遅牛早牛

時事雑考「2024年6月の政局-政治資金規正法国会の出口」

1.政治資金規正法の改正が焦点なのに自民党案は遅すぎゆるすぎで失敗

 「早くやらないから劇症化しちまったじゃないか」と隠居が愚痴っている。「政治と金」で紛糾した場合は「早期発見、早期治療」が一番であるのにどうしたことか。自民党が迷走をつづけていることはまちがいない。政権与党が迷走というとんでもない事態をおこすことを予想できなかった。自民党がこんなにだらしがなかったという点で、筆者の予想もあまかったことはたしかで、少なからず反省している。

 当初から政治資金規正法の改正が避けられなかったのだから、肉を切らせる覚悟できびしい案をだすべきであった。だが、党内がまとまっていないというのか、あるいは指導力の欠如というべきか、ようするに時間がかかり過ぎたうえに改正内容が中途半端であったことから、野党やマスメディアからはしっかりコケにされてしまった。改正案のとりまとめに気をとられすぎて、党内の危機感を整えられなかったことが災いしたといえる。これはよくある組織的症状で、所属議員全員の連帯責任であると思う。

 改正案を与党でまとめられなかったのがすごく痛い

 とくに、友党である公明党との溝がうめられなかったことは問題処理において致命的であり、くわえて自民党内には司令機能が存在しないことの証明といえる。富士川の合戦以降の平氏に似ているといってもいいのではないか。

 にもかかわらず、「連立解消につながる」といった匿名のお気楽な発言がでたりして、それで公明党をけん制しているつもりなのが可笑しい、今の立場がまるで分かっていないのであろう。この段階で公明党の裏書がないのだから国会対策的には「とても恐ろしい事態」であることを党内で思い知るひつようがあるだろう。

 念のためにつけくわえれば、自民党は参議院では過半数にとどいていない、また衆議院では単独過半数ではあるが三分の二超ではない。

 ということは、衆議院での採決を強行突破しても参議院では否決されるであろうし、さらに衆議院へ返されたとしても憲法第59条の再議決(出席議員の2/3超)ができないので廃案となる可能性がきわめてたかい。つまり、衆議院で強行突破してみても出口はなく、かえって支持率が下がるであろうから、いずれにしても現状は「空拳かつ無力」といえる。

 いいかえれば、現在の自民党案については原形をとどめることはむつかしい。では、いわゆる「落としどころ」はどうなのかということであるが、最低でも他党と同等か、できれば世間をおどろかせるレベルの厳しさでまとめるということであろう。しかし、全野党相手の修正作業は困難であるから中道政党の主張をとりいれること(修正)が考えられるが、話にのってくれる野党がいるのか分からない。つまり確実性についてはなんともいいがたいのである。

 だからどう考えても、与党である公明党と連携すべきであろうが、同党には支援組織からの反発が大きいという事情があるのであろう、生半可な妥協では公明党自身の選挙がむつかしくなるリスクがあって、「同じ穴のムジナと見られたくない」ということであろう。「政治と金」問題に限定すれば連立状態にはない、離脱の可能性もゼロではない、ということは大再編時代の幕開けかもしれない。(どこかで折り合う可能性がないわけではないが)

 野党の多くは自民党の衆議院での強行突破を誘発し、参議院での頓死をねらっていると推測される。いずれにしても本件はすべて自民党の責任であり、政治改革に不熱心であるとの心証を有権者にうえつけ、政局わけても総選挙における優勢をかためたいということであろう。自民党に策がなければ事態はそうなると思われる。この窮地からのがれるには、世間がおどろくほどの厳しいものを自公で修正案としてまとめるしかないのではないか。あるいは、恥を忍んで立憲・国民案をまるのみしてみせるとか。というほどの火急の事態となっている。

 ところで、世間をおどろかせるほどの厳しい内容で、はたして議員活動が円滑にまわるのかについては、ここでは判断がつかない。しかし、そういったいいわけが通用する状況ではないというギリギリの判断をするのであれば、きびしい規制によって、今後の政党・議員活動については思いきった痩身化をはかるしかないといえるし、それは自民党議員にとっての苦難の道になると思われる。

