があるが、多くの国民の意識は中国・ロシア・北朝鮮の迷惑な覇権行動によって、近年は日米安保あるいは日米同盟については肯定的に、したがって米国に対しては甘口にかたむいていると思われる。

 こういったやじろべえのような関係を踏み台に、国民の政治への評価が組みあがっているといえるが、中国に対する悪感情の分だけ対米感情はプラスとなりさらに安定しているといえる。ただし、やじろべえは風だけでも動くので常に細心の注意をはらうひつようがある。ともかく、日米当局にとってはずいぶんとやりやすい環境にあるといえる。

 ということで二国間関係としての日米関係は順調といえる。しかし、これから先も順調でありつづけられるのかといえば、いくつかの難しさがあるといわざるをえない。もちろん、米中が偶発衝突を回避する程度の緩和を実現するとしても、依然として構造的には厳しい関係がつづくと思われるので、先ほどの仮説にもとづく米国への好感情は当面つづくものと思われる。

 にもかかわらず何が問題なのか。それは米国の力の衰えがわが国の世論に微妙な変化をもたらすことである。世論の微妙な変化が、たとえば米国が、現在進行中のパレスチナ問題において過度にイスラエルに肩入れをしているとわが国の人びとが感じた時(すでにそう思っているが)に、程度はべつにして巷間ふつふつと反イスラエルというよりも反ネタニヤフ感情が増長することに連動するように反米感情を湧きあがらせるかもしれない。かつてのベトナム戦争における学生たちの反米感情を思いだすのは筆者だけであろうか、たしかに似ている面があると思われる。

 ベトナム戦争よりも今回のほうがはるかに複雑である。10月7日のイスラム原理主義組織ハマス(発音はハマースのほうが原音に近い)による奇襲攻撃と人質奪取を擁護する立場は国内ではほとんどゼロといえるが、さりとてイスラエル軍によるガザ空爆を積極的に支持する人びとが多いかといえば、これもゼロに近いと思われる。

 また、無差別攻撃への拒否感、嫌悪感はどの国でも若い世代においてはそうとうに強いことなど、いわゆる世代間ギャップもあるようで、単純なことではないと思われる。

 さらにハマスせん滅後のガザ地区の統治についての国際的な合意がないことが、イスラエルのやっていることは「報復のための破壊」だけではないかという印象を強め、攻撃の回数が重なるごとにその不法性に対する批判が国際的にはつよまると思われる。

 おそらく、イスラムの世界では反イスラエル感情が高揚し、各国とも国民感情を慰撫するために反イスラエル政策を強めると思われる。またそのことが地域の緊張をさらに高めるという悪循環がおこれば、残念ながらイデオロギーとしてのハマスの狙いがなかば達成されたといえるかもしれない。これはゆゆしき事態といえる。

パレスチナ問題、ネタニヤフ路線では限界があるのではないか

◇ 今回のことで、ネタニヤフ路線の政治的な限界が露呈しはじめたともいえる。それは米国にとっては出口が見えないということであろう。ところで、ガザ地区住民をシナイ半島北部へ強制避難させ、その地での定住化をはかっていくとの未確認情報が流れているようであるが、まずは人道的対応を優先すべきであろう。

 ここで、ややリベラル的主張と重なるので気分はよろしくないが、イスラエルの報復的反撃が多大な民間人の犠牲をともなうのであれば、自衛権の過剰行使と非難されるべきである。長年の争いが終息し平和がくることをどうしても呑みこめない人びと(テロリスト)がいるかぎり、武力摩擦を回避することは難しいという状況にあっても、無差別攻撃の責任は攻撃側にあるわけで、これをテロリストだけに転嫁することは通用しない。さらに、ライフラインを切断し、民生を破壊することは許されない。

 そういった方向で国際世論が集約されることが、イスラエルとしてはもっとも嫌なことであろう。そのうえ反イスラエルのミサイルが飛んでくるのであるから、ネタニヤフ氏の神経はつねに逆なでされつづけているといえる。ようするに、過剰なガザ空爆や地上・地下攻撃を誘発させるためにハマスの狡猾な挑発がつづいているといえるのである。

 10月22日、米英仏独伊加(G6)の首脳がイスラエルの自衛権を認める声明をだしたが、あわせて国際法の順守を訴えている。11月8日には東京でG7外相会議が開かれたが、G6の流れをふまえさらに「人道的休止」の支持をおり込むなど日本は議長国として一定の役割をはたしたといえるが、実現は簡単ではないとみられている。

