遅牛早牛

時事雑考「2024年6月の政局-国会閉幕、総裁選と代表選へ、どちらも波乱?」

【2024年の通常国会が閉じた。議論の多くは政治資金規正法の改正を中心にした「政治と金」に集中した。どんな国会であっても意義があるもので、とくに予算・決算は国の運営にとって必要不可欠のものであるから年中行事化しているとはいえ真剣な議論でなければならない。それが、今や膨張予算となっている。といっても、国立大学などは通常経費の不足を理由にいよいよ値上げにふみきるようである。折からの物価上昇のなかにあって、家庭の教育費負担がさらに重くなりそうである。

 膨張予算。悪いことだけではない。高血圧と同じで、金のめぐりがよくなる。倒産、閉店が先送りされる。反面、財政が不健全になり、国は破綻しないがインフレがひどくなり、弱い者から受難する。つまり、生活破綻が増える。

 幸せをもたらす青い鳥はいない。政治に過大な期待は禁物であるが、政治家も政党もそうはいわない。米国では青と赤が競わずに争っている。あと4か月あまりで決着がつく。時間の問題ではあるが、歳の問題もある。

 鬼に笑われてもいい、2025年は衝撃の年になると予想している。過去の延長としての未来予測は既決的で陳腐である。創造にもとづく未来予測は不確実であるが教訓となる。で、鬼より先に、人に笑われそう。

 さて、猛暑にむけて岸田おろしと泉おろしの競演になるのか。前者は釜の焦げ飯を洗いながすがごとく、後者は炊きあがる飯にむらがるがごとく、争いあう姿も審査対象であろう。なんたってこの国は美を尊ぶ国であるから、涼やかに願いたいものである。】

1.なんとか乗りきった国会だが、総裁選に向けてネガティブイメージが暴走するのか

 9月には総裁選挙があるというのに、党内であからさまに岸田おろしに走るのはみっともないことである。とりわけ「何が問題なのか」を明らかにせず雰囲気だけで危機的と煽ることは幼児的な感じをあたえるだけであろう。で、間髪をいれずその反旗のイメージはまたたく間に全国にながされ、「いよいよだな」とか「レイムダック化」といった連想ワードが蔓延しはじめるのである。暴走宰相に対するネガティブイメージの暴走である。

 ところで、派閥解消や政治資金パーティーの限度額の引きさげが「禍根をのこす」との党重鎮の指摘はそのとおりであり、通常の討議プロセスを逸脱していたといえる。事後の根回しでは根回しにはならない。

 筆者でさえ、自民党の伝統的な討議プロセスからは逸脱しているとうけとめていた。とはいっても、今国会で自民党提出の政治資金規正法の改正(修正)案の成立をはかることこそが、事後の政局に決定的な影響を与えるキーストーンであるとの認識は一部の議員をのぞき、共有化されていたと思っている。つまり、党の緊急事態である。

 まさに死地といっても大げさでない状況にあって、他に方策があるのか、また間にあうのかといった視点で考えれば、それなりの対応であったと評価している。ここで評価してしまうと白い目でみられそうであるが、長年政界を観察してきた経験からいって、衆人がこぞってボロカスにいう場合にかぎって、後日評価が反転することがある。

 もちろん最善策とはいえない。しかし、そういった批判は「たら、れば」の世界であっていつも完全試合を求めるようなものである。だから、「それはそれで勝手に」というのが筆者の感想である。というのも、野党第一党である立憲民主党がきわめて高いボールを投げつづけ、議員立法なのにまとめる気がないというのは、むしろこのまま総選挙にもちこみたいという思惑が強かったからではないかと疑っている。

 だから「禁止、禁止、禁止」でとりつく島がないのに、党首会談がなかったとごねるのはご愛嬌のいきすぎであって、無理筋であろう。今では政権交代を真剣に考える人が増えているというのに、とっておきの見せ場では野党根性まるだしではないか。これにはがっかりしたという感想も多かった。

 期待された久しぶりの党首討論も面白くはあったが、最後に政党交付金を増やせばいいというのでは、納得感に欠けるといわざるをえない。まあ討論の勢いででた発言なので、ここでつっこむこともないとは思うが、早めに補足したほうがいいのではないか、と思っている。

 立憲も汗をかいてギリギリの内容をまとめあげれば、政権政党に近づけたのにと思っている。つまり惜しいことをしたものだと愚痴っているだけのことなので気にすることもなかろう。