 筆者は、理屈ではなく現実問題としてここはやるしかないと考えるが、自民党議員の多くは今なお「飛び火をうけた」ていどの感覚でいるだろうから、党として大決断にいたらないかもしれない。たしかに「裏金事件」でいえば身におぼえのない議員も多いことから気の毒な面もあるが、くどいようだが現実は問題の質と領域が大きく変化したということであり、そのことをリアルに受けとめられない自民党議員が多いということであろう。派閥解消とかはまずまずであったが、要の政治資金規正法の改正案を現場にまかせたのが傷を深く大きくしたと思われる。それでも、有権者の多くは身からでた錆だと思っているだけのことで、かなしいかな晩秋の深夜にふる雪のような寂しさを感じる。

 この苦難は野党においても似たようなものであろう。もちろん、程度の差があるとしても、党財政の苦しさは各党とも同じであるから、我慢くらべの度が過ぎて体調を崩すところがでてくるかもしれない。

2.目立つ自民の地力低下とパーティー禁止を叫ぶ立憲のパフォーマンス

 今回の改正法の出だしから感じていることは、予想以上に自民党の地力が落ちていることである。したがって、立憲民主党にとっては千載一遇の好機であるから、目いっぱい高めの要求あるいは提案になることは自然なことだと思う。しかし、もし高めの要求どおりの結論となれば立憲民主党にとっても足場が重くなることは避けられないというか、重くなるぐらいでおさまればまだましというべきで、端的にいえば政権奪取の攻撃力に不足が生じるかもしれないのである。

 今回、騒ぎのわりには政治に金がかかることの具体的な解明があまり進んでいないという不均衡な状態にあるが、政治資金の使用事例が灰色がかっているからなのか、あるいは秘匿性が高いからなのか、ともかく不明瞭である。一部の報道において、地元秘書10人で約4000万円とか、新年会などの集会などに参加費としてわたす1万円が300か所として計300万円といった冠婚葬祭の儀礼的支出などが例として示されていたが、たとえばというレベルにとどまっている。

 もちろん議論するにはデータ不足であるから報道機関としてはこれ以上の踏みこみがむつかしいのかもしれない。しかし、有権者がイライラする原因の一つに「何に使っているのか」がはっきりしないモヤモヤ感があることはまちがいないことであろう。

 いうまでもないことであるが、議論をすすめる以上すっきりしたいのが人情であって、これを脇におくことはできない。だから、事例を交えながらの合理的説明ができなければ「使途不明金あるいは使途秘匿金」ではないかと、きびしく受けとられてもしかたがないといえる。といった議論におよぶのであれば今国会での決着は多少の会期延長では無理であるから、残された課題はひきつづきということになるのが恒例のことではある。しかし、それでは課題の残され方によって、政局が固定化されてしまうので、解散はおろか与野党関係も窮屈になってしまい政治が酸欠になるであろう。という考察をふまえれば、夏休みにはいる前までには多くの課題に結論をだすべきである。結論をまとめる責任はひとえに問題を起こした自民党にあることは動かせない。政権政党の資格が問われているといっても過言ではないのである。

3.「金のかからない政治」を目的化しただけでは政治は良くならない

 ともあれ、政党としては集金力の喪失へとむかっているわけで、議論を重ねればかさねるほどに「金のかからない政治」へと収れんされるのであろう。もともと政治家は役割であって稼業ではないのだから議論がそういう方向にむかうのは自然なことであると思う。しかし「金のかからない政治」が目的化してしまうと政治そのものが機能不全におちいってしまうのではないかと心配である。方法と目的を取り違えると思わぬ滑稽な事態が生じるものである。

 たとえば、例として引くには複雑な思いを禁じえないのであるが、政治資金パーティーの全面禁止法案を提出している立憲民主党の、何名かの議員が6月にも政治資金パーティーを開くという。さっそくブーメランだといった指摘があふれているようであるが、法律で禁止されるまでは合法であるという同党の説明は形而上学的にはまちがいないが、かなりギクシャクしている。(自発的に中止にいたったようであるが)

 筆者が指摘したいのはそういうことではなく、正当な資金需要があってそのために開催するというものをなぜ禁止しなければならないのか、つまり立法の根拠が分からないのである。今回問題を起こしたのは主に自民党の一部の派閥であって、立憲民主党ではない。さらに政治資金パーティーについても合法的かつ合理的に運営されていると聞いている。

 そもそも政治資金パーティーに本質的な問題があり、立憲民主党においてもその問題を把握していたということであるなら、禁止に動くことは理解できる。しかし、問題なく適正に行ってきた同党の政治資金パーティーを禁止する説明にはなっていないと思う。

