遅牛早牛

時事雑考「2024年の計-主要野党の対応(その3)支援団体の動き」

はじめに 昨日の1月26日国会がはじまった。150日間の会期である。「政治と金」については、自民党の政治刷新会議の方向性もふくめ分かりやすい議論を求めたい。とくに簿外金(裏金)の使途の解明については何のためにどのような議論をするのか、事前に与野党でしっかり詰めてもらいたいものである。そうしないと、この手の議論はややもすると乱打戦にながれやすく華々しいすれ違いに終わることが多かった。それでは国会資源のむだづかいだと思う。

 さらに、政治資金規制法の改正もひつようであろう。しかし、同法への連座制の導入については慎重に議論すべきである。よく公職選挙法の連座制が参考例として紹介されているが、そもそも二つの法律には性格の違いがあって、同列に論じるには無理があると思う。たとえば収支報告書への不記載・虚偽記載についての共謀が立証されない(できない)事案について、連座制で議員の責任を追及し、辞職に追いこむことによっていかなる正義が実現されるのであろうか。さらに、金額の多寡が起訴基準にあるようだが、金額だけで違反の悪質性についての判断ができるのかなど課題もある。何でもかんでも司直の手にゆだねる流れについては、検察国家をめざすのかという危惧さえ覚えるもので、そもそも政治に金がかかるという理屈の中に有権者とのかかわりや交流の存在が指摘されている。適正に処理されている事例のほうが多いわけで、一部の派閥や議員の不始末で全体に重荷をかすのは本末転倒ではないか、という声も強いことから全体の議論が迷走する可能性もあると思われる。今さらややこしい議論をするよりも、有権者が次回選挙で投票によって審判する方がはるかに合理的だというのが、筆者の意見である。

 ちなみに、公職選挙法の連座制は1925年普通選挙制の導入時から規定されていたが、いく度となく改正強化され、1994年(2回)の改正では「拡大連座制」ともよばれた。筆者としてはきわめてきびしいルールだと受けとめているが、選挙は民主政治の根幹であることからやむをえないと考えている。また、「おとり行為」や「寝返り行為」などの免責規定があるなど、なかなかにむつかしい規定で異論も多い。

 他方の政治資金規正法は資金の動きを開示させるいわば形式を求めるルールである。形式といいながらも重い刑罰が科せられているところに特徴がある。とくに公民権停止は政治生命にかかわるもので、かぎりなく重いといえる。公正な選挙で選ばれた議員の形式違反と選挙そのものへの不正行為に対する違反への処罰が、連座制という責任追及としては合憲違憲ギリギリの手法を同列にあつかっていいのかという論点において、大いに疑問が残るものである。

 まあ、権威主義国が好んで使いそうな手法であって、とくに選挙で選ばれているが気にいらない議員を辞職させるのに格好の手段になるのではないかと、未来小説的ではあるが気にしているところである。

 わが国が全体主義とははるかに遠いと安穏と構えているだけでは民主政治を守ることはむつかしい。190をこえる国連加盟国のうち全体主義とはいえないまでも選挙に公正さを欠いている国は想像以上に多い。また議員活動に国家権力が介入する国もさらに多い。抽象的な「民主主義の危機」が病症として具体化しているのが世界の現実なのである。厳罰化というのはもっはら司直にゆだねることでその恣意性についてのリスクを負うだけでなく、主権者の怠慢を助長することで民主政治の向上にはつながらないと思う。

 野党は選挙で決するべきである。政治の場に検察権力を多々導入することはけっしてためにならない、とくに野党にとってはそうではないか。連座制適用の主要事例をふりかえればまたちがった考えも浮かんでくると思うが。

 この国会は、とくべつのむつかしさを抱えている。表層的な問題も多いし重要である。さらに深層にも大きな課題がよこたわっている。とくに外交防衛でいえば、対米関係であろう。日本も小さくなったが、米国もしかりである。日本もふらついているが、米国もしかりである。本当に多極化を受けいれるのか。であれば、隣接国との関係を整理するひつようがあるかもしれない。台湾有事よりも半島有事少なくとも北からの挑発の可能性は高いと考えるべきではないかとも思う。

 それもあって世界は同時多発紛争の危機に直面するであろうし、地域と規模と程度によってわが国の対応も変わらざるをえなくなるであろう。危機に瀕すれば国民の選択肢は狭められる。国民は自粛するであろうが、それがあらたな政治危機を生むと予想される。

 ということで今回は、主要野党を対象にらくがき帳のように書いてみた。書けば書くほど労働団体の役割が浮上するのであるが、冷えた雑煮は雑煮ではないということなのか。あるいは16.3パーセントの限界のなせるものなのか。