2.ものたりない改正であったが、ギリギリの調整であったかもしれない

 さて、朝日新聞(2024年6月20日日刊)の「『抜け道』や検討項目が多く、実効性が不十分なままの改正となった」との指摘はそのとおりである。

しかし、問題があるのは自民党だけともいえないわけで、野党も内情はさまざまであって、資金不足で苦しんでいる議員も多いと聞く。また、新人には家族もふくめ路頭に迷うかもしれないといった不安が立候補のブレーキとなっているといわれている。とくに、落選後の対応力(ほとんど経済力)の差がおおきい。700人をこえる国会議員がさまざまな属性において広く国民を代表しているわけでもなさそうな残念な現状もあり、それを政党交付金の増額だけで解決するのはむつかしいと思われる。とくに、政党交付金は要件をみたした政党だけが受けとれるもので、既存政党を批判する勢力、とくに新興政党にすれば排除の構造になっていると受けとめているのではないか。そこで、政党法もつくらずに、もらうだけの既存政党にはエゴイズムを感じるのであるが、そういう議論もすすめてほしいものである。

 ところで、自民党重鎮による「禍根をのこす」発言も、よくよく考えれば改正案(修正)の成立を力ずくで阻止するというものではなさそうで、むしろ「総裁選では応援しないからな」といった意味あいに聞こえた。つまり、当初の自民党案のままでの中央突破が何をもたらすのかと考えれば、これ以上の独断専行は無理であるから、党を守るためには妥協もやむをえないわけだし、さらに今国会でまとめる以外に道はなかったといえる。また、実のところ今回の妥協の中身が自民党として限界をこえているということでもなさそうな、正直なところ余裕のうちではないかとさえ思うのである。 

 もちろん、実証の方法がないことから何をいっても推測の範囲内のことであるが、修正についてはもう少しきびしい内容であっても、自民党のおかれた立場を考えれば受けいれざるをえなかったのではないかと筆者は判断している。逆にいえば、ほどほどのレベルに抑えておいた方が都合がいいと、そう考える向き(野党だけでなく)がいたかもしれない。きびしくすればするほど到達感がたかまり、自民党批判が下降するという高度な判断も野党の一部にはあったように思われる。さらに、与党だけでなく野党も煮詰まりすぎては不自由になるという懸念もあったのかもしれない。

 そういう意味では、可もなく不可もないほとんど予定調和の範囲におさまったということで、国会対策的には与党サイドにやや利があったといえるのではないか。

3.もとはといえば自民党の体質問題であるのに内閣総理大臣の責任とは?

 という見方をふまえてはじめの話にもどるが、自分たちが選んだ代表をこれ見よがしに悪しざまにいうのはよろしくないということであろう。とくに、岸田氏本人は全力で難局をのりきったと思っているに違いないので、そうでないというのであるなら本人に直接そういうべきであろう。そういった手順を省略して、テレビカメラに向かってなにかしらのアッピールをするのは奇観のたぐいといえる。

 さらに、自己の選挙にとって有利なのか不利なのかという一点のみで「主降ろし」を画策するのはわが国の習俗からいえばあさましいといわれるであろう。それに誰がやっても難儀であったと思われるこの政治改革は、もとはといえば裏金という自民党の自家中毒症状からきているのであるから、いわばおできが文句をいいながら大騒ぎをしているようなもので、いってみれば貉(むじな)どおしのいい争いに聞こえるのである。こういう時こそ団結がひつようではないか。

 そこでキツイいいい方だが、「党としての凝集性を維持できないのであれば、てきとうに分裂したら」と自民党の皆さんにはいいたい。直近では内閣支持率だけではなく、政党支持率もさらにさがりつつあるというではないか。

 これは人びとが、政府と政党とを区別し、「政治と金」の問題は政府あるいは内閣の問題ではなく自民党などの政党と議員個人の問題であると気づきはじめたということであろう。

 さらに、一般論でいえば総理と総裁は一体であるから、いずれにしても岸田氏の責任であるという理屈はまちがってはいない。しかし現実は政府の代表者という立場が最優先であり、党人事を調整する場合をのぞけば総裁というのは従の従であって、そうでなければ政府を代表することはできない。そういう意味では内閣総理大臣には脱政党性が求められるのである。これは政務三役といわれている大臣、副大臣、大臣政務官もおなじで、政府と政党との立場を鮮明に区別しなければ議院内閣制はなりたたないのである。つまり、政治と金の問題を内閣総理大臣にきびしくつめよっても限界があるということである。

 したがって、宛名を自民党総裁にかえたところで事の本質には変わりはなく、「政治と金」とは「政党と金」また「議員と金」の問題であることを考えれば、いちいち岸田氏につめよらなくとも各党の議員らが主体的に超党派でやればいいではないかというのが筆者の持論である。

