遅牛早牛

時事雑考「2024年5月の政局-4月補選は頂門の一針か、あるいはじり貧のはじまりか-」

【 3月の1人あたりの実質賃金が前年同月から2.5%減少した(厚生労働省毎月勤労統計5月9日発表)。名目賃金が0.6%増加したものの物価上昇率が3.1%であったために差引減となった。これで賃金が物価に負けている状態が24か月もつづいていることになる。来月からは春の賃上げの結果が反映されるので、いよいよ実質賃金が上向く見通しであるが、プラスに転じる時期については多数の専門家が秋ごろと予想している。しかし、中小規模企業の賃上げが低水準にとどまる可能性も高いことから、プラス転換は25年に持ちこすとの見方も浮上している。

 筆者はウクライナ紛争の長期化や中東情勢の悪化などから資源、物流コストが高止まりとなり、また円安の加速を考えれば、さらなる輸入物価の上昇が避けられず、くわえて価格転嫁の進展も予想されるので結果として3%台の消費者物価上昇がつづくと予想している。ということで、減税などの生活支援策をそうとう強化しないかぎり、年度内のプラス転換はむつかしいと考えている。ということは、賃上げが物価を追いこせている少数の家計と、物価についていけない多数の家計とに分断されると同時に両者の所得や生活の格差が拡大していくと思われる。ということで、低所得層においてはひきつづききびしい状況がつづき、否応なく生活の質をおとさざるをえなくなると思われる。追加の生活支援策が必要だと思うが。

 ところで、政治資金規正法の改正協議が急ピッチですすんでいる。会期内に仕上げるべきであろう。くわしいことはまだ分からないが、公職選挙法にならった連座制の導入には筆者は反対である。この連座制というのは現行法体系からしても異様なもので、そこまで法曹にたよらなければならないのかと嘆じている。そもそも有権者が投票で決着をつける道があるのにと思うし、選挙で当選した者に落選以上の罰をあたえることでどれほどの正義が達成されるというのか、大いに疑問であり、やりすぎになるとも思う。さらに投票の価値を不安定にする点においても主権者の権利の侵害ではないかとさえ思う。

 筆者は公選法の連座制も憲法とは不調和であると考えている。たしかに最高裁の判断はあるが、連座制の適用例をみながら考えさせられることも多いのである。人生をかけている政治家にとって過酷な仕組みであると思う。

 さて、政治資金収支報告書の記載不備あるいは判断の過誤さらに解釈のちがいなどが失職や公民権停止をもって贖わなければならないほどの罪であるのか判断が難しいと思うし、個々の事例にもよるが悪質性の抽出がむつかしいことをいえば現行と同じではないかとも思う。さらに一票を投じた有権者の付託はどうなるのかなどについて考えをめぐらせれば巡らせるほどに、不均衡がすぎるように思うのである。また、法廷で議員をどんどん辞めさせられる手だてをもうけることには慎重であるべきで、議員を委縮させることは民主政治の退行をまねくのではないかと危惧もする。あるいは政権側の武器となり、実質専制政治の道をひらくかもしれない。公開情報であるから詳細に記すれば記するほどAI分析の精度が向上することの意味する危険についても考慮すべきではないか、世界的に個々の議員への干渉が強まっているといわれているが、そういったことへの予防策も同時に考えてほしいものである。(例によって文中敬称略とする場合がある)】

1,全敗のショックを隠せない自民党と公明党

 見出しに「自民全敗」が躍っていた。4月28日の衆議院補選の結果である。もっとも、3選挙区のうち東京15区と長崎3区は候補者をたてられなかったいわゆる不戦敗であったから、結局のところ島根1区だけが実敗北であった。自民公明は負けたのである。選挙戦終盤においては「逆転」に望みをかけたが、根拠のない逆転がおきるはずがない、また候補者を立てられないというのは政権政党にとって最悪の選択であるから、実態はそれほどひどかったということであろう。

