遅牛早牛

時事雑考 「低々支持率をめぐる騒動を越えて岸田政権は中道へ向かうのか」

〔くる年の暦丸めつ店仕舞う。コロナ後は人手不足で閉店する飲食店が多いと聞く。労働者はどこへいったのか。長年粗末にあつかったことの報(むくい)などとはいいたくないが、たしかにこの国には労働者を消耗品のごとくあつかう癖というか作風があるようで、これを改めないかぎり消費と生産のバランスのとれた経済にはならないであろう。また、労働者を使い捨てる風土で労働生産性を伸長させることはむつかしい。というのが筆者のベースラインである。とにかく労働者を中心とする考えなので、まあこのぐらい偏向すれば誤解されることもないわけで、気分はこのうえなく涼やかである。

 とはいっても世にたとえば労働党なるものがあらわれたとしても、それが労働者の代表だなんてちっとも思わない。どんな政党であれ「私たちはあなたがたの代表だ」という呼びかけには嘘がまじっているから、「あなたたちは、ほんとうに私たちの代表なのか」としつこく問いただしつづけないと、いつか手にした如意棒とともに飛びさり見えないところで何かをして、都合が悪くなると帰ってくる孫悟空になってしまうのである。労働者はいつも仕事でいそがしい。だからといって見張りを怠ってはいけない。政治家の中には飽きっぽく、支持者との同床異夢関係をすこしも気にしない強い人たちがまじっている。だからよくよく見張っていなければ、どちらが「ご主人さま」か分からなくなる。(選挙の時だけははっきりしているのであるが)

 たしかに政務三役の任命責任もあるが、有権者として選んでしまった責任もあるように思う。(これからは納税証明書もいるのかしら)

 ところで、師走は一年をシメて新年をうかがう月であるのだが、ウクライナもパレスチナガザ地区もこのままではシメようがない。残念なことに悲惨は立ち去らないので、2023年をシメることはできず、新年を祝うこともできないのか。

 さて前回は「任怨分謗か是々非々か」とかいいながら、日米同盟をどこまで深化させるべきかと悩んでみたが、現在の非対称な関係であるかぎり軍事同盟としては十全に機能するとは思えないというのが結論であった。とくに、「米軍は矛で自衛隊は盾」という役割分担論も「日米安保は瓶の蓋」論の各論にすぎない、つまり自衛隊を盾に閉じこめておけば対外的には無害であるという理屈なのである。だから、専守防衛論が実戦上機能するのかといえば、専守だけでは防衛上不十分なところが出現すると思われる。

 もともと専守防衛というのは、有事ではなく無事を前提とした考えといえる。この点を神経質につめていくと敵基地攻撃をふくむ反撃論が浮上するのであるが、理論上は100点をねらえても、実戦で100点がとれるかは不明であるから、結局のところ国民の犠牲の程度をどう考えるかである。

 仮に国民のゼロリスク追求レベルが高く、かつ反撃能力の保持を否定するのであれば、受動化した防衛では、莫大な費用を用意しなければならないであろう。とうていGDP比率2パーセントには収まらないと思われる。それ以上に現在北朝鮮が開発中の攻撃アイテムに対して有効な対処策には技術面での困難がともない、どんなに予算をかけても対応できないケースがでてくるかもしれない。

 となれば、ゼロリスクをあきらめ報復攻撃のための強力な打撃力を用意した抑止策に切りかえるひつようがでてくるかもしれない。いずれにしても反撃能力の保有がなければ成立する話ではない。ということで、ロ朝の軍事連携がすすめば東アジアの安全保障のステージを激変させると思われる。

 2024年は、気分としてはブルーで、危機管理ランプはオレンジあるいはレッドの可能性が高いであろう。仮定の話ではあるが、まことにおぞましいことといえる。例により、文中の敬称は略す場合もあり。】

