研究会抄録

バーチャルセミナー「あらためて労働組合と政治」

講師:一の橋政策研究会 代表 加藤敏幸

場所:仮想空間

 本稿は、今年5月の講演資料をベースに、あらためて対談風に再編集したもので、趣旨は変わらないものの、追加、省略が多々あり、また時制を5月17日としていますが文意においてゆらぎがあることから、ベースとなった講演とは別のものとして掲載いたしました。文中において文脈上一部旧民主党と表記したのは、現在立憲民主党と国民民主党が民主党を略称登録していることから念のためということです。(新型コロナウイルスの影響でウェブ鼎談シリーズが計画通りに運びませんでした。いつまでも間を開けるわけにはいきませんので、急遽バーチャルインタビューとして、掲載いたしました。あくまで幕間の演目であります。)
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1.どういう時代であったのか、背景を点描すると

司会 本日は「労働組合と政治」というテーマでお話いただきます。このセミナーは、労働組合の活動家を対象にしたものですが、連合系労組において執行部を経験され、政治への取り組みについていろいろな疑問をおもちの方をイメージしています。もちろん限定する性格のものではありませんが、決して入門編ではありません。

 さて本論に入りますが、敗戦後労働運動が合法化されたのが1946年です。で、政治との関係を考える場合、どういった時代であったのか、まずそのあたりについて、少し大げさな気もいたしますが、お願いします。

加藤 その前に、ぜひ読んでほしい方として現役の政治家、ですから国会議員や地方議員の方々を想定しています。その心は、おいおいお分かりいただけると思います。

 さて、確かに時代背景についての認識をそろえておく必要がありますので、歴史学からは離れて、活動家の立場で大まかな区分を示し、今の私たちがおかれている位置について簡単に確認しましょうか。

 

 まず、大きく第二次大戦直後(1945年~)、東西冷戦期(1950年~)、冷戦崩壊以降(1989年~)の三区分とするのがわかりやすいと思います。

 1945年からすでに75年が経過しました。この間の主要項目として、敗戦を受け戦後民主体制をどう構築するか(各面にわたる民主化)、経済復興と民生の安定、主権回復、政治体制(西側)の選択、冷戦の国内投影(親米反ソか反米親ソ)、合法化された労働運動の始動と発展、民主化運動、経済成長と生活向上、低成長成熟経済への適応、グローバリゼーションと国内産業の動向、経済危機への対応、中国の台頭と米中対立、気候変動への対応などが考えられます。この中で、民主化運動とは日本共産党からの労働組合への組織介入を排除する取りくみを全国的に総称したもので、やや業界用語の趣があります。現在、記憶として薄れていっていますが、労働組合にとって忘れてはならないものです。

 つぎに、冷戦崩壊以降(1989年~)のおよそ30年間をみますと、テーマとの関係でしぼれば、労働戦線統一としての連合結成と政治戦線統一としての民主党結成、さらに同党による政権獲得があげられます。

 とくに、1989年にようやく結成にこぎつけた全国中央組織(連合)の役割についてさまざまな議論がありましたが、要約すると ①国際労働運動への参加 ②労使関係における経営への対応 ③政策・制度課題の改善 ④自主的福祉活動 ⑤民主的運動の維持・発展 ⑥その他 となります。

 連合は国内唯一の全国中央組織ではありませんが、国際的にもメジャーと認識されていることは事実でしょう。

 また、政治との関係でいえば、底流には脱イデオロギーが共有されていたこと、とくに共産主義については強く否定しているところが肝心といえば実に肝心なところです。ご存知だと思いますが、戦前、戦後ともに労働運動体の分裂の原因の多くは路線をめぐる抗争であり、その影に共産主義勢力の介入があったわけで、ある意味やっと排除できたということです。

 他方、支援する政党が政権を担当する場合の対応が極めて重要であったわけですが、結成当時にはその可能性がきわめて低くかっためほとんど議論にはなりませんでした。しかし、2007年の参議院選挙の結果を受け政権交代のムードは高まりましたが、「労働組合と政治」という視点での考察は少なかったといえるでしょう。あえていえば、連合が同趣旨を踏まえ欧米に調査団を送ったことなどでしょうか。ただ、2009年の9月以降、独・米・英などの労働組合(ナショナル・センターなど)のリーダーから「政権をとった場合の苦労」についていくつかの指摘があったと当時のわが国の労働運動のリーダーたちが語っておられたのを記憶しています。

 そういった政権運営との関係から発生する現実問題とは異なる基本的な課題が克服されていなかった、それは、つまり連合が発足時に支援していた社会党も民社党も現実的な政権構想をもっていなかったので必要なかったというあっけない理由があったのです。政権構想がないのだから議論にはなるはずがないのです。しかし連合内の議論としては社会民主主義への評価が欲しかったわけですが、現実論として議席数に勝った社会党自身が経済政策あるいは分配政策に明るくないところがあって、護憲や反戦平和など象徴議論には熱をあげるが、欧州各国での社会民主党の経済福祉政策としての成果を正面から受けとめられなかった、本気にならなかった、だから労働組合サイドも盛りあがらなかったのでは、とやや後付ですが考えています。

 という文脈でいえば、1998年結成の民主党は社会民主主義とは遠いもので、さらに2003年の民由合同以降は新自由主義的で恩恵的福祉が前面に出たユニークな、アイデア満載のおもしろい政党だったと思います。無脊椎系でしょうか。

 さて、民主党政権は総選挙の結果を受けて成立したもので、その点は画期的といえましたが、その後の展開は大変残念なもので、政権応援団としての連合にとっても、このようなほとんど初体験ものへの対応はやはり難しいものであったと思います。しかし、多くの人の経験は、後世の教訓になると思います。

 今日、政治との距離をどのようにとるべきかなど、日々刻々変化している政治情勢のなかで、あらためて労働組合の政治に対する向きあい方に大きな関心が寄せられていることも確かなことですから、それぞれの立場で一度振りかえることも大いに意義のあることだと思います。私的には、支援する政党の骨格について労働組合の立場から深堀りすべきであったと思っていますが。

司会 もしもし、各論は後ほどということで..。

加藤 さらに直近の10年をとらえますと、たとえば、2012年暮れの総選挙による第二次安倍政権の発足から現在にいたる自公政権時代でありますが、この10年は、労働組合が支援してきた民主党が民進党に、さらに再編分裂状態(2017年~)にいたったということで、労働組合と政治という視点からはたいへん残念な事態といえます。心理的な喪失感や挫折感はとうぜんとしても、職域では政党や議員への不信感や無関心が助長されたのではないか、ここらあたりの反省と修復も大きなテーマではあったわけですが、結果的に政党の編成論議に流れ、職域はおいてきぼり、また政治と労働のあり方についての議論は深まらなかったといえます。

 ということで、連合結成以来、連合加盟産別の組織内議員(組織内公認として機関決定され議席を得たもの)の党籍は日本社会党、民社党、新進党、民主党、社民党、民進党、希望の党、立憲民主党、国民民主党、無所属とさまざまで、この間自公連立は変わらないわけですから、組合員にしてみれば落ち着かない、変わりすぎで党名を覚えるのも煩わしいといった感じではないでしょうか。

司会 2020年という時点で過去をふり返り、論考を重ねることは意義があると、ちょっと平べったい表現で失礼かと思いますが、いろいろと経験を語られる場面が多いようですね。(ぐちが多いですね)

加藤 やはり年齢があると思います。中衛から後衛へ、来年あたりは「老兵は去るのみ」となると思います。フェードアウトしていくと「自分が」という主体としての行為はどうしても減少しますから、とうぜん過去を反芻する時間が増えますね。まあ、ああでもないこうでもないと自分が自分であるようなないような、陶然とした気分に浸っています。

 2020年だからといって特別な意味や意義があるとは思いません。刻(とき)の連続性がどうやって証明されるのか未だにわかりませんが。

 しかし、記憶がなければ人生は語れません。また、記録がなければ歴史を養えません。記憶と記録があればこそふり返ることができるのです。

司会 ご自身の感慨はさておき、戦後といってもすでに75年経過しているわけですから、もはや戦後という表現は使えないという意見もあります。そこで、一つ二つに限って戦後の基底となる事項をお話しいただけませんか。

加藤 難しいことです。が、あえてあげるなら、一つは、大日本帝国憲法が改正され現行憲法になりましたが、そこには連続性と非連続性があります。非連続性については多く語られていますが、連続性についてはあまり語られません。連続性とは、国語つまり日本語で書かれ、天皇で始まることです。

 二つは、独立戦争とはいいませんが、闘争なき主権回復であったことです。それは、東西冷戦構造が生みだしたもので、その後のわが国の進路を決めました。その進路とは、もともと対露防衛と反共路線が共振した戦前からの国家方針を引き継いでいると捉(とら)えるならば、ある意味必然性を有していたと考えられます。したがって、戦後におけるわが国の政治体制は選択の余地のないものであったと考えるべきです。現行憲法で与えられた政治的自由は文字通り与えられたもので、闘いとったものではありません。一部に、戦争の犠牲をもって云々という説がありますが、主体的行為という点で難があります。すべては宗主性をもった米国の強い影響下での主権回復ならびに政治体制の確立であったということではないでしょうか。

司会 労働界にあっては、少し変わった歴史観をお持ちのようですが。

加藤 話がかたくなりますが、権力構造を変えるためには主体性をもった意思と行動が必要ですし、それには多くの犠牲をともないます。戦争の犠牲の上にさらに血を流し権力構造を変えるといったことを国民は望んでいなかった、だから、共産主義は広がらなかったのです。

 したがって、戦後の労働運動をふりかえる時、申し上げた最初の発射方向つまり国の初期体制を認識しておくことが大切だと思います。

2.感染症(COVID-19)問題について、労働組合の役割は重要

司会 予定外のテーマですが、感染症問題の位置づけはどのようにお考えでしょうか。

加藤 過去にも感染症が人類の歴史を大きく変えた事例が多数あります。今回も大きな影響があると思われます。とくに、本テーマとの関連でいえば、政治アクターとしての労働組合、多くは連合を中心とするグループですが、自らをどのように位置づけるのか、もちろん、産業別労働組合も含んでのことです。

 新型感染症(Covid-19)が社会全体におよぼす影響の内容や範囲またその震度などまだまだ不明なことばかりですが、大変な影響であることは間違いないでしょう。だから、そういった環境激変に対し能動的に対応することが重要です。そういう意味では労働組合の役割が大きいといえます。

 また、他の政治アクターに比べて連合あるいは労働組合は可撓性が十分高いといえます。わかりにくいかもしれませんが、いってみれば目の前のキャンバスは白地で、手足も縛られていない状態にあるわけで、いい提言者になりうると思います。また、参加している組合員が、ほとんどの産業に配置されかつ重要な役割を果たしています。しかも安定した立場(社会的ポジション)におられるわけですから、他国に比べても、努力をすれば第一等のオピニオンリーダーとして世に役立つと考えています。ここで重要なことはオピニオンリーダーとして、ということです。決して政治アクターではありません。

 この見解には個人的なヒイキ意識があることを否定しませんが。また、どんな努力が必要かはこの後の話で。

3.政党は政権を目指すのが任務

司会 さて、本論に入りますが、「労働組合と政治」といっても総論から各論まで、とくに中央組織や産別組織、またそれぞれの地方組織、そして単位組合や職場組織などにおいてさまざまな議論があると思います。ひと言でいえるほど簡単ではないわけでして、そのあたりを区分けしながらお聞きしていきたいと思います。総論的にはどうでしょうか。

加藤 まず、政党の立場、もちろん野党ですが、もっとも肝要なのが政権をどうするのかということです。したがって、政権交代を常に視野に入れた戦略が必要なわけです。ただ、野党として批判に徹する立場もあり、何が何でも政権をということではありませんが、それでも政党であるかぎり政権のあり方とそれへの関与を明確にしなければならないと考えています。これはあくまで政党の立場です。

  

 一方、政党を支援する立場、たとえば労働組合はどうなのかということですが、同じ方向を向く場合もあれば違う場合もあると考えています。労働組合の立場から、支援する政党に政権をとらせることについて、どのような理屈を組み立てていくのか、という今日的にも大きな課題があります。

 「政権をとらせる」と簡単に表現しましたが、2009年の鳩山政権の樹立は「政権をとってしまった」というのが、労働組合サイドとしての正確な表現ではないでしょうか。

 当時、私も参議院議員でしたから、相応の責任があったのですが、政権交代については「政権交代の効用は、まず第一に自民党が野党になること、第二に民主党の頭でっかちの議員が政権を担ぐことがどれほど大変か、その重さに背骨がきしむ苦しみを経験すること、と考えています。」と集会や報告会で述べてきました。もちろん政策的な期待感も話しましたが、政権交代が画期的な政治状況をもたらすといった展望は意識的に避けていたのですが、それはやや偏屈な性格からくるものと、一番大きいのは現実感の薄さというか手応えのなさ、重大事の割には遊眠的だったことへの嫌悪があったと思います。

 そこで、政党はいいですよ、失敗すれば野に下る。そして再起を期す。このサイクルですから、しかし、支援している労働組合としてはどうなんでしょうか。これこそが、労働組合と政治を語るうえでの最大の論点ではないかと思っています。政権交代可能な政治状況を作ることと支援している政党に政権を取らせることの本質的な違いについてどこまで議論できていたのか、また社会運動あるいは大衆運動と、利害とか権益とか現世を仕切る生の政治への関与とのとてつもない違いを組合員数680万のスケール感で認識されていたのか、設問は背負いきれないほどの重荷ですが、考えられる範囲で、後ほどあちこちでふれていきたいと思います。

「政権交代可能な政治状況をつくる」ことと「二大政党制」について

 さて本線にもどり、まず二大政党制について考えてみたいと思います。そこで大切なのは、「政権交代可能な政治状況をつくる」ことと「二大政党制」は同じではありませんが、同方向といえます。しかし、労働組合の立場でいえば、二大政党へ収斂した場合、たとえば連合として一体的に同一政党を支援できるのかという難問を抱えることになります。

とくに安全保障や憲法、規制改革、税負担など組織内でかならずしも意見一致をみていないテーマの扱いが整理されずに、選挙だけ応援するというのは民主的運営を旨とする労働組合にとって難しい、つまり理念や政策を積みのこしての支援では組合員の理解が得られない。それでは運動にならないでしょう。だから、理念、政策が整理されずに政党だけが整理されても何ら問題の解決にはならないのです。労働組合としては、ですが。

司会 少し意外な感じがします。というのも、二大政党による政権交代を当面の理想とする受け止めが一般的だと思っているのですが、これに反対のニュアンスでしょうか。

二大政党制とは結果であって、それを支える制度はないに等しい

加藤 二大政党制をめざす議論があったことは事実です。しかし、深堀りされていません。たとえば、現在の政権は自公連立政権で、これは、自民党といえども単独政権を維持するのは難しい現実をあらわしています。つまり、公明党の選挙協力なしに安定過半数を継続的に維持するのは難しい状況にあるのです。

 くわえて、現状は二大政党制を支える仕組みにはなっていません。そもそも選挙制度も、執政制度も、議会制度も二大政党制を前提に作られていないのです。

 とくに、選挙制度には小規模政党を支える部分があり、多党状況を誘引しているともいえます。つまり、衆参ともに完全小選挙区制であれば結果として二大政党へ収れんしますが、そのかわり民意の切り捨てが乱暴にでてきます。現在は比例制度を衆参ともに導入していますから、民意をすくい取る機能が残されているので小規模政党が存続できているです。

司会 民意の集約なのか、あるいは民意のすくい取りなのか、という点でいえば現在の選挙制度は折衷的であると思いますが、二大政党制とは相性が悪いのでしょうか。

加藤 極端な議論は避けなければなりません。しかし、比例制度をなくせば二大政党へ収れんするでしょう。劣勢側が小選挙区で勝つためには、選挙区単位で二択に持ち込まなければなりませんから。

司会 比例制度が民意をすくい取るということですが、具体的には。

加藤 衆議院ではブロックで30万票程度、参議院ではおよそ100万票強の得票で議席が確保できますから、比例制度というのは多党化を支えるといえます。そういう意味でいえば小選挙区と比例区のセットは性格の異なるものの組み合わせといえます。1993-4年当時の議論の帰結ですが。

司会 小選挙区制では死票(落選者への投票)が多いといわれていますが。

加藤 これも極論になりますが、ある選挙区で、A党が40%、B党が30%、C党が20%、D党が10%の得票率とすると、A党が40%の得票率で議席を得ることになります。この場合、B+C+Dの60%が死票になります。

 小選挙区では、二択でなければ40%前後の得票率でも十分勝てますし、全国的に乱立状態となれば過半数の議席を得ることになります。これは小選挙区制のもつ集約効果で、切りすて効果ともいえますが、議席の過半数確保を容易にし、政権の安定に寄与するといえます。当然民意の切りすてが生じます。

司会 政治改革の議論が盛んに行われた1993-4年当時は、政権交代を容易にする趣旨から、従来の中選挙区制を改めたと聞いていますが。さきほどの事例で野党としての対応とか工夫が必要との意見もありますね。

加藤 ええ、この場合、B党とC党は合併するか、候補者調整するしか勝つ道はありません。また、B+Cに対抗するには、A+Dしかありませんから、選挙区単位でいえば二択に収斂されるということです。

 しかし、選挙協力はいうほど簡単ではありません。与党に対抗するという視点だけであれば容易なことでしょうが、政党としては可能なかぎり全選挙区に擁立するのが大義ですから。また、立候補は本人とって人生の一大事です。家族はもちろん親類、縁者を巻き込んでの一大イベントですから、助走が大変です。それが、鶴の一声で変えられるとなると穏やかではありません。それでは、家族持ちのサラリーマンにとってはリスクが大きすぎ、エントリーできません。

 このあたりの議論はあとの政党論で触れますが、仮に候補者調整に成功しても多くの重大な副作用が残るということです。

 ということで、野党の対応、工夫というのは、一つの党にまとめるか、あるいは強力な選挙協力による候補者調整の二つになります。そこで、仮に野党が過半数議席を確保したとして、どんな政権を作るのか、どんな政治を行うのか国民の関心はここに集中しますから、ここでもめてはいけません。では、スムーズな政権発足を図るためには、それは事前に連立政権構想をまとめ公表することです。秘密協定では絶対にダメです。

 このプロセスを意図的に曖昧にしている政党を信用していいのかということです。政策をつめない選挙協力は有権者に対して義務を果たしていないということでしょう。立候補調整は有権者にしてみれば強制的に投票先を奪われることになりかねません。投票の自由とは投票先の自由ですから、立候補調整の結果としての二択は民意を聴くための手段としては最善でも次善でもないと思います。過去試行的に行われましたが、反省をふくめての私の意見です。

 

司会 話題を変えます。執政制度、分かりやすくいえば行政制度ですが、また議会制度との関係はどうなんでしょうか。

加藤 行政機構の司令塔は内閣です。また情報や人事も握っています。一方、野党はすべて自前で準備しなければなりません。この差は大きく、よく国会での質問などについて力不足、準備不足といったメディアあるいは有権者からの辛口の意見を耳にしますが、それはそのとおりです。しかし、どう考えても現在の国家行政機構を相手に五分の勝負を挑める体制にはなっていません。野党を専門に支える仕組みや制度はないといえます。

 つぎに議会制度でいえば、議会運営ですが、衆議院は議席数を原則としています。ということでとくに質問時間は野党にとって厳しい状況にあります。先程、得票率と議席率のギャップを指摘しましたが、仮に、40%の得票率で60%の議席を確保した場合、質問時間の配分比は議席率ですから、得票率をはるかに上回る傾斜配分が行われるのです。加重濃縮効果ですか。質問するのは主に野党ですから、野党に多くの時間を与えるべきです。与党の質問の半分はヨイショではないでしょうか。だから、与野党ともに改善が必要だと思います。

 参議院は小規模政党優遇の慣例をもっています。熟議を標榜する院の矜持でしょうか。ところが、二大政党状態での議論、それは伯仲下での議論ですが、2007年夏からの6年間は3年毎のねじれでしたが、その間の参議院における議論に何か有意義なものであったのか、評価はいろいろあるとは思いますが、個人的にはかぎりなく衆議院と同じになってしまった、と思っています。そういうことでは参議院不要論がでても仕方がないと思います。

 さて一番の問題は、立法活動への支援体制です。もちろん、両院とも法制局を設置し議員立法などの支援に尽力していますが、本格的な二大政党制を支えるにはさらに充実する必要があります。あまり指摘されていませんが、二大政党制とは政党が概ね2つに集約されることだけで成立するものではありません。それは形だけであり、中身が整っているとはいえない。大まかにいえば、企画機能だけでも2つの政府分を用意するに等しい体制が必要といえます。二大政党制とはそういった基盤の上に成り立つものです。

司会 そういうお話ですと、支える行政コストも膨大になるのではないですか。とんでもないことです。

加藤 そのとおりです。よくいわれることですが、政権が変わるとワシントン近辺では何千人もの政治任用者の入れ替わりで大騒動だと。アメリカの場合は、政治任用に耐えられる職種の層が厚く、また市場も形成されている上に、キャリアとして評価されるので人材が豊富です。こういった根本的な仕組みが違うわけで、二大政党制という看板だけ持ち込んでも間に合いません。

4.労働組合と政権、政治と労働の距離感

 

司会 今のお話は政党、とくに野党の視点からの政権交代に関わるものですが、労働組合の視点からはどういったことになりますか。

 

加藤 労働組合と政権とのかかわりについては、いくつかの態様に分けるのがわかりやすいと思います。一は、支援支持関係、二は協力関係、三は中立関係、四は対立関係ということで、おおよそ四種のパターンが考えられます。とくに一は支援する政党が政権をとったときで、2009年の鳩山政権と連合の関係です。欧米ではふつうに起こっていますが、わが国では10年に1年程度の比率でしょうか、そのため経験不足から蓄積も少ないといえます。一方、四の対立関係ですが、少なくとも連合結成以降は全面的なあるいは強度の対立関係とはいえず、項目ごとの意見相違が争点であったと思います。連合は当初反自民としていましたが、いつの間にか非自民に変えました。

 では、残る二の協力関係あるいは三の中立関係はどのような状況下で出現するのか、ということですが、支援政党が与党と協力関係をもったとき、ならびに労働組合が積極的な支援政党をもたなくなったときに、二の政権との協力関係が可能になるといえます。しかし、労働組合が政権交代を視野に入れた政党支援方針を保持するかぎり政権との協力関係は現実的ではないことから、二の協力関係は、労働組合が積極的な支援政党をもたなくなった場合に限定されると考えるのが妥当ではないかと思います。ここで積極的としたのは、政権交代とは切り離された個別政策をめぐる労働組合と政党との支援関係は許容される可能性を示唆するもので、ここが政権と労働組合の距離感を考えるうえでのキーコンセプトではないかと考えます。