 その島根1区も自民党にとってプラス材料はゼロで、とくに前議員にむけられた「旧 統一教会」との疑惑については説明不足というか、ほとんど説明なしにおわり、払拭にはいたらなかった。さらに逝去後に騒ぎとなった裏金事件でも清和政策研究会の元会長であったことなどが、錦織功政候補にとっては想定をこえたマイナスになっていたと思われる。

 そこで注目すべきは、衆参の議員歴をもつ亀井亜紀子候補とは知名度においても大きな差があったことなどを考慮すれば、錦織候補の獲得した5万7897票は逆風の中にあってむしろ健闘したのではないか、敗北ではあるが強力な集票力は温存されたといえる。

 島根1区はこれで「保守王国」ではなくなったが、依然として「保守強国」であることにかわりない。来年10月までには総選挙があるので大激戦区になると思われる。

2.維新の敗北は限界を象徴しているのか

 第二の敗者は維新(日本維新の会)であろう。立憲(立憲民主党)との野党第一党争いの初戦で敗れた、それも内容が悪かった。またこの敗北で、まだまだ近畿2府4県の壁をこえられないという印象が強化されたのがじつに痛い。「維新は近畿以外では弱い」という印象がこのタイミングで定着することだけは避けなければならなかったのであるが、とくだんの策をほどこしたという形跡はなかった。予想された敗北といえる。

 ところで、細かなことではあるが、党首脳の発想とコミュニケーションには関西風の味つけがあり、親近感と同時に反発もまねいたかもしれない。ストレートなものいいは分かりやすいが、全国的に通用するとは思えない。

 また、たとえば「裏金事件」が大きな注目を浴びているときにどうして立憲をたたきつぶさなければならないのか、言葉も態度もえらそうであり、さらに意味が分からない。気楽に「たたきつぶす」を多用するのは関西風のコミュニケーションなのか、これもよく分からないが、大方の人はストレートに受けとめ「当面の敵を見誤っている」と首をかしげていたであろう。

 さらに、大阪万博については雨マークがついているのに雨具の用意もせずにふてくされているのか、有権者には戸惑いがある。今までは大阪府と大阪市の行政を連結させ、行政能力の高さと身を切る改革を売りにしてきたと思われるが、それが近ごろでは経費が倍増しつつあるとか計画がずさんだったといった万博批判がでてきているではないか。伝説が崩れかけていることが「支持したいと思っている層」の意欲に水をさすもので、党勢拡大にとっては障害となっていると思われる。このあたりで維新らしい潔(いさぎよ)さをださないと、結局自民党とかわりないと思われて、自民批判の受け皿にはなれないのではないか。それが実証された選挙だったと思っている。

 党の基本姿勢として、「第二自民党」をめざすのか、それとも右派的「自民党批判の受け皿」をめざすのかという二択を前にして、維新としては本質的な矛盾が鮮明になったということであろう。やや独りよがりの傾向があり、野党の中心となるにはまだまだ経験がひつようであろう。ただし、野党の中心になることをめざしていない可能性もあり、立憲よりも自民のほうに親近感をもっているのかもしれない。したがって、政治改革問題が収束した段階で与党化する可能性がのこっているとみるべきであろう。とくに自民党が単独過半数を割りこんだ場合には連立の可能性もありうると思われる。多くの人が、立憲との連立よりも自民との連立のほうがはるかに実現性が高いと考えているところに維新の真実があると思う。

3.線が滲んだような選挙であったが、敗因はなにか?