 つまり、人気絶不調でやる気がないと決めつけられている岸田氏をいつまでも相手にしていても仕方がないではないか。痛打すればするほど岸田氏が因縁を吸いこむもので、後任者は楽になるだけであろう。そして、あたらしい立場で総選挙にのぞめることになり、大いに助かるといえる。

 この、政治資金規正法の改正を中心とした一連の政治改革についての岸田政権の責任を問う内閣不信任案が国会で否決されれば、信任されたということであるから野党として矢をつがえることが遮断されることになるのかなどについて、外からは分かりにくいのであるが、調査研究広報滞在費については議員活動の前提となっていることをふまえ、全政党的な議論の結果としての改正案が提起されなければ、これこそ禍根をのこすことになると思われる。つまり、身を切る改革の目玉として文書通信交通滞在費といわれた時代から改革の俎上にあげるという維新の主張は理解できても、少数会派(政党)にとって議員活動をささえる制度として実際に機能していることも事実であるし、他の野党会派がかならずしも乗り気ではないような、といった現実を見すえるならば維新のパフォーマンスではないかとの指摘もうなずけるところがある。

 今国会での前進をと考えていたのに「裏切られた」ということで、法案に対する姿勢がかわり参議院では反対となった。反対しても法案(改正案修正)が成立するという前提で反対したのであろうか。仮に反対すれば廃案になるということであれば、はたして反対できたのであろうか、など疑問はつきない。

 前回の弊欄では「参議院本会議が終わるまでは」と波乱を予想したつもりであったが、具体的にこうなるとは思いだにしなかった。また、「自公維の賛成スクラムがもたらすものは」と副題をつけたのであるが、何がもたらされるのかはまだ見えていない。高度な時間稼ぎという説もある。あるいは岸田氏との一蓮托生を避けたとの見方もある。ということで、このタイミングで評論する気はないが、維新としては待ち時間をつかって少なくとも党内の「心あわせ」がひつようではないか。維新として目立ったところは是としても、信用に欠けると思われてはこの先いい仕事はできない。という意味で発展途上にあると受けとめている。

 ふりかえれば、あの立憲がおちついて見えるという国会終盤であったが、その間隙をぬって維新があばれた(?)感じがしないでもないが、それもふくめて国会対策としては野党にも多々課題がのこっているように思われる。

 そもそもが議員立法であるから、国民としては「自分(議員)たちでしっかりやれよ」ということにつきる。それを、内閣支持率とごちゃまぜにしているから混濁して見えるのではないか。

 

4.自由党なのか民主党なのかいずれ露見する基本路線問題

 ここで視点をかえれば、派閥運営などの自民党内改革は運動神経でじんそくにやるべきであったのに、鈍かったのひと言につきる。鈍いのは岸田氏だけではなく自民党議員全員であろう。このような状態がつづけばわが国の最大政党が機能不全におちいることになり(すでに、おちいっているのか知れないが)、ついては国政に支障をきたすことから、岸田おろしといった党内抗争をくりひろげるのであれば、いさぎよく自由党と民主党にでも分かれて再スタートした方が、見ているほうもすっきりすると思う。

 もう一体でいるひつようがないといえば、よけいなお世話であるが、いつも自由と民主が両立できるとはかぎらないわけで、自由主義と民主主義はそれぞれルーツがちがうもので、ごった煮にしてはいけない、否いけなかったのである。それが70年近くつづいたのだから、権力保持という点では傑作に近いものであったと思われる。しかし、国家経営という視点でいえばそれでよかったのかという反省も山のようにあるということであろう。権力保持のひと言で矛盾を包みこんだが、それが30年もの賃金停滞や低賃金あるいは貧弱成長など、正直いって惨めな状況を生みだしているともいえるわけで、岸田おろしの前に自民おろしを求めるというのが声なき声のような気がする。

5.裏金事件から裏金議員へと標的が絞られる、候補者選定が難問であろう

 もとから筆者は反自民という立場ではない。もちろん親自民でもない。あえていえば中道右派である。その立場でいえば、自由党と民主党に分かれたうえで、自・民・公の連立政権をつくれば政策目標などはくっきりするし、それぞれの立場もはっきりして人びとも判断しやすいのではないかといいたいのである。

 反面、いわゆる選挙調整をどこでやるのかという新たな課題がでてくるわけで、政党の分裂がトータル議席減という惨劇をうむことが最大の問題となるであろう。その事例が立憲民主党と国民民党の関係であるから、一般的には統一と分裂の功罪と理解されている。