 昨年、日米関係について「任怨分謗」か「是々非々」かと問題提起をしたが、筆者自身いまだに結論をえていない。

 さて、賃金交渉の季節となった。小企業での賃上げ、価格交渉が焦点であろう。この領域で成功すれば歴史的成功との賛辞をおくりたい。中小企業ではない、対象は小企業なのである。これがわが国の課題の筆頭であり、産業構造問題における核心である。この問題にかぎれば岸田政権を応援したくなるのだが、新しい資本主義の二の舞にならないことをせつに祈るばかりである。

 「裏金事件」は「簿外金事件」と表記を引用をのぞき変更した。おもな理由は「裏金」のニュアンスが多様であり、事実をこえて憎悪感情を生むおそれが強いと考えたからで、インパクトには欠けるが「簿外金」のほうが正確である。

 -コラムの構成については、(その1)(その2)(その3)となっているが、執筆が3週間程度で元のラフスケッチに順次肉付けをしている。したがって後にある文章のほうが新しいはずであるが、ラフスケッチでの構文を軸に書きこんだ場合はときおり前に書いたもののほうが、視点としては新しいことがあって奇異に感じられるかもしれない。作文法に由来するものなので理解願いたい。】

労働団体が政治にむかう姿勢

◇ 労働団体である連合と政党との関係は自主、自律であって、相互不介入を原則とすることはいうまでもない。という原則にたって、連合の政治方針が当面の選挙において支持連携する政党あるいは候補者を決定してきたということであろう。もともと政治と労働、あるいは政党と労働団体との関係は距離があるものであって、その一体化をはかることはさまざまな弊害をまねくことになるというのが一般的な理解といえる。また、距離があるからこそ接点が生きてくるというのが多数の考えと思われる。

 連合が労働運動の歴史をふまえて特定の政党との距離を自主的にコントロールしているのであれば、そういった判断に対し自由な意見の表明はともかく、外部から非難することはないと考えるのは自然なことであろう。

 ところで、政党対政党の関係において、たとえば立憲民主党(立民)と日本共産党が選挙において互恵的関係を決定したことをもって、連合が立民との支持連携関係を、団体単位あるいは候補者単位で見なおすことを禁ずる理屈はふつうないのであるが、選挙の実情において市民団体などから批判がでてくることはありうることである。

 一般的にいって、批判は表現の自由の範囲において自由であるから、そのままに受けとめればいいと思う。ただし、選挙は当選をはかることも、当選を阻止することも法内であれば自由であることから、政党間の関係を支持・不支持に反映させることが間違っているとはいえない。

推定組織率16.3%の枠内での組合員の政治意識も多様化している

◇ もちろんさまざまな解釈があるにしても、連合傘下の労働組合員の投票行動については、いくつかの産業別労働組合が大規模な事後調査をおこなっている。その結果はとくだん特徴的ともいえないもので、特徴的でないところが特徴であるとやや自嘲ぎみの解説をうけたりしたが、近ごろの多党化と連動しているのか、組合員の政治意識の多様化もすすんでいると思われる。

 くわえて、2023年の労働組合の推定組織率が速報値で16.3パーセントであることを考慮すれば、多少飛躍するが「立民は労働組合に気を遣いすぎ」ではないかといった声もでて当然であろう。未組織領域の83.7パーセントを視野にいれた活動にも力をいれるべきである。といっても、具体的な方策が目の前にあるわけではないということで、いささか旧聞にぞくするが「脱労組依存」に結果としてなってしまったということであろうか。まことに川の流れを変えるのはむつかしいといえる。

立・共協力は立民にとって鬼門なのか 

◇ ほとんどの議員にとって次の選挙において当選をえること、すなわち再選こそが最優先課題であるから、なにごとも再選にからめて考えるのが議員の習性になっているといえる。であるから、たとえば立民の候補者にとって日本共産党候補の有無への関心は高いといえる。関心というよりも願わくば立候補のないことを祈る思いであろうが、そこにつけいるスキがあるということであろう。くわえて、それぞれの地域事情もあり、内部調整でさえ難航することも多く、決して簡単なことではないが、出る出ないといった調整は小選挙区制であるかぎり必然の事象であり、選挙戦術としては不可欠のものであろう。この多数派工作において、多くの選挙区での調整がまとまれば野党側としては大幅な議席増が期待できる。すなわち小選挙区制のもつバイアス効果を野党側がかくとくすることになる。

 ということで、立民にとって一般的な選挙協力は利の厚い取引のようであるが、政権を奪取するという目的にてらせば、日本共産党との選挙協力には一定のリスクがあるといえる。とくに、国家体制についての議論において共産主義あるいはマルクス・レーニン主義をベースとした政治価値体系については事前にしっかりと整理(評価)しておかなければ、有権者の側によけいな疑念を生むことになり、結果として日本共産党との選挙協力がプラスよりもマイナスになる、と予想すべきであろう。

