研究会抄録

ウェブ鼎談シリーズ(第12回)「戦前の労働運動に学ぶ」

講師:仁田道夫氏、石原康則氏

場所:三菱電機労働組合応接室

「コロナは社会のレントゲン」といった哲学者がいるそうですが、MRIでもなくCTでもない、レントゲンと表現したところがセピア色のようでその穏やかな感じが気に入っています。話は変わりますが、昨今アフターコロナあるいはウィズコロナなど感染症を踏まえた近未来のあり方を模索する動きもありますが、逆に私たち人類が感染症をどのように克服してきたのか、という視線を過去に向ける流れもあり、つまりは温故知新といいますか目線はあくまで両方向がいいのではないかと思います。  ということで、いささか前口上が長くなりましたが、これからの労働運動のあり方がさまざまな場面で議論されると思われますので、ここはわが国の労働運動の始まりについて一度おさらいをするのも大切ではないかと「戦前の労働運動に学ぶ」と題し本講を起こしました。(2020年11月26日午後収録)  なお、UAゼンセン様のご厚意によりUAゼンセン季刊誌「コンパス2020冬」に収録された「日本における労働運動の形成1-戦前編-」(東京大学名誉教授仁田道夫著)を資料欄に掲載いたしましたので、本講の参考にしていただければと思います。なお、無断転載禁・不許複製です。
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わが国の労働運動のルーツを知ることが大切

加藤「今日は戦前の労働運動から学ぶというテーマでお願いいたします。仁田先生は現在東京大学名誉教授ですが、私としては30年以上前から、全民労協あるいは連合の研究会等においてお世話になっていました。最もオーソドックスに問題を捉えて確かな方向性を示して頂いたと思っています。

 石原さんは三菱電機労働組合では中興の祖といいましょうか、単組としての労働運動をさらに発展された方で、電機神奈川福祉センターの理事長として手腕を発揮されたと伺っております。今はもう理事として後任に譲られておられますが、障害者福祉、特に就労支援については、関連団体はもちろん厚生労働省からも信頼されているとお聞きしています。今日は障害者福祉ではなく、三菱・川崎大争議について、これも労働運動に区切りをつけられてから大学に行かれて修士論文にまとめられたということで、労働運動に参加されている方にとってもいい話だと思います。

 そこで、一の橋政策研究会のウェブ鼎談シリーズですが、すでに11本掲載しています。連合結成、ILO、官公労働運動、政策・制度課題とか。もちろん障害者福祉も含めまして、いろんな分野で労働運動活動家のための講座をこのような研究会としてで提供して、労働運動を背負って頂く皆さん方にお役に立てればと今までやってきましたが、労働運動の歴史に学ぶという点では、自分たちがやってきた連合運動については濃く展開できました。しかし、昔の話については中々触れることが出来ませんでした。

ということで本日は戦前の労働運動をきちんと踏まえないと自分たちの運動の原点、ルーツを受け止めないと新しい運動につながっていかないと、そんな思いもありますので、そこを中心に今回はお話を頂きたいということです。ではさっそく仁田先生の方からお願いいたします。」

『日本における労働運動の形成1-戦前編-』をベースに

仁田「UAゼンセンコンパスに生まれて初めて、戦前のことを書いた『日本における労働運動の形成1-戦前編』に基づいてお話させていただきます。UAゼンセンの松井さんに労働組合論の教科書を作れないだろうかという相談を受けまして、中村圭介先生、野川忍先生と相談し、執筆分担をして、労働運動史が一番最初に来なくちゃならない、という話になった。誰に頼むんだという話になった時に、思いつかなくて「じゃあ俺がやろうか」とうっかり言ったため、こういう文章を書く羽目になりました。私、専門は基本的には現状分析で、精々遡っても戦後民主化以後の話しか、書いた事がなかったんです。

 それで、これを書く上で非常に参考になったのは、二村一夫先生が、日本の労働運動の創始者といえる高野房太郎の事を書いた本を出しておられるんです(『労働は神聖なり、結合は勢力なり』岩波書店2008年)。これが非常に傑作でしてね。この高野房太郎論ほど優れた戦前の労働運動史というのはまだ書かれていないと思う、他の時代について。

 また、大河内一男、松尾洋『日本労働組合物語』というシリーズがあり(筑摩書房刊)、多分一番優れた労働運動史の通史だと思う。

 もう一つ、労働省編『労働行政史・第一巻』(労働法令協会)。戦後の労働省の官僚たちが分担して書いたと思いますが、非常に優れている。客観的でね。

 二つは両極なんですね。片や官から見た戦前労働運動史と、血沸き肉躍る労働組合物語は。松尾さんは元々左翼だけど、右派、左派、中間派問わず、公平に見て書いているというところは、今度勉強してみて読み取れました。本当は、研究書として書かれた戦前の労働運動の通史があって然るべきじゃないかと思いました。私のは、その簡略版を作るつもりで書いたわけですが、それをわずか1万字で書けということになっていたのだけど、3万字になってしまいました。

 どういう風に書くかというと、基本的には労働組合組織化運動の4つの波に分けて考えた。戦前が2波、戦後が2波です。一応、この4つの波をへて労働運動は今のような姿に出来上がったといっていいと思う。第1期は、二村先生が書いた高野房太郎たちの日清戦争後の組織化運動で、日本資本主義が、おぎゃーと生まれてやっと小学校に入った位の時代です。直後に日露戦争がありますが、よくこれでロシアと戦争する気になったなーという時代ですね。

 その時期に、髙野房太郎たちが労働組合期成会の運動を始めて、それでまず鉄工組合という組合が出来ます。もう一つ、主要な組合としては鉄道の機関士の組合ができましたが、これは、高野たちの組織には入ってこなかった。

 この鉄工組合の中心になったのは、東京砲兵工廠で、官の労働者なんですね。そもそも、この時期、工場労働者が大勢集まって働いているようなところがほとんどなかった。資本主義がまだまだ幼弱な時代に、労働組合を作ろうという運動をしたら、できちゃった。

 それまでも個別の労働争議のようなものはある。だけどそれは、賃金が下げられたとか、あの担当が気にいらないとか、そういう個別的な職場ごとの紛争でね、それが終われば組織はなくなっちゃう。そうではなくて、労働組合を作るぞって言ってやった運動としては、鉄工組合が最初だった。

 その時に髙野がつくったスローガンで、名刺にも刷ってあったというのが『労働は神聖なり、結合は勢力なり』です。「労働は神聖なり」っていうのが呼び掛けの文句だった。この「労働が神聖なり」は、ILOの「労働は商品にあらず」より前です。1897年にウェッブ夫妻が『産業民主制論』という労働組合論を刊行しているんですが、労働組合期成会結成は1897年ですから、高野は読んでいない。それなのに、労働組合を作らなくてはいけない、そしてその労働組合も、基本的には職業別組合であるべきだと。高野は、アメリカに私費留学して働きながら、そういうのを学んでいる。ゴンパースとお付き合いをしながら、自分で研究したんです。それは、なかなかたいしたものです。よくそこまで読み取れたなという位に優れている。これを日本でも実践しようと思った。外国事情を勉強して、こういうのがあるよというのは普通学者の役目だけど、彼はそうじゃなくて、自分でそれをやるために勉強した。だから、学者とはひと味違う、実践的な勉強をした。

 で、声かけてみたら、意外や意外、人が集まってきた。最初は、大工とか、左官なんて江戸時代からいる建設職人とかを対象として想定していたみたいですが、そういう人たちは集まってこない。彼らに『労働は神聖なり』なんていっても、なんのこっちゃ、みたいな反応だったのじゃないでしょうか。ところが、砲兵工廠の熟練機械工たちは、期成会の呼び掛けに集まってきて、「そうだよなぁ。俺たちなんとなく世の中で低く見られているよな」って。「だけど俺達がいなかったら、戦争に出ていっても勝てない。大砲を打てなくて負けちゃうよ」という、そういうような思いは持っていたわけで、その思いを掴んで、自分たちの主張を、世の中に向けてぶつけていこうっていう気持ちにさせた。そういう意味では、このスローガンは非常に有効だったわけです。

