遅牛早牛

時事雑考「2024年7月の政局-都知事選は何だったのか」

【何やかやと、諸事にかまけているうちに都知事選後10日以上が経過した。今さらの都知事選ですかと言われそう。くわえて、都知事選でさえもローカルなのである。というのも、その時期を実家(四国)で過ごしていたので、もともとローカル色の濃い地方ではあったが、なぜか都知事選もローカルなことで、小池氏3選のひと言であった。それよりも梅雨の合間の暑さがひどく、草刈りを中断せざるをえなかった。何のための帰省だったのかと悔いばかりがのこっている。

 ところで、MLBの大谷翔平選手の活躍がとまらない。それはいいのだが報道過剰だぜ、といっているうちにトランプ前大統領が狙撃された。右耳の包帯が痛々しい。そのこともあってか米国共和党が盛りあがっている。もしトラがほぼトラにさらにまじトラになったそうで、各国とも慌てているようであるが、民主党の対応が注目されている。どうするバイデンさん。

 一般論ではあるが、後期高齢者という失礼きわまりない呼称にはやはり意味があるのである。生活のスローダウンからは逃れられない。とくに言い間違えが日常化するのは政治家としてはリスク要因であろう。一寸先は闇であるのは米国もおなじことで、先のことは分からない、がとても気になる。

 ところで、まだまだネット空間でのやりとりがつづいているようである。もう都知事選はおわったのに。このコラムは労働運動の継承を目的にしているので、その視点で都知事選について書きつづってみた。そういえば連合結成以来、都道府県知事をはじめ首長選挙での地方連合会の対応は無所属であれば現職支持のケースが多かったように思う。要請事項への対応などを評価すると自然とそうなるのかもしれない。連合から支持されていると思っている政党にしてみれば合点がいかないということであろう。その気持ちは分からないわけではないが、もともと国政とは違うから、より現実的な対応になったということであろうか。】

1.予想通り小池氏が当選したが、石丸氏の2位が予想外との声が話題に

 ネット空間では、敗者への「お仕置き」が、すでに幕がおりているにもかかわらず陰湿かつ執拗につづいている。7月7日投開票の都知事選のことである。さすがに公共の電波をつかっている報道や番組では抑制されているが、それでもところどころで漏れていた。

 さて都知事選の結果は予想通り小池百合子氏が勝利し、2028年7月まで知事の椅子にすわることになった。とはいえ、得票数でいえば、2位3位の合計票を上まわることができなかったので圧勝とはいえない。快勝である。

 当初、小池氏対蓮舫氏のたたかいと目されていたが、告示からの調査データが示していたのは一貫して小池氏優勢であったことから氏の当選が確実視された。そこで注目されたのが、2位と予想されていた蓮舫氏の得票数であった。とくに、2022年の参議院選挙での立憲・共産・社民の公認候補者(3人)の得票合計179万票を上まわり200万票にせまれるのかが話題となったが、6月末には石丸氏支持のいちじるしい伸長が観測されはじめ、2位3位あらそいのほうに関心がうつり、7月に入ると石丸氏優勢との調査も出現し、蓮舫氏の次点が危ういのではないかとの見方がひろがりはじめた。

 選挙戦も最終盤をむかえた頃には、石丸氏2位との予想が主流となった。結果は、小池氏292万票、石丸氏166万票、蓮舫氏128万票であった。(票数は千の位を四捨五入、以下同じ)投票率は60.62%(+5.62)と2016年の59.73%よりも高くなった。

2.得票率42.77%では圧勝とはいえない、決選投票制度があれば逆転も

 小池氏の得票の解釈として、筆者は圧勝とは考えていない。投票総数の過半数をこえれば圧勝であるが、2位3位の合計得票を下まわっているかぎり圧勝とはいい難いのである。他国では、行政の長などを選ぶときには、その都度の得票が過半数に達するまで上位者による決選投票をくりかえす事例が多い。わが国においても党首選挙などでは同様のしくみが取りいれられている。

