遅牛早牛
時事雑考「2024年4月の政局-裏金事件と日米首脳会談-②」
【はじめに 世の中が連休の話題で盛りあがっている。しかし、そうでない人たちも多い。ところで4月の第3週に用事があって3日ほど箱根強羅に滞在した。予想通り国内外からの旅行者が多く、混雑の一歩手前であった。連休中は箱根も想像できないほどの人込みになるだろう。
そうこうしているうちに、円安が進み、対ドルでの円の下落が止まらない。ドルをもつ旅行者にとってはウキウキする話であるが、円をもらって海外で暮らす人々には悲惨なことである。
所得や資産において中位値以下の家計にとって為替で得することも損することも縁遠いことであろう。しかし、輸入物価の高騰は迷惑かぎりないことである。毎度の主張をくりかえすが、日銀は庶民の味方ではないことはたしかで、ときどき敵になる。さらに円安がすすめば物価目標(2%)が達成できて大手をふって利上げができると踏んでいるのであろうか。おそらく来年の高めの賃上げを期待しての金融緩和維持と思われる。
ところで物価上昇をカバーしきれない家計がどのぐらいあるのかなどは日銀にとってはどうでもいいことかもしれない。だが、低所得者ほど物価上昇に痛めつけられるのだから、庶民にとって物価優先の日銀が敵であることは変わらないのである。(物価の番人が物価上昇を期待しているのだから困ったものである。)もちろん金融政策よりも政府の分配政策のほうが直接的ではるかに責任重大であり、最低でも物価目標の2%程度は制度としてカバーできるように政府も日銀も手をつくすべきだと正論ぶった主張をしておくが、世の中なぜかしら低所得者への目線はいつも冷たいのである。
くわえて、現在のところ実質賃金の低下に歯止めがかかっていない。雇用労働者の50%程度は春の賃金改定の恩恵(これも考えてみれば変な表現だが)に浴すると思われるが、残念ながら残りの50%の人たちの賃金がどうなるかはまだまだ分からないのである。また、非労働力人口の中の未就業者(学生など)は物価上昇にはきわめて弱い立場にある。さらに非労働力人口の主力である高齢者は年金とたくわえで日々の暮らしをしのいでいる、つまり多くの家計のキャッシュフローは赤字で、貯蓄からの補填で穴埋めしているか、もしくは生活の質をおとしていると思われる。
このように投資性貯蓄の恩恵にあずかれない家計の困窮度がたかまる中で、貧しさを加速しているのが高物価経済であるから、適切な分配政策を欠いた物価目標ははっきりいって貧困増殖政策の側面を有しているといえる。ということで、筆者は庶民の生活に無頓着な日銀を庶民の敵であると表現している。
しかし、輪をかけて冷淡なのが自民党ではないかしら。単独過半数を制する政党として前述の問題に対しては関心が低すぎるということである。その気になれば立法できるのだから、まあ偏食しているのだろう。現在、裏金事件で評判が悪いが、それ以上に「弱いものの味方」でないと人びとが実感しはじめている。自民党の「おれたちの天下」感が横溢するようでは低所得者の生活がよくなることはなく、このことは過去30年間を直視すれば明らかであろう。格差拡大と深刻な貧困がわが国の現実である。このことを正面で受けとめなければ支持者が増えることにはならない。ということで第一党ではあるが限界政党というべきである。
格差問題や貧困対策について、政府は行政的にも努力をしているようではあるが力不足で途中で投げだすのではないかと危惧している。そのぐらい根の深い問題なのである。ところで、自民党の支援者の多くが経営者(多くは小規模)であるのだが、後援組織をつうじて従業員への配分増を自民党が要請したという話は聞かない。つまり軸足は労働者におかれたいないのである。いい悪いではなく政治的立ち位置として自民党には限界があるのであって、新しい支援層に対する政策をつうじての開拓を怠っているといえる。地方の衰退が自民党の未来をかき消している。つまり政治的な投資対象ではないと思われはじめているのではないか。(ここが最重要なのある。)
最近では政権交代派のほうが過半との報道もあるようだが、リベラル立憲民主党の偽善性が気になるとしても、このまま自公でいくのとリスク的には同程度と人びとが割りきれば次の総選挙では自民党は大敗し、連立政権の組みかえが必至となるであろう。(あるいは勢いで非自民政権が可能になるかもしれないがその場合の連立は混迷すると思う)そのぐらいわが国の貧困化が急速にすすんでいるのである。先進国の中の低賃金国であるわが国がさらに目に見えて貧困化しているのである。これを他国は喜劇とよぶであろう。といった状況を放置すると急進的政党がうまれ、その跳梁を阻止するためにさらなる急進政党がうまれるのではないか。こんな時に、政治改革論議をちまちまとやってどうするの、もっと大胆にやらないとアリ地獄からは抜けだせない。野党が腰を抜かすほどのことを提案しないとダメな情勢であるといえる。文中敬称略】
(前回に続き)
11.バイデン大統領の狙いは明確である-インド太平洋防御ライン
この半年あまりの間にインド太平洋地域の韓、印、豪それに日、比に対してバイデン大統領が何を構想しながら首脳外交を展開してきたかはきわめて明確であった。また、「米国にまきこまれる日本」から「米国とともにある日本」へ、さらに「米国をまきこむ日本」へと日米関係が大きく変化していく中で、わが国の政治が何を議論すべきであるのかといえば、まさにバイデン大統領が首脳外交を通じて固めようとしている'それ'なのである。
だから、'それ'についてははやい段階で国会で政府から説明がされるであろうし、その説明をふまえ自民党と公明党は与党としての見解をまとめるべきといえる。もちろん連立政権であるから、今さら自公の見解などが要るのかという声もでてくるであろうが、とくに公明党がその変化に追随できるのかあるいは支援組織が容認できるのかというきびしい問いつめもあり、要所要所で左バネが作動するようではじつのところ「こまる」ということであろう。