 といった自民党への過干渉ともいえる口出しをつづけるのは、ひとつは投票する側の選択肢の問題があるからで、たとえば比例票では安倍派議員の排除ができないといった今回に限られる問題かもしれないが、従来のような自民党一括支持が気持ちにそぐわないとする声がある。これは自民党の選挙戦略にもかかわるものであるが、仮に投票者の意図として「裏金事件」にかかわった議員には投票したくないという、有権者としてのけじめ論から自民党公認候補であっても差別化してほしいという意思をどう扱うのかといった課題がよこたわっている。

 これは自民党にとってはたいへん深刻な問題である。もし、選挙区にそういった懸念の候補者がいれば、棄権するかあるいは対立候補に投じることになるが、比例票は「自民」と書いてもらえる確率が高いと思われる。逆に選挙区にそのような懸念をもたない候補者がいる場合は、その候補者に投ずればいいのであるが、おなじブロック内の他の選挙区において懸念すべき候補者がいるのであれば、「自民」と書くことにより復活当選に与することになることをどう考えるかということである。穿ちすぎかもしれないが、適切に民意をすくい取ることができるのか、次の総選挙がかかえる重要な問題点といえるかもしれない。

 こういった指摘をどのように受けとめるかは自民党の自由なのであろうが、極端な話として公認しないあるいは別候補を立てるという選択肢、つまり党としての決断が求められると思われる。このあたりの引きずったような問題提起は関係議員の処分の納得性からも派生しているもので、処分の程度に対する自民党支持者あるいは準支持者の評価がストレートに反映されるものであると受けとめるべきであろう。

 従来であれば政党の斉一性を前提に安心して投票ができたのであるが、今回の「裏金事件」を契機に自民党を矯正したいと考える有権者にとっては従来通りではこまるのである。だからといって棄権するわけにはいかない。では投票先を変えるのか、といった葛藤を有権者に強いることになる。

 問題は政党側がおこした事態であるにもかかわらず、悩み葛藤するのは有権者であるというこの矛盾をどうとらえるべきなのか。今までは自民党に投票してきたが今回は嫌だと思っている、とくに安倍派には入れたくないとの意思をもっていても、現在の投票のしくみではその気持ちがストレートに反映されるようにはなっていないのである。

6.次回総選挙での投票行動の変容がわが国の政治を変えるであろう

 次回の総選挙において、どの程度のスイッチング(投票行動の変容)が発生するのかに関心があつまり、これからのわが国の政治を考えるうえでも近年にない大きなイベントになると思われる。投票先の大幅な変更や投票率の変化などの各党の最終獲得議席に大きく影響を与える変動が予想されるが、そのまえに自民党と立憲民主党の代表選挙が注目される。とくに総選挙の顔としての役割が求められることから、人気投票の性格が強まるとみられているが、その見方は多少なりとも政治家を見くびりすぎていると思う。メディア、ジャーナリスト、評論家などのほうが比較すればより迎合的であり、政治家の迎合性を説明しながら自らがその説明の影響をうけているのではないかと邪推している。

 その点、当の政治家は迎合性のマイナス面を十分意識しているので案外復元力を有しているといえる。つまり、選挙にのぞむ人たちは思いのほかストイックで日々格闘し、のたうちまわっているのであって、ごく一部の跳ねかえり的存在が不正確な政治家イメージを誤射しているだけで、多くは支援者との対話の中から学んでいるように思えるのである。だから、多くのメディアが岸田おろしをあおったにもかかわらず、誘発されたのはごくわずかであったといえるのである。もちろん国会閉会後のことは分からないが。

 したがって、わが国にとって何が肝要であるのかという視点で党の体勢を準備していく、といった地味ではあるが手堅い時代がくるかもしれない。小泉純一郎氏からはじまった今世紀の政治家像について、一部の人びとはもうパフォーマーはいいと思っているだろうし、たしかにパフォーマンスによりかかる政治は国を過つ確率が高いといえる。というように、政治を堅実にとらえていく考えも広まりつつあるといえる。

パフォーマンス政治の曲がり角か、でどちらに曲がるのか

 しかし、メディアはあいかわらずパフォーマーを溺愛というか、もともとメディアとパフォーマーとは相性がいいのであって、さらにポピュリズムがメディアとパフォーマーとの間をとりもつ三角構造があるかぎり、政界で成功するには巧妙なパフォーマンス力がひつようになるという裏面とパフォーマンス離れともいえる表面が奇妙な二律背反関係で合わさっているという不思議な世界が出現している。いってみれば、根拠がなくとも一見それらしいメッセージであれば、100万人をこえて広がるのに1時間もかからないという超速伝搬世界がさらに加速され、常識の伝搬が非常識な世界を作りあげるというパラドックスワールドの出現が最大の政治問題になることを心配しているのである。