 といった理屈でいえば、2020年7月の都知事選は得票率59.7%で小池氏の圧勝であった。そこで今回をいえば、上位2名による決選投票が仮におこなわれたとすれば、もし蓮舫氏が石丸氏支持にまわれば、結果は僅少誤差の世界となり、石丸氏当選の可能性もでてくるので、現行の選挙制度を前提に小池氏「圧勝」といえてるだけのことである。ちなみに、2016年の得票率は44.49%であったが、2位増田氏と3位鳥越氏が連合することは想定できないので、圧勝ではないが決選投票をおこなっても順位がゆらぐことはなかったと思われる。

 ということから、投票者の過半数の支持によってえらばれた知事ではないことで、何かさしさわりが生じるのかと問われるであろうが、その問いには地方分権とはいっても中央政府の囲いの中での権力行使だから、ほどほどにしておこうという国家プランが背景にある、つまり、知事権限をつきつめると中央政府と地方政府が拮抗する関係が容易に出現するわけで、それが好ましくないという根本的な統治思想が透けてくるのである、と婉曲にこたえるしかないであろう。そのうえで、両者の拮抗関係が問題化するのはとりわけ有事においてであることを頭の隅におくべきであると応答するのがいいのかなと思っている。

 だから、首長がどれだけの民意を代表しているのかが端的にしめされているのが選出時における得票率ではないかという文脈において、今回の石丸氏166万票、蓮舫氏128万票、合計294万票を小池氏としてはあなどることはできないのである。

 さらに、小池氏の得票を2016年との比較でいえば、2016年は自公推薦の増田寛也氏と野党4党統一候補の鳥越俊太郎氏とを相手にしてのたたかいであったが、今回はステルスとはいえ自公を味方につけてのたたかいであった。結果はいずれも290万票をこえる同水準の得票であったが、内容において大きなちがいがあることはだれしも否定できないであろう。

 国政においての与党である自公にとって、小池氏の庇(ひさし)を借りて雨宿りするしか選択肢がなかった、いわば緊急避難ともいえるものであるが、小池氏にとってはこれ以上に好都合なことはなかったと、得票結果からは明白にいえるのではなかろうか。また、石丸氏の出現と奮闘がどのような役割をはたしたのかについてはまだ確定的にはいえないが、獏とはしていても確信的な政治批判票をみごとに捕集していったことが、それらの票の蓮舫氏への流入を阻止したとも考えられるわけで、このあたりの分析は後日の課題であろうが、きわめて興味深いものといえる。

 そういうことで、筆者の疑問のひとつが蓮舫氏の出馬表明後の小池氏の遅滞行動が戦術的な思惑によるものと解釈されてはいるが、かならずしもそれだけではない、もしかしてなにかしらの不安を感じていたのかもしれない、でそのことが、氏に逡巡をもたらせたのではといった想像をめぐらせていたのであるが、明らかにはならないことであり、むだなことであった。

 それはおき、三者三様に、また影響しあいながらの複雑な経過と、じつに分かりやすい単純な結果には、わが国の政治状況とくに有権者の思いを推察するに十分すぎる内容がふくまれていると感じている。とはいえ残念なのは、われわれの分析能力が近年劣化しており、すべてを単純な方向でしか解釈しないという悪癖から抜けだせないでいることである。結果がすべてということではなく、くみとる側の器量によっては玉にも石にも変化(へんげ)するという道理を参考にふりかえれば、ネット空間での単純化されたバッシングに興じることの虚しさを感じるであろう。

 さて、「4年後はどうなるの?どうするの?」と子どもっぽい質問でここは閉めくくることにする。

3.石丸氏と蓮舫氏の争点はなんであったのか

 今回の選挙の特徴は、客観的に小池氏優勢がうごかなかったことから、石丸氏と蓮舫氏の両陣営ともに当選戦略が未完あるいは未遂におわったということであろう。もちろん落選だから未遂なのは当然のことであるが、接戦とか後一歩ということであれば、巻きかえし戦術といった波乱もありえたと思われる。しかし、結果からいって当選にはかなり距離のある位置でおわったことを考えれば、両者の当選の可能性は選挙期間をとおしてゼロにちかかったといえる。また、女性層からの評価がたかい現職にいどむ態勢としてはさまざまな点において不十分との感じがつきまとっていたことも否定できないであろう。

