遅牛早牛

時事雑考「2024年8月の政局-同盟の底にある困難-」

1.米大統領選は新たなステージへ、(まるで口論プロレス)

 暑熱の日々、ニュース番組はパリオリンピックでの日本選手の活躍でもりあがっているが、いささか食傷気味である。ところで、米国の大統領選挙はバイデン氏撤退のあと、トランプ(前大統領)対ハリス(副大統領)の大激戦が予想される中、あらたなステージに移ろうとしている。トランプ氏優勢であることには変わりがないものの、老老対決から老壮対決へと選挙戦のモードが変わることの影響もあり、ふりだしとはいえないが、未知の部分がでてきそうである。大統領選にあわせて上院の三分の一と下院の選挙も同時におこなわれることから、シビアな感じがヒリヒリと伝わってくる。この三つの選挙すべてを共和党が制すれば、ほぼトランプ独裁となり選挙期間中の氏の発言が現実化する。そういう意味ではリベラル派にとっては上・下院選挙のほうが気になるのかもしれない。将来においてどんな文脈で語られるかは今のところ不明であるが、おそらく歴史にのこる選挙戦になることだけは確かである。

 もとより、日米の選挙制度には大きなちがいがあるので、いまさら比較してもと思うが、盛りあがりという点では米大統領選にはなんともいえない迫力がある。

 まあ、(くどいようだが)単純に比較してもしょうがないことではあるが、あの悪口三昧にたえられますかといったことではではなく、言ったもの勝ちの、筆者の体験でいえば小学校までしか許されていなかった口論プロレスの世界が地球上唯一の超大国の内側でくりひろげられているのである。

 さらに、知性ではなく反射神経、運動神経が支配するリングのない格闘技の世界とも写るのである。それをディベートというのであろうか。であれば、わが国の中学高校大学ではひたすらディベートを避け、あるいは抑制してきたのでなじめないということであろう。今でもディベートよりも忖度の世界である。

 「トランプVSハリス」の舞台において忖度が機能する余地はまったくないわけだから、迫力にちがいがでるのは当然であろう。 

 ということで、忖度の訓練にあけくれてきたわが国のサラリーマンとしては、筆者もふくめ「お前はクビだ!」と指さされると、ちょっと腰が浮いてくるような居心地の悪さをおぼえる。日本のサラリーマンの多くは罵倒しあうシーンには不慣れであるから(一方的に罵倒されるシーンは時々あるが)戸惑うところもあると思われる。そういうシーンについていけない時には気持ちを観客席におき、しばし鑑賞するというのはどうかしら、アメリカ式がすべてではないのだから。

 ところで、報道機関はじめさまざまな組織によるファクトチェックも活発におこなわれていると聞くが、その成果が日本にまで届いているのか。それをあきらかにするほどの時間の余裕はないから、結局つきあってはいられないということである。

2.日米間の違いはそのまま受け止めるしかないのである

 選挙のゆくえと気候変動の予想は手におえないのであるが、わが国の気分をいえば「反トランプ」ではなく「嫌トランプ」にちかいと思われる。この気分の大半は主要メディアによって色着けされてきたといえる。つまり、わが国のニュースソースがリベラル系にかたよっていることから、インプットがそうなのでアウトプットもそうなるということであろう。

 残念ながらというべきかはべつにして、トランプ氏にはそのリベラルってのが一切ないのである。たとえば、筆者の世代ではアンチリベラルとしての保守あるいは右派が反動的に生まれていたのであるが、そういった青春期の曲折とは関係なく、初めからリベラルな思想とは無関係であったのではといった感じを強くうけるのである。

 ともかく、会ったことのない人のことをあれこれ書きつけるのは止めにするが、わが国の教養深き知識人をもってしてもよく分からないというか、相性がよくないようである。

 もちろん、トランプ氏については2017年1月からの4年間にわたる執政実績があるので、なんとか体系的に分析できているはずだと思うが、たとえばいきなりのTPP離脱などは理屈抜き常識抜きの判断であったといえるし、2020年11月の大統領選挙が盗まれたということで、2021年1月支持者が議会襲撃にいたったのは狼藉、椿事といえるし、そういうことを耽々と見ていられる人物の精神的タフさには驚くほかはないといいたいのであるが、こういった特異ともいえるデータがあるかぎり通常の分析手法は歯が立たないであろう。