 人びとがそういった弊害を理解しているからといって、それに対する免疫を獲得しているとはいえないので、大雑把にいって民主主義国は風説言説珍説に噂話やうそ八百と常時かかわらなければならないであろう。

 まあ、見えない敵とのたたかいに終わりはないのである。ということで、この4半世紀の経験から学んだことの一番は政治はエンターテイメントではない、エンターテイメントに走れば帳尻があわなくなり、国民に迷惑をかけるだけである、ということであったと思う。異次元の金融緩和の後始末がこんなに大変なものであったとは、といいつつさらにこれからも苦労するのであろう。なにやら奇をてらった政策はすべて水没し、のこっているのは合理性を有しているものばかりではないか。政策も淘汰される。もちろん、政党も、議員もおなじで逃れられないのである。

 といった安心感もつかの間のことで、有権者がまじめに思考するための材料がすでに汚染されていたり、そもそもが捏造、偽造であったりということで、考えない方がまだましという珍奇な世界になるかもしれないのである。

 本論からは相当にそれてしまったが、評論が成り立たないうえに判定ができないという異常事態に、民主政治の基本である選挙制度がまきこまれるおそれが現実化しているようで、これも2025年の鬼が笑うではなく悪魔がほほえむ衝撃のひとつかもしれないのである。

7.自民党の自家撞着

 さて、今日の自民党が自家撞着的であることの事例のひとつが選択的夫婦別姓である。これには自民党内の伝統的家族観を重視する保守派がつよく反発している。つまり反対論が根強いのである。ところが、経団連に逆提案され「一体どうなっているの」ということで政権政党としての面目がまるつぶれということになってしまった。最近は総資本のほうが自民党よりもはるかに開明的なのであろうか、というのは冗談である。(まあ総資本などという大げさなものには会ったことも見たこともない。また総労働というものも同様である。)

 個別政策についての賛否は立場によってさまざまであろう。しかし女性の活躍といった基本政策との関係においてつじつまがあわない点があることは見過ごせないのである。とくに、人権由来の諸課題については精密に検討するべきである。筆者は以前から伝統的家族観が個人の権利と激しくまた微妙に衝突していることについて少なからず危惧していたので、いずれ政策上の矛盾として問題化すると考えていたのである。今回はいわゆる女性政策という領域での問題提起であるが、もともと明治以来の戸籍制度からうまれる課題は多いのである。たとえば、家族(扶養関係)を単位とする経済体として家計を課税単位とする系統とあくまで個人を課税単位とする系統がからまったまま社会福祉制度(おもには年金や医療の負担と給付など)が継木構築されていることが、さまざまな矛盾をひきおこしているのであるが、ここで模式的にいえば、あくまで自由をベースに制度を設計するのであれば個人単位となるだろうし、公平処遇や相互扶助に重きをおくのであれば家族単位での制度設計に利と理があるといえる。前者の個人的視点を自由主義的動機とし、後者を民主主義的動機と区別するならば、自由民主党には二つの相貌があるといえる。そういった問題は優秀な官僚によって、現状追認的にメインテナンスされてきたのであるが、選択的夫婦別姓制度においては弥縫策の導入がむつかしく、議論において優劣を決すべき状況にいたっていると思われる。

 したがって、まず政権政党こそが方針を決すべきで、いろいろあるという状況説明ではなく、この方針でいくと決断することが求められているのである。

 ある意味、自民党内の宿痾ともいえる明治型あるいは武家型家族制度へのこだわりについては早急に決着をはからなければ、「時代はまってくれない」のであるから、さらにきびしくいえば現実とかけはなれた家族観では適切な制度設計ができないということであり、ということは政権担当者としては不適格であるといいたいのである。私見ではあるが、個人をとりまく生活上の価値観が一致しなければ分党をもやむなしというぐらいの重要課題であると考えている。

 ということでいくつかの課題領域において、自民党は自家撞着におちいっているといえる。ここで、自家撞着などと古めかしい表現をひっぱりだしたのは、論理に無頓着であり、二律背反をぬるぬるとごまかすことができる体質から生じるつじつまの合わない状態をあらわすのに自家撞着があたっていると考えるからである。いいかえれば、「問題は自民党内にある」ということではないか。