 今後も、この自衛権と国際法の順守とのバランスが問われつづけることになるが、とくに戦場となるガザ地区でどれだけ守られるのかは不明である。国際法違反による犠牲が増えれば、イスラエル寄りであるG7にも非難がおよぶもので、彼らが国際法の順守にどれだけ具体的な努力をしたのか、結局言葉だけで実態は二重基準ではないかと、きびしく問われるであろう。

 現在国連安保理が機能喪失しているが、代わりにG7が人道回廊や人道休戦を実現できるのか、あるいは細かく見ればG7もすでに割れているのかなど際どい事態にいたりつつあると思われる。

 もちろん、イスラエルには自衛権があるにしても、その細目については議論があって、民間人をまきこむ程度については禁忌があって当然であると考える人びとのほうが多いのである。とくに米欧の対応を「二重基準」と批判する声はていねいに聞きとるべきで、中にはウクライナ侵略への非難との対比をあげつらいながら、米欧のウクライナへの支援を薄めようとする分断工作もでてきている。この事態をロシアは奇貨として見のがすことはないであろう。

 さらに今は昔と違う。つまり、第五次中東戦争を予防するためには、第四次中東戦争とは時代がちがうことをまず認識しなければならない、と思う。とくに米欧の力の衰えが、たとえば米国の場合共和党の混乱や国内の政治的分断が直接の原因であるにせよ、それもふくめパワーダウンは隠しようがないわけで、欧州も国内事情をいえば外に力をむける余裕は米国以上にないという現状にあることから、わざわざ中東の火花を国内にもちこむことはやらないであろう。ウクライナだけでも手いっぱいであるから、やらないというよりも、やれないのであって、それが衰えているということなのである。(もっとも、わが国の衰えのほうがさらにひどく、米国から仕事をむちゃぶりされても手に負えないだろうし、なにかしら対中対ロ関係では難儀することになりそうで心配である。余計なことだが。)

現在のパレスチナ問題を契機に世界的なパワーゲームがはじまることは避けなければならない

◇ さらに、パレスチナ問題がウクライナ戦争と重畳したときには、世界をまきこむパワーゲームに火がつき、おそらく世界が混乱しはじめるであろう。混乱は侵略側(ロシア)の間違いをいくらか軽減し、あわよくば事態を有利に終息できるかもしれないと思わせるかもしれない。残念ながらこの世では罪と罰は均衡しないことが多いのである。

 さて、米欧がどんなに力をあわせても、ウクライナ、パレスチナ、中国と同時に3方面に対応することはできない。また平時であっても世界を管理することは不可能であるから、いよいよ「賢明な妥協」についての話がはじまるのではないか。この場合の賢明なというのは、同時に多くの相手とは対抗しないという意味である。相手とは国であり、国に準じる組織である。また対抗の究極型は戦争といえる。

 同時に多くの相手とは対抗しない。この文意は簡単で公知ともいえるが、難しいのは相手の選択であろう。とくに重要なのは現に対抗中の相手だけではなく「次の相手」「明日の相手」への準備であって、ふつうは「次の相手」や「明日の相手」を中立化ないしは味方にする策謀をえらぶというのが定石であるが、それは易しいようでじつはきわめて困難なことであるから、せめて「明後日の相手」になるように時間差を工作することになる。イスラエルにとって時間差が可能であるのか、筆者は犠牲を最小にしながら時間をかけることが、時間差を生みだすと考えている。

 といっても米欧は一体ではないから統合意志(PDCAサイクルを共有するという意味)を形成できないまま事態だけが動くであろう。しかし、挑戦をうけているのは米欧の価値観であり、歴史的に形成された経済・政治・文化などの権益であるから、それらを守りきるためには守るという共通の目的意識を創らなければならない。ここで米欧といっているのは米英加とEU加盟の主要国独仏伊など(東方の国々ははずれるであろう)であって、先進主要国でいえば日本を除くG6ということになる。

 ここでパレスチナ問題について第一次世界大戦にまでさかのぼり解説することは、筆者にはできない、不可能である。しかし、今日争点となっている「二重基準」というのは、直接的にはウクライナを攻めるロシアを咎め、ガザを空爆するイスラエルは咎めないという二面性を衝くものである。

