遅牛早牛

時事雑考、「2024年8月の政局-岸田氏不出馬で波乱よぶ総裁選-」

1.岸田氏、総裁選不出馬で条件が大きく変化

「岸田氏、総裁選不出馬!」8月14日11時30分のことであった。前回の弊欄では「総裁選の前月である8月段階で強力な挑戦者が見えてこないということは岸田氏の時間切れ続投が第一シナリオになりつつある、、。」と、また「岸田氏の続投では打つ手がかぎられると思われる。そのうえ、負ければ全責任を押しつけられ引責辞任となるのだから、、。正直なところおすすめできない、、。」と記した。

 選挙の予想は評論の対象ではないが、それがないと面白くないのである。今回は、筆者をふくめ多くの人が外したわけで、まあ意表を衝かれたということである。

 岸田氏続投には盟友も友党もまた側近も表だって反対はしなかったが、なにかしら気分がのらなかったということで、空気がわるかったといえる。というのも、どう考えても総選挙の勝パターンがでてこないのだから、岸田氏続投には意味も価値もないということで、ぎりぎりのタイミングでの不出馬表明になったということであろう。

 正直なところ思考の連続性に支離滅裂感がないわけではないが、最高権力を手放すという決断であるから、結論としてはそれでいいのではないかと思う。

 ということで、さてこれからどうなるのかと思いをめぐらせながらも、正直なところ困った感がひろがっているのである。いいたくないけど、メディアで騒がれただけの、すこしも準備ができていない人が総理総裁になるようではこの国の行く末が思いやられる。

 とはいっても、自民党の総裁選挙は世論の圧力をうけながらも、決めるのは自民党であるから、さいごは党内事情で決まると予想すべきであろう。弊欄ではいく度となく紹介してきた「一選、二金、三党、四理、五政(いちせんにきんさんとうしりごせい)」が、全員とはいわないが過半の国会議員の内心ではなかろうかという筆者の仮説を再掲するまでもなく、総裁選における議員行動のさいごの決め手は「本人(じぶん)の再選」への利用価値であると推察しているのである。これは内心の問題であって、けっして非難しているのではない、実相を指摘しているだけであって、もちろん良い悪いでもなく普通選挙をベースにした民主政治がもつ本質的な「現象(あらわれ)」であるというのが筆者の考えである。

 たとえば妄想的ではあるが、何らかの方法で4回目の当選を確定された議員の3期目の仕事ぶりは刮目すべきものになると思われる。そうでないケースが生じるかもしれないが、それはコストであって、選挙から解放された議員が当初の志を思いおこし、今一度挑戦してみようと奮いたつ環境を用意することが、現状の有権者のもやもやした気持ちを解消できる理想的な状況をうみだすのではないかと長らく考えてきたのであるが、実現性はきわめて低いといえる。

 であるのになお強引に記しているのは、現在政治改革にかかわる多くの批判や提言が政治家(多くは国会議員であるが)の能力や意欲など属人的要素に集中しすぎていると懸念しているからで、そもそも環境が変わらないのに行動が変わるはずがないというのが筆者の人間観である。

 ということで、人びとが期待している役割を政治家が直にうけとめ実践しその成果をあげるためには、有権者が積極的にそのための環境整備をはかっていくべきではないか、むしろそのように努力すべきではないかという提言である。スーパーマンではない政治家に、スーパーマンであれと求めるのは酷なことであるし、同時にムダであるといえる。

 そもそも民主政治における選ばれる側と選ぶ側との役割分担のあり方については、選ばれる側には百の注文があるのに選ぶ側には棄権するなのひと言というのはあまりにもバランスが悪いではないか。政治家に期待するのは善意のエネルギーであるが、荒野を100メートル10秒以下で走れといわれてもほとんど無理であって、そういう無理な期待をしてみても意味がないから、むしろ期待する前に整地でもしたらどうですかということである。

 表むきはともかく、新総裁新総理によって年内の解散総選挙をのりきり自公連立政権を維持していくというのが自民党議員の一等の本音ではないか。党内改革とか政治改革はそのための方便であって、「ぶっこわす」とまでいっておきながら、自民党は変わらなかったことをふと思いだし、次のレトリックはなにかしらというのが世間のうけとめであろう。

 だからあえていえば、新総裁が「選挙の顔」になるにしても、「選挙の顔」で選ぶというのはまるっきりの間違いではないが、操り人形風で有権者をバカにしていると思う。党員ではない有権者の多くは政治と金、とりわけ裏金についてはどういう始末をつけたのかと疑問に思っているだろうし、岸田氏の総裁選不出馬で一件落着とは考えていないので、世間の関心はそこに集中すると思われる。

 という有権者の視点を大切にするのであれば、まずは今回の総裁選の性格をしっかりと定義しておかないと、号砲一発の自由競争ではしまりのないお祭り選挙に堕し、生徒会長選挙をめぐる学園ドラマ風になるのではないかと思われる。すでにバラエティ番組や報道番組ではそういったストーリを予見させる動きがみられるが、「政治不信」を再定着させるような興味本位の報道はやめるべきである。といっても、視聴率がからむと節操がなくなるから、「おもろうてやがて白ける総裁選」ということになるであろう。