 ということから、わが国でのトランプ論もあまりすすんでいないのではないか。考えてみれば、和食の定式で米国料理を評論してみても、面白くはあるが意味はない、時間のむだであろう。米国は米国であって、わが国の視点からみてそれらがいかに不都合であったとしても、それはそれ、そうであることを前提にこちらは対応していくことにならざるをえないのである。つまり現実は同盟国や友好国がふりまわされ、ずいぶんと翻弄された挙句の景色を「アメリカファースト」と表現するのであれば、同盟とか友好が成立するべくもなく、そもそもの文法自体がつうじないといえる。そういう意味では共和党がうけいれたことがはじまりであって、選挙を背負っている人たちは案外もろかったという事実はわが国でも同様であって、他人事ではないということであろう。

3.日米関係は「是々非々」か「任怨分謗」か 

 そういえばこの欄で何年かまえに、日米関係にのぞむわが国の姿勢を「任怨分謗(にんえんぶんぼう)」的か、あるいは「是々非々」的かと小難しい問題提起をしたことがあった。提起の趣旨は、軍事同盟には尋常ならざる覚悟がいるのであって、とくに現行の日米安保条約(同盟)のような大綱において片務的である関係では、何らかの形で心理的均衡が求められるもので、具体的には日本側の決意をカウンターウェイトとして準備するひつようがあるといえる。という設定で、そのカウンターウェイトとしての決意について「任怨分謗」と「是々非々」とを二択として提起してみたのである。まあ、素人の提起であるからイージーに受けとめてもらいたいのであるが、一般論として軍事同盟の基底には、たとえば「是々非々」という姿勢が可能であるのかという本質的な問いかけがあるのだろう。とくに、「こういう状況なのでやむなく」というロジックが好きで好きでたまらない政治家は、「きめたのは自分ではない、状況がきめたのである」という屁理屈をもちいることによって責任回避をはかるのである。

 おそらく決めたくないという心理機制が働いていると思われる。また、政治家のあいだでも「なんでお前が決めるのか」という相互牽制が働くようであるから、状況による自動決定というのはそれぞれの責任を希薄化し関係者を楽にする妙法であるが、それによって生みだされる無責任状況がさまざまな弊害を生むことは古くからよく知られている。とりわけ人の生死に直結する軍事においては無責任体制は犠牲を増長し、敗北の原因となることから忌むべきであって、ために意思決定プロセスと責任の所在は明確にされなければならないのである。

 「もちろん、最後は日本側の判断ですが、」という識者の蚊の鳴くようないいわけがほんとうに通用するのか、つまり日米の力関係といった話ではなく、日米が共同して引き金を引く状況にむきあわなければならない事態において、日本政府が主体的に判断できるのかという設問なのである。ここでの前提はゼロリスクはないということで、はっきりいって軍人隊員をふくめ自国民の犠牲は不可避という状況での決断となる。

 だから、わが国の政治家がその任にたえられるのかと真剣に問わなければならない。人の問題ではなく、政治のしくみの問題であり、また政治家に問うということはその支持者に問うことであり、究極は国民に問うことである。もちろん事情あるいは状況にもよるといえるが、有事という言葉を発明したまでは多とするのだが、しかし戦時という言葉がつづいていないのである。国として戦時概念を欠いているのに何が有事なのかと、ときどき思うのである。

 そのぐらい「是々非々」はむつかしいというよりも困難なことなのである。とくに、都度の判断で間にあうのかが最大の難問であろう。基本はサイコロが投じられる前に決めなければならない。それを目がでるのを待つということでは有事ということの意味が分かっていないということではないか。サイコロの目が明らかになった時に打つ手がなければギブアップで、それは「是非におよばず」ということにひとしく本能寺の信長と同じことである。したがって、「是々非々」路線は時として「是非におよばず」路線に転落するのである。

 また、間にあっても間に合わなくとも、いずれにせよ責任を引き受ける立場がひつようなのであるが、わが国の政治家がその任に堪えられるのか。日米同盟の深化は政治家の責任の深化であるともいえる。

