遅牛早牛
時事雑考「2024年6月の政局-自公維の賛成スクラムが呼びよせるものは」
1.珍しいドタバタ劇 政治資金規正法改正案、再々修正へ
政治資金規正法の改正なくして、政治資金パーティー還流金の不記載(裏金)事件に端を発した政治改革の出口はない、というのが筆者の基本ラインであった。逆にいえば、適切な改正をおこなえば事態は収拾するということであり、適切なのかどうかは立場によって変わるものであるが、国会での議決において余裕のある多数派を形成することが当面の決着となるのであるから、自民党としては公明党はもちろん中道に位置する日本維新の会の賛同をえることが最重要かつ優先度の高いものであったということであろう。
さて、どの程度の改正におさめるべきなのかについては、与党内の軋轢、野党間の駆けひき、世論の圧力などが複雑にからみあっているので、まさに湧水で鯉の切り身を洗うようなキリキリとした運びであったと思われる。
そんな中、5月31日自民党から岸田氏の意向を反映した再修正案がしめされた。その主な内容は、パーティー券購入者名の公開基準額を27年1月から「5万円超」に引きさげる、また政策活動費の支出状況が分かるよう10年後に領収書を公開するというもので、岸田総理が公明党の山口代表、日本維新の会の馬場代表と個別に会談し、それぞれの要求を受けいれ合意に達したという。
その結果、今国会で同法の改正案が成立する運びとなった。ようやく迷路から脱けでることができるという意味で、政権としては一安心と思われたが、ツッコミどころが多くのこされており、たとえば27年1月からという開始時期には遅すぎるという非難が噴出すると予想される。
また、政策活動費の「領収書10年後公開」についても期間短縮の要求がでてくるであろう。一定期間後に公開できるということであれば7年、5年と短縮しても事務作業としては変らないということで、さまざまな議論がおこると思われる。
そういった議論にくわえ、修正と引きかえに賛成にまわる公明党と日本維新の会にとって、それが党内で「納得できる内容」といえるのかなどと、あれこれ想像するのであるが、両党とも党内での議論が平穏にすすむとは思えない。まあ、参議院本会議で可決されるまではザワザワすると思われる。
というのは、もうすこし厳しくてもよかったのではないかという相場観もあって、いわゆる「のりしろ」の幅が気にかかるという向きも少なくないのである。いいかえれば、100パーセント丸呑みというほどのものであったのかという疑問もあって、ウエストのゴムがゆるい感じを禁じることはできないのである。ということで、一部でささやかれていた自民党内の不満については徐々に鎮静化していくと思われる。
と書き終わってから、政策活動費の開示基準を50万円超とする自民再修正案をめぐり維新の反発が急浮上し、6月4日の総理出席予定の委員会、衆本会議の日程が延期された。丸呑みといいながら小さな骨がひっかかった模様である。大小にかかわらず喉に刺されば大事であるからか、再々修正のうえ明日にも本会議で可決される見込みであると報道されている。(6月4日14時記)
2.自公維の賛成スクラム 維新の得意、立憲の落胆
この報道をうけての立憲民主党の泉代表の反応は当然きびしいものであったが、やや肩すかしをくらったような表情がうかがえた。これは筆者の感覚なのでどうこういうべきものではないが、維新と自民との個別交渉のうごきを立憲として予想していたのかどうか、大いに気になるところである。というのも立憲を中心に政権交代を企図するのであるなら、非自民での野党結集が必須なので、仮に次の総選挙(衆議院選挙)で立憲が過半数がとれなくとも、議席において与野党が伯仲すれば当座の政局を有利にはこび、次々回の選挙で逆転を実現するシナリオを描くことができる。つまり、夢物語が一気に現実味をおびるということで、そうなれば周囲の見方もかわり、またそのことがさらに大きなうねりをつくりだすかもしれない。という意味で、重要でありかつ微妙なことといえるのである。
つまり非自民結集政権とでもいうべきものの誕生の分水嶺にいるような感覚であり、なにやら細川政権を思いださせるのであるが、細川政権といっても記憶にない人びとも多いのであろう。
そういった非自民結集政権については空論とする向きもすくなくないのであるが、他方支持する評論家や学者あるいはジャーナリストも多く、野党の中のすくなくない議員が何気にそう思っているようである。おそらく、市民連合といわれているグループの描いている絵図面が意識下に浸透しているのかもしれない。