 そういう呼び掛けに応えて組合はできるんだけど、すぐに工廠当局や警察に、こういうのはよろしくないって、弾圧されて潰れてしまうわけなんです。

 ただ、僕がつくづく思ったのが、日本の労働組合運動って、そもそも輸入品なんですね。労働運動だけでなく、あらゆるものが輸入品。明治時代からずっと。なんかいい物が外国にあるなと思うと、それを誰かが勉強しに行って、それを取り入れるということをやってきた。その一人が高野で、インテリ仲間に、労働組合なんていうものがあるぞと紹介した。しかし、学者の紹介だけでは運動はできないわけで、もうちょっと具体的に調べてこないといけない。お金はどうやって集めるかとか、どれくらいの金を集めてとか、共済活動中心だから、保険数理なんかもそれなりに理解しなければだめだ。また、組織をどう作るかとか、どういう機関をおくかとか、そういうのを実地に調べてきてやらないと多分出来なかった。

 ただ、当時、大きな工場がほとんどなかった。あっても若年女子が一時的に就業する繊維工場が中心だった。だからちょっと早熟的。ドーア先生が、後発効果と言っている。遅く出てきたものは前にやっていることを取り入れて、より進んだものを実現するという社会現象がある訳ですが、かなり典型的なケースだと思う。世の中から見るとかなり進んだものなので、みんなが中々ついてこない。とくに職人層みたいな人たちは、ほとんど参加してこない。集まってきたのは、近代的な工場労働者の人たちばかりという状況だった。

 ところで、それまで労働組合みたいなものはなかったかというと、あったはずです。江戸時代から、大工は自分たちの手間賃をいくらにするか決めなくちゃいけない。年一回、太子講という聖徳太子を祀った会を開いて、お酒を飲みながら、親方と、それから子方がシャンシャンと手打ちして、今年一年はこれでいこうと決めていたという記録は、ほうぼうにある。当人たちが労働組合とは思っていないだけで、そういう集団があって組織があって、それで交渉して、ストライキもあったとか言われているけれど、よく分からない。

 だけど、それを労働組合という言葉で呼んでいない。やはり明治になって、トレード・ユニオンや、レーバー・ユニオンという言葉を労働組合と訳した人がいて、翻訳語としてできた。最初はいろんな訳が使われているが、労働組合っていうのが一般的になった。労働組合を、なにか特別な意義をもったものとして運動化するという態度は、一種の社会改革思想になる。ただ、給料が安いとか、親父の態度が気に入らないとか、そういうことだけじゃなくて、自分たちの生きている社会を改革して良いものにする。そういう気分が運動の中に含まれている。裏腹の関係にある。逆に言うと改革の必要がある社会なわけなんだけど、それを主張すると支配者側からは睨まれざるを得ない。そういう宿命を負っていたというように思います。

 第一期の労働組合組織化運動を展開した初期の人たちのうち、高野房太郎はクリスチャンじゃなかったけど、ちょっと変わっている。ゴンパースがいいって言うわけだから。純然たる労働組合主義。社会主義も知っているけれど、政府に敵視されてやばいからやらないようにして、経済的労働組合主義でいこうという思想です。第二期組織化運動のリーダーたち、松岡駒吉とかそういう人たちは、みんな社会主義って思っている。社会改革は社会主義。右も左も。

 だけど、高野はそうじゃなかった。それで、改革のイデオロギーは何かといえば、「労働は神聖なり」だから、彼自身はクリスチャンではなかったけれど、キリスト教的なにおいがある。第二期運動を担った人たちは、鈴木文治とか、アメリカから帰ってきた賀川豊彦とか、二人ともインテリでクリスチャンです。だから、初期においては、キリスト教は非常に影響があった。キリスト教的な理念から見て、この社会はまともじゃないとか、貧乏人が多すぎるとか、金持ちはいい思いをしているのに貧乏人は死にそうだ。けしからんじゃないか、まずいんじゃないか。一言でいえば、「人道と正義」。こういう理念を掲げて運動を始めている。で、鈴木文治だって要するに牧師だった。賀川豊彦もそう。初期の1920年くらいまではキリスト教的な理念が運動の中でかなり影響力があった。社会的にも、ある意味受け入れられやすいわけです、人道と正義なんだから。人道と正義を無視して社会は成り立たない。二人とも大卒で、鈴木文治なんて東京帝国大学法学士のエリートだから、彼が出ていくと名刺代わりで、会社の人も警察も、そう悪いように扱わない。

 だけども、すぐに人道と正義では運動できなくなってきた。人道と正義で運動始めたんだけど、警察が来てすぐに牢屋に入れられちゃう。こりゃなんだと。国家権力は敵だという風に労働運動を現場でやっている人たちは思う。いくら人道と正義って言っても、警察は、「お前ら暴れてるじゃないか」とか、交渉すると「強要罪だ」とか、そういうことを言って取り締まってくる。最初は、12人から始めた友愛会なんだけど、枯れ草に火をつけるようなものであって、人が集まって来ちゃう。気勢が上がってきちゃう。

 一方で、第1次世界大戦のおかげで日本は資本主義としてテイクオフして、造船業とか、そういうものが、まあ世界の、一流の線に並ぶようなところまで、這い上がってくる。そういう状況を背景にして、例えば物価が上がっちゃったから賃金上げてほしい。その時に、よって立つ組織が無いから、友愛会でもなんでも、そこにわいわい集まってきて、最初は争議の調停みたいなことをしていたんだけど、だんだん、それじゃ済まなくなって、実際にその会社に行って、団体交渉してくれとか、賃金上げてくれとか、首切りは酷すぎるとか、退職金ぐらい払ってくれとか、そういうことをやるようになる。すると、警察が来て、片っ端からブタバコに入れられちゃう。そういう状況で運動やっていると、やられた方としてはやっぱり悔しい。どうしてもこの国家権力をなんとかしないといけないじゃないかということになる。牢屋に何度も入れられた、その頃の言葉では闘士たちは、その時ちょうど流行ってきた社会主義の思想に魅力を感じて、いずれは労働者の権力を実現したいと思うようになる。1918年にロシア革命が起きてたので、あれは良いじゃないかと、右も左もそう思っていた。松岡駒吉だって鈴木文治だってソ連の支持者になった。ああいうふうになるといいなと思ったわけですよ、その時は。俺たちが権力を取ったら、今度は、おまわりどもを牢屋にぶち込んでやるっていうのが、強烈な願いだったんですね。

 コミュニズムも早熟的に日本に入ってきた。日本で共産党が最初にできたのは、1922年7月です。革命から5年もたっていない。それまで、日本には、社会党とか労働党とか、社会民主主義的理念をかかげた政党はなかった。そういう政治的には大変遅れた社会で、いきなり共産党が最初にできた。ヨーロッパだとそうじゃない。社会民主党とか労働党があって、その中のはねっ返りの連中が、もっと過激な思想にかぶれて、共産党を作るっていうのが、順序だった。日本ではそうじゃなくて、まず共産党ができた。これは、非合法だから、秘密組織だけど。それで共産党だけじゃ運動ができないから、もうちょっとカモフラージュをした労農党という一般の無産政党をつくる。大正デモクラシーで、税金を納めていない労働者も選挙で投票できるようになったので、労農党を作った。だけど実際上は、共産党が裏で操るということになっちゃったから、総同盟主流の西尾とか松岡たちは、こんな連中とは一緒にやらないといって言って、飛び出して社会民衆党を作った。本当は社会民主党を作りたかったのだろうけど、戦前は天主の国柄だから、民主って言ったらたちまち、おとがめが来ちゃうので、社会民衆党。ところが、社会民衆党を作ろうと言い出したら、中間派といわれる人たちがそれは嫌だと言って、日本労農党(略称日労党)を作っちゃった。だから、労働運動は、左派、共産党系と、右派、社会民衆党系、中間派、日労党系と3つに大きく分かれちゃった。