4.軍事同盟の基本は自国民への責任を全うすることであるが、同盟への国民の信頼がひつようである

 さて、そういった議論をつづけていると、おそらく米国(米軍)追従におちいるとの批判がさっそくでてくると思われる。これは対米追従外交といった伝統的な批判を看板にかかげる政党の主張をベースに、その連想において「追従対応」との批判が生じると思われるが、この論には無理がある。どこが無理かといえば、自分の頭で考えかつ自国民への責任がまっとうできなければ軍事同盟は成立しないのであるから、この場合米国の方から「責任ある対応」を求めてくるであろう。つまり、野党の一部が主張している追従型では国民の信認が形成できえないとの理由で日米共同の軍事行動など危なっかしくて、おそらく踏み切れないということであろう。いいかえれば、現下の条約関係では日本国民の米国(米軍)への信頼が高くなければ、日本の防衛は完結できないという構造なのである。これはあくまで、米国(米軍)の立場からの視点である。だから、日米安保条約を不承認とする政治的立場でいえば、「日米安保反対」「共同軍事行動反対」の世論形成に動くことが合理的といえるのであるが、残念なことにこの方向は地政学的にいえば中ロ朝の利益に重なるもので、少数野党としては厳しい立場におかれる可能性がある。少数意見の尊重ということは簡単ではあるが、問われるものがあると思う。

 そういった有事から戦時にいたる確率はけっして高いものではなく、とうぜん政治的にも回避行動がとられることから一般論としては最悪の事態は避けられると想定されているが、人びとの心配はモヤモヤしながらもほんとうに回避できるのかというところにあり、国政選挙にも微妙な影響をあたえると思われる。もしこの伏線がなければ、立憲民主党を中軸とする野党に人びとの支持がもっと集中すると思われるが、現実はそうはなっていないのであって、その理由のひとつが日米同盟(共同行動)に水をさすことは非現実的であり国益に反するとの有権者の判断があるように思えるのである。筆者と同世代のリベラル派にしてみれば、三段とびをはるかにこえた飛躍論法に聞こえるであろうが、1989年の冷戦終了からすでに30年をこえているのであって、この30年間の環境変化だけでも3段以上であるから、安全保障にかかわる議論を変えないのは不思議というよりも化石的であると思うのであるが、政治的には最後のサンクチュアリかもしれない。

 さらにやや強引ではあるが、今日における国民の日米同盟に対する評価は「同盟是認」から「同盟支持」へと大きく変化しており、くわえて約束通り米軍が出動するのかという「履行担保」に関心がうつっている所もみうけられるのである。ということで、反対運動に昔日の勢いはみられない。とくに、ロシアのウクライナ侵略の衝撃は大きく、正直なところ軍事同盟に対しては心配から理解へと大きく変容しているように思えてならないのである。

 という情勢にあるにもかかわらず、国会や永田町の議論はそうとう過去にひっぱられているようで、世界情勢をふまえた緊迫感からは距離のある議論に明け暮れているというのは偏見であろうか。議論は議論として多様であるべきだが、一瞬にして状況が変化することも念頭においた議論もまたひつようであろう。

 今日的には、有事に際してわが国の防衛に出動する自衛隊プラス米軍には、複雑な気分があるにせよ多くの人びとは協力的ではないかと推測している。たとえば、中ロの爆撃機が北部太平洋で共同演習をおこなうことには不快感をおぼえるであろうし、そういったもののすべては威嚇であるのだから、多くの国民は事態は悪い方向にながれているとうけとめていると思われる。

 今後、中ロ朝の接近が顕著になれば、国民の不安がさらに高まることから政党でいえば左派グループへの反感が増長されるかもしれない。立憲民主党としてはやはり予防的に対応するひつようがあるのではないか、つまり分水嶺かもしれないということである。

5.米軍は現在最強の軍隊であるが、その強さは経験とくに失敗の検証から生じていると思われる

 ところで、現在米軍が世界において圧倒的である理由は、核をふくむ現有装備や指揮系統、情報力などさまざまな分野で優越なポジションにあるということであるが、なかでも重要なのは実戦経験でありとくに失敗経験であろう。とりわけ先進国の中でこれほど戦いつづけてきた軍隊はほかに例をみない。さらにいえば類例のないぐらいの失敗を重ねているし、多くの問題が政治がかかわる分野で生じているともいえるのである。そして、それが世界の各地において、いまだに怨みとして残っているし、さらになお謗りをうけているのである。すなわち負の遺産をかかえているといえる。 

 しかし、その失敗経験が徹底的に内部検証されたうえで、政治と軍事がかさなる分野におけるあらたな資産として活用されているのも事実であろう。もちろんこの見方は筆者の私見であって、山のような失敗事例が活用されないはずがないという推測をベースにした議論であることはあらかじめ断っておきたい。

 さて、戦時における経験という資産は簡単には入手できない。ちなみにわが国にはそういった概念すら存在しないわけで、それはわが国では平和が長らく維持されてきたという意味で僥倖といっていいのであるが、反面戦時を深く知ることによる積極的な平和構築という面では、幸いながらも経験資産は乏しいといえるのである。