有事とは待ってくれない事態であるから、いちいち与党内協議に時間をかけることはできない。ということから公明党もよくよく覚悟をきめて政権に参加するひつようがあるといえる。(今さら離脱はできないだろうが)環境が様変わりしていると大げさに騒ぐつもりはなく、淡々と情況をいえば、そういう事態なのである。
さて、待ってくれないのが有事であるから、だから有事にいたらない工夫こそが外交の真骨頂といえるのはとうぜんのことである。しかし、場合によっては残念なことになりうることも頭の隅に置いておかなければならない。つまり、残念なことに「なってしまった」場合への対応にも本気で取りくまなければならないのであるから、平時の議論なのか有事の議論なのかという区別をしっかりとつけておくひつようがあるといえる。
そこで、「平和主義は有事の議論を禁じているのか」といえば、今日的には嫌ったり遠ざけたりすることがあったとしても、そもそもが禁じられてはいないのであり、むしろ平和を維持するためには有事への備えを怠ってはいけないというのがゆるやかながらも現時点での共通認識といえる(あくまで筆者の感想である)。
しかし、この有事への備えというのは情況次第であるし、情況というのは相手次第ともいえるから、ある部分仮説が土台とならざるをえない、つまり仮説というのはどこかで現実をこえているところがあるということで、では現実をこえているところとは何であるのかといえば、それは、直截にいえば空想性と恣意性であろう。いいかえれば、有事への備えとは対抗する軍事勢力を想定するところからはじまるのだから、はやい話が「仮想敵国」を想定することにつながるし、この仮想敵国を確定する過程には恣意的な判断が働くことを完全に排除することはできないのである。つまり判断の過程で恣意的作用があると筆者は考えているし、これはきわめて重要なことといえる。
ということに対し、仮に恣意性という言葉に異論があるということなら、国会決議とか国民投票といった民主プロセスを経るべきであるという議論も起こりうるであろうが、現実問題としてそんなことをやって意味(国民益)があるのか、あるいはそういう行動はほとんどの場合関係断絶の印象が強すぎることから、関係悪化にさらに火をつけることになると予想されるので仮想敵国といった表現は禁忌とされ、有事への備えにおいても抽象的な表現にとどめざるをえないのである。
さらに、議論がはじまればこれらの空想性と恣意性をになうのはどんな組織であり具体的には誰であるのかというところにも関心というか問題が集中してくると思われる。ここで「問題が集中している」という表現と「問題が集中してくる」という表現のどちらを選ぶのかという選択に直面するが、筆者的には今のところとくにこだわることもないと考えている。どちらでも意味は通じると。
そこで、問題が集中しているというのは当然議論も集中するということであるから、国会においても議論が集中するはずである。で、空想性と恣意性がもっている危険性についてリアルに語りたいのであるが、しかし先ほど述べたように有事について具体的に語ることは「嫌ったり、(秘密保持の由に)遠ざけたり」されていることから、なかなか空想性と恣意性についてのリアルな議論に入れないのである。
そういえば、日本社会党時代から左派は社会主義陣営をわが国にとっての脅威とは認めなかったのである。つまりそれらの国とは軍事的に衝突するという想像をもつことを、当時の国際情勢下においてはかならずもたなければならないのであった(と筆者は考えるのであるが)にもかかわらず、ムリに避けるという意味において恣意的な対応であったと思っている。
やや粘度の高いいいまわしとなってしまったが、ようするに現実には脅威であるのに、そうは思いたくないという心境だったのであろう。これはシンパシーともいえるもので、有事を想定するには対象国の確定がひつようであるのに、そういったドライな決めつけを避ける心情を克服できない、あるいはそういった情緒的すぎる思考から抜けだせない人たちが蝟集する政党がこういった議論に参加できるとはさすがに考えにくいのである。という現状もあって議論が不活発化していると筆者は判断しているのである。
という文脈とは逆方向にある議論、つまり有事の対象国を確定する際の空想性と恣意性がもたらす誤謬についての詳細な検討がむしろ重要なのであるが、今のところ一気呵成に某国らと決めつけることが前置されているようで、これはこれでかなり不適切といえよう。
とくに有事の深刻度や詳細が不確かななかでの対処計画には、こちら側の責任による少なくない誤差がふくまれることになるわけで、いいかえれば空想性と恣意性の危険性とはその任にあたる組織によって生みだされる誤差や過剰性をもふくんでいるのであり、こういった担当部署の空想性や恣意性から生まれる偏向が不適切な結論をみちびきだす可能性について、政治がどの程度コントロールしていくことができるのかということである。
あるともないともいえない有事についての対応の多くは日米同盟といった集団的対応に依拠せざるをえないことはまさに現実なのであるが、と同時に同盟関係にあっても対応できないことがあるのも現実であろう。という両面についてバランスのとれた議論がひつようであるというしごく常識的な問題提起なのであるが、与野党ともにそれぞれの事情において議論を不活化しているようにみえるのである。
ということで、そうとうにイライラしているのである。もっといえば、日米首脳会談がしめす方向性を正確に理解して国会での議論に臨んでほしい、ということである。賛成反対あわせて議論するのが国会であるのに、このままだと岸田総理がまんまと食い逃げに成功するのではないか、残念ながら筆者は日米首脳会談の方向を支持しているので余計なことをいう気はないが、野党の責任行為というものがあるだろう、といいたいのである。
12、主義主張と政権奪取とは異次元なのか-労働組合の対応は分かれるのか?