 だから、いくら第1次世界大戦で、いちおう列強の仲間入りをして、強い一人前の帝国主義のような姿かたちをして、工業化もかなり進んだといっても、まだまだ発展途上で、基本は農業国にすぎない。そういうところに、いきなり最先端の共産主義を導入して、それで社会変革をしようというのは、やっぱり、あまりにも飛躍が大きい。そういう社会で革命をやるための戦略を27年テーゼとか、32年テーゼとか、まず国際共産党(コミンテルン)が作って、日本共産党にこれでやれっていってくる。情勢分析と方針が出てくるんだけど、まあ単なる作文にすぎない。日本の状況をちゃんと掴んで、実際に運動をした結果に基づいて、こういうことが重要なんで、こうやればいいっていう、そういうものじゃない。やっぱりロシア革命の経験があって、それを日本に当てはめると、こういうふうにやったらこう革命ができるんじゃないかっていう絵空事です。27年くらいまでは、まだブハーリンなんかが書いてるんで、知的レベルは高いんだけど、やっぱり実践に基づいてないから、単なるフィクション。受け取ったほうは、「そうかそうか。これでやれば革命出来るのか。」なんていうふうに思って、運動しちゃった。現実には合わないわけです。そんなことで大衆を組織できるはずがない。

 だけども、状況が状況で、弾圧も厳しかったので、世界で唯一の労働者国家っていうのが魅力的だった。わからないではないです。戦前戦後の労働運動リーダーだった高野実の晩年に、会ったことがあります。病気で寝ていましたが、彼が、ポツッと言ったのは、せっかく若い優秀な活動家を見つけてきて育てたら、あるとき、パッと共産党に取っていかれちゃう。で、なんて言われたかというと、「ソ連に行かしてやる」と言われて、行ってしまった。それぐらい魅力があった。

 どこかに理想的な社会主義の国があって、目の前に到底理想と言えない社会があったら、日本でも同じようにやっていけば、理想的な社会ができるんじゃないかという夢を持たせる力は、非常にあったんだと思います。

 だけど、日本の現実はまだ労働組合主義もろくに入っていない、社会民主主義もみんな知らない。だから第二期の運動をリードした鈴木文治にしても、弟子であった西尾末広・松岡駒吉にしても、社会民主主義とか、労働組合主義とか、最初の頃はよく分からないで運動していたと思う。本は読んでたと思う。実際に、運動しながら、いろいろな著者の考えを段々整理していって、どこかの時点で、政治的には社会民主主義でなくちゃいけない。労働運動は労働組合主義でいく。そういう事がハッキリしてきて、左派との境目がはっきりしてくるんだけど、最初はそうじゃなかった。だから西尾末広は共産党に狙われた。アイツを共産党に入れれば、総同盟を丸ごといただけちゃうと。ILOの総会に鈴木文治のお供で行くんだけれども、西尾は、ソ連に招かれていく(西尾の自伝『大衆と共に』)。それで、『新しい文明』というソ連評価の本を書いてしまったウェッブ夫妻より西尾の方が偉かったのは、これはダメだと見抜いた。彼は熟練旋盤工だったのだけれど、だいたい旋盤からして、日本で俺が使っていた旋盤よりレベルが低いというようなところから始まって。みんな貧乏なのに、官僚的だというようなことを見抜いてくる。だからもちろん共産党にはいかないし、これは、理想社会じゃないっていう風に見定めて帰ってくる。結果、ほかの人とは違う筋金入りの右派になった。

 日本の労働運動も、無産政党も、開発途上というか、生まれたばかりくらいの時にいきなり世界最先端の思想の洗礼を受けてしまった。鉄砲撃って戦争しているところにいきなりジェット戦闘機を持ち出すようなものです。そういう情報氾濫をうまくこなして、一応共産主義という考え方もあるかもしれないが、実際の運動は、地道に積み上げていかなきゃ駄目なんだ。そういうふうに、考えられるようになるためには、やっぱり経験を積まないとむつかしかっただろう。無理からぬところはあったと思います。

 コミュニズムが流行する前に、サンディカリズムの方が全盛になってたんですね、1920年前後には。サンディカリストは、元々はアナキストなので、組織とか統制とか大嫌いなのです。自由にやりたいときに闘いまくろうという、思想というより、気分です。アナキズムの思想が運動家の間に浸透して、その結果アナキズムでいこうというようになって影響力を持ったわけでなくて、そういうアナキズムの気分が、その頃の、出来上がったばかりの労働運動にフィットしてたという事だったんじゃないか。

 だから、これじゃダメだっていうのは、もうちょっと後なんです。運動経験を積んだ西尾末広とかが、しょっちゅう言っていたのは、労働組合は統制が大事だ。今ストライキをやっていいのか、もうちょっと組織を拡大してから、やらなくちゃいけないのか。組合員になった連中が勝手にやりたいっていうのをほっといちゃだめで、それは抑圧して、適切な時期がくるまで待たせなければいけない。そういう常識的なことが、なかなか、わからない。西尾だって、後にはそういう、プロの運動家になって、俺がやれば金が取れるとか、負けても少なくとも惨敗はしないとなるんだけど、若い頃はそうではなかった。

 西尾は、石原さんが研究した三菱・川崎争議のちょっと前に起きた1921年の大阪電灯争議を指導します。これは、西尾が総同盟大阪連合会の主務になって、間がない頃の争議です。最初は、大阪電灯の従業員が作った企業別組合が始めた。うまく交渉できないで、要求は出したけれど、組合員からしたら不本意な決着になった。それで総同盟が、この頃は総同盟友愛会なんだけど、助けてくれって言われて、西尾が争議指導に乗り出す。やっぱり上手くいかないわけですよ。警察は弾圧してくるし、会社はもう、ぜったいだめだというし、「こらもう負けた。」っていう風に西尾たちは思ったんですね。で、負けたままじゃすまされない。じゃあどうするか。その頃、組合仲間のいた足尾銅山あたりから横流ししてもらって、ダイナマイトを調達した。それでもって春日出の石炭火力発電所を爆破しようとした。実際は、ダイナマイトを運んでくるはずの男が怖気づいて来なかった。結局爆破は中止。

 三菱・川崎争議の時も似たような話があって、ダイナマイト事件というのが出てくる。松岡駒吉がこのままでは負けだから、ダイナマイトを調達してくるから会社の幹部の家を爆破しようと言ったという記録がある。本気だったかどうか、分かりませんが。

 それは別に日本の運動だけじゃない。アメリカはもっと派手で、鉄砲を撃つなんてのは日常茶飯事で、サンフランシスコの新聞社の争議では、ビルごと新聞社を爆破しちゃった。だから、日本だけじゃないけれども、そういう事をやってしまいそうになる。そういう気分で運動をやっていた。一方ではそういうことをやりながら、他方ではヤクザの親方衆が争議に介入してくる。そういうのも相手にしなくてはならない。「おれにまかしておいてくれれば悪いようにはしない」と言ってきたので西尾は単身、親方のところに乗り込む。それで「昔は幡随院長兵衛っていうのがいた。そういう弱い者の味方をするのが、ヤクザの親方の本来の役目なんじゃないですか」と啖呵切って、それで申し出があれば承りますからよく調べて、仲裁(したいならよく調べて仲裁案)を出してくださいというようなことを言って帰ってくる。

 他方では警察に対応しなくてはならない。デモをするわけなんだけど、もちろん違法だから、警察が出てきて取り締まろうとする。で、この時の争議は実は勝つんだけど、もう負けたと思っていた争議になぜ勝ったか。西尾の説明だと、デモ隊が、旗の先に槍みたいなものを付けてデモしてた。それで警察が来たから、エイヤっていうふうにやったら2人ほど死人が出てしまった。普通なら、そんなことをしたらとんでももないことになって、大弾圧が来てしまう。警察の親玉がこれは、世間に公表できない。デモ隊にやられて、警察ともあろうものが、殺されちゃったなんて言えない。そんなこと世間にでたら、おれの首が飛んでしまうと考えたのかどうか、これは内密にして処理しよう、というふうに考えたらしい。多分そういう事情が背景にあったと思うんだけど、警察がこの争議から手を引いちゃう。しょうがなく、会社が組合の団体交渉権を認めて、全面勝利した。大阪電灯で獲得したのは一種の唯一交渉団体約款で、その後の団体交渉権獲得運動への対応で方々にできた工場委員会じゃない。組合との団体交渉に応じろという運動で、それを正面から認めさせちゃう。