 第三の敗者は、乙武洋匡氏と小池百合子都知事であろう。まあ、ひと言でいえば複雑な経過とこれから先のぼんやり感が敗因であったといえる。とくに、無所属はいたし方ないとしても、自民党公明党との距離感については今考えてもむつかしいものであったと思う。しかし、乱立状態の中で勝ちぬくには支援組織のまとめが不可欠であるのだが、この視点だけでいえば、今回は立憲と共産の左派連携が奏功し、乙武陣営は劣後したといえる。

 低投票率が予想される選挙では、比較優位を組みたてていく冷静な判断力と細部の分析力が問われるもので、とくに今回のような自公なき乱立状態での位置取り、たとえば反自民なのか中立なのか親自民なのかといった基本スタンスが有権者の判断に影響をおよぼすことを重視したほうがよかった。さらに細かな集票単位での動向を把握し、日々手をうっていくことが定石であるのだが、すこし宙に浮いていたのではないか。

 いずれにしろ、小池百合子+都民ファースト+国民民主という組みあわせではどうしても照度不足になりがちである。それを補うために説明過多となるのだが、正直そういったロジックがなんとなくめんどうくさいのである。つまり説明しなくてもよく分かる、質問なしでなければ力の結集はむつかしいといえる。

 ところで、小池百合子氏が選挙に強いという評価は半面のことであって、評価すべき点は戦略配置にすぐれ、くわえて情勢の活用が巧みであるという2点であろう。すくなくとも小局の陣取りについて強いとは思えない。つまり混戦を勝ちぬくタイプではないということであり、勝てる選挙をつくっていく点においては天才的ではあるが、局地戦にはむかないと思う。

 さて、7月の都知事選は時期的に微妙であり、ややこしい感じがする。小池氏としては快勝をめざす流れだろうが、問題は総理の椅子をめざす野心すなわち本人の存念であろう。どう考えても次の総選挙がラストチャンスなんだから、まあ政局次第といえるが、尋常でない情念を燃やさないかぎり幸運はめぐってこないかもしれない。そこで、情念の枯渇は自覚的ではないので(筆者の考えである)、本人が自身を勘違いしてしまうこともあるのではないかと考えている。

4.じり貧の瀬戸際であるが、状況適応能力は一番といわれている

 このままでは「じり貧」のおそれが強い自民党の行く末である。じり貧だと気がついた時には手遅れだった民主党の例をだすまでもなくまさに崖っぷちである。にもかかわらず、まだまだ余裕をかましているというか、あるいは空気のぬけた風船状態なのか、そんな中でも匿名のぶつぶつだけはあいかわらず盛んなようで「こんなことで大丈夫か」という声も聞こえてくる。

 さて、総裁実現期成同盟であった派閥を事実上解消してしまったわけであるから、派閥で動けば世間から強烈なバッシングをうけるので動けない、となると自民党内の権力構造は真空化するわけで、現職でまとまれないのに人気者でまとまれるはずがないと考えるのが常識的であろう。いずれにせよ、国会を閉めてからの動きとなるが、政治改革の仕上がりとも密接にかかわってくるであろう。さらにその時点での内閣支持率の動向とその解釈もあることから、現時点での予測はあまり意味をなさないと思われる。

 ただし、危機に瀕したときの自民党の節操のなさはじつに芸術的であり、過去にとらわれない柔軟性というか独特のアミーバ性には驚きをこえて感動すら覚えたものである。とくに村山富市社会党委員長(当時)を内閣総理大臣に担いだ時には天地がひっくり返るほどの驚きであった。

 こういった離れ業は危機意識の裏返しであるから、追いつめれば追いつめるほどに、かの党は豹変の度合いをあげていくに違いないと思う。しかし、おかしな話ではないか、野党の追及がきびしければきびしいほど、たとえば女性総理の実現が現実味をおびてくるというのだから、そうなれば何をかいわんやである。

 さて、9月に新党首を求めるとしてどういう段取りが考えられるのか、たとえば前任の菅氏が立候補を取りやめたように円滑に運ぶためにはどうすればいいのかと知恵をしぼっているX氏(よく分からんが)にしてみれば、「党首ひきおろし劇」を主宰するにしても、つぎの党首のあてもないのに芝居をうつわけにはいかないということであろう。