もちろん、立憲の首脳陣ははるかに現実的であるから、たとえば泉代表は2回の総選挙での政権奪取論を語ったが、結局猛烈な党内バッシングをうけて撤回した。しかし、常識的に考えれば2回でもむつかしいと人びとは思っているし、参議院選挙を視野にいれればさらにむつかしくなる思われる。なので、泉代表の合理的な考えをたたきのめしたあのバッシングとは何だったのかということである。
といった文脈にあって、非自民結集政権的なイメージが泉代表の頭の隅にのこっていたとすれば、不意をつかれたということかもしれない。さらに同党の国会対策委員長にいたっては反対する旨の発言を簡潔に発していたが、この先国会戦術として何ができるのかなどについて、ベテランの手腕に注目があつまるであろう。
とかいっているうちに、6月4日衆議院本会議での採決が決定したが、前述のとおり再々修正のため5日に延期された(衆本会議は6日)。採決前の特別委員会への総理出席を条件に立憲が了承したという。与党側の大盤振るまいではあるが、岸田総理としては背に腹はかえられないということであろう。同時に、自公維の賛成スクラムが成立した以上、立憲としては打つ手がないということなのか、拍子抜けの対応であった。総理出席で妥協したのであれば、大人の対応かそれともおとなしい対応あるいは音なしの対応、いずれにしても本音が透けて見える気がしているのは筆者だけではあるまい。(もっと暴れてもよかったのに)
まとめれば、暴走宰相の土壇場の活躍(?)で乱暴にページがめくられていくことになった。ほとんどの議員が経験したことのないほどのギクシャクした国会での動きであったが、このシリーズでいえば派閥解消につづくポテンヒットではあるが適時打であったと筆者は受けとめている。(こういったプラス評価はめずらしいが、表にでてこないだけで、実務経験からいえば会期内に改正案をまとめられることは内容はともかく議会運営としては多とするものである。しかし、参議院での展開次第で波乱もありうる。内容については立場によってさまざまな評価がでてくるもので正解はないといえる。)
一部の報道によれば、自民党内は総理に対する怒りでふっとうしており、今にも岸田おろしが勃発するようなといったニュアンスで伝えられているが、勃発予告ではなくあくまで気配報道なので、確実に何もおこらないと思う。
さも大事件がおこりそうなといいつつ、いつものことながら何もおこらないという、この報道と現実とのあいだにある変なギャップを感じながら、またレールが外れたような食い違いに何度も幻惑されてきたことを思いだしながら、いろいろ考えた末に、これまでもまたこれからも報道がささやく大事件や政変はおこらないという結論に、筆者としては達している。
といったことが積みかさなってきているためか、メディアのオオカミ少年現象についてはミミタコをこえて、枕詞(まくらことば)化している。さらに、憶測記事のほとんどはメディアにとっての期待であったりして、現実はぜんぜん違っていたということであるから、岸田おろしはおこらないと断言するつもりはないが、どう考えてもそういうことではないか、と思っている。
そこで、形としてのこっているのは自公維の賛成スクラムだけである。立憲は維新カードをわざと捨てたのか。あるいは不覚であったのか。夏の政局のキーワードであろう。
3.法律を設け厳罰化したとしても国民の信頼が回復するとはいえない
政治改革に真摯に取りくむべきという今日的主題があるのに、なぜ岸田おろしを吹聴するのか、まったくのところ解せないのである。なぜなら、政治資金規正法の改正にあたり、自民党の誰よりも岸田氏が一番のはずれ者、つまりもっとも世間(人びと)に近い人であったということではないか。そういう人をどうして降ろさなければならないのかというのが筆者の最大の疑問である。もっといえば、ネットの世界もふくめメディアがことさら岸田おろしを取りあげるのは七不思議のようで奇怪でもある。筆者は、岸田政権よりも安倍政権のほうが失政という点ではスコアは悪かった、と思っている。もちろん、功績については別にメモ書きをしている。