 その直後に団体交渉権獲得を掲げた運動がワーッと関西に広がる。で、藤永田造船所の争議とか、住友三工場の争議とか、まず大阪に広がって、それから神戸に波及したのが、三菱・川崎の大争議につながっていくわけです。で、この時に団体交渉権を正面に掲げてるというのが、とても重要です。誰がどう考えて団体交渉権というのを言い出したのかを調べてみましたが、よく分からない(仁田「戦後労使関係史余滴18:団体交渉権について」中央労働時報1261号、2020年5月)。コミュニズムも、アナルコ・サンディカリズムも、団体交渉権などと主張しない。団体交渉権獲得というのは労働組合主義のスローガンです。賀川豊彦じゃないかとか、説は立てられるけれど、確証できない。団体交渉という言葉はもちろんあった。コレクティブ・バーゲニング(collective bargaining)を、団体交渉という日本語に翻訳した人がいる

 もっとも、高野岩三郎たちが、ウェッブ夫妻の「産業民主制論」を翻訳した時には、「団体交渉」という言葉を使っていない。「集合取引」という言葉を使っている、直訳ですね。でも、結果的には団体交渉という言葉が定着してくる。集合取引という言葉は経済学的だけれど、どうも当事者の気分には合わなかったのでしょう。やっぱり団体を認めさせるというのが大事なんだ、日本の場合は。そういう気分に一番あった訳語だったんでしょう。

 団体交渉権という要求を、運動が前面に掲げて、関西地区の三十くらいの工場で、争議が起こっているんだけど、結果的には工場委員会体制というものが成立した。大阪電灯の場合は団体交渉権を獲得して終わるんだけど、よその大工場は、藤永田造船含めて、工場委員会でまあいいかということになった。関西地区だけじゃなくて、たとえば八幡製鉄所の争議が前年に起きて、争議のあとで親和会という一種の従業員代表制を作る。結果、工場委員会体制が多くの会社ではかなり一般的になった。組合側がそれでもいいかと思ったのは、作ったときは従業員の多くが組合側についているわけです。争議の最中は、組合員も増える。ほとんど全員組合員のような状況になる。三菱・川崎争議でも、労働者はみんな参加して、ストライキになっちゃっている。だけど総同盟の組合員だったのはせいぜい200とか300とかそういう一部の人たちです。だけども、ストライキで盛り上がっている時は、会社も工場委員会でかなり妥協案・改善案を出さなくては治まらない。会社側の対応は、かなり優れていた。例えば、八幡製鉄所はこの争議のあとで8時間労働制に移行した。大英断ですよ。争議は負けて、組織は潰されるけど、要求は結構実現している。

 そういう形で工場委員会があって、労働者の要求がある程度受け入れられていけば、無理やり全員組合員になってそれが団体交渉権を持つという体制でなくても、まあ我慢できるかなという感じでしょうか。大企業は、そういう体制を作ることが出来た。 

 その後、個別大争議はたくさんあるんですけど、関西の機械金属産業労働者が、一斉に立ち上がって。団体交渉権求めて争議をするなんていう運動は、最初で最後だったんじゃないかと思います。そのあとは経済状態がやっぱりよくない。解雇反対闘争とかしているときは、攻勢的な運動はできない。大戦後の好景気の余韻が残っているところで出来たっていうことなんだろうけども。その後は、一つの工場の組合員は、せいぜい2、300人とか、一部の人だけが組合員になる。そのうち何人かが工場委員会の委員に選ばれて、物を申して、それで良きに計らおうみたいな話に収まっていった。もし20年21年のときに、労働組合法みたいなものができていて、それであんな猛烈な弾圧をしなくても、話し合ってやっていれば、どうだったんだろうか」

石原「そうなってればねえ」

仁田「そんなに労働組合も、無茶苦茶な要求したわけじゃない。団体交渉してくれと要求したんだから。そういう要求を経営者と政府が受け入れていたら、たぶん企業別組合になったんじゃないか」

石原「企業別」

仁田「先鞭をつけた大阪電灯の組合だって、もともと企業別組合」

石原「そもそもは」

仁田「ただ、会社の名前を冠した労働組合はあんまり見ないですが。工場が所在する地域や産業の名前を名乗るのだけれど、実際は特定企業の特定工場の労働者が集まっている。そういう工場別・企業別の基礎組織を総同盟が、どれくらい集めて統制できるかというような話になった可能性は高いと思う。ただ、政府や経営者の中にも、縦断組合(企業別組合)ならいいっていう議論はあるんだけど、実際は縦断組合でも弾圧される。それも嫌なんだよ、日本の経営者は。治安当局も嫌。組合というものは全て嫌。治安上危険な存在だと思ってる。「縦断組合です、企業別組合だから許してね」って言っても許してもらえない。しかし、そういう弾圧をしないで放置していれば、企業別組合みたいなものできて、その産業別連合体みたいなものができて、というふうになったんじゃないか。

 結局、戦前は労働組合法ができなかった。弾圧体制のままだった。戦後、日本で労働運動が復活した時に、戦前の経験から出発するしかなかった。そのときに企業別組合ができるだろうと予想していた労働運動関係者は誰もいなかった。だけど、あっと言う間に雨後の筍のように企業別組合ができた。で、総同盟は「あれあれ、これはだめだめ、産業別になって産業別になって」っていうふうにやったんだけど、ならない。もし、戦前に労働組合法ができて労働運動が合法化されていたら、企業別組合ができて、それの産業別結集という形式をとっていた可能性がある。それを見ていれば、戦前からの運動家も、対応を考えて戦後に臨んだだろう。松岡や西尾の労働組合立法過程での発言の仕方も違っていたかもしれない。

 日本にも、サンディカリストやコミュニストじゃない、労働組合主義が成立する余地はあったんじゃないか。簡単に言えば政府が弾圧しすぎたんじゃないか。労働組合法案を提出した内務省の役人や、あるいは安達内務大臣などの政治家も、労働組合法を作って合法ルートをつくれば、労働組合は穏健化するんだと言っている。団交もさせない、弾圧ばっかりしていると、向こうもやけになって過激思想に走ったりする。そうじゃなくて、門戸を開けてあげて、西尾や松岡みたいな連中が多数派になるように、思想善導してやれば、だんだん常識的な運動になっていくんだよと趣旨説明している。だけど経営者団体の方は聞く耳もたない。何が何でも駄目。労働組合なんて死んでも嫌だ。いろいろなこと言ってますよ。総同盟の1920年頃の綱領には、サンジカリズムの影響ですごく過激なことが書いてある。こういう過激な綱領をもつ団体を認めてもいいのかと資本家側の議員が、議会で政府をつるし上げる。結局法案は出たんだけど、通らない。ろくでもない法案で、総同盟なんかは反対していますが、本当は通して欲しかった。だから西尾は、内相のところに会いに行って「反対してるけど本当はこれ通してほしいんだ、がんばってくれ。我々も賛成しようか」って言ったら、内務大臣が「そうじゃない。あくまで反対してくれ。お前らが反対してくれると、資本家に、あいつらが反対しているような法律を作ってあげるんだから、っていうふうにいえるじゃないか」と答えた。それでもだめだった。まあ自信がなかったんだろうね、資本家たちは。結局、政府は、反対派を説得しきれなかった。抑えきれなかった。1931年の議会では、衆議院は通過したけれど、貴族院が非常に頑迷だったために法律が通らなかったということになっている。だけど、内務省の役人に言わせれば、そんなことない。そんなもの政府が本気を出して通そうと思えばできたんだと言っている。やっぱり資本家団体が強烈に反対しているから踏み切れなかった。もし、あの時、労働組合法作っていたら、それに基づいて合法的な組合が出来たでしょう。どういう組合が出来たかはよく分からないけれど。

 もし、そうしていれば、その後、無産政党の中心部隊が軍部の方に寄っていくとか、産業報国会推進派になってしまうことにはならなかったのじゃないか。この動きに最後まで抵抗したのは西尾、松岡たちだけだった。西尾だって衆議院議員として国家総動員法には賛成している。統制経済は社会主義に近いもので、資本主義よりは進歩している、と思ったんじゃないか。結局資本主義よりもっと悪いものに賛成してしまった。