 そのうえ、あらゆる指標において恵まれた環境にある東京都政を醜聞以外の理由で打倒することは、これもまたとんでもなくむつかしいといえる。

 たとえば、石丸氏が既存の政治システムを否定し、刷新することを熱く語っても、それだけでは知事就任の原動力にはならないのである。もちろん議会人ということであれば、現状批判に特化した主張であっても傾聴されるであろうが、知事は行政の長すなわち指揮官であり責任者であるから、行政組織を動かさなければならない。さらに、行政において生じた不祥事については責任をとらなければならない、といった役割は分析力や批判力だけでは全うできないと考えるのが一般的であろう。

 たしかに石丸氏の主張には、政治の現状や政治家に対する批判などにおいてかなりの説得力があったと思われる。ただし、選挙戦のなかで氏が有権者である聴衆から評価されたと思われるウェブ上の諸点を検討してみても、それらが知事としての有能性を証明しているとか、知事職への準備を感じさせられるといったものではなかった。むしろ知事とはジャンルのちがう期待をのせた石丸氏への投票であった印象がつよいのである。

 何がうけているのか分からないというのが正直なところであった。そこで石丸氏の得票は、現状の与野党をふくめた「オール日本政治」へのアンチテーゼとしての「石丸世直し運動」といったものへの賛同であったと思われる。少なくともそのように解釈するのが自然なことのように思われたのである。

 ともかくも、石丸氏の政策メニューはかなりシンプルであったし、構成としても単純化されており、生活臭ゼロのメニューであったといえる。つまり、構造課題に集中していることから、方向性のそろった政治批判が可能となっており、聞きようによっては大きな賛同がえられる造作となっていたと思う。これも立派な政治主張であるが、日々の生活に苦労している人びとにすれば、ずい分と乾いた話であって、ドロドロとしていない分(ぶん)現実感を欠いていたともいえるのである。

 そういった特徴のある問題意識をもつ石丸氏を支持する都民が160万人をこえて居るということはひとつの驚きであったといえる。そこで、解説やいいわけが山ほどあるにしても、事実それだけの支持があることについては各党ともに刮目して受けとめなければならないと思う。たしかにネットがリアルを生み、そのリアルがネットで拡散される、理想的な発散系システムと思うが、逆に死角はないのか。今回は、多くの人びとによって確認されているリアルがベースになっていたことから、フェイクが混入される余地はなかったといえるが、これから先もそういえるのかは疑問である。そういった場合への対応については今のところ無防備といえる。

 ところで、この石丸メニューは転用可能なレシピであると考えれば、さまざまな選挙においても活用できると思われる。しかし、安全保障やエネルギー政策あるいは社会保障制度の給付と負担の関係などについて、また具体的な政策の方向性についてはふれられておらず、文面の勢いと内容にはかなりギャップがあり、全面的に国政選挙に応用できるというものではなく、いってみればリード文やまえがきに近いものと筆者は判断している。

4.届かぬ国政批判、都知事選での自民党批判は不発か?

 さらに、蓮舫氏においては都政のみならず、自民党政治ともたたかっていたと思われるが、しかしターゲットにしていた自民党政治が顔をだすことはついぞなかったのである。逃げられたあるいは肩すかしをくらったも同然といえよう。つまり、小池都政と自民党政治がかさなっているとの指摘は、立憲、共産、社民の支持者あるいは市民連合の人びとにおいては自明のことなのかもしれないが、3党の外では自明のことではなく、そういった共感が広がったとは思えない。

 率直にいって、小池氏に裏金疑惑があるということならともかく、自民党と関係をもつ小池氏はけしからんという、風がふけば桶屋がもうかる式のロジックだけでは説得性にかけるといえよう。なぜなら、2016年7月の都知事選では、無所属の小池氏が自公推薦の増田寛也氏と野党4党統一候補の鳥越俊太郎氏を相手に100万票以上の差をもって初当選をきめている、つまり自民党とはきびしい競合関係にあったのである。