 他方広義には、イスラエルとパレスチナへの対応の格差あるいは差別をいうもので、古くはイスラエル建国にさかのぼり歴史上の矛盾政策をも指弾しているようで、誰がそうさせたのか、あるいは「二枚舌」「三枚舌」といったものまで連想しふくめるものである。矛盾政策とはその時は収まったとしても、時間がたてばふたたび再発する事象の原因となるもので、今回のようにいつまでも解消されないことの原因となるものをいう。ともかくイスラエルの自衛権を強調する強硬策だけでは事態を悪化させるのではないかと危惧するところである。

 ということで米国は新たな難問を抱えこむことになった。たとえばバイデン大統領は「怒りに呑みこまれてはいけない」とイスラエルを諭していると聞くが、人によってはアフガンからイラクへと軍をすすめたのは米国の怒りではなかったのかと反論するかもしれない。民間人の犠牲を最小化するにしても、米国への反感は広がるばかりである。

 ということで、バイデン大統領は力を弱め、中国が反撃の糸口を手に入れるかもしれない。また、米中対立は第二幕へ移り、さしあたり米国の足元を見ながら条件をつり上げる中国外交のえぐい交渉術に米国は辟易するかもしれないのである。しかし、ウクライナ、パレスチナだけでも手いっぱいであるから、米国としては対中関係についてはやや緩めたいと思っているのではないか。しかし、それも議会対策を考えれば難しい。ということで、苦悩の日々がつづくであろう。そして同盟国も同じ苦悩を抱えることになったのである。

歴史の法廷に引きずりだそうとしても、超大国が相手ではそれは難しいうえに、副作用がキツイ、せいぜい嫌味にとどまるであろう

◇ テロとの戦いにしても中東でのイスラエル支援にしても、過去における腕力を背景にした米国の施策にたいして、今ごろになって問題であったとする逆流性批判が噴出しはじめると、言説だけでもばらけた状態が生まれることになり結局は収拾のつかない、おそらくカオス状態となるであろう。言説のカオス化は確実に世界の政治的均衡を崩し、国際秩序を弛緩させるであろう。秩序の弛緩がどれだけの悲劇を生みだすか、考えるだけでもおそろしいことである。

 たしかに、中東においてはこれが正しいといい切れることはわずかであって、わずかな価値観の違いが理解をさまたげる偏向レンズになっている感じである。たとえば、東アジアから遠い中東を、手に入る情報だけで理解しようとしても、まともな結像をえることは難しい。集めれば集めるほどフェイクが混じり、その混濁度がたかくなるのである。

 想像される政治均衡の崩れは力学的な不安定をもたらすことから、紛争の種になりやすいといえる。

 そこで問題なのは、後年において追いかけるように発生する特定国(米国など)にたいする批判が急速に広がりはじめた場合にどのように対応するのかであり、直截にいえば対米批判が激しくなった時に、同盟国としてのわが国がどのように対応すべきかということである。

 たしかにイスラエル軍のガザ攻撃については、従前以上に強い非難がわきおこっている。とくに長年にわたりイスラエルを後押ししてきた米国への非難も想像以上に強く、ガザでの民間人の犠牲者についての最終責任をもおわされているように見うけられるのである。一見理不尽ではあるが、これこそ超大国の証であると思われる。しかしそのことが、今日における米国とイスラエルの呪縛であって、犠牲者の数だけ米国の威信は下落することになるであろう。

 さらにイラク戦争についてもその正当性をめぐって米国の責任を追及する声もあり、総じて米国の中東政策の失敗というイシューが共有されつつあることにくわえ、現下のガザ攻撃による民間人の犠牲発生にたいしても連鎖的な非難が発生しつつあるといえる。 

 このような今日の事象に対する批難が過去の事象をも蒸しかえしながら、非難が時系列的に膨らむことは、ほんらい起こってほしくない政治的論争を生みだすもので、多少断定的な表現になるが解決に近づくことのないいわば非生産的な側面をもつともいえる。しかし、どういう陣営がどのような批判あるいは非難を開始するのかは現時点で予測することは困難である。

 しかし、一般的に世界の力の均衡が崩れはじめると、とじ込められていた論争が解放されることになる。閉じこめられていた論争が一挙に解放され、間髪をいれずに言論空間での戦いが膨張し収拾がつかなくなり、それが恐ろしいことに物理空間での戦いを激化させるのである。