 そのころの日本には、石橋湛山みたいな人が論陣を張っていた。公然と「小日本主義」を唱えて、植民地帝国なんて時代遅れだと考えていた。石橋個人だけではなく、そういう考えが当たり前だって思っている人も経済界やなんかには大勢いたでしょう。「日本がアメリカと戦争する? そんなこと起こるはずない。横綱とアマチュアが相撲するようなもんだ」と思っている人だってたくさんいたはずだ。実際には、中国と戦争はじめちゃった。戦争はじめたら止まらなくなる。だけど、戦前の日本社会の一つの転換点は、労働組合法を民政党内閣が通せなかったところにあるんじゃないか。

 ちょっと脱線しましたが、このコンパス掲載の論文で強調したかったことは、日本は全然箸にも棒にもかからなくて、労働組合が戦前の社会で確立するなんてことは無理だったという常識的な見方に異を唱えたいということです。そこで注目したのが海員組合です。

 産業報国会化の動きの中で海員組合が解散させられた時、12万人組織していた。海運行政やっていたのは、逓信省なんだけど、労働組合を受け入れていた。受け入れざるを得なかった。組合が組織化に成功したし、海事協同会という名称の職業紹介機関兼団体交渉機関を確立した。その前提になっているのがILOの労働総会で決めた国際的な条約です。船員の職業紹介をする国際条約を作って日本政府はそれに加入した。そうすると、日本政府は労使団体が共同で運営する職業紹介機関を作らなきゃいけない。それを盾にとって、海員組合が「それまであった職業紹介機関を潰せ」「潰さないんだったら全面ストするぞ」というような話になるわけです。そのころの日本の外航海運は、一応グローバルなプレーヤーだった。世界一流だった。戦前の日本では、海軍と水泳日本と商社は、世界一流だったという話があるけれど、海運もレベルが高かった。ヨーロッパ勢に差別されて、いろいろ嫌がらせをされて、そこをなんとか凌いで、グローバル・マーケットで一応対等に勝負して、事業を展開していた。

 そういう業界の経営者だから、国際秩序、この時点では、ベルサイユ条約体制だけど、これをを無視して村八分になったら、商売やってられないことは分かってる。だから労使共同で職業紹介機関を作ると同時に、団体交渉権を認めますということにせざるを得ない。逓信省がそう考え、それを資本家側、船主側も受け入れた。それから、戦前の海運労使関係の特殊事情としては、海員協会という組織があった。船の組織は上下関係が非常にはっきりしていて、水夫火夫と船長以下のオフィサーは歴然と階級が分かれている。このオフィサーたちが、自分たちの海員協会という組織を作っていて、労働組合みたいな活動をしていた。実際には海員協会は社団法人なんだけど、それが労働組合やっていいのかというような問題はありうる。でも、もともと労働組合法がないから、労働組合法違反もないわけだ。海員協会の役割は、非常に海上労使関係にとって重要だったと思う。当局も、船主側も、火夫水夫の荒くれ男たちだけの集団だけだったら心配で、「あの連中を野放しにして暴れられたらとんでもないことになっちゃう」と不安に思っただろう。しかし、海員協会が海員組合とタッグを組んで、これが労働側を構成している。海事協同会で団体交渉するときに、この両者が労働側に座っている。向かいには船主側が座っている。海員協会の人達は、政治や行政のこともわかる、経営事情も高級幹部だったんでわかる。だけど、船の中ではやっぱり船の仲間だから、普通船員の言い分もわかる。一種の仲介者的な役割を果たすことができたんじゃないか。一般的に、戦前の労働運動ではホワイトカラー層が労働運動の中で戦後の日本みたいに集団として労働運動に関与しているというような例はほとんどない。戦前のオルグの人が言っているけど、会社の経営事情は全然わからない。目分量で会社は儲かっているとか、社長酒をよく飲みに行ってるとかの事情をみているだけで、経営分析なんかしないで運動していた。

 結局、いろんな条件が整っていたから、海員組合は、例外として、ちゃんとした労働組合主義の運動が展開できた。陸上には、そういう条件がなかったということなのだけど、日本だって全然できないわけじゃなかった。やり方によっては、少しでも海上労使関係に近づけることができたんじゃないか。歴史にIFはないというけれど、そういうことを考えてみることは、結構重要なんじゃないかと思っている。

 この論文を書いてみて気づいたのだけど、海員組合のことは、不思議なことに、戦前の労働運動のことを書いた書物の中で、ほとんど出てこない。「労働行政史」に出てこないのは、これは管轄が逓信省だから内務省は口を出さないということなのかなと思う。左派の人たちは、海員組合はもう極めつけの右派だから、気に入らないから無視していたという事情はあるんだろう。だけど、戦前、産業別統一闘争でストライキをしたのは海員組合だけです。他の争議はいくら大争議でも、個別企業の争議に過ぎない。全然レベルが違う。海員組合が海事協同会を作って、団体交渉権を獲得するんだけど、労使合意の文言に、海事協同会で交渉して、話し合いがいよいよ行き詰まったらストライキしてもいい、それまではしないと書いてある。こんなこと当たり前なんだけど、それはとんでもない、ストライキ権の放棄だといって総同盟の連中まで海員組合を批判した。だけど、団体交渉権を持つというのはそういうことだ。つまり、使用者側に対して、産業平和を保証します。だけど、いうことはちゃんと聞いてほしい。それが団体交渉権の基本的な考え方だ。陸上の労使関係では、団体交渉権をとったことがなかったから、わからない。だから、海員組合の運動は、他の組合運動とはレベルが違うから、理解されにくく、扱いにくかったという事情はあったのじゃないか」

加藤「仁田先生ありがとうございました。では石原さんから三菱・川崎大争議についてお願いします」

三菱・川崎大争議について

石原「第一部、先生の戦前のお話をお伺いしまして、私から、質問とか、お考えをお聞きしたいと思っておりますけど、加藤代表から、私が研究の対象としている三菱・川崎の大争議について、概略を話しておかないと、後につながっていかないというアドバイスがありましたので、簡単に、経緯・流れをお話ししたいと思います。

 そもそもこの争議に着目しているのは、私が三菱電機出身ということもありますし、また、大正10年、1921年が三菱電機の創業の年なんですよね。で、私ども創立記念日が2月1日で、大正10年の2月1日に三菱造船から分離して、電機が別会社になった。その年の夏に、この争議が起こっているんです。だから、この争議っていうのは、電機の創業の年の大争議ってことで、また違った目線で見たということでもありまして、未だに分からないことも沢山あるのですが、一応区切りということで、整理をしてまとめたということです。振り返れば、事実誤認や誤解もあって反省もありますし、ただいま先生からのお話をお聞きして、また、この争議を先生の、今日のお話も踏まえて、再度、研究・検討してみたいという、今はそういう気持ちになっているところです。

 それでは、お話させていただきます。まず、この争議の大正10年というのは、第一次世界大戦が終わったものですから、大好況から、一転、大不況に陥って、賃下げ等のリストラが起こり、労働者が苦しんでいたという背景があります。それからロシア革命の後ということで、労働者に革命への高揚感もありまして、また、米騒動なんかもあって、大衆運動にも目が向いていたという、そういう状況の中で、この大争議が発生した、ということです。

 この争議、大正10年6月25日に、まず三菱内燃機が、当時はまだ、組合がこの時、出来てなかったので、要求書じゃなしに嘆願書になっているのですが、労働協約の締結、団体交渉権の確認、横断組合への加入の自由とか、そういう要求が出されました。これにちょっと遅れて川崎とか、三菱造船が要求しているのですけど、ただこの時には団体交渉権ではなしに、今、先生のお話にも出てきました工場委員会制度の設置というのに変わっています。ここらは、何か事情があるんじゃないかと思いますけど。当初は、団交権を強く要求していたんですが、工場委員会に変わっているっていう事実があります。