支持率の下落が気になるというのは風評恐怖症で、与党議員がだらしないということであろう。ここで踏ん張らないと、見捨てられるかも

  岸田政権の支持率の下落が止まらない。朝日新聞社が11月18、19日におこなった調査によれば支持するが25%、支持しないが65%であった。おそらく滿汐(みちしお)のように批判がおしよせて来ているイメージだと思うが、すこし合点がいかないところがある。いわく、そりゃ岸田政権にはいき届かないところが多いとはいえ、近頃の支持率は下にふれすぎではないか、ということである。

 もちろん今回の下落現象に構造的評価が作用しているのであれば、また長年の自公政権の澱(おり)への批判があるのであれば、支持率の下落の幅が一段も二段も深くなっていることもふくめてそれなりに理解できる。しかし、アンケートに答える側にそういった構造的ともいえる判断基準が明確にあるのかについては、筆者などは希望的にそうあってほしいと願っているし、またそういう所論を述べてきたのであるが、それはあくまで期待であって、かならずしも実証されたものではないことから、いまのところ「ある」とも「ない」ともいえないのである。

 つまり、この国の有権者が政治に対する構造的評価を、件(くだん)のアンケートに際して時の政権への支持・不支持という形におり込んで答えているとはいえないのではないか、少なくとも多数においてはそういうことであろう。もちろん、見かけにおいては明確に意見表明ができているのであるが、その判断をうみだす過程において、データの収集・分析などが正確になされているのかについては、下世話にいえば保証書がないのであって、ひどいいい方になるが、思いこみや主観にもとづく支持・不支持の表明もそうとうな割合で紛れこんでいるのではないかという疑念を振りはらうことができないのである。すこし唾液がからんだいいまわしとなったが、マスメディアとかネット空間が「岸田じゃだめだ」とたいそう騒いでいることに、回答者それぞれが影響されている面も考えられるし、そういったものの相乗効果によって、支持率がうず潮に引きこまれるように下落しているのではないかと、「そんな気」がしてならないのである。

 ここで「-フォビア」を「-恐怖症」ではなく「嫌悪感・忌避感」という意味でつかうならば、マスメディアとネット空間では「岸田フォビア」が先行しているように筆者には感じられるのである。また、そこには何かと面白がる空気なるものが濃くはないが薄くもない程度に漂っているとも感じるている。

荷台いっぱいの仕事に手をつけているが、それが反対者を掘りおこしている

 さて前述の「そんな気」と同じかどうかは別として、経団連の十倉雅和会長が11月20日の定例記者会見で、内閣支持率についての質問に対し次のように答えている。

-以下、引用文-

  [内閣支持率が20%台と異例の水準に低下している現状について問われ、]

  岸田政権は、グリーントランスフォーメーションの推進やデフレ脱却に資する総合経済対策など、待ったなしの政策を矢継ぎ早に遂行しており、また、外交も積極的に進めている。一つひとつの政策、外交活動は正しい方向であり、岸田政権の取り組みは評価に値する。内外情勢の変転が著しいなか、急な施策が求められることが多く、また、政策の背景も複雑であることから、政府の考えや狙いがよく伝わりにくい面もあるのではないか。個々の政策の目的・効果は何か、それが「新しい資本主義」など政府が掲げる大きなコンセプトの中でどう位置づけられるのか、といったことを国民に正確に理解してもらえるよう、わかりやすく、丁寧に情報発信するこが肝要と考える。

 -以上、引用終わり。日本経済団体連合会の「定例記者会見における十倉会長発言要旨」(2023年11月20日)から引用。-

 

 わかりやすく、丁寧に情報発信することは大切ではあるが、今回の支持率をめぐる問題がそういうことで解消するものであるのかといえば、むしろ政府の考えや狙いが見えすぎているところに原因があるとの指摘もあるぐらいだから、さらに情報発信を重ねても支持率が改善されることはないと思われる。

 いまのところ企業経営者の立場としての会長会見はそういうことであり、感情をべつにすればサラリーマンの多くもそのように受けとめているのではないかと思う。

 もちろん、物価上昇に苦しめられている生活者の視線はけわしく、為政者である岸田総理への反感が高まっていることについては、筆者としては何回もきびしく述べてきた。とくに春の賃上げが一部にとどまり全体としては十分ではなかったことから、可処分所得において置いてきぼりをくらい気分を害している人びとが多数派となり、全体として消費が不足しているといえる。という状況をとらえれば、景気失速にいたるリスクが高まっているといえる。また、この生活実感からうまれる政治への評価にはきわめて厳しいものがあることはまちがいないのであるが、筆者の感覚でいえば、10~20パーセントポイントほど数字が悪くでている、いってみればアンケートでは反感がオーバーシュートしているように思えるのである。