 つまり、政権与党にしてみれば、きわめて強い対抗的政治姿勢を有する労働組合といかなる協力関係をもちうるのか、手品でも使わないかぎり常識的には困難といわざるをえません。

 したがって、労働組合の対政権戦略は、一に政権政党を支援する、二に政党(野党)との関係は維持しながらもその政権構想には与(くみ)せず、政権との協力関係を模索する、三にどの政党とも積極的な支援関係はもたず、政権にたいしては中立の立場をとり通常ルートによる政策要請を通じて政策実現をはかる、四に政権との対立関係を明らかにし、政権政党に対抗する政党を積極支援し、政権交代をはかる、の四種に整理され、一と二は裏表関係でA党かB党かの選択問題で、二は社交的対応であり、三は竹林の賢人的対応といえるかもしれません。

司会 おやおや、賢人までひっぱりだしましたね。図式はいいのですが、ちょっと手前味噌の匂いがしなくも、といった感じですか。少し生臭い話になりますが、今、大きな塊といって、連合首脳も野党合流に熱心なようですが、これは先ほどの図式でいえばどうなんですか。

加藤 けっこうクリアではないですか。さきほど述べた四です。旗幟鮮明で、潔(いさぎよ)いともいえますが、反面危険でもあります。

司会 どこが危険なんですか。

加藤 図式をよく噛みしめてください。そして政権側に立って考えてください。二と三のポジションがあるにもかかわらず、あえて四を選択した団体に好意的に接することができますか。政治団体でもない労働組合としてはやりすぎではないかと思うはずですよ。表面上はともかく水面下では扱いが変わるのではないでしょうか。このあたりは当事者でもない者があれこれ憶測をならべても見っともないですから、もう止めにしましょう。

 あっ、そうだもう一つの危険がありました。四のポジションはあくまで全体が一致団結することによってのみ成立するものですから、薄氷を踏むようでは如何ともしがたい、、、内部に問題を抱えることになるでしょう。

司会 では、四はつまるところ反〇〇ということですか。そのへんはぼやけていましたね、なぜなんだろう、不思議ですよね。あんがい与党への甘えがあったりして、それと危険という言葉ですが、どちらかというと短絡的に受けとめるのですが、真意は差し障りのほうがあっていると思いますので、そうしましょう。

加藤 それでけっこうです。さて、連合結成時に十人十色という言葉を遣いました。それは多様化を意識してのことでした。価値観の多様化、あるいはメンバーの多様性などの新たな課題を俎上にのせたわけですが、もともと労働運動は要求の統一が原点だったのです。だから、要求を大きくまとめていくことは慣れているのですが、多様化には弱いのです。下手をすると要求の多様化が運動の拡散を招くわけで、バラバラになる、これではまとめようがないということです。

 ということで、しばらくはまとめられる課題に絞って取り組むという傾向がありました。しかし、政策・制度課題では多様化する要求に対し区々に応えていかなければなりません。

 また、組合員の高学歴化にともない政治意識というか政治価値観というか、結構多彩になってきて、さらに、一人ひとりの経済事情も多様でして、おしなべてみんな貧乏という時代は大昔のことです。住居がなくて困っている人もいれば、夫婦で何軒も相続して管理に困っている人もいるのです。このように連合につながる組合員の悩みはさまざまで、一筋縄ではうまく捉えきれないのが実情といえます。

 ということで、多様化する組合員の要求を受けとめる労働組合が、団体として政策・制度の受け皿となる政党を一つに絞り込めるのか、難しいものがあり、一番ハードな安全保障を除いてもさまざまな立場と考え方がありますから、受け皿はバラエティに富んでいるほうがいいという考えも当然でてきます。政党を絞ることの戦略性は理解するとして、それが受け入れられるには十分な成果つまり見返りが期待できなければ無理だと思いますから、そこの説明、説得性については今のままだと不十分だと思います。

 ここが、政治団体ではない、労働団体の悩みといえるでしょう。

司会 先ほど、間接的であれ連合が政権の一翼を担うためには、連合内での基本政策の完全でなくとも、ほぼ一致が必要であるといったお話があったようですが、この点はいかがでしょうか。

加藤 そこまではっきりといったつもりはありませんが、政権の一翼ということであれば突き詰めればそうなるということでしょうか。それも団結保持のためです。

 とはいっても、労働組合が政治とどのような距離を取るかによっても議論は変わってきます。2009年からの鳩山政権当時を思い浮かべれば、政労関係としては相当接近していましたから、当然、基本政策については労働組合サイドとして整理しておいたほうが良かったのではと思っています。あるいは、支援団体ではあるが、同時にきびしい批判者のポジションも残しておけば状況が変わっていたかもしれません。あくまで、かも、の話ですが。

司会 そこまで近づくのなら、内部での意見の幅は狭めておくべきであったと。

加藤 あのときは、政党内の意見の幅のほうが大きかったので、労働組合サイドに軋轢があったわけではありませんでした。理屈として労働組合サイドの意見の幅ですが、産別間の幅もあれば、地方組織間の幅も、職域間の幅もあり、狭めるのは大仕事です。さらに、そもそも基本政策とはなにか、あるいはそれぞれの組織において確たる方針を詰めているのか、など組織によっては初めての議論となる場合もあったかもしれません。

司会 ちょっと分かりにくいのですが。

加藤 たとえば、近くに米軍基地を抱える地方と、都会地あるいは田園地帯とを考えれば、それぞれ、安全保障の全体論つまり総論で一致しても各論で異なることがあります。エネルギー政策、とくに原子力発電についても同様の傾向があります。消費税は販売店からの距離によります。流通の現場では反対が強いのです。そういう点では、政策論に走る中央と接客を担当する現場とでは、まるで雰囲気が違うのです。

 また、生産現場にいるときと生活空間にいるとき、スーパーで買い物をするとき、子どもの面倒をみているとき、親の介護で帰省したときといった置かれた状況によって同一人においても判断のゆらぎがあります。

 多様であるとともにゆらぎがある。理屈に追い込めない幅もふくめ、一体のものにまとめていくのはとても困難なことではないでしょうか。

 2012年当時、消費増税をめぐり旧民主党内で激論がかわされましたが、連合が揺るがなかったのは奇跡としか思えないですね。

 今でも、なぜまとめなければいけないのか、と問われればなんと答えようか、と悩みます。

司会 予想していた議論とは趣が変わってきました。脱線ついでに、一度、労働組合主義についてお聞きしたいと思っていたのですが。

 最近は減りましたが、80年代は労働組合の委員あるいは役員の学習会とか研修会で、よく聞いたのですが、いつも講師が熱く語っておられたのを憶えています。今どきどうなんでしょうか。

加藤 ここで、きますか。いいでしょう。それはヨーロッパではサンディカリスム(Syndicalism)ですが、その訳語としての労働組合主義と、日本の労働組合主義(Trade unionism)があって、これらのは違うものです。

 前者は経済体制のあり方として、労働組合の連合により生産ひいては経済を運営するという社会主義に近いものです。後者は、質問はこちらだと思いますが、日本共産党や左派運動からの組織介入に対抗するための理論武装ともいえるものです。

 その理屈は簡単明瞭で、民主的組織運営による自治を徹底し、共産主義革命の先兵としての役割を拒否・排除し、社会改革は議会制民主主義のルールのもとに平和的に行う、また労働条件の向上、改善などは対等・自治の原則にもとづく労使交渉で解決し、外部からの介入は受けないなどが特徴的ですが、現在の多くの労働組合が採用している路線ともいえます。とくに、政治あるいは政党との関係では立場と役割を明確にしながら連携協力していくということで、階級主義に立脚する政党とは完全に一線を画すものです。

 と説明したうえで、このあたりは労働運動にイデオロギーを持ち込むことがどれだけ悲劇的な状況を作りだしたか、経験的をとおして一定の結論をだしたということではないでしょうか。政治闘争の手段に労働運動あるいは労働組合を利用することは、豊かな田園を不毛の荒野に変えるに等しいわけで、注意が必要です。

 これらの問題はわが国に労働運動が誕生すると、それにあわせ派生してきたもので、とくにロシア革命以降、共産主義の浸透にともない活発化したといえます。その後の、国家による党員検挙、弾圧により多くは投獄され、沈静化したものの、敗戦を期に出獄した党員の活動がふたたび活発化していきます。

 とくに、1945年12月の労組法の成立から労働運動が表舞台に上がってくるのですが、戦前の抑圧からの解放感があふれる中で、また生活物資不足とインフレがもたらす生活困窮下にあって労働者の労働運動への期待感は否応なく極限近くまで高まっていくのです。

 1946年になると、全国的に多数の労働組合が結成され、その執行組織に多くの共産党員やその支持者が指導層として入り込んだことから、全体的に闘争至上主義に走り争議行為も激増しました。少し雑ないい方をすれば、経済闘争と政治闘争が未可分な中で、労働運動としての指導原理がはっきりいって未熟というか未形成だったといえます。だから、生活向上のためには政治体制の改革、すなわち共産党政権の樹立とまではいいませんが、およそそれに近い方向を目指す指導層が個々の労働組合を引き回すものですから、まあ騒然としますよね。

 そういった流れが、1947年の「2.1ゼネスト(総同盟罷業)」失敗により、ゼネストを主導した日本共産党と産別会議への批判や反発が激化し、その後のわが国の労働運動の進路が大きく変わっていったといわれています。ゼネストは、直前にマッカーサー連合国最高司令官の命令で中止されたのですが、客観的にいって、連合国からの援助、といってもほとんど米国ですが、その援助によって国民はかろうじて飢えをしのいでいる状況にあって、国内の生産、物流を完全停止させることは、いくらインフレによる生活苦があろうとも、さらに状況を悪化させるだけで何ら解決には結びつかないことは自明のことではありましたが、ときの吉田内閣を打倒し共産党カイライ政権を樹立しようとする野望のために、ここらあたりは私見ですが、労働組合、労働者をまきこんだ典型的な共産党の手法だったと考えられます。

 この後、1948年公務員のストライキ禁止、1949年から1950年にかけて、共産党員とその支持者に対し公職追放が事実上GHQから指示され、また民間においても連動して解雇が行われましたが、朝鮮戦争勃発に前後するこの時期は米ソ対立の激化、すなわち冷戦の始まりであり、急速に占領政策が転換されていった時期でもあります。

 こういった国際情勢の激変にともなう占領政策の変更は国内情勢にも大きな影響を与えとくに労働運動は、左派から右派へと主導権が移っていき、1950年には、共産党の影響の排除をかかげる民同(産別民主化同盟)、右派、中道などの合同により総評(日本労働組合総評議会)が結成されました。この総評も結成一年を待たず左傾化していったことがその後の労働運動の対立抗争の一因と目されています。

 一方、職域では秘匿共産党員の侵蝕が激しく、通常の経済活動さらに復興にも差し障りが生じたために、有志を中心に執行部奪還運動が展開されるのですが、通常この奪還運動を民主化運動と呼んでいます。しかし世の中全体がまだまだ貧しく荒(すさ)んでおり、共産党員にシンパシーをもつ組合員も多くいたことから民主化運動が大変難渋したところも多かったと聞いております。全国的な現象だったといえますが、多くは組合員の生活改善・向上と歩調を合わせるように徐々に収束していったということで、詳細は各労働組合の運動史に記載されていると思います。

司会 なかなかの歴史スペクタルというか、激動の時代だったのですね。

加藤 まあ私見ですから、またバイアスがかかっていると思います。しかし、評価軸を立てて歴史を語るしかないでしょう。

 さて、1900年に入ってからの、わが国における労働組合勃興期も重要な歴史ですが、先ほど簡単に、簡単すぎて引け目があるのですが、戦後の労働運動も大変重要でして、とくに政党との関係がストレートにでており、労働組合と政治を考えるうえで、どこかで触れる必要があったということでしょう。

司会 特定の政党とはきびしい関係であったということですが、近年ではそういった記憶がずいぶんと薄れ、野党の一部といった受けとめが増えているようですが。

加藤 労働組合と政党との関係でいえば、労働組合を革命運動の前衛と位置づける当時の共産党の方針は受け入れることはできません。現在どのような方針なのか本当のところは知りえませんが、考え方の根っこの部分において連合系の労働組合とは大きな違いがあり、また歴史は消すことができないことからも、連携することは無理でしょう。

司会 そろそろ区切りをつけませんと、では政治と労働の距離感に立ちもどって、いかがでしょうか。

加藤 労働組合の政治参加は必要です。また、団体として意見をまとめ政治に対し発言することも同様です。しかし、そのことと政権に関与することとの間にはとんでもない距離があるのです。つまり政権に関与するということは権力行使にかかわることですから、政治参加とは次元の異なるものです。賛成、反対といった立場の表明だけではすまないのです。

 抽象的で申しわけないのですが、権力行使は政権の自由度の範囲の中でなされているといえます。それは外部からは政権の恣意性ととらえることができます。この自由度とか恣意性を有するからこそ政権の責任が浮かび上がることになるといえますし、そのプロセスについて人びとは許容するか、反対する、気に入らなければ次の選挙でペナルティを与えることで対抗する、という構図ができているわけですが、たとえば連合が選挙支援での貢献を背景に権力行使に強引に首を突っ込んでくるとなると、事情が変わります。そこには垣根があり、超えてはいけない結界があるのです。要請は要請にとどめることが適切な距離を保つことになるのではないでしょうか。いまのところ幸いにも、強い要請にとどまっていますが。

 昔、圧力団体という言葉がありましたが、連合あるいは労働組合自身そう呼ばれることをどう考えるのか、もちろん圧力団体が悪いという論はありませんし、表現を含めて自由です。またロビー活動ですから民主政治の一角であるといっていいでしょう。しかし、連合につながる多くの組合員は圧力団体であって欲しいとは思っていないと考えます。もちろん、労働問題など内容によるとは思いますが。

 ここに、連合に対する組合員だけではなく国民の、うまくいえないのですが、期待があると思います。単なる圧力団体になって欲しくないと思っているのです。ありていにいえば、もっと高尚な立場でいて欲しいということでしょうか。

 政権交代に寄与することは状況次第ですし、理解されていると思いますが、その政権に関与し、権力行使にかかわることは労働団体のようなきれいな袴(はかま)をはいた団体には似つかわしくないのです。

責任を取れるのかが分かれ道

 この場合のキーコンセプトは責任を取れるか取れないか、でしょう。つまり、責任をとることができないことに口を挟むのは良くない、ということです。2009年9月に民主党政権ができ、2012年12月に政権を失いました。当時の職場には期待はずれによる失望感や非難が溢(あふ)れていました。この状況において、だれが責任をとったのでしょうか。政権交代を叫びながら多くの組合員を巻き込みました。政治史に残る一大ムーブメントでした。始まりは良かったのですが、終わりはあっけなく惨めなものでした。このムーブメントの後始末をどうすべきなのか。

 民主党政権にはプラスもありましたがマイナスも少なからずありました。このマイナスの始末、いい換えれば責任はだれがとったのでしょうか。つまり、政治家以外に責任は取れないのです。政治家の責任は選挙で裁定されるのですが、応援団の連合や労働組合が責任をとることはできないのです。

 今でも、こんな政権を作るために俺たちを巻き込んだのか、もう二度とごめんだ、といわれます。

 だから、責任が取れないことに首を突っ込むと労働運動が弱体化します。程度の問題ではありますが、適切な距離が必要である、ということではないでしょうか。

司会 なるほど、理解できるところも多々あります。反面、理屈はきれいですが、そんな迫力にかける、上品なことでいいのでしょうか。労働者としてどうしても譲れない問題が起こったときは、倒閣運動など政権交代を求める行動は必要だと思いますが。

加藤 そのとおりです。ですが一点だけ、どうしても譲れない問題とはどんなことか、についてさまざまな議論がでてくるとは思いますが、たしかにそういう事態がありうることは否定しません。しかし、それでも倒閣行動まででしょう。それと、どうしても譲れない問題についてどれだけ議論ができていたのか、どの程度の合意形成があったのか、まさに組織活動の中身が後から問われてくると思います。

 やはり労働運動は民主的運営を基本としているわけですから、ある政治グループの意図的な暴走については十分注意する必要があります。まあ、きな臭いことには向かないのです。とくに、ユニオンショップ制を前提としている限り、その政治的展開には限度があると思います。

司会 今までのお話で、政治における政党の役割が常に政権を中心としたものであること、また労働組合が政治団体ではないことから政治との距離において入念な工夫が必要であること、政権交代と二大政党制との関係が対になったものではなく、今日のわが国の状況からいえば二大政党制の条件が整っていないこと、選挙制度も折衷的で必ずしも二大政党を目指したものではない、さらに政治と労働組合の関係でいえば、政治への参加は当然のことではあるが政権への関与には超えてはならない垣根があり、適度な距離が必要であること、また権力行使には大きな責任がともなうことから妄(みだ)りに関わるべきでないことなど多くの提言があったと思います。この流れを受けながら、これからのお話は労働の方に軸足を移していただきたいと思います。 

 そこで、政治と労働のかかわりは、労働が社会・経済においてきわめて重要な要素であることに加え、労働者のほとんどが有権者であり、また有権者の過半が労働者であることなど、考えれば考えるほどに密接な接点があるといえます。    

 しかし、そういった労働者をもっぱら代表する政党はありません。このあたりについてはどうお考えでしょうか。

5.政党と労働組合

加藤 確かに「もっぱら労働者を代表する政党」があってもおかしくはないということはそのとおりです。が、現にないというのも現実であり、この現実は今日までの歴史として形成されたものですから、そのまま受け入れるべきものでしょう。是非もないことです。

 ただ、先ほど指摘されたことですが、労働者が過半を占めるのに労働者が社会の中心にいないということですが、ほとんどの国がそうです。

 少し脱線いたしますが、米国の民主党に対する批判の中に、労働者の党を標榜しながら労働者に敵対しているではないかというのがあって、これがラストベルトのトランプ支持につながっているというのですが、エリート主義を抱くリベラリストの偽善性は世界共通のようです。日本もよく似ていて、私が政治と労働組合の関係にこだわる所以(ゆえん)もそのあたりにあるのです。

 話をつづけますが、労働者は存在として過半であっても、総体は政治的に一体でも一様でもないのです。さらに、労働者は政治的に一体であるべきとする原理も理論もなく、現状では政治的立場も一様ではありません。すなわち「労働者だから○○でなければならない」という文中の○○に当てはまる言葉を探すのはとんでもなく難しいのです。いいかえれば、労働者という言葉はありますが、これはずいぶんと抽象度の高い概念で、その言葉があらわすものは結構広い、広すぎるのです。

 それと、蛇足かもしれませんが、共産主義、社会主義国家においても労働者政権はないのです。政権にいるのは、党員であって労働者ではありません。また、共産党政権はありますが、労働者政権はありません。これは私見ですが、政治的に利用するためのプロパガンダとして「労働者」という語を使ったのではないかと考えています。

司会 経営者に対して労働者という言葉を使いますが、たしかにいろいろな意味で使いますね。

加藤 言葉の定義などは後回しにしますが、雇用労働者あるいは賃金労働者に共通している政治的要求たとえば連合の「政策・制度要求」にかかわる取り組みにおいて、そう、活動を始めてようやく「労働者」というものが、何かを共有する立場かもしれないと、初めて思いつくのかもしれません。変なことをいっていると思われるかしれませんが、たとえば、60年安保、70年安保世代においては、「労働者」と耳にした途端、まつわりつくような、べたっとした語感とお決まりのここから始まるストーリ展開が共有化されていた、あくまで語感としてですが、しかし今では相当に希薄化しているようで、それはそれでつまらないことにかかわらなくて結構なことだと思いますが、あまりにもやせ衰えてしまった「労働者」の語感にマイナスの感慨を憶えます。あくまで70年安保世代としてですが、だから今ここで議論されている「政治と労働」のかかわりが、そんな薄っぺらな普及度合いでしかない、労働とか労働者のことですが、状況ではたして議論として結実するのか、いい方を変えればギャップが相当あるわけで、話が通じるのかまあ心配ではありますね。

司会 70年安保だか団塊世代だか知りませんが、世代論は極力やめてもらい、語感がどうした、こうしたという議論の方を続けてくれませんか。

加藤 すみませんね。これは、初めに言葉としての「労働者」があり、たとえば、「政策・制度要求」方程式にx=労働者と代入すれば、労働者が納得する政策・制度要求がパタパタと浮かび上がってくるという空想上のマシンが成立するのは、要求が一様あるいは斉一であった時代に限られるのではないでしょうか。いいかえれば、労働者として同じ要求を掲げ同じ方向に向かって連帯しあったのは過去のことで、現代は違っているのです。先ほどのような便利な関数はすでになく、逆に労働組合が提起する政策・制度の要求内容から「労働者」イメージを推し量らざるをえないほど語感として希薄化しているという、結構面倒くさい状況になっていると思っています。

司会 はじめから世の中に労働者という語感が確立していたのではなく、確立していたのは70年安保世代や団塊世代が活躍していたというか、共通のというか共有できる世界があった時代までで、今となっては、政策・制度の要求と提言から逆に労働者を読み解けと、これまた、これこそ面倒くさい話ですが、失礼ながら語感についてこういった説明しかできない面倒な世代だということはよくわかりました。

加藤 面倒であるかどうかとか、失礼であるかどうかとかはさておき、相当に変化していると思います。淡水から海水に変わった、少なくとも汽水(きすい)にはなっているわけで、生物的には激烈な環境変化ではないでしょうか。にもかかわらず、運動論や認識は真水のままですから、ほとんど生きていかれないというか。

司会 少し過激なような気がします、気持ちはわかりますが。

加藤 分かっていただくのはいいのですが、指摘したい問題構造は結構複雑でして、たとえば、「力と政策」が全国民間労働組合協議会(全民労協、1982年~1987年)の合言葉だった時代は、力と政策は密接不可分で、いってみれば「せっかく力があるのだから政策実現のために使わなければもったいない」から、「いや政策実現にはもっと力が必要だ」という、循環論法のような堂々巡りを重ねながら、男女均等、育児・介護休業、不公平税制や規制緩和など多くの政策を磨いてきましたが、今世紀に入ると「要求の多様化」と表現は上品でありますが実態は要求の拡散、バラケ現象が目につくようになったわけです。

 その象徴が「保育所落ちた。日本〇ね!」であると思います。組合員に重要と思われる政策・制度要求を複数あげてもらうとして、「子育て、保育所」が何番目にくると思いますか。おそらく訴求度は高くて10%程度でしょうか、要求順位としては中の下ぐらいです。しかし、当人はせっぱ詰まっているのです。だから、全体から見れば訴求度はあまり高くはないけども、その優先順位をどんどん押し上げていく、というダイナミックな取り組みが求められるのですが、そういった柔軟な対応が労働組合にできるのか。つまり、単純に「最大多数の最大幸福」に終わらない議論の仕組みを持てているのかどうかが決定的要因になるのではないかと思われるのです。