 党内のことではあるが、この総裁選が重要であることはまちがいない。がそれ以上に深刻な側面がある。深刻というのは今回が納得できなければ「仕方がない、つぎを待とう」ということにはならない、自民党にとって次はないということである。つまり、有権者としてはリスクがあっても本格的な政権交代にとりくまなければこの国は危ないとマジで思っているのである。

 なんといっても天下の宰相えらびである。しかし、それにしては深沈さというか重みが足りないと思う。ひらかれた総裁選が最適解をうみだせるかどうかはやってみなければ分からないわけで、老舗政党である自民党として本当に再生をかけたものになるのか、たしかに興味深くはある。

 そこで筆者としては「政治不信」の現状には有権者の側にも多くの課題があると考えている。つまり、時として真摯にみまもるべきと思う。ということで、とりあえずといえば失礼とは思うが、あえてとりあえず100点は無理としても方便としてせめて60点ぐらいは期待したいものである。

2.「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

 それにしても、「自民党が変わることを示す最初の一歩は私が身を引くこと」とは、なかなかの文句ではないか。あたりまえのように批判や嫌味を報じつづけている新聞社においてさえ、かような言辞があっただろうか、また貶(けな)すだけが能ではないともいいたい気分である。

 さて、どなた様でもない「私が」に強勢をおけば、問題を構成していた重要パーツが「岸田文雄」であったという世論に即した認識は内閣支持率的には正しいといえる。さらに「身を引く」決断は暴走宰相のいい面がでたということで、「何を今さら」ではあるが誰しも文句はいえまい。ただし、岸田政権の特徴は暴走性と中途半端が表裏一体となっているところにあることから、「自民党が変わる」ことをめざす総裁選となるように現総裁としても指導性を発揮しなければ「口先だけ」でおわることになるだろう。それ以上に節度のない総裁選びにならないように歯止めぐらいは用意したら、ということである。

 ということで、総裁選の流路をほどよくととのえる役割が必須であるのだが、派閥は半壊状態だからさてどうするのか。改革をめざす総裁選として体質改善の実をあげることと、総裁として最適な人を選ぶことの二つの目的を同時に達成するのは至難の業であるのだから、党員はじめ総裁選に参加するすべての人が自身の問題として汗を流さなければ目的達成とはいかないであろう。

 正直なところ、「そういう政党にしたのはあなたたち党員の皆さんでしょう」とはいいきれない事情があることは重々承知のことではあるが、得票率以上に議席がえられる選挙制度にあぐらをかいているとの自覚はそもそも持ちあわせていないことは分かってはいるが、現実問題として与党サイドのうまみをえていたと推察すれば、「自民党が変わる」ためには党員も支援者も変わらなければならないのではないか、やはり岸田文雄さんだけの問題じゃなかったということである。

裏金を何につかったのか、消えない有権者の疑問がまとわりつく

 たとえば、裏金を何につかったのかという疑問には濃淡があり、もっぱら野党に投票してきた人々はことさらその追求の思いを強くしているだろうし、一方与党をささえてきた人々は現状追認の気分が強いといえるかもしれない。

 かつて、政官財の癒着構造が政府の経済財政政策や予算配分あるいは箇所づけなどをつうじて利益共同体を形成してきたとの批判が噴出し、それが政治改革の中心テーマとなっていた時代があったが、それほどの露骨さはないとしても、ある種の利益を介した共生関係はふつうに存在するし、くわえて政治的利害による共存共栄関係は民主主義の原風景のひとつといえるから、公的事業などをめぐる濃密な関係を否定しただけでは問題は解決しないのである。

 党員など党組織をささえる立場と直接に政治活動わけても選挙をささえ実行していく後援会の立場とはほとんど重なっていると思われる。 

 といった組織のどこかに帰属していることが、わが国の政治権力につながっているとの自己認識を形成していると明確にいえるかどうかは筆者には分からないのであるが、常識的にいえば程度の差はあるにせよ、総じていえば権力側という意識はじゅうぶんにあったと思われる。

 といった平板な見方をこえて、たとえば昨年11月から問題化した「裏金事件」に対し地方組織を通じてきびしい反発が出現しているとの報道を耳にしたが、その内容についての詳細は不明であり、110万人をこえる党員が、そういった自民党の体質なり現状をどのように受けとめているのかは来る9月に実施される総裁選のハイライトのひとつといえるし、それが総裁選に多大な影響をおよぼすことは想像に難くないであろう。

 110万人もの党員が一枚岩であるはずはなく、投票は地方ごとにまとめられるとしても、地方、地域、地区によってまた職業や職種あるいは年齢などによってさまざまであることまでは理解のうちであるのだが、全体のボリュームにくらべて表面化しているきびしい意見は僅少であることを考えれば、ブラックボックスではないが空気穴つきの閉鎖空間であると思うのである。したがって、よく分からないし分析につかえるデータも十分ではないことから、自民党の党員が「裏金事件」をどのようにとらえているのかについては現時点では確定できないといえる。