 具体的には、資本主義・市場経済を容認するのか、あるいは改変するのか、また日本国憲法第1章(天皇)について改定するのか、さらに日米安全保障条約に対する評価(破棄)などに関する日本共産党の基本的な考え方についての立民自身の分析と判断が問われることになるであろう。いうまでもないことであるといえばそうなのであろうが、機会があれば政権をになうべき立場であるのだから、表にだすかどうかの判断は横において、立民の内部ではこれらについての統一見解を明確にしておくべきであろう。というのが野党第一党の責任ではないか。

 2021年10月の総選挙が立民にとってかんばしくなかったのは、そのような基本部分を迂回して表面的な協力関係が前面にでたことから、支持層の腰がひけたという印象がつよかったと思う。やはりというべきか立・共協力というのは立民にとって生来の鬼門のように思えるのである。もちろん選挙区事情が微妙に影響してくるので、かたいことは止めにするが、それでも考慮すべきことではないかと思う。

思想の自由のもとでの政党活動ではあるが、歴史的経緯の中で生まれた閉鎖性 

◇ 日本共産党は政党としては100年の歴史をもち、主要野党の中では特別な組織運営をおこなっている点において特異な存在といえる。科学的社会主義を標榜する老舗政党ではあるが、そもそも共産主義をどのように理解するかは思想の自由に属するものであるから、そのことをもって批判あるいは非難することはないというのがわが国の常識というか政治的素養であると考えられている、少なくとも筆者はそのように理解している。

 とはいえ、名称に「共産」を冠している政党は世界的にみても少数であり、さらに議会において共産党という名称で多数派を形成している主な国は中国、キューバ、ベトナムなどわずかである。ラオスは人民革命党と称しているがマルクス・レーニン主義といわれている。もちろんマルクス・レーニン主義あるいは反資本主義をうたっていても党名には共産党をもちいないところも多い。

 くわえて共産主義にもとづく国家経営の実例はほとんど聞いたことがない。また、共産党が支配する中国は、社会主義国ではあるが市場経済型と称している。つまり、「共産」というものの核心についてはいまだに不明確であって、ましてわが国の市井においてはほとんど語られることもなく、また簡単には説明できないものとなっている。

 ということで、共産党が話題になったとしても、昨今では知識人においてさえスラスラとは説明できないであろうし、実際のところ世界の共産党との比較を引用しなければよく分からないといえる。(引用すればさらに分からなくなるかもしれないが)

 たとえば、中国においては土地の私的所有は認められていないが(近く認める方向と聞く)、使用権は認められているという前提であの高層住宅群をながめれば、権利の名称がどうであれ将来売ることができるから高額のローンを支払うのであって、もし売ることができないのであれば、賃貸物件と変わらない。そうであればバカ高いだけといえる。社会主義というからには公共住宅建設を先行させると思うのであるが、社会主義市場経済は別ものということか。

 昨年度の経済成長率が5.2%であったといわれても、首をかしげながら不動産分野の動向が気になって仕方がないというのが、わが国からの視線であろう。中国発の不況にならなければいいと普通の人は思うぐらいではないか。

 といった隣国の実例を目のあたりにしながら、ではそういったあたりについて日本共産党は政策的にどう考えているのか、という疑問に人びとはどういう回答をイメージするのであろうか。党の公式見解ではない、そういったものはほとんど目にすることもなければ、読むこともないのである。「共産党はかく語っている」と世間に漂っているイメージから人びとは勝手に回答を汲みとるのであるから、いわゆる公式な説明とはズレが生じるのは日常茶飯事といえる。

 中国についての報道に接しながら人びとは社会主義市場経済の矛盾をかいま見たような気がしているのだと思う。だから、住居使用権の値上がりが投資どころか投機の様相をおびていることについては、いずれ破局(カタストロフィ)をむかえると思っているのではないか。日本共産党の幹部は関係ないというであろうが、中国経済が失速しはじめればわが国の人びとは「やはり共産主義はまずい」と単純に反応するであろう。考えるのではなく、感じるのである。

 つまり、国会において政府を追及することで成果をあげてきた日本共産党の政党活動についてではなく、国家体制としての共産主義には展望がないと人びとが感じているところに、日本共産党の限界があるのではないかということである。

 そこで立民としては、選挙対策として当落線上にある議員あるいは予定候補の実情や声を受けとめざるをえないということであろうが、今後10年間の時間軸で考えれば中国、北朝鮮とのあいだに各種の緊張がたかまると予想されることから、わが国の人びとの間に中国式社会主義とか北朝鮮の主体思想へのネガティブな感情がたかまることも考えられるのである。