支持率が内閣機能のバロメーターとはいえない

 といいながら正直なところその原因についてはいまだに掴みかねているのである。たとえば、この借金漬けのなかで減税とは不埒ではないかという理想的な納税者の立場からの批判であるとしても、もちろんバラマキはたしかにけしからんのであるが、しかしそんなに怒ることはないのではないかと思うし、そういいたい。というか、何かしらわけがわからないうちに人びとが豹変したようにも思えるのである。

 ともかく「暮らしの足しになるのであれば、ニンマリと受けとる」という態度が標準仕様であったと思っていたが、どうも筆者の勘違いであったようである。

 そこで、この時世に減税などはけしからんというのであれば、COVID‐19による感染症蔓延時の給付金も助成金もけしからんということになるのではないか。さらに、10年も続いているアベノミクス金融緩和などは早々に撤廃すべきとの大合唱が起こると思われるが、残念ながら世間はかならずしもそうはなっていないのである。

 また、たいへん評判が悪いとされている少子化・高齢化策にしてみても、それらがまずい状況であるのは何十年もつづく国家的不作為の結果といえるもので、今さら岸田氏だけを攻めたてても解決策にはならないわけで、そんな風につらつら考えれば昨今の支持率低下はどうも「流行現象」の類であって、いいかえれば根拠の薄い表層現象であるという結論にとびつきたくなるのであるが、これにもどこかに落とし穴があるように思えるのである。つまり、マスメディア的「流行現象」でも、ネット空間的「岸田フォビア現象」でもない、なんともいいようのない何かがあるのかないのか、まことにキレのわるい状態がつづいているのである。

それでも「10~20パーセントポイントほどの超過下落」の原因がわからない

 ここで、岸田政権の支持率が低いのは、根拠の薄い表層現象であるといい切ってしまえばすぐさま「岸田の応援団」とのレッテルを貼られるのであろうが、そういう紅白わかれての玉入れのような対抗戦ではなく、筆者の頭から一時(いっとき)として離れない「10~20パーセントポイントほどの超過下落」の真の原因について、それが根拠の薄い表層現象つまり流行ものではないとすれば、ではいったいどういうものであるのかについてはっきりさせなければ、気がおさまらないのは筆者だけではないであろう。

 あるいは、それこそが長周期の評価軸を人びとが保持していて、今日的にいえば筆者の思いこみであるかもしれない「10~20パーセントポイントほどの超過下落」が、長期にわたり政権を担当してきた政党への問答無用の評価としてあらためて有権者が突きつけているのではないか、との仮説さえ浮かびあがってくるのである。(このあたりは弊欄2023年10月7日の時事雑考「ネタ切れ芸人化した政党への処方箋-遺伝子組み換え?」で詳しく述べたつもりである。)

 さらに格好をつけていえば、政治への長周期の評価運動がおきているのか、それとも当面の流行現象としての集団的嫌悪現象なのか、あるいは第三の何かなのかということになるのではなかろうか。

件のアンケート結果に振り回されているが、中身の議論を進めてからの話ではないか

 ところで、アンケート結果の指し示すところは神の声でも天の声でもなく、質問票の設計のおもむくところであるともいえるのであるが、質問票による調査とは元来そういうものであるのに、それが鬼の首でも取ったように、為政者失格をはやし立てるマスメディアとネット空間のコラボ狂騒に、筆者は少なくない不安を感じはじめている。もちろん、批判は批判として、さらにそれがたとえ批難合戦にエスカレートするにしても、それらをあるがままに受けとめるべきとの修身にちかい政治家としての心得を主張する人びとの存在をいやいやではなく冷静にうけとめるとしても、それらの中には受けとめるひつようのないものが、かなり多く混じっていることも事実であろう。