たとえば、政治資金規正法の改正にしても、野党の主張にしたがえば「穴だらけ」であることはまちがいないし、さらに「検討だらけ」でいわば未完の改正といえる。ただし、そういうものであることは重々承知のうえで野党は審議日程を承諾したのであるから、民主的手続きとしてはある意味完結しているといえるのである。だから、なぜ円満に審議日程がまとまったのかについては、場外から眺めればかなり不思議な感じであって、とくに左派政党の実力抵抗もさけられないとの見通しについては見事に裏切られたのである。なぜ、そうなったのかという問いへの答えのひとつが、政治資金パーティー禁止法案にかかわる顛末にヒントがあるわけで、分かりやすくいえば野党においても政党活動における資金需要が厳然としてあり、それをないがしろにした議論は野党内においても共感されないということであろう。この指摘は当初からあったもので、選挙区において競争的関係にある以上「何でもかんでも廃止」というわけにはいかない、という現実がひかえていたということであったと思う。
すこし横道にそれてしまったが、不記載という違反とその裏金化というのは表裏一体のものであって、そのことからみちびきだされる是正措置としての政治資金規正法の改正論議は一次課題としてただちに措置されるべきである。しかし、その課題からあるいは違反事件から誘導されるその他の課題については、今国会で合意できる状況にはないと思われるので、引きつづき与野党が協議していくという対応にならざるをえないと思われる。
ここで若干の感想を述べれば、煽られたというよりも増幅された部分が与野党にとって重荷になっていると思われるが、パーティー券の20万円などは早期に処置しておけば、これほどの不信感を生むことはなかったのではないか。もっといえば必要な資金のスケールと調達方法さらにその使途開示について、各党申し合わせとはいわないが、法律によらない規範で秩序を維持すること、たとえば年賀状を控えているように、そういった形式のほうが立法府としては上品であると思うのである。
とにかく国会議員が、つまり国権の最高機関の構成員が政治活動の結果のために法曹機関の世話になり有罪・無罪あるいは公民権停止などといったキナ臭いあつかいをうけること自体異様なことであって、わが国民主政治に明らかに害をなすものといえる。この点でいえば、法律を設け厳罰化したからといって政治への信頼が回復するものではない。という簡単なことを思いだし、さらに政治活動の自由をいうのであれば、最初から最後まで自律的に議員活動をやっていればよかったといえる。だから、そういう議員一人ひとりの矜持をくすませた派閥に罪があったということで、まず金権派閥からの脱却が当面の道しるべであると思うが、本当にできるのかと疑っている。
4.まだまだ大きい自民党と世間のギャップ 岸田おろしは責任転嫁なのか?
自民党の常識は世間の非常識、世間の常識は自民党の非常識なのか。とくに政治改革における自民党と世間とのギャップは想像をこえているようである。さらにいえば、これだけの不祥事をおこした政党が、党首に全責任をおしつけてその地位を剥奪したからといって、不祥事の責任が消えさるものではないというのが世間の常識である。議員一人ひとりが背負うべきものがある。それを棚にあげて、低支持率をテコに責任を党首におしつけようとしている「責任転嫁図式」にメディアがのっかっているのである。
自民党の総裁はほぼ自動的に総理になれるから、総理の椅子をめぐる争いが底流にある。そういった伏線が問題を複雑にしている。論点を整理すれば自ずから解決策が見えてくるはずなのに、問題を複雑化しようとする人たちがいる。つまり、解決を遅らせたほうが都合がいいのであろう。飛躍するが、自由民主党を因数分解すれば、自由党と民主党になる。自由と民主は対立するところが多いのだが、そろそろ整理すべきではないか。自由党と民主党と公明党の連立政権のほうが分かりやすいし、派閥も不要となり透明度も増すと思う。というように筆者などは自民党分裂を期待しているので、そういう方向に手がうごくのである。かように思惑で動く手が何本も何本もあるのではないかしら。
現職の総理大臣を擁護することはない。彼は権力者なのである。しかし、政治改革の議論における派閥解消なり改正法の大幅な妥協など岸田氏の暴走的決断がなければ議論だけの空虚な時間浪費によって国政は停滞したと思われる。
もちろん、種をまいたのは自民党であるから責任を背負うべきであることはいうまでもないことであり、次の総選挙では有権者から強烈な咎めをうけることは避けられないであろう。
しかし、それはそれとして問題は合理的に解決されるべきである。つまり、国会の場でいつまでも水掛け論に終始することは許されないということで、今国会において一定の結論をだすべきである。