 またそれは、単純なアンケートなどの調査にすがりつかず、一人ひとりのせっぱ詰まったニーズをリアルに浮かび上がらせることができるのか、さらにそれらにかんして活き活きとした議論ができているのかということで、それができているのなら、おそらく運動の求心力はどんどん高まると思います。

司会 先ほどのテーマと重なる内容だと思いますが、つまり、要求をどのように作りあげていくのか、マンネリ化してないかとか、そういった組織活動と呼ばれている分野にかかわることでしょうか。

加藤 政治と労働という舞台で、政策・制度課題を語るときに常々思うのですが、いつもいままで通りの項目をマンネリズムでこなしているから、面白くない、建前ばかりの理屈でなんか退屈、で結局政治へのかかわりなんていろいろいっているけど、「終わった活動」なんだと組合員に思わせてしまう、ここをなんとかしなければ、出口である政治への興味や関心は、いつまで経っても高まりませんよ、といいたいわけです。

司会 確かにいわゆる泥臭いといわれている項目などについては興味がわかないようですね。しかし、東アジアあるいは南アジアなどでは結構緊張が高まっていますし、安全保障などは盛り上がるのではないでしょうか。

加藤 盛り上がるとしても、国の安全保障、憲法などについては、労働者であることをベースとする政治上の共通の立場を論理的に形成することはできないので、関心の方向は一様ではありません。ということから、それらの政治要求としての求心力、動員力はともに限定されていると思います。

 余談ですが、60年安保、70年安保世代の「反戦・平和」論は、労働者にとって共感されていたとはいえません。さまざまでした。そういう意味で普遍性はないのです。また、労働運動が担(にな)うには相当無理があったともいえます。いいかえれば、それらの運動が今日衰退しているということが、環境の変化もありますが、もともと無理だったという証明ではないでしょうか。社会全体としての必要性は別の話ですが。

また、政治、行政の役割についての「大きな政府」「小さな政府」論も、労働者の立場からは一意的に決められないことから、評価があいまいになっているわけで、どちらの立場にも立てるのです。なんとなく反労組のようなニュアンスをもつ維新がそれなりに支持されている理由がここにあるような気がします。

司会 お話の中で興味深いのは、課題によって組合員さんの関心度にばらつきがあるという、これも当たり前といえばあたりまえですが、あまり深く考えてこなかったということでしょうか。

加藤 深く考えていなかったというのはきっと事実に反していると思います。雑談中に漏れてくる何気ないひと言にそういうものを感じたことがありましたが、その方が会議で大上段にそういった論を展開することはなかったと思います。 

 そう思っているが表に出すことはない、という姿勢だったのでしょうが、それで良かったんだと。しかし、支援している政党が政権を担うことになったその時から事態が変わったと思います。やって欲しくないことをやっている、という組合員の苦情も多かったし、八ッ場ダム工事は進めろとか、労働者とか組合員という立場を離れ、どんどん意見が舞い込んできたようです。職場には政府と労働組合が一体のものとして受けとめられていました。ここに躓(つまづ)きの原因の一つがあったと思います。

司会 本当は違うのに一体と思われてしまった、とか。しかし、取組方針は大会議案書とかに記載されているのではないですか。たんに読んでいなかった人の声を大きく取り上げてもどうかなと思いますが。

加藤 旧民主党政権の政策からは離れますが、何十年も職場で説明してきた運動方針の項目すべてが支持されていたわけではなかったのです。とくに、安全保障や憲法それに政治方針や政策などのテーマは常に喫緊の課題ではなかった、正確には個々の組合員にとって喫緊の課題ではなかった、だから意見がでなかったのです。説明の後、ふつうに拍手があるのですが、それは「ご苦労さん」という意味が8、9割で、方針への賛同とは離れたもので、反戦平和活動や政治関係はスルーされていたというのが真実だと思います。このあたりのニュアンスは職場で活動していなければわからないと思います。民間では早くから活動分野の整理が進められましたが、あんがい中央や政治家が遅れているのではないか、と感じています。

司会 では政治との距離感でいえば、職場はもっとも遠いということでしょうか。

加藤 すでに、活動分野の整理は進んでいるのです。30年前にくらべ産業政策の部分が厚くなって、イデオロギーに関係する分野は皆無のところも多いのです。職域では必要ないといった感じです。

 また、選挙でいえば、組合員の2、3割は労働組合役員や職場委員の意見を信頼関係をもとに聞いていると思います。また、他の2、3割はもともと支持政党を決めていると思われ、残りのうちの半分はその時のトピックスを重視し、最後の半分はいわゆる関心を示さない層ではないでしょうか。もちろん、裏付けのデータはありません、ざっくりとした傾向と受けとめてください。

司会 さまざまな取り組みをされていることを思えば、そいうことが事実なら寂しい限りですね。また、イデオロギー的にはどうなんでしょうか。

加藤 そういった、べき論からの反応は事実認識を歪めます。まず、現実をあるがままに受け入れることから始めるべきです。メディアから流されている評論にはバイアスがかかりすぎている、というのが率直な感想です。

 また、無関心とか支持なしといったくくり方に、ニュアンスの問題かもしれませんが、少なからず反発をおぼえます。いい難いのですが、独りよがりの評論家が無関心とか支持なしを見下している、と思います。無関心も支持なしも一つの政治姿勢として素直に受け止めるべきです。

 意見を持っていることが立派で、持っていないのは遅れているというか、意識低い系といった認識はどこから生まれたのでしょうか。それはバイヤスがかかり過ぎています。

司会 寂しいかぎりが、そこまでいきますか。意識低い系とかいってませんよ。(バイヤスかかっているのはどちらだよ)

加藤 今日的にいえば、政治意識の二極化がいき過ぎてさまざまな問題が起こっていますが、両極に走らないための心理的防衛が無関心や支持なしを装っているのかもしれません。それに自分の意見をもっているといっても、特定の雑誌やSNSの影響を強く受けているケースも多くあり、それも一つのあり方ですから、とりたてて無関心支持なしを劣位におく理屈はありません。

 問題は、生活を取り巻く諸課題の解決には政治プロセスに参加しなければ結果に結びつかないという実践的な学習が必要ですが、その機会が圧倒的に不足しているところにあります。その結果、政治プロセスへの参加意欲が形成できない、また社会全体として政治プロセスへの参加経験が少ない、という悪循環に陥っているのです。

 仮説ですが、選挙上の有利不利の計算にもとづき、政治プロセスへの参加を促進しない戦術を一強政党が選んだ場合、党利党略としては成功かもしれませんが、政治プロセスへの参加がやせ細ることによって、民主政治の劣化が起こり、それが国の将来に何をもたらすのか、真剣に考える必要があります。

 ということから、独りよがりの評論家根性だといって批判しているのは、色眼鏡と固定観念は過去に支配されていることの証明であり、さらに感情と理性の風化症状ですから、実に鮮度に劣るといいたいのです。労働組合も、無関心支持なし層について予断をもたずに受けとめる必要があるのではないでしょうか。真性の無関心もあると思いますが。

6.労働組合は政治状況をどのように受け止めているか

司会 具体例をお話しいただく段にはいいんですが、抽象談議ではけっこうバイアスがかかっていて、それに無自覚で...。

 では先に進みましょうか。それでは、労働組合として現下の政治状況をどう受けとめているのか、これはいかがでしょうか。

加藤 現下の政治状況ということでいえば、ややマニアックな議論になりますが、現在の自公連立政権自体が親労働者政策ともいえる混合政策を選択していることから、政権選択基準があいまいな状態で総選挙が行われる、つまり有権者にすれば薄暗がりでどちらともつかない状態で投票場に追いやられる、そういった選挙の意義というか角を丸める状況が恣意的に作られています。これは王道ではなく、トリックに近いもので、困った癖といえます。

 このような状況下で、労働組合が政治的立場や政策を明確にできないまま、政権選択の渦中に飛びこむことは、一言でいえば不用意で危険、得られるものよりも失うものの方がはるかに多いと思われます。

司会 「労働組合が政治的立場や政策を明確にできない」というのはちょっと違うような気がしますが、それはおきまして、労働組合はとまどっているということですか。

加藤 とまどいには二種類あると思います。その一つは、同じことの繰り返しになりますが、労働者だからといって与件的に政治的立場が決まるものではないということでして、よくいわれる労働者階級も階層も空想的観念であって、実在する労働者は全人格的存在であり、その政治上の立場は選択的であるといえます。この選択的というのは労働組合の手に負えないものです。

二つは、政策・制度要求への関心を高めようとしていろいろ工夫をしてはいますが、本質的な課題として、個別政策においてもこれを是とする全体的価値秩序、たとえば統合化されたものが示されなければ、損得だけの個別政策バーゲンセールに堕するともいえるわけで、つまり政策を実現する力を結集させるためには、政策を帰納的に積み上げるだけでは不十分で、全体像を鮮明にする演繹的展開も必要といえますが、そんな演繹的展開がたやすくできるのかといえば、大変難しいわけで、どうしてもここで行き詰まるのです。

司会 行き詰まるというより息詰まりますが。

加藤 息詰まらせないためには、大きな話は無視して、バーゲンセール的個別政策を受け入れることです。これは表面的な損得に特化した対応で、ずい分と楽ではありますが、先々辻褄が合わなくなる恐れがあるのでお薦めはできません。といっても、難しく考えすぎて何もしないよりはマシではないかと、割り切った考えもあります。

 となると、最低賃金の引き上げや賃上げを支持、あるいは指示する現在のアベ政権(2020年5月当時)は評価されるべきではありませんか、となりますね。どうでしょうか。

司会 評価する雰囲気にはありませんね。

加藤 そうでしょうか。幹部はそうでしょうが、組合員はどう受け止めているのでしょうか。

 内心受けている、というのが多数ではないでしょうか。つまり、幹部というのは過去を背負って素直ではないのです。先ほど、親労働者政策とか混合政策といいましたが、個別に見れば素直に評価していいのではないかと思います。

 逆に、それをしない理由、いいかえれば素直になれない理由は何でしょうか。おそらく、そんな撒き餌のようなものに引っ掛かってはいけないというのでしょう。ここは大変重要で、どうしてと思っていますよ、組合員は。

 また、アベ政権のもとでの改憲には反対といった局面状況に左右された主張がまま見受けられますが、これもどうしてと組合員からは思われているでしょう。

司会 それは、右寄りのアベ政権では危ないというか、本心を隠しての甘言というか、危ないぞといった感じで、つまり、理屈ではなく心情において理解できるのですが、いけないでしょうか。

加藤 では左寄りの政権ならいいのでしょうか、危なくないから。変ですよね。まあ、それがとまどいの典型ですよ。問題は情緒的というか、情緒的すぎるのです。昨日の気分と今日のそれは同じようなといえるかもしれませんが、一年前の気分はどうでしょう。憶えていますか、ないと思います。つまり、論理性を持たない情緒などは記憶に残りにくい、だから続かないのです。

 大会当日その時間における参加者の気持ちは共通していても、一年後はどうなっているのかわからない、ほぼ憶えていないということです。

 この問題は野党の質問に顕著に現れています。情緒を根拠にした、あるいは気持ちを前にだした追求は時間とともに大きく減衰することを肝に銘じてほしいですね。あったことは憶えていても、なんであったかは忘れているのです。時間と共に去る、のです。

司会 論理性をもたなければ記憶に残りにくいですか、これはこれでしっかりと議論すべきだと思います。とはいっても脱線気味には変わりませんが。

 労働組合として現下の政治状況をどのようにとらえているかですが、政権選択基準があいまいであるので、そこに突っ込んではいけない、突っ込むならもう少し明確にすることがあるだろう、ということで話はわかるのですが、一番の問題はでは労働組合としてどうすればいいのかということになりますが。

加藤 どうすればいいのかについて、それは政治ではなく政党との関係に着目しなければなりませんので、その前に、労働組合として政策に着目するのか、あるいは政権に着目するのか、ここをはっきりさせなければいけません。

 表現はさまざまですが、労働組合の関係者によくよく聞いてみれば、政権への執着としか思えないことも少なくないのです。政治状況を改善するための政権交代といいつつ、それは政権への執着ではないかとも思えることもありまして、まだまだ整理ができてないと受けとめています。

 はっきりといえることは、労働団体と政治団体とでは使命が違うのです。応援団はどこまでいっても応援団です。政権への執着を断つことができないのなら政治団体とすべきです。

 少し複雑な話になりますが、労働は政治の部分集合です、大きくいえば。だから、労働が政治にことを構えるには、選挙という経路が必要で、そこには政界という既存の仕組みがありますから、労働を受けもっている労働組合はどこまでいっても脇役です。もともと団体の性格や使命からいって自ずと限界があるわけで、ことと次第によっては、既成権力である政治側として労働からの介入を無力化する意図を持つかもしれない、つまり、神経毒を放つかもしれない、歴史に学べばある程度想像がつくと思うのですが、労働組合の当事者は常にその種の問題意識を持つべきだと思います。そういった神経毒を放たれたときにうまく解毒できるようにしておくにはどうすればいいのか。これ以上は控えますが、あなたのような温室育ちがボケてしまっては「労働」を守れないということです。

7.政党と労働組合は対象関係にはない

司会 ? 少しハッとさせられました。とくに神経毒が具体的に何を指しているのか興味深いのですが、同時にそんなことがあるのかとも思いました。では政党と労働組合の関係に移りましょうか。

加藤 ありがとうございます。政党と労働組合という団体としての関係ですが、現在のところ反労働者政党は見当たらないということです。むしろ、多くの政党は自らの支持基盤へ労働者つまり労働組合をかこい込みたいと考えているといっても過言ではないでしょう。しかし、労働者政党だとは宣言しない。ここに政党と労働組合が対象関係にはない現実が見えます。

 その土台には、労働者・非労働者という区分けが政党選択の色分けに直結するものではないという、これもしつこく述べてきましたが、基本原理があるわけでして、このことから政権を目指す政党は小選挙区への対応を考え、さまざまな人を包み込む国民政党の総構えを前面にだすのです。

司会 政党と労働組合が対象関係にないというと、しかし分かりにくいですね。対象関係とはどんな関係ですか。

加藤 労働組合だけに限ったことではありません。用語法としてどうかはともかく、政治団体以外の団体を考えたとき、それぞれの団体には定款や綱領などに書かれた設立目的や任務などがあるわけでして、それがメンバー構成や活動を規定しているのです。当然のことですが政治団体とは異なった使命を持っており、一義的に特定の政党を支援する構造にはなっていない、ということは対象関係にはないということです。つまり、べき論はない、任意である。勝手であるということで、労働組合あるいはその他の団体は政党支持についてはその都度自由に決めていいということです。ということはやらなくてもいいということと同じで、無理に応援する必要はないのです。

司会 失礼ながら、無理にひねくり回しているようで、そういったことはわかり切っていると思うのですが。

加藤 いや大事なことは、団体として支持したり応援するには積極的な理由が必要だし説明する責任があるということです。逆にいえば、応援される側である政党には応援される理由も説明責任も必要ないのです。「ありがとう」で十分です。

司会 それは常識を難しくいっているだけのことでしょう。

加藤 飛躍しますが、たとえば選挙前に結んだ政策協定に違背することがあったとしても、何の問題も起こらないではありませんか。「TPP反対」でも条約は締結されました。もちろん、政策協定なんぞ何の役にも立たないといっているのではありません。一般的には大切なことだと思いますが、マニフェストが不特定多数との協定だとしても、結果として約束は大いに破られているではないか、ということで対象関係にない団体との約束は、政党は破ることがあるといいたいのです。

 つまり、選挙に向かう政策協定とか共同宣言とかは応援する側の理屈であり都合であって、応援される側はそれなりのことなんです。これが政党と労働組合などの団体との関係の本質なのです。

司会 もろい関係であると。それなりというのがイマイチですが。

加藤 もろいというより政党の勝手が優先される関係で、不平等条約に似ています。

 政治参加は必要です。が、政党に約束を守らせるためには、覚悟と手段がいるということです。手段としては違背したときのペナルティを強化することです。厳重なペナルティなしに政党や政治家を動かすことは困難です。寄付金の問題もありますが、もっとも効果的なのは落選運動とはいいませんが、不支持の決定を理由をつけて公表し、徹底することでしょう。それには労働組合の組織のままでは限界がありどうしても甘くなってしまいます。それを乗り越えるためには政治団体として強い活動を目指さなければなりません。そのためには強い動機が必要ですが、それがあるのかどうか、またメンバーシップを確立できるのかどうか、ということでしょうか。

 念のため申しそえますが、政党側に悪意があってのことではありません。そういうものなんです。だから、当選運動よりも落選運動のほうが効果があるのです。労働組合はきれいな袴をはいた組織です。だから、当選運動しか口にできないのです。それでいいのですが、それだけでは仕切れないというのが今日的状況ではないでしょうか。

司会 少し理解できたようです。たしかに、落選運動を職場委員会に提案したら、内心賛成であっても採決では躊躇(ちゅうちょ)するでしょうね。

8.議員と政党の関係は共生に近い、共有する利益がなければ崩れる

司会 では、具体論にはいっていただくということで、議員と政党の関係などはいかがでしょうか。

加藤 政党と議員ではなく、議員と政党という順ですから、議員に軸足をおきますが、経験からの感想として申しあげます。まず、国会議員にとっての関心事項は、再選、資金、組織、理念、政策の順が一般的です。一般的というのは過半の議員についていえるのではないか、ということです。もちろん、一般的でない人も多々見られますが。

 組織は政党と置き換えることができます。これは、あくまで旧民主党や自民党を対象としたもので、他は党の成り立ちによって、たとえば政党あるいは組織優位のところがあるのも事実です。その場合は、順位が変わります。

 このあたりの議論は、よくいわれるように、わが国には政党法がなく、「国会議員政党」色が強い。つまり、初めに政党ありきではなく、国会議員が集まれば政党というのが実態ですから、良くいえば柔軟であり融通が利きますが、有権者との権利・義務、契約(マニフェスト)、党員・地方議員・地方組織などは厳密にいえば言葉足らずであったり、不明確であったり場合によっては不確定といえます。

 もちろん綱領・規約などはありますが、現実の運用はなにか恣意的でその時の雰囲気というか、空気と忖度が優先されている感じがあります。といったことから選挙互助会とか政権談合組織と揶揄(やゆ)されるのでしょう。

司会 確かに硬質な構造ではなく、限りなく柔らかい軟体動物を連想しますが、裏づける法律がないということですか。

加藤 法律はあります。政党を規定するのは、公職選挙法と政党助成法および政治資金規正法であり、後の二法は形式規制が中心となっていて、政治活動などの中身に踏み込む建付けにはなっていません。それは政治活動の自由を優先するためで、これはこれで当然のことであります。しかし、問題が発生したときに何を判断基準とするのか、有権者として戸惑うことも多いと思います。しかがって、最終的には次の選挙で決着をつけることになりますが、ではその選挙についても多くの課題があります。

 そういった選挙制度との関連が、つまり選挙制度が政党を規定している側面が大きいといえるのですが、このあたりの議論は結構紛(まぎ)らわしいので、整理が難しいと思います。

 たとえば、政党は政党要件のみでいいのか、さまざまな考えがあります。たとえば、比例区での政党名投票がある以上、名簿搭載候補者についての規定や当選後の活動について規制する必要があるわけで、また離合集散の舞台回しにしても一定の規律が必要だと思います。そうしないと政党の責任があいまいというか、ドタバタしていて見ていられない、つまるところルールがグチャグチャでは観客は真剣に観戦できない、だから関心が低くなるということでしょう。

司会 直近の野党合流も確かにもっと盛りあがっていいはずですが、ルール不明がその原因であるとは気がつきませんでした。

加藤 政党は本来公器であるはずですが、今のままでは有権者としてオーナーシップを持てない、どこかよその話になってしまっている、日本社会の契約性の欠如のマイナス効果の一例だと考えています。

司会 同感ですが、契約性となると話が相当飛躍しますので、意味は理解しますが、すこしおさえていただき、議員と政党について、労働組合の受け止め方などに絞っていきましょうか。

有権者が選ぶのは政党なのか議員なのか政策なのか

加藤 はい、たしかに契約性の欠如などに不用意に飛び込みますと議論として出口がわからなくなりますね。ありがとうございます。

 さて、新たなテーマとなりますが、有権者が選ぶのは、政党なのか、議員個人なのか、政策なのか、どうでもいいと思われる方もおられるでしょうが、この政党・議員・政策を頂点とする三角形をすこし考察しておかなければ、と思います。

司会 3点とも重要である、でよろしいのでは。

加藤 そうなんですが、一応分析ですから、手順です。そもそも有権者は何にこだわって投票しているのか、さまざまといえますが、ここが最大のポイントでしょう。政党間競争に強い関心をもっている人もいれば、議員個人に好感をいだいて投票している人もいれば、特定の政策に着目する人もいるでしょう。個人の判断で決めることですが、労働組合として「おすすめ」する場合の根拠、それも団体組織としてまとめるとなると、これは簡単ではありません。

 旧民主党時代は、政党、議員、政策の3点セットで推薦あるいは支持を決めていたのでやりやすかったと思います。それが分流したことから、潜在していたもろもろの課題が顕在化したわけで、いわゆる二つの流れになった、共通する部分も多いのですが、相容れない部分もでてきました。また、法案の賛否においてもいくつか別れたとか、要するに隠れていた違いが表にでてきたのです。それらの違いは、評価としてゼロあるいは100ということではなく、まだら模様となっているのです。

 このような流れは、A党のすべての議員がダメとかそういうことではなく、反射的に古くからいわれてきた人物本位という視点を浮かびあがらせるということになりますが、この人物本位も決定的な出口にはならない、十分とはいえない、すなわち党議拘束のもとでは無力ですから、政党と議員を切り離して評価軸を作るのはなかなか難しい作業であり、本当に悩ましいといえます。

 という難しさがあるといいつつ、労働組合の現場では、現に選挙区では特定の議員との密接な交流を持つことも多いわけです。くわえて組合員個々の事情において議員との関係は、親疎の程度はさまざまですが、積みあげられている、結果として微視的には日々染まり続けているといえます。

 だからというわけではないでしょうが、この間、野党から自民党への鞍替えがありましたが、支援者の中で賛否が分かれることは当然ですが、議員を信頼し理解するケースも多いといわれています。長年にわたって議員を支援してきた労働組合としての判断と、組合員であるが支援者としての判断とが違ってくることもままあることです。

 

司会 ミクロな関係が、この場合どれだけのものなのか、あまり一般化していない特別なケースをわざわざ取りあげて議論すべきなのか、といった異論があると思うのですが。

加藤 確かにあるでしょう。しかし、選挙は、もちろん選挙を支える日常活動もふくめ、得票総数はマクロでも、一票、一票はミクロですから、細部を見つめなければ、と思います。