 したがって、言論空間での論争を囲いこむひつようがあるのだが、イスラエル自身がパレスチナの地からパレスチナ人を放逐すること(2国家共存の否定)、あるいはパレスチナ国家という概念すら認めないということであれば、当面においてこそイスラエルの理屈と圧倒的な火力で事態がすすむであろうが、犠牲者の数だけ呪われたつまり危険と隣りあわせの状態がひどくなるということではないか。

 まあそれがどうした、ということで収まりが着けばいいのであるが、たとえばヨルダン川西岸地区への入植などのやりたい放題は自衛権では説明つかないわけで、その分米欧は窮地に立つと思われる。今さらながらであるが、恨みや憎しみが再生産されているだけではないか、ということであろう。そのうえ、そういう事態を容認してきた米欧とは何者かという批判がグローバルサウスの潮流となれば、中ロ朝の反米欧路線が活気を帯びてくるというのが、西側が描く悲観シナリオであろう。

 そうなると米欧とりわけ米国の威信と握力が低下し、世界が一丸となって対応しなければならない気候変動対策などが宙に浮くという地球規模での悲劇を招くことになると思われる。米欧をやっつけても問題解決にはならないことが人類の共通認識になるのにいくばくかの否そうとうの時間がかかると思われるが、その分だけ地球温暖化がひどくなり、人類はさらに深手を負うことになるであろう。地球温暖化だけではなく、地域的紛争をおさえる手段が国連安保理をはじめ国際的に不在状況になれば世界はどうなるのであろうか。巨大な崩落事故が待ちかまえているとの不安がよぎるのである。

米国のリーダーシップの低下はわが国にとって死活的課題である

◇ ここでの議論は、米国のリーダーシップが相当程度低下した事態への対応であるが、そんなことは誰にも分らないのであるから議論にはならないとの指摘はごもっともであるのだが、それでもわが国にとっての死活的課題であることは変わらないのである。

 ところで、わが国の外交が対米追従であると激しく非難された時代があった。もちろん、いわれるまでもなく対米追従なのであるが、しかしそれの何が悪いのかについてはあまり議論はされていない。筆者は追従であったとしても最適解であれば躊躇なくそうすべきであると考えている。だから自主だ独立だとキレイにいっても、武力において独立できていない国がどういった外交を選択できるというのか。また、武力において独立していても自主という言葉にふさわしい選択肢がありうるのか、とも反芻してきた。もちろん追従といってもさまざまであり、幅もあれば軽重もあるのでワンパターンでの決めつけにいちいち反応することもないと考えている。非難の言葉としての追従というのは反米プロパガンダの性格がつよいといえるが、リアルな認識としての追従はわが国の外交の重要課題なのである。

 

◇ 今日、わが国をとりまく安全保障環境はめまぐるしく変化しているのであるから、そういった環境への適応行動は見方をかえれば自主とはいえない。つまりどこまでいっても環境追従から抜けだせないのであり、また自力で環境を変えることもできないのである。

 さらに、わが国の外交にとっての最大の環境が米国であるかぎり、わが国の外交が対米追従ではないかとみられても、少しも不思議ではないと思う。だから、かりに中華人民共和国がさらに国力を高め西太平洋での覇権を完全に確立するならば、もちろん覇権の内容にもよるが、表現としては「否応なく対中追従路線へと変わらざるをえない」ことになるであろう。もちろんそういう中国が成立し持続できるかは大いに疑問ではあるが、議論としてはそういうことであるし、それは米国にとっては歴史的大敗北といえるであろう。

 (ただし、対抗する中国にも経済危機という大きなリスクがあり、2024年から国力において長期低落に入るという予想もある。一方の米国も、2024年の大統領選挙にむけ分断の原因となっている二大政党制を見直す第三の候補論も浮上している。米中のイベントの前後関係によって状況が大きく変わることから、中国の経済危機が起きるのであれば2025年以降になるよう願いたいものである。)

 米国にとって、東アジアにおける大国(日本や韓国)を失うことは考えられないほどの痛手になると思われる。ということで西太平洋が安全で自由に航行できる法の支配する領域でありつづけることが、きわめて優先度の高いテーマとなっているのである。