 その点米国には莫大な経験資産があり、軍事の多くは経験知であるから、その膨大なストックをみれば米国と米軍を凌駕する勢力がこれから先においても出現することはないと確信をもっていえるのである。そして、その経験からみちびかれた知見のひとつが、国民の強い支持のないオペレーションはいずれ破綻するということであると思われる。逆にいえば、条件をみたさない国との同盟については深化させない、させられないという考えであるのではないかと、あくまで推測ではあるが遠くから眺めていると、えられるものがあると個人的はとらえている。

 昨今、日米に韓をくわえた連携強化の方向での指揮命令系統の整備がすすんでいるが、そういった整備については東アジアでの緊張の高まりが原因であり、同時にわが国の国民意識が安全保障面において現実主義に遷移したことも、その流れを加速させていると思われる。

 これはあくまで米側にたった判断であり、たとえば日米同盟の深化が日本における左派グループへの政権交代につながるということであれば、日本の政治情勢への影響付与になることから、同盟深化について微細な調整をおこなうひつようがあると思われる。つまり、何のために日韓に防衛ラインを敷いているのかという本質議論にも火がつきかねないのであるから、粗雑な議論は禁物であろう。たとえば、米軍撤退論が思いつきであれひとたび方針化されれば、対抗国にミスリードの危険が生じるわけで、米軍撤退は力の空白そのものになることから、ウクライナ型の侵略を誘発する可能性を高めるだけであろう。

 つまり、国内経済において窮地にある中国共産党にとって千載一遇の好機と思える状況をつくることは愚策というよりも終了1分前のオウンゴールにひとしいといえる。

6.進む安全保障の自己責任化のなかで軍事同盟の有用性を考える時代

 今日、米軍は世界最強の軍隊であるが、ウクライナには派兵されなかった。個別の事情があることから、それをもっての定式化はできないが、俯瞰すれば大規模派兵の時代はおわりつつあるということで、軍事同盟の外では安全保障の自己責任化がすすんでいるともいえる。武器弾薬の供与などはともかく、出血については当事国が背負うということであるから、たとえばウクライナの地はウクライナ人の血でまもるという原則が現実化しつつある。そういう意味では軍事同盟の価値について、平和憲法に気にとめながらも、わが国の人びとの中に新たな気づきが生まれているように感じられるのである。つまり、従来のように理屈として9条の陰に隠れることが現実問題としてむつかしくなっているという実感があるのではないかと思う。

 そして、そのことを端的に表現すれば、軍事同盟の有用性についての肯定であって、であれば最強の国との同盟に勝るものはないというしごく分かりやすい理屈なのである。現実主義であり実利主義であって、じつにクレバーな判断といえる。このあたりが、70年安保世代が大きく後れをとるところであろう。もちろん、個人の価値体系は尊重されるべきものとしても、政治的には多数が支えられる価値体系に集約されるということであろう。

 また、軍事にかぎらず同盟的ネットワーク時代であることから、人びとの価値体系に即した政治理念や政策の提起をすすめないと、政党があるいは野党が人びとから最もはなれた存在になるかもしれないのである。少数者としての政治的存在は尊重されるが、国の方針は多数派に収れんされるということである。

7.米国の行為が原因で、わが国が怨みをかい、謗りをうけることをどう考えるのか 

 さて、「任怨分謗」であるが、自らの行為が原因で怨みをかったり、いつまでもそのことについての謗りをうけることはよくあることで、その因果関係は明白といえる。

 そこで、筆者が引用している「任怨分謗」の肝は、米国の行為が原因でわが国が怨みをかい、謗りをうけることについてどのように考えるのかということである。これは因果関係でいえば理不尽なことであるが、軍事同盟においてはたまに起こることである。いいかえれば、米国の外交あるいは軍事行動において発生した怨みをわが国として任じ、非難ごうごうの謗りをわが国も連帯して分かつことができるのか、あるいはそうすることが妥当であるのか、さらに国内の理解がえられるのか、などなどについて事前に肚をきめておくべきだという趣旨である。

 原則をいえば、是は是、非は非ということであるが、時と所をえらばずに事態がおこるのであるから、状況によっては是々非々という対応がむつかしくなる場合もありうるのである。