 そこで、つぎは誰なのかという段階でがぜんスポットライトを浴びるのが長老であろう。前々から指摘している「長老追放」なのである。今回の「裏金事件」以降岸田総理が掌中に握りしめているテーマが「安倍派処分」と「長老追放」であることは知る人ぞ知るつまり衆知(?)のことであったのだが、その「安倍派処分」は既決箱に入り、残されているのが「長老追放」ということなのか、虎視眈々とその機会をうかがっている緊迫のシーンと妄想しているのであるが、一件落着後にとりかかるということであれば、誰が長老なのか分からないが、長老にはまだまだ出番があるということで、波乱の連続かもしれない。それにしても抜け目のないしたたかな人材の豊富なことよ。

5.国際情勢が国内政局を決める-米国大統領選挙の結果次第である

 ところで、2024年の政局をめぐる論考において、筆者は国内だけを見ていたのでは話にならない「国際情勢が国内政局をきめる」と主張してきた。そして、その大筋は11月の米国大統領選挙で決まるということである。つまり11月5日の結果をみまもることになると。それまでは汐待ち風待ちであり、結局のところ大凪にならざるをえないのである。

 汐待ちには網を繕うものであるが、どんな網を用意するのかも二通りであるから忙しいといえば忙しいことになると思う。

 ということで、満汐に風もないのに誰が船をだすのか、という停滞した気分が9月の総裁選をとりまけば、とりあえずビールというわけではないが、とりあえず現職でとなるのかならないのか、ここら辺が微妙なところであろう。

6.日米首脳会談など外交面では評価されるべきであるが

 さて前回の弊欄では、日米首脳会談について筆者は〇を打った。賛成ではなかった2015年の安保(平和安全)法制の成立後において、わが国の安全保障環境は階段を上がるように緊迫の度合いを高め、結局米中対立の中での日米同盟の深化という抽象的ではあるが米国の橋頭保をも担うという歴史的必然にいきついたのである。民主的手続きを経て決めた方針は尊重されるべきであるし、その方針に代わるアイデアを国民の支持をもって提示できないのであれば、政府の方針を是とすべきである。

 また、橋頭保というとさまざまな反論もでてきそうであるが、言葉遣いに異論があるにしても、現に世界でも有数の米軍基地をかかえ、なおかつその抑止力をもって国防の主柱としているのであるから、普通にいってもそれは橋頭保でもあるわけで、おかしなことではない。それで不都合があるのであれば条約を破棄すればいいという、しごく単純な理屈の上に乗っかっているのであるから、わが国にとってひつようにもとづく防衛構造といえる。現在のところ、これに代わる仕組みを見いだすことはむつかしい。

 という安全保障の到達点が日米首脳会談であったということで、政治改革のめどがつき次第、わが国のことだけではなく日米間さらには世界の経済もふくめた安全保障についての議論がひつようなのであるが、どの国も国内政治が一番であり、目を海外にむけることはめずらしいことであるといえる。

 とくに、岸田総理の成果が外交・安保分野に偏重していることから、国会での駆けひきにおいて野党の中には外交・安保をテーマにした議論を避けたいと考える流れがでてくるかもしれない。基本政策の中央に位置している外交・安保について国会で一度は本格的な議論をこなしておかないと国権の最高機関の任務をはたしていることにはならないのではないか。解散総選挙をもとめるのであればなおさらのことであり、是非にでも議論を創ってほしいものである。

 

7.激動の世界情勢の中で変身を遂げる日米同盟の限界線は

 もはや、現実そのものになった日米同盟であるが、わが国の世論はそのことについての議論をあまり好まない傾向を有している。もちろんわが国の死命を制するというほどの状況ではないが、しかし米国が求めるところも深刻(シリアス)な現実からくるものであり、トランプ前大統領がよく口にする条件つきというか選択的な同盟関係では米国もEUもその他の自由主義諸国も有事にはもちこたえられなくなる状況が生まれようとしていると思われる。