また、責めは自民党にあるとしても、現状を党略に利用すべきではない。たとえば、けっして打たれないとの想定での高い球の投げっぱなしは、真摯な態度とは思われないし、そもそも政治資金パーティー禁止法案を貫徹すべきであったと思う。(今からでも遅くないと思うが)でないと、にわか作りの法案提出ではブーメランが怖かったのだろうといったネット攻撃にさらされ、せっかくの追風にケチがつくかもしれない、とは老婆心ながらの意見である。
ということで、丸呑み妥協を評価している筆者は変人あるいは酔狂人かもしれない。ただ、今国会ですべての課題に結論をえることには無理があると思っているだけである。何よりも継続することが大切であるが、それ以上に有権者が忘れずに次の選挙で鞭をふるうことであろう。旧安倍派議員が全員落選すれば裏金事件は再発しない。法律は天網ではない。かならず穴がつくられ、いたちごっこがはじまり際限がないのである。だからそれよりも、主権者である有権者が罰をあたえるほうが百倍効き目があると思うし、それが主権者の責任であろう。主権者が怠惰にながされては民主政治は崩れていく。そういうものである、と思う。
5.岸田おろしは軟弱議員の「青い鳥」運動のまぼろしである
さて、岸田おろしを具体化するならば、そのひとつは国会会期末に立憲民主党が提出するであろう内閣不信任案に自民党議員の多数が同調する造反行動が考えられるが、この方法の欠点は内閣総辞職と衆議院解散のいずれかを岸田氏にゆだねるところにあるといえる。ゆだねれば、解散総選挙となる可能性がでてくる。岸田氏のもとでの解散を回避するために岸田おろしに加担したのに、岸田おろしの結果が解散ということでは「笑えない落とし話」となる。したがってそういう手は「ありえない」といえる。
つぎに、国会が閉会すれば総裁選までは降ろす手段がないことから、岸田おろしは「おこりえない」といえる。ということから、9月の総裁選が勝負ということで、これって通常の日程であるから、岸田おろしと意気がっていうこともないのである。
さらにいえば、今の自民党には岸田おろしをやる道理も動機もないと思う。ここで動機がないというのは不正確である。議員心理を推察すればこんなに低支持率の総理では次の総選挙は大敗し、自分も落選するだろう、それでは困るので選挙に強いX氏を新しい総裁に選びたいという「青い鳥」願望としての動機はありうるのである。しかし、これは岸田氏以外なら誰でもいいといわんばかりのじつに幼稚な考えなのである。で、仮にX氏が見つかっても、選挙に勝てるかどうかはやってみなければ分からないうえに、自民党の議員は政治改革には後ろむきで、自分の財布のことだけしか心配していなかったではないかと有権者から責められた時にどうするのか。さらに「問題は岸田ではなく、お前なのだ」と有権者に指弾されたら真正面で受けとめられるのかといえばおそらくむりであろう。(今は岸田氏が誹謗中傷と本当のところの非難を一手に受けとめてくれているともいえるのではないか。)
ともかく、X氏に変えたからといって支持率が急上昇するかどうかは分からないし、仮に急上昇しても選挙区での投票はべつの話となるだろう。
ということで、議員個人の再選戦略と国政の最高責任者の去就をひとつ鍋で煮るような議論はもういい加減にしてほしい(大昔からそうなのだが)と思う。この社会には公私の区別という矜持ともいうべき作法があって、だからなんとか香しさを保ってきたといえるのであるが、自分の選挙に都合のいい総裁をというリクエストを臆面もなく白昼堂々といい抜けるとは下品にもほどがある。そういうのは議員ミーイズムというものであって、選良とは真反対のものである。
したがって、いわれている岸田おろしというのは楽な選挙でスポイルされた軟弱議員の「青い鳥」運動のまぼろしであるというのが筆者の考えである。
ここで気をつけなければならないのは、だからといって9月の総裁選で岸田氏が再選される可能性が高いということまではいえないのである。なぜなら、この総裁選は自民党にとっては存続にかかわる重要なもので、いいかえれば設立総会ともいえるものである。もちろん代表者を決める「誰が」も大事であるが、それ以上に「何を」めざすのかがさらに重要であって、従来モデルでは通用しない新しい時代に入っているとの認識にたてば、自民党の再生という目標を確認したうえで、「どのように」をきちんと議論しなければ次の総選挙はきびしい、つまりかつての民主党と同じ軌跡をたどると筆者は予想している。