 だから、気にいらなければただちに同盟解消にいたるのか、ということであるが、現実はその程度のことで同盟解消とは大げさなという声が大きくなると思われる。では同盟解消とはどの程度のことを理由に実現できるのかについて、あらかじめ答えられるのかといえば、常識的にはそういうことにはならないのである。要するに必要性がゼロにならないかぎり解消の事由がないと考えるべきなのである。とくに、自国防衛の足らざるを米国に委ねている構造を考えれば、核兵器の位置づけもふくめて、わが国からの解消はまず考えられないというべきで、さらに米中間に位置する米国の橋頭保としてのわが国の地政学上の価値を考えれば当分というよりも半永久的という言葉をつかったほうが意味としてはあたっているといえる。

 ところで、怨みと謗りは偶発的に発生するかもしれないし、企図されたものかもしれない。あるいは政治戦として発現することもありうると思われる。

 ということは、わが国の世論の性格上潔癖を求めるあまり大局をみうしなう嫌いがあることから、またそのことを原因として反対運動あるいは反基地運動が政治運動と連動しながら盛りあがることが想定されるが、それはそれとして一部の国民の不満という文脈の中でうまく回収できるのかがきわめて微妙な政治マターとなる可能性が高いのである。

 このこと、あるいは類似のことに関する議論は現在のところ生煮えというよりも下ごしらえ段階にあると思われる。また、日米安保を否定する反対者がなりをひそめているのは、安全保障についての国民意識が右傾化ではなく現実主義へと遷移していると反対者たちもつよく感じているからであろう。また、東アジアの緊張の高まりの原因が中・朝にあることは、わが国においてはまぎれもない事実として認識されているので、たとえば「平和安全法制反対闘争」の系譜では説得性に欠けるもので、運動への支持は漸減の方向にあるといえる。

 くわえて、文脈上決して無視できないのが、ウクライナでの戦術核兵器の使用をプーチン大統領がいくたびかほのめかしたことであろう。この問題は後世の考察、評価にまかせるべき事柄ではあるが、経過からいって戦術核であればこそ通常兵器戦への抑止効果をもっていることが実証されたと筆者などは思ってしまうのであるが、核使用は困難との予断は半分は正しく、半分は間違っていたといえるのではないか。侵略開始以来30か月をこえるのにいまだにロシア領内軍事拠点への攻撃に制限的なのはわずかな確率であっても核使用への懸念があるからであって、プーチン大統領の思わせ発言がそうさせていると考えるのが合理的であると思われる。

 非常に残念なことではあるが、世界は核兵器を前提とした安全保障の方向へ一歩を踏みだしたのではないかと思われる。そういう意味では北朝鮮の最高首脳が固執した核保有が国際政治上は有効というよりもまさに急所であったと現実問題としてそう受けとめざるをえないのである。決して認めることのできないことではあるが、事実として核あり核なしが安全保障上の決定的区分となりつつある今日、わが国のような非保有国はどこから議論を始めるべきなのか。たとえば、かつての9条をめぐる激論がすぐれて牧歌的であったと思えるほど、事態は急速に変容しているといえるのである。

 さて、わが国が何よりも深刻なのは、中国とは海域において対抗的関係にあり、またロシアとは平和条約がなく、日常的にわが国の北方域が浸潤されているのである。さらに北朝鮮の核保有に一国としては有効な対抗策を見いだせないのであるから、わが国の安全は常時不安定であるといえるのである。しかし、不安定ではあるが人びとの間ではある種の安心感があるのも事実で、その大本が日米同盟にあることは衆目の一致するところであろう。そして、この感覚は普遍的でさえある。政治家が考えている以上に、国民の安全保障上の対米依存がさらにすすむであろう近未来におけるわが国の政治課題とは何であろうか。核の傘がもつ拡大抑止力に依存せざるをえない、しかもそれは効果的であるという認識だけでいいのか。さらに、水がしみ出るように核保有国が漸増していく可能性があることから、事実上核拡散が常態化した時への対応について、とくに野党としてどんな政策提起ができるのであろうか、という視点でいえば、さすがに与党も野党もみんなくたびれているのではないかと思う。くたびれたのであればともに総入れかえが妥当なところであろう。

 ところで、米国が中ロ朝への対抗政策を強化していることが、東アジアを緊張の海に追いこんでいるという認識が、米国のリアクションという文脈を前提に一般化しているのも事実である。