本研究会の目的は労働運動の活動家への伝承であるから、'やや'と筆者は感じているが客観的には'そうとう'に昔語り的で古臭い内容となっている。とはいっても、未来の事例を引用することはできないのでどうしても過去事例を題材にせざるをえないのである。
その事例のひとつが、村山富市元総理による日本社会党(1945~1996年、以降社会民主党に変更)の自衛隊合憲変節である。もともと、反安保条約、反原発、自衛隊違憲をかかげてきた政党が政権の一角を占めたことだけを理由に180度の方向転換を党内での討議なしに一方的に宣言したものだから支持層の混乱は筆舌しがたいものであったと聞いている(党としては3月後の1994年9月に61回臨時大会で追認)。
筆者は当時の日本社会党方針とは異なる考えであったから、方向転換そのものには賛成であった。が、正直なところそれまで口角沫(あわ)をとばしあったあの議論は「この人たちにとってどうでもよかった」ことだったのかと受けとめるしかなかったわけで、信念からではなく口先だけのことだったとしても、それすらまもれない政党を長年支持してきた労働組合わけても組合員の驚きと憤慨は想像を越えていたのではないかと思っている。しかし、村山総理誕生に拍手した人も少なくなかったことも事実であって、理屈だけではない仲間意識優先の支持者の存在も現実そのものであったといえる。
また、政治参加の動機にはさまざまな要素があり、いわゆるファン意識だけの支持者も多い現実を否定してもしかたのないことであろう。
突然の変節という、まさに「事実は小説よりも奇なり」を地でゆくこの事例などが「政治と労働」を考えるうえで重要な視座をあたえるのではないかと思っている。たとえば二大政党による政権交代というモデルはそもそも二項対立的世界観をベースに組みたてられたともいえるが、各国の事情や政治状況がつねに二項対立的に生じているわけではなく、むしろ今日的には多様化、多極化の方向に拡散しているとも考えられることから、二項対立から多項対並立へのパラダイムシフトを考慮すべき時代に入ったと考えるべきかもしれない。
それにしても、日本社会党における村山委員長の変節は、政治的につきつめれば権力につながることが最大の目的であり、商店街ののぼり旗のように立ち並んでいた党独自の理論や理屈はほとんど方便にすぎなかったという意味において、成熟化したというよりも政治不信の菌床になったのではないかと思う。また、自衛隊を合憲化してまで総理大臣に就くひつようがあったのか筆者にはいまだに理解できないことである。この事例は、逆に二項対立図式を否定する反証例として分析されるべきかもしれない。つまり、「なにが二項対立的世界観なんだよ」非武装中立などという空想小説の世界にひたっていただけではないか、などといささか八つあたり気味であるがそれは昔のことである。そういった歴史的な経過はおき、今日における問題は立憲民主党に安全保障政策についての現実的アイデアがあるのかということに収斂するように思えるのである、余計なことをいってしまったが。
労働組合の姿勢として、政策・制度基軸なのか、それとも政権志向なのか
さて、労働組合が団体として政治へのかかわりを強めるにあたって、政策・制度を機軸に考えるのか、あるいは政権奪取に的をしぼるのかについては事前にある程度肚をきめておくひつようがあるということではないかと思う。
ここから先は味の濃い私見であるが、連合加盟の労働組合においてもそれぞれ色合いの違いがあって、おおむね民間系は政策・制度基軸であり、官公系は政権志向であると思われる。これはそれぞれの立場や歴史経緯からもたらされているというべきで、民間系にとって政権との距離をつめて得られる利益よりも権力的に偏向することの弊害の方がはるかに大きいというのが共通認識のようである。
しかし、官公系にとってはいわば内閣総理大臣が使用者であることから、労使関係を手元にたぐりよせるうえでも百の理屈よりも具体的な権力との互恵関係に価値があるわけで、表現系はどうであれ、また良い悪いということではなく実相においてはそういうことであると認識するのが自然な解釈と思われる。
こういった官民労組それぞれの基本スタンスのちがいは趣味的に生じたものではなく、労働組合の出自とか性格からもたらされたもので、当座のリーダーシップなどで変えられるレベルのものではないということだけは、この30年間の経験によってはっきりしたように思われる。
この際さらに述べれば、立憲民主党にしても政権が目の前にぶら下がれば基本政策へのこだわりを村山時代ほどではないとしても大いに緩めるであろうし、綱領でさえ当座の政権運営に支障が生じないよう換骨奪胎すると思われる。今のところ国民民主党からの基本政策のすりあわせ要請に冷淡な態度をとりつづけるのは、いわゆる日本共産党との阿吽の選挙協力があるということなのかもしれないが、それ以上に国民民主党とのすりあわせが政権への近道とは考えていないからであって、もし政権への近道と考えるのであれば態度が違ってくるのではないか、と思う。