 要求してすぐ三菱内燃機の神戸工場の労働者は、神戸内燃機労働組合という、また、川崎には本社の電気工作部で、電正会という労働組合が結成されて、組合の承認を求めて交渉を始めます。このようにして争議はスタートするんですが、どうも総同盟の神戸連合会の方は、不況下の中で闘う争議にはあまり乗り気じゃなかったということのようなのですが、それでも始まってしまったので、総同盟が全面的に支援します。ところが、川崎の方の事情なんですけど、松方幸次郎社長が、当時、イギリスに出張していまして、これを理由に、特にこの要求書の受理を拒否し続けて、「社長帰るまで待て」「思いとどまれ」と、会社は説得します。これに対して争議団は、会社が「ノー」という態度に終始しているということで、また、三菱各社は、そもそも組合は認めない、団交権も容認しないと、すべてが拒否という会社のスタンスだったものですから、騒動が大きくなりまして、やがて、神戸全市を巻き込んだ労働争議に発展していったということであります。とくに7月10日には、総同盟神戸連合会が中心となり、これに関西系の友愛会の組織の応援も得て、4万人近い人たちが大デモ(示威)行進を秩序整然と行っています。

 またその会社が拒否して、それに、もう一つ付け加えておかなければならないのは、要求した交渉委員や職場の首謀者を解雇するんですね。要求は受け取らずに、交渉委員を解雇するという会社の態度に、労働側が怒り出す。そして、これまた川崎で起こるのですけど、暴力団まがいの下請けの塗装工たちが青襷隊というのを結成して、そういう暴力団、暴力団まがいのそういう集団が、デモ隊に襲いかかったり押しかけたりするものですから、不穏な状況を醸し出すということになります。

 さらに事態を一変させたのは、川崎の労働組合が、工場管理宣言をするんです。工場の管理をすべて労働組合がやるということを宣言しまして、これが情勢を一変させます。つまり、労働組合が、会社の所有権とか経営権を侵害する、それは違法、不当な行為で許せないとなって、会社はロックアウトに踏み切ります。また、労働組合が会社を乗っ取るというようなことになれば、これはもう大きな社会問題というので、兵庫県知事が要請して軍隊が出動する。それから関西地区の警官隊も、応援として神戸に集められる。たまたま、造船所で潜水艦が完成したのがあったようで、軍への引き渡しも終わっていたんですかね、このあたりははっきりと分かりませんが、造船所の潜水艦や軍艦などを保護しないといけないというので、そういう特命もあって憲兵隊や水兵隊が神戸地区に入ってきます。もちろん構内のデモは全部禁止され、ロックアウト状態で、排除されている、そういう事態に陥ったということです。余談ですが、憲兵隊の中には、のちの甘粕正彦大尉が、いらっしゃったということも記録に残っています。

 争議団は、ですからロックアウト、締め出し、デモも禁止されてどうにもならないんで、結束を図るということから、運動会や野球大会、そういうスポーツ大会に名をかえて集合をかける。それから闘争資金を集めるために行商隊を組織し闘争体制を維持していく。しかしですね。これがだんだん長期化してまいりますと、会社側は、職長や管理職を使って切り崩し工作を始めます。これらが功を奏するようになって、徐々に、闘争の後半になってきますと、争議団に背を向けて、こっそり出社する職工らが出てくるようになり、会社もちょうど1ヶ月ぐらい経ったころですか、誓約書を書かせて就業を認めるようになる。やがて、ロックアウトを解除して門を開く。また当時は、ロックアウトして休業していても、給料の半額は支払われていたようなのですが、大詰めの緊迫した局面になると、その半額の手当も会社は打ち切る。だから、争議に参加して罷業している組合員は、収入がゼロに途絶えるというような事情もあって、出社する職工が徐々に増えていったということであります。

 で、だんだんと争議団は追い込まれていく。デモ行進も禁止ですから、やむなく神社参拝という名目で、すなわち神社参拝だからデモ行進ではないという理由をつけて、神社を集団として渡り歩くんです。だから、デモと変わりない。このような戦術をとったものですから、警察も、最初は神社参拝だけだったらいいと言っていたんですけど、神社から神社にわたり歩く、三宮神社から湊川神社にといったように、いろいろな神社を経由するもんですから、さすがにそれは神社参拝ではないだろうということで、ブレーキがかかる。

 このような中、このデモ行進中にですね、ビルの屋上からクギ付きの木片ですかね。これがデモ隊の頭の上に投げ込まれる。また、デモに参加していた職工が背後から警官のサーベルで突き刺されるという事件が起こる。実は、この職工、数日後に亡くなっちゃう。そういう騒動があったんで、警官隊も、争議団本部等を一斉に捜索して、争議団の幹部、賀川豊彦、久留弘三等の指導者を検束してしまう。多数が検束されたものですから、争議団から見れば、有力な指導者を失うという事態になります。そこで東京の友愛会本部から、鈴木文治、松岡駒吉ら幹部が急きょ、本部を神戸に移して争議を支援するのですが、結局、争議団は、いろいろ打開の道は検討されたのですが、しかし、一切の仲裁も断って、最後は、45日目ですかね、6月25日の要求提出から45日目の8月9日に、争議団は無条件降伏、惨敗宣言「われわれの刀は折れ、矢はつきた。ここに怨みをのんで兵をおさめる」を発して、闘争を終結させるしかなかったということでございます。

 以上が、争議の経過と概要です。最後にトピックスとしてお話したいのですが、いくつか争議となった背景があって、どうも三菱側からは、川崎との労働条件差を気にしている。実は、川崎の方が給料が高かった。なぜかというと、三菱と川崎の労務管理方針が違っていた。三菱は企業内福祉を充実するから、例えば構内に町より安い売店を設けるとか、風呂も、床屋も置く。そういうことを充実して福利厚生を手厚くするかわりに給料は低いと。一方、川崎の松方社長の方針は、地域との共存共栄で行くんだと。だから、給料を2割ぐらい高く払うから、町うちの銭湯に行ったり、地域の商店で物を買えと、町の床屋にも行きなさいというスタンスなんですね。だから、その賃金差は、論理的には筋が通っていて、間違いではないのでが、やはり三菱の労働者にしてみたら、川崎の給料が高いというのは魅力的に映ったんでしょうね。一方、川崎も、争議の目的は、団結権を認めろ、工場委員会を採用してほしいということなんですけど。この争議の直前に、創業25周年の祝い金が支給されて、これが期待外れだった。ところが、株主に対しては記念配当をして大幅に報いている。こんなことがあっていいのかという怒りがあった。また、職工が海に転落する事故があって、溺れて亡くなるんですけど、会社の救助が遅れた、救命の。そういうことに対して、冷たいじゃないかと、労働者に対して。そういうところがあって、怒りを爆発させ、それが争議に至ったような背景があった。これは学術的ではないんですが、背景としてはそういのがあったようです。

 それからもう一つ、私がこの争議に着目するのは、もちろん鈴木文治、賀川豊彦、松岡駒吉という錚々たるメンバーが総力を挙げて、この闘争を支援したということと、それから、7月17日に、ノーベル賞受賞者のバートランド・ラッセルが、改造社の招きで、香港から神戸港に着きまして、後に無政府主義者の大杉栄などとも、東京で会っているんですが、そのバートランド・ラッセルが争議団を激励して、講演会で演説までやっているということで、大物もこの争議に着目していたという点、非常に興味深いということです。また、三菱争議団では、東京に本社があったことから、神戸から代表団が夜行に乗って東京に行き、本社で、当時の武田会長と会見したり、岩崎邸にまで押しかけたりして、岩崎小彌太に直接、談判しようとするのですが、これが空振りに終わって、神戸には土産なしで帰ってこなきゃいけなかったという、そいうこともありました。ちょっとエピソードもつけてお話しをして、このあたりから先生とお話しさせていただきたいと思っております。以上ですがよろしいでしょうか」

