遅牛早牛

時事雑考「2024年4月の政局-裏金事件と日米首脳会談-①」

【まえがき 新年度となる4月には新入社員と新入生が桜の花にむかえられる。むかえる桜木は'染井吉野'がほとんどで、これはエドヒガンとオオシマザクラの交雑によるものの中の一樹を始原とする栽培品種であり、生まれは江戸時代後期の染井村、現在でいえば豊島区駒込のあたりで、当時は大名屋敷の植栽を請け負う植木業がさかんな地域であった。接ぎ木による栽培なので同一地域での開花時期がそろうことから、また花弁がややおおきく開花期間もすこし長いなど、ことのほか豪華でいわゆる花見が成立する品種(クローン)であるといわれている。

 多様性の時代にあっても、愛でるサクラは均一性、斉一性の象徴ともいえる'染井吉野'のクローンであるのがなにやらおかしくもある。そのクローンにむかえられる新人に求められるのが個性と創造性であるから'染井吉野'とは逆方向にということであろうか。

 ともかく、整然と散っていくサクラ吹雪が好まれるが、なにも散りぎわまで揃えることもないのにと思う。そういえば、同年同月同日に生まれんことを得ずとも同年同月同日に死せん事を願わんと『三国志演義』では劉備、関羽、張飛の三人がぶちあげる桃園の誓いはとてもよくできていて見事なクライマックスシーンとなっている。話の筋でいえば結局そうはならなかったが、「共に散る」ことが同志愛の頂点といいたいのであろう。清く壮絶でありまたなまめかしさをふくんでいる。

 なまめかしいといえば有名な『同期の桜』の原詩といわれている『二輪の桜』(西条八十作詩、雑誌『少女倶楽部』昭和13年2月号掲載)は少女のつたない恋の歌であろうか。詩は表むき軍装である。妖艶さにはさらに日を要するというのに、あと数日もすれば散っていくのだから、熟することのない青いままの恋であろう。などと想像はつきない。

 ところで、わが国の労働界では連合結成時から会長と事務局長として名コンビと称された山岸章氏と山田精吾氏にも別れの時が1993年におとずれた。1989年から2期4年の激務を終え山田事務局長が退任することになったのである。この時点において山岸会長の3期目に対しいろいろな声があがっていた中で、「散る桜残る桜も散る桜」と連合本部の役職員をまえに己が心境を良寛の辞世の句に託した。良寛というよりも海軍航空隊のにおいを感じたが、本人は一年後の退任を予告したかったのであろう。その場に居あわせたなら、だれだってそう受けとめたと思う。名コンビといえども「共に散る」ことはむつかしい。いや、散りぎわこそ思うようにはいかないのが人生である。

 散りぎわこそ思うようにはいかないというべきなのだが、二階俊博氏の次回不出馬宣言はさすがに手際がいいと感じてしまう。突き落とされるのであれば自分で飛び降りるといわんばかりに「全責任は自分にある」と決した。評論は勝手であるが実践はむつかしい。筆者などは二階氏がいなくなった自民党あるいは与党がうまくまわるのか疑問に思っている。ほめているのではない、それほど彼我の価値観にはちがいがあるのだが、さりとて貶(けな)すこともないのである。

 かなり塩味のきいたところと脱藩議員(失礼!)を自派に受けいれるあたりが「あしながおじさん」風であり、さらに主要紙から花まるなどをもらっていないところが本物ぽいということである。などと評価をすると、おそらく立憲民主党や日本維新の会からは「てんご(悪ふざけ)いうな」といわれるであろう。

それはそれとして、両党ともに党内統治にはすくなからず宿題をかかえているといわれている。しかし、統治もさりながら、それ以上に生きいきとした生体活動の面に難があるように思われる。党行動や規範あるいは品行といった統制も重要であるが、それとはべつに有機組織体としての魅力の面ではさらなる工夫がひつようであるように思われる。

 そこでこの際「二階俊博的存在の有用性」ってのはどうだろう。もちろん有用性などあるはずがないというのも理性的な反応であるが、工夫をするためには異質な何かが大切なのであって、通り一遍のやり方では追いつかないということであろう。