 で、それの何が問題であるのかということについては、通常は100万人をこえるデータはかぎりなく全体像に近似すると推定できるのであるが、しかしこの場合は自民党党員であるから当然意味のある差異を形成していると考えられる。したがって、総裁選でしめされた党員の裏金事件への忌避感と、総選挙における全体の投票傾向での忌避感とがどの程度相関するのかは自民党の党内世論の傾向をさぐるうえで重要なファクターであると考えられるのである。

 つまり、総裁選の結果をもって総選挙をうらなうには危険があり、その危険の程度はまず党員の党改革への問題意識の高さに依る、すなわち反比例すると考えたほうが現実的ではないか。そこで、党員の過半は旧態に甘んじるとしても、そうでない党員においては何が判断基準にされるのかによって、従来とは違う総裁選になるであろうし、それが結果において総選挙とのズレをうみだす要因となるといえる。

 おそらく党内世論もまだまだ固まってはいないわけで、一部の党員は組織防衛を優先するであろうし、他方改革を一気におしすすめようと考える急進派もでてくるであろう。もちろん、党員が所属する総支部の代表者である国会議員の意向もはたらくと思われるが、過去の一回目投票の結果からみえていたのは、地方票には議員とは違った傾向があきらかに存在するということであった。それは、二回目となる決選投票が派閥中心の合従連衡的取引に左右されていたことからも、党員の意向が往々にして反映されないことが多かったといえる。つまり、一回目の党員投票の傾向と決選投票の結果の差異が従来以上におおきいならば、新しい動きが生じると思われるので、来る総選挙がおもしろくなるのではないかと内心楽しみしているのである。

3.派閥半壊で迎える総裁選ははたして「自主投票」なのか、むつかしくなる決選投票

 さて、いよいよ9月には派閥半壊状態でむかえる初めての総裁選がおこなわれる。中間団体である派閥が機能しないことから、推薦人登録もふくめいわゆる「自主投票」になるはずである。そもそも自主投票が標準なのであるから変な話なのであるが、これが簡単なようで何がおこるかが分からない不安がひかえている。

 とくに、候補者が多数になると一回目で決まらないから決選投票の可能性が高い。そこで、2回目となる決選投票ではどういうからくりで多数派工作がされるのかについては、今のところ何も思いうかばないのである。

 そこで、ひつようは発明の母であるという通説に則すれば、政策実現集団としてグループ化が促進される可能性もあるのではないか。候補ごとの推薦人を中心とする、人事をめぐる猟官取引ではなく、あくまで政策を中心とした優先順位といった駆けひきで多数を糾合していくという、手を汚さないプロセスが臨機に採用されることも考えられるであろう。つまり、クリーンプロセスによる政治権力の編成である。

 この駆けひきのできばえ次第で総選挙の帰趨が決するほどの、自民党にとっての宝の山といえるが、議員集団はスタート時点では利他主義的であっても、ゴール付近では利己主義的であるから、甘くはない。また、2012年以降の当選者は選挙については苦労知らずで地獄を見ていないから、権力については総じて詰めが甘い、と決めつけるわけにはいかないが、決めつけなくても経験がなければどうしても甘くなるのである。

「政治資源の分配による支配関係をつかった全体統制の獲得」 

 さらに、総裁のもつ人事権・公認権・資金配分権と、また総理のもつ政務三役をはじめとする政府関係の人事権あるいは広範な権限を背景とした約束ごと(手形)をめぐって、ドロドロの駆けひきがくりひろげられるのである、現実問題として。で、そういうのは先進国をふくめて世界標準であると筆者は理解しているのであるが、このあたりのことは学説があるわけでもなく、そもそもかかわった人がごく少数であることから、また「政治資源の分配による支配関係をつかった全体統制の獲得」という基本式からいえば、派閥政治もその類例だったといえるわけで、そういう文脈において派閥がほぼ機能しえない状況下で、先ほど述べた政治資源の分配から全体統制の獲得までの全プロセスを無事にこなすことができるのかという空前絶後の課題に近々遭遇すると思われるのである。

4.何を約束して支持を取りつけるのか、やはり長老が指南するのか

 事実上総裁選がスタートした昨今、さまざまな見立てが流布されはじめているが、岸田氏の意図が不明であるし、また結果的に破壊してしまった権力編成の骨芽細胞的部分を今日時点で修復することは、派閥復活との批判を受けることからまず困難であろう。

 という状況下で想定される総裁選のハイライトは、主要候補者による政治資源の分配と支持の取り付けであろう。中堅若手のほとんどがそういった機微にふれる密室の取引の経験をもたないことから、指南役として長老議員の参画が求められることになるような気がするのである。早い話が総理経験者にたよらざるをえないということになるであろう。もっともその数は限られていて、ほぼ3人に絞られるのではないかと思う。ということは表舞台ではなく舞台裏での3人の総理経験者による暗闘に注目があつまると思われる。まあ、三つ巴のかけひきのほうがリアルな感じがするのである。