 そういう流れにあって、日本共産党の科学的社会主義も人びとからは同類であると受けとられるおそれも高いと思われる。やや飛躍するが、国内政党との関係における容共性と、国家関係における容共性とが同じの議論の中に収納できるとは思えないが、現下の国際情勢をふまえれば国内政党というよりも国際的な存在としての共産主義政党という認識のほうが強調されることになると思われる。さらに中国におけるスパイ法の強化が日常的に中国共産党への悪感情を亢進させることには注意がひつようであろう。 

 もちろん、あくまで政権を射程にいれての立民に対する意見であるから一面的な指摘であることを否定しない。しかし、中国共産党も日本共産党も同じ共産党ではないかという有権者の声に、立民が代わりに説明あるいは弁解することにはならないから、ここらあたりがつきあいにおける境界線になるのではないかと思っている。

 したがって、政権を担当することを目標におくのであれば、日本共産党との関係をしずかに薄めていくということを真剣に考えるべきではないかと思う。

立憲民主党の思想的基盤は広すぎて、姿が分からないのでは

◇ ところで、今日の立民がどのような思想的基盤にたっているのかについて、正直なところ鮮明にとらえることができないのである。それがキレの悪さとなっているようにも思える。同党所属議員のレンジは広い。おおむねリベラル保守から社会民主主義までの中道をふくむけっこう広い範囲をカバーしているにも思えるが、印象としてはわりかし狭域の感じで受けとめられているようである。

 つまり、実態的には幅広いにもかかわらず印象的には狭域(ナローバンド)と思われている理由については、党運営とマスメディアなどへの顔出しの偏向に原因があると思われる。層の厚みと幅広さが政権担当能力の一つの表現であるので、そう考えればまことにもったいないことだと思っている。また、新しい平和論すなわち安全保障戦略をふくむ外交安保の枠組みを提起し、自民党との違いを鮮明にすべきであろう。今のままでは、反対しているという印象があるだけで、自民党との違いが分からないどころか、そもそも立民は何をめざしているのかさえ不鮮明なのである。(もっといえば、山ほど文句をいいながら現実は2015年の安保法制に乗っかっているのだから無賃乗車に近いのではないかといった感じがある)

 だから、憲法の平和主義といってみても対中、対北あるいは対ロとの関係において、かぎりなく譲歩するのが立民の平和主義ではないかといった誤解が少なからず渦巻いているといえばやや大袈裟であるが、立民へのネガティブキャンペーンとしては成立するように思えるのである。こういった指摘はおそらく立民にとっては大いに不本意であろうが、であるならばその不本意であるところを積極的に説明すればいいのではないかと思う。

社会保障と税の抜本改革3党合意で分断を回避したが、政権交代には懐疑的な空気感

◇ 11月の米大統領選挙までの政治的には低気圧の期間に何がおこるのか分からないわけで(選挙の結果によってはさらに分からないことになるが)、それを考えれば対外的な基本方針を各党ともに明確にするひつようがあると思われる。という点で、立憲民主党、日本維新の会、日本共産党はいかなる方向をむいているのか、ということであり、もっとも懸念するのは「あまり考えていない」政党が政権に参加することである。

 そこで、今日の政治シーンでのわが国の一番の特徴は、政権交代に懐疑的な空気の存在であると決めつけてみるのであるが、そういった否定的な空気感が強まると何のために小選挙区制を採用したのかという基本問題にまでいきつくのである。こういった多くの人がそれとなく感じている、政権交代への忌避感情がいかに形成されたのかといえば、2009年夏の選挙による民主党政権の発足が3年3月で終焉したという近過去が悪い体験として記憶されているということに由来するのかもしれない。

 政権交代を悪夢といった負のイメージとして有権者にうえつけたマヌーバー(策略)ともいえる政治工作を積極的に支持していたのは誰なのかという政治性の高い疑問がうまれるのはある意味自然であると思われる。もっといえば、民主党はドタバタとした各論での不首尾にまみれた政権ではあったが、リーマンショックの後始末にくわえ東日本大震災とそれにともなう津波・原発事故への対応さらに年金記録から始まった年金制度の安定策としての消費税増税などに、政治資源のほとんどを投入せざるをえなかったことが民主党政権の業績についての不足感を人びとにあたえたことは事実であるから、長年にわたる政治不信ともいえる底流に、その時の不首尾な各論が重畳したわけで、それを民主党政権の悪夢と表現するのはさすがに短絡もいいところであろう。

 たとえば、国の原子力政策への信じがたいほどの不信感や原発ムラへの拒絶感あるいは国民年金制度への若年層を中心とした不信感さらには米軍基地をめぐる国内配置への不整合と中央地方間の不協和など長年にわたる矛盾の蓄積などは震災がなくてもその解決や矛盾の解消には10年20年の時間がひつようであったと誰しも思うのではないか、というのが筆者の受けとめであった。