ということで、大いに飛躍するが有権者の意識のやや深いところでは、今まで嫌ったり遠ざけたりしていた有事への対応能力つまり'それ'についていよいよ正面から議論をすべきステージにいたっていると感じはじめたのではないかと、期待先行ではあるが、そう思うのである。
問題は政党サイドであり、とりわけ野党第一党の対応であろう。有事への対応能力すなわち'それ'についての考え方において立憲民主党が一皮むける日がくるのであろうか、その確率が五分五分というのは楽観すぎるかしら。
ところで、有事への対応をイメージしながら政策論議をすすめることはかなりの苦痛をともなうものであるから、ふつうに嫌がったり遠ざけたりしたくなるのであろう。しかしそれでは役割をはたしているとはいえまい。まして、有事について考えたくないから言葉だけの平和主義に没入するというようでは本末転倒といわざるをえない。
13.わが国をとりまく安全保障環境の激変に対し内向き、下向きではだめだ
かくして、政府の説明にひきつづき与党の見解がしめされると予想されるが、それを横目にしながら野党もみずからの考えをまとめはじめるであろう。このあたりを曖昧にしたままで選挙協力の議論に入るのは有権者に対して不実というべきもので、とくに野党第一党の立憲民主党は政府方針に対し態度を明確にする義務があると筆者は考えている。
このように、安全保障問題の輪郭は大きく変化しつつあるといえるのであるが、残念なことに野党の多くは旧来の殻に閉じこもったままであり、現下の事態に対する認識についてあらたに議論をはじめる気配さえないことが大いに気になるのである。
もちろん、そもそもの始まりは中国の台頭が引きおこした覇権主義的拡大への諸国の外交であったのであるが、いつの間にか米中対立問題に発展し、くわえて北朝鮮の核システム開発さらにはロシアのウクライナ侵略などがかさなり、国際的な緊張のたかまりへと事態が悪化し、あわせて中東での地域紛争が激化するなど摩擦あるいは紛争の拡大が顕著になったといえる。
今のところ世界は自重的ではあるが、それが平和を保障するものでないことだけは確かである。いいかえれば世界規模の平和の破壊つまり大規模紛争の危険が頭をもたげているといえるのである。
とりわけ、国連の安保理常任理事国であるロシアが国境線の変更を武力侵略で強行しているのであるから、国連が機能するべくもないのである。経済制裁の効果に対する疑問が無力感をよび、なにかしら世界の秩序が崩壊へむかっているとの不安が世界をおおうのはとうぜんのことといえる。という情勢にあることをもう少し正面から受けとめなければ、大事な時にはいつも内向きな日本という病弊からは抜けだすことはむつかしいであろう。内向きなうえに下向きというのでは逃げていると非難されてもしかたがないと思う。
14.世論頼りの言説とか、匿名では議論はすすまない
自分の考えを押しとおしたいときに、根拠として安易に世論をもちだすのは筆者としては御法度である。とはいえ手法としては魅力的である。しかし、文脈の山場において説得性の大方を世論に依拠するのは怠惰な感じがするしやはり思考停止への道だと思う。それに世論だけでなくさりげなく国民を引っ張りだすのも同様のことであろう。
また、政策選択において、とくにきわどい極限的ともいえる選択においてその根拠を安易に世論だけにもとめるのは責任放棄という意味において卑怯であり、くわえて麻薬的ですらある。たしかにポピュリズムは政治家にとって精神的負担の軽減策としても、また党内での説得手法としても重宝ではある。さらに、表むきの議論においても内閣支持率を筆頭に政党支持率などは重要指標として高台つきの器にのせられた動かぬ証拠といった風情であるからふと気がつくと誘導されている自分に気づくのであるが、日ごろポピュリズムだとかいって高邁に語っていることとは明らかにギャップがあるといえる。
たしかな根拠であるはずの世論の中身がじつはカスカスであることはほとんどの関係者においては常識となっているのである。また、近づけば近づくほどその姿はぼやけてくる。というように、世論の正体とは本当のところは不明瞭なうえに、軽々しいとも感じられるものであるから、ちょっとした操作や加工によって大きくうねりはじめ、さらにいえば世論の中には大小さまざまな誤謬が排除されることなく漂いつづけ、いつの間にか手におえない巨大な嘘の集積体となっていくのである。それはまるで妖怪現象のようであり。おそらく、ネット上においては無数の色付きコメントが妖怪をそだてているのではないかとさえ思ってしまうのである。
つまるところ、世論という言論空間には嘘や罠あるいは誘導といった悪性の情報があまた漂っているにもかかわらず、また酷い状態になっているのにそれらを駆除する免疫システムが存在していないのであるから、そもそも言論空間といえるのかといった出場資格が問われなければならない段階にあるという問題意識を前提にしての考えである。
いつ岸田おろしがはじまるのか(本当なのか)
ここで、すでに岸田氏の政治家としての寿命はつきており、時と所をえらばず岸田おろしがはじまるという集団的見立てが跋扈している不可思議な世論というか言論空間が確立しているはずなのに、まあ待てど暮らせど岸田おろしなどいっこうに起きる気配もなく、いってみれば人気最低のだらしない総理大臣なのにすでに在任期間が歴代8位というのは一体全体どうなっているのか、これが筆者の疑問である。