 たとえば青と赤を同時に点滅させては信号機は役にたたないことはよく知られているが、A氏が政権を批判する理由とB氏が政権を批判する理由が相反するとしても、支持しないという点においては見事に一致しているケースがままあるのであるから、件のアンケート結果にもそういう相反意見を包みこんでのキロいくらという雑なところがあると思われる。であるなら、それをことさら重要視してみてもそれらから「分かること」は少ないというべきで、一度包みを解いてから再考してもいいのではないかとも思うのである。

 そういう意味では、先ほどの青なのか赤なのかを決することのほうがはるかに大切であって、また国民にとって「分かること」を増やすためにも開催中の国会審議に注力すべきである、という毎度の決まり文句で締めくくらざるをえないのであるが、これでは評論としては付加価値ゼロといえる。  

 ともかくも、低々支持率を前提に人びとはそのわけを知ろうとするし、その過程において現実からひどく遊離した売り物としての政治講釈が増産され、さらにその講釈群からお気に入りのものが拡散されていくのであろう。まあ、いつの世においても憂さばらしでいえば「王殺し」がもっとも好まれるもので、話題はどうしてもそこに収斂されるのである。これも文化であるから、とやかくいうこともないのであろう。

 しかし、政治は現実であり人びとの不満はその細目におうじて個々に解決されるべきもので、それを一括して岸田氏の進退におよぶ出口策で解決できるかのごときストーリーは香具師でさえ避ける口上といわざるをえない。さらにありていにいえば、視聴率や閲覧回数を稼ぐだけの目的で事におよんでいるケースも多々あると思われるが、まさに論外である。

 さて最近の急落の真相は、数多くやるべきことをやると、成し遂げた仕事の数に比例して非支持率が上がるという現象であって、支持率低下に歯止めをかけるための諸策が逆にスポット的に反対者を掘り起こしているとも考えられるのではないか。つまり、多くのことをやろうとすればするほど支持率が下落することになり、それが政策論議を阻害するという、それだけをとらえればじつにパラドックス的である。ということからも、この支持率をめぐる議論は結局のところ大衆迎合的構造を内包しているもので、おそらく多くの人が指摘していると思われるが、とくにネット空間ではクリックという経済的理由なのか「分かっちゃいるけど止められない」事情があるのではないかと思っている。(クリックが金に化けるネット空間は情報市場のようであるが、なんでもありの闇市といったほうが適当ではないか。)

 さらに、政権の統制力の弱さや岸田氏のキャラゆえの、いじられ易さにも原因があると思われるのであるが、補正予算案が一部野党の賛成をえて成立する可能性がたかいことを考えれば、野党の批判はともかく与党内の低々支持率へのブツブツはまことにみっともないということであろう。キシダ銘柄を推奨した自民党議員が恥も外聞もなく足を引っ張っているのだから言葉もない。日韓関係も原発政策も処理水排出も反撃能力も防衛費増もLGBT法もそれからいろいろと個別の評価はさまざまであっても、歴代政権が先延ばしにしてきた難題を曲がりなりにもこなしているのだから、立憲あるいは共産が猛烈に反発するのはあたりまえであるが、自民党内が野党化してどうするの。

 今は河原道のようにゴロゴロしているが、この政権の路線は中道へむかっており、補正予算に維新・国民が賛成するのには、大阪万博やトリガー条項といった直鍵だけではなく路線論議といった大きな背景というか、人びとの意識あるいは価値観の変化があるのではないかとも思っている。

 もっといえば、この中道路線こそが右派にしてみれば右派切り離しのリスクが高いと、危険を感じるのかもしれない。つまり、隣接部(右派)を剃り落とさなければ目立たないということで、いってみれば際剃りなのである。だから岸田路線に対し党内には警戒感と不満であるブツブツが生じるているのであろう。

 とくに、安全保障面では安倍政権でさえ二の足を踏んだ課題をさっさと片づけたのであるから、称賛以上に右派的には本心をはかりかねているというか、かく乱されたようであり、そのうえでのLGBT法であるから警戒するのも当然であろう。