 結論的にいえば、精神としてではあるが、軍事同盟は「是々非々」的対応や「追従」的対応では不安定化しやすく、その有用性そのものを毀損してしまう危険があるといえる。したがって同盟の本来の有用性を求めるならば「任怨分謗」的対応に徹しなければ意義ある成果をえることはできないと筆者は考えている。ということが受けいれられないのであれば、非同盟の9条路線を追求するしかないであろう。おそらく、都合の良いスタンスは見つからないと思うが、選択肢を用意する過程もふくめ国民の選択にゆだねるべきものである。

 とはいっても、「任怨分謗」に値しない事態が生じたときの対応など相手があることから悩みは尽きないということであろう。

8.中国の戦浪外交は失敗?外交の再構築がひつようと思われる

 このような状況にあっても、中・朝ともに米以外の関係国を一段低くあつかう伝統的な硬直外交から抜けだせずにいることが、中・朝の外交を停滞させているというのが実態であろう。

 中国において、たとえば2017年あたりから浮上してきた戦狼外交などはほとんど夜郎自大そのものであり、外交術としても語るに落ちる内実であるといえる。日本はじめ周辺国は狼と折衝する気はないのであるから、基本的な外交姿勢を整えるひつようがあるということであろう。高圧的な外交官の発言、Covid-19への対応、また債務の罠などによって中国のブランド価値は全面安といえるし、そのことが米国による対中制裁の正当性を逆に裏打ちしているとさえいえる。

 外交を国内向けのパフォーマンスの場に使うことは結局のところ避けられないとしても、重要な場面では中国としての誠実性を演出してほしいものである。でなければ、世論調査での好感度がきわめて低い、たとえば10パーセント台というレベルでは対中政策の緩和を提案する気にはなれないというのがわが国の大勢であろう。中国との関係改善にとりくむべきという意見も少なからず存在するのだから、ここは中国として努力すべきではないかと思う。自国の有権者にきらわれてでも中国のためにという国会議員はいない。

 このような、中国にとってネガティブともいえる情勢をうけ、2021年5月に党中央委員会政治局に対し、習近平総書記が「信頼され、愛され、尊敬される中国」となるようイメージの向上を求めた。が、それでどうなったのかは分からない。指示するだけで済む問題とも思えないのであるが、このあたりを観察してみても、いま自分たちがどこにいるのかが分からないという、すなわち見当識を失いつつあるのではないか、と心配しはじめている。

9.立憲民主党の代表選のテーマは?党はいま分水嶺にある

 さて、国内である。緊張感が足りないというべきであろう。わが国の自民党の総裁選挙あるいは立憲民主党の代表選挙が8月から9月にかけて山場をむかえ、政局の目玉になるということであるが、失礼ながら低調のままであると予想している。

 両党とも現職が自ら降りる可能性は今のところないといえる。20人の推薦人があつまらなければ仕方がないといえるが、そうなればそれはそれで事件といえる。

 立憲民主党についていえば、泉氏の資質について疑問をとなえるベテラン議員の声が党内に波紋をひろげている。しかし、そういった疑問なり指摘は今にはじまったことではなく、2021年11月の代表選挙の時点で、ある程度おりこまれていたのではないかと思っている。だからじっくり時間をかけて政権をになえる政党に成長しようということが、若い代表をえらぶ最大の動機であったというのが筆者の解釈である。ということで、立憲民主党の議員一人ひとりがこの3年の間に、どういう努力をしてきたのかを聞いてみたいものである。(わが国の民主政治にとって戦略的に重要であると考えている政党へのコメントなので幾分きびしくなっていることは断っておきたい。)

 また、泉代表のもとでおこなわれた4月の衆補選は3戦全勝であった。たしかに、自民党の「裏金事件」という追い風にめぐまれたとはいえ、この功績をゼロにすることはできないであろう。

 そこで、きたるべき総選挙にのぞむ選挙の顔として不適当だとか、また政権を奪取したときの首班候補としていかがなものかといった声が長老議員やべテラン議員を中心に党内に広がっていると伝えられているが、これらに対しては発想が逆立ちしているとしかいいようがないのである。

 たしかに、有権者の期待として政権交代をのぞむ声があることは世論調査でしめされている。しかし、立憲民主党がその期待の主たる対象であるのかは今のところ不明である。はっきりいって、立憲民主党の基本政策や政治手法への不支持も多いことから、政権政党への道程は簡単なものではないと思われる。

 また、泉氏がダメなら誰が適当なのかという問いに答えがあるのか。代表選に手をあげれば、選挙の顔としてまた首班候補としてただちに受けいれられるのかといえば、それは違うと大合唱がおこるわけで、泉氏が適格であるのかどうかという問題以前に、そんな人はいないのではないかとの疑問が生じるわけで、くわえてこの3年間「君はいったい何をしていたのか」という問いかけに答えられないのであれば、手をあげる資格に欠けるといえる。