 それが2020年の選挙では、コロナ禍またオリパラ開催などをまえにして政権与党との関係修復がさけられず、自民党長老との人的関係を活用し円滑化をはかったわけで、そのことへの評価はさまざまではあるが、自民党を篭絡した政治手腕については都民においてもそれなりに評価されていると思われる。

 つまり、一枚上手というのが大方の評価であって、小池氏にはそういう実のある評価が礎石としてあることから、自民党と同列にあつかわれることには多くの都民が違和感をもっていたと思われる。

 ところで、たしかに選挙には人気投票の側面があるにしても、有権者をとりまく生活上の困難は年々増しているのであるから、わざわざ投票場に足をはこんでいる有権者が好き嫌いといった感情で投票行動をきめているという主張をうのみにすることはできない。今回の投票率の上昇を考えれば、有権者(都民)の切実感はたかまっていたと認識すべきであるし、投票行動にもそれら生活のきびしさが反映されていたものと思われる。

5.「石丸氏とは何者か」が明らかになることなく166万票が積みあげられたが、冷静にいえばそれだけのことである

 石丸氏が166万票をえたことは事実である。しかし、有権者からみて「石丸氏とは何者か」という点においてなお不明なところが多いこともまた事実であろう。小池氏、蓮舫氏にくらべてはるかに情報量がすくなかった。この、判然としない不鮮明な候補者に大量の票が投じられる現象をいぶかしむ、あるいは怪しんでいるだけではらちが明かないのであって、つまり、有権者は何を考えて氏に投票したのであるのかについては、なお解明すべき点が多いといえる。おそらくは石丸氏というよりも石丸氏的なものに対して、不鮮明なりに波長のあった共感がなければ、これほどの短い期間で大量の支持を獲得することは不可能であったと思われる。ひょっとして波長だけがあう共振現象だったのかもしれない。

 すなわち、媒介者としての役割をはたしたとも考えられるもので、でなければ失礼ながらあの政策メニューとあの演説で166万票を、それも短期間でえられることは普通では考えられないことである。おそらく、有権者にたまった政治的欲求不満のマグマが媒介者石丸氏をつうじて噴だしたとも考えられるもので、逆にいえばマグマの誘導に成功したのが石丸氏であったと解することもできるのである。

 たぶん、実現すべき政策の主張は薄かったが、こうあるべきという主張はかなり濃かったのであろう。また、その味つけともいえる規範性にはなんともいえない激しさがあり、主張の単純さゆえの破壊性をも感じられるのである。政治の現状に対して不満や苛立ちをおぼえている有権者の気持ちをすくいとる点において、他の候補者を圧倒していたのかもしれない。

 ただし、冷静にいえばそれだけのことというべきで、つまりそれ以上に政治的な何かがあるとは思えないのである。もちろん政治的でない何かについてはさらに不明であるが、だからこそ強烈であり、教訓的であったといえるのかもしれない。

 ということで、石丸氏も蓮舫氏も単線的に知事選をたたかったわけではなく、前者は政治家論あるいは政治のあり方を、後者は国政における自民党政治をターゲットにたたかったといえるのではないか、と今でもそう考えている。

6.一番の論点は、野党第一党が都知事選をたたかう理由は何か、である

 さて、つぎに考察しなければならないことは、野党第一党の選挙戦略のあり様である。自民党は不戦敗を回避するために小池氏によりかかっただけであるから、本来は場外からの参加というべきであろう。そもそも自公の基礎票を2022年7月の参議院選挙(東京)の自公公認候補3人の得票数から推定すれば、投票率56.55%で229万票であるから、これだけでは当選はおぼつかないということになる。候補者にめぐまれなければ与党だけでは都知事選は無理といえるのである。

 という与党の実情を前提に、では野党第一党である立憲民主党はどうなのかということが論点になるのであるが、自公に劣位する立憲としては、まず立候補の意義を明らかにしなければならなかった、つまり意義が明示されてはじめて戦略への理解も深まるというものであろう。