 まあ中道、あるいは中道右派ということであればサラリーマン層にはドンピシャであり、あとは小企業、非正規の労働者からの支持となるが、もっとも重要なのは女性の活躍と地位の向上である。

 もっとも、伝統的な宏池会の指向をなぞれば中道左派も視野に入ってくるということであろうが、ただし労働組合を丸ごとつりあげることは簡単なことではない。であれば、政権としてはたとえば公務員制度の改革を仕上げる動機が消滅するのであるから、公務員への対応を維新ほどではないにしても、ある程度厳しくするほうが選挙はやりやすいと考えているのかもしれない。という選択肢がありうるし、現状を外延すればそうなるであろう。

 一方、組織労働者の70パーセントを傘下におさめる連合の立場でいえば、自民党内の派閥のなかでは宏池会の流れをくむ岸田派との親和性がもっともたかいといえる。そこで、連合の岸田政権への評価について、右派的政策の滞貨いっそうをはかった点については賛同しかねるであろうが、最賃をふくめ賃上げ関係や働き方改革、また女性政策から新しい資本主義までについて不足感の議論は残るとしても、大綱的には評価できるのではないかと思われるが、いまひとつはっきりしないようである。というのは高等作戦かもしれない。

 筆者には岸田政権を応援する義理も動機もない。また、この二年間は暴走宰相といったりして、いわゆる辛口評論をつづけてきた。しかし、労働団体がここで岸田政権の労働分配改善路線を支持しないということであれば、この先この課題をとりあげる政権があらわれる保証はないと考えるのである。たとえば、立憲民主党主導の政権に期待するとしても、その政権が親労働者的であるとは限らないということもあり、そもそも立憲民主党主導の政権ができるのかという最大の疑問が立ちはだかっているのであるから、現場的にはいつまで待たせるのかということであろう。

 ともかく、現状の組織率を足場とするかぎり、さらに現在の二党(立憲・国民)並走が解消されたとしても、連合が政権に対し強力な影響力を行使できる見込みはないわけで、政策・制度課題の改善とか実現への道のりは遠く困難なものであることは現状と変わらないのであるから、自前の政権を渇望することはそれとして、いわゆるつなぎの方策を真剣に模索するひつようがあるのではないか。このあたりを放置すると逆に現場先行がすすみすぎて統制不能な状態になるかもしれない。ということで連合としては難局といえるであろう。

今はすべての人の賃金をあげることに結集しなければすぐに収縮する

 いまは政党としての変遷を経ているので昔話は無効であろうが、旧の民主党は2000年代は部分的ではあるが、すぐれて新自由主義的であったと筆者は反省している。とくに改革とよばれていたものは労働者にとっても鋭角であった。

 過日も、特別職の給与をめぐって、「国民が物価高で苦しんでいるときに総理はじめ政治家が率先して給与をあげるとはけしからん」といった理由で、国民民主党をのぞく多くの野党が反対にまわった。国民の気持ちをうけての反対のようで、こういった反対行為をけしからんと断じることはできないだろう。ただし、物価高に対して最大の責任者は岸田内閣であると主張するのは勝手であるが、2パーセント程度の物価上昇を目標にしている日銀の政策についての評価をどうするのかという難問があり、1ドル150円といった為替レートにも多くの異論があるのではないか。また、物価と賃上げとの好循環といえば数パーセント程度の物価上昇を是とする、あるいは目標とする考えがベースにあるわけで、今日物価上昇をゼロにするといった立場は極めて少数であるといえよう。(物価上昇がゼロなら賃上げもゼロという、いわゆるゼロゼロ論者も使用者には多いのである。)

 さらに、すでにピークアウトしたともいわれているが、パレスチナの動向により不透明化している原油・天然ガスなどのエネルギー価格の地政学的要因による値上がりはどの国の政府にとっても不可抗力と考えられている。また、他の先進諸国における物価上昇率との比較でいえばわが国においてはやや緩慢であり、外部要因による原価上昇をまだまだ価格転嫁できていないとのきびしい指摘もある。