仁田「はい、どうぞ」

路線論争の起源、労働組合法、団体交渉と労使協議会制について

石原「一つは、実はこの争議の期間中も、その後も、いわゆる穏健派と、直接行動を主張する過激派の争いがありました。とくに争議が終わった後、賀川豊彦は、争議団の仲間から「お前は穏健派だ」とか、「協議会で解決をしようなど、そんな生ぬるい戦術を取るから、この争議は負けたんだ」というような攻撃があり責任を追及されて、賀川豊彦はこの争議の後、「もはや労働運動は自分を必要としていない、だから身を引きます」ということで、その後、農民運動でしたか、軸足を移してしまいます。先ほどの先生のお言葉に、非常に興味深く思ったんですけど、高野房太郎の話で、アメリカで実践的に労働運動を学んだ。経済的、実務的運動家だったということですよね。同じく、アメリカに渡った片山潜がいるのですが、片山潜は、高野と考え方が違って、その後、ロシアに行って、コミンテルンの道、執行委員になります。このあたり、高野と片山は、最後、議会派というか穏健派と、直接行動派に分かれ、これが源流となって、この争議の後、総同盟が第一次、第二次、第三次と分裂するように、路線論争が絶えなくなる。私には、ここに日本の労働運動の不幸があると思えるのですが、今先生からもお話があったんですけど、戦前に労働組合法でも作っておけば良かったんじゃないか、この辺りはどのように理解すればいいのでしょうか。

 第二は、労働組合法ですけども、内務省案と農商務省案など、それぞれ立場の違いについて、いろいろな切り口から先生のお話があり、実態はそういうことなのかということを理解したのですけど、私は違ったストーリーを描いていて、こういう論議が戦前にあったからこそ、昭和20年12月に、旧労働組合法が戦後わずか4カ月で出来上がった。しかも憲法よりも先に労働組合法が出来たというこの意義ですね。それが、先生のおっしゃっているとおり、アメリカのGHQが労働組合法案に対して口出ししているかというと、そういうことではなしに、末弘巌太郎先生なんかがご尽力されて策定された。和製ですよね。その背景には、戦前に労働組合法は成立しなかったですけど、関東大震災の年をほぼ除いて、いくつか労働組合法案が議論されて帝国議会に上程されている。このようなプロセスがあったから戦後4カ月で制定できたのではないか。しかも、憲法で28条が三権を規定する前にですね。憲法で労働三権を定める国はない。優れものの憲法なのですが、その前に労働組合法が成立しているこの意義、それは、戦前、成立はしなかったのですが、議論はあったからと思うのですが、そのあたりをどう考えたらよいのかということです。

 もう一点は、団体交渉と工場委員会制度、団体交渉と労使協議制の問題なんですけど、私が入った会社が悪いのか、加入した労働組合が悪いのか分からないですが、三菱電機の労働協約における団体交渉制度、労使協議会制度は、これは研究してみて分かったのですが、極めて非常識、世間から言うと非常識な制度でして、つまり、労働協約の中で、三菱電機の固有名詞なんですけど、中央(場所)協議会を経ないと団体交渉には入れないという、平和条項ですね。あるいは、事前協議制、協議会前置主義とも呼んでいるのですが、ハードな労働条件の、つまり賃金や労働時間についても、労使協議会を経ないと団体交渉に移行できない。ここらが三菱電機のずっと引き継いできた労働協約でして、基本、そういう流れになっていて、これが世の中の労働法の先生方からは痛烈な批判をいただいたりしていて、労使の協議会と団体交渉が癒着しているといった厳しい指摘もあった。それに対し、当社の人事部が反論している(三菱電機労使では語り部となっている吾妻光俊教授と中川俊一郎勤労部次長の論争。「ジュリスト37号「労働協約を斬る」1953年、16頁以下)。また、これは後で勉強して教えられたんですけど、三藤正教授が、労使協議会と団体交渉の二つのパイプ論をおっしゃっていて、きちっと折り目をつけて労使協議会と団体交渉をやる。二つのパイプとしてけじめをつけてやれば、意義があるんじゃないか(『労使協議制のはなし<JIL文庫>』日本労働協会、昭和35年、27頁)という指摘もあります。また、藤林敬三教授のお著書『労使関係と労使協議制』を拝見しますと、第一次関係と第二次関係、経営対従業員が第一次関係、経営対労働組合が第二次関係という二元的にとらえる、これが入り混じると、それぞれの制度の良さを否定してしまうことになるというようなご指摘などもあります。

 実は工場委員会制度で、三菱は1921年9月から今日まで、その岩崎小彌太がケンブリッジ大に留学していて、イギリスのホイットレー委員会、ホイットレー式協議会なんかを見聞して帰ってこられたという経過もあって、三菱もぜひやろうということで始まっているんです(宮川隆泰著『岩崎小彌太』中公新書、1996年、100頁)。大争議のあと、川崎造船の従業員サイドは、こんな緩やかな工場委員会なんかやって意味あるのということで拒否しているんですけど、三菱はそこをスタートにして、大争議が8月に終わって、直後の9月からやっているんですよ。工場委員会ですね。それに、戦後も労使協議会制度っていうのは継続していて、私は三菱電機労働組合の出身ですから、私の立場でいうと、労使が癒着するようなこともないし、しっかりと線引きしてやっている。労使協議会と、団体交渉ですね。これのメリハリが明確にできているが故に、労使協議制という仕組みも、何の法的根拠もないんですけど、意義があるんではないかという、ある意味、勝手な理解をしているんですが、このあたりどう考えればいいのか、先生におたずねしたいと思い、本日、やって参りました」

加藤「では順次お願いいたします」

石原「日本の労働運動の黎明期からイデオロギーが持ち込まれて激しく対立してきたというところですね」

加藤「そういう対立が何でこういうふうになってしまったのか...」

石原「高野房太郎の思想でいけば、日本の労働運動は民主的で建設で平和だった。片山潜がロシアに向いたところに、対立抗争の歴史が生まれ、どうもこれが戦後も引きずっている。今もそれで政党支持で揉めてるいのではないかと思うのですが」

仁田「これは非常にたくさん議論がされてきている話ですが、判断が難しい。左、右、中間と三つに分かれる。左、右だけだったら、まだ分かりやすいんだけど。三つに分かれるのは、日本の特徴かなっていう気がする。左の方も、実は二つに分かれているわけだけど。共産党系と、アナキズム系があるわけです」

石原「はい、なるほど」

仁田「労働行政史では、最左翼は、評議会ではなくてアナキスト」

石原「無政府主義でいいんですか?」

仁田「無政府主義です。左の方に無政府主義と評議会(共産主義)があって、中間派があって、総同盟があって、そのさらに右側に海員組合と海軍連盟がある。こういう図柄でとらえられている。役人の目からみると、第二次分裂当時の総同盟は本当に社会民主主義なのか、いろいろいて、疑問符がない訳じゃない。中間派なんかは社会民主主義なのか、コミュニズムなのかよく分からない。混ざっている。そういうレッテルが貼ってある。ただでさえ少ないのに、三つ、あるいはそれ以上に分かれたら、戦えるはずない。

 実際上、一番困ったのは、組合組織が支援する政党ができたけど、選挙では皆が競合するので、当選しない。最初の普通選挙では、8人当選するんですけど...」

石原「そうです」

仁田「皆が同じ選挙区に出る。大都市圏で、労働者が多い地域で、候補を立てる。だけどこれ馬鹿げている。連合戦線を組まなければ勝てない。それで、政党も労働組合も合同しようという雰囲気が何度か出る。中間派と右派が合併するのは、一度成功する。それが潰れるのは、中間派に、軍についていって産業報国会に行っちゃおうという勢力出て、これには右派がとんでもないといって協議離婚してしまう。せめて中間派と右派が一緒の組織を作れていれば、ある程度の力になったかもしれないのに、ここまで割れちゃうと。このように分裂してしまうのは何故か、良く分からない。

 一応、総同盟系は、社会民主主義が世界の潮流だと思っているし、気分的にもその方が合うということで社会民衆党をつくるんだけど、左派はもちろん、中間派にもそこまで行き切れない人たちがいる。何故なのか、良く分からないところがある。

 共産党は、そもそもそういう社会民主主義を否定してできた組織だから、当然だ。ただ戦前の中間派は、場合によっては、右派も含めて労農ロシア万歳みたいな感じがあった。あれは労働者国家だからいいもんだ、応援してあげなくちゃいけない。日本政府は、ソ連を承認しろっていう運動をやっている。