 と、筆者としてはいろいろといじっているつもりであるが、両党ともに奥行というか陰影というか、そういう曖昧模糊としたものにはまったく関心がないようで残念である。

 さらに、そういう傾向は両党の支持者にもあって、たとえば鵺(ぬえ)を追いだし魑魅魍魎(ちみもうりょう)を退治すれば世の中がよくなると思っているのであろう。たしかにすっきりはするが、それだけでわが国の政治がよくなるとはとても思えないのである。まして、国民生活が向上しゆたかになることにはつながらないと思う。二つの事象はほんらい別次元の問題であって、工場の整理整頓は大切ではあるが整理整頓だけでは会社はやっていけない。自民党に対抗する勢力として両党には期待されるところがあるが、政治における付加価値性という視点で再点検してみれば、いまひとつ支持がひろがらない原因が解明できるかもしれない。現在のところ「政治への信頼」がテーマとなっているようだが、逆に有権者から百点満点をもらえる政治とはどういったものであるのか、今回も時事ネタを中心に妄想をかさねていく。文中敬称略あり。】

1.大谷翔平選手の活躍が心の栄養(サプリメント)に

 大谷と紅麹と裏金が今日の報道における三大テーマなんだろうが、食傷している。とくに、大谷翔平選手については専門チャンネル化してほしい。ときどきの雄姿つまり豪快なホームランと巨漢の疾走に声どころか息さえ忘れそうになるのが、うれしく楽しい。それなのに四六時中Eテレを除く全チャンネルでくりかえしやるなんてどうかしている。過食飽食ではないか。こんなことはいつまでもはつづけられないだろう。といっている間に、山本由伸、鈴木誠也、今永昇太、前田健太、吉田正尚、千賀滉大、松井祐樹そしてダルビッシュ有とワイワイガヤガヤ状態ではないか、忙しすぎるわMLB(うふっ)。

2.紅麹サプリメントについては分からないことが多い

 ところで、紅麹が潮汐のようにくりかえし報道されている(すこしはおさまったかしら)。で、紅麹のどこがいけないのかよく分からない。だから、うかうかしていると頭の中が「紅麹悪玉説」に占領されてしまいそうである。また、紅麹が入っているものはとりあえず止めておこうという消費行動を非科学的だと非難する声もないようで、風評がしずかに広がっているのではないか。

 しかし、古くから利用されてきた着色料としての紅麹が同様の条件で使われているのにとつぜん害をもたらすとはどうしても思えない。だから、サプリメントとしての摂取量が歴史経験をこえた水準にあったのではないか、あるいは予定外の異物(毒性の強い)が混入したのではないか、といった声が多い。ここまでは報道のとおりであるが、しくみや管理の問題をしいて指摘すれば「未知の成分」の検出と特定がおそすぎたところに問題の根っこがあるように思われる。ともかく何をやっても遅いのではないかとがっかりしていたら、ようやく「未知の成分」が青カビ由来のプベルル酸ではないかという記事が目にはいった。しかし、プベルル酸と腎臓障害との関係については今のところはっきりしていないともいう。霧が晴れそうで晴れないのだ。

 なにかしら出だしから靄った感じで、「未知の成分」という表現にもずい分と惑わされたのであるが、いよいよ製造工程上のなんらかの不備がもたらした毒性物質混入による健康被害事案である可能性がたかくなったといえる。そうであれば原因はあんがい単純ではないか。プベルル酸が主因であればその生成と混入時期の解明がいそがれるし、また製造工程に不備があるとすれば比較的早い段階から青カビが発生していたのではないかと思う。また、当該工場が移転したことから現場保全がゼロにちかいことが手間どっている原因と思われる。それにしても、首をかしげることが多く、???の行列ができそうである。

 とくに、機能性表示食品とは関係なくつまり一般食品においても製造工程で青カビが発生すればプベルル酸が混入する可能性があるということで、そうであれば、それらが腎臓障害の隠れた犯人ということか。

 そういえば昔は正月の餅がカビて、黒や赤や白や青の部分を削ったりして食べたものであるが、ひょっとしてプベルル酸を摂取していたのかも、それも大量に。ちょっと心配である。