 ところで、国際社会からは親米一色にみえるわが国にも、多少なりとも反米感情があり、また反米主義者も存在している。たとえば「外交に関する世論調査(内閣府)」(令和4年10月調査)では、「アメリカに親しみを感じる」が87.2%で、「親しみを感じない」の12.4%を大きく引き離している。また「日米関係の重要性については」、「重要である」が93.8%、「重要でない」が1.8%となっている。

 わが国の反米感情に対しては、米国への予想外の反感の存在になぜそうなのかとあらためて問いかえすことがひつようなのかもしれない。ということでそういった議論にむかうに際して、20年前の米国のプレゼンスを前提に議論に臨むのか、それとも時価をもって臨むのか、あるいは視点を10年先において臨むのか、という3種の道筋が考えられるが、いずれにせよ鐘太鼓(かねたいこ)を打鳴らしての議論ではない、つまり騒ぎたてるほどのものではないことだけは確かであろう。

 すこしふりかえれば、たとえば2001年9月11日の米国を襲った同時多発テロを発端に地球規模での「テロとの戦い」がはじまり、アフガン侵攻からイラク戦争へと米国と同盟国による正義の戦いがつづき、個々の戦いについては当面の決着をみたものの、民間人をふくめ夥しい犠牲者がうまれ、その傷はいまだに癒えていないうえに、憎しみが再生産されていると考えるべきであろう。

 問題は親米派であっても、正義の戦いという趣旨に違和感をおぼえる日本人が少なくないことを、米国が冷静に受けいれられるのかということである。ともかく経過も議論も単純ではないし、心象も簡単なものではない。つまり、平均的な日本人の感覚において、米国の行動には受けいれられないところが多めにあるのも事実であり、結局のところそういった違和感をともなう感情は沈泥となっていると思われる。上澄みはやや透きとおってはいるが、底には沈澱物があるのである。

 さて、そういった沈殿物を撹拌して浮上させるのかについては、為政者あるいは議会にすれば触れたくないと思っているようであるが、ただ論として学術的にあつかうという、つまりとじ込めた議論として収めようとする衝動もあると思われるが、おそらく与党あるいは自民党的には踏んぎりのつかないことではないかと思う。こういった違和感がただちに反米感情へと遷移するとは思えないが、違和感は違和感として沈澱したままで置いておくということであろう。

 しかし、そういった脂っこい議論を迂回しつづけることがいいことであるのかどうかについてはあまり議論されているようにはみえないのである。

 もし近未来において有事と解される「事変」が勃発したときに、同盟国である日本に対し米国が抱いている素朴な期待が、その時点で十分満たされるかどうかについては、かなり蓋然的で筆者なんかは日米それぞれがかってに描いている予想をこえる懸隔(ギャップ)の出現を内心怖れるもので、大いに懸念しているところでもある。また、「事変」の性格によっては、わが国として追随するのに規範的には無理であり、実力的には限界があることも少なくないのではないかという、これも日米関係の不確定な側面のひとつであると考えている。

 このような蓋をされた米国評論では役にたたないと感じていることから、わが国において、反対論をふくむ十分な議論の不在が両国間の不信感の温床になりうるリスクを、政治は十分理解しておかなければならないといえるのではないだろうか。

米国によるイラク攻撃戦争支持についての小泉発言が「なんとなく反戦平和」を沈めた

◇ そういえば、「大量破壊兵器がどこにあるか?そんなこと私に分かるわけがない。」という小泉首相(当時)の答弁はある意味新鮮に聞こえたが、分からなくても米国支持というわが国の立ち位置を最高責任者が正直に語ったわけで、ここから時代が変わっていったと思っている。とくに、小泉答弁のとんでもない無責任さとそれとは相反する不思議な説得力、さらに無邪気なリアリズムが、それまでの政治家にみられた建前としての対米ツッパリをあっさりと脱ぎすてて、野党的にいえば対米追従を恬として恥じない姿勢が、それまで野党陣営が長い時間をかけて築きあげてきた反戦平和の論理としての鋭角突起をみごとに無力化してしまったと筆者にはそう思えたのである。