 たとえば、いつも対立構造を気にせずに日常をごまかしていけるというのは、欠点ばかりとはいえない、わが国の社会を映しだしている面もあるといえるが、事と次第あるいは時代を考えればそういうことでは物足りない、もっと社会をリードしていく役割つまりリーダーシップに注目する時代がきたということであろう。また、こういった政党内における矛盾を解消できないのであれば自民党は国際的にも通用しない政党であるということになる。

 さらに皇室をめぐる制度についても男系男子を中心とする皇室典範至上主義者ともいうべき保守派が意味のない遅滞運動を展開しているだけで、今日皇室が遭遇している問題などについては、懐古的心情に耽(ふけ)るあまりおそらく思考停止しているのではないかと疑っている。

8.憲法改正は様変わり、大きかった解釈改憲

 くわえて憲法改正については、とにかく改正することが戦後保守勢力としての正統性の証明であるといわんばかりに、とりあえずの緊急事態条項の提案をすすめているが、いつまで偽装的というか空芝居をつづけるのかといいたい。また、77年間も改正しなかったものを今さらとも思う。とくに現行憲法の正統性にからめた自主憲法制定という名分でもって、77年間存在してきた憲法体系に対してこれからも抗(あらが)いつづけるのかという点についてはそろそろ清算(店じまい)の時期ではないかと思っている。たしかに現行憲法の語法や用語には筆者も大いにストレスを感じるのであるが、それよりもいつまでも戦後をつづける保守勢力の独りよがりのほうが「困ったもんだ」と感じていたし、さらにそれが「嫌なもの」へと変貌しているのである。

 また、安倍政権をささえた宗教右派は明治憲法へのノスタルジーあるいは政教分離の否定そして攘夷としての反米といった心情の集団であるから、本音としては王政復古をめざしているのかもしれない。本当のところは分からないとしても、よくもそこまでプレイバックできるものだと感心するのであるが、正直なところつきあいきれないのである。だから、戦後レジュームからの脱却とかいってみても、それを覚えている人を探すことがむつかしいわけで、さらに覚えていても醒めてしまえばのこっているのは頭痛ばかりであるから、やはり旗をふる人たとえば安倍さんがいなくなると一挙に萎(しぼ)んでしまうのかもしれない。それにしても保守派の論客は健在だと思うが、中ロ朝の脅威が顕在化したためか、逆に目だたなくなった。90パーセントをこえる人びとが中ロ朝の脅威を気にしていることが、保守派論客の出番をへらしたのは皮肉なことである。

 といったふしぎな風景の中で、この人たちは本当に憲法改正を意図しているのかしら、といった疑問が頭をかすめるのである。もし、「裏金事件」がこれほどの騒ぎになっていなければたしかに緊急事態条項の議論に突入していたかもしれない。早とちりかもしれないが憲法改正への追い風を遮断したのは安倍派がやらかした「裏金事件」であるから、皮肉といえば皮肉なものである。

憲法改正の根っこは何か 

 ところで、是が非でも憲法改正をめざす人びとの思いの中には、敗戦による新憲法受容という屈辱的な戦後処理が厳然として存在していると思うが、その情動の処理として憲法改正を目的化するのはもはや無理筋というものではないか、それよりもたとえば、今日の情勢から求められる必要最小限の項目を何らかの形式で追加していく柔軟な方法などがあってもいいのではないかと考えている。正直なところ安倍政権時代の集団的自衛権の合憲解釈(2014年7月1日)は禁じ手といえば禁じ手であって、そこは多くの憲法学者の指摘するとおりであると思う。

 しかし、10年の時間経過があらたな解釈を生みつつあるといえる。そのひとつが憲法の相対価値の低下である。不磨の大典といわれた明治憲法は57年間つづいたが、現行憲法はすでに77年間をこえている。それも一度も改正されていないのである。まるで石像のように厳然と存置されていたのが、なんと内閣の解釈により安全保障分野に限定されているとはいえその基本的性格を変貌させたことから、諸法に君臨する大典とはいえなくなったのではないか。筆者でさえ「では憲法改正なしでもいいわけか」と思わずさけんでしまうほどであった。内閣に従属する憲法というなんとも政治権力に弱い側面を露呈したのであった。

 といったショックの後、それまでの憲法至上主義あるいは戒律としての護憲運動があまりにも大げさで教条主義的で、だからばかばかしいものであったと思わずにはいられなかったということで、だからもう憲法改正の議論はやめたと宣言するほどではないにしても、さらに不必要であるとすねるわけでもない、とにかくアドレナリンの枯渇なのである。

 ふりかえれば、安全保障という現実課題の処理にあたり、すでに政治課題として硬直のきわみにあった9条を中心とする憲法条文を行政の責任において解釈を改版してしまったという暴挙は、今日的にいえば議論を置きざりにしたまま何ごともなかったように既存基準(デファクトスタンダード)化してしまったといえるのではないか。で、内心ほっとしている人も多かったとか。ということで、ほぼ10年前のあの騒ぎはなんであったのか、といった問いかけでさえある種の気恥ずかしさをともなうのである。つまり、どこまでいっても三権分立なんて樹は生えていないのだから騒ぐこともなかったのか?