.尾をひく裏金事件、最終的には有権者が判断

 さて裏金事件については、前回も触れた。今日(4月14日)時点でのまとめは、① 還流はほとんど安倍派の問題であったこと、② 安倍派各議員の不記載は派閥主導で組織的になされていたこと、③ 検察の刑事事件としての処置は終了し(検察審査会がありうるが)、後は政治責任として党の処分がのこっていたこと、④ 当初から背景に党内政争(思惑)があったこと、⑤ 4月補選をまえに与野党の攻防の材料となったこと(今もつづいている)、⑥ 最終的には有権者が判断しなければならないことなどである。

 さらに、本件の底流には「安倍派処分」と「長老追放」があることも指摘したのであるが、事件の原因をつくった派閥に対する処分こそが組織体としての最重要事項であり、またその処分内容によっては政党としての統治能力が問われることになる、つまり自民党がこれから先も政権政党として生きのこるためにはきびしい処分はさけて通れないということであろう。

4.安倍政治の始末と安倍派処分がシンクロ化?

 という文脈にくわえ、自民党には安倍政治の始末という大仕事がのこっているのである。始末とは暗くネガティブなので変えたほうがいいと思うが、安倍政治のマイナス面については、まるごと蔵に入れたいような雰囲気を感じる。だから裏通り的な「始末」を使いたくなるのである。

 右派からはたいそう評価のたかかった安倍政治を党全体としてはそろそろ持てあましているようにみえる。しかし、臭いところがあるからといって全体に蓋をするようでは継承したことにはならない。ここで 安倍政治の栄養分をしっかり摂取すべきといった論を今さら重ねることもあるまい。問題は不要物とりわけ毒素をはやく排出しなければならないのであるが、これがむつかしい。

 また、安倍政治には栄養分が乏しかったわけではなかったという主張については野党的立場をべつにすれば反論は多くはない、というより個別分野においてはかなり栄養豊富であったという声も多いし、筆者もそう思っている。と同時に、あきらかに安倍政治が老廃物と毒素を生んでいたとも考えている。

 という認識を前提に、内外に難問が山積している今日の政治状況にあって、わが国の政治には例えばどっぷりと人間ドックにひたるような余裕はないのであるから、岸田氏が「裏金事件」を奇貨として安倍政治の差しさわりのあるところをてっとり早く始末におよんでいることはまちがいないところであろう。

 ところで微妙ないい方になるが、政党間での政権交代がなかなか困難な状況となっている。そしてそのことが、主権者である国民に有効な選択肢をあたえない原因となっているとの問題意識についてはある程度共有化できていると思われる。そこで、実現がむつかしい政党間政権交代にかえ自民党内の派閥間での権力移動をもって疑似的な政権交代とみなそうという解釈論が大昔から唱えられてきたのである。もちろん、その解釈論の正当性については大いに議論があるというべきであるが、当座の便宜的解釈としてつまみ風にあつかわれてきたと記憶している。

 という解釈論を前提に話をすすめれば、宏池会という看板をせおった岸田氏にすれば安倍政治という遺産の負の部分についてはある程度選択的になることはほぼ予想の範囲内であったといえるのではないか。いいかえれば、安倍政治に対する沈黙の批判者というポジションを暗黙のうちに指向していたと推察できるのである。もちろん、沈黙の批判者などという喫茶店風の役柄をいまさら割りふることは無礼かもしれないのだが、安倍から菅へと流れるラインが菅と岸田との間では途絶しているように感じられるのである。もちろん、この手の話は重要な個所ほどノンエビデンスであるから、フィクションとノンフィクションの境目が怪しくなることは筆者自身自覚しているところである。

 そこでたとえば、安倍政治についての評価を岸田氏にたずねればとうぜんのこととして批判的な答えなどが返ってくることはないといえる。しかしだからといってゼロ批判であるはずがないという勝手な推論でもって、岸田氏は安倍政治に対しとくに政治手法などにおいては批判的であったのだが、そういった表むきの質問に対しては正直に答えることはないのであるから、批判的であったという説を排除することはできない、すなわち排除できない以上批判的であったと考えてもいいわけであるから、こういった文脈においてその(批判的であった)ように捉えることはまちがいであるとはいえないと、まことしやかに'デマ'るのである。いったい誰が?中道左派かしら?ともかく、そういうストーリーを求めている誰かがいるのであろう。