 ということで、自民党として取りくまなければならない重要テーマのひとつである「長老追放」であるが、表現を「無害化」とあらためたうえで簡潔にいえば、頭の良い人は活用したうえで隠居させるいった虫のいいことを思いつくのであるが、活用とは支配をうけることであるから、いつまでたっても「無害化」できないのである。つまり、実需があるかぎり長老はのこりつづけるのである。実需は自信のない中堅・若手がうみだしているのである。

 つぎに「若返り」であるが、操り人形であるうちはどんなに若くても若返りとはいわない。けっして騙されてはいけないのだ。

 また、「刷新」とは表紙ではなく中容のことであるから、党の「目的と手段」を変えなければならない。つまり、過去との遮断ではなく、過去の否定であるから、世上にある「刷新」はほとんど偽物であったし、自民党を「刷新」するとは基本的に新党設立とかわらないといえる。

5.派閥の土留(どどめ)機能がなくなれば、あとは勝ち馬にのるだけであろう

 ところで総裁選の展開であるが、最終は地滑り的であろう。多くの議員の本心は流れにのることであるから、今までは派閥が土留(どどめ)の機能をはたしていたことを考えれば、その土留がなければ地滑りを止めることはできないであろう。また、流れにのるためには勝馬を知ることであるが、おそらく群集心理的に動くと予想される。また、誹謗中傷が日常化しなければいいのにと思っている。

 などと、妄想的シミュレーションをすすめるなかで、残された課題は「国民的人気」をどう取りいれるかであろう。有権者の過半はいわゆる人気者の適性を見抜いている。しかし、有権者の1、2割が人気者による刷新感を求めているとすれば、その期待をはずすことはできない。現在の選挙制度では1、2割の票数が大勢を決するし、自民党の足元の評判がよくないことから無視はできないので、残念ではあるがどうしても、総理にふさわしい人気度ランキングに目がうつるであろう。ということで、人気重視派と伝統的な政治資源分配派との綱引きがつづくのではないかと思われる。

6.総裁選の実態?情報漏洩と人間不信

 現実論をいえば総裁選の大勢がかたまるX日までに、立候補者たちは適切な手形を提示できなければ支持固めは失敗するとの強迫観念に苛まれながら、信じがたいほどの情報漏洩に人間不信になりつつ、票読みに明け暮れる何日間を過ごすであろう。いやな時間であろうが素質のある人にとっては自己を磨き能力を高めていく訓練の場となる。

 ところで、ふりだした手形の約束は守られなければならない。そうでなければ、かならず政局は不安定になり、総選挙の前に党分裂、連立崩壊の政変にみまわれることになる。そういう事態への備えのひとつが派閥領袖による談合政治であったということであるが、長老談合の復活については国民からはひどく不人気であるから考えられないといえる。したがって、いったいわないの混乱もありうるし、それが最大のリスクといえるであろう。

 ここで残念といってしまうと語るに落ちる感じがするのであるが、とりあえず現実主義者の衣をまとい話をすすめれば、派閥のなかの最大派閥がとんでもない不始末をしでかしたのであるから、派閥解消も政局的にはやむをえない処置であったとは思う。また追いつめられた局面を打開するための一手であったが、暴走宰相の悪い面がでたということであろうか。火急の策なので反省することもないということであろうが、わが国の最高権力者の選考を平場だけでやれるのかという疑問をのこし見切り発車したことのつけは重くのしかかってきているといえる。きれいごとはいくらでもいえるが、中間団体なしに調整できるとは思えない。しかし、覆水盆に返らずということでここは組織運営上の知恵すなわち派閥有用論ではない何かあたらしいアイデアを期待するしかないというのが、率直なところ苦しい現実である。

 

7.国際政治では在任期間は長いほうがいい

 ところで、岸田氏続投を予想していた理由のひとつが国際情勢への対応であった。この考えは、筆者をはじめ国内政治を外から俯瞰すべきと考えている立場からのものであり、もちろんバイデン氏が撤退した今日、重要なピースのひとつが欠落したものの、岸田氏の経験と実績を考えれば続投する価値はけっして低くはないのではないか、少なくとも筆者はそのように考えていた。

 国際政治すなわち外交においては、より広くより長くより多くの人との交友を深めながら人望をえていくことが関係力を高めていく王道であると思われる。ということから、各国ともパーティー開催などに余念がないのである。そういう意味では国家の代表者だけでなく政治行政の責任者も国際的によく知られていることがまさしく国益にかなうものといえる。