 その中で中間派に行くような人たちは、どちらかというと、ロシアへの共感の度合いが強い人たち。左の人たちは中間派と呼ぶけど、世界常識からすると左派だ。コミュニズムは流行思想で、しかも、ロシアという現物があるわけだから、ああいう国に日本もしたいと思う人が出てきても仕方ない。現実性があるかどうかは別として、そういう気分になるのは分からんではない。それに、コミンテルンというのはお金を持ってくるんだから。いろいろなかたちで、活動費を出してくれる。外部資金があるところは強い。組合費や党費を集めて自前で運動するのは大変だ。要するに国際共産党組織がある以上、共産党は潰れない。大弾圧を次々食らうんだけど、次々再生している。戦後共産党が再建された時には、千人くらいの筋金入りの党員活動家がそろえられた。みんな牢屋にぶち込まれていたか、牢屋から出て逼塞していた人たちです。

 戦後、社会党が発足した時に党員は千人いたんだろうか。ただ、共産党以外の人たちはみんな、社会党に入った。つまり、右派の松岡、西尾たちと、中間派の河上丈太郎とか三輪壽壯とかそういう人たちと一緒にやる。それだけじゃなくて、戦前合法左翼と位置づけられていた高野実まで入れちゃった。大同団結でいこうと。だけど、党内では、やはり戦前の対立が尾を引いている。だから、なかなか軋轢を解消するのは難しい。でも、社会党右派・民社党だって社会主義だったんだからね、もともと。ちゃんと綱領に社会主義を実現するって書いてある。今から見ると社会主義がそんなに良かったの?と思うけど」

石原「なりますね」

仁田「でも、その頃は、労働者たる者、社会主義を実現しないと救われない。それが夢とロマンだったので仕方ない。だけど、イギリスやドイツと比べるとバラバラで、纏まらない。それは一体、なぜなのかな、よく分からない。

 ただ、インテリの間では、共産党の影響力が高かった。インテリはやはり理念で物を考えるから、出来る事ならいちばん純化した思想を実現したいと考えがちになる。足して2で割った方がいいんじゃないかとか、そういう考え方には、理念派のインテリはなりにくいところがある」

石原「イギリスとかドイツでも社会主義政党はありますが、共産主義まで左に広がらない」

仁田「いやそれはもう分裂していった相手だから、断固共産党はやっつけるという立場でしょう」

石原「それはやっつけるっていうことですか」

仁田「それはもう非常にすっきりしている」

石原「それに、アメリカのゴンパースなんかの運動論を見ても、そもそもアメリカにおける労働運動で、労働者の政党や社会主義政党を作ろうなんていう話は一切出てこない」

仁田「アメリカはちょっと特殊。ヨーロッパはたいてい社会民主主義政党がある。」

石原「労働党とか社会民主主義系の...」

仁田「戦後の流れでは、福祉国家をつくろうという政治勢力になる。アメリカは、そういう勢力は民主党が取り込んでいくことになった。なんで日本がヨーロッパのようになれなかったのか」

石原「そうですね」

仁田「社会民主主義は、どうして日本でちゃんと確立できなかったんだろうかという疑問はある」

石原「労働運動が立ち上がろうとしたころで、あまり左に振れなければ治安警察法なんてのも必要なかったですよね。ブレーキを掛ける必要もなかったはずです」

仁田「それはまあそういう...」

石原「タラレバですけど」

仁田「それは、鶏が先か卵が先かの話になる」

石原「労働組合期成会ができてすぐですよ、治安警察法ができたのは。あれでは健全な労働運動は発展する余地はなかったですし、抑え込もうとすればするほど、逆に左のばねを強くしてしまう」

仁田「資本家のなかにも渋沢栄一みたいな人がいた。開明派官僚もいたわけだし、憲政会はずっと労働組合法制定を掲げていた。政友会に対抗するためだと思うけど。そういう人たちがどうして戦前の日本で多数派になれなかったのか。これもやっぱり戦前の政治史のなかでは、一つの「IF」の問題なんだけれど」

石原「それに戦前、治安警察法が治安維持法に変わりました。そこで、労働組合に対しては労働争議に対しても法認するごとく労働争議調停法なんかができて。労働組合運動の全否定はしなくなるんですよね」

仁田「片側開けておくだけのためだと。全部弾圧しちゃうと大爆発を起こすかもしれないから。マグマを火口から少しずつ出す」

加藤「ガス抜きですね」

仁田「実際には、労働争議調停法はほとんど使われない法律で、警察が調停するんです。だから、争議を解決するのは主に警察なわけです。それに、戦前の争議では、解決する時には首謀者を解雇するのが原則で、組織が確立しない。内務省の観点からいうと、それなりに労働運動が息をしていける条件は作ってやったといっているけれど、生かさぬよう、殺さぬようみたいな話で。

 1926年に労働組合法が出来ていたら、その一歩を進んでいたかもしれない。戦前の労働運動家たちは非合法時代っていうんだけど、日本では労働組合を非合法にする法律はなかった。団結禁止法みたいなものはない。だけど、とにかく何かやったら全部とりしまる。みんなが牢屋入りを覚悟して労働運動しなきゃいけない。どうしてそこまでやらなきゃいけなかったのか。

 秩序(治安)の側から言っても、もうちょっとうまく制御する方法はあったんじゃないのかと思うし、実際、そういうことを考えた人もいた。だけど、そういう人たちが多数派になれなかった。なぜそうなったのか。日本では、戦前天皇制があって、民主主義は全然だめだから、まず民主主義革命をして、そこから社会主義に転化するという共産党が、戦後、牢屋から出てきて、天皇制を無くせ、そうすれば日本は民主主義になるという。だけど、そう単純なものじゃない」

石原「戦前に普通選挙法が、男子だけでしたけど成立した意味っていうのは非常に大きいと思いますけどね」

仁田「それは大正デモクラシーの、最大の成果です。そういうことができたわけだ」

石原「そうですよね。運動として結実していたわけですから」

仁田「日本の政治プロセスで、そういう政治綱領を掲げた方が選挙で勝てたわけだから」

石原「だから労働者にも選挙権が与えられれば立法にも関係できる。労働組合の活動だけではなく、議会という別なルートもできるということで、普選が成立した意味は大きいですよね。で、同時に治安警察法が治安維持法に切り替わったりして調停法も出来て」

仁田「切り替わったわけじゃなく、治安維持法が新たに作られた」

石原「作られたっていう言い方ですか、はい」

仁田「それはかなり致命的なことだった。それまでは共産党も、ほとんど公然と活動しているんですよ、1928年の三・一五事件(共産党一斉検挙事件)までは。治安警察法で捕まっても、一年経ったらまた出てきて活動する。また捕まって、また入るわけだけど。治安維持法になると、最初、法改正で死刑や無期が追加される前は十年。十年も牢屋にぶち込まれるっていうのは、さすがに相当根性いる。ロシアだったら脱獄して、シベリアから歩いて帰ってくればいいかもしれないけれど、日本はそんなことできない」

加藤「それではその最後の三つめの質問について...」

仁田「労使のことは...」

石原「労使協議制について、時間の関係もあるんですけども」

仁田「それについては、大谷真忠・佐護誉編『労使関係のゆくえ』(中央経済社、1989年)第5章として書いた「労使協議制」という文章でかなり詳しく解明しています。さっき言われた癒着論は間違っているという、意見です」

石原「なるほど」

仁田「労使協議制は日本では必要なもので、団体交渉と労使協議がセットになっている。なぜそうなるかは、いろいろな説明が必要で、私の論文を読んでもらいたいですが、一つだけ指摘すれば、日本の場合、団体交渉の平和義務規定が弱すぎる」

石原「弱いですか」

仁田「雇用システムの特質があるからやむをえない面がありますが、弱すぎる。アメリカだったら労働協約期間中はストライキ出来ない。協約期間中に紛争が起こっても、それは苦情処理で解決しなきゃならない。苦情処理で上手くいかなかったら、仲裁で解決する。ドイツでもそうで、従業員代表委員会との労使協議で解決できない場合には、仲裁委員会か労働裁判所に行って解決してもらう。工場に新しい投資がされて、合理化問題がおきて余った人をどこに配置転換するかといったテーマは世界中にある。それに対して団体交渉でいちいちやっていたら、経営が成り立たない。いつストライキが起こるかわからないとなると、