とりわけ、保守系新党が勃興すれば予想をこえる速さで自民党が凋落していくかもしれないのである。とくに、「どのように」というのは、まがりなりにも金権から脱却することをめざしたのだから、政党活動、議員活動を痩身化せざるをえないわけで、従来の自民党的手法からの離脱と新しい手法の開発が求められるであろう。すくない資金でもやっていけるように支援団体や支援者との交流のあり方なども変えていかなければならない。おそらく、支援団体や支援者のほうが大きな戸惑いをおぼえると思われるので、総ぐるみで脱金権政治にとりくむひつようがあるのではないか。これは議員だけでなく、支援する側の課題であると思われる。
どの政党においても長期低落の罠からはのがれられないというべきなのか、短期間で政治の深層水流が変化しているように感じられるのであるが、各党の反応はどうであろうか。むしろ有権者の意識の変化が先行しているようにも感じられるのである。たとえば、政治評論家や政治部ベテラン記者の解説もそれなりに聞けるのであるが、旧来然とした分析というか紋切り型のいい方に、なにかしらの飽和感がつたわってくるのである。そういった、ふしぎな思いにとらわれている。
6.新総裁による解散の成功率は高くはない むしろ過半数割れのリスクも
さて、総裁選挙で新総裁をえらび、新体制への期待を前提にした高支持率をたのみに解散総選挙を敢行し、最悪でも連立で過半数を維持するというストーリーはあまりにも手前勝手な願望であって、筆者が前回指摘した「(政治改革では)おどろくほどの厳しい規制」を提示しないかぎり200議席の大台を確保することはむつかしいと思われる。とくに、旧安倍派議員のうち処分をうけた者、処分をうけなくとも金額が目だつ者についてはそうとうにきびしい選挙になると思われる。
ということで、なまはんかな気持ちでむかえば党として180議席をわりこむであろう。この数字では第2党に後退する可能性が高くなる。こういった予想は書く側の勝手であって、納得性ゼロなので受けとめる側も聞きながして当然であるが、それでもきびしすぎるというのがほとんどの自民党議員が思っていることであろう。
しかし、2009年8月あるいは2012年12月の総選挙では政権をうしなった側としては想像をこえる大敗北であった。ただし、2009年8月の選挙では自民党は119議席であり、2012年12月の民主党は58議席で、およそ2対1の比率であった。この差がいわゆる足腰の強さであって、敗北後の巻きかえしのバネ強度をささえるものであったと考えている。
ここはさすがに意見の分かれるところであるが、残存議席が100をこえていた自民党は党名をかえることなく政権に復帰したが、残存議席が60を下まわった民主党はその後党名変更あるいは再編の道を歩みながらも未だに政権復帰の道筋がえられていないのである。(民主党の残存議席が100を大きく下回ったのは当時の官邸の情勢分析があますぎたつまり判断ミスであったというのが筆者の結論である)
ところで、事件の風化については年内はとても無理であって、「裏金事件」を上書きするほどのことがないかぎりなかなか風化しないと思われる。さらに、「裏金事件」によって有権者の一部が事態の重大性を再認識した可能性もありうる。とくに、自民党のコアな支持層が離脱しはじめればその影響は数字以上に大きく響いてくるもので、そうなればベテラン議員といえども安閑としていられなくなるであろう。今のところコア層の離脱についてのデータが整っていないのではっきりとはいえないし、政権崩壊の引き金となる投票行動については、現段階では予想できない。それでも年内についてはよくて200議席程度と予想するのが穏当なところではないかと思っている。
この場合、公明党も減らすと思われるので、自公で過半数割れと考えるのが普通であろう。ということで、与党的には年内解散はさけたほうがいい、野党的には年内解散に追いこんだほうがいいと、分かりやすい構造になっていると思われる。
ただしこの構造に大きな影響を与えるイベントのひとつが都知事選であろう。現職の動向が不明であるので詳述できないが互角とみるのが妥当であると思う。挑戦者の一人は無所属とはいっているが、事実上の立憲と共産などの共闘候補である。で、選挙結果の国政選挙への影響については二つの見方があり、ひとつは立憲への追い風が加速されると予想するものと、もうひとつは首都圏の動向に不安をおぼえ東京以外は自民党への支持がもどるという見方である。前者は加速説であり、後者は反動説である。