 ということから、総合的に考えて特別職に限定した責任追及型の給与引き上げ阻止は、経済運営における合理的な視点とは関係のない突発性情動反応であると筆者は受けとめている。もちろん政治であるから、情勢によっては情動反応を政府に伝えることも野党の役割なので是非をいうつもりはない。しかし、上策でないことだけはまちがいないと考える。

 公務員給与は民間準拠を原則に、今年でいえば8月の人事院勧告を基本として、給与法でその内容を決するしくみになっている。これは長年の経験の積み重ねともいえるもので、公務員の給与について抜本的な改革あるいは体系や水準の見直しを政治主導でおこなう場合、当事者からの意見の聴取は当然のこととして、公務員の労働基本権への対応をかためるひつようがある。現在の人事院勧告制度は労働基本権制約の代償措置の色合いが強く、よくいわれている政治主導による人件費削減を強行するのであれば、基本権の回復を先行させなければ憲法規定をめぐる大きな争いとなるであろう。労働基本権制約は基本的に憲法違反であり、人事院勧告制度で首の皮一枚繋がっているというのが筆者の見解である。

 ともかく、公務員給与バッシングを集票に利用することは、先進国の中の低賃金国であるわが国においてはデフレ回帰とみられても仕方がないといえる。正直いつまでこんな議論をしなければならないのか、それも立派な野党が基本知識を欠いているようでは、現場の組合員の支持が自民党に集まることに不思議を覚えることもないのではないか、と危惧するものである。公務員もれっきとした労働者なのである。

連合は公務員制度改革をどうするのか 

 ところで、2011年6月の閣議決定で止まっている公務員制度改革案を仕上げるためには、連合として多少の戦略的対応が必要なのかもしれない。もちろん、今さらながらの公務員制度という面もあるので扱いはむつかしいと思われるが、民主党政権時代にまとめた法案のもつ説得性には大いに利用価値があると思われる。現在の自民党内には可能であれば労働組合との連携を強めたいと考えている向きも少なくないわけで、そういった集まりと連合、立憲、国民という串物として課題対応型の連携を考えることは無駄ではないであろう。

 安保外交、エネルギー政策、各種の多様化政策などの現状を前提にしたうえで、未来志向の連立を構築することは不可能ではないと思われる。とくに、連合にとって立憲・国民関係は連立関係以上には進展しないと思われるのであるから、いってみれば最善の陣立てといえるのではないか。

 覆水が盆にかえることはない。しかし、公務員制度改革という共通の古くて新しい水を盆にそそぐことは可能であろう。そろそろ、新しい政権構造についてアイデアをまとめるときではないか、と思っている。

「王殺し」は政治的危機を招くので、慎重に

 このコラムでもいく度かふれたと思うが、「王殺し」こそ究極の事件であり、庶民にとって最高のご馳走、まあ蜜の味といえるであろう。しかし、勢いあまって本当に王を弑したとしても、誰もが王になれるものではない。また、なったとしても先王をこえることはむつかしい、というよりも愚王の誕生である。さらに王になれなかった王殺しに加担した者どもには悲惨な最期がまっている。

 くわえて、小国にとっては王殺しが国の滅亡の始まりになることも多く、深刻な事態をまねくものである。だから娯楽がわりにやるものでも、また簡単にできるものでもないのである。

 つまり、「殺して、その後どうするのか」というのが常に先行するテーマなのであって、だから殺すのは準備が完了してからでなければならないというのが定石なのであるが、その手順がよく狂うことから悲劇が発生する、のである。

 ということで、この章の外題は「岸田を降ろしてどうするの」ということであり、「自公政権の崩壊」が副題である。しかし、政治状況からいえば副題のほうが本質かもしれない。つまりキシダ云々よりも、このきびしい国際情勢下でこの程度の動きというか、まあ小さな芝居どころかくしゃみぐらいしかできない議員集団に対し、いまさら国民が何を期待するというのだろうか。期待することも、期待するすべもない夕日のような自公政権であるから、みんな帰り支度をいそいでいるのに、時々現れるあわて者が夕日が昇るかもしれないと下らぬ夢を見ているということであろう。