司会 そういう論点は理解していますが、今は構造的というか、俯瞰的分析を前面に進めていますので、よろしく。

加藤 では、ご注文に応じて、政党、議員、政策の3点セットを前提に、また労働組合の立場でどういう支援の理屈が作りあげられるか、ということに絞り話を進めますが、3点目の政策ですね。

司会 現時点でいえば、連合としては立憲民主党の政策を中心に受け入れているということで、まとまっていると思いますが、なにか問題でもありますか。

加藤 そこは、正直よくわからないのです。評価軸について詳しいことはまだまだ伝わっていないということでしょう。個別政策では安全保障に関して連合の今日的スタンスがどうなっているのか、残念ながらわかりません。

 日米関係を基軸に、というラインは間違いないと思われますが、2015年の安保法制を是とするのか否とするのか、つまり、外交防衛政策について、労働団体の立場でどのようなかかわりがありうるのか、またできるのか、それによって議論は大きく変わると思います。

 先日、日米豪印の4カ国外相会合(10月6日)が開かれましたが、新しいページに移った感じがします。これは単純に中国への対抗だけにとどまるものではなく、中国に対し柔軟な関係もふくめ多様な可能性を模索しているとも受け止められるし、私は事実そのように受けとめています。中国包囲網という文脈だけでは難しいでしょう。ただ当面は対抗性が表であることは間違いありませんが。

 さらに、日米安保を基軸とした上で、米中激突にあってわが国の進路はいかにというカテゴリー化されたテーマと、インド洋、西太平洋を視野においた安定化工作という、中国にとってもプラスを見いだせる提起、つまりテーブルへのいざないもあると考えれば、緊張と緩和の両刀遣いとなりますから、本当にダイナミックな展開もありうるのではないか、ということから安全保障政策の近未来のイメージについて、労働界も従来思考から大いに飛躍するのではないかと、思っていまして。

司会 ミクロかと思えば、とんでもなくマクロに飛び上がって、ついていけないというか、ついていきたくないというか。それと、今日は5月17日ですから、10月のことはいわないでください。時制は守って、自制してください。

加藤 では視点を変えますが、連合を構成する産業別労働組合にはそれぞれ産業政策があります。産業を維持発展させる視点からの政策群といえばいいでしょうか。たとえば、自動車産業の発展を考えれば自動運転への政府の支援は強く求められるでしょうし、エコカー減税も重要です。航空産業でいえばコロナ禍での減収は産業の存続に直結します。このように、産業ごとに数多の政府へ

の要望があり、さらに政策によっては相互に背反するものもあり、また、雇用に直結するケースもあり、なかなか複雑で深刻な状況です。

 これらの政策群の森に立ちいると、思わずこんな課題を野党経由で処理していて間に合うのか、と。もちろん、政府や省庁へ要請行動をおこなっているとは思いますが、政策のことを知れば知るほど、与党や官邸との距離のあり方に産業別労働組合として迷いが生じるかもしれません。大変微妙な問題ですが、せっぱ詰まった状況であればなおさらのことです。民主党政権は3年3ヵ月でしたが、残念ながらほとんどの政治資源を震災や原発事故対応に注ぎ込まざるえず、もちろん復旧、復興を優先するのは当然ですが、政権担当期間が短すぎて産業別労働組合からの産業政策とか関心政策の需要には追いついていなかったと思います。

 さらにいえば、輸出産業においては国際環境が決定的な要因ですから、PTTに代表される国際協定や政府間交渉がきわめて重要です。早晩、野党では無理だという声があがってくるでしょうし、表面的には関係ないのですが米国のラストベルトの心情と通底する何かがあると思っています。米国での民主党は何もしてくれなかったという声が、日本の場合は為替だったんですが。

司会 個々の産業が強くなることが、まあ国際競争力を高めることにつながるのでしょうが、それが選挙での大きな争点、あるいは集票につながると単純に考えていいものか、疑問もあると思いますが。

加藤 つまり、多面的要素があり、簡単にいい切れることではないのですが、ご指摘の選挙の争点にかぎった議論でいえば生活周辺のウェートが大きいといえますが、労働組合という中間団体が介在する場合には雇用、競争政策、技術開発、国際協定など抽象度の高いテーマを議論する必要もありますね。

 ということから、まあ産業によって相当な違いがあるのですが、また産業政策というと語感的に違和感があるかもしれませんが、国家・地方公務員では給与法や特給法などが重要ですから、産業政策というより産別関心政策といったほうがわかりいいと思います。つまり、産業別とは産業、業種に特化した意味ですから、政策・制度要求においてもそういった性格が前面に出てきてとうぜんです。逆に核心的利害かもしれません。くわえて、経営サイドの利害と一致することも多く、経営側が与党パイプ、労組側が野党パイプと、結果的に役割分担が形成された時代もあったと聞いています。

 古い話ですが、三公社五現業といって国鉄・専売・電々の三公社に郵政・印刷・造幣・国有林野・アルコール専売の五現業を加えた総称でしたが、それぞれ株式会社、独立行政法人などに衣替えとなりました。分割民営化とも呼ばれたわけですが、たとえば、JRでいえば北海道、四国の二社の事業基盤は人口減少あるいは過疎化の影響を受けきわめて厳しい状況といえます。労働組合の立場でいえば産業政策イコール事業の安定化ですから、組合員としても高い関心を持っているといえます。各論はさておき、このように多くの産業別労働組合は産業基盤、業種基盤に重大な課題を抱えているのです。という実態を深く認識していただいた上で、先に進めたいと思います。

 さて、細部といえば細部ではありますが、産業別労働組合にとって死活的といえる産業政策や産別関心政策を念頭においた時、政党・議員・政策の3点セットをまとめるとして、産業別労働組合の数だけ3点セットパッケージができるわけですが、全体としてこれをどうまとめればいいのか、最大公約数でいくべきか最小公倍数でいくべきか。など考えれば考えるほど、難しいことに気がつくわけで、そうなると一体的な取りまとめは諦めざるをえないことになります。

司会 最大公約数というのは、共通した評価のある政党、議員、政策をもって支援対象とする方式で、最小公倍数というのは少しでも評価がある政党、議員、政策であれば支援対象とするということでしょうか。まあアンド、オアの論理式ですかね。あまり意味がないようですが。

加藤 反省せよということならそうしますが。意味がないということについては、そうでしょう、考えてみれば意味がないのです。たとえば、議員でいえば、消費増税を唱える議員を小売業者が支援することはないでしょうし、また反原発を唱える議員を電力事業に携わる労働者が組織的に支援することはありえないし、それは非難されるものではありません。つまり、3点のうち、議員と政策についての評価は、個々の産業や地域の判断が優先されてしかるべきであり、そういう意味でいえば、産別が自ら決める事項であるといえます。面倒ないいまわしで申しわけありませんが、結論をいえば、産業政策あるいは産別関心政策の多くは産別固有の課題であり、連合全体の場で議論するのは適切ではないということなんです。もちろん、例外もあります。たとえば公務員の労働基本権問題ですが、これを正面に据えたのは英断だったと思います。

 さらに、3点セットのうちの議員・政策の過半について賛同しかねる政党を最小公倍数的に支援することが事実上可能なのか、地域、職域レベルでは悩ましい限りです。政治活動、とりわけ選挙につながる活動は組合員の理解がなければ空回りとなります。

産業政策を担う参議院比例区選出議員

 そこで、産業別労働組合にとって重要な役割を果たすのが、参議院比例区選出議員なんですが、残念ながらその経緯や役割についてあまり知られていないようです。古い話になりますが、敗戦後の日本の政治をどのようにしていくかという基本テーマについて、もちろん憲法議論ですが、議会制度についてはGHQは当初一院制だったのです。これに対し、二院制にこだわる日本側の抵抗が強く、結果としてGHQ側が折れて現在の参議院が誕生したのです。ただ、その時のGHQ側の条件が職域選出議員をいれること、これは参議院の事務局から聞いた話ですが、でそのGHQ側の真意は産業における民主化であったと。

 まあ、GHQの戦略はさておき、職域となると選挙区選出議員よりもはるかに産業代表性が強くなることはあたりまえです。

 ではこの職域なり産業を基盤に当選した議員は、全国横断型でさらに特定の職業あるいは産業、業種にくわしい、またつながりが強いということですから、行政にすれば、その議員の発言などに注目するのはとうぜんであります。

 地味ではありますが、議会の活性というか議論の中身や質を支える貴重な役割を担(にな)っているといえます。

 とういうことから、産業別労働組合として産業政策あるいは産別関心政策の窓口としての比例区選出議員のウェイトがどうしても高くなるのです。

司会 ようやく、いわんとされるところが見えてきました。ただし、少しですが。

加藤 つまり、全国中央組織として、選挙における政党支援を一体的に決めることは場合によって可能かもしれませんが、対象を1党に絞り込むことには「難しさ」もありますが、それ以上に「危険」もあるということでしょう。

 あそこのハヤシライスはずいぶんうまいよ、一度食べてみたら、といった「おすすめ」では済まされないわけです。牛肉が食べられない人にすすめることはできない、そういった相手の事情を無視したおすすめはおすすめではない、というのが常識ですから、ましてや食物アレルギーのある人にすすめてしまって、後の責任はどうとるのかといった事態が生じてしまったのでは本当に「やばい」、ということで飛躍しますが、上部団体の決定を下部が上書きできるし、そうすべきであるというのが隠居の結論です。

司会 たしかに産業政策あるいは産別固有の課題に焦点をあてた産別関心政策が選挙での争点としてそれぞれの労働組合で取り扱われるとなると、推薦なども産別専権事項だとの主張がでてきますね。なるほど、一体的対応がほころびてしまうとの危惧ですね。そこで、先ほどの隠居の部分は無視いたしますが、さりとて、そういった流れを放置すれば、権威というか秩序が乱れるのではないかという別の危惧がでてきますが。

加藤 そういった問題の玉突きがあると思いますが、ただ権威とか秩序といった問題ではありません。はじめから関係ないと思います。なぜなら労働組合は権威主義とは一番遠い組織ではありませんか。また、労働組合の秩序は民主的手続きの上に成りたつものです。さらに、政策・制度課題の改善は主任務ですが、どの政党を応援するかは手段であり、主任務とはいえません。ちなみに1989年当時は「構成組織に委ねる」ものだったのが、民主党が発展するに従って「民主党」支援でまとまったわけで、状況が変わった以上、原点に帰ったほうが「安全」だと思います。軟弱土壌に堅固な建物を立ててもどうかな、柔構造のほうが見かけはよろしくないけども、いいのではといった感じです。

司会 なぜ、ここで「安全」がでてくるのか、唐突感がありますが。

加藤 先に「危険」という言葉を使いました。これをどう受けとめるかということです。たしかに、2009年当時の民主党がまとまっていたときへの復帰、なにかしら王政復古に似たニュアンスがありますが、そういった復興運動が意味を持つことがありうることは確かです。また、最低でも2017年9月以前への復帰を連合首脳が希求したとしても、2019年の参議院選挙の結果を踏まえれば、故なしとは思いません。 

 そういう流れを思えば、連合首脳としての懊悩についても共感理解できるところではありますが、さりとて歴史的洞察に立ったときにそういった復興運動に必然性がありうるのかとの疑問が反射的に誘起されることも当然ではないか、といったあれこれを織り交ぜた、必ずしも簡単ではない構造問題を前にし、頭を抱える、平たくいえば関係者すべてが分かった上で悩んでいて、だれかれが悪いというでもない状態が続いている、ということで文章を切らずにダラダラ申しあげるのも、いったり来たりの悩みの渦潮に足をとられているところを表現したい、そういう思いであります。

司会 ちょっと、渦潮に溺れてませんか。帰ってきてくださいよ。ところで、復帰、復古とか復興運動とか、文脈的には異物混入ではありませんか。

加藤 先ほど、2017年末の分裂、分流が2019年の参議院選挙の連合的には惨状を生みだしたのではないか、という大きな悔恨があると、誰かに聞いたわけではありませんが、そういう気持ちを踏まえれば、せめて2017年9月以前に返ることができればという心情は大いに共感できると思いませんか。だから復興運動という言葉を遣(つか)いました。

 しかし、時代は待ってくれないのです。非可逆的反応ですから、歴史は。そして、歴史が作られているのは組合員が働いている現場なんです。そこが非可逆的なんです。とくに、この2年間の変化には激しいものがあって、そう運動現場の変化が一番激しくて速いのです。長い期間この運動に携わってきましたが、現場から離れれば離れるほどある種の緩(ゆる)さがでてくるのです。

 司会 悉皆説明をしっかりといいたかったのでは。さて、社会的影響力という視点ではどうですか。

不思議というか当たり前というか。また、人の気持ちはもとには戻りません。

司会 もうそろそろ、ですね。 

加藤 はい、やや単純化の嫌いがあり、気分が落ち込む議論ですが、しかしそうはいっても大衆運動としての労働運動の性格からいって、悉皆(しっかい)説明が求められるので、一応の整理が必要なので愚にもつかないことを申し上げました。

 そこで、何が「危険」なのか、少し穿(うが)ち過ぎだと自分でも思いますが、いきががり上指摘してみます。

 まず、第一に一点張りのリスクがあります。第二に、一蓮托生ですか、できたての政党と運命を共にするのですから、これを「危険」といわずして、、。第三に、現場からの遊離です。産業政策とかがあります。あくまで、組合費を払う人が主人公となるべきです。主人公の意にそぐわないことは「危険」を招くかもしれません。

加藤 社会的影響力ですか、言葉はわかりますが、どういった文脈なのか、ここにでてくることが理解できません。世間では現状を労働組合の社会的影響力の喪失過程と断じる人もいます。そこまでいわなくてもと思いますが、またメディアの評価が適正だとも思いません。が、残念な状況にあることは事実です。  

 しかし、距離をおくことによって新たな役割が見えてくると思います。これからの日本においてもっとも期待されるのはオピニオンリーダーではないでしょうか。それも力をもった。そういう視点にたてば連合あるいは労働組合が第一等の候補でしょうから悲観することはないと思います。

司会 まだ曇っている、正直なところ。やはり、産業政策ですね、あるいは産別関心政策でもいいです。それらは、連合全体で議論すればいいではないか、と単純に思ってしまうのですが、そうもいかないのでしょうね。

加藤 テーマというか内容によりますね。共有化できるものならいいのですが、産業や業種特有の課題はどうでしょう。関係ないということならまだしも、利害関係があると調整が難しいですね。たとえば、TPPは輸出産業からいえば賛成となりますが、農業関連では死活問題ということで大反対でしょう。また、官民の垣根問題もあります、いわゆる民業圧迫です。1980年代は公務の効率化が議論されました。民間企業の効率化志向から見れば当時の行政はなっていなかった、ということで行政改革を支持する民間労組は多かったのです。さらに、産業間、業種間利害はけっこうありますし、これらは裁定できないですね、連合では。だから、持ちこまれても困るのです。このあたりは、連合結成前からの議論ですから。そこで、部門連絡会などを設けて迂回というか、散らしているのです。あくまで当時の議論ですが。

 ここで結論づける気はありませんが、産業政策あるいは産別関心政策の重要性が高まれば高まるほど、連合的には遠心力が働くわけですから、そういった局所的な政策・制度課題は産別の専権事項とする、ということです。ただ、それと政党の方針がずれた場合、産業別労働組合とその政党との関係は難しくなります。この問題はこれで終止符としましょうか。ちょっと、機微にふれますので。

 (まあ、政党を操りながら社会的影響力の増長を図るなんざ時代錯誤もはなはだしいし、政党だってそんなヤワじゃねえってわけで、本業で頑張るのがスジってもんじゃねぇですか)

9.議員と労働組合の関係では議員の甘えすぎが目立つ

司会 タイムワープしそうなので話題を変えたいと思います。「議員と政党」をテーマとしていたのですが、少し脱線気味でした。そこで、議員と労働組合という視点に復帰していただくということで、よろしくお願いいたします。

加藤 いささか不本意ですが、復帰いたしましょうか。

 まず、議員にとっての労働組合、議員から見た労働組合というのは、便利で重宝なんでしょうね。とくに拠点、多くの場合組合事務所ですが、そこで信頼関係ができれば、会議や研修会で国会報告が可能になる、議員にとってチャンスです。また、講演を依頼されると、後援会が向こうからやってくる感じで、堪らないでしょうね。そこで、営業範囲を広げていくわけですが、地域連合などの集会で紹介される立場が重要で、そういう意味では、連合本部から推薦を受けていることには価値があるといえます。しかし、見方を変えれば、こんな美味しい関係は堕落の始まりになるともいえます。

司会 ピッピ、堕落というのは、不穏当では。

加藤 いいかえれば、目線が高くなるのです。よく、国会議員が事務所を訪問すると最低でも三役対応で、VIP待遇です。ということで、こんなことが続くと、平の執行委員などは目に入らなくなる。「あなたはいつもうちの委員長と親密にお話されていますが、私は関係ありませんからね。」と思っている執行委員は多いのです。だから、あそこは委員長を抑えているから大丈夫とかいって、足元が浮いている議員が多いのです。

 労働組合というのは相互批判をベースにしている組織であって、民主的運営というのは専制を排除するのです。また、事務所は組合員に開放され、いつも接遇しています。組合員は組合費を納めているいわばオーナーですから、そのひと言が重い、だから「何だあれは、偉そうに」と思われたらおしまいです。そういう意味で事務所は実は修羅場なんです。それが、若い議員はおわかりでない。うわべだけではなく、本質を見抜く組合員は多くおられますから。

 みなさん楽(らく)して堕落していくのです。日常活動の話ですが、後援会作りをサボっている議員さんは本当に選挙が弱いですね。そのくせ、党内では何かと文句をいわれますが。

司会 嫌な経験でもあったのでしょうか。リアル感がハンパない、です。

加藤 嫌な経験なんてありませんよ。残念なことが多いだけです。その一つが、

一部の議員ではありますが、「最後は連合はついて来るから」というように、選挙区において、与野党の対立構造がある限り、どんなに不満があっても連合総体としては他に選択肢がない、つまり票は頂けるものだという認識が故意に広げられました。

 2017年の暮れですが、立憲、希望、民進(参議院)、無所属に分かれていたどんよりとした難しい時代でした。もともとは、つまり衆議院選挙には民進党からは立候補しないことを決定し(希望の党からとなったが、選別とかでぐちゃぐちゃになった)、参議院はそのまま民進党として事態を見守ることにしていたわけでしたが、衆選で立憲が健闘したことから、参議院議員の立憲への流入が浮上してくるのです。多くの議員が連合の支援がどうなるのかという不安を持っていましたので、先ほどの「最後は連合はついて来るから」というフレーズを使って説得、勧誘が行われた、強引なものもあったと聞いています。

 それはおき、本来、参議院の民進党を割る合理的理由はなかったにもかかわらず、議員の不安心理を突いて、立憲へのリクルートが行われた。このことが、のちの合流協議において参議院での信頼の醸成とかの条件になった、きれいな表現ですが、そもそも合流協議で信頼の醸成がテーマになることが不思議ですよ。不信や対立をのりこえて、まあ目をつむって進むのが普通なのに、残念ながらそこに焦点があたってしまった。

司会 合理的理由がない、というのはどういうことですか。

加藤 参議院はそのまま民進党として事態を見守る、というのが本線であれば、そのまま2019年の参議院選挙を一致団結して一体として臨むというのがベストであると考えるのがふつうですが、それが分裂して複数政党で臨むことになった、これは現実ですから、ここであれこれ論評してもと思います。が、今年になって、連合主導とも思える立憲国民の合流劇を目の当たりにするなら、つまり合流が本線であるなら、2017年の総選挙後の参議院民進党の分流は余分なものであったと、逆算すればそういう理屈もありうるわけで、「そんならあのまま一緒にいたら良かったのに」という活動家を中心とした声が地下水のようにゴウゴウと音を立てて流れているわけで、経過から考えて合理的理由がなかったと、いうことです。

 ということから、結果として2019年の参議院選挙が連合的にいえば分裂選挙になったわけですから、議員が労働組合をどのように認識しているのか、色々あると思いますが、デマゴーグともいえる認識が意図的に喧伝されたことが多くの議員の行動に大きな影響を与えたのではないかと、推測もありますが、今日連合首脳部が懊悩していることの原因を呼込んだと思っています。

 そこで、よく考えていただきたいのは、仮に、団体の推薦を得ているとしても、個々の投票には議員は謙虚であるべきです。それを、他に投票先がないのだから、不満があってもついて来るから大丈夫だ、というこの心理は一体なんなんだ、まあ本質的にリベラリズムが分かっていない、他者の基本権に最大の敬意を払うことが原点でなければ、それはただの利己主義者であり、その集団は偽善集団と変わりがないではないか、厳しいようですが、労働組合が手間暇をかけて政治活動に参加し、選挙などで惜しみなく協力をするのは、労働者にとって住みやすい社会を作って欲しい、目指してほしいという大義があるからで、決して利己主義者の自己顕示欲を満たすためにやっているのではない、のです。

 議員が労働組合を見る目には、一種の甘えがあると思います。

司会 経過は歴史的というか、客観的な視点に立ち事実に基づき評価されなければならないと考えていますが、当時の状況は、日々の動きに気をとられるあまり、全体像が見えていなかったと改めて反省しています。まあ、見解はさまざまあるでしょうから、決めつけることは避けたいと思います。が、たしかにそのような話は聞いていますし、本当に混乱していたと思います。細かなことはいいませんが、この人達は団体行動が身についてない上に、理屈が吹っ飛んでいる、結局よくわからないと思ったものでした。記号で表せば????ですか。

 ついでにいわせていただきますが、職場での脱政党が加速されたのは、この時期が一番ひどかったのではないでしょうか。組合員から聞かれた役員の答えが、「よくわからない」でした。で、会議で質問すると、これまたよくわからない。

 よくわからないのに、支持するもしないもないわけで、白けきっていたということです。

 では、続けていただきますが、一部であれ、議員の労働組合に対する認識が、認識というよりデマゴーグのために利用するという、普通世間でいう誠実な関係ではなかったという指摘だと受けとめまして、でそれがどうしたの、という声もあるでしょうから、どうなんですか。先ほどから、語調が厳しくなりましたので、ヒーリングのつもりで長く喋りました。

加藤 感謝します。ところで先ほど職場での脱政党といわれましたが、脱労組はわかりますが、どんな感じでお遣いですか。反労組とはどのぐらい違いますか。

司会 いやあ、まいったな。姑息ないい方ですが、党名もいろいろあって、ごちゃごちゃしていて、職場からいえば経過の説明も新党の紹介もないし、一番近い言葉が、そうスルーですね。「スルー政党」ですよ。

加藤 そうですか、ありがとうございます。感じがでていますね。

 さて、組合員が投票するときは労働組合の方針を参考にすることもありますが、いろいろ考えて投票するのが普通でしょう。そうでなくとも、労働組合の組織率は16.7%ですから、有権者総数に占める比率は一桁パーセント程度です。もちろん、それでも有数の量塊ですから、組合員に話を聞いてもらうだけでもメリットはあります。