 野党間の選挙協力も大事ではあるが、まずは基本政策の議論を党内でこなさなければ連立政権は無理ということであろう。なぜ基本政策の議論が刷新の方向にうごかなかったのかという疑問も支援者のなかにはうず巻いているのである。同様に反対論も多く、若い党首にとってむつかしい状況であったと思われる。ということをふまえながらも、勘ぐれば「若い代表にいい仕事をさせない」という党内ベクトルが働いていたのではないかというつぶやきも聞こえてくるのである。失礼ながらこのあたりがウヤムヤになっている間は支持率は上がらないのではないか、と思っている。逆に、整理がつけば支持率が上がる可能性があるともいえるわけで、そういう意味では代表選挙が重要な節目であることは確かであろう。(すくなくない確率で連立政権を主宰しなければならなくなると考えているが、現在の野党をベースにしたのでは挫折する可能性が高いので、自公との重畳大連立も考えられるが、参議院の議席構成を考えれば自民主導にながれると思われる。)

10.自民党の総裁選は低支持率に翻弄されているのではないか

 さて、自民党総裁選挙である。筆者はかねてから岸田氏の再選の可能性についてはやや肯定的であった。この点、メディアをはじめ多数の評論家が再選ゼロに近い立場であったから、いわば少数派である。そのことは措き、総裁選が激しくたたかわれるための前提は、挑戦者に人をえることであるから、総裁選の前月である8月段階で強力な挑戦者が見えてこないということは岸田氏の時間切れ続投が第一シナリオになりつつあると推察してよいのではないかと、岸田氏に続投意欲があることを前提に、予想しているのである。

 今回、内閣支持率の低迷が話を分かりにくくしている。理屈がながくなることを断ったうえでつづけるが、これだけ低い支持率が長期化すると「ちかいうちに世論によって岸田氏は退場せざるをえなくなる」と多くの人が思いこみ、その思いこみを前提にしたやりとりなどが蓄積・常態化したことから、不確かなシナリオがまことしやかにネット空間に拡散され、嫌岸田政権的空間が出現したのである。こういった現象はよくあることだと筆者は受けとめているが、たとえば故安倍晋三氏の場合はアンチ空間に対抗する親安倍空間も存在していて、それなりに均衡していたといえる。岸田氏の場合は親岸田空間が矮小でありそうとうに押されていたことから、「ダメな岸田政権」といったレッテル貼りが拡散していったとうけとめている。「ダメな岸田政権」の根拠はいずれの場合も局所指摘であり政策評価としては公平さに欠けることが多かったと思っている。

 問題はこの状態が、毎回の支持率の調査に濾過されることなくフィードバックされ、さらに固着していったことであろう。

 こういった問題については弊欄でもいく度か指摘してきたが、政治的には中道右派である筆者においてさえ、そういった岸田政権に対する政策評価には程度をこえる確証バイアスがかかっていたのではないかと疑わざるをえなかったのである。もちろん、歴代政権においても強弱はあったがメディアあるいはネット空間ではそういった傾向は普通にあったといえることから、程度の問題であったといえる。

 また、日刊紙等も商業性を有することから、見出しや特集記事の味付けを工夫するうえでどちらかといえば読者の気をひく方向にながれていたことが多かったと思われる。筆者は「辛口の蓄積効果」が多少なりとも低支持率に影響していたと感じている。

 そういった世論環境から岸田氏の退場が既定路線のように錯覚されたのではないかと仮にピン止めしたうえで、意外に聞こえるかもしれないが、この近いうちに退場せざるをえないという錯覚が、世代交代によるべき党内権力闘争が変調した、すなわち挑戦者の怠慢をまねいたのではないかという2段目の仮説が浮かびあがってくるのである。

 そもそも、支持率が低いから退陣しなければならないという理屈は永田町にはない。とくに、本格的な保守を標榜する政党としてはポピュリズムそのものである支持率の軍門に降ることはあってはならないことであり、政治の根幹にかかわることなのである。たとえば、「不人気政策であってもひつようであれば断行すべきである」という考え方を否定すべきではないと多くの人は思っているのだから、支持率至上主義的な言説には選択的に対応されているのではないかと思っている。