いずれにしても、立憲への追風は敵失により誘引されたことから通常持続性に疑問ありということであるが、そうともいえないのが選挙であって、筆者は簡単には消えないと考えている。投票行動の基本は情動であるから、有権者の直接利害にかかわらないかぎり論理判断からは遠くなる傾向がつよいといえる。
ということから、現状の流れがつづけば立憲有利が持続すると思われる。これに水をさすのが、国際紛争の激化あるいは東アジアにおける緊張の高まりであろう。
7.問題の多い内閣支持率至上主義はジャーナリズムの敗北をまねく
ところで、内閣支持率というものが何を評価したものであるのかについての詳細な検討がおきざりにされてきたと思う。一見単純明快な指標の形式をとっているし、受けとめる人びとも結果としての総合評価であると解していると思われる。しかし、この内閣支持率は解釈あるいは引用のしかたによっては、世論をミスリードする危険性をもっているのである。
とくに、不人気政策を断行せざるをえない内閣は支持率を大きくさげるので、おそらく短命におわるであろう。それはやむをえないとして、問題は支持率の低落を気にするあまり不人気政策にはいっさい手をつけず、人気政策のみに血道をあげる迎合内閣がはびこることであろう。そういった風潮の一端が「増税メガネ」であったといえる。政策としての増税が一概に悪いとはいえない。その是非を論じるために国会があるのであるから、増税即悪と決めつける論調こそ悪といえる。
にもかかわらず、世論におもねるかのごとき昨今の政策評価のあり方こそが、政策の統一性を軽視してでもその時折りの評判や人気をえたいとする政治家気質を生みだしているように思われる。しかし現実は複雑であって、世論に敏感に反応しすぎる風潮に対し、逆に世論が痛烈な憎悪感情をつきつけるという悪循環に陥っているようにも見うけられる。見方をかえれば、ポピュリズムともいえる支持率偏重が世論から軽蔑の対象となり、さらなる支持率の低下をまねく地獄のスパイラルの疑いが濃厚ではないかとも思うのである。昨年の秋あたりから岸田政権に生じている現象を指摘しているのである。つまり権力者として、足元をみすかされているのではないかと、いってみればマキャベリ・韓非子の世界であろうか。
そういうことで、今日の内閣支持率至上主義ともいえる風潮はジャーナリズムの敗北をもたらすものといえる。なぜなら、内閣支持率至上主義はものごとへの表面的反応に重心をおくものであるが、ジャーナリズムは表面ではなくその奥にある真相をさぐるものであるから、人びとが表面的反応で事足れりとするのであれば、深層探求など余計なことであるという意味でジャーナリズムの出番がなくなるのである。すなわち敗北といえる。
また、この内閣支持率至上主義は、公的施策の執行をかぎりなく手間のかかるまた費用のかさむものへ転化していくと思われる。そのプロセスにおいて支持率が直接機能するといったメカニズムではなく、一人ひとりが主権者としての権利を多数存在する関係者の一人でありながら、直接主張するという誰からも非難されることのない態度を政府・行政に対してとりうるという、ある意味、戦後民主主義が理想とした対権力関係における個人の自立という模範構造が成立したという意味ではよろこばしいものであるが、ことはそれほど単純ではなく、わが国の為政者がかつて経験したことのないn分の1にしてかつ尊大な主権者がn個頭をもたげているという未体験空間の出現ともいえるものである。まあ、実際のところは面倒くさくて沈黙するのが大多数であると思われるが。
しかし、n個の自立性の高い主権者がそれぞれ勝手に声をあげあう空間あるいはフィールド(場)に遭遇した場合、為政者あるいは行政としてどういう理屈で対応すればいいのか、分かっているようで分かっていないのではないか。つまり、「お客様は神様」というエンターテイメントでの約束事が365日のすべてを取りしきることになるのである。顧客という立場を手に入れた瞬間から客は天下人に豹変する。この何人もの天下人が支配するフィールド(場)の危険性をどのように表現すればいいのか悩むところである。
権利意識あるいは自意識の高まりを単純に寿ぎながらも、できてあたりまえの行政行為をやたらむつかしくしている現実を直視する政治集団がいずれ右派あるいは極右として政党化してくるかもしれない。
あるいは、たとえ穏やかなものであってもひとたび迷惑施設とのレッテルをはられてしまえばその公共施設の建設は着工すら許されなくなるのである。ゴミ焼却場や火葬場は顕著であり、子ども施設も医療機関もそれに近いと思われているし、まして原発関連施設などは蛇蝎のあつかい以下となるであろう。