 たとえば、安倍晋三氏の7年8か月(連続在任期間)については評価に濃淡があるとしても、G7あるいはOECDなどでの存在感は従前とは比較にならないほど高いものであったし、それはわが国の評価に連動していたといえるのである。やはり、長いことはそれなりの産物を生むものであるから、他に特段の事情がないかぎり長いほうがいいと単純に考えているのである。そもそも、外交の場では与野党の対立事項は懐中におさめておくべきものであるから、路線の違いはそれとして外交における人的影響力の形成には在任期間が大きく寄与することは指摘しておきたい。首相が一年程度で交代することが国内政治では有理であったとしても、外交におけるその不毛性を克服することはとんでもなく困難なことなのである。

 すこし外交重視にかたむいているが、もちろん、各国とも国内事情というか国内の論理で政治家を任命しているので、必ずしも在任期間を優先しているとはとてもいいがたいのである。しかし、少なくとも乾いた情報の交換にとどまらず、さらに湿り気のある情報の交換にいたれば外交的には合格といえるであろう。

 とくに、わが国のように資源を国外に依存せざるをえない国にとっては、外交の位置づけを高めることはすぐれて戦略的といえるから、そのためには在任期間の長期化をはかるべしと筆者は考えている。もちろん、そういえば山のように反対意見が押しよせてくると承知はしているが、国内の価値観にこだわっているだけではわが国の発展はない。まずは外部への対応あるいは適応を優先すべきであって、内向きの姿勢は改めるべきであるということではないか。

 とりわけ同盟関係にある米国との関係でさえ、11月の選挙結果を見定めないかぎり確定的にいえることはかぎられているではないか。さらに友好国においてもさまざまな事情なり波動があることから、わが国として視野あるいは視程をつねに外に、そしてより遠くにおくことが重要であるといっているのである。

 さて、海外からみれば先進国として個別課題では赤点も目だつわが国ではあるが、こと政治的安定性においてはとりわけ高い評価があり、逆にいえばやりやすい国であると思われている。それはそれとして、安定はしているが平均的な経済成長からはとり残されていることが、国内では心配の種になっているものの、そのことが日常的な国民の不安に直結しているわけではない。また、国際間の経済比較では長期にわたり低落傾向にあり、それも改善される見込みはたっていないのである。もちろん、そのこと自体は他国にすればどうでもいいことであるから、どの国も衰退する日本を心配しているわけではない。

 というよりも、かつてのような経済的脅威はすでになく、まるで無害化された国という意味で安堵の思いをともなう存在になっているのかもしれない。

 という外からの見た目と、いまだに経済大国という自大意識とのあいだには、想像以上のギャップがあることを明確に認識すべきであろう。

内閣支持率至上主義というポピュリズム病を克服しなければ思考停止になる

 思うにこの2年あまりの間、私たちは内閣支持率だけが気になるポピュリズム病に罹患したまま、砂漠のダチョウが穴に頭を突っこみ難をのがれる姿に似た、支持率だけをたよりの政治評価に頭を突っこんだまま周囲の現実をみることなくいたずらに時間をムダにしてきたのではないだろうか。

 本来何が問題であるのかということをリアルに追求し明示化していくのがジャーナリズムであるのに、解散総選挙と政権誹謗に焦点をあわせた報道による強引な誘導はそうとうに世論をゆがめてきたといえる。岸田氏のこのタイミングでの不出馬宣言については多面的に語られるべきではあるが、一部にある種の意趣返しがあるのではないかと思ったりしている。

 もしここで、「無能化した政治と政治そのものの劣化」といってしまえば無条件に形をととのえた言説のようであるが、ではそういう政治に対し私たちは何をしてきたのかと匕首(あいくち)をさしこむように痛烈な自問をつづけなければならないのではないかと思う。

8.敢然と立ち向かうことなく、不出馬を待ちつづけたいい子が権力者になれるのか、甘すぎることが自民党人材の大問題である

 象徴的にいえば「王殺し」のまえに王に引退されたというか逃げられたのであるから、これでは時代の画期はおこらないのではないか。筆者には、今日総裁選にでるのでないの推薦人がたらないのと騒いでいる面々に一言いいたいのは、礫(つぶて)のひとつもとばさずにいい子ぶってたのが、弁論大会でもって権力奪取とはお気楽なことではないか、それでは岸田氏をこえることはむつかしいと思うのである。さらに総選挙ではたとえば旧安倍派の公認をすべて外すぐらいなことを断行しないと「けじめ」にはならないというべきであろう。だから党内改革といっているだけでは支持率があがることはないのである。つまり、最低でも「裏金」にかかわった者を全員排除するぐらいの気迫がなければ国民レベルでの権力者とはいえないのである。くわえて「長老追放」こそが改革そのものであるとせっかちな有権者は考えているのではないか。それというのも、この30年間、政治改革からはじまり小泉改革、年金改革、民主党のなんでも改革と「改革」を軸にこの国の政治はくるくると回ってきたが、確実に上がったのは消費税だけであった。この間サラリーマンの平均所得は大きく落ちこみ、「貧しさを噛みしめながら改革し」た結果が「改革貧乏」ということでは、偽造改革であったということではないか。そういう積年の偽造改革の責任は代表して長老がとればいいということであろう。それと、「裏金事件」のけじめとして岸田氏の再選を阻止した理屈とは同根であると思う。