 ラララ♪もうカイセイなんか♫ひつようないのだ~♪デファクトスタンダード万歳!

9.変わらなければ衰退することも、歴史的転換点に立つ自民党

 今回の自損事故ともいうべき「裏金事件」が象徴的事象として自民党の存続をも危うくしている今日、自民党の今後の政治基盤については時代への適応性を中心に点検し、場合によっては再編強化のひつようがあるのではないか。とりわけ、今日の社会においてはボリュームゾーンである未組織、非正規への政策体系をもたずに、従来の支持基盤に依存するだけでは安定的な議席確保はとてもむつかしいと思われる。

 この点において、口は重宝であると人びとは思っている。おそらく小泉氏の時代あたりから総理大臣にとくべつなエンターテイメント性を求めだしたのではないか。「○○でなければ自民党をぶっこわす」としびれるようなキャッチコピーに天下は揺れたのである。有権者の単純な欲求が政治演説の過剰表現を誘発したのであるが、今日においては単なるエンターテイメント性にとどまらない、いってみればおためごかしではなく心棒のはいった本格的な格差解消策を提起しなければ評価の門をくぐることはできないということで、そういう意味では下手をすればさすがの自民党も衰退にむかうのではないか、という物語である。

さてどうするのか、どうなるのか自民党

 さて、これからの自民党のストーリーとして、まじめに派閥が解消されたとして、ではどうなるのかといえば党運営は現実問題としてむつかしいものになると思われる。なぜなら、派閥なしでの党運営の経験がないからである。もっといえば、400名ちかい国会議員を派閥なしでまとめていくイメージが湧いてこないのであり、端的にいって不可能ではないかと思う。

 と聞けば、多くの人は大企業を例にマネジメントについて多くを語ってくると思うが、問題は国会議員が対象であるということで、一般的なマネジメント理論は通じないと思われる。つまり、一人ひとりが選挙で選ばれているという特徴が、ほとんど自意識過剰なのであるが、通常のマネジメントの適用をむつかしくすると思う。

 ぞろぞろと本会議場にむかう姿を一見すればそれは羊の群れのようでもあるのだが、けっして羊ではない、そう見えてもかならずキツネや狼あるいは虎やライオンに変じるのであるから、とてもじゃないが事務的にさばくことはできないのである。

 そこで、今日党外からはべき論や管理論がぞくぞくと提起されていると思われるが、提起されるものの99.9%が議員の扱いという点においては未経験であるといわざるをえない。だから役にたたないとはいわないが、しかしながら役にたつとも思えないのである。そういう意味では派閥というものは便利であったというよりも、合目的的であったと考えている。

 また、政治には金がかかるとか、とくに新人の資金需要をみたすことの必要性については誰しも全否定することはできないであろう。という理解にたち、さらに党内での議論を放置すれば百家争鳴状態になるものを何とかひとつにまとめていくために、どういう仕組みがいいのか目がまわるほどの試行錯誤を重ねなければならないのである。さらに議員個々の資金需要を合理的に充足させていくために、今までは派閥が経験をベースに政党運営の一角を担っていたと考えれば、これもひつようにもとづく現実策であったといえるのではないか。ただし、だからといって派閥の存在を是とするものではない。ただ、現に機能しているものを代替策なしに廃棄することはけっこうむつかしいという現実を指摘しているだけである。

 さらにこの間、自民党につきつけられた改善策の多くは、たとえていえば新幹線を利用する立場からの改造提案にちかいもので、本質は利用者の立場からの提言といえるのである。

 だから、「どうもそのようだ」といった程度の情報にもとづくのは、不正確な磁針をさげて見知らぬ山道をいくようなもので、たかい確率で不都合に遭遇することになると思われる。もし、党運営が会社経営と同じであるとの確信がもてるのであれば、さらに意欲があるのであれば、「ぜひやってください」と依頼されるかもしれないが、事にあたればおそらく評論と実践がちがうことを再確認するだけにおわると思われる。それは、党運営が高度でむつかしいということではなく、ひとつには走行中の新幹線をそのまま改造することにちかいということである。これが最大の関門であろう。