 また、地球儀のどこをながめても、一国主義で持続可能な国家経営をつづけることはむつかしいといえる。もちろん米国もその例外ではないということは、気候擾乱(筆者は変動を擾乱と記すことにしている)問題だけを考えても自明のことであろう。

 また、地域紛争や治安の悪化などがさらに増悪すれば、人流や物流の阻害により地球規模でのサプライチェーンへの悪影響が生じ、経済活動の停滞をまねくおそれがつよまり、その悪影響はより貧しい者へとしわ寄せられることになる。

 地球規模での秩序の維持といった役割は、もはや米国一国で対応できるものではなくなっていることも厳しい現実であり、国連機能の回復など総じて問題が困難化しているといわざるをえない。

 さらに、政治にかかわる価値観においても近年では欧米ばなれがいちじるしく、長年世界の主流であると考えていた自由や民主の価値観の相対化がすすみ、今日では中ロ朝を枢軸とした価値観対立外交が米国はじめEUなどにたいして露骨にしかけられているように思われる。もちろん、20世紀の後半は世界が自由を前提にした市場経済型民主政治をめざして発展していくとの潮流にのみこまれていたのであるが、気がつけばいろいろある価値体系のひとつとして掲示板にピン止めされているという悪夢のような状況になっているのである。これは決して誇張ではなく、人口比でいっても世界の現実の的確な表現であるといえる。

 相対化され、押しこまれつつある自由と民主の価値観の復活には平等を概念基盤とした富の適正な分配が必須であるのだが、足もとでの格差拡大が説得力を消去していくと思われる。いいかえれば、資本主義が人権と平等を迫害し、いずれ自由と民主をも圧迫しはじめるかもしれないのである。たとえば、格差拡大のひとつの現象である貧困についても、説得力のある対処策をしめさなければ、自由を前提にした市場経済型民主政治の優位性を証明することはできないといえる。

 つまり、民主主義国対覇権主義国という対立構造を仮説として受け入れるとしても、民主主義国が足元にかかえている貧困や差別といった根本問題への対応で成果をあげないかぎり、どっちもどっちといった膠着状態からぬけだすことは期待できないと思われる。その意味では内なる戦いこそが真の修羅場であるといえる。

8.全勝した立憲民主党は追い風の中で力強く変れるのか

 さて本論にもどり、先月の補選においては3選挙区とも予想の範囲内の結果であったが細部は複雑であった。ともかく立憲の全勝であり、さらに総選挙にむけ勢いが増すと思われる。そこで野党が候補の絞りこみに成功すれば15年ぶりの選挙による政権交代が再現できるかもしれない。しかし、その難しさをだれよりも分かっているのが泉・岡田ラインであろう。

 理想をいえば、今回の補選で立憲、維新、国民が連携しながらそれぞれ1議席づつ持ちあっていれば、連携のイメージが具体化され前進するのであるが、紆余曲折があってそうはいかなかったのが現実である。そういう意味では、立憲と共産党との静かなる連携がきわだったということで、明日につながる、もっといえば政権交代につながる勝利であったのかどうかについての評価はこれからのことであろう。

 さて、「立憲共産党」というのは筆者的には「増税メガネ」と同じぐらいいやらしい表現であると思っているが、野党が「裏金議員」をつかうのとおなじことで、表現の自由といえる。

 くわえて、立憲共産党がたんなる揶揄だけではなく基本政策上の不整合が大きいにもかかわらず、選挙連携の実利をやすやすと手に入れていることへの羨望的イライラ感の表現ともいえるわけで、しかしいろいろいわれても選挙に勝てば何のことはないのである。