岸田政権の低支持率はまことに楽ちんであった

 ところで、政治評論家もマスメディアも岸田政権の低支持率をいいことに楽な仕事をしてきただけで、ついぞ岸田政治と低支持率の関係を解明するにはいたらなかったといえる。岸田政治には政策そのものと政治スタイルの2面があるが、多分にスタイル論にかたよりすぎて、公平な政策評価がないがしろにされたと思われる。これは一種の同盟罷業ではないかとさえ思えるのである。

 また、野党は相手のゴールちかくでのパス回しに明け暮れていただけで、勝負はしなかった。とくに野党左派グループの一部は、外交・防衛政策の基本方針である「国家安全保障戦略」など安全保障関連3文書の改定を神学論的高みからいじってみたものの反対なのか賛成なのかよく分からない切り口で、事実上容認したようにみえる。

 筆者は政府方針におおむね賛成であるのでとやかくいう気はないが、立憲民主党の事実上の方針転換は遅きに失した感があるものの多としたい。ただし、米中間の橋渡しができそうにふるまうのは安全保障にかぎれば現実的ではないし、むしろ危険であるといえる。

 政府と自民党との間でさえすき間がある。あってあたりまえであるが、しかしひとたび二国間に亀裂が生じれば与党は沈黙せざるをえないであろう。では野党はどうなのか、批判的見解の表明でお茶を濁すだけなのかという意味において難しい判断になると思う。ここは激励をこめて突き放したいい方をしているのであって、他意はない。

 安全保障でいえば、近年では米中関係に対し日米関係はサブシステムの立場におかれ強固ではあるが独立変数ではない。日中の友好交流を否定する気はないが、東アジアの緊張緩和(デタント)がすすまなければ、外交・防衛方針の変更を政権交代の主要テーマにはできない、できるわけがないと考えている。立憲民主党として現在の政府の外交・防衛方針に対し全力で反対運動を展開し国会議事堂を取りかこむ気がないのであれば、中国むけの言辞は辛口にとどめるべきであろう。

 ともかく、立憲民主党にとって妥当な方針転換であるが、これは同党所属議員のせいではない。安全保障環境の激変が原因だから変更を恥じることはないということであろう。

9.総裁選VS代表選、せっかく同時期なのに交わらないのはどうして

 ところで、自由民主党と立憲民主党は9月にも党総裁および党代表を選出する。3年前の2021年には、9月に自民党総裁に岸田氏を、11月には立憲民主党代表に泉氏を選出した。2人の選出のあいだには総選挙があり、その選挙で枝野氏がひきいる立憲民主党は敗北し、その責任をとって辞任した後を泉氏が引きつぐことになった。

 およそ3年後の今日、新しい時代の幕開けとなるのかと期待しつつ、投票権をもたない立場であっても関心はたかいといえる。

 では、時代を画すべきテーマとは何であろうか。筆者も2017年5月から弊欄「遅牛早牛」に100篇あまり書き連ねてきたが、労働運動の伝承を使命としながらも確信をもって伝えるべきものを一片たりともいまだに手にしていない。

 ただ、皮を取りのぞかなければ脱皮は完成しない。そこで、いささかむりやりであると思いながらも、古い皮の一端に手をかけているつもりであるが、つかんでも振りはなされるほどの速さで事態は変化しているので、うろうろするのが精一杯であった。

 そのうろうろが頂点に達したあたりで「裏金事件」が発覚し、想定以上の規模感に問題拡大の兆候を見いだしたものの、正しい切り口を見いだすことは簡単ではなかったのである。

 昨年11月からかぞえて9か月目に岸田氏はみずから総裁選への不出馬を表明した。この9か月のあいだに、自民党の惨状をなんとか改善し反転をはかるため派閥解消などの暴走的決断をしたのは岸田氏だけであるが、その経過をふまえるならば自民党における人材の不足というよりも不在こそが、今日の同党の真の危機であると思い知らされたのである。

 もっといえば、岸田氏の不人気ゆえに陰に隠れていたが、「裏金事件」を冷徹に処断できなかったという評価軸でいえば、党内にも党外にも、酷評されていた岸田氏をだれもこえられなかったという点において、まさに当事者能力の欠如であったと思う。という問題意識に立脚すれば、総理にふさわしい人気度ランキングなどは場違いなギャグであり、適材として応需できうる水準にはいたっていないというべきであろう。

 筆者の問題意識は、感想などはペラペラしゃべるが事態の収拾や決断は「あなたまかせ」が常態化している政権政党への不満あるいは不安にあるのであって、いわゆる義憤なのである。

10.二大政党による政権交代モデルの自壊、では多党連立なのか

 わが国は、権力の所在という点では簡明であり分かりやすいといえるが、多党連立になれば、権力関係が相対化され、世間も政権内の不協に関心を集中させることから、結果として政治的効率をそこねることになると思われる。 