38度線は通電状態、いつ火花が飛んでもおかしくない状態

 さて、国内の事情がどうであれ、世界情勢がわが国の首班交替を許さないのであるから、支持率をめぐっていくら騒いでみても空回りするだけである。たとえば、朝鮮半島の38度線(軍事境界線)が、21日の北朝鮮による軍事偵察衛星の打ちあげに対抗する韓国の「2018年の軍事合意」の一部効力停止により、いわば通電状態になっている状況の中で、新たな紛争を期待する国が存在すれば、半島においてニセ旗作戦が発生するかもしれない。また、そなえるべき課題は、北朝鮮の保有する核兵器が十分機能する、つまり核抑止が成立すると北朝鮮が判断したときに、核抜き侵攻の蓋があくわけで、そうなると北朝鮮の後ろにひかえる二つの大国がどう対応するのか、ということであろう。

 とくに、北の大国ロシアはパレスチナにつづく第三の紛争を内心歓迎するかもしれない。その動機はおそらくウクライナ侵略の責任希釈と米国の支援分散であると思われる。

 この38度線は多少の小競り合い、逸脱があったとしてもすでに休戦システムとしての成功を体験していることから、かならず休戦できるとの政治的判断が双方に働くとの予測性が担保となって、「ちょっとだけ」と引き金を引かせるかもしれないのである。あるいは、内政のために衝突をおこし、支援をえるために停戦に応じる、というビジネスストーリーを想定しているのかもしれない。南北いずれのサイドにしても中程度の緊張が政治資産となりうる情勢にあることから、流れとしては日米韓の連携がさらに強化されるであろうし、本当に抜き差しならない関係にいたるとも思われる。そういった誰かの思惑通りに事が運ぶのかどうかは不確定というべきであるが、少なくとも北朝鮮が切羽つまればそのように考える蓋然性が高まると思われる。

中国はかならずしも外征を好む国柄ではない、向いてもいない

 一方、北朝鮮に隣接する中国(中華人民共和国)は国内事情すなわち一党体制の持続が唯一の判断基準であるといえる。この国は一見すると軍事行動をも辞さない強権国家のようにみえるが、もちろんそうであるが、大規模紛争には踏みだしが弱いというか怯懦(きょうだ)の風があるようで、そのためか戦時体制への耐性に脆弱性があるように感じられる。

 筆者は軍事専門家ではないので、地政学につながる戦略論も戦術論もさらに現在の装備についても不案内である。だから、近年における中国の軍備拡充については驚くばかりの内容であるだろうと想像するだけであり、またニュースもそれを裏付けるものが多いと受けとめている。が、そのことと実際問題として中国が軍事問題にどのように対応するのか、つまり紛争や軍事衝突が現実化した場合に、中国が具体的にどう対応するのかは簡単には予想できない複雑な方程式になっていると考えている。

 そして、その複雑さは中国共産党が国土全体を支配するうえで人民の協力が必須不可欠のものであることから生まれているといえる。だから、専制国家でありながら人民の動向に過剰に神経を尖らせているという、見事なぐらいの逆相をもっているのである。つまり専制国家であるからこそ、体制維持のために強度のポピュリズム手法をもたざるをえないということかもしれない。 

 そこで、人民の離反を招くうえでもっとも恐れるべきものは、戦場での若者の死ではなかろうかと思う。とくに祖国防衛戦ではなく外征においては、どの程度の損耗つまり兵士等の死傷に耐えられるのかという視点でいえば定量的な目安をしめすことはできないが、「百万人といえども中国では大きな数字ではない」などと豪語することはとうてい無理であって、桁ひとつ下げたあたりが限界ではないか。どの国においても国外あるいは域外への兵力投下は国民あるいは人民の離反が怖くて簡単にはおこなえない時代になっていると、ここはすこし明るい声音でいえるだろう。

中国脅威論を因数分解して、個別に分析すれば対処法が見えてくる

 中国における最近の国籍保有者へのスパイ協力法などの法的要請は共産党政権のある種の自信のなさの表現であるともいえるもので、人民と党とが常に一体化していないという現状のなかに中国の弱点があるということと、経済発展による生活の豊かさが共産党政権の存立基盤であることをあわせて考えれば、中国にとって外征はなかなか難しいものといえるであろう。