 とはいっても、左派連携ではたちまち限界につきあたることから、展望なき連携であることは否定のしようがないわけで、ここに立憲としてのジレンマがあるといえる。つまり、当面「どうする立憲」状態がつづくと思われる。ということで全勝はしたものの立憲の悩みは深いのであるが、さりとて効果的な対策もあるようでないことから、悩みつつ総選挙をむかえる可能性が一番高いと思っている。ところで、立憲だけでかるく150議席をこえるとの予測も流れているようだ。これは泉代表の約束ラインであるから、立憲民主党というよりも、泉代表にチャンスが来たというべきかも。

9.岸田総理の打つ手は限られている、ワンチャンスあるのか

 それにしても岸田総理はついている。もちろん皮肉もあるが、今回の補選において、もし勝てるとしたら島根1区しかなかったのであるが、そこで仮に勝っていたなら、おそらく党内には解散反対の大合唱がおこり、政治改革は中断もしくは中途半端におわったであろう。(どの程度改革がすすむかは未だにみえないが)そうなれば、政治改革に不熱心であると有権者が判断するであろうし、どのタイミングでの選挙であっても「自公に本気でお灸をすえる」ムーブメントがもりあがると思われる。つまり、政権としては自らにきびしい行動を有権者にしめさないかぎり、単独過半数を下まわる水準にとどまらざるをえない状況がつづくと思われる。自民党の多くの議員は「選挙」に脳中が占拠されているようで、ここらあたりが有権者との乖離が生まれる原因となっているのではないか。自己保身、自己利益から離れて、政治改革でけじめをつけることがスタートラインであり、これが有権者が求めていることなのである。

楽な選挙が党を弱体化させた原因か?

 考えてみれば、国政選挙では2012年暮れから自民党は幸運の連続であった。しかも、2012年の総選挙で初当選であった議員はすでに10年を超える議員歴を誇ることになり、今ではベテラン議員つまり閣僚候補の予備軍といえるのであるから見事な成果である。しかし、実はこれが自民党の今日的破断(クラック)線となっているのである。

 つまり、ベテラン議員もふくめて過半のメンバーが比較的楽な選挙の経験しか有していないのであって、これは後援会においても同様であると推察できる。一般論ではあるが、楽な選挙の連続は議員を欲深き軟弱者にするのであるから、現在のところ議員数は単独で過半数をこえてはいるが、組織の強靭性という観点からいえば党全体としても弱体化していると思われる。

 その証拠に、党として監査・指導できたはずであるし、党が把握していなかったというのは信じがたいことであり、それこそ職務怠慢ともいえる。公党としては内部統制に問題があったということであろう。このあたりの事情と問題の所在を考えれば、まさに組織として大いに弱体化しているといえる。さらに1989年の自民党「政治改革大綱」を着実に実行しておればかかる大失態にはいたらなかったといえる。 

 と縷々(るる)建前論を展開してみたが、表面的な反応はおき、声にならない反論も多数あると思われる。たしかに、政治あるいは政治活動のただなかにあって、日々おこるさまざまな課題やトラブルをとりしきる立場でいえば、建前論だけでは処理しきれない問題があふれるように存在することも確かであると思う。そういう意味では現状あるいは現実を棚にあげての批判は批判のための批判として受けながされるかもしれない。

 しかし、そうはいってもつまりどんな理屈をつけてみても、これらの建前というべき規範ラインをうごかすことはできないのである。ようするに、政治にかかわる世間の評価には建前論しか通用しないのである。今回のことで、本音の世界から建前しか通用しない世界へ瞬間移動させられたようなショックをうけた議員も多かったと思うが、また同時にさまざまな葛藤があったとしても、けっきょく違反状態にいたったことは事実であって、議員の立場としても法規制のあり方を変えなければならないということであろう。

 今後の立法を見守ることになるが、有権者の「知りません」「記憶にございません」への嫌悪感はいまや最高潮に達していることを忘れてははならないということであろう。

 さてこれからの課題と対応であるが、自民党の「政治改革大綱」(1989年5月23日)に立ちかえり、35年前に国民に約束したことを誠実に実践していくことが、事態収拾の王道といえるのであるが、愚直な実践者がみあたらないのがこの党のほんとうの危機だと思うのである。