 という視点でいえば、現在の自公連立は選挙の補完性も高く、政策的にも安定しているといえる。しかし、選挙結果によっては連立構成を変更せざるをえなくなるが、新たな連立が現状の自公連立と同レベルのパフォーマンスを維持できるかどうかは即断できない。というよりも、おそらく現状に劣後することも計算に入れておくひつようがあると考えている。

 けっして自公政権を礼賛しているわけではない。ふりかえれば、連合などの労働組合の多くは、二大政党による相互牽制的政権交代モデルを長期間にわたり目標としてきたのであるが、1994年の細川政権以来さまざまな政党の組みあわせが生まれ、多くの経験をかさねた結果、ようやくたどりついた結論のひとつが二大政党による政権交代モデルの不適確性であったといえるのである。

 今回の「裏金事件」にしてみても、たしかに政権交代の必要性については政局の局面ごとに大いに感じるものではあったが、現に実現できないことがじつに現実的欠陥として立ちはだかっているのである。以前は、それは野党をささえる勢力の力不足や怠慢に原因があると認識されていたのであるが、民主党政権の崩壊を機に、たとえば労働組合などに責任があるという問題ではなく、むしろわが国の政治風土や選挙制度などの政治制度に決定的な原因があるのではないか、という理解がすすんできたことにくわえて、野党自身が本気で政権交代を求めていない、つまり議員の日常活動がそういう方向をむいていないことを、たとえば現場の活動家が肌で感じはじめたのが事のはじまりであったと考えている。そういった野党との接触面での小さな気づきをはじめ集会などでの立ち居振る舞いからにじみでる存在のエッセンスなどあつめれば集めるほど「そんな気がない」ことが状況証拠的に浮かびあがったのである。

 つまり、二大政党による政権交代モデルを成立させるもっとも重要な柱である野党の意欲そのものが虚構であったという心証があって、現場における野党ばなれがはじまったのである。

 くわえて、米国の大統領選挙の影響も大きく、とくに2016年のヒラリーVSトランプ選挙や2020年のトランプVSバイデン選挙が二大政党モデルの欠陥というよりもいきつく先の地獄絵図をしめしたもので、目標とするにはひどすぎるということになり、モデルそのものが自壊しはじめたといえるのである。 

 また、多数政党による連立政権モデルという現在の欧州では多々みられる多党連立政権のほうが、米国型のギスギスとした二大政党モデルよりも分断が回避できるし、対立も柔らかくなるという面でわが国の国情に合致すると思われだしたのである。そういえば安倍政権時代には政治手法として対立をあおりたてることが増えた感があったが、実態をこえる対立概念に火をつけ保守層の危機感を増長する手法はパフォーマンスと解釈されているうちはいいのであるが、加熱しすぎるとさまざまな嫌悪感情を刺激し、あと戻りが困難な社会情勢をうみだすことになってしまうのである。

 もとはいえば、反戦平和運動といわれたジャンルでの戦争危機をむりやりに煽る手法は、平和な日常に埋没する人びとに対してするどく意識喚起をはかりたいという左派グループの伝統的な手法をルーツとするものであったと思っている。若いころはデモに参加しながら「なんでこんなに大げさに掻き立てるのか」と不思議に思っていたのであるが、相手を攻撃することで自陣をかためていく手法は古くからのもので、創造性ゼロの世界であり、そういう点では右も左も一緒で、まったくのところ進歩がないといえる。

11.自公連立政権は安定していたが、経済は停滞していたし、低賃金であった

 ということで、二大政党による政権交代モデルにとりつかれたこの30年間が、自民党による単独政権時代をのぞけば、現状にいたる自公連立政権が最も安定的であったという単純な感想を述べているのである。しかし、この30年間においてわが国が先進国の平均的な経済成長すらなしえなかったこともまたきびしい事実であり、安定はしていたが停滞していた。さんざん財政出動で金を使ったが効果なく借金だけが積みあがったことは、自公政権に背負ってもらうしかないのである。さらにいえば、自公政権をささえたのは政治的リスクをとりたくないという人びとの性向から、とりあえず現状維持を選んだことによるもので、深く考えてのことではなかったと考えている。

 先進国のなかでは、ほぼわが国だけが成長停滞、賃金停滞だったのである。しかもそれが30年あまりつづいてきたのであるからそのダメージは大きいといえる。今年あたりから、ようやく賃上げの浸透によりデフレ克服の道筋がつきつつあるが、労働者世帯を中心に所得水準の累積の落ち込み(世代比較)がひどく、そのことが消費の大きな停滞をまねくという悪循環が超長期につづいたのであるから、民は疲弊したということである。これは政治における最大の失敗であろう。

 政策的には労働への分配不足が原因であるから、賃金制度はじめ最低保障制度などの社会政策を強化すべきであったのに、小泉政権が新自由主義的方向に舵をきったことが決定的であった。とにかく分配不足のなかで中小企業での賃金改善策をとらなかったことが政府の失政といえる。ようするに低血圧症なのに降圧剤を投与したのだから、フラフラになったのはあたりまえである。こういった馬鹿げた事態を長年放置しつづけた責任は政治が引きうけるべきである。とくにトリクルダウンは詐欺的で中間搾取であり、さらに異次元の金融緩和策は2、3年でやめればよかったのに、それができなかったところがアベノミクスの限界というよりも罪というべきであろう。