 さて、ここでの主題は岸田氏にとっての「安倍派処分」が状況対応的つまりでたとこ勝負型の対応であったのか、それともそうではなく、長期化した8年近くを数の力で政治主導ならぬ政治蛮行でもって、とんでもない政治環境破壊をくりひろげてきた安倍政治に対する批判をベースに派閥解散から人的処分へと駒をすすめてきたのか、いずれなのかというのが第一のテーマであり、もうひとつは「岸田による安倍派処分」が、政治闘争におけるいかなる意図をはらんでいるのかというのが第二のテーマである。

 第一のテーマに関していえば、そのくらいの批判的対決姿勢がなければ疑似政権交代などといい張ることはできないということである。第二については、今後の政局をうらなううえでの重要情報であると考えている。

5.岸田氏の内心の実相をこえて誤解空間、フィクション空間が膨張している

 ところで、筆者の深層心理には安倍政治の遺産をプラスとして素直に評価する理性と、政治的分断を自らの政治エネルギーに転換していく手法をマイナスとして嫌悪する情動とがふしぎに併存しているのである。こういう相反する心的状態におちいるのは人間だからしかたのないことであろう。

 といいながらも今よく考えれば岸田氏に原因つまり責任のあるものとないものとがごちゃまぜになっているのであって、批判手法としては大変不健全であると思う。

 ということで、世間の岸田評価が理屈もなく、したがって根拠もなくきわめて情緒的にまた連想だけをかさねていく怪しげな空間になり下がっていると感じている。そもそも本人の意図や存在とはかけ離れた評価空間が本人の抗弁権を封殺した形で勝手に形成されており、その空間内において人びとは「岸田はだめだ」と決めつけているのである。まるで私設裁判ではないか。

 その空間は、使い古した「ダメ出し」にひと言をくっつければひとかどの「できるやつ」になれたと自己陶酔するだけの広場であって、たとえれば草ぼうぼうの耕作放棄地のようなもので、作物のできない不毛の地といえる。

 

6.膨張する誤解空間とフィクション空間が世論なるものの正体なのか?

 また、今回の訪米にしても支持率アップのためになにやら画策されていたという策謀を前提にしたイメージが流れていたが、たしかにそういった支持率への影響が4月中には観測されるであろうが、わが国から出かける首脳外交の儀礼や時期は相手方が主導するもので岸田総理の思いつきだけで差配できるものではない。ということは衆知のことであるのだが、またバイデン大統領が国賓待遇で招待した国を見れば仏、韓、印、豪であり対中政策において米国にとって重要な国々であることは一目瞭然であろう。国内における支持率上昇をメインテーマにできるような場面ではないのである。

 まあ、裏金事件で忙殺されたメディアとしては裏金事件の後に訪米が位置づけされているのであろうが、この外交日程は昨年11月の首脳会談で国賓としての招待をうけたのが公式なスタートであるから、裏金事件が後発であることはまちがいないのである。

 ところで、さきほど「今日の政治言論空間では、実のところ岸田総理がどう考えているのかいないのか、そんな岸田氏の内心の実相をこえて、誤解空間ともいうべきフィクション空間が膨張しているのであって、この膨張空間は岸田氏個人の専有物とはいえなくなっているのである。専有物でもないのにそれにもとづいて岸田氏は非難攻撃されているだけでなく揶揄あるいは嘲笑されているのであるからまことに奇妙な話なのである。」と記述したが、表現としての「誤解空間」「フィクション空間」とは相互補完的であり、ひとつは岸田氏が「それは誤解である」といいたい内容を多めにふくんでいるから、事実をふくんでいたとしても全体としてはフィクションなのであり、現在の情報超拡散構造によって「誤解空間」も「フィクション空間」も膨張しているといえる。

7.テキスト情報を優越するイメージ情報

 そこで、その事例としてだれでも簡単にみることができるウェブニュースから-引用開始-古市憲寿氏が辛辣コメント、岸田首相とバイデン大統領「最後の晩餐なのかなって」日米首脳会談-引用終了-というタイトルがつけられたストーリーを取りあげたい。まずこのタイトルはキャッチアイとしては次の3点において優れていると思う。ひとつは固有名詞である「古市憲寿氏」であり、ふたつ目は「辛辣コメント」であり、三つ目は「最後の晩餐」という用語である。とくに最後の晩餐は歴史上の名画をふくめさまざまな連想をよぶことから意味深長な用法となっているのである。このタイトルがかもしだすイメージは暗い灰色でネガティブである。しかし、内容には巧妙なエクスキューズがはめ込まれている。