 という情況ではあったが、国民年金制度への国民の信頼を回復するために社会保障と税の一体改革を当時の三党(民自公)で合意にいたったことは、今日的にもふりかえる価値が十分あると思われる。というのも社会保障と税の一体改革についての厳しく激しい民主党内議論の結果、消費税増税に反対する小沢グループの離脱により民主党政権は失速していったのであるが、ともかく大きな犠牲を覚悟で事にあたったといえば、やはり身びいきに聞こえるであろうし、それ以上に若気のいたり、あるいは稚拙といった批判のほうが一般的であることは否定できない。

 筆者においても少なからず増税という方法に対しては違和感を感じていたので微妙な心境ではあったが、しかし十年の月日を経た今日においても主要政党間で重要課題に対し方向性を決定していく姿勢については評価するにやぶさかではない、つまり分断は回避されるべく努力されていたのである。

 このように複雑な思いがあるうえに政務三役として野田内閣の末席につらなっていたこともあり、筆者はすべてを政権政党である民主党の責任に帰す言説には与する気はなく、歴史的事実として民主党政権において社会保障制度の安定のため三党合意という妥協を決断したわけであり、その結果もふくめ与野党による協議が確実に機能していたと受けとめている。だから、与野党ともにそれぞれの立場において責任を分担していくという議会制民主政治の基本にてらしても滋養あるものであったと考えている。

 であるのだが、消費増税を決定した政権に人びとの支持があつまるはずがない。その政党がふたたび隆盛するには時間だけではない、なにかしらの歴史の転機となるものがいると思われる。当時の野田首相は政権喪失は覚悟していたと思われるが、政党喪失までは慮外であったのではないかと思っている。

 いってみれば、政党としての老獪さに欠けていた、あるいは純朴というかナイーブすぎたといえる。しかし、このようなことは人智をこえたところの問題であると受けとめている。

「野党のふがいなさが際立っている」が、では支持者に何ができるのか

◇ さて今日の政治情勢において、国内事情をいえば「野党のふがいなさが際立っている」ことはまちがいないといえるが、そこで「だからどうしたの」といいかえせばただの開きなおりと非難されるであろう。野党の活躍を期待している人びとの心情を思えば、たしかにここは開きなおるところではない。といいながらも大いに突きはなしたいのである。しかし、現状を考えれば突きはなすだけではすまされないという葛藤があることも事実である。

 そこで、野党がふがいないからといって、人びとに何ができるのかと問えば答えがでてこないところが葛藤のはじまりで、たとえば投票行動でそのふがいなさに喝をいれることができるのであれば、とっくの昔に改善されているはずであろう。しかし、現実はそうはなっていない。現在の選挙制度には「ふがいない野党を勇気づけ局面打開をはかる機能」などは備わっていないのである。だから、従前からの支持者が投票しつづけるだけのことであり、その結果が「現状のまま」ということになり、それでは何もしなかったことに等しいのではないかということで、いってみればグルグルまわっているだけ、ということで支持者には事態をかえる手がないということになるのである。

 だから、与党自民党がこれほどの窮地にあるのに野党に風が吹かないことを嘆じながら、それでもなんとか風がふいてほしいと願っている人たちには打つ手がないわけで、そういった無力感がとても強いストレスになっていたと思われる。もうかれこれ十年近く、また8回の国政選挙において芳しい結果がえられなかったのであるから、気分的にもそうとうに疲れているのではないかと思っている。  

 かくいう筆者も、軽い程度においてそうなのである。と肩すかしのようないいまわしになったが、すでに「軽い程度」になってしまっているところに、問題が潜んでいるように思われるのである。「軽い」というのは2012年末からはじまった民主党転落シーンにおいて徐々に蓄積された疲労が、野党への心配を減衰させていったのではないかというのが筆者の仮説であって、つまり「軽い程度」の心配ですまさないと支持者としては身がもたないということなのである。

 ということで、つまり立憲民主党も国民民主党も大まかにいって軽い程度の心配はされてはいるが、けっして深刻な心配をされているとはいえないのである。結局、中途半端にしか心配されていないのではないか、と思うのである。

 ではなぜ親身に真剣に深刻に心配されなくなったのか、それは熱烈な支持層あるいは支持者の漸減現象によるものと考えている。とくに、戦後生まれのリベラル層が加齢により後衛に去っていったことから、活動層の総熱量がさがり中心熱の低下が低体温をもたらせているような気がするのである。

 さらに、彼ら彼女たちの退場とともにリベラルな価値観、進歩主義、人権主義など社会民主主義的なイデオロギーもあわせてうすまってしまったことが立民・共産・国民への支持の低温化に拍車をかけたのではないかとも思っている。