 ところで、本年10月31日の朝日新聞(朝刊)には、「首相補佐官 岡本行夫の記録 4⃣」として、米国のイラク攻撃(2003年3月17日最後通告)に直面したわが国がどのような理屈で米国支持にふみきったかについて、同年3月18日付の岡本氏作成の「総理記者会見の際の材料」と、米国のイラク攻撃開始後の3月20日の小泉首相(当時)の記者会見における支持表明の内容との比較を行いながら、「岡本氏の『材料』と比べると、重なりとずれがある。」と記している。「岡本氏は『日本のとるべき道は米国を支持すること以外にない』『その根拠は三つである』と記す。」ちなみに氏が示した三つとは同紙記事から引用すれば、「『大量破壊兵器の脅威』『国際法秩序の保全』『日米同盟の重要性』」であった。

 また、大量破壊兵器については、当時の官房長官福田康夫氏への聞きとりをふまえ、「福田氏は『官邸では米国の情報の裏を取ろうと苦しんだ。最初から大量破壊兵器があると考えていたわけではなく、ないとも断定できないという立場で、イラク攻撃を支持するぎりぎりの判断をした』と話す。」と記している。-以上「」内は朝日新聞からの引用であり、記事中の岡本行夫氏は2020年4月24日逝去。-

 なお、イラク攻撃に対する安保理決議については中ロ仏独の反対もあって米国は取りさげている。したがって、攻撃は安保理決議にもとづくものではなかった。また、2005年12月ブッシュ大統領(当時)はイラクの大量破壊兵器保有についての情報が間違っていたと認めた。

米国のイラク攻撃を支持する日本政府の判断は日米同盟の重要性であった

◇ さて、20年前の米国のイラク攻撃をわが国が支持した主な理由は『日米同盟の重要性』であって、記事にある福田氏の『ギリギリの判断』という表現は、それ以外のたとえば岡本氏が指摘していた『大量破壊兵器の脅威』も『国際法秩序の保全』も根拠とするには不十分だと考えたことから、『日米同盟の重要性』という単一事由にならざるをえなかったという意味でのギリギリであったと思われる。この小泉政権の判断についての当時の人びとの受けとめは、たしかに『日米同盟の重要性』は理解できるが、米国の先制攻撃が国際法上是認されるのかという問題もあることから、そうじて反対の雰囲気にあったと筆者は記憶している。(注、『』内は前述の朝日新聞記事で使用されたものを引用。)

 反米とはいえないが、そうとうに批判的であった20年前に比べて、今日のわが国の対米意識は中立よりもそうとうに肯定的なところに遷移していると思われる。

 例によってエビデンスなき空想といわれるであろうが、米国への高評価は中ロ朝の軍事示威行動への反発からくる反作用的な好米感情と抑制的な米軍の行動ねの評価との重畳効果であったといえるかもしれない。この感情は2011年3月の東日本大震災における米軍のトモダチ作戦などによっても醸成されたともいえるが、やはり基本は、理由によらず奪った命の数に強い影響をうけているのではないかと筆者は考えている。

 ということで、20年ほどの周期ではあるが、人びとの評価は継続しながらも変化している。今日では、政権あるいは与党は国民の米国への好評価に支えられているといえる。が、残念ながらその支えもすこしづづ揺らぎはじめているようだが、この揺らぎがただちに内閣支持率に影響しているとは思えないというのが常識であるが、はたしてどうなのか、少なくとも不支持率には影響しているような気がするのである。

 もちろん、米国内の分断状況や国際社会におけるプレゼンスの低下などを原因とする人びとの対米不安感が増長されるならば、現在のような米国追従型のままでは政権あるいは与党の政治的優位性を保つことは難しくなるのではないかと思われる。

中国の軍事圧力や経済的威圧が、わが国の安全保障意識を全面的に変えた 

◇ さて、2000年代にはすでに中国の経済大国化がすすみ、とくに習体制になってからは、軍事的示威ならびに経済的威圧行動が活発化し、米国への挑戦が激しくなったと記憶している。中国への悪感情が増長するなかで、人びとの安全保障観も少しづづ変化していった。同時に、伝統的な反戦平和運動もその影響を受けていったといえる。ということで、ようするに中国の覇権主義がわが国の反戦平和運動の元栓を閉めたと、皮肉なことではあるがそういってもいいのではないかと思う。

 さらに2013年からは、第2次安倍政権が日米同盟の深化に精力的にとりくみ、その結果が2015年安保法制(安全保障関連法案)の成立であるが、その前提には集団的自衛権についての解釈変更すなわち強引な合憲化があった。解釈を変えないのであれば長官をかえる。まるでコロンブスの卵のようで、さすがにこの解釈変更には多くの憲法学者が反論の狼煙をあげた。憲法の文章や論理構成からいえば、学者の理屈はそのとおりだと思う。