おそらく自分の頭で考えていない人たちが無責任にも人気最低だからまもなく失脚するといった低レベルの予断でもって、面白おかしくクリック数をかせぐためにいわば銭勘定で不確かな憶測をたれながしているように思われるのである。だからであろう、いつまで待っても岸田政権は倒れないのである。岸田おろしがおきないのは、風説の大部分が質量のないフワフワ情報であるから、そうはならないのであるということか。
あるいは、人気最低の総理だから選挙は敗北必至なのでもっと人気のある人にすげ替えようという(土台馬鹿げた)声がほんとうにあるのか、さらにその声が事態を動かすほどの力をもっているのか、などの疑問があり、内心では「いい加減なことをいうんじゃないよ!」といいたいのである。経験的にいえば最高権力者を失脚させるのは至難のことである。失脚させたいなら自分でやる、つまり差し違えるしかないのであるが、成功率がきわめて低いうえにそんな胆力が匿名でしか発言できない議員にあるとは思えないのである。
ところで、政治に迫力が感じられないのは「他人のふんどしで相撲をとる」気分の「風評で総理を追い落とす」政治家がふえたせいであろう。世の中には時の権力者を追い落としたいと思う者があちらこちらにごまんといるのであるが、自分の手を汚すつまり責任をとる者は皆無なのである。ただひたすら風評まかせ、人任せというのが今日のわが国の病状のひとつではないかと思っている。
議員の意見を匿名にするのは問題ではないか
また、匿名の声をどのように受けとめるのかについては、実は複雑なところがあって、捏造ではないにしても恣意的な編集がされているわけだし、記事文脈との親和性にも疑問というか、むりに引きあわせた感があったりとか、さらにどちらかといえばシナリオ前置のストーリーのつじつま合わせに匿名意見をはめ込んだのではないかといった疑念が生じたりするので判定には時間がかかってしまうのである。
まもなく謀反(岸田おろし)がはじまるぞというアナウンスが大量にながされるなかで、支持率が低いことは事実であるから、経験不足の議員にすればいたたまれなくなるのであろう、そこは理解できるとして、今か今かと雷同するのは早とちりではないかと思う。たしかに派閥解消などは暴走宰相の面目躍如なわけで、その点についていちいち不満に思うところがあることはこれも理解できるが、しかし安倍派のなかに不満があるというのは理屈にあわないのではないかと思う。もとはといえば震源地は不記載を押しとおした安倍派なんだから、それでいったい誰にどんな不満があるというのか。還付(?)を一時不記載とした議員は全員離党勧告されても仕方がないというのが筆者の感想である。という風に考えるならば、不満ありという報道には違和感をおぼえるのである。自民党がおかれているきびしい現実を考えれば党内政変の余地などあろうはずがないのであって、政治改革を前にすすめること以外に道はないというべきであろう。という認識にたてば一連の報道にみられる岸田おろし予告編がはたして発現するのかについては怪しくはないが危うくはあると受けとめるのが常識的であると思う。
顕著な党機能と派閥機能の劣化
さらに自民党内の観察をつづけるならば、もちろん意気消沈状態にあることはそのとおりであるし、裏金事件の悪質性は不記載という範疇からはそうとうにはみでていることからいっても、患部だけの摘出では不十分であって、さらに一回り大きく外周をも摘出するというのが従来からの自民党的手法であったと思うのであるが、残念ながら問題処理の見当が間尺にあっていない感じが強く、おそらく処理機能がうまく回っていないと思われる。つまり処分の程度においても、再発防止策としての政治資金規正法改正においてもしかりで、そういった今一歩の不足感が評判の悪さをうんでいると思われる。
そういった処理やグリップの甘さというのは党機能の劣化からもたらされていると思うし、その原因として十年余の間に生じた派閥機能の希薄化が自民党の統治力の劣化をもたらしているとまではいいきれないとしても、総裁への人事権、公認権、資金配分権の集中が、党としての強靭性を浸潤しているのではないかという仮説が成立するようにも思われる。実際のところ総裁選挙のためだけの派閥という病的なほどに特化してしまったところに今回の躓きの根があったともいえるのではないかと思っている。
今回の派閥解散劇は自民党内の権力構造の変化の始まりというよりもその変遷の帰結であったとも解釈できるのではないか。もっといえば安倍時代にあって安倍派が数を誇示しながら実のところやりすぎたことに対する個別批判が派閥全体の衰退を加速したといえるのではないかとも、もちろん裏金事件として直接引き金をひいた派閥なのであるが、そのこともふくめ皮肉なことになったと思っている。