 いいかえれば、政党支持が相対化されすぎて、特別な思いで政党を支持していくという社会的な情動が弱まったということであろう。

 そのきっかけとなったのが、2012年暮れの民主党政権の崩壊とそれにつづくあたふた感であったろうし、さらに二大政党的しくみへの有権者の懐疑心であったのかもしれない。いずれにしても、2009年の民主党政権の樹立がリベラルとしてのピークであり、その崩壊がリベラルの挫折のはじまりと思うが、そういったリベラルな政治価値をいち早く見捨てたのも一部の戦後リベラル世代であり、中でも団塊世代ではないかと、筆者もその一員であることからそのように感じているが、すこしバイアスが強すぎるのかもしれない。

 そして、時代の流れは現実主義(リアリズム)へ移行しているというか、何かにつけて「メリット、デメリット」で判断する時代へ、さらに「コスパ」の時代へと移りつつあるのではないかと思っている。

 政治に理想を求める粘着思考から、現実を直視しながら最適解の追求にシフトダウンしていったことは評価すべきである。しかしそれだけでいいとは誰も思わないであろう。2013年からの第二次安倍政権において最適解を可能にしたのが異次元の金融緩和と国債の市場からの買取であった。とくに異次元の金融緩和はおよそ2年で結着のはずであったのに、すでに10年を越えているではないか。退職金に利子をつけずに10年たったが、今では物価は上がるが利子はほぼゼロで、まるで追はぎにあっているようだ。「物価と賃上げの好循環」といっても格差は拡大するばかりであろう。日銀には庶民という言葉はない。年金生活者もない。過激なようだが「日銀は敵」というのが庶民にとっての正しい認識ではないかしら、正直なところ。

 ということで、さしもの現実主義も財政規律を考えれば政策としてはすでに限界点にあることも事実であって、ひるがえって現状追随に特化してきた自公政治も早晩壁につきあたることは目にみえていることから、これからの課題は「メリット、デメリット」ではなく「デメリット、デメリット」つまり引き算の時代にならざるをえないと、とくに気候変動対策を重視するのであれば、抑制と公正が重視されることになると思われる。 

 いってみれば資本主義原理を超越する新しい価値体系が求められる時代がきているということであろう。

 ところで、温暖化ガスの排出制限は経済活動をきびしく制限するもので、生産と消費の抑制と資源分配の公正がつよく求められることになるであろう。

山分け政治そのものであった与党が、借金して山分けをつづけてきたが、もはや限界である。

 現実主義とは資源分配型政治ということであるから、資源がマイナスとなればこれは政治家にとってけっこうきつい環境となる。ほとんどの政党にはその準備がないわけで、もしかして政権をとりたくないというのが本音かも。それでも万年野党がいいってことはないだろう。ってことではないのか?

 そうなると、奇々怪々であって政党が政権から逃げる現象が普通になる。安倍派の「簿外金事件」は何かしらの前兆現象かもしれない。いな、液状化というべきかもしれない。

 ということで、いわばマンネリズムに埋没する政治では対応不能ではないかということであり、とくに次の時代を準備するべき主要野党の責任は重大であるといえる。

当人たちは「ふがいない」なんて思ってはいない 

◇ さて、主要な野党たとえば立憲民主党、日本維新の会あるいは日本共産党に対して、人びとが感じているこの「ふがいなさ」を党内ではどのように受けとめているのかがつづけての論点であるが、どうも深刻ではなさそうなところが問題というか、はっきりいえば病巣のような気がするのである。(ひょっとして当人たちも疲れているのかな、とか思ったりしている。)

 ここであらわにいってしまえば、主要な三野党ともに内々では「ふがいない」なんてすこしも思っていないし、また感じてもいないのが本当のところであって、むしろ困難な状況にありながら自分たちは健闘している、ということかもしれない。そこで、そういった自賛はべつにして、党内の規範にてらして矛盾のない適切な対応を合格点をこえて完遂している「つもり」に陥っているように見うけられる。そういう集団に対して、どういった言葉をおくればいいのか、言葉選びに苦労している日々なのである。

 しかし、今さら何をいっても「そういうおまえは何様か」と返されるであろうし、たぶんそういうやりとりもふくめて時間のむだに終わるのではないかという不安が筆者にはある。だからこの回をボツにすれば、すっきりゆっくりできると思うけれど、そうすれば次回以降の筆の運びがおもくなる。気乗りがしないからといってサボるわけにはいかないのである。(このあたりはもう3週間も抱えこんでいるのである)

「嫌われている」のか、野党も岸田政権も?じつに不可解である

◇ ということで、主要野党三党と支持者とのあいだにはそれぞれ情勢認識におけるギャップが生じているのではないか。そう思わなければ、自民党において政治資金パーティー収入を派閥や議員の簿外金にしていたことが発覚し、議員までが起訴されたというのに、主要野党がこじんまりとしたレベルの政党支持率にとどまっていることの説明がつかないではないか、と誰しも思うであろう。