 しかし、単独での対抗が難しいことから共同して中国の軍事的脅威に対抗し抑止効果を発揮するには、集団的自衛権を容認し、共同作戦を可能にしなければわが国の防衛は危殆に瀕するということもまた現実であり、これらについては米側の強い働きかけがあったことは想像に難くないといえる。またこれは現実問題であって、政治としての責任をとるということであろう。したがって、どちらも正しいと筆者は考えているのである。

 さてどちらも正しいのであるが、事ここに至っては憲法のほうを改正すべきと思う。こういうのが本末転倒の典型例であると思うが、国防は一刻の遅滞をも許されないことから、憲法改正待ちの違憲状態であると今では考えている。ともかく現状は、最高法規よりも現状優先の自民党らしい超法規的対応であると思うが、政治は現実をグリップしているので、めんどうな9条関係の改正については放置していると想像している。とはいっても、そうなれば憲法がスカスカになり立憲国家が侵食されはじめるので、早い段階で憲法を改正して現実に合わせるのが適切であると考える。学生服に身をあわせるのか、身にあった学生服を選ぶのかといった政治家がいたが、超現実主義者は学生服などいらないと考えているのかもしれないが、それは行きすぎというべきであろう。

 また、東アジアにおける中国の軍事力との均衡を維持するために、莫大な防衛予算を増税により賄おうという、とんでもない苦労を背負いこんでいるが、増税は正論ではあるが政局の火種になりやすい。有権者は増税に対しては賛成しないのであるから、特別な環境たとえば中国の空母が頻々と近海に展開するといった事象がないかぎり、選挙では最低でも30議席(筆者の勝手な予想)は減るような気がする。つまりこのままであれば2025年の国政選挙は大荒れとなるであろう。

米国の病は世界の病であるから、どうやって健康を維持するのか

◇ さて本論にもどり、焦点は、米国の政治が安定性を失いつつある現実をまえにして、わが国として経済や武器購入では協力できるかもしれないが、米国の国内政治には助言すらできないし、するべきではない。米国は不屈ではあるが国内の分断への対応では不器用にみえる。分断は確実に米国の力を削ぐ。さらに、それは世界のパワーバランスを一変させるであろう。

 また国家関係というのは、努力をつくしても歯車が狂いだすこともあり、そうなると不本意な展開でさえ抗うことができなくなる場合がある。「米国とは何者なのか」とふたたび悶々とする日がくるかもしれない。かりに、そうなったときに、米国の都合にふりまわされていてはわが国の国益を損なう事態がありうることを、同盟国であるならば自覚しておかなければならない、という文脈を少なくない人びとが理解していると思われる。 

 今は黙ってはいるが、まず国益を守るということはどういうことであるのかを深考したうえで、媚米的流儀がわが国だけでなく多くの国の進路をあやまらせることになるかもしれないことなど幾重もの思索を重ねておくひつようがあると思われる。筆者の偏向的感性ゆえかもしれないが、日米間には大きな議論が残されているのである。

 だから、そういった残された議論に正対しない保守政権って何よ、といいたいのであるが、故安倍晋三氏はじつのところ問題の所在にはそれとなく気づいていたと思われる。なぜなら、戦後レジームからの脱却とくれば、誰だって日米関係の革新であると気がつくわけで、ただ氏はその持ち運び方について気迷っていたのではないかと筆者はかってに想像している。もちろん、鋭い政治感覚をもっていたので核心には触れなかったから、長期政権を維持できたともいえる。ほんとうのところは例によって分からない。

「任怨分謗(にんえんぶんぼう)」かあるいは「是々非々」か

◇ 今回、国際的な非難が増長すると予想される米国の苦境に、同盟国であるわが国がどういう対応をとるべきかと、妄想の幅をひろげてみたが、これは難しいことである。

 米国が受ける怨みや謗りを分任する、すなわち「任怨分謗」でいくのか、あるいは「是々非々」であたるのか、ここは思案のしどころであろう。現状をいえば「是々非々」なんであろうが、条件がととのえば「任怨分謗」のほうが同盟は強化される。とはいっても決めるのは筆者の世代ではない。