 先ほどの話は身内でのやり取りでしょうから、目くじらを立てることもないと思いますが、支援団体を小馬鹿にした論理の展開は慎んだらということです。一部の議員の話ではすまないと思います。おそらく、気分を害した活動家も多くいたのではないですか。長年かけて築いた信頼が崩落していく感じで、それは取りかえしのつかないことです。更に悲劇的なのはそれに気付いておられない、こうなるとまるで喜劇ですね。

 労働組合から見た議員についての本音は、魅力のある人は応援しますが、そうでない人はそれなりに、ではないでしょうか。

 また、単にバッジを着けたかった人の話はどこまでいっても演技でしょう。演技賞は差し上げますが、どうでしょうか。

司会 詳細な個々の場面というか、事例的というか、瑣末な感じがしますが。

加藤 細部に宿っているのです。議員にとって労働組合は支持を広げていく現場の一つですから、本気で対応してもらわなければ評価に結びつきません。細部についてもっともっと研究する必要があります。とはいっても、昔はおんぶにだっこでしょう、応援してもらってあたりまえでは世間が許さない。

 昔は昔、今は今。今ではそういった関係も崩れています。もとに戻せないほど崩れているのです。

 一番きついのは、政策・制度課題を進めるのなら与党のほうがいいのでは、とくに産業政策ですが、という声が徐々に高まってくることです。残念ながら職域の役員や活動家がそう思い始めると、一挙に動くでしょうね。だれにも止められないですよ。

 

司会 では、労働組合から議員を見た場合はどうなんでしょうか。

加藤 多少触れましたが、事務所に現職の国会議員が訪ねてくることは珍しいことです。事務所の規模にもよりますが、いい関係の議員であれば大歓迎でしょう。しかし、煩わしいと感じる場合もあります。とくに、朝突然の電話での来訪はごめん被(こうむ)りたいというのが本音です。招かざる客ってけっこういますから。今回の合流問題が原因というわけではないと思いますが、面倒くさくなったというのが本音ではないでしょうか。

 正直、醒めた感じが強く、以前ほどメリット感がなくなったというか、ちゃんとうちの事務所まで来ていただいた、うちは存在感があるのだという気分があの騒動で薄れてきたのは事実です。

 さらに、東海近辺では昨年(2019年)の参議院選挙のマイナスが大きいといえます。なにしろ、友愛と団結がモットーですから、あのような選挙戦を見せられたらそりゃ冷えたというか凍結感が残りますよ。ついこの前まで同じ仲間だったのに、敵は与党ではないのかと。やはりやりすぎですよね。失ったものは多いし大きいです。

 気をつけなければならないのは、労働組合から議員を見たとき、低体温、とくに今どきの野党議員は大きな政策を語らず、モリカケ桜学術会議に今でも反アベと、それはそれで指摘に間違いはないのですが、それでは話の中身が楽しくないのです。悪口イチャモン大王ではありませんが、華がない。おまけに、夢がない。カネがない、組織がないのないないづくしなら、せめて華か夢は欲しいですよ。いいすぎましたかね。

司会 華がないとは、一刀両断ですね。

加藤 失礼しました。ところで、労働組合があるところはまだ恵まれていると、組合員はそう思っています。しかし、経済格差が拡大している、加速しているのです。だから、貧しい方がより苦しい、ヒドくなるのです。そう実感しています。一方、恵まれている方はそのまま恵まれています。自営業も同様で、格差拡大進行中です。

 ここらあたりの気持ちは、とまどいというのか、世界的にそういう流れがあると思います。新型コロナウイルス感染症は社会を暗くしていることは間違いありません。

司会 雰囲気が落ちてきましたね。お顔の色が冴えませんが、大丈夫ですか。ところで、労働組合として個別の議員に何を望むか、これはどうです。

加藤 本当は山のようにあるのですが、いちいちいわなくてはいけないの、ですよ。三河屋のご用聞きではあるまいし、理念、政策を語るのは議員の仕事でしょう。それをいちいち聞くな。山のようにある単品政策を整理し、体系化し、優先順位をつけるのが政治家の仕事ではないのですか。それを、みなさん方は何をお望みですかって、議員になってから聞くなということです。

司会 誤解があるようですが、議員像というか、理想の政治家といったことではありませんが、こうあって欲しいというものもあるでしょう、普通に。

加藤 悪い政治家になって欲しいとか。

司会 えっ。どういう意味ですか。

議員と執政官とでは有権者の求めるものが違ってきている

加藤 国民を代表する議員と執政官である政治家とでは違うということです。もちろん、議員でなければ執政官にはほとんどなれませんから、二つはかぶりますが、劇画風にいえば、議員は善人で執政官は悪人とか、役割が違うではないですか。(執政官とは、ここでは大臣など政務三役をいう)

 国民の代表としての誠実な議員というのはあります、イメージとして。それとは別に、「悪意を含みながらあわよくばとスキを狙う隣国に囲まれ、頼りにする同盟国は自国主義に凝り固まっている。こんな中で、何かと足を引っ張る野党や左翼をかわし、既得権にあぐらをかいている官や守旧派にむち打ち、なんとか国民を守りぬこうとする〇〇さんがわが国の総理大臣であってくれて本当によかった。」この文中の〇〇に当てはまる議員が広く望まれているのだといったらいい過ぎでしょうか。

 議員は補充が効くのですが、〇〇に当てはまる人材は本当に不足しているのです。これはメディアのせいとはいいませんが、政治家像へモラルや倫理などの道徳律を過剰に投射したため、状況に合わせ最適解を選択し、粘り強く任務を遂行するという要素が後退したといえます。いいかえれば、善良、善意第一主義の安全運転の蔓延を許し、政治家本来の任務について真剣に考察する機会が減少し、結果として国民の眼力が弱まったということではないでしょうか。

 それでも、東西冷戦時代は内政にどっぷりと漬かっておればよかったし、その後は、唯一の超大国アメリカについていけばよかったのですが、今は違います。アメリカとの同盟、同調は外せないのですが、外政も内政も自ら分析し判断しなければなりません。

 難しい時代、厳しい環境においては、美徳だけではどうにもならないのです。ということで、議員はともかく執政官に対して多くの国民は従来とは違うものを求めはじめたのではないでしょうか。

 労働組合が、執政官となる議員に求めるものは、強い、しぶとい、したたか、あるいは老獪などではないでしょうか。これは、いい悪いの議論ではありません。現実を直視し、危機管理や国の安全また外交などに強い、ハードボイルド型が望まれているのかもしれません。

 「いい人」から「できる人」へと、業績評価型の人事制度ではありませんが、評価軸が変化しているような気がします。時代は大きく変わっている、これが実感ですね。

 では、野党議員に対してはどうなのか。ここがポイントになるかもしれませんが、機微に触れますので少し緩(ゆる)めます。

 野党にも人の悪い人はけっこうおられます。それが、困難な国政の舵取りに耐え活路を切り開くことができる人なのか、というと難しい、能力ではなく役割としてです。なぜなら、日頃から綺麗事をいいまくり、その基準で人をなで切っているので、いざ舞台に上がったときに、いわゆる必要とされている悪人にはなれないのです。いってみれば自己矛盾になりますから。

 よく、場合によっては嫌われることもいとわないことが大切である、といわれますが、野党にだって嫌われている人は大勢いますので、有資格者は多いのですが、本当に嫌われてしまっては大事を図れないでしょう。愛される大悪人になってほしいと思います。

 小悪とか大悪とか、厳しい国家競争をなんとか切り抜けるためにも多種多様な人材が求められているのですが、このあたりは、敗戦国家の民主政治が一皮も二皮も剥(む)けて、堂々の悪玉をも国のリーダーとして使い切る、これが民主国家における本当の統治能力ではありませんか。政治家は消耗品です。消耗品にも出来不出来がある。できの良い消耗品であること、これは名誉と考えるべきです。もし有権者がこの国の主権者であるというなら、時として政治家にバツを与えなければなりません。具体的には落選されることです。 

 労働組合の人物評価は経営者に対するものがベースです。だから、きれい好きだけではダメだ、品行方正、学業優秀だけでは社員を守れない、この30年、本当に苦労してきましたから、職域ではいままでのメディアご推薦の人物基準は通用しないでしょうね。

司会 政治家論の様相を呈しはじめましたが、まさか悪の礼賛を、そこまでやりますか。

加藤 「労働組合と政治」というテーマは常識的には野党論です。どこまでいっても健全な野党論から外(はず)れることはないでしょう。しかし、いつまでも労働組合が野党の応援団に甘んじていなければならない理屈はありませんし、動機もありません。自由に選択できるのです。

 「ほっといても連合はついてくるしかないから」と、大した力量もない議員にいわれるほどに、皮肉にも時代は大変化しているのです。政党支援の判断基準をどこにおくか、少なくとも産業政策に重心をおく限りにおいて、組織外の野党議員の多くは厳しくいえば、よく知らないわからないということですから、頼りにならない、ということで産業政策に着目すれば応援する気にならないというのが本音であり実情です。今このぐらい厳しくいっておかないと先々だめになります。

 とにかく産業政策を担(かつ)がない議員を支援する理屈はないのです。それが、否定されたとなれば労働組合によっては支援の方針を変えざるをえないということになるでしょう。もちろん、産業政策だけで判断するわけでもないでしょう。

司会 ところで産業政策ってそんなに重みがありましたか。ついで仕事、と受け止めていたのですが。

加藤 それは迂闊(うかつ)ですね。大昔のことは知りませんが、また産業によってさまざまというべきですが、リーマンショック以来、一層、重視されてきたといえます。金融関係でいえば、1995年当時ですか、金融ビッグバンで大変でした。結果、メガバンクは3行に集約されましたし、漢字名銀行は減りました。労働組合にとって死活問題でしたから、ついで仕事で済ませられるならそれは本当に幸せなことですよ。

 産業政策は雇用に直結するといっても過言ではありません。雇用に直結する、この意味がわかりますか。

司会 当然わかっています。いろいろいわれなくても。

加藤 たとえば事業再編。自由主義経済ですから、また市場経済でもありますから、優勝劣敗は常のことです。しかし、雇用喪失は労働者の生活を直撃するのです。本論から離れますので詳しい話はやめますが、賃金問題とはジャンルが異なるのです、雇用問題は。今では有名になりましたが雇用調整助成金などは産業政策の副産物ともいえるもので、当時の鉄鋼労連の功績です。

 だから、産業政策が受け入れられないということは協力関係にはないということです。認識が甘い、これが産業政策あるいは産別関心政策に関して労働組合サイドが議員に対し危惧していることの一つです。

10.労働組合と組合員、組織率の低下が政治参加に与える影響は

司会 さて、いよいよ後半にさしかかりますが、ここで、労働組合と組合員についてお話をうかがいたいと思います。

 昨今、組織率(推定)が16.7%であることが、労働組合の政治参加にどのような影響を及ぼすのか、という議論が識者の間でささやかれていますが、まずこの点についていかがでしょうか。

加藤 そうですね、いきなり政治へのかかわりに触れる前に、労働運動における組織率の扱いについて少し述べたいと思います。

 この組織率については、先進国では常に協約拡張適用率とセットで議論されてきました。簡単にいえば、協約拡張適用率は労働組合の社会的認知を支える根太のような役割を果たしているのです。ちなみに、フランスでは組織率は10%に届きませんが、適用率は90%を超えています。つまり、労使交渉の成果が90%の労働者に適用されているのです。それは労働組合の社会的影響力の高さを表しており、労働組合の力を組織率だけで測ることは適当ではないといえます。また、その基盤にはフランスの労使関係の歴史があると思います。ちなみにわが国では、適用率は組織率を下回っているのです。

さて、組織率の議論では常に表の数字、すなわち16.7%にスポットライトが当たりますが、政治参加を考えるうえではむしろ非組織率を表す83.3%に着目する必要があります。とくに、労働政策をめぐる議論では、16.7%が必要と考えている政策に対し83.3%がどのように受けとめ、どのように評価しているのか、モニタリングの方法が見いだせていない現状にあっては、ずいぶんと難しい課題といえます。また、それは16.7%の代表性を問うているともいえます。

司会 非組織率といわれましたが、その83.3%のみなさんがどのように考えられているのか、調査されることはないのでしょうか。

加藤 街頭などでのアンケート調査など間接的なものはいくつかあると思いますが、系統だっているものではないと思います。また、無作為抽出で対象者を選び質問票を郵送するにしても、無作為抽出の対象となる名簿を用意するのが難しく、とくに労働関係の場合は質問が難しいため予定の回収率を確保することが困難といわれています。それに、質問票の設計が、調査目的との関係でなかなか難しいのですが、研究者も少なく、83.3%に焦点を絞った調査はあまり見かけません。

 さらに、仮に調査できたとして、労働に関する政策・制度は複雑で、回答者が十分な理解のもとに回答していないことも考えられ、実態を正確にすくい取れるのかなどの課題があります。

 元来、政策についての調査は、対面聞きとりがいいのですが、今のご時世やりにくいということでしょう。

 そういう点では、労働組合は日常活動のなかで、組合員の意向を把握していますから、要求立案段階から練上がりがよく、まとめ方も手際がいいので、まとめられた要求内容は納得性、網羅性ともにレベルが高いといえます。

 ということですから、余計に16.7%と83.3%に系統的な差異があるのかないのか、神経質に受け止めてしまうのです。

司会 系統的差異というのは難しい言葉ですね。統計問題はこの程度にして、では問題のポイントはなんでしょうか。

加藤 連合が取りまとめている政策・制度要求ですが、それらが労働者全体、あるいは少なくとも6、7割以上の労働者の要望に応えられているものか、逆にいえば、そのぐらいの妥当性を有しているという証拠が欲しいわけです、率直なところ。だから系統的に違いがあるということは、連合がまとめた要求は普通とは違う、はっきりいえば恵まれた労働者のプレミアムな要求ということで、まあレッテルが貼られるわけですが、労働者代表ではないのではないかといったややこしい議論が起こります。取りまとめ段階では十分配慮しているのでしょうが

 別のいい方をすれば、要求内容がもつ説得性と、手続き上の妥当性この二つをそろえることが、運動の正当性を支えるわけでして、恵まれている労働組合の独りよがりではないという、一般性あるいは普遍性にかかわる問題なんですが、難解ですか。

司会 意味はわかります。しかし、説得性、妥当性、正当性、一般性、普遍性と漢字検定のように言葉が並びましたが、労働運動が世間から遊離しないようにという思いはわかりますが、気にしすぎではないですかね。それと、それが政治参加とどうかかわるのか。ここですよ。

加藤 ですから、政治の場では常に政策の中身が問われるわけです。たとえば野党が提起する労働政策と労働組合が積みあげてきた政策とがどの程度整合性を持っているのか、また野党の新規政策がどのように評価されるのか、けっこう重要ではありませんか。

 そして、それらの政策が選挙のときには一部公約として広く喧伝されるわけですから、応援団としてできるだけ一致させたいと思いますでしょう。

 しかし、わが国にはきめ細かな労使協議制がガラス細工のように組みあがっていますから、そこにぶつからないのか、またぶつかるのならどう調整すればいいのかなど、これは氷山の一角ですが、これが成熟社会の実相です。

司会 そういう政策・制度課題が背負っている現実と、雇用形態による格差という現状があることを、活動家として適確に把握すべきであることは同意できますが、それと政治とのかかわりは。

加藤 だから、まとめられた政策が公約として、マイクを通して、政党や候補者の主張として飛び交うわけですから、政策として飛び交う言葉が有権者の気持ちをどれだけ動かせられるかが、独りよがりではなかったことの証明といえるわけですから、ここが勝負どころでしょう。

 労働組合の要求を一般化する、あるいは普遍化する。これはほんとうに難しいことです。そうは思いませんか。

11. 労働組合と組合員、職場で政策・制度課題をあつかう上での3つの課題

司会 確かに、初めてこの運動に関わった頃は、けっこう気楽に考えていました。なんとなく喜ばれそうな政策を思いつくままに並べていけばいいと。しかし、既存の制度が複雑にからみあって、条件がいろいろと付けられていて、恩恵を受ける人とそうでない人がバラバラと発生している。また、何かあると、では財源はどうするのかといわれて、とたんに挫折するのです。財源をどこまで気にしなければならないのか。また、社会保険制度の場合、給付と負担の関係があって、これも簡単ではないでしょう。さらに、世代間格差とかいって、時間軸上の課題についても配慮が必要になりますから、正直、感じで話しができている間はいいのですが、体系的に政策論を展開するとなると、ほとんど無理では、と思っていました。

 労働時間法制や働き方改革など労働関係ならまだ手触り感もありますから、現場での経験を活用してあれこれアイデアも出せます。それが労働者派遣法になるちょっと手が届かないというか、派遣を受け入れる側の労働組合の立場なのか、派遣する側の立場なのかやや混乱気味のところがあったり、また受け入れる側の課題も多いのです。

 ということで、現場での議論が大切なのは理解しているつもりなんですが、どこまでの議論が可能なのか、そういえば、50代の組合員に子供手当てをどう思うかと聞いたんですが、2009年頃でしたか、子供はいないから必要ないとか、全員手が離れたから関係ないという人もけっこういて、場がしらけましたね。

 組合員であっても、おかれた環境によって要求がどんどん変わっていきますね。あたりまえといえば、あたりまえですが。

加藤 お話は、経験にもとづいたものですから、そのまま受けとめます。

 前後の話から、少し労使関係について整理いたしますと、なんか役割が入れ替わったようですね。

 まず、議論されているのは集団的労使関係を前提にした労働組合と組合員の関係ですね。だから、団体としての会社と団体としての労働組合の関係であって、社員であり組合員である個人が拘束時間外にどんな活動を行おうが、原則自由なんです。もちろん、違法行為や破廉恥行為については就業規則で処分の対象になることもありますが、そういった場合については労働協約で扱いが決められています。

 ここでの重要な話は、対会社要求をともなわない活動について、会社としてどの程度の理解を示すことができるのか、というけっこう高度な領域があって、微妙だということです。構内にある組合事務所、掲示板、放送施設などの利用は労使間の協定であり、付加部分は労使関係を考慮しながらの判断とするケースが多いといえるでしょう。ここは、地方、地域の実情もあるでしょうし、対面する執行部の立場もあることからケースバイケースとか柔軟にとか、まあ工夫されているということですが、選挙に直結する活動については簡単にいえば硬化の方向でしょう。

 通常、組合活動は就業時間外、拘束時間外が原則ですが、有給休暇の取得や定時帰宅などは上長の管理下にあります。自由取得といっても、調整は必要ですから、ラインが多忙なときに7時からの集会に参加するためには管理者の理解が必要です。

 この理解にはさまざまな要素がふくまれており、いわくいい難いものがあり、日々業務に追われる管理職の立場でいえば、総合的な判断の範疇(はんちゅう)にあるものです。2007年から数年間の旧民主党には管理職層からの期待があった、これは職場を回ればわかることなんです。これぐらいで止(や)めますが、論の外にあるもろもろが労使関係の総体ですから、知らないことには大胆であってもいいのですが、このもろもろを無視すると付けは必ず回ってきます。

 

 では本論ですが、一つ(1番目の課題)は、政策・制度とひとくちでいいますが、俯瞰したときにどういった体系性を有しているのか、これがけっこう大変なのです。全国民間労働組合協議会(全民労協、連合の前身母体、1982年~1987年)時代から、その悩みがありました。たとえば財源問題にぶつかったときに、では国民負担率をどう考えるのかという議論になります。当時も40%台でしたから、これを欧州並みの50、60%台に引き上げれば少なくとも財源問題は解決できるのです。しかし、それは保険料もふくめ大幅引き上げ、つまり大増税を意味しますから、政治的には革命状態といっても過言ではない、ということですよ。

 全民労協時代は、永田町・霞が関・大手町との交流が盛んで、よく懇談会がもたれました。その中で国民負担率もよく取りあげられました。大蔵省(当時)の若手が、そんなことができるわけがない、と目をむいて叫んでいましたけど、あれから30年、あのときの若手はそろそろ卒業ですが、いろいろ悩んだようです。

 もう一つ(2番目の課題)は、どんなにわかりやすく説明をしても理解されるには限界があることと、さらに説明すべき項目が多すぎて職場集会などでは時間内に収まらないこと、さらに一つ(3番目の課題)加えれば、一人ひとりの事情において個人差がありすぎるという都合3つの課題があるということです。

司会 まあ、そういうことです。それと、今気がついたのですが、労働三法など労働者としての基本的権利が知られてないというか、そもそも学校で教えられていないようです。したがって、政策・制度課題のレベルにまで広げると、チンプンカンプンとはいいませんが、とくに、新入組合員にとっては未知との遭遇に近いのではないでしょうか。

加藤 以前に、わが国にはもっぱら労働者のための政党はない、と申しましたが、昨今、社会の仕組みが、労働者の権利について教えない、知らせない方向に流れています。右派的には、他に学ぶべきことが多すぎてとか、労働者福祉がいき届いているのでいまさら不要だといった暴論もあったり、さまざまですが、憲法で保証された労働にかんする基本的権利の存在を知らなかったがゆえに不利益を被る事例が多すぎるのではないかと思います。ここらあたりは、政治的にも大切なものですから、ほんとうの意味での親労働者政党を名のるのなら、労働者の権利等について教育の場でしっかりと教えることを本気で政策化するべきだと考えています。

 いずれにせよ現状はバランスを欠いているといえるわけで、これはこれで大きなテーマです。この問題については機会をあらためて、と考えています。

 

 さて、先ほどの3つの課題は、労働組合が政策・制度課題の改善などをすすめる上で、重荷というか、前進を阻む厚い壁だといえます。

 とくに、一番目の課題、政策の体系性の確保は分配構造とのかかわりも深く、また行政サービスのあり方、分かりやすくいえば大きな政府小さな政府論とも通底しますし、その流れを受け、福祉における自助共助公助論にも大きくかかわるものといえます。今申し上げました分配構造、行政サービスのあり方、福祉における自助共助公助論はそれぞれが関係しあっていますから、それぞれを独立して積み上げていく方法は結果として不整合を生みやすいといえます。そういう意味では、国民負担とサービスの基本関係を予め明らかにした上で、それぞれの制度を作りあげていくのが適切であると誰しも思うわけですが、残念ながら簡単ではないのです。それは、既存制度の存在です。すでに制度は運用されていて、しかも止(と)めるわけにはいかないのです。

 既存の制度には利害関係があり、それらを変更することは容易ではないのです。既得権益というとなにかやましいもののように思われていますが、既得権も既得利益も本来当然の権利であり保護されるべきものです。 

 さらに、既存制度の抜本的改革とは、いってみれば今ある狭軌線を列車を走らせながら広軌線に変更することに似て、更地に新設するよりも工期においても、費用においても、技術においてもさらに運用においても、何倍も難しいのです。 