そういったやや混乱的な状況を経験しながら、やがて近い将来には公共施設といった公共概念すら希薄化する時代になるかも知れないのである。いいかえれば、思索することを捨て反応するだけともいえる内閣支持率至上主義が支配する世界になれば、公共の福祉の必要性を説明する機会すら失われてしまうのではないか。そして、そういった状況はいずれの政党が政権についても変わらないであろう。
住民主権ともいうべきものが何にもまして優先されるリバタリアン待望の時代の到来が予感される。
もし減税が〇であって増税が×であるなら、社会福祉制度を全廃しその予算で減税すればいいではないか。しかし、それで支持率が上がるのかしら。また、その時の支持率の構成はどうなっているのだろうか。いいかえれば、社会福祉制度を頼りにせざるをえない人びとは、そういう乱暴な内閣は「支持しない」と答えるであろうが、あまり世話になっていない人びとは、税金が安くなるから「支持する」と答えるかもしれない。そこで、この時の回答比率でもって社会福祉制度の効用を論じることができるのか。つまり、政策的にたまたま飴玉をもらったものが〇で、もらわなかったものが×というだけのことを、〇×を集計して社会福祉制度を論じるということの可笑しさ怪しさを明確に伝える社会的な機能がなければ損得勘定だけの利己主義が支配する社会に堕してしまうのではないか。
といえば、極端な議論のように聞こえるかもしれないが、そういった細部もふくめ議論によって詳(つまび)らかにしていくのが議会(国会)であり、代表制ではないかということである。住民主権を大切にしながらも、住民主権から生まれるポピュリズムの欠点を克服していく間接代表制がなんとなくシロアリに食われた根太のようにボロボロになっていくのをながめているだけでいいのか。あるいは、民主主義の最終到達点としての普通選挙間接代表制を弁護するべき者が、神隠しにあったのかその姿が見あたらないではないか。長らくその恩恵に浴してきたというのにじつに薄情なことである。民主主義は味方によって裏切られるのかもしれない。
ともかく、「支持する」と「支持しない」に「どちらかといえば」をくっつけた、5つの選択肢でもって細部を語ることはできないのである。できないにもかかわらず、できたような気分で、政治を、政治家を、政局を内閣支持率で語ってしまうことの矛盾を放置してきたのが現在のジャーナリズムであり、今そのしっぺ返しを受けているのかもしれない。
8.9月の総裁選と米大統領選選挙の関係は
さて、9月の総裁選であるが、20人の推薦人があつまらないというネタ話が流されている。集めているのかいないのかなどはどうでもいいことである。おそらく再選阻止作戦の一環なのであろう。なにしろ人気がないのだからそうかも知れない、ということになるにしても、そうとうにおどしというか謀略的ではないかと思う。ただ「そんなことをやっている場合ではないでしょ」というひと言につきるのである。
正直いって、愛想尽かしをくらっている政党の党首選びに興味をおぼえることはないといいたいのであるが、そうもいっておれないのである。問題は9月の総裁選の後、10月までには首班指名され内閣をひきいることになり、11月には選挙の洗礼をうけた米国大統領と対峙することになる。仮の話であるが、現時点で先方はバイデン氏かトランプ氏と予想され、当方は岸田氏かX氏と予想される。となると組合わせは4通りである。このうち現職どおしの組合せが安定的で安心できる。読めないという意味でもっとも不安定なのがトランプ氏とX氏の組合せであると推察する。
ということで、岸田氏以外ということであれば今年の秋以降に行われる総選挙は米大統領選の影響をうけることから神経をとがらせることになるであろう。選挙において国際関係が連鎖するというのは珍しいことで、有権者に外交防衛について多少なりとも考えてもらうにはいい機会かもしれない。
米国の大統領にあわせてわが国の総理大臣を決めるというわけにはいかない。しかし、その時の国際情勢に即応する最もふさわしい人物はという議論がおこることは悪いことではなかろう。もっといえば、政権を担当する主力政党を選ぶにさいしても、その時の国際情勢が引用されることはあたりまえのことで、わけてもわが国のように安全保障環境が不安定な非核国家にとって外交関係は最重要課題であるといえるし、そうでなければならない。とはいっても、選択肢は限られているのである。まずは、政党間の情報開示が非対称であり、とくに野党のそれがはっきりしていないことがあげられる。正直いって、日米関係を基調とするだけでは不足であり、各論が求められる。とりわけ、外交と防衛は密接不可分であるから防衛にかかわる基本方針が明示されなければ不十分とのそしりはまぬがれない。仮に政権を担うことをめざすのであれば2015年の平和安全保障法制を前提とするのか、あるいは改正するのかについての態度を明確にする責任があると思う。