 さらにいえば、単にプライドが高すぎて手におえないということであり、くわえて経験者がすくないというレアな事例であるから、一般化ができないというだけの話なのである。ということから、自由民主党の改革、改造は所属議員の責任で貫徹すべきであるというべきであるのだが、そのような意欲とか熱意があると想定することこそが、よく分かっていないことの証明であると、笑われるのがオチであろう。改革の任にあたらなければならない立場の者がそういう問題意識をもっていないところに真の問題があるのだが、トホホというか、正直手のうちようがないのである。

岸田氏を降ろせば何とかなるというのはひどい幻想である、それだけではどうにもならない

 いずれにせよ有権者としてはそれが不満であるし、映像では訳しり風の解説と常識的な改革論をきかされ、話は番組終了とともにプツンと消えていくのであるが、多少の怒りがとけかかったところで、大谷翔平選手の豪快な本塁打を見てしまうと瞬間愉快な世界へとワープすることになるのである。

 だから、問題の本質は「その程度」のことに刈り取られているところにあって、それでも有権者としての怒りがおさまらないのであれば、選挙で落とせばいい、ということであろう。問題が発覚してからすでに半年以上たつというのにシャキッとできていないのは、いつにまにか責任を、シャキッとするのが苦手な岸田氏におしつけているからであろう。この構造はよくあるもので、メディアもジャーナリストも評論家もとりあえず「岸田氏一人が問題」というのが分かりやすいし、商売上も好都合なのである。有権者も「そうだそうだ岸田がわるい」と雷同しているのである。

 だから、「これでは国民の怒りがおさまらない」といって番組にピリオドをうっている、とんでもなく偽善なMC(メインキャスター)はむしろ「怒りは選挙で」というべきであろう。放送法がどうしたこうしたといったことではなく、百の議論よりも一回の投票で「自民党をぶっこわすことができる」という民主主義の本質をいっているだけである。しかし、自民党をぶっこわすことに不安があるのであれば、少なくとも「裏金事件」にかかわった議員その他を落選させればいいだけのことである。事の理屈はそういうことであるが、そうはできない有権者の高度な判断というかあるいはいい加減な対応というか、結局本心を明かさないうちに幕がおりるのである。

10.さて政権交代であるが、今度は有権者の覚悟が前提である、良くはならないかもしれないと思っても突入できるのか!

 さらに、広義の政治改革をいえば選挙制度が基本であるから、当然公職選挙法も俎上にあげるべきであろう。資金需要の大部分が選挙対策から生じているといえることから、公営選挙の深化をはかることと同時進行で政策活動費などの規制強化をすすめるべきである。というように、一事が万事からみあって大仕事になるのである。そこで今日のわが国が貴重な政治資源をもっぱら政治改革のみに注ぎこむことはできないであろうし、さりとて放置するわけにはいかないので、効率的に問題解決をはからなければならない。というほかないのである。

 そこで、まがりなりにも政権を運営してきたことには基礎点を付けたいと思う。なかには反自民の立場からゼロ点という声もあるが、すべての法案に反対しているわけでもないだろうからゼロ点というのは極論もいいところであろう。そういった売り言葉に買い言葉のやり取りはそろそろ卒業してもいいのではないかと思う。たとえば、賃上げにしても結果として成果がゼロとはいえないから政策や議員行動(ビヘイビア)においては少なからず異論も多いのであるが、だからといってただちに政権交代を求めるとまではいい切れないのである。こういうところが令和の複雑系であろうか。

 前にも書いたが、「変えてよくなるものなら早く変えたほうがいいに決まっている」のであるが、しかし「よくなるという実感をもてない」のも事実である。つまり、立憲プラス共産プラス社民ではまともな政権運営は期待できないと思う人が多いのではないか。いわば、過去の政権交代がトラウマとなっているグループが存在しているともいえる。

 そういったトラウマグループとはちがって、思わずリセットボタンを押す人もかなり多い。やや下がってきたがそれでも総選挙で政権交代をのぞむ人が過半数いるということはこの国では珍しいことである。このような怒りから生じる感情は簡単には減衰しないもので今しばらく持続すると思われるから、前回にも述べたが、このままだと自民党は200の大台をまもれないと思われる。

 しかし、年寄りの筆者は押すまでに時間がかかる。というのも、リセットボタンを押して苦労したことが多かったからである。「あれはやたら押すものではない」と専門家がいっていた。パソコンの話である。リセットすると失うものも多いから、どうしても慎重にならざるをえないのである。

 

◇ アベリアの甘だるき香に雨の跡

加藤敏幸