 政局的対応であるというのであればそれなりに分かるが、政治資金パーティーが本来的に必要悪であるというのであれば、その事例を示し党としては即刻とりやめるべきである。そうすれば立憲民主党の評価は上がるであろう。

 筆者は、いろいろと疑いのある政治資金パーティーではあるが、議員と有権者との、また参加者同士のコミュニケーションの場として有意義であり、会計もふくめ公開されるかぎり問題ないと思っている。さらにパーティーにかわる日常的な交流の場があるのか、代替措置を用意できるのかということと、これ以上の政治の委縮は民主政治の不活化をもたらすと思うのである。

 野党第一党こそ政治活性化のモデルクリエーターであるべきで、そのことにより与党を追いつめることが政治に緊張をもたらすものではないか、「あれもダメこれもダメ」から「あれもこれもやってみる」というダイナミックな政治を期待している。

 ということで、政党や議員の集金力をかぎりなくゼロにちかづけることがかぎりなく正義であるとするのはかなり偏向した考えではないかと思う。とくに、政治資金全般の透明性の確保が今回の政治改革の中心課題であると思われるので、その流れを前提に、政治資金パーティーについても適切に透明性が担保されるかぎり政治活動の自由の範囲におさめてもさしつかえはないと思う。

4.政党の集金力が衰えれば、金持ち議員がのさばる?

 そこで、政党の集金力の衰えをカバーできるのは議員個人の経済力であるから、そんなに遠くない将来において無資産系の議員の漸減はさけられないと思われる。経済力の格差が政界における政治力の格差に直結するという、きわめて分かりやすいことになり、また資産力が政治家の序列を決定するという時代錯誤な空間が議事堂に生まれるかもしれないのである。つまり、自民党は現状がすでにその傾向をつよめているのであるが、さらに立憲民主党においても資産系議員や世襲議員の相対的位置づけが高まることになるのであれば、民主政治の終末ではないかと危惧している。

 なにかにつけて国会議員の処遇が問題視されているが、議論の矛先が本来の的をはずして、国会議員攻撃に終始するのであれば経済力の弱い議員から順番に消えていかざるをえないであろう。さらに、国会議員はボランティア(無報酬)でやるべしといった暴論が跋扈すれば、結果的に個人資産の多寡が政治のすべての分野で幅を利かすということになるのではないか。つまり、政治家の選出にも原始的な資本原理が機能することにならなければいいのにと思っているのである。

 そもそも多数の人びとの政治意思を汲みとり、それを政策に生かしていくのが民主政治の核心部分なのであるが、その任にあたる国会が資産系議員に独占されたのでは、資本主義体制をかろうじて補完している民主政治の代表性までが疑われるわけで、本来資本主義を牽制すべき政治が資本主義に包摂されていくことは資本主義の矛盾を放置することになるわけで、そうなれば社会全体として資本主義を許容することはできないと考える人びとが急速に増大するおそれが十分ありうるわけで、筆者の感覚でいえば修正資本主義ではなく矯正資本主義を考えるべき時代にすでに突入していると受けとめている。

 とくに気候変動(擾乱)問題への対応では一部に反資本主義の蠢動を感じるのであるが、富の極端な局部集中や異常な格差拡大などを直視すればほとんどの人びとにおいて資本主義を擁護すべき動機がゼロ状態に近づきつつあるのではないか、何やら予言的で気恥ずかしいがそういうことであると思う。

 もっと分かりやすくいえば「なにもかも金持ちの思いどおりになる体制」というアジテーションまがいの主張が普通のことに感じられる時代がすぐそこにきているということである。

5.団体献金から個人献金への移行を急いでどうするの、本当にできるのか

 もちろん、団体献金から個人献金への大きな曲がり角に立っているとの感慨を否定する気はないが、自民党における金のかかり過ぎの一角を占めている「地域(有権者)との交流」領域において、議員会計での支出を収入に転換できるのであれば、わが国の民主政治にとって大きな前進であるといえるのであるが、はたして意図通りに転換できるのか、政治サイドよりも有権者サイドの問題であるように思われる。

 自民党の支援者には地域企業が、匿名をふくめ枚挙にいとまがないほど登録されているという。その背景には予算獲得から個所づけといった地域経済をささえる構造があり、また立憲民主党には有力労組がひかえているというのが歴史的な景観といえる。そういった原風景を屑箱にいれながら、「団体から個人へ」といった原理運動のような口上でもって、支援構造を大きく切りかえることが2024年6月に本当にひつようとされていることなのであろうか、疑問はつきない。