10.状況を甘く見たのか、政治改革への初動がよわかった岸田自民党

 今日の政治情勢をひと言でいえば、政治改革をないがしろにするいかなる口実も受けつけない、ということであるのだが、参考のためにすこし補足すれば、議員は個人として責任を背負っているということであろう。

 しかも、その責任を派閥どころか党でさえ背負ってはくれないのであるから、自立していなければつとまらないのが議員という役割であるのだ。しかし、同時に社交的でなければ枢要な役職に就くことはむつかしいのである。したがって、万事つきあいとか情報交換が重要になってくる。そこで、群れるのも力であり、国会では何ごとにおいても数をまとめることが最重要であるといえる。このことを否定していては民主政治は動きだせないのである。つまり、民主主義とか民主政治といってはみても、その駆動原理は数による決定であり、いいかえれば数の裏付けのない正義は村はずれの一本杉にもおよばないといえるのである。(一本杉は見上げられながら目印として役にたつ。)

 そこで、筆者が「指示と責任は表裏一体のもので、責任なき指示は闇の世界をもたらすことから、厳に排除されなければ組織は腐敗する」と派閥の弊害をかっこよく説いたとしても、数を糾合しなければ仕事にならない議会の性格との関係において、そういった建前論がどの程度の説得性をもつのかは、はなはだ疑問なわけで、そういうことでいえば建前論というのはいわば無力感のかたまりともいえるのである。つまり、建前論は現実的には解決策にはならないのであって、この現象は何もわが国にかぎったものではなく政治において民主制を採用する国にとっては普通にある課題であるといえる。といった組織論の空胞を従来自民党は派閥をもって埋めてきたともいえる。つまり、政権政党とは内部矛盾をかかえながらも一定のパフォーマンスを維持していける可撓性をそなえていなければ長くはつづかないものである。だから、角を矯めて牛を殺す議論となっては本末転倒であろう。

 しかし、現状をいえばある程度のいきすぎは覚悟しなければ状況の打開はむつかしく、またこのままでは国政の遅滞を招くことから、拙速やむなしとの判断をくだすべきであろう。これは総理の判断のことである。  

11.団結を欠く自民党に勝機は訪れない、ブツブツをやめて政策論議を

 他方で、全敗が生みだした危機意識が現状においては岸田総理にとっての貴重な財産となっていると思う。また「岸田では選挙はたたかえない」という集団的な思いこみも奇妙なことに岸田おろしの歯止めになっているのではなかろうか。メディアなどが固陋にも「小石河陽子」などとふれまわり政局の活性(騒擾)化を誘発しようとしているのかどうかわからないが、肝心の名指しされた議員もふくめ多くの議員の反応がいまいちである。現職が何ともいっていないのに「次は」としかけることは政界の騒擾罪かもしれない、表でやればの話であるが。だから、「岸田おろし」などと報道の端っこであっても触れることはやはり騒ぎすぎというべきであろう。ひょっとして岸田おろしが破れかぶれ解散の引き金になりうることを恐れているなどというのは、まゆつばであるしまあどうでもいいことなのである。

 だから、6月に解散総選挙があるかもしれない、という恐れがあるかぎり本格的な岸田おろしは始められないという説は、その説が流通することで最も利益をえる人がながしているのであろう。そういえばこの内閣ほど解散、解散と鳴りつづけた事例はなく、珍しいといえるし、まるで長屋の風鈴ではないか、やかましすぎて仕事にならない。