 ようするに、本格的な「王追放」が画策され、かつそれが実行されなければ最高権力者の退場は実現しないのである。だから、権力闘争のすさまじさをわすれ、「必然として岸田政権は自壊する、なぜなら低支持率だから」との集団的思いこみから挑戦者たちがたたかいの準備を怠ってしまったということであろう。たたかいは昨年から周到に準備されなければならなかったのに、「裏金事件」のためか党内情勢が流動化し、着手できなかったことも原因であったと思われる。ともかく低支持率に幻惑され、党内での命がけの挑戦を決断できなかっただけの話であったと思う。

 そこで、端的にいって総裁選挙を来月にひかえた8月というギリギリの時期であるのに主たる挑戦者が不明であるという「ぬるま湯空間」が出現しているのである。まるで絵に画いた柿に対して熟柿作戦にでているようでまったく珍妙な景色である。とりわけ総裁選は「裏金事件」を真摯に受けとめ一段と党内改革をすすめることを確認し国民に約束する場としてきわめて重要であることから、密度の高い論争がもとめられる。しかし現状は、党全体としても緊張感をうしない弛緩しているように思われる。これが岸田氏にとっての低支持率の逆説的効用といえるのであろうか。

 そもそも、安倍派が総崩れのなかで現職への挑戦がありえるのかというスタートラインでの問いかけがあったのに、井戸端会議レベルでお茶を濁しつづけたわけで、ある意味国民を愚弄しているといえるのではないか。もっとも、そういう支持率至上主義ともいえる空気をつくったのはメディアあるいはネット空間であるから、なんともいいようがないのであるが。

 もちろん、8月中旬から急速にもりあがる可能性があるにしても、20人の推薦人をあつめるのは若手にとっては苦労するところで相当な根回しあるいは実力長老の後押しがひつようであろう。そういう点においても遅れているのではないか。とくに、これから3年間のかじ取りについて国民への提起がなければ、総裁即総理という関係を考えれば無責任といわれるであろう。

 ダラダラしているうちに、挑戦者がタイミングを失い時間切れになり、無投票ではかっこがつかないからお試し的に出馬させる、ということでは「ひどすぎる」ということであろう。何のことはない続投へのつゆ払いであって、挑戦者なき総裁選では新たな批判をまねくことになるであろう。

続投にしても、新総裁にしても想像以上に困難な道であろう、野党の覚悟も

 ところで、続投ということであれば低支持率がつづくと思われるので、年内の解散はオウンゴール的であるからやらない方がいいといえる。つまり、やれない状況がつづくのである。では来年はどうか。支持率の改善はむつかしいので、可能性があるのが衆参同時あるいは同時期選挙であろう。10月の任期満了では敗走感がにじむ不本意ながらの選挙となり、党内での忌避感が強い。ということで、総選挙の時期はどうしても窮屈になる。また、都議選もあるし、岸田氏の続投では打つ手がかぎられると思われる。そのうえ、負ければ全責任を押しつけられ引責辞任となるのだから分のいい話ではないということである。正直なところおすすめできないのだが、ごまめの声は届かない。

 

 では新総裁だとどうなるのか。支持率が急騰すれば年内解散の一本勝負であろう。ただし、問題は誰なのかということと党内基盤の確立であろう。穏当な道は岸田氏からの禅譲なのだが、どこまでいっても党内結集をはかれる人ということで、仕込むにしても時間切れとなる怖れが高い。

 さらに、新総裁が臨む総選挙はうまくいっても単独過半数われの可能性が髙く、せっかく総裁総理になってもあとがつづかないかもしれないのであるから、ハイリスクなのである。だから、あえて手をあげることもないというのが挑戦者の本音かもしれない。それよりも来るかもしれない野党時代の過ごし方が勝負と考えている中堅どころが多いのではないかと思っている。

 低調なのはそういう事情もあることと選挙の顔としての総裁願望がなえてしまったからであろう。選挙の顔として云々は国民からいえば自己中心が過ぎるということで、もともと勝手な話であった。選挙に自信がない議員の軽挙ともいえる。ようやく、目が覚めたのであろうか、総裁は国民のための総裁でもあるのだ。

 続投にしても、新総裁になったとしても、自民党としては当面きびしい環境であることは変わらないから、地道に選挙区をまわることしかないと思う。淘汰の季節、雌伏の時といえる。

◇魚狩る鵜 羽をゆるめて 猛暑かな

注)用語、誤字、脱字など一部修正。(2024年8月8日15時)

恫喝→威嚇に変更。(2024年8月9日15時)

加藤敏幸