 もっといえば、主要政党の既得権的な支援構造はそれこそが民主政治をささえる根太のようなもので、取りはずせば建築物は瓦解するのであるから、性急な議論は無用の混乱をまねくおそれが高いのに、また精密な議論や施策の用意もないのに議論だけを吹っかけるというのは政権交代をめざす政党のやることではないと思う。たとえば、1000人の会費を払ってくれる支援者を確保するのは大変なことであって、そういう現実があるのにということで、個人献金に特化するのはもう少し実績をつみあげてからでも遅くはあるまい。 

 ようするに政党助成金を前提に、その他の資金需要を小口の個人献金でまかないきれるのかといえば大いに疑問であるし、経理処理に忙殺される議員が本来の役割をはたせるのかという視点に立っても、連座制をふくめ現在の流れに対し考え方として筆者は賛成しかねるということである。

6.追いつめられた自民の逆襲は?しかし結果は同じこと

 逆に、自民党的にはこのさい思いきってサバイバルゲームに持ちこむ流れが生じるかもしれない。野党の本音にある「自民党に泥をかぶってもらって妥協をはかる」という期待のシナリオをあえて採用しないという選択もありうるのではないか。前述の世間がおどろくほどきびしい案というのは、野党の提示ラインを丸呑みするしかないという判断とほぼ同値のもので、そのラインを野党が予定しているとは思えないというのが多数の意見である。つまり、本音ではほどほどのラインで妥協をしたい、あるいは妥協するであろうと思っている野党の思惑を逆手にとって、想定外の厳しいラインで決着することにより、与野党ともに厳しい沼にはいっていくという友連れ作戦あるは共倒れ作戦ともいうべきもので、土台ネガティブな発想であるが、そういったサバイバルゲームでは手持ち資産の多寡が勝敗を決めることから、自民党だけが不利であるということはなくなるといえる。

 たしかに危険な選択であり、そういった決断を下せる状況にはないと思われるが、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということわざもあり、溺れかけているという認識があれば全身の力を抜いて流れに身をまかせることもできるであろう。何もしなければ溺れてしまうのである。だから、窮地にあって攻めに転じるのであるから気分は悪くはないだろう。

 そんなことになれば、政治改革としては瓢箪から駒の展開であって、期せずして清廉(貧乏)な政界に変身することになり風景は一変するであろう。しかし、ひつような金は要るので、ひょっとして非合法な接触がといった心配がでてくるかもしれない。とかいっても、国権の最高機関が決めようとしていることを止めることはできないのだ。

 いずれにしても、自民党だけが泥をかぶってほどほどのラインで終結をはかることはもはや不可能であるから、現実論でいえば「最悪の事態」が今のところ最大確率であると思われる。(「最悪の事態」というのは「金のかからない政治」がもつ偽善と欺瞞がわが国の政治をさらに劣化させるという意味である。)

7.いよいよ立憲の出番となるか

 さて、徐々に存在感をましている立憲民主党であるが、敵失であってもチャンスはチャンスであるからスロットル全開ですすむべきであろう。このまま岸田政権がつづくのであれば、いつ選挙をやっても比例票で2000万票に近づくと思われる。しかし、次の総選挙で単独で過半数をこえることはむつかしい。では、次々回の総選挙はどうであろうか。これについての現時点での予測は困難としかいいようがなく、とくに国際情勢への対応が注目されるであろう。

 ということで、多くは分からないのであるが、現在をいえば政治改革が中心課題となっている歴史的には特異な状況であることから、現在を外延して将来を語ることは避けるべきであろう。むしろ、政局がらみでいえば来年7月の参議院選挙が焦点となると思われる。

 ここで重要な点は、来年の参議院選挙で立憲民主党が改選議席の過半数を獲得しても非改選とあわせれば全議席の過半数にはおよばないことである。つまり、2028年の通常国会までは、立憲が参議院の過半数を制することはないということである。つまり、2025年10月までに行われる次回の総選挙で単独過半数をえないかぎり2028年6月までは与党に致命的な失策がないことを条件にいえば、立憲の出番はないということになる。

 さらに、次回総選挙で衆議院で単独過半数を確保したとしても、参議院は過半数にとどかないままなので少数与党となり、きびしい国会運営をよぎなくされるということである。

 では来年7月の参議院選挙が焦点となる理由であるが、この選挙で立憲が改選過半数をとることは自公が全議席の過半数を割る可能性が高く、与党としては第三の連立参加をもとめざるをえないことになり、それが再編の引き金となりうるということである。この場合の再編は非立憲他、反共産の領域でおこなわれ、その流れのなかで立憲右派が離脱する可能性もあり、選挙で勝った方がはずされるというよくあるケースになると思われる。