派閥衰退についてその原因をあきらかすることは政治学としては意味があると思われるが、その前に派閥の弊害について少し考察すべきであろう。安倍派とは清和政策研究会であって、字面のとおりに政策研究に徹しておればこれほどの風当たりにはならなかったのかもしれない。しかし現実は周知のとおり総裁候補擁立期成同盟であり、そのための資金調達組織に特化してしまったといえる。それでも党内政策集団として実のある活動に重心をおいていたのであればその存在理由についての理解も広がっていたと思われるが、組閣において○○派から何人という解説が白昼堂々とまかりとおっていたところに人びとの疑念がぶつかったわけで、当人たちにとってはあたりまえのいわゆる空気のような理屈なのであろうが、ボス支配によるポスト配分という情実べったりの、また政策軽視の旧態としたやり口に自民党支持者においてさえわが国の政治がそのような利害共同体的論理だけで運営されていいのかという批判が生じていたことに注目すべきであろう。
派閥とはポストあっせん業なのか。それは、まともな感覚でいえばやはりおかしいのである。少なくとも表舞台においては国政を担うための能力とか適性に着目した閣僚人事であるべきなのに、表も裏もごちゃまぜにした派閥優先の人事が大手をふって歩いているのは許されるものではない。これをおかしいと思わなかった議員こそが根本的におかしいのであって、こういった感覚のままでいるから人びととの間にはギャップが生まれていたと思われる。傷は深いといえる。
傷の深さを象徴しているのが、自民党議員による発信の多くが自分の選挙のこと、また当選できるかどうかということばかりで、十に一つでも国民のことを主題とした話題があったのかしら、と思う。もちろん、聞かれることと報道されることが一点に集中し、編集されていたこともあるのだろうが、悪印象が定着したといえる。
岸田政権の政策に異議があるのであれば、なぜ党内での議論において強く指摘しないのか。はげしい論議で白黒をつければいいと思うのだが、ぶつぶつと匿名で語るのはよろしくないと思う。とくに、不祥事発生のおりは原則実名表記にすべきであろう。といいながらも党内事情の報道にはふしぎな感じがするものもある。
他方違和感を感じるのは、報道される話題のほとんどが党内政局に集中しており、テレビをみるかぎり、新聞をよむかぎり自民党議員のイメージが倒閣予備隊のごとく印象づけられているのだから、それを普通に受けとめれば、ここまで酷いとは思わなかったという慨嘆となるのである。しかし、読者・視聴者側も「見たもの読んだものがすべて」というバイアスが自身にかかっていることを前提に受信情報については判断しなければならないのであるが、ネット空間で問題になっているアテンション・エコノミーの弊害に似た問題構造があるのかもしれない。結果としてなにかしら意図的なイメージに誘導されているのではないかという疑念を情報フィルターとして活用するひつようがあるのかもしれない。とにかく面倒くさいことになったもので、政治ばなれとかが酷くなる予感がするのである。
裏金事件を発端とする政治改革にスポットがあたることは当然のことであろうが、それにしても大小さまざまな政策課題についての取り扱いがメディアにおいては極端に少ないのはどういうことであるのか、まるで国会には法案が上程されていないような印象だけがのこっているである。これではあまりにも間が抜けすぎているのではないか。という流れでいえば、永田町の地盤は今や沈降状態にあるといえる。
15.増税はメガネ論ではなく国民負担率すなわち担税力に基づく論議を
岸田フォビア(嫌悪感)現象とでもいったほうが分かりやすいかもしれないが、この政治的に疑問を感じる現象のはじまりは「増税メガネ」であったと考えている。あくまで私見であるが、はじめて「増税メガネ」という言葉を目にしたときには巧みな表現にかくされた弱い悪意におどろいた。とくに弱いところが曲者なのであって、強い悪意ならその寿命は短かったと思われるのだが、弱いからこそ網の目をくぐり抜けたのであろう。おそらく世論空間を漂いながらウィルスのように伝搬し増殖していったと思われる。もちろんネット空間においては一瀉千里であってその内容などはさまざまに語られている。
そこでまず、増税は悪か、あるいは絶対悪かというテーマである。もちろん政治的には「新税は悪税」という被統治者的心情は大いに理解できるのであるが、主権者が増税をいっさい認めないということで民主政治が機能する道理はないと考えている。しかし、世論という言論空間においては増税すなわち国民負担増が悪魔的仕業のように語られすぎではないか、と思う。
さらに、そのやり口が理不尽であると筆者が素朴に思うのは国民負担増が何に使われるのかという具体的な部分を考慮することなく、ただやみくもに拒絶反応をくりかえす、判でおしたようなリアクションだけが映像あるいはテキストとして切りとられているのである。おなじ画面を何回も見せつけられると「意図的だな」と思ってしまう筆者などはへそ曲がりなのであろう。べつにテレビ報道がアンチ岸田だとは思わないが、流される映像が偶然なのかはともかく、ようするに岸田フォビア的なものが重畳されるのであるからインプレッションが形成されるのである。