 形式はともかく、普通選挙でえらばれていない政府あるいは党からの命令によって、どうして命を危険にさらさなければならないのか。という根源的な問いかけを防ぐためにも、戦時性リスクの最小化たとえば無人装備化(究極には無人軍隊)に舵をきるのではないか、とひそかに思っている。筆者の価値観では選挙で選ばれた政府といえども戦場へ国民を動員することは容易ではないのである。そういう文脈でいえば、子を戦場で失うかもしれないリスクに耐えられる社会は持続不能であるといわれているのに、年老いた両親を残したまま国家の命令で、また党の命令で命を捨てることが可能であるはずがないのである。よく、強権国家であるから何でもできるであろうといった声を聞くが、一般人を謀殺しはじめたら易姓革命の開始であって、共産党王朝は早晩幕を引かざるをえないことになるであろう。銃口はつねに侵略者にむけられるもので、人民にむけられるものではないという原則の遵守が共産党政権の正統性のひとつであるが、徐々に崩れていくのが歴史現象なのかもしれない。

 そこで、人口の多い分犠牲も多くなると思うが、人権抑圧にも内在的限界があり、また全体としてはまだまだ不十分ではあるが、部分的には大いに豊かになっていることが戦場にむかわずに海外へ移住するという人びとを後押しするであろう。これも祖国防衛と外征とでは人びとの対応が異なってくると思われるが、現実問題として中国には祖国防衛戦はひつようないから、豊かな沿海域ではそれぞれが緊急時の避難地を海外に準備するであろう。また、海外在留者のネットワークが発達していて戦時避難先が多いこともこの国の特徴である。

 ということで、国家体制の維持という視点から考えても中国社会の戦時耐性はいい意味でも決して高くはないと思う。だから、そこを強行すれば、10年をまたず共産党政権は瓦解すると共産党自身が考えているのではないか。ともかく独裁者のメンツのために命を落とすことほど愚かなことはない、と誰しも思っている。だから、事情によっては独裁者のほうが危ないわけで、つまり何万人もの犠牲の前に一人で済むのだからと考える向きがでてくるかもしれない。とはいっても、わが身に累がおよばなければ余計なことはしないだろうから、寝そべる人が増えるだけかもしれない。

 そういうストーリーを頭におけば38度線があるかぎり、中規模の衝突があるとしても隣国が介入する第二次朝鮮戦争は起こらないと思う。しかし、中規模といってもルールがあるわけではないから不測の事態には注意が必要であろう。当然、予想には限界があるので、しばらくは高いレベルの監視がひつようである。ということで、誰の入れ知恵なのか知らないが、来春の岸田氏の正式訪米は日米韓にとって必須アイテムといえるであろう。同時に岸田氏にとって当面の保険ともいえる。

 ということでいえば、条件が整えば来夏解散の可能性が浮上するであろう。またまた解散論議で疲れることになるが、立憲フォビア(立憲嫌い)が嫌悪感というニュアンスでは底打ちして、本来の恐怖感の意味で、与党の心胆を寒からしめる道が開けることを期待したいが、それにはそうとうな自己改造が立憲民主党にはひつようである。しかし、この国の政権交代は自民党からの「脱藩組」のエネルギーがもたらしたともいえるわけで、問題はうけいれる側の懐の深さであろう。

 ところで、日本維新の会は「大阪万博」でどうも足がもつれているようである。さらに、大方が予測していた党内ガバナンスのほころびが目立ってきている。ここは少し落ち着いて重心をさげ、しばらく他党との協力を拓くのが得策ではないか。

 来年の自民党は求心力と遠心力との葛藤の修羅場となるであろう。一強多弱の景色にいよいよ国民が飽きて、べつの景色を求める時期が到来するのではなかろうか。という妄想をふまえれば今年とはちがった政界になると思われる。

 

◇十二月どこの爺かと顔洗い

加藤敏幸