8.世論は本当に政権交代を望んでいるのか

 そこで世論調査によれば、50%を越える回答者が政権交代をのぞんでいると聞くが、立憲単独でその民意を実現することはむつかしく、現実的には連立政権による政権交代ということになる。そこで、政権の構成についての民意はしめされていないので、選挙の結果をうけてから模索することになり、おそらく調整は難航すると思われる。

 このあたりは予測が中心で、どうしても根拠が薄弱になり筆をすすめるのを止めたくなるが、あえて立憲についてだけいえば、皮肉なことに自民党との大連立以外の可能性は低いといわざるをえないのである。理由は前述の参議院の議席にある。過去のさまざまな経験をふまえれば、連立政権は参議院からはじめるのが定石であって、参議院の支えが強力でない政権は1回目はなんとかこなせても2回目の予算編成はむつかしい、つまり短命なのである。

 もっといえば、参議院で過半数を制することができないのであれば、仮に衆議院で過半数をこえていても政権を担当すべきではないというか、不安定な政権では国民に迷惑をかけるだけであるので、むしろ避けるべきであると思う。いくつかの組みあわせの中で、安定度に着目した政権づくりに注力すべきであると思うが、現実は衆の議員主導となって、結局首班交代のたびに大臣の大量生産だけが注目されることになるケースが多かったといえる。

 くわえて、たとえば立憲、維新、国民その他で衆議院で過半数をえたとしても参議院では過半数にとどかないので、さらに(考えられないことであるが)公明、共産が参加しても、それでも参議院での過半数には不足するのである。こういった衆参のねじれの克服はむつかしく、国会運営でいえば法的に何の効果もないはずの参議院の問責決議をつきつけられた大臣は委員会、本会議への出席を阻まれることから現実問題として辞任せざるをえないのである。ある意味参議院の専横といえるが、少数与党には対抗する手立てがないのである。ねじれた時の野党参議院の力は絶大といえる。

 さらに、参議院での全議席の過半数確保には連続2回の選挙において改選過半数規模を確保しつづけるひつようがあることから、つごう3年をこえる年月がひつようなのである。ちなみに、単独で過半数をこえていたのは第14回(1986年)の自民党の143/252議席を最後として、政党としては単独で過半数には達していないのである。(ただし、2016年の第24回は121/242議席であった。)というほど現在の選挙制度において参議院での単独過半数は至難の業といえる。

 ということから、連立の基本は参議院での多数派工作からといわれている。そこで、現在の立憲への追い風がつづくとして、2025年の参議院選挙において仮に改選議席の過半数(63)を獲得したとしても前述のとおり全議席では過半数に達しないのである。だから連立が必須であるのだが、立憲が野党をまとめる方向をむいているのかといえば、「立憲には政権の座に就く気(意欲)がない」との批判が絶えることがないぐらい淡泊であるといわれている。

 といった政界の常識を前提にすれば、政権交代を期待する民意にこたえるためには非自民勢力の結集が必須といえるのであるが、そのためには多くの政策上の矛盾を克服するというよりも、多くの場合はむりに我慢するということになるわけで、そういった矛盾を呑みこんだうえで、なお政権交代が求められているのかといえば、いま民意といわれているものにそれほどの覚悟がふくまれているとは思えないのである。やはり、「裏金事件」へのきびしい世論が政権交代といううねりを生みだしていると解釈すれば、ただちに政策転換を求めるているとはいえないと思われる。むしろほとんど怒りにちかい有権者の情動であって、それがいつまでつづくのかなどについてはいま一度慎重にみきわめるひつようもあると思われる。

 もちろん、評論家の中には政権交代こそが民意であるから、非自民の結集をはかるべきであると強く旗をふる向きもあるが、世論調査の方法などを精査するなかで民意なるものとその強度をていねいに分析することが求められている。そのような分析をへたうえで、現下の政局とのかかわりをふまえ、妥当と思われる解釈をみちびきだす一連の繊細さも要るのではないかと思う。

◇冠揺らし魚(ぎょ)を追う鷺の梅雨晴れよ

注)次の下線部は変更、占める←形成し、前進←飛躍、登録され←状態。他は追記、考え方として衆議院で規模というより。(2024年5月28日11時)

加藤敏幸