 そこで、まず考えなければならなかったのが、先ほども述べた2016年7月の都知事選そのものであろう。この選挙では、野党4党(民進、共産、社民、生活)の統一候補として直前に鳥越俊太郎氏を擁立したが、小池氏、増田氏につづく3位135万票にとどまった。この時の自公推薦の増田寛也氏は179万票であった。もちろん小池氏は291万票で、今回の得票数292万票とほぼ同数といえる。

 したがって、8年前の小池氏、増田氏、鳥越氏という順位と、それぞれの291万、179万、135万という得票レベルが、今回の小池氏、石丸氏、蓮舫氏という順位と292万、166万、128万という得票レベルがずい分と似ていることに着目すれば、本気で当選をめざしているのか、参加することに意義をもとめているのかという、ベースとなる選挙戦略なるものへの、おわったことではあるが検証がひつようではないかと思うのである。

 つまり、立憲(民進)、共産、社民を支持母体とした選挙では、鳥越氏や蓮舫氏という知名度においてなんら不足のない候補者であっても、130万票程度の得票がなにげに限界として立ちはだかっているというのが現実であろう。そして、その水準であるが、往年の自公連合の基礎票にはおよそ100万票ほどおよばないということであり、この水準では何回挑戦しても当選することはむつかしいということであろう。という認識を共有化しておれば事態はかわっていたと思われる。

 しかし、今回は特別な事情というか、裏金事件で窮地にある自民党が相手の一角にかかわってくれば、また政治と金を争点化できればたしかに例年とは違った選挙になるであろうから、くわえて衆補選や静岡知事選の勝利をふまえ、とくべつな状況であるとの判断で勝機は十分にあると思いいたったであろうことは容易に想像できるのであるが、都知事選は都知事選であって、立憲幹部が期待した方向には民意は動かなかったのである。それだけのことであった。少なくとも肉薄すれば政権交代の機運をさらに高められるかもしれない、いいことずくめのイージープランの罠におちいったといえるかもしれない。

 さように簡明な問題をどのように扱うべきであったのかが、現在の立憲民主党の内部での議論がどの程度のパースペクティブを有しているのものなのか、についての試験薬であったし、そこが党勢診断のきわめて機微にふれる部分であったと思うのである。大切なことが未検討つまりあいまいにされていたのではなかろうか。

 先ほど述べた2022年7月の参議院選挙における立憲・共産・社民の公認候補者(4人)の合計得票数179万票はあくまで皮算用というべき最大可能数であるから、普通に考えればその数字をもってしても当選はむつかしいと考えるべきであろう。もちろん、選挙にはやってみなければ分からない測面があって、予断は禁物である。

 しかし、現実にはその最大可能数からさらに50万票ほど下まわったのであるから、「どうして?」という疑問が生じるのは仕方のないことであろう。

 こういった現象は、党派性が鮮明に意識される国政選挙と地方自治体の長をえらぶ都知事選の性格の違いから生じる、いたってナチュラルなものであると考えられる。だから、先ほどの最大可能数は参考にできないとの考えもあって、定石はないといったほうが適切なのであるが、演説現場のもりあがりや雰囲気を体験した活動家からいえば受けいれがたい結果といえるであろう。

 そもそも最大可能数179万票では不足であるとの判断から蓮舫氏においても立憲を離党し無所属で立候補し、いってみれば党派性を薄めることでより広い集票をねらったといえる。現状では立憲において最も集票力のある候補であったにもかかわらず、最大可能数を大きく下まわった原因の解明がすすまないと、議論は膠着し立憲の党勢に負の影響をきたす恐れがあるかもしれない。とはいっても、最大可能数を獲得しても当選はむつかしかったといえる。だから、何のために都知事選に挑戦したのか、考えれば考えるほど分からなくなるのである。つまり、目的も意義も茫洋とするだけですっきりとはいかないところに、この党の課題があるように思われる。