 おそらく解散がもつグリップ力をもてあそんでいる輩がいるのであろう。といった事情が分かっていても、もしや、まさかと浮足立つのである。そして、なんといっても暴走宰相であるから、せっぱつまれば何をやるか本当に分からないと話はつづくのである。2022年の7月に参議院選挙がおわった時に、これで3年間は国政選挙がない、黄金の3年間の始まりといわれたが、それもすでに2年間が過ぎさろうとしている。おそらくこのまま緊張感をたもちながらワンチャンスの到来をまちつづける「寄らば斬るぞ」というのが当面のメインシナリオであると考えている。

12.9月の総裁選について予測することは危険である

 では9月の総裁選はどうなるのかということであるが、これは何回も指摘してきたが、「岸田では総選挙はたたかえない」ということを表玄関である党大会で議論し決定するのであれば、筆者もいいようがないのであるが、「選挙だけを考えて党首を選ぶ」という発想に対し、どう考えても無批判ではいられないのである。なんといっても政権政党のことなんだから「勝手にどうぞ」というわけにもいかないのである。

 とにかく「選挙の顔」という発想自体がイメージ優先に染めあげられているもので、とくに小泉時代から選挙にイメージ重視の手法が導入され、テキスト(論理)よりもイメージ(感情)に軸足をおいた選挙が自民党からしかけられ、その結果若い世代ほど選挙とはそういったものであるとの認識をもつようになったと思われる。

 筆者は選挙でのイメージの活用を否定あるいは排除する立場をとるものではない。しかし、後日において政権を評価するためにはどうしても選挙期間中の公的な発信(発言)記録がひつようであり、それがテキスト形式でなければ正確な解釈とか判断ができない。同様の理屈において選挙での投票行動の判断にもイメージにくわえテキストがなければ、選挙はたんなる人気投票におわり、本当の民意を問うことにはならないのである。とりわけ、国の進路や運営方針をイメージだけで表現することは不可能といえる。

 また、党首のキャラやイメージに依存する選挙の弊害については有権者自身がよく理解をしておく必要もあるといえる。

 

13.現在の政権は言葉がかってに泳いでいる

 現状のように自民党の体質に疑問が生じている、いわば緊急事態においてそんな人気投票のようなことしか思いつかない連中に「有事」とかを語る資格はないというべきであろう。しかし、そんなことを考えている自民党議員がはたして実存在しているのかはなはだ疑問である。もし奇をてらった総選挙をしかけて過半数に満たなければ党分裂の危機におちいるのだから、それほどのリスクをとれるのは党首しかいないというのが正論である。

 ところで、正直なところ「小石河陽子」などいう薄弱な情報をあつかうテレビ局に対し、いつまでやっているのかと憤りを感じるもので、そういった知名度に寄りかかった遊びに近い作為はやめたほうがいいのではないか。せっかくマジメな評論をつたえながら「今では小石河陽子といわれています」とついでにパネルを紹介するのは報道センスを問われるもので、テレビ局こそが政治を遊び道具にしているのではないかと非難されても仕方がないであろう。 

 そんな授業中の手遊びのようなことはやめて、たとえば日米同盟の限界線をどうするのか。日中の均衡ラインをどうするのか、完全に日米関係の中に包摂してしまうのか。また経済構造を改革するのか。少子化対策など国民負担率をどうするのか。さらにいつになったら実質賃金を改善できるのかといった基本的課題をあつかってほしいものである。すこしずつ専門報道が増えていることを心強く思っている。

 

 さて、現在の政権は言葉が勝手に泳いでいるだけで、言葉と釣りあった責任構造になっていないところに人びとの不満が集中していると思われる。この点については、政権として説明のやり方を工夫しないと、辞書をひけば意味は分かるが、意味が分かっても実態と符合しないから言葉だけが宙に浮いているだけのことであり、結局人びとには何のことか分からないということであろう。政治の世界に電子翻訳機はない。また、政治は書き言葉ではなく話し言葉の世界である。だから、本当の肉声で語らなければならない、と思う。

◇虫も来ぬ花もさびしき皐月かな 

 注)下線追加(2024年5月11日) 

加藤敏幸