 また、順送り構造を持つ制度、世代間負担関係を内包する制度などでは、経過措置による損失補填など複雑な制度設計が要求されるので、多くの場合政治プロセスで頓挫することが多いといわれています。

司会 待ってください。勝手にすすみすぎています。今の議論は政策・制度課題と呼ばれている分野の運動には3つの課題がある、ということでその一番目の説明ですね。

 ここで、私がわかりやすく整理をいたします。一番目の課題は、政策・制度課題それぞれが独立的に、新設あるいは改善が議論されているうちはいいが、枝が伸び葉を広げてくると、隣の樹と競合しはじめ、いろいろな問題が発生することも多いため、樹に着目する前に林を、林の前に森に着目し、それぞれが競合したり矛盾関係にいたらないように予め大雑把な絵図面を描いておく必要がある、ということが一つですね。

 さらに(二つ)、新しく森を作る場合はそれでよろしいが、多くの場合は、すでに森ができており、そこに新たに林や樹を植えるのは難しい、とくに植え替えは古いほうが生きていてそれなりに機能しているので、さらに難しい、ということでしょうか。

政策は俯瞰的体系的統一的総合的に、しかしこれは疲れる

加藤 たとえ話には限界がありますから、そこそこ説明に役立てばよろしいのでは。まあ、そういうことです。

 ここで政策の体系性の確保についてさらに解説しますと、たとえば子ども手当ですね。バラマキだという批判がありました。対象となる子供は当時1600万人でしたから、1600万人には例外なくという意味ではバラマキだといえるかもしれませんが、対象層に例外なくと考えるのは公平性あるいは公正性の議論であって、溝に捨てるようなニュアンスでの批判は不適当です。

 そこで所得制限をという議論が起こりました。なんとなく所得制限が公正さの象徴のような主張もありましたが、そもそもここでいう所得は税務での申告所得ですから、税制がもつ不公平性を内包しているのです。これは労働界ではおよそ半世紀前から議論されてきたもので、とくに政策推進労組会議(1976年10月、民間労組共同行動会議を衣替えし発足、26単産が参加、主に政策制度課題の改善に取り組む、1982年全国民間労働組合協議会発足にともない解散)では不公平税制是正のターゲットとされてきたもので、所得が完全捕捉されないかぎり解消しませんし、マイナンバーを使った制度の裏付けが必要ですが、マイナンバーが結構嫌がられているのです。本気で公平・公正をいうのなら徹底すべきです。

 所得の種類たとえば利子配当など、によっても差があります。また、家族構成からも、家計構造からもさまざまな意見がでてきますから、所得制限が万能とはいえません。

 さらに、子供のいない世帯では、自分の子供は自分で面倒みるのがとうぜんとか、さらに自己責任などと脈絡のない、けっこう厳しい意見が出されます。これには、「しかし、あなたの公的年金はあなたのお子さんだけで支えられているのではなく、子供全員で支えているのですよ。」と、人の子の面倒がみられるかという声には、では人の親の年金の面倒がみられるかという声を返すしかないのですが、売り言葉に買い言葉では雰囲気が悪くなるだけでトホホですよ。ともかく社会保障制度の普遍性にたいする理解がなければ子ども手当の意義は理解されないでしょう。さらに、だれに支払うのか、両親が別居の場合はとか、受取人は親か子かとか、世帯、生計者、扶養家族とか既存制度とのすり合わせも多くあるのです。

 また、支給対象年齢についても、教育制度やその補完制度との関係が深く、高校授業料無償化との関連もでてきます。さらに、そもそもは少子化対策の側面が強かったことから、子育ての経済負担軽減が図られましたが、子育てといえば保育所、幼稚園問題で、ここに待機児童対策が絡んできます。いろいろ議論していると、都会地とその他地方との格差問題もあったり、先ほどの家族構成もかかわってきますから、話は広がる一方です。最後に財源問題がでてくると企業が払っている家族手当という賃金項目までが網にかかったり、男性の育休取得、家事とか、まだまだ広がるのですが、これが俯瞰的体系的統一的総合的にということなんですね。疲れるでしょう。

司会 ありがとうございます。たしかに、疲れますね。ご指摘の難しさは理解できますが、政策・制度ごとに時間をかけてていねいにやっていけば、なんとかなりませんか。

加藤 若木のうちはいいのです。それが、成長しすぎているといえばいい過ぎですが、個々の政策・制度が成長するとどうしても、財源論、行政サービス論、自助共助公助論に突きあたり、そこで堂々巡りの議論をつくした挙げ句、無間地獄に落ちるのです。そして救済に訪れるのが俯瞰的体系的統一的総合的政策論のはずなんですが、これが体が重くて重くて、なかなかでてこれないのです。

 で、ようやくおでましとなっても、すでに百論が無造作に鎮座されているものですから、俯瞰的体系的統一的総合的政策論がおすわりになる場所がない、無理に詰めさせると大喧嘩になるという始末でありますから、もうムジャムジャといってごまかすしかない、のです。個別の政策・制度ごとに、というフレーズに虫がひそんでいるのです。

司会 なにかしら合成の誤謬的な問題があるけれども、ややこしすぎるので、得意技のごまかしをやっているわけですね。で、大きな二番目の課題が、こんな難しいややこしい話を、20分の職場集会で説明できるわけがない。ということなら、政策・制度課題を細切れにしてという案が考えられますが、そもそも細切れでスタートしたものを最終的に一体に取りまとめられないことが問題だというのですから、やはりややこしいですね。

12. 政策課題が労働組合の要求として本格化したのは1970年代から

加藤 では気分転換に視点を変えましょう。そもそも政策課題が労働団体の要求として表に出たのは1970年代中頃ですが、その頃は総評と中立労連を中心に国民春闘共闘委員会あるいは同共闘会議(現在も類似のものがあるが別組織である)が形成され、賃金をはじめ労働条件の改善要求にくわえ、いくつかの制度要求も掲げられたのです。内容はスローガンの域をでていませんでした。

 とくに問題だったのは、紀年は憶えていませんが、ある年のビラに、厚生年金あるいは共済年金などを完全賦課方式に変更することで月額7000円台に抑えられるという制度要求の提案でした。それを見て愕然としたのを憶えています。人口動態が大きな注目を受けている中での完全賦課方式の提案は、大胆というよりハリボテというべきものでした。当時は制度要求といっていたのですが、俯瞰性を欠いた制度要求の限界を痛感したのと同時に、同会議に対し不信感をいだいたのでしたが、それはまた別のストーリーです。

 ここで申しあげたいのは、スローガンで済ませられるうちはいいのですが、社会保障制度の多くは人口動態の強い影響下にあり、人口増なのか、または人口減なのか、あるいは均衡なのか、さらに生産労働人口比率によって制度設計は様相を変えるのです。また、後年負担として発生する債務を正確に認識し、負担方法について早く手を打つ必要がありますが、こういった複雑な問題点はスローガンには書きこめないのです。

 要求を組織し力を結集するための運動上の工夫と、厳然たる数理計算が示す制度の実相とが激しくぶつかり合い、きしみ音を立てる現場を経験すると、どうしても慎重にならざるをえませんから、説明はていねいにやるべきだし、とうぜん時間もかかります。

 当面の家計負担を軽減するための完全賦課方式の提案ではありましたが、給付と負担を視野に入れた公的年金制度の確立を考えれば、短絡すぎるとの批判はとうぜんでしょう。制度要求が体系性を確保する難しさの一例です。

13. 政策・制度要求が注目されたのは石油ショックあたりから

司会 1970年代も後半になると、石油ショック後の狂乱物価また30%を超える大幅賃上げを経て、政府が賃上げ抑制に動き、なんとか一桁台の物価上昇に抑えこむことに成功したと聞いていますが、物価政策が中心の時代でしたか。

加藤 原油価格がおよそ7年間で10倍に上がりました。第一次、第二次石油ショックの結果です。エネルギー価格は物価の要石ですが、これだけ上がると調整に時間がかかります。とくに賃金水準をどうするのか、大きな問題でしたが、当時は春闘が機能していたので、毎年春の賃金交渉を通じて調整できたのです。わかりやすい時代だったと思います。

 ただ、大幅賃上げがコストプッシュ型の物価上昇を招き、悪性の物価上昇スパイラルとなって制御できなくなることを危惧する政府と経営者の要請や圧力もあり、ここは表現が難しいのですが、金属労協(全日本金属産業労働組合協議会、JCM、1964年5月~)がリーダーシップを発揮する中で、いわゆる経済整合性を根拠理由に賃金抑制を受け入れたことが、悪性のインフレを事前に防止できたと評価するのが、民間労組の青史ですが、経済整合性による賃金抑制が不必要に長く続いたことが後のわが国の経済不調の一因となったのではないか、という批判もあり、政策と運動の連関の難しさというか、微妙な隙間を感じざるをえませんでした。一度沈静化した運動を再び起動するのはけっこう至難のことだと思います。

司会 風船から空気が抜けて、ふたたび膨らませるのはむつかしい、職場が中心になって支えている運動を中央が勝手に制御することの大変さ、これを体で経験した世代はほとんど引退していますね。

加藤 余分なことはおき、この後、1980年代に入り、米国の金融引締めによるドル高が米国の双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)増をさらに加速し、どうにも動きがとれなくなって、1985年のプラザ合意へと時代は動くわけです。そこで、協調介入をてこに強引にドル安円高に誘導したわけですが、この急激な円高が輸出産業を不況へ追い立てました。1ドルが240円だったのが150円ですから、240万円のつもりで輸出したのが150万円しかもらえないということで大変でした。為替という交易条件が急速に悪化したことで、機械金属産業は打撃を受けました。国際的な金融政策また為替政策の重要性を思い知らされた時期でした。

司会 その時の職場はどういう雰囲気でしたか。

加藤 雰囲気とかそんななま易しいものではなかったですよ。雇用調整をはじめ帰休や配置転換、他産業への出向など合理化対策でてんやわんやでした。職場集会で円高ドル安の経緯や対策を説明しても、足元が揺らいでいるので理屈は通用せずに、どうしてくれるんだ、どうすればいいんだ、の世界でした。しかし、1986年暮れにはもうバブルですから、それからの4、5年は異様な世界だったということです。当時はあたりまえと思っていましたが、醒めてから頭痛や吐き気に襲われ散々でした。

 金利の上げ下げがことほどさように効くのか、この時期から、金融に詳しい国会議員が頭をもたげてきました。また、労働界としては不得手な分野でしたから、隔靴掻痒というか、無力感もあって大変でした。

司会 無力感というのは、何が原因なんでしょうか。

加藤 いってみれば、わさわさした時代でしたから、地に足がついてない感じが強かったですね。労働運動よりも日銀総裁の一言が大きい、また国際関係の結果としての円高ですから、自分たちがなにかやったから、あるいはやらなかったから云々ではなく、原因が関係ないところから来るものですから。

 バブルもそうです。30年頑張って、一回の一時金が百万円を超えるかどうかというのがものづくりの現場です。それが、金融証券、不動産などの業種では新人がもらっている。労働価値体系の破壊です。運動というより哲学的に難しかったですね。そういったことがゴロゴロと、決して気楽ではなかったのですが、楽な気分の無力感といったほうがいいでしょうか。

司会 さて、この一連の歴史物をどうやって締めるおつもりでしょうか。

加藤 政策・制度課題の取り組みを職場から眺めていると、その時代時代のトピックスに関連しているということでしょうか。それを、生活を取り巻く360度にわたる多くの分野に広げてきたのは連合の功績だと思います。一見簡単なテーマでも詳しく調べると他の政策とさまざまな関連性をもち、けっして単独では語れないものになっていて、そのことをふくめて職場での理解を積み上げていくのは大変な手間と時間が必要でありますから、運動として今後さらに発展させるためには、従来にない工夫がいるのではないかと思っています。健闘を祈りたいということです。

14. 一人ひとりの関心政策が多様でまとめていくのが難しい

司会 ということで、次に三番目の課題である、一人ひとりの関心政策が多様であって、まとめていくのが難しいということですが。

加藤 表現は異なっていますが、同趣旨のことを何回も指摘しています。おさらいしますと、政党、議員、政策の3点セットにおいて、理屈の上では、政策が重要で第一となるべきですが、有権者一人ひとりの投票行動を見ると、いろいろありますが、やはり政策が最後のようです。

 考えてみれば、一点張りというケースは極めて珍しく、ほとんどの有権者は何十もの関心政策をお持ちではないでしょうか。しかし、それらの何十もある関心政策を意識しながら各党、各議員のそれらと照らし合わせ評価をして、最終的に支持を固めていく、といったオーソドックなやり方をやっている時間があるのか、またそれらの作業を支えるだけの知識や情報があるのだろうか、いくら情報化社会といえども、時間がなければどうにもならないということですから、こういったあるべきモデルを下敷きにした議論は非現実的だと思うんですよね。

 つまり、政策・制度課題を職場に落とし込むというか、職場に受けていただく最終段階には、先ほど説明した3つの課題を解決し乗り越えていかなければ、消化不良のままで終わるのではないか、という危惧があるのです。さらに、多様化していることが差し障りになっている状況を、どのように解決し乗り越えていくのか、いってみれば評論は指摘すればそれで終わりあとは解放されるからいいよね、という意味での、ただ指摘しているだけではないのか、と自分で反問しているのですが。

司会 またズレましたね。そこまでいわれるのなら、これは出口がないですね。

加藤 出口のある無しではなく、多様化しているものを組織的に集約し、同時にその結論が多様化していることを保証せよ、といった無理筋の感じですか。さらに、これらの過程が合理的かつ民主的方法であったと言明せよ、ということです。

司会 大丈夫ですか、ひょっとして熱が。団体が政策を語る場合に起こる構造矛盾ですね。まあ。最後の合理的かつ民主的という言葉がなければ、出口があると思いますが、赤鬼と青鬼に挟まれた気分なんでしょうね。では、休憩にしましょう。

15. 休憩中の雑談、自己責任と自助共助公助について

司会 休憩中ですが、一つご意見をお聞きしたいのです。それは、自助共助公助にかかわるかもしれませんが、一時よくいわれた、自己責任についてどのように考えておられますか。

加藤 休憩中といいながら、ずいぶんと油っこいテーマを出してきますね。これじゃ、休憩が台無しだわ。

 自己責任という言葉はある局面ではとても使い勝手がいいように錯覚させるんですね。おそらく、質問の背景にあるのは、外務省が渡航危険と警告しているにもかかわらず、それぞれの目的をもって危険地域へ入境し不本意にテロ組織などに捕獲監禁され、最終的に殺害されるという痛ましい結末を迎えたのですが、日本国政府へ身代金が請求されたと思われるいくつかの事例などに対し、「そういう事態にいたる確率がきわめて高いことは承知の上で、かかる行動をとったことに、税金を使ってまで国が支援する必要はない。自己責任でやれ。」との主張ではないかと思います。ここでは個々の事例に触れず一般論としてお話ししています。

 この場合の自己責任は自業自得に近い語感を引きつれて、後始末を政府に押し付けるなということだと思いますが、それはそれで賛否と評価は別として主張としては完結しています。

 ただ、どうするかは、その時の政府の判断によるもので、具体策についてはまかせるべきでしょう。そのための政府ですから。

 逆にもし、本人が自己責任と宣言すれば政府からの支援という干渉から自由になれる、政府も無関係の立場がとれるということであれば、いわゆる自己責任論者の気持ちも晴ればれするのかもしれませんが、ルールとしてそういうことにはなっておらず、また個別事例においてさまざまであり、あくまでことと次第によると考えるべきで、鋳型に入れるような議論は無意味というより有害だと思います。このケースはきわめて特異なもので決して一般化してはならないというのが第一点です。

 さて、自助と自己責任の関係ですが、政治家が自己責任という言葉を使うことにはきわめて慎重であるべきです。それは語法として、政府あるいは政治が責任を負わないことを宣言するに等しいからです。また、政府として責任を負わないのか、負えないのかというやや膠着する問題も内包されており、賢明な政治家はおおむね避けるものです。

 日常生活において何事かで誰かに自己責任だと指弾されても、だからどうしたと応じればいいだけのことで、ややこしくなれば、弁護士に相談し法律の世界で決着をはかればいいでしょう。

司会 ということは、自己責任には否定的ですか。

加藤 まだ確定できないのです。自己責任の用例の多くは、自立と自律にかかわるもので自分や仲間うちに向けられた、ある種の内部ルールや規律につながっている場合が多く、これらについてはおおむね肯定的ですが、これが他者、とくに対立する立場に向けられる場合は、批判や強制の意味合いを帯び、さらに攻撃、糾弾へとエスカレートする傾向が見られます。この用法については否定的です。

 

 また、全て自己責任だといって、何でも好き勝手にやれるものでもありません。まあ、自己責任が文意としてまともに遣えるのは、勘定での自己負担という意であって、それ以外での用法は混濁をふくむので避けるべきでしょう。そもそも、責任という言葉は使い方が難しいのです。

 また、世の中森羅万象すべてが自己負担、自己責任という構造にはなっていないのです。すなわち、ことの濃淡、軽重があるかもしれませんが、人の世はすべからく関係性の中、わかりやすくいえば相互依存で成立しており、完全なる没交渉はありえないわけで、世の因果は頭がくらくらするほど複雑であります。

 だから、そのような複雑に絡み合った関係がある中での自己責任論とは関係の遮断であり、追放であり、抹殺であると、社会的には受けとめるべきで、自助とは似て非なるものといえます。

 そこで、自助ですが、労働界では自主的福祉活動としての共済制度に関わって使われてきたと記憶しています。とくに、公助の補完として自費による各種の保障を整えることを自助という概念でまとめたものです。当初は引退後の生活の経済設計にあたり私的年金共済の普及に活用されました。これはこれで、ある程度の経済力がある層には役立ったといえます。

 だから、政治的に翻訳すれば、生活まるごと政府の制度に乗っかるのではなく、余裕を求めるのなら自分でもある程度の対策を講じるべきだ、あんまり政府を当てにされても限界があるから、といった趣旨が強いものであったと受けとめています。

 したがって、ことの始まりは、社会保障制度すなわち公助の補完にあったわけで、そういった文脈でいえば、自助とは自助共助公助総体の関係の中で定義されるべきもので、単独での議論は意味がないと考えています。

 たとえば、自助という世界に暮らしていると思っていても、現実には公租公課つまり課税されているわけですから、この場合の自助とはなんでしょうか。自助だけの世界での課税はナンセンスです。しかし、実世界では課税は現実ですから、論理を逆回しにしますが、課税のない社会がない以上、自助単独の社会もないといえます。では逆に、公助だけの世界も、共助だけの世界も考えられないことから、自助共助公助は一体のものとして捉えるべきであり、議論すべきは全体としてのバランスだと思います。

 

司会 よく自助努力といいますが。

加藤 用法としては激励の意味で、当然のことでしょう。それ以上の意味はないと思います。極端な事例ですが、他人の口で食し、他人の肛門で排泄する人はいません。生命現象はほとんど自助から始まります。しかし、自助だけでは社会を作ることができませんし、長生きもできません。夫婦も社会です。家族も社会です。ここでは、ことさら自助だ共助だといいあうことはありません。でありますが、自助共助の世界にも限界があるのです。たとえば、被災したときや疫病にみまわれたときは、政府や行政の手助けが要ります。さらに、社会インフラや治安、防衛は大きな公助です。この分野を自助でやれ、村落中心に共助でやれということにはなりません。それがやれるということになると、政府不要論になり、政治家としては自己矛盾に陥りますね。にもかかわらず、財政赤字などの圧力を受けて、政府の負担を人びとに移しかえる方便として、自助努力が使われてきたことも事実でしょう。政府は値切っているわけですよ。なぜ値切るのか、それは国民負担について正々堂々と議論する勇気がないからで、くわえて、公正、公平な行政サービスであるといいきるだけの自信がないから負担増をいいだせないのです。これは政治家の問題です。

司会 過度に自己責任を求める社会、という批判があります。これはどうなんですか。

加藤 資本主義の基本は自己責任であると表現できる部分があります。しかし、限定されています。無限責任ではありません。また、セーフティーネットとセットでなければ基本的人権を守れないでしょう。

 自己責任をふりまわしたのは新自由主義を標榜する経済学者や政治家といわれていますが、努力もせずに公共の福祉にしがみつくなという人々の感情を富裕層などの利益形成に利用したグループの存在があると思います。たとえば、小泉時代に大臣に登用された学者の主張などはその典型だといわれていますが、自己責任の原型はさらに古く、わが国が近代化していく過程で浮上した社会意識の一つでもあると、実証はできませんがそう感じています。したがって、今日、過度に自己責任を求める社会だと断定して、その是正を求めることが政治スローガンとしてどういう意味と効果があるのかといえば、規制改革とは距離をおく、生活弱者を救済する、そのための行政需要には寛容に対応する、すなわち大きな政府路線で行く、といったことでしょうか。昔でいえば社会党左派路線に近いといえますが、評価はこれからの肉付けを見てからのことでしょう。

 そこでお聞きしますが、適度に自己責任を求める社会と、どう違いますか。過度と適度の違いは、その温度差は何度ですか。

司会 逆質問されても、程度の差としかいえませんが。

加藤 普通、自然人に求める責任の最大のものは賠償と刑罰でしょうね。裁判では弁護人が頑張ってくれますが、支払いは本人口座から、また刑務所に入るのは本人に限られます。現代ではまあ、懲役刑を引き受ける代理人はいません。もともと、責任というのは本人が贖(あがな)うものです。個人が責任の単位であるからこそ権利が発生するともいえるわけで、いわばあたりまえの論理の中へ無理に自己責任を押し込んでどうしょうというのか、無駄な用語法です。また、少なからずよこしまな意図を感じますね。なんとなく、政治家というか為政者のいいのがれのニュアンスがあって。

 さらに視点を変えますが、自己責任の反対側には政府責任があると思います。たとえば、拉致被害者についての政府の対応はどうでしょうか。政府は全力をあげて救出にあたるべきです。この点、異論は皆無ですが、残念ながら完遂できていません。この場合の政府の全力とは何か、全力を尽くしてもできないことがあるということでしょうか。自己責任が極限まで追求されるのなら、政府責任も極限まで追求されるべきです。が、そういう武張(ぶば)った構造がいいとは思えないでしょう。ただ痛恨の極み、という言葉が残されていますが。

 そういう忸怩(じくじ)たる思いをもっていますが、それとの対比で、さきほどの自己責任論の本旨が、救出してはならないというものであれば、どうでしょう。まさか、見殺しにせよとはいわないでしょうが、そういったニュアンスがあるから、議論になっているのではないでしょうか。それと、やりたくともできないもどかしさの裏返しの感情表現の面もあるように思います。けっこう複雑ですね。

司会 極論にある一面の真理ですか。自己責任論にはずいぶんと冷たいところがあるということですね。できないから、気持ちが裏返しになっているのではないかという指摘は、斬新ではありますが、ちょっとどうかなとも思います。