 自民党が、党改革にとりくむと総裁選をつうじて宣言しているのかどうか本当のところは分からないが、党改革の前にまずこの30年間の経済における失政について総括してほしいものである。新総裁が選ばれても当面の重要課題は経済の立て直しであることは変わらないのだから。

 いまの自民党は労働の再生産を概念としても実感としても理解できていないのではないか。国の経済基盤は資本と労働にあるという簡単な事実からどうして目をそらすのかと、いまだに首をひねっている。30年間も労働への分配をしぼりまくったら、家族、出産、教育に資金がまわらず、経済も社会も長期的に衰退していくのは当然のことといえる。投資もせずに労働生産性を語ってどうするのか。そういうのは竹やり精神論で世界の笑いものであろう。

 労働者の味方になれとはいわないが、せめて労働への投資については世界標準をキープすべきであろう。いいたくはないが、この30年間で失ったものは多い。しかも、失ったものを取り返すすべはない。2004年に筆者は「もうこれ以上海外に工場をだすな」とマイクで訴えたが、労働者からいえば雇用と富の流出でもあった。

 正直にいえば、民主党政権がひどかったというのであれば、労働者にしてみれば自公政権はそれ以上にひどかったというべきであろう。つまり、政権交代をしても現状以上に悪化するというエビデンスは見あたらないのである。ここまで格差が露骨に顕在化した今日、所得水準をドルベースでみれば先進国の中の低所得国であることはまちがいないのであるから、自公政権は民を貧しくしたのである。また、自民党が政権からはずれても国の経営には何ら支障はない。とくに、野党の外交防衛、エネルギー政策が中道路線に帰還しつつあることから、立憲より右であれば交代してみる価値はあると思える。自民党諸兄の反省の中身は悲しくなるほど貧弱なのである。

12.多党連立時代に必要なのは裏方に徹することができる人材である

 べつにわざわざ持ちだすこともないが、仮に多党連立を余儀なくされたとすれば、たとえば3党をこえる連立政権の運営はいかなるものかという課題については、今悩むことではないが、その場合において必要とされる役割とは何かについて深く考えることが、実は現状においても著しく欠いている役割を問うことと同値なのである。

 くわえて、難事においては裏で調整したうえでまとめあげるという役割が求められるが、そういった調整機能を背負う分野では、すでに人材が枯渇しているということであって、簡単には充足できないと聞く。これは与野党をとわず目の前によこたわるわが国の課題ともいえるものであり、しかも恐ろしいことにその処方が見つかっていないといわれている。些事のように受けとめる向きも多いようであるが、口先国家が栄えたためしがないということであって、裏方に徹する人材は選挙むきではないからか、政治家には皆無といえる。

13.政党間の交渉は非公開でなければ妥協がむつかしい

 ところで、裏方の調整などについて、ときおり裏ではなく表でやるべきであるとの意見を聞くが、筆者もそれが可能であればそうすればいいと思う。しかし、経験則ではあるが公開、非公開、事後公開の3種はかなり厳密に区分されている。

 先にも触れたが、まとめることは妥協の実践であるから、経過が秘匿されなければ妥協が不可能なケースがほとんどである。つまり表の交渉だけでは一歩も動かないのである。どの国あるいはどの社会においても妥協は敗北と映ることから、とりわけ選挙でえらばれた交渉団は原則公開のばあいは強硬で非妥協的になるのであって、妥協をゆるさない交渉は決裂のたまごであるから、交渉を重ねれば重ねるほど険悪な関係になるといえる。したがって、交渉過程を非公開とした方が交渉はまとまりやすいといえる。

 たとえば、この交渉経過を非公開、非開示としたうえで政党間の妥協を促すことが、多党連立時代ではキーポイントであろう。

 また、内閣支持率至上主義をいつまでつづけるのか、報道する側も立ちどまって考えるべきであろう。内閣支持率は都合のいいものである。数字をしめせば小むつかしい理屈をいうこともなく、一瞬でけりがつくので考えなくともいい。つまり楽なのである。

 数字が一番理屈は二番、三時の仕事は記者会見というのは冗談であるが、とくに岸田政権時代は低支持率がつづいたので政権批判が楽であったといえる。では、これが高支持率であれば政権批判をひかえるのかといえば、やはり個別具体的に批判をかさねるひつようがあり、作業としても大変だと思う。だいいち数字一本で360度をあらわすことはできない。マスメディアとして、低支持率の岸田政権は攻撃しやすかったということかもしれない。総理にふさわしい人気度調査も思考停止系としてあつかう段にはいいが、ゆるい調査なので逆に扱いがむつかしくなる場面がそろそろくると思われる。

◇処暑ならぬ 雲したがえて 先は紀伊

加藤敏幸