 やはり嫌われているのかとも思うが、それにしても好き嫌いにも限度があるのではないかといってみたところで、有権者の冷たい反応はいかんともしがたいということであろう。野党応援にとりかかると、なんだかいつもこういう思考ループにはまってしまうのである。

 そういえば「野党?考えるのも嫌だ」とのひと言ですませた御仁もいたが、わが国のきびしい実情を思えば、そういった好き嫌いでは済まされない事態にいたっているのに、既存の好き嫌いループから抜けだせないのは有権者もおなじということか。じつに悲劇的でありなんとかしなくてはと焦り空回りしているのである。

 ここ何年か、野党にしか思いを託せない人びとは、「ひとつの大きな塊をつくる」ことに固執してきたように思われるが、それはそれで無精卵を抱きつづけているようで虚しさすら感じてしまうのである。現在の野党は「戦線はつねに膠着状態」といいながらみずからを無力化しているのかもしれない。

立憲民主党といくつかの民間労組の行き違いはどこから始まったのか

◇ ところで、立憲民主党(立民)に属する多くの議員の気持ちの襞(ひだ)にはなんともいえないわだかまりがあるのではないか、と感じている。それは「いくつかの民間労組(以後民間労組と記す)」との関係からきているのかもしれない。すき間というべきなのか、行き違いというべきか、もやもやとしたいわゆるわだかまりなのである。

 もちろん民間労組が自民党支持に走るのではないかといったビッグフィクションに起因しているものではない。そうではなく、これといった顕著な理由があるわけでもなく、どちらかといえば引潮のような、あるいは人間関係の低温化のようなものであって、それがジワッとしたものだけに気鬱(きうつ)な不安がかきたてられるのであろうと推察している。しかし、じつにすっきり感ゼロの行き違いではないかと思う。

 こういった野党第一党に原因不明の気鬱があるというのは、自民党にすればおいしいとかいうべきものではないが、けっして悪いものではないということで、是非ながくつづいてほしいと思っているかもしれない。また、水面下では労働界に対しなにがしかの工作がなされた結果ではないかと頼もしく感じている議員がいるかもしれないが、それは錯誤であり過度の楽観である。そんなことよりも、今回の「簿外金事件」によって労働界の自民党への好感がもとからなかったことになってしまったということであろう。

 つまり、泉代表にとって行き違いとかわだかまりを一挙に解消する絶好の機会をえたともいえるのである。であるが、むしろ才覚というか器量がためされるという面で筆者はピンチではないかとも思っているのである。

 さて本論にもどり、行き違いというか冷えてしまった原因が国民民主党の分流(2020年9月)にあったと、単純にそう思いこんでいる人たちは「国民民主党よ、誤りを認め早く帰ってきてほしい」ということであろうが、そういう一方的な思考にとどまるかぎり事態の改善は見こめないというべきであろう。

 政党間競争における思想あるいは理念上のポジション取りが見た目は地味であっても、けっこう戦略性が高く政党の伸長に大きく寄与しているというのがここでの仮説である。

 たとえば、中国がリーマンショックの後あたりから周辺国への物言いにかなりの威圧感を加えはじめたと記憶している。太平洋への出口をめぐり覇権主義を露骨に表にだしはじめた中国と先軍政治を声高にとなえる北朝鮮が、わが国の安全保障を考えるうえでの大きな脅威になるという議論が本格化していった時代に、反中、反北にとどまらずに周辺国への警戒を一段あげるという政治的ポジションがもつ価値にいち早く気づいたのが2012年9月に自民党総裁に復帰した故安倍晋三氏であったと筆者は受けとめている。つまり右寄りのポジションをとることによって、近隣国からの威圧に不安をおぼえている保守層の支持をかためることに成功したといえるのである。この場合安全保障上の不安を政策的に受けとめるだけでは不足であって、ポジションを右に移したという行動への信頼がその後の国政選挙を6連勝に導いたと考えている。

 このように、時代に即した思想あるいは理念のポジション取り、いいかえれば変更が政治的にはきわめて重要なのである。

 では立憲民主党において同様のことが可能であるのかといえば、実践的経験からいって「左から中道へ」というポジション変更はむつかしいものであると思っている。エビデンスではないが、2017年10月からはじまる立憲民主党の軌跡こそが、左から中道へのポジション変更のむつかしさを雄弁に語っているではないか。簡単にいえば右を抱えこむことは左派系政党にとって規律上なかなか受けいれられないようで、いってみれば免疫の問題なのかなとも思うのである。