7.石丸氏に捕集された票もあるのではないか

 ところで、石丸氏の存在感が高まったことにより、無所属蓮舫氏宛の票が石丸氏宛に変更されたという仮説が考えられる。他方で、無所属とは認識されずに、実態どおり立憲・共産・社民・プラス市民連合による統一候補として人びとにピン止めされてしまったのではないかということで、無所属宣言と党派性の消去が不徹底であったという指摘はあたっているように思われる。

 また、無所属にしては立憲・共産・社民の影響が強くのこっており、有権者からの「どこが無所属ですか」という疑問を払しょくできなかったのではないかという指摘もある。

 たしかに、3位128万票というのは出馬表明時の雰囲気からいえばかなり不調といえる数字ではある。それでも、候補者を直に評価してもらえるプロセスを「反自民」とか「共産の支援」とかが邪魔したと考えるなら、不調のひとつの説明にはなるのであるが、そういうことであれば、企画段階における選挙設計が中途半端で不徹底であったとしかいいようがないのである。

 今回、3野党連合が不調に終わったのは、小池氏VS蓮舫氏という対決構造にできなかったことが最大の原因であり、そうならなかったのは石丸氏の出現であり、氏の予想外の健闘であったといえるのではないか。

8.有権者の気持ちや感覚とずれている?既存政党は

 ところで、今回の有権者の判断基準がかなり現実的であったと感じたのであるが、その理由のひとつが現職を支持する率が予想をこえて高かったことと、政策への評価も髙かったことがある。リセットされては困るという率直な反応もあったり、そういったゆるやかな支持が大勢を決したのではないかと思っている。

 他党に先駆けて共産党と手を結ぶことの影響について入念なチェックをおこなうべきであったことは、立憲としての選挙ではつねにひつような作業であることはまちがいないわけで、とくに、連立政権構想と選挙協力が併存できないギリギリの関係にあるのだから、選挙ごとに詳細な議論がひつようであろう。2021年10月の総選挙での敗北が、共産党の「閣外からの協力」によってもたらされたとの言説によって、結果的に枝野代表辞任という思わざる蹉跌を味わったのであるから、蓮舫氏立候補に欣喜雀躍する共産党幹部の気持ちは分からないではないが、抑制的であったほうがベターだったということにつきると思う。2021年も2024年も似た感じがしたということである。

 まあ、有権者にしてみればあまり興味のないことであり、地域の事情もあって多くの場合が無関心領域のことであるから、いわゆる心理的にOFF状態だと思われる。結局、選挙協力レベルの議論に閉じこめられていることには、支持者においてすらウンザリ感があるのではないか。過去何回も論じられてきたが、小選挙区単位の立候補調整にほとんどの野党が参加することが可能であるのかといえば、とくに比例区選挙への票だしを考えた時に、他党との調整以上に党内の調整にエネルギーを費やすため、例外はあるとしても、そうとうに難易度の高いオペレーションになると思われる。たとえば、立憲民主党はこの夏において200選挙区での候補擁立を目指していると聞くが、苦労してそろえた候補を降ろす理由をつくるのが経験上もっともむつかしいといえる。ということから、不完全であっても一割ほどの選挙区で調整ができれば成功というべきではないか。それでも本格的な協力すなわち相互推薦にたどりつくことができるとは思えないのが実情といえるであろう。

 野党が一本化すればすぐにでも政権交代ができるといったベテランの声が聞こえてくるが、そのとおりである。しかし問題は立憲の大勢がそのように考えているのかどうかであって、悲観的な見方も多いといわれている。

9.小池氏圧勝型はむつかしくなった?