 以下、「日刊スポーツ新聞社によるストーリー2024年4月11日」から引用。

-引用開始-社会学者の古市憲寿氏が11日、フジテレビ系「めざまし8」(月~金曜午前8時)に出演。岸田文雄首相が9年ぶりの国賓待遇で米国を訪問していることについて言及した。

番組で岸田氏とバイデン氏の映像が流れると、古市氏は「未来がなさそうな2人じゃないですか。この2人が一体何をしゃべるのか僕はあんまわかんなくて」と辛辣(しんらつ)なコメント。ジャーナリストの岩田明子氏が「次の大統領が誰になっても変わらないようにっていうそういう意味がある」と説明すると、古市氏は「でもただの思い出作りの最後の晩餐なのかなって見えちゃうんですけど」と重ねた。続けて「おふたりにとってはいいんだけど、日米両国にとって本当にこの晩餐会って価値があるものになりそうなんですか」と述べた。-引用終了-

つまり、内容を文章として読むと辛辣なのは「未来がなさそうな2人」という表現であって、それ以外は、よく分からないから(教えて)という番組にとっての進行きっかけ(キュー)の役割をはたしていると筆者は受けとめている。

 ということでその後、古市氏の質問に答えるかたちで、会談後の共同記者会見での岸田総理の発言を普通に紹介している。もちろん「同盟国としての米国」というべきところを「同盟国としての中国」といい間違えてただちに二度訂正したことも伝えている。文章で読むかぎり今回の首脳会談の意義について曲解させるようなところはなかったといえる。

 さて、古市氏の固有の表現系から生みだされる雰囲気には、とくだんの意図を感じさせるものはないが、今回の日米首脳会談そのものへの無関心からくる無価値感がにじみでていたところをハイライトとなるようにみせているところが才覚なのか、そのくらい「未来がなさそうな2人」の「最後の晩餐なのかなって」というキャッチはなるほど辛辣であり言葉以上にブルーなイメージを形成していると思われる。

 したがって、この場合古市氏が発した「未来がなさそうな2人」の「最後の晩餐なのかなって」という決定的にブルーなイメージとその後につづく首脳会談の中立的な解説というテキストとの二種類の発信で構成されているのであるが、視聴者である受け手はイメージ優先派あるいはテキスト優先派に分かれていくと考えられる。多くの場合テキストは通過しイメージは蓄積される傾向があり、筆者が指摘しているのは現在の岸田批判のベースの過半がイメージによるものではないかということである。

 という思いの中で、たしかに首脳会談については世間の関心もひくく、メディアの体温もさほど高くなかったと思われる。しかし、わが国にとってもまた米国にとっても安全保障に関しては大きな転換点であることはまちがいないといえる。とりわけ、安倍政権時代の集団的安全保障に関する憲法解釈変更から、平和安全法制、岸田政権による安保関連3文書の変更(2022年12月16日閣議決定)と、およそ10年間にわたって右方向への軸足移動という安保政策上の大転換がおこなわれてきたのであるが、そういったわが国の政策転換に呼応する総仕上げが今回の首脳会談であったといえる。このような日米関係の双六でいう「上がり」についてはすくなくとも昨年の半ばころから各レベルにおいて入念に検討されてきたはずである。おそらく日米安保の再定義を意識した流れとなっていたとも思われる。とくに日本側の平和安全法制や安保関連3文書の変更などが、米国のインド太平洋での米軍のあり様についてはそうとうな影響をもたらすものと思われる。

 米国のシッポとしての日本という認識が意識高い系の決め台詞として、「なんたって米国しだいだから」といってその場でそれまでに積みあげた白熱の論議を土台からひっくり返す「70年安保世代」のちゃぶ台返しも最近では絶滅風になっているが、中国との比較もふくめ米国の相対的な力量低下が米国における合従連衡策の価値についての平衡感覚を回復させたと考えている。つまり米国も仲間をひつようとしているのである。じつのところアフガン撤退が象徴するようになにもかも手におえなくなったのである。ウクライナもガザもそうであり、そういう意味では2024年はさらにむつかしい事態に遭遇すると思われる。とくに東アジアにおいては「米国をまきこんでおく」態勢が決定的にひつようであり、そのことが東アジアにおける平和構築の基本戦略となると筆者は考えている。「米国にまきこまれる」という感覚が人びとの間にあることを受けとめつつも、わが国が主体的にまた仲間となる国々と共に安全保障戦略を構築するのであれば米国の国益との一致点を拡大する以外に選択肢はありえないという状況に、今はいたっているあるいは追いこまれているということであろう。 