 すこしくマニアックな言説で申しわけないが、おそらく党内左派はまるで風紀委員のように党内秩序の維持を主張するのであろうが、こういった個人感覚に由来する潔癖性の克服はすこぶる難事ではないかと。だから、思いのうえでは右へ右へと舵をきっていても、遠くから眺めるとあるいは後から振りかえると航跡は見事に左向きなのである。

 立民が中道や右派をのみこむというのは、2020年9月の合流で実現したといえるが、この事例においてさえ中道や右派を腹いっぱいのみこんでも、立民としての左派性をうしなわなかったことがきわめて印象的であった。政治集団の思想性の原理は絵具を混ぜることとは本質的に違うということではないか。

 さて、政党としてさまざまな進路が考えられるが、中道域における党勢の拡大なくして、立民が政権を手にすることは困難であることは大方の賛同するところであろう。

 では中道における党勢拡大のためにはどうするのかといえば、それは集団的自衛権の容認は憲法違反であるという「正しい考え」を停止し、安全保障のあり方を現状是認から発想する方式に変更することにつきるのである。といえば、正しい考えをすてさるとは言語道断ではないかと反論されるであろうが、けっしてむつかしい話ではない。正しい考えを道にたとえ、その道が地震により陥没し寸断されたときに、なお前進するのが正しい判断といえるのであろうか。道はすでに失われたのである。現実をうしなった正しい考えがいつまでも正しいわけではない。地震とは中国の軍備拡大とその覇権主義であるといえよう。

 立民にとっておそらく無理難題ともいえる路線転換を提起する根拠は、東アジアにおける中国の脅威が当面つよまることがあっても弱まることはないという見通しであって、その前提が変わるのであれば立民の安全保障政策を変えることはないのである。この話は、あくまで政権にアクセスする気があることを前提にしたもので、うわべはともかく政権奪取の意欲がないのであれば、無理をすることはないといえる。したがって、本心から政権奪取を意図するのであればやはり安全保障政策は変えるべきであり、その方向は現実に即応する道を選択すべきであるというのが筆者の結論である。

 以前にも述べたが、中国が基本方針(覇権主義とか戦狼外交など)を大はばに変更し、その結果東アジアにデタントの大風がふきだせば、自然と立民の支持が高まるものと思われる。という構造で有権者はこの問題をとらえていると思われる。だから、立民が自律的に左翼的方針を決めているといったことではなく、支持者の多くが左翼的傾向をもっているから、立民もそのように動いているといった理解のほうが現状にあっているということかもしれない。ということで、立民万年野党説が実情にもっとも近い表現であると思われる

 血糖値が高くなるとさらに甘いものを欲するというのは俗説なのかどうか分からないが、安全保障上の緊張が高まれば高まるほど人びとの意識が国防力強化あるいは排他的になることはなんとなく理解できるもので、その程度において安全保障意識のカーソルは遷移しているのであるから、立民にとって思いきって右へ転向したとしても、カーソル的にいえばまだまだ左なのであろう。ここでいうカーソルとは平均的な国民の認識であるから、要はそれが大きく変化している、すなわち国民の安全保障に対する認識はここ十年余で国防力強化の方向へ大きく動いたといえる。

 だから、2014年当時の安全保障に対する国民の認識と2024年におけるそれとでは、中国の軍備拡大と北朝鮮の核開発やミサイル発射実験、さらにプーチン大統領によるウクライナ侵略によって大きな影響を受け、結果として国防力強化の方向へ遷移させられたといえる。たとえていえば、サッカーコートのセンターラインが動かされたという程度ではなく、スタジアムまるごと動かされたように筆者などは感じ、受けとめているのである。

 さらにこの安全保障に対する認識の遷移は若いゼネレーションにおいてその程度が顕著であるとも考えられるもので、いわば世代の適応現象であると考えれば、昔基準から今基準そして未来基準への移行であるといえるのではないか。

 さて、単純な世代比較はおき、前回平和論の必要性を述べたが、立民として現下の安全保障情勢を直視するなかで、立民なりの平和論があると思われるが、率直にいって安全保障における立民の日米関係重視とは具体的には有事対応なのか、それとも平時対応なのかが不鮮明であり、その点が人びとには信頼するには遠い存在つまりこの問題から逃げているというイメージを形成しているのではないかと分析している。

 筆者の感想をいえば、いずれ立民の時代がくるという根拠のない期待感の中で、ひたすら熟柿の落ちるのをまっている風に思えるのである。それはそれでかならずしも理屈のない対応ではないと思っている。であるなら、日ごろの発言とはかみ合っていないではないか。やはり、立民としては日米同盟論と連動する新しい平和論がないことが支持率がいまいちの状態をつくりだしていると思うのだが。

◇時国(ときくに)の栄え悲しや水も涸れ

加藤敏幸