 さて、2位となった石丸氏の立候補がなければ、2020年7月の都知事選と同様の小池氏圧勝型になった可能性が高かかったという見方もありうるが、この見方は結果だけを本筋にして、経過を従属(変数)化する思考法であって、静的な理解をめざすものと思われる。石丸氏が立候補したことにより生まれた現象から、単純に「石丸氏の部分」をけずりとり、残った部分で全体像を語るのはあまりにも単純すぎて危険であるといえるのではないか。

 今回の場合をいえば、石丸氏不出馬の事例シミュレーションをおこなうのであれば、まったく違う事例としてとりあつかうべきであろう。その一例が、小池氏VS蓮舫氏の二者択一事例であり、そうであれば蓮舫陣営の戦術も大幅に変わりえた可能性を無視できなかったであろうと、すこし私見(レンジを支持政党なし層へ積極的に広げるべきであったという)をにじませながら指摘しているのである。

 と、起こりもしなかった「まぼろし」ともいうべきものをつらつらと述べているのは、つまり結果から逆算して、蓮舫氏の出馬は大勢に影響のない、あたかも自陣営の勢力確認のための立候補であったとの見方についてはあまりにも短慮にすぎるといいたいわけで、考慮すべき条件のひとつが変わればおどろくほどの変化が結果にもたらされることも多々ありうることは、経験上の知見であるという筆者の見解をのべながら、とかく選挙の結末において宿命論的悲観ムードがはびこることに注意を喚起したいという思いが先だっているだけのことなのである。

 くり返しになるが、残念ながらそういう悲観的あるいは敗北的見方を誘発する立憲の結果になってしまったのであるが、条件の一つ二つをかえることによって結果をかえることができたのではという仮説を反芻することにより、宿命論的悲観論の呪縛を断ちきることが可能であるといいたいのである。

10.付録

 という文脈を提起したことから、論理構成上石丸氏の登場に関係なく小池氏対蓮舫氏という対決構造をつくることができたのかという仮定の議論がのこっているわけで、仮定を積みかさねるきわめて危うい議論になるのでなるべく避けたいと思うのであるが、結論からいえばいくつかの条件が「小池VS蓮舫」を疎外していたと推察できるのである。

 当然、共産党との距離感についてビジュアルにおいても反対派に口実を与えたことが現実としての困難をまねいたといえる。また、存在がイデオロギー的である唯一の政党が共産党であるから、そこは選挙対策本部としてはもっと敏感でなければならなかったと思う。とくに、東京といえどもあくまで首長選なので、そういったあたりは細心の工夫がひつようであったと思う。

 それ以上に重要であったのが、訴求ターゲットとして支持政党なし層や中道的中間層あるいは生活重視派など既存の政治主張の枠にはいっていない人びとへのアプローチであろう。つまり、立憲・共産・社民の大物政治家が街宣車でマイクを握る姿こそが「あなた方を相手にしていません」とのメッセージであるとはいわないが、受け手において遮断的であるといえるのである。

 通りすがりの人びとがターゲットであるかぎり、発言の内容ではなく発言者が重要なのである。この点において小池氏が幸運であったのは自公がステルス行動に徹したことであろう。皮肉ではなく、そのことにより石丸氏に次ぐ支持政党なし層からの集票に成功したといえるのである。などなど立憲の選挙戦略の生煮えが処々にみられ、結果として支持政党なし層からの支持が低調におわったのではないか、またそこに2位を逃した敗因があるということであろう。

 したがって、と結論づけるにはまだまだ説明不足ではあるが、都知事選において筆者が定義している立憲・共産・社民という左派グループを基盤にするのであれば150万票をこえるのは至難の業であるから、これから先も都知事選にいどむのであれば、政党の枠組みを外すとか、著名な候補者を支援するとか、根本的な考え方をかえるべきである。

 

 くどいようだが、人びとは小池都政と自民国政とは別物と認識しているのである。にもかかわらず、総選挙への地歩かためとしてエースを投じてみたものの、不本意な結果におわってしまったという顛末は、たとえればわざわざ落とし穴を探して自ら落ち込んだようなもので、自損物語といえるのではないか。というストーリこそ夢のままであってほしかったと支持者は思っているのではないか、どうであろうか。ともかくも、いいいよ2025年が国政選挙の勝負の年になるということであろう。

◇梅雨ねばる蒸し暑さかな蝉しぐれ

注)下線部分2か所、市民連合を追記。2024年7月21日10:00

加藤敏幸