こんどは「大きな瓶の蓋」がひつようではないか

◇ 78年前、敗戦国であった大日本帝国が国防を占領軍に委ね共産主義への備えとしたのは時の主権者の意思であったと聞いている。これは国民が主権者となってからも基本的には変わってはいない、と思う。

 以来、同盟は深化し、双務性は部分的ではあるが漸進したといえる。今日では、この同盟には歴史が凝縮されており、ほぼ変えることのできない関係として、現実そのものになっているといえる。

 その昔、日米安保条約を「瓶の蓋」と米中では喩えていたという話がのこっているが、条約にそういう側面があったことは事実である。同時に、防衛における非対称関係は状況によっては脆弱性を露呈するもので、くわえて防衛にのみ専念することは、自衛隊の戦略思考を退化させる傾向をもたらすともいえる。また、安全保障環境としては対ソ連中心の防衛であり、有事発生の確率はとても低いものであったといえる。つまり、冷戦下ではあったがどちらかといえばゆるい議論だったのである。

 しかし、今日の脅威は中華人民共和国であり、1989年の天安門事件により先進国を中心に経済制裁を受けていた時代をこえて、1990年代には制裁解除からグローバリゼーションの波にのり急速な経済成長を遂げ、世界の工場とよばれるまでになった。これにより大いに自信を強め、またGDPで世界第2位となる2010年には、すでに軍事大国としての基礎を完成させていたのである。

 2020年代には、わが国だけでなく台湾をふくめ近隣国にとっての現実的脅威となるなど、覇権主義が急速に表面化したといえる。とくに、習体制となってからは露骨な覇権奪取の姿勢をあらわにするようになった。

 また、2018年の米中間の貿易不均衡の是正からはじまった米中対立は、米国にとっての安全保障上の脅威という、中国にとっては予想外の問題格上げになったのであるが、同時期に発生したパンデミックとあいまって、米中ともに世界的な経済苦境にまきこまれていったのである。

 このパンデミックも2022年中には鎮静化したといえるが、感染対策として強権策を打ちだした中国の経済的ダメージが突出しており、あわせて長期にわたる不動産投資のほころびが急速に顕在化し、いわゆる不動産構造不況を生みだしたといえる。一方の米国は、赤字国債ではあるが生活支援手当が後発消費として爆発したかのような消費と物価の協調上昇を生み、高金利下の好景気状態にあるが、物価上昇が生活を直撃している。

 さて、ここで筆者は「瓶の蓋」論を提起したいのである。1990年代からの中国経済の成長は、米国の関与政策すなわち中国が経済成長し民生が豊かになればおのずから民主化するという確証なき楽観論がもたらしたもので、今では米国に肉薄する軍事国家、覇権国家を生みだしているといえる。

 今日、日米同盟の深化がすすんでいるのは主に対中国を考えてのことで、分かりやすくいえば、中国に対する瓶の蓋はあるのかということであろう。

 いまさら中国を権威主義国といったところで何もならない。中国が権威主義国でなかった時代があったのかと聞きたい。ということで、日米共同の大きな瓶の蓋探しがはじまっているのである。

日米同盟の対等化が正論ではあるが、気候危機対策がひかえているので、時間切れである 

◇ 簡単には有事は起こらないが、真に有事に備え、中ロ朝と対峙する覚悟があるのであれば、日米安保条約を完全な攻守同盟条約に改変すると同時に憲法をそのように改正すべきである、というのが筆者の結論である。そうしなければわが国は中ロ朝とは外交的に正対できない。彼らは日米安保が非対称条約であることを理解しているので、安全保障に少しでもかかわる事項については交渉にはまともに応じないであろう。また、緊迫度が高まれば高まるほど、わが国は米国の傀儡にならざるをえないであって、日米の盾と槍という分業体制は真実信頼の関係ではない。ひとしい血盟関係でなければ軍事同盟は平等にはならないのである。

 ポスト安倍の主要テーマは日米同盟の対等化による安全保障上の独立の確保と、それによる近隣諸国との平和条約の締結であったと考えているが、今は提起しないでいる。提起しても混乱するだけであるのと、あまりにも遅すぎる。つまり議論しているうちに地球温暖化が進み気候危機対策が主要議題になるだろうから、どんな議論も時間切れとなるのである、と考えている。

◇ 冬立つや一本オクラが光喰う

加藤敏幸