加藤 では、新型コロナウイルス感染者についてはどうでしょうか。ここでの自己責任論はどうなりますか。

司会 それは、罹(かか)ったお前が悪い、責任を取れ、ということですか。たしかに、ひどい話ですが、そういった感情も感じられる、かもしれません、ですね。手指の消毒を怠り、マスクもせずに、大勢で騒いで、それで罹患したとなると、まあ世間の目は冷たいでしょう。

加藤 最低限の義務を果たしたうえで、という条件があるということですか、本当にそんな免責がありうるのでしょうか。現実におきていることは、医療従事者とか必須労働に従事する人には理不尽な事象です。これはどうでしょうか。本当に辛いですね。また、条件をつけすぎると、症状があっても名乗りをあげる人がいなくなり、クラスター対策は不可能になります。結果、感染が拡大し社会全体としてはマイナスです。

 話は変わりますが、空港で財布をすられた人に、ボーッとしているからだ、そもそも油断しているお前が悪い、と非難の矛先が向くことがありますね。なにかしら自己責任論に結びつくような感じがします。つまり、自己責任論を突きつめると被害者をなじる現象が浮き出てきます。本来スリが悪いに決まっているのですが、また取締当局にも多少の責任があるのですが、全部被害者に乗っかかってくるという、理不尽の積分みたいでしょう。被害者責任論とはいいませんが、被害者をいじれば犯罪が無くなるわけでもないのに、ただ、人類は昔からそう考えていたかもしれません、また今も、奥の部屋が怖いことになっているのかも。

 一方で、何でもかんでも政府の責任、社会の責任と主張する人もいますが、それと両極ですね。いずれも責任のつけ回しでしょうか。

16. 労働組合のあり方と政治

司会 休憩中の雑談が怖い話に、ずいぶんと外してしまいました。では、労働組合自身のあり方といいましょうか、組織の現状に即したお話をいただければと思います。

加藤 労働組合のあり方のなかで、政治とのかかわりで議論になるテーマの一つがショップ制だといわれています。とくに、多くの民間企業では労働協約でユニオンショップ制を採用しています。このユニオンショップ制では、新入社員は協約で定められた労働組合への加入を義務付けられており、社員は組合員、組合員は社員という関係を成立させています。したがって、労働組合から除名された社員を解雇する義務を会社が負っているのですが、除名の事由や労働協約の規定記述など個別の事情によるところもありますので、がんじがらめというものではないと考えられています。しかし、労働者の権利保護については歴史的経験からいっても、まず労働組合の保護あるいは健全な発展が肝要との判断から、職域での組織拡大を促進する仕組みを許容しているとの解釈が一般的であります。もちろん、新入社員の労働組合加入にかかわる自由を尊重すべきとの意見もありますが、入社条件の一つとして認知されているといえるでしょう。

 ショップ性としては他にオープンショップ制がありますが、これは労働組合への加入などを労働協約で規定していないもので、本人の選択ということになります。

 国家公務員や地方公務員については労働基本権に制約がありますので、民間労組とは異なる仕組みとなっており、ユニオンショップ制は認められていません。ということからオープンショップ制と分類できます。

 ユニオンショップ制についての議論にはいくつかの傾向が見られ、学術的議論はさておき、労働組合の弱体化に狙いを定めた議論もあり、注意が必要です。同じ流れに、労働組合費の給料からの天引き(チェックオフ)を批判する議論があります。これも要注意です。

 この協約上のショップ制が労働組合の政治参加にどのような影響を与えるのかが次の議論となります。

司会 いまお話のあった協約上のショップ制が労働組合の政治とのかかわり方に深い関係があるとの趣旨ですが、そういった認識はあまりなかったように思います。まあ、聞いてからのことではありますが、大きな影響を与える話でしょうか。

加藤 議論としての重要性はありますが、昨年の労働組合組織率は16.7%と推定されています。また、締結された労働協約のうち半分強がユニオンショップ制を採用しているといわれていますので、労働者比でいえば6~8%の量感ですか。量感はさておき、どの程度の話なのかは、立場によってその評価は分かれると思いますが、それについては後ほどということで。

司会 では、お願いします。

ユニオンショップ制の場合、政治活動には内的規制がかかる

加藤 ユニオンショップ制の場合、チェックオフと相まって、組織運営上のメリットは大きいものの、反面いくつかの副作用というかデメリットがあります。

 それは、社員が労組加入を忌避できないことです。ここのところはいろいろと意見のあるところですが、同様に労働組合が組合員を選別できないことが、運動に制約をもたらすことになる側面も否定できません。とくに、政治活動については双方に気まずさが残る可能性もあり、たとえば、加入時に「うちの組合は以前から〇〇党を支援しているのでそのつもりで」と組合役員が説明した途端、「そういうことなら加入しません」ということになると、社員は組合員、組合員は社員の原則が崩れますから、会社として解雇するか、別になんとか工夫してとりあえず非組合員の職務を与えるのか、いずれにするのかの判断を迫られます。解雇の結果、法廷で争うことになると労働組合の政治活動をめぐる議論について、それはそれで波紋を呼び、複雑な問題が発生することになるかもしれません。現実には、そういった事例はごくごく稀でありますし、最高裁での判例もありますから、社会的に混乱を呼ぶといったものではありません。

 とはいっても、入口で加入についての選択をユニオンショップ制で抑えこんでいると受け止められるとなれば、それが政治活動などに少なからず影響を与えると考えるのが自然であり、事実政治活動については、政策・制度課題の改善活動の一環と位置づけるなど、理解を前提としながら徐々に協力を求めていく無理のない活動になっているのです。これは、無意識のうちに政治的イデオロギーを排除する心理的機制が働いているとも考えられます。まあ無理をした分は結果的に成果につながらないという経験則もありますから。

 したがって、選挙などの支援活動は委員会などの機関で都度付議されることになります。さまざまな考え方をもつ組合員を前提に納得性の高い活動を提案することになりますから、これは活動の内的規制を意味します。さらに、現場感覚でいえば、中央での政党を交えた議論については総論中心、出力最大を前提とした話であって現実的ではない、と受けとめているようです。このあたりは中央と現場とのギャップを感じさせられるところです。  

 たまに、政治信念において○○党はけしからんと考える組合員の抗議を受けることがありますが、そういう事例もふくめ円滑に処理するには、異議の極小化をはかること、問題となりやすい政党は初めから除外することなどが考えられます。という作業を重ねると、結果的に中道路線になりやすいといえます。

 とにかく、○○党を支援する理由を労働運動の立場からどのように説明するのか、説得性が大切ですが、継続性とか実績を大切にすることで組織内を円滑に運営するのが伝統ですから、新党などについての「政党評価」を抽象的に行うのは職域では大変難しいといえます。

司会 実態論ということで、とくにユニオンショップ制に付随する難しさをお話いただきました。で、オープンショップ制をとっているケースではどうなんでしょうか。

加藤 オープンショップ制の場合は、理解して加入するのが前提ですから、組織率で苦労する反面、組合員の意識は高く、一般的にやりやすい、活動的だといわれています。ただ、官公労の場合は法律でしばられ、活動面では規制があるということです。まあ、違うところはありますが、全般的に組合員の意識などは大差ないと経験的に感じていますが。

司会 地方連合などの会議で、官民労組間の温度差を感じるケースがあったのですが、たしかにショップ制の違いがあるのかな、と納得できた気がします。官民の違いというか、相互理解の必要性があるということですね。それとは別に、現場はとっくの昔に「脱政党」ですから、議論の仕方を変えないと盛りあがらない、かみ合わない状態が続くと思います。これは感想です。

17. 労働組合の結集力

司会 最近の参議院通常選挙での産別出身比例候補の獲得票の推移から、当該産別の固有の結集力(組合員数を分母に、獲得票数を分子にした百分比)がさまざまな議論を呼んでいます。その一つが、先ほどの百分比の水準にかかわる議論で、100%を越えられないのはなぜか、というとても高尚なものから、50%以下についての組織論あるいは運動論からの問題提起、さらに低落傾向を指摘しながらの体力低下論などが見られますが、これはどのように受けとめればいいのでしょうか。

加藤 ご指摘のことについては、第一に、産業を取り巻く環境変化や資本構成、営業形態、生産拠点戦略など、労働組合が主体的に対応できない変化が要因となっていること。第二に、組合員の政治価値観が変化していること。第三に、労働組合サイドに起因する各種の要因。大まかにいって三つの議論が考えられると思います。

 これらの論点については、候補者を擁立した労働組合において詳細な分析検討がなされていると思われますので、とくに第三者が吟味すべきは第二の、組合員の政治価値観の変化にかかわる議論でありますが、この議論にはアンケートなどの検討素材が欠かせないので、シンクタンクなどの研究を待ちたいと思います。

 第三の、労働組合サイドに起因する事項を検討するにあたって、考慮すべきことは、政治あるいは選挙関係の活動を除いた他の活動に対し、労働組合の結集力そのものの劣化を示す証拠は見当たらないので、問題は結集力というよりも当該活動への動員力に焦点を絞るほうがよろしいのではないか、また内部だけの活動の分析にとどまるのではなく、選挙全体における政党などへの評価が組合員にあたえる影響もあわせて検討するべきではないか、と思います。

 くわえて、特定の選挙に特化された活動と、組合員が期待している活動との間に、ズレがあるのではないかということも考える必要があります。

司会 内容もいい回しもわざと難しくしていませんか。要は、普通の活動は順調だが、政治や選挙では苦戦する場面もあり、それは労働組合のせいだけではなく、外部事情つまり政治そのものや政党のあり方にも原因があるということ、ですね。

加藤 雑ではありますが、そういういい方もできます。

司会 では、組織人員が680万人の連合が連合系統の比例候補合わせて200万票前後しか取れないのは、どこに原因があるのでしょうか。

加藤 (だから、その問いに答えるために時間を費やしてきたわけ!)   

 ここで議論されている結集力について、組合員数と候補者の得票総数を比較しながらの指摘もたしかにあります。しかし、その原因が単純な構造ではないことは今回のインタビューから理解できるのではないかと、思ってい・ま・す。

 つまり、労働運動の数多い領域の中で、政治活動は一つのピースであり、政策・制度課題といえどもまだまだ主力(メイン)ではありません。さらに、政治活動を背負い、職域とのパイプ役を担ういわゆる組織内議員の活動についての周知も簡単なものではありません。くわえてユニオンショップ制のもとでの議員あるいは議員活動への理解は一からの積み上げともいえる地道な活動の集大成であって、決して容易なものではないのです。

 さらに、職場は一色ではありません。労働組合が行っている各種のアンケート調査によると単位組合に対する組合員の評価は十分なレベルにあるうえ、期待感も高いといえます。また上部団体(企業連合本部、産別、連合など)も、評価は組合員との距離に反比例する傾向を考慮するなら、それぞれ合格ラインにあり、とりたてて問題視する必要もないと考えられています。もちろん甘いとの指摘があることも事実ですが。

 そこで、職域での支援政党への支持率は、労働組合の姿勢や方針を反映しているのですが、その程度は年々徐々に低下しており、職域によってはメディアの調査結果に近似しています。つまり、低落傾向にある、その中で現場の活動家が真に危惧しているところは、労働組合がいくら口ぞえしても政党自身の評価が上がらなければ、もう踏みとどまれないだろうというもので、職場はまさに「脱政党」に向かっているということです。「最近の労働組合の、また連合の結集力の劣化が著しく、いいかえれば連合の票は少ない」と旧民主党議員がいうのは勝手でありますが、それはあなた達が招いたものでこれこそ自業自得ではないか、これ以上の尻拭いはやりたくないというのが現場の本音です。

司会 なかなか難しい状況にあるということですが、たしかにそういった声を聞きます。そこで、労働組合としてさらに努力するべきことは。

加藤 ここまで頑張ってきたのにさらに何を努力するのか、これ以上労働組合に求められても、と思います。ボールは政党あるいは議員にあるわけですから。

 職場から、あるいは茶の間からの政治への評価、とりわけ支持関係にある政党に対する評価、これこそが結集力として観測されている数字の正体ではないか、との見方もそれなりの説得性をもっていると思います。

 職場で売れない政党を無理して応援しても結果に結びつかない、下手をすると労働組合本体の評価が下がってしまう、といった感じですね。最低でも同等の競争力を持つの商品でないと無理だと思いますが。

 

18. 政党の凝集性

司会 そろそろ限界だということですか、希望もあると思いますが。

 さて、しめくくりのテーマですが、労働組合から見て政党とはなんなのか、まとめていきたいと思います。まず、よくわが国には政党法がないといわれるのですが、この点はいかがでしょうか。

加藤 わが国に政党法がないことを憂うることはないでしょう。現実に存在する政党をもって政党とする今のやり方がとんでもなく不都合とは思えません。

 しかし、たとえば選挙違反の疑いがある議員に1億を超える資金が政党から交付されていたとの報道に接したとき、国民の多くは何かしらの疑問を覚えるでしょうね。その金はどこから来たのか、仮に政党助成金であるとするならば、さような使われ方は国民として納得できないなどと不満に思うのも当然のことです。

 また、政党の鞍替えについても、政治倫理上の疑問を感じるかもしれません。帰属する政党を変更することを直ちにとがめる必要はありませんが、対立状況にある政党への異動はさまざまな憶測を呼ぶでしょうし、その議員は十分な説明をしなければなりません。とくに、政党票を基盤に当選した議員には制限があるのはとうぜんでしょう。

 また、選挙区での当選者であっても、有権者は所属政党を投票動機としている場合も多いと考えられますので、質問には応えるべきだと思います。

 問題は、根拠となる法律のないことが、決着の着かない議論を巻き起こしていることでしょう。

 ということから、一面の真理として、モノサシとしての政党法の必要性が大きな声ではありませんが、叫ばれるのでしょう。同時に政治における政党の役割が大きくなっていることをどう受け止めるべきかという議論もあります。

司会 一面の真理といわれましたが、政党の役割が大きくなっていることは確かですので、論理的には政党法を用意するのが正しいのではありませんか。

加藤 それはそのとおりです。しかし、政党法を作るとして、立法の目的をどうするかですね。助長するのか、保護するのか、抑制するのか、型に入れるのか。また、法律を作ることが、わが国の民主政治にとって良いのか、悪いのか。これはやってみなければわかりませんが、悪用される恐れもあります。そのうえで、有権者がどう考えているのか、対話してみなければ見当がつかないでしょう。というのも、個人情報保護法など、作ってみたけれどこんなはずではなかった、というケースもありますから、慎重にことを運ぶことにも一理あるのです。

司会 ではどうすれば良いのか、ということですが。

加藤 先ほど、モノサシといいましたが、一つは、政党は常在戦場といって常に選挙に直面しています。そういう意味では、有権者がダメだと思えば直近の投票を通じて懲(こ)らしめればいいという理屈もあります。そこで、選挙を介してモノサシを磨いていくほうがいいというのが現在の流れではないかと思います。

司会 政党法といいだしておきながら押入れに引っこめたみたいな、それでは少し悠長ではありませんか。第一、政党や議員がだらけているときに、国民がモノサシを磨こうと思っても、肝心の政治の側がのらりくらりと、国会でまともに答弁しない、記者会見で質問に答えないではぐらかす、どうも悪性の風邪が流行っているのではありませんか。

加藤 実は民主制の弱点がご指摘の「こと」なんですね。つまり、政党、議員がだらけているときに、有権者が打てる手が意外と少ないのです。そういう意味では、継続して行われているメディアのアンケートに否定的に答えるとか、しかし、これも2、3千の標本ですから当たることが少ない、その上、ここが一番肝心なところですが、二つ三つ気に入らないことがあるからといっても、不支持と答えるケースの確率が低く、最終的にはどちらかといえば支持と答えることが多いのです。となると、先ほどのだらけているからダメという気持ちを表す方法、場面がないことになります。

 旧民主党政権の一つの失敗は、政権交代がもたらすコスト、つまり行政上の混乱とか停滞の管理がうまくできなかったことから、有権者が政権交代に対しずいぶんと臆病にならざるをえないといった状況を生みだし、また受け皿としての政党を弱体化させて、より政権交代から遠ざかることになったという、政権交代が政権交代を抑制する、なんとも後味の悪いパラドックスを生んでしまったことです。

司会 お聞きすると悲観的な流ればっかりで、いいのですか、こういう状況を放置して。

加藤 放置といえば、先ほど「こと」と表現しましたが、ご指摘のだらけている状態も「こと」ですが、これは見えている「こと」ですね。さらに、ひどい、たちの悪いのが見えない「こと」なんです。見えないからわからない。となると、わたし達の民主政治は見えているところだけの民主政治で、隠れたところには手が出せない民主政治ではないか、というのも民主政治の弱点なんです。

司会 民主政治に限ったこととは思えませんが、とんだ弱点があるのですね。どうすればいいのですか。

民主政治の弱点克服には透明性の確保が必要

加藤 透明性です。はじめから透明であれば開示する必要がない。もちろん事情によって開示できないことがあるのも事実ですが、一歩々々透明性を高める努力が必要でしょう。原則、積極開示。少なくとも政党助成金はそうすべきです。とくに組織活動費とか事業費や調達費などは一括処理ではなくある程度追跡可能な証票の添付を義務付けるべきです。これは関係する政治家を守るためです。仕事ができる政治家はいつも不足気味だし、いざ仕事をしてもらわなければならない大事なときに過去のかかわりから疑惑が浮上し、引責するといった事態が起こらないようシステムを変えていくべきです。

 この課題は、民主政治を守るためにも真剣に取り組む必要があるでしょう。各論は別の機会にと思いますが、たとえば、会場とか施設が相場よりも安く提供されているとしたらそれはどういう趣旨なのか。逆に、高い場合は、と世間なみの審査は行うべきでしょう。

 

司会 まあ有権者からいって、取り立てて反対するものではありませんが、そんな面倒なことをやりますか。なんかごまかされそうです。

加藤 そう思うのも無理はありません。しかし、政党にとってはチャンスなんです。野党は正しくやれているのですから、そう信じていますが、ドンドン攻めればいいのです。そういいながら、与党のほうが早いかもしれません。

 会計の透明化、それも先の先まで透明にする。これがこれからの、政党間競争のポイントだと思います。もう言葉だけの時代はオ・ワ・リました。

 この後、政党の凝集性について考えていきますが、その前に、先ほどの「こと」にかかわってくるのですが、政治の側の応答性を確保するには、という設問になります。

司会 応答性とは、なんですか。

応答性、有権者の政治ニーズには迅速に応える

加藤 いろいろあるのですが、この場合は、有権者の政治ニーズに迅速に応える、ということでしょう。だから、まずもって有権者の政治ニーズを把握しなければなりません。これらは議員の日常活動において把握されるべきもので、始まりは個別相談でしょう。それらを分析し一般化していくことによって政策の卵つまり政策要求がまとまるということですが、そういう積み上げ方式だけで秀逸な政策要求が完成するわけではありません。

 大切なのは俯瞰的、総合的、体系的な視点からその政策要求を評価することですが、ていねいにやれば時間がかかります。忘れた頃に届く贈り物ではダメですから、そこは迅速にという意味で即応性を具備させる必要があります。

司会 政党としては、有権者の政治ニーズに迅速に応じること、これが重要ということですね。

なんといっても感受性が大切、鈍感病に罹っていないか

加藤 さらに、感受性という意味があります。政党が勢いを失い衰退する原因に鈍感病があります。鈍感病の特徴は、罹っていても自覚できない、鈍感であることに鈍感なのです。ある特定のイデーに凝(こ)り固まるとか、成功体験が忘れられないとか、外部グループに依存している、といった場合はなかなか直せない、やっかいなことです。

 また、有権者がどう見ているのか。これは、政党や議員が自ら感じとるべきことなのですが、そこが鈍感だから感じとれない。まだ、わからなくなったといっている人はマシです。一番困るのは、感受性が高いと自分で誤解をしている場合で、やることが完全に的を外すケースです。見事なくらい、こうなると病膏肓(やまいこうこう)に入る、ですね。

司会 マニアックな部分がありますが、わかるような気がします。それって、会社でもありますよね。

安定性の前に連続性がある

加藤 会社の話は専門外でわかりません。さて、政党の凝集性を考える上で、旧民主党の事例研究がもっともわかりやすいといえます。

 凝集性の前に安定性があり、安定性は連続性によって支えられるのですが、連続性において重要なことは、名称やイメージです。これはブランドと同じことで、企業ではもっとも気を遣うものです。名称を変える場合でも、イメージは継承されなければいままでの投資が無駄になります。

 したがって、名称変更がどういう理由でなされるのか、単なる身勝手な説明ではなく、市場すなわち顧客や投資家から受け入れられることが大切です。

 その点、2016年の旧民主党から民進党への移行はどうだったのか、ぜひとも主導された方々にお聞きしたいと思っていたのですが、それがまたたく間に希望の党、立憲民主党、民進党、さらに無所属の会に分流していき、2018年には国民民主党が加わりました。短期間でのこれだけの変化が世の中のハウジング、アパレル、食品など普通の業界で行われることは稀の稀で、ブランデングとしては失敗といえるでしょう。

 ブランドとはメッセージです。このメッセージ機能に早く気がつくべきでした。広告宣伝には多額の支出をしたと思いますが、ブランドについては常にその価値の維持に気を配り、関係者が本気で守らないかぎり毀損消耗していくのです。

 2016年新党(後に民進党となりましたが)の名称について、ウェブ公募を踏まえ、旧民主党常任幹事会の委任をえて、赤松氏と福山氏が交渉に立ちましたが、その時赤松氏が発した「体を張って」という言葉がブランドの大切さを表しているのです。しかし、他に事情があってのことだと思いますが、残念ながら民進党という結論になりました。電機産業出身としては実に考えられないことです。店のものがノレンを守らないのにお客さんが守ることはないのです。

司会 つまり、党名変更ですね。ご指摘は相当に保守的に聞こえますが、有権者の反発がきわめて強い場合、反省をこめて、名前を変え心機一転再出発を、という考えもあると思いますが、ダメですか。

名前を変えないことが連続性の基本

加藤 どのくらいの年数がかかると思いますか。ブランドが定着するのに。また、どのぐらいの広告宣伝費がかかると思われますか。もちろん、政党は報道対象としてメディアに載りますから、商品の宣伝とは違います。また知名度は金額では推しはかれません。多少悪評であっても、政党の場合はマイナス100の符号が変われば、プラス100になるのですから、マイナスをプラスに変える活動に力を注ぎ込むことのほうが、安易に名称変更に走るより成功に近いのです。ところで新進党と民進党の区別がつきますか。ということです。