 もちろん、中国が少なくとも結果的に覇権主義をみなおす方向での国家目標の変更を選択しないかぎり実存している緊張からはどの国も解放されないという困った状況にあることは変わらないのである。という意味において米中関係または日中関係が致命的に重要であり、その基礎にある対話の必要性を前面に押しだすメッセージの発信基地としての首脳会談であったわけだから、その意図を中国(習近平)が正確に受けとめられるのか、また関係国がそのための助力ができるのかという局面に移りつつあると考えている。対立から安定への誘いである。今回の首脳会談で岸田総理がうけたスポットライトは故安倍氏の正の遺産であり、その意味でプラスの相続は終了したということであろう。

 という首脳会談についての筆者のテキストと「未来がなさそうな2人」の「最後の晩餐なのかなって」というブルーなイメージとは激突しているのではなく何億光年も離れているということであろう。本音をいえば今様なセンスにすぐれたイメージに対し、理屈だらけで面倒なテキストが圧倒されているのである。ここで蛇足ながら、古市氏は「未来のない2人」とか「最後の晩餐」と断言したわけではなく、あくまで「未来のなさそうな2人」あるいは「最後の晩餐なのかなって」と印象をソフトにしかも効果において辛辣に述べているのであって、こういう中和的な話法が伝搬的、浸透的なのであろう。

 

8.野党こそ現実的な安全保障政策を構築すべきである

 ということでいろいろと思いめぐらすわけであるが、部外者の非専門家が入手できる情報は報道ベースをこえることはない。ただ想像するだけであるが、筆者としては日米安保の再定義の必要性を何年も前からこのコラムにおいて指摘してきたし、2020年の旧立憲民主党と旧国民民主党との合流への苦言として安全保障政策に対する基本姿勢について明確にしなければ合流の意義も効果もないのではないかと指摘してきた。ざっくりいって、過半の野党における安全保障についての問題意識は2015年ごろのそれとあまり変わっていないように思われる。とくに立憲民主党については当面の選挙への関心が髙く、そのあおりを喰らっているためか基本政策への刷新意欲はしぼんでいるようで、たとえば筆者が粗々提起している「シン平和主義」についてもアリ一匹のうごきさえ感じられないのである。

 やはり日本共産党との選挙協力が影響しているのかとも思うが、ここで脱皮しなければ政権への道はポンチ絵におわってしまうと危惧している。あるいは最大の支援団体である連合もふくめ野党勢力としての安全保障戦略の構築が喫緊の課題であるといえる。ここらあたりは国民民主党の玉木代表の主張があたっていると思うが、立憲首脳においては「分かっているけど止められない」関係なのかもしれない。各野党の真意を把握できずにいるが、背景をいえばもうずいぶんと前からそういう時代に入っているのである。だから、野党が選挙で議席を伸ばしても政権担当は無理というのは張りぼての安全保障政策では某国からの調略に対抗できないのではという不安が世の中にはあるからであろう。

9.首脳会談についての報道は、前日まではなぜか低調であった

 余談であるが、今回は日米比の三か国会談もおこなわれたが、対中国対抗としてはほかにクワッド(QUAD)、オーカス(AUKUS)があり10年前に比してさまがわりといえる。にもかかわらず、わが国会での議論やメディアによる取材・報道競争は低調そのものであたかも安保論議そのものへの興味さえ失ってしまったのではないかと逆に心配になるのである。

 そういった心配をよそにようやく11日午後あたりから正確な情報として首脳会談ニュースが流れはじめ、専門家のコメントや局の解説をふくめて感覚的には正常化してきたと受けとめている。のであるが、今週末あるいは日曜日のトーンは、「もっと詳しく説明すべきである」「国会でしっかり議論すべきである」といったものになると思われる。