発信側としては多少めんどうくさい疑義が生じるかもしれない画面などを流しながら、いろいろあっても「悪いのは岸田だからね」、「責任は岸田にあるのだから」とでもいいたそうに、厳密にいえば公平を欠くかもしれないと思いつつ、「トレンドだから」とダメなイメージを連想させる一連のオペレーションを率がとれるからとかいいながら、とこれは筆者の得意の妄想なのであるが、アテンション・エコノミーまがいのことに手を染めているのかもと疑っているのである。意図的というよりも営業的にそうなっているのではないか。
筆者は政権の応援団ではない。義理もない。すべからく政府、与党の躓きは身からでた錆というのが基本線であるのだが、それでも冷静にいってメディアにあらわれる岸田評価につながるイメージはステレオタイプ化されすぎているようで、公平感覚からいって腑に落ちないのである。
仮に、国民負担を変えずに防衛力強化をはかったり、少子化対策を強化することが政治の役割であると主張する人がいるなら、筆者としてはその人は魔術師かペテン師であるとただちに反論態勢に入らなければならないと、極端ないい方かもしれないが、そう思うのである。
つまり、政府たるもの、内閣総理大臣たるもの完璧にして無謬なるもの(立場)でなければならないというラインを勝手に設定し、そのラインから無理難題の攻撃をくりひろげるとまではいわないが、ややそれに近い行動が一般化しているように思われる。そういった態度はどことなく逆さパターナリズムを思わせるもので、子が親に完全無欠をもとめる姿勢に近いのではないか、少なくとも無意識的にはそういう心理にあるのではないかと筆者は考えている。だからといってどうってこともないのだが、そういう関係では議論が深まることはないことだけは確かであると思っている。(政府は親ではない、対等である。)
さて、政府の負担増提案はその目的などのくわしいことを聞いてから判断すべきで、先走りの決めつけ批判があふれるようでは冷静な議論がむつかしくなると思われる。民主政治には世上評価に弱いという特性があって、この点が専制国家との比較において弱みを形成しているといわれている。だから、為政者を観察してなされる評価はできるだけ尊重していくという世論構造を前提にするのであれば、出現する評価などのもろもろについてはできるだけノーマライズしていくという社会的対応力を発信側受信側ともども洗練させておかないと、極端な風評にふりまわされることになると思われる。
ちなみに財務省資料によれば、昭和45年(1970年)の国民負担率(対国民所得比)は24.3%であり、昨年令和5年(2023年)のそれが46.8%であるから、ほぼ半世紀で倍増ということである。分子となる負担の項目は国税+地方税+社会保障負担であり、分母は国民所得(NI)である。また財政赤字(比率)を分子にくわえた潜在的国民負担率は昭和45年が24.9(24.3+0.5)%、令和5年が53.9(46.8+7.1)%であり、じつに2.16倍となっている。また、社会保障負担は昭和45年が5.4%であったのが令和5年では18.7%と約3.5倍となっている。 (財政赤字分は後年の負担でありいずれ浮上することから潜在的と財務省は表現している。)
これらの数字をみるかぎり、何のかんのいいながら半世紀という長時間をかけて国民負担率を倍増させてきたことは国全体として認めなければならない。さらに、その主なものが社会保障負担であるかぎり議論でかき回してみても支出を抑えることは困難であるといえる。
ようするに膨大な社会保障負担をどのように担うのかという結構計数的な問題なのであって、少子化をともなう急速な高齢化と長年の賃金停滞がもたらせた複合問題がベースにあるかぎり、高齢者比率が減少に向かうまではこの問題はつづくもので、瀬戸内海で超大規模油田が発見されるといった奇跡でも起こらないかぎり財政としては明るく語ることはできないといえる。
もちろん、世論的に感情的になるのも分るが、給付と負担は長期的にはバランスさせなければ国家財政に無理が生じるもので、借金で国家は破綻しないという理屈だけで社会保障負担を赤字国債で賄いつづけることはむつかしいというのが多数意見であろう。それを実験的に強行したのはアベノミクスかもしれないが、今日的には崩落事故の後始末的でコンセンサスの形成にはいたらなかったといえる。また、負担増というのは財政需要つまりひつようからきているもので、むだ遣いからきているものではないのである。それを政府の支出のすべてが無駄であるといわんばかりのデマゴーグに影響されて反政府的雰囲気に流されるのは成熟した民主国家としてはそうとうに異常であると思っている。とくに、少子化対策についてはこのままではどうにもならんから何とかしろという世論の圧力が大きかったと記憶しているが、負担増なしの少子化対策がありうるのか疑問である。(もちろん、野党がこぞって金融税を少子化対策の財源とするべく提案するのであればもろ手を挙げて賛成するのだが)