支える人も支えられる人も変わらないことが安定性を生む

 次に安定性ですが、支える人が変わらないという安定性が必須項目です。この支える人が変わらないという事実が、変わらない価値があることの証明なんです。

 米国では隠れトランプが話題になっていましたが、表に現れない支える人の存在が大切で、この人達がいわゆる岩盤の底を形成しています。旧民主党の事例でいえば、中小企業などの経営者、中間管理職、自営業者、資格専門職、公務員など、思わぬところに隠れた支持者がおられました。

 この中で、たとえば中央省庁に勤める公務員が、政治的には中立ですが、心情的にどちらを向いているのかが重要です。それが、政治主導という結局よくわからないスローガンに振りまわされ、作らなくてもいい溝を作ってしまったのです。同様の事例が多々見られますが、支持者、支援者とは長いおつきあいをしていく、とくに隠れた方への気配りが大切です。

 という、支える人が変わらないベースのもとで、支えられる人が変わらないことが大切です。要は、簡単に顔を変えるなということです。変えてもいいが、支える人の理解が必要です。とにかく、国政選挙で敗北のたびに代表を変える政党をだれが支えると思いますか。

司会 そこで、いつも不思議なんですが、代表を変えろという世論はあるのですか。だれが変えてほしいといっているのですかね。それから国会議員など一部で決めている。党員、サポーターってバカにされていると思いませんか。

加藤 戦略性を持つ組織ならそうはならないでしょう。問題は内向きうつむきですか。まあ、ここでは論評しませんが。

 さて、そういう連続性や安定性を身につけた上で、政党としての凝集性が俎上にのるわけで、現状では俎上にのせるレベルにない政党があるのも事実です。凝集性の議論にまだまだ入れないといわざるをえません。

 そこで、一般論としていくつか指摘しておきます。まず、凝集性を組み上げる重要な要素に「つなぎ」があるのですが、これには個別論の側面もあります。たとえば、A党のつなぎは何なのか、というように党によって違うと思われます。 

といった個別差はありますが、うちの党の「つなぎ」は何であるのかについての共通認識をいかに形成していくのかが組織戦略の一丁目一番地です。

 「つなぎ」として機能していると考えられるのは、人間関係、イデオロギー、政治理念、政策形成などいろいろありますが、なかでも政治的利益が多いと思います。外聞があるのでさまざまに修飾されていますが、選挙に勝つという政治的利益の獲得と分配が大きな部分を占めているといえます。その目的を達成するために政治理念や政策が手段として用いられるのです。場合によっては、イデオロギーや資金も同様の扱いになると思うのですが、こういった認識について反論もあるでしょう。

 それと同時に、矛盾しているように聞こえるかしれませんが、手段として使われる政治理念や政策あるいはイデオロギーが輝かなければ、いくら強い政治利益への執着を持った共同体だとしても、力を失っていきます。

凝集性を支えるメインテナンス力

 つぎに、凝集性にとって大切なのは、維持機能であります。組織体は生き物ですから、栄養と酸素を全身に送りつづける必要があります。そのためには全身に神経を張り巡らさなければなりません。これがマネジメントです。

 旧民主党も、ガバナンスの欠如と自身で総括されました。では党内ガバナンスとはなんでしょうか。党員、サポーターのみなさんも首をかしげていました、いまでもそうです。党内統治、だれが統治するのですか。役員ですか。無理です。それは関係者全員がはたすべき義務をはたすことをガバナンスというのです。美味しいものを食べるのはあくまで自分で、調達や料理そして配膳や後かたづけは党の仕事、他人の仕事だと、純粋にそう思っている議員が多すぎます。これが、ガバナンス欠如の原因だったのです。組織運営のイロハに課題があったのではないでしょうか。

司会 ちょと、待ってください。また、ぐちではないですか。なんか、道のりは遠いですね。

加藤 そら遠いでしょう。空には手は届かないですから。

司会 ?、ダジャレですか。政党の凝集性について少し問題提起をいただきましたが、それが労働組合と政治との関係において重要だという意味が今ひとつ腑に落ちないのですが。

加藤 もう一つ凝集性について、いわば政党組織論になりますが、地方組織と職員が、各論ではありますが重要です。

 よく〇〇県連といいますが、これは「□□党〇〇県総支部連合会」の略称です。で、この総支部は、議員単位・選挙区単位で設置され、経理は党本部に連結します。後援会とは別物です。

 県連はほとんどの人からは見えにくいでしょうが、〇〇県の党活動のセンターとなっています。また総支部長は原則、現役の国会議員です。だから、落選中とか、もともと国会議員がいないとなると、空白になるのですが、選挙が近いと予定候補を支部長として設置します。

 国会議員空白区は地方議員が穴埋めをしますが、重荷ですし、メリットもすくないと思います。使命感に頼り切った実態ですが、この地方組織の強化が中間野党の課題です。

 この地方組織について自民党とその他の党とではまるで厚みが違います。選挙における基礎票はこの地方組織の総合力に比例していると思われます。とくに常設組織をもたない空白地区を抱える政党は総合力に劣り、支援組織に補完してもらうしか手がないのですが、支援組織の一つである労働組合は産別地方組織、連合地方組織が常設でありますので、それなりの対応ができますが、政党の地域組織が選挙が近づくと動き出す、季節開業では、党の凝集性を支えられません。

 また余分な話で恐縮ですが、2009年9月、鳩山内閣が発足しました。その頃ある県連の代表だったのですが、間髪をいれず、党への要請活動が始まりました。県はもちろん県内の市町村が大量の要請項目を持ち込んできました。いわゆる陳情です。そういった地方自治体の要請をどうさばくのか、大急ぎで党幹事長室を窓口に要請項目などのルート整理が行われました。大騒動ではあったのですが、政権政党の活動の間口と奥行きを実感しましたが、これに対応するには、地方組織と職員の強化は外せないでしょう。地方自治体からは慇懃(いんぎん)に値踏みされる毎日でした。

地方組織や職員のことを忘れていませんか

 さて、職員については、機微に触れるので議論が難しくまた実態を詳しく把握している議員が少ないのでテーマ化していませんが、継続性、凝集性を支える重要な機能であることは間違いないことで、政権獲得を展望するなら本気でこの分野に投資する必要があります。党が弱体化すると多くのしわ寄せがここにきます。逆に、党の人材は議員だけではありません。総合力をいうなら党職員の活用を抜きに語れません。

司会 格好をつけて政党組織論といっても世間の関心は低いです。その中での地方組織あるいは職員のあり方などは政党としての専門領域じゃないですか。趣味の世界とはいいませんが、ふつう有権者からは遠い話です。また、労働組合と政治という視点から、それがどのように、またどのくらい関係してくるのですか。

加藤 なるほど、組合員の関心からいえば圏外表示であることはたしかです。ただ、政党のプレゼンス向上をはかるなら、地方組織や職員を抱合しての総合力強化が重要ではないでしょうか。

 また、組合員は目が肥えていますから、企業経営を見る目つきで政党を点検します。気に入った政策には賛同しますが、同時に、それを実現する能力も腑分けするのです。たとえば、あそこはいつも良いこといっているけど、まあ無理だね力がないもの、といわれます。とくに、分裂については厳しい、です。多少の意見の相違は仕方ないと思っているのですが、組織分裂は大きく評価を下げます。分裂が分裂を呼ぶことをよく知っておられますから、きびしい反応が返ってきます。

 という文脈で大切なのは、今は小さな政党だが大きくなればやってくれるかもという期待を持っていただくことなんです。だから、小さくても政党としての凝集性をフルスペックで装備しておくことが重要だと申しあげているのです。

選挙での政党評価の基準が変化している

司会 どこの国でしたか、有権者が政党を評価する基準について、従来は右左といった政治スタンスに着目されていましたが、最近はそのことももちろん評価軸ではありますが、それよりも課題をうまく処理をする力に着目する傾向が強まったのではないか、という話を聞いたのですが、何か関係しますか。

加藤 たしかイギリスでしたか、「ヴェイランス・モデル」と呼ばれる研究があるようです。『分解するイギリス-民主主義モデルの漂流』(近藤康史著 ちくま新書P124)で知りましたが、有権者の投票にあたっての評価基準についての研究で、私見を交え簡単にいえば、みぎひだりという左右の一次元の判断軸だけではうまく投票行動の説明ができないことが認識されはじめ、むしろ政党の執行能力や実績などをより重視した方向に変化しているのではないかというものです。

 この指摘は面白くまたうなずくところも多くあります。わが国におきかえれば、うまく状況に適応していくことの利点を有権者は感じているのではないか、また問題構造が複雑化していることやその原因が、激烈な国際化の進展や米中対立さらに感染症など政治的スタンスとは関係ない事項からもたらされており、求められるのは執行能力あるいは経験ではないかということに、有権者もそのあたりはすでに気がついていて、したがって、選挙時の政権選択にあたりイデオロギーや政治スタンス以外の要素に関心を持ちはじめた、ということでしょう。あくまで私見ですが、研究の進展を期待したいものです。

司会 いまの話は、イデオロギーや政治的スタンスが意味をなさなくなるだろうということでしょうか。

加藤 そこまでいえるかどうか、わかりませんが、わが国においても、すでにというよりもとっくの昔に、イデオロギーや右左といった政治的スタンスの比重は相当低くなっていると思います。また、短期より長期政権のほうが国民としての損失が少ないのではといった体感的評価もあるように思います。投票行動における評価基準は現在進行形で大きく変化しているのではないかと思います。

 もちろん、政党間において争点と方策にある程度の一致があることが前提ですが、そのいい例が原発問題なんです。正直のところ、依存しなくてもいいのならそれが一番いいというところは一致していますが、そうはいかない現実があります。また、旧民主党時代は全力で努力をして2030年代に依存しなくてもいいようにという、暫定的ですがゴールを設けました。これを2030年ではどうかという議論が民進党時代にありました。この議論にふずいする争点としては、エネルギーの安定確保や気候温暖化対策などがあります。大きな方向性は収れんすると考えられますが、各論や実行論ではさまざまな意見があるのが現状です。

 このようになかなか難しい現実を前に、原発賛成派VS反対派の構図は政権選択の基準としては大雑把で大変情緒的すぎるのではないかと思います。

 仮に、反対派が原発反対のワン・イシューで政権をとったとして、当面の政策として現在の政府の方針とどのように異なったものを打ちだせるのか、現段階では判然としません。したがって、議論をすすめるためにも原発ゼロ法案あるいは廃止法案を早く明示するべきだと思います。具体案なしに、いつまでもイメージだけの、原発さえ停止あるいは廃止すれば安全な社会になる、あるいは二度と福島のようなことは起こらない、と情緒的主張を繰り返すだけでは問題解決につながらないのです。

 つまり、今必要なのは具体的な手順すなわちロードマップをエネルギーの安定確保とセットで明らかにすることです。実際の争点はすでにそこに移っているといっていいでしょう。もし、政権選択の争点にするのなら、どのようなロードマップを選択するのか、具体論でぶつからなければ有権者としても判断しかねるということになるのではないでしょうか。

 抽象的なものでは、現政権ののらりくらりとあまり変わらないのではないか、というのが問題意識です。

 また、原発賛成派が右で、反対派が左。あるいは、与党が賛成派で野党が反対派、といった仮想の対立構造を押しはめ、対立を煽っても問題解決には結びつかないと思います。

 とくに、原発施設は私有財産ですから、停止、廃止は簡単ではありません。また、災害対策としておよそ1兆8千億円の新たな安全対策を実施させたわけですから、私有財産を毀損する法律が果たして可能なのか、くわえて国策民営といわれた長年の事業を終わらせるのなら、詳細な廃止ロードマップを示さないと判断のしようがないということではないでしょうか。

 なんとなく、電力会社にすべて押し付ければいいといったニュアンスも感じられますが、この事業のすべての費用は電力利用者が料金で負担する構造です。仮に廃炉は税金でやると決めても、負担は納税者ですから、どの道を通っても負担者は変わらないのです。

 現在、国の借金は限界に近づいています。国民負担を念頭におきながら、原発に依存しない社会、エネルギーの安定確保さらに温室効果ガスの排出をゼロにするという複雑で困難な課題を、どういう経路で成し遂げるのか。争点は執行政策の立案と合意形成に移っていると思います。廃棄物問題も、トイレなきマンションに住むようなものだと非難されていますが、20年以上前からくすぶっている問題です。これらの問題は国会で原発反対決議を採択すれば解決できるというものではありません。

 現在ある種の膠着状態にありますが、それを打破するにはテクノロジーと負担構造が必要です。今のままでは議論すら前に進まないでしょう。テクノロジーと費用を必要なだけ動員するのが政治の執行責任です。賛成反対、やるやらないではなく、いかにやるか、やれるのかが争点になっていると思います。

 これが、一部で議論されはじめた問題提起能力よりも解決能力に政権選択基準が移っている事例ではないかと考えています。

司会 いつの間にか重たい議論になりました。どこかで、俯瞰的体系的統一的総合的という言葉がでてきましたが、エネルギー政策こそがそうなんですね。それと、優先順位の問題がありますが、気候変動問題の優先順位はどうなんですか。

加藤 優先順位は、難しい問題です。なぜ順位化しなければならないのか。この理由を明らかにしなければなりません。また気候変動問題への姿勢が明確でなければ話になりません。まあ、スローガンなら並べるだけでいいのですから。

 通常、投下資源にかぎりがある場合順番待ちができます。執行政策もないのに総論でワイワイやってみても時間の無駄ではないでしょうか。どの方向を選ぶという議論とは違います。

 早く、政党の凝集性にかえりたいのですが。

司会 では、政党の凝集性について、ややマニアックでしたがさまざまなご指摘をいただきました。さらに、なにかありますか。労働組合からのかかわりという視点ですが、あくまで。

加藤 なぜ、政党の中身である凝集性について多くの時間を費やすのか。それは、政党の役割が大きくなっている現状があって、さらに政党法では囲い込めないだろうと思えるほど課題が多い。ということから、議論だけでも多角重層的に、まあ論をつくす必要があるのではないか。そして、いろいろ難しい環境にあって法律は作れないから、後は政治家で、どうぞ自分たちでしっかりおやりくださいという感じです、かな。

司会 自分たちでしっかりおやりくださいって、急に空気が抜けたようで、しっかりしてとこっちがいいたいです。凝集性にもどりますが、「つなぎ」という蕎麦屋のような説明でしたが、ふつう組織の紐帯とかいいませんか。仮に政治的利益の確保が共有化され、その目的に向かって組織化される、といった、そんな話ではないかと思います。それが凝集性という言語概念とやや不釣り合いのような、あくまで感じですが、ちょっと論が薄いというか甘いのではないでしょうか。

政党の凝集性は分子の共有結合のイメージ

加藤 たしかに言葉足らずの感はあります。では「つなぎ」を離れます。

 目的を共有化することが強い結束をもたらすことは確かですが、政治結社の中でももっとも強くなければならない政党を語るには不足といえば不足です。化学で習った分子の共有結合のイメージですが、電子あるいは電子軌道に相当するものとして、一つは価値あるいは価値観があります。

司会 待ってください。新しいことを手品のように次から次へと出さないでください。価値とか価値観は分かったようでよくわからない、のですが。

価値、価値観 どちらかといえばリンゴが好きです

加藤 だから、それは、まあナシとリンゴでは、どちらかといえばリンゴが好きです。ミカンとリンゴではミカンが好きです、これを何回もくり返すのです。果物屋ではありませんから、夫婦別姓と選択的夫婦別姓では選択的のほうがいいといったことを、いろいろな政治価値をとりだして、細かなテーマごとに集団でやっていけば、徐々に姿が見えてきます。ベストではなくベターで選んでください。小さな価値を比較しながら浮かび上がらせる手法です。膨大な作業ですが、一時間もやればおよそその人の価値観が見えてくるでしょう。政党としての価値観をイメージアップするのに役立つと思います。

規範 立ち居振る舞いのルール

 次が、規範です。何をしてはいけないのか。いいのか。嫌われるのか。喜ばれるのか。といった集団には立ち居振る舞いや行動にかかわるルールが形成されているのですが、それを規範といいます。集団にとってはその形成プロセスが重要で、たとえばビッグブラザーが最初に決めたからという集団もあります。案外これが言葉でいえばイージーなんですが、後は伝統とか前からそうだった、うちではそんなことは昔からやらないからね、こんな感じです。昔風にいえば作風です。なぜそうなのかはわからないが、そうなんだ。これが確立していることが凝集性にとっては大事です。また、不祥事や重大事件のたびに顛末として規範が形成されることも多いといわれています。ただ、メンバーが受け入れていることが前提ですが。

権力 だれの声に耳を傾けるか

 次が、権力ですが、これは難しくて未だによくわかりません。声の大きさとも表現できます。みんなだれの声を一番聞くか、先ほどの価値比較法でやってみれば権力の所在が明らかになります。影響力ともいえます。

報酬 多種多様な報酬こそ力の源泉

 最後が、報酬です。金銭以外の報酬こそが本命であって、それは多種多様、創造的で、けっこう人のハートをつかむものです。まあ、集団内におけるごほうびシステムですが、喜ばればなければなんの意味もありません。どんな報酬体系をもっているのか、まさに組織にとっての洗練度のバロメーター、おそらく新人にとっては重大関心事でしょう。これは有能な新人のリクルートには欠かせませんし、メンバーを鼓舞するのも報酬なんですね。ねぎらいの一言も報酬の一つです。見ていると自民党が経験力なのか、一頭抜きでています。旧民主党のそれは貧弱でした。

 これらの、価値、規範、権力、報酬が電子軌道となって政党の周りをブンブンと飛び回っている、これが政党共有結合のイメージ図ですかね、古臭い理屈を押しいれからひっぱりだしてきて、すみませんね。

司会 分子のことはわかりませんが、論としてはおもしろい、ですが、それは政党内の管理技術であって別の話です。

加藤 そうでしょうかね。激烈な企業競争にあって、核となる競争力、政党の場合は凝集性から生まれる凝集力ですが、それを法律などを用いて外形管理に委(ゆだ)ねますか。相当にトンマな話ですよ。政党間競争においてキーとなる競争力は門外不出ではないですか。いい方が少しずれました、本当に競争が厳しくなると政党は締まるもんですよ。といいつつ、本音は野党の競争力を強化したいということです。「あの政権はなんだったのか」と頭蓋骨の内側にジェットプリンターで印字されています。おそらく一生反芻し続けるでしょう。4トントラックに10トンの荷物を載せた、過積載状態で台風の中に突入してしまった観があります。転倒しこぼれ落ちた荷物、しかしこの荷物には意味がある、今でも議論する価値がある。なぜなら、現政権はベターとはいえない、選挙は強いが、ただそれだけではないですか。長期課題、構造課題何も進んでいません。ということから、次はうまくやりなさいよ、ないがしろにしていた凝集性を本気で議論して欲しい。価値、規範、権力、報酬の共有化をやりなさいよ、でないと政党は強くなれませんよ。ということですかね。

司会 (そういうのははじめから気がついていました)そら「つなぎ」から脱線しました。つなぎなのに脱線するとは。では、政党法にかえって、本当に法律無しでやれるのですか。なんか、談合しそう。

加藤 国民が政党を管理する目的で政党法を作り縛りをきつくするのも一つの方法ですが、政党のどこを縛りたいのか、この議論が収れんしないことには前に進めませんね。角を矯(た)めて牛を殺す、ということもあります。法を作れば、法をかいくぐろうとしますから、いたちごっこになってもまずいじゃないですか。

 そんな、非生産的なことはやめて競争促進をはかったほうが、という意見も多いのです。

政党政治といいつつ、その権能はどこからきているのか、怪しいぞ

加藤 そんな話よりも、政党監視の急所ですが、国民は選挙を通して政治に関与しますが、選挙では人名と政党名を記します。候補者は人格をもって選挙に臨みますが、政党は人格をもちません。あくまで抽象体です。有権者は、議員が集まり政党を作っているから、議員を制御(コントロール)すれば政党を制御できると考えているフシがありますが、はたしてそうでしょうか。

 この疑問は、議員が政党を制御できているのかという問いかけと、できていないとすれば、それはどういう条件下なのか、との対でなりたっています。また、政党が議員を制御していいのか、その場合の正統性はなにを根拠にしているのか、さらに国民から付託された国会議員の権能を政党に授権させることを国民は許すのか、という問いかけとも組をなすものです。

 なぜ、かような疑いをしつこく持つのか。それは党議拘束にあります。党として一度決定するとその後はその方針に従ってスルスルと進んでいくのですが、ふと気がついた議員はどうするのでしょうか。一からやり直せというでしょうか。ほとんどのほとんどがそうはならないでしょう。つまり党議拘束は議員をロボット化するものといえます。党議拘束を止めるか、処分を止めるかです。 

 さらなる懸念は、政党という隠れ蓑ではないれっきとした龍袍(皇帝の衣)をまとい、議員に号令し、人々の声を圧殺し政(まつりごと)をわたくしする怪人妖怪の現れることを心底危惧するからです。わかりやすくいえば政党ジャックです。

 ということから、3段飛びの大飛躍ですが、組織あるいは組織運営について少なくない経験を有する労働組合の関係者が怪人妖怪の手に政党が渡らないように、しっかりと監視することがもっとも崇高な社会貢献ではないか、と、、、

司会 いよっ、待ってました。上がり調子。そんな借りてきた昔話、今や2020年ですよ。講談、歌舞伎の世界。ありえないでしょう。キテレツ、とくに最後のくだりがメチャクチャ飛んでいますよ。

加藤 いいですよ、ではお聞きしますが、公認権はだれがもっていますか。その運用は透明ですか、民主的ですか、汚染されていませんか。人事権は、芋づるになっていませんか。それは国民の手の届くところにありますか。

 選挙の洗礼を受けることのない怪物たちが政党マシンをつかって何か企(たくら)んでいませんか。絵空事ではありません。実例があります。過去にあっては、欧州独逸国に、現代にあっては悠久の大陸に。ところであなた、信を人に問うことはあるでしょう、しかし、組織、政党に問いますか。組織や政党は機関ですから厚顔無恥、恥も責任もないのです。ということで、いくつかの条件が整えば、事態は危ないのです。おたがい気をつけましょう。

司会 一度お聞きしようと思っていたのですが、何が楽しいのですか。芝居がかって。

加藤 あまりにも長いので疲れたのかもしれません。「労働組合と政治」とは未完のテーマです。中間団体である労働組合の政治への関与ははじめから限界のあるものです。とくに多様化の時代にあっては要求形成の段階から足元が揺らいでいるともいえます。今回は多面的に考察いたしましたが、労働組合の新たな役割を見つけ、政治との新しい関係を作るのは、今を支えているみなさんであって、老兵ではありません。おそらく、不連続面ができつつあるのでしょう。いい残すことには限界がありますが、聞き取るのは無限です。ご健闘を祈ります。

司会 長い時間おつきあいいただきありがとうございました。

 ◇ 木枯らしや蛾の遺骸立つひかり道

2020年11月18日

加藤敏幸

 

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【講師】一の橋政策研究会 代表 加藤敏幸

省略(HP参照)

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