政権に参加する場合において、外交安保については現状を踏まえて対応するというのはそうとうに無責任に聞こえる。かつての村山富市政権のように首班指名をうけてから自衛隊合憲をうちだすのでは、投票者の意思に反するものであり、選挙の意義がうしなわれるもので言語道断とまではいわないが尋常なことではない。
この点こそが非自民結集政権が空論であることの第一の根拠である。もともと、反自民あるいは非自民を主導するグループの本音には反安保法制が正しかったとの後日証明欲求があると推察している。グループの中核は立憲民主党左派、日本共産党、社民党そして市民連合で構成されていると考えられるが、2024年現時点での世界情勢を直視すれば反対運動は劣勢であると推察される。そういう自覚があるのかはともかくも、おそらく精神的には2014年からの反安倍、反安保法制闘争がつづいているのではないかと個人的には思っている。
9.立憲はもう少し攻められたのでは、予想外の維新の転回
それにしても、立憲にとっては惜しいことになったといえる。自民党が党内の多数意見のラインで踏みとどまっていれば、自民の改正案は宙ぶらりんとなる可能性があったと思われるが、維新との丸呑み交渉によって活路を見いだしたといえる。立憲として維新との関係が疎遠であったところが政党関係上の穴となったといえるのではないか。「裏金事件」によって自民党に接近できなくなっていた維新がギリギリの局面において自民党というよりも岸田政権との回路が通じたことには、立憲として何のかかわりもないのであろうが、先々を展望すれば大きな負のエポックであったと将来いえるかもしれない。
野党の立場で政権構想を考えるうえで最も重要なのは野党間関係であるのに、立憲の状況判断があまくなったのは、直近の衆補選や知事選あるいは地方選においてなかなかの好成績をえていたからであろう。もともと攻めに強く守りに弱い体質もあり、追風にはつよいといえる。
せっかく国民民主党との政治資金規正法改正案の共同提出にこぎつけていたというのに、残念ながらスポットライトを浴びることなく幕がおりつつあるのが、たまらなく残念であろう。あえていえば、政治資金パーティー禁止法案のあつかいについての野党間調整の余地がなかったのか、やはり本音はパフォーマンスだったのか、外からはよく分からないのである。
とりわけ、同法案を提出したまでは順調であったが、党内の幾人かがパーティー実施の予定であったというのが躓きのはじまりであった。大したことではなかったのであるがじつにタイミングが悪かったといえる。有権者からはパーティー禁止の本気度が問われてしまったようで、なんとなく白けた感じになってしまった。
さて問題は、岸田氏の遠望の中に中道政党との連携があることはよく知られているが、今回のことで近い将来における自民と維新の連携への足がかりを与えてしまったことであろう。もちろん、維新が全国政党になるにはなお時間がかかると維新自身が自覚しているとすれば、政権担当へのキャリア形成と割りきることもありうると思われる。そのことにより、野党選挙協力の足場が崩れれば非自民結集論の土台も崩れることになる。共産党の本心が立憲・共産連携であるとすればある意味交通整理がついたということかもしれない。今のところ立憲の150議席は固いと予想されているので、野党第一党の座はゆるがないと思われる。(ということは立憲の中から刷新運動はおこらないということであろう)
「裏金事件」は少なくとも非自民という結集軸を提起するきっかけとなったが、維新の敵前転回によって軸が折れてしまった。同時に基本政策のすり合わせの重要性にふたたび光があたるという皮肉な現象が生じている。のこるのは自民党の分裂であるが、権力を失えばその流れがでてくる。薄氷にのっていることは確かで、気温(投票率)が高くなると危ないので動くであろう。
◇ 蛇含草丸呑みのあと体溶け
加藤敏幸
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