また、防衛力強化も現状がメインテナンス不足の惨状にあり、軍備としては一部の野党がもっているイメージは過大評価もいいところであろう。もともと有事に際しては戦力不足が露呈する問題への対応が本線であって、わが国の負担能力には限界がある。仮に米国側が恩着せがましい姿勢をとるのであれば彼我の立場あるいは姿勢の違いが日米同盟に亀裂を生む可能性もあるという意味で盤石な関係とはいいがたい。在日米軍はいつまでも進駐(占領)軍であっては共通の価値観を育めないであろう。
いずれにしろ双方にとって忍耐の同盟であることはまちがいないわけで、些事が大事にいたる危険をはらむことをよくよく承知しておくひつようがあるのではないか。
もはや1945年からの時代にはピリオドをうつべきである。というのも双務関係であるなら負担はイーブンであるべきで、貧困化するわが国が昔のイメージで米国から負担を求められても応じられない。あくまで国民の理解が前提であるべきで、そういう意味で日米首脳会談以後の防衛負担は厳格にとらえなければバイデン大統領の狙いは日本国民の理解において成就しないかもしれない。非常に微妙なところであるが、人びとは親米ではあるがそのまえに愛日であることを忘れてはならない。
という文脈こそ国会で議論すべきであって、増税の是非はそのうえでのことであろう。
16.内閣支持率には10から20%ポイントの超過マイナス分があって、それが30年間のマイナス評価に由来するという仮説は妄想か?
岸田政権の支持率が低迷している。そのことについては何回か私見を述べてきたが、今回は、2023年8月9日付弊欄から部分的に再掲する。自家引用なのですこしみっともない気がするが文脈としてのひつようを感じたものである。テーマは昨年8月当時の内閣支持率の急落をうけての筆者の考察である。多めの願望が混じっている。
-引用開始-
自民党だけではなく各党ともに維新のことが気になって仕方がないのであろう。その気持ちはよく分かる。が、そのことよりも自民党は、内閣支持率の低迷の原因がなんであるのかを早急に解明しなければならないだろう。
そこで、その答えのひとつが、国民民主党玉木代表が「平成の30年で苦しくなった国民生活」(7月18日ツイッター)との表題で世帯年収や国民負担率など12の指標について1989年との比較をあげている。ここで指摘されていることが直近の内閣支持率にどれほど影響しているのか、はなはだ疑問ではある。また、自民党だけが被らなければならないというものでもあるまい。まして、その年には連合も発足しているのである。
しかし、いろいろな注文があるにしても、12の指標にかぎれば停滞どころか大きく後退しているのである。こんな成績でありながら今なお自民党が政権に就いていること自体が世界の7不思議といわざるをえない。30年来、不連続ではあってもほとんどの期間において、政権を背負ってきた政党は自民党だけ(1999年10月から公明党が連立参加)であるから、その責任は重大といえる。もちろん、野党の役割にも触れなければならないが。
もし人びとが、多少なりとも30年来の政治をふりかえり、結果として失政であったと考え、さらに岸田政権にもその責任の一端があると考えた結果が今日の低支持率につながっているということであれば、自民党だけではなく、わが国にとっての転換点であるといわなければならない。つまり、人びとが長期視点で政治を批判することは、じつに画期的なことではないかと思う。(またまた妄想かも知れないが)
もちろん、有権者がそういった歴史的視点をもって現下の政治を評価することは稀なことで、ほとんどなかったといったほうが正確であるし、今回もがっかりさせられるのではないかとも思う。
しかし、それでもそのような解釈が可能であることは間違いないわけで、とくに人びとの疑問が体系的かつ時系列的に紡がれはじめると「30年間の系統的失政」という結論にたどりつくのに、そんなに時間はかからないと思われる。(系統的というのは芋づる的に原因と結果がつながっている、あるいは同種の課題において同様の結果をだしているなどであって、全種全面にわたる失敗という意味ではない。)
さらに、そういった疑問が人びとに浸透して広く定着していくならば、自民党の支持のすくなくない部分が失われることになるかもしれないのである。もちろん、失われる「すくなくない部分」が、具体的にどの程度のものであるのかによって状況というか事情が大きく変わると思われる。結局のところ、その程度はよく分からないのであるが、ただ経験的にいえば全国規模で500万票動けば大事件に、1000万票動けば政変になるということであるから、「まさか」というジャンルの話としてはありうると思われる。人びとが、30年にわたる不都合な政治の責任を考えての岸田政権の内閣支持率急落であるなら、歴史の転換点になるのではないかというあくまで講談の類ではある。
-引用終了-[時事雑考「23年秋の政局―解散は困難、賃上げ不足が露呈、物価高で生活苦」(その1) 2023年8月9日]から
ということで、現時点でくわえる言葉はないが、「最低でも大事件、場合によっては政変に」というのが今日の相場観であろう。
◇配達が蝶舞う夢を消してゆく
加藤敏幸
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