 裏金事件の忙しさにかまけて薄めの仕事に位置づけていたのは誰なの?とかはいわないほうがいいのである。もともと首脳会談などはシナリオ通りで、ハプニング性の低いもので、予定された通りの結果になるのであるが、もちろんそうならなければ大いに問題なのであるが、そこが面白くないようで言論空間としてはキー(音程)の低い報道と位置づけられていたと思われる。(この点裏金事件はのキーは高いのである。)

 もちろん、首脳会談に先だって発信できないものが多かったということであろう。ただし、「岸田がかってに決めていいのか」といった類のコメントは現下の政治情勢にあっては当然のように発生するもので、きわめて派生的なものであり、対抗的否定的視線からくる表現と思われる。何ごとも方向性をしめさなければ議論さえ始まらない。議会にお伺いを立てないと方向性すら発信できないとなれば外交は動かなくなる。そういうことでは国際的には相手にされない。政府の中核である内閣には外交方針を決め執行する権限がある。条約などは国会での承認がひつようであり、説明責任がある。さらに、国会は外交方針などについて説明を求めることができる。ということで、すべからく政府が勝手にやっているわけではない。

 そこで、問題は日米比の安全保障を中心とした協力体制がなぜひつようであるのかという現状への理解が国民的にどこまですすんでいるのかということであり、その理解が支持率向上に寄与するのかといえば国内政治においては一度不人気となった総理の支持が急回復することは経験として考えにくいので、低支持率が当面つづくとの判断でこれからの政局がつくられていくと思われる。

 国際政治の枠組みからいって9月に総理をかえることの是非をいえば変えない方がいいに決まっているが、そうもいかないのが政治というものであろう。岸田だから大変なのか、岸田でも大変なのか、誰がやっても自民だから大変なのか、そんな分別(ぶんべつ)さえ許されない党内事情なのか。分別(ふんべつ)がきかないのであれば「もうどうでもいい」と匙を投げるしかないのであるが、どうも集団的には常軌を逸したモードにいたっているのかもしれない。なぜそうなるのか、それは議員心理の最奥部にある選挙恐怖症が感情系に属しているから、理性のいうことを聞かないわけで、選挙が近づくと理解不能な行動にはしりやすいといえる。だから信念をまげてでも人(有権者)の意見を聞くのである。ポピュリズムはすべての議員に備わっている民主政治としてのハンドルともいえる。

10.日米間の信頼が強化された今だからこそ日中関係の安定を

 日米関係の深化とそれによる東アジアでの安全保障体制の確立にむけ象徴的な一歩が踏みだされたというのが筆者の感想である。後は「同盟国である中国」と岸田総理がいいまちがえたフレースをじっくりと味わうことにつきると思う。けっしてわざとではないと思うが、そのぐらいのメッセージをだすことは合理的で意味があると思う。同盟国は無理であるとしても東アジアの平和的安定はどの国にとっても利益であるのだから、戦略的対話が具体的に何を意味するのかいつも分からない筆者であるが、後顧の憂いなく日中関係の改善にとりくめることになったと考えている。

 日米関係の深化に故安倍晋三氏が果たした功績は大きく、安倍政治の正の遺産といえる。一方、安倍遺産の相続者たる岸田氏の役割は、安倍政治では芳しくなかった日中関係の改善への道筋をつけることであろう。日米関係の信頼度が上がらないと手をつけることが難しかったテーマであるから、自分でやるということではなく道筋をつけるという重要な仕事がひかえている。まずは中国自身の変容を期待しつつそれを促すという高度な関係論がひつようであり、時間もかかるから、野党とも水面下で気脈をつうじておくひつようがあるのではないか。日米関係については野党もおおかたは日米同盟機軸で まとまると思うが、日中関係はポピュリズムに流れやすいので慎重にみきわめるひつようがあるだろう。

 前回も述べたが、わが国は地政学的にいって、米中間に位置する緩衝地帯なのか、それとも米国の橋頭保なのかという宿命の立場を有しているのであるが、その比率はともかく両面を兼ねそなえているというべきであろう。この立場をとくに中国に理解してもらうのがむつかしいし、当面の大仕事であろう。

 それにしても、「同盟国たる中国」とはじつにいいえて妙というもので、いい間違いは無意識の本音といわれるが、けっしてクリーンヒットとはいえないがヒット性のあたりといえるかもしれない。(次回につづく)

◇春嵐耐えて散る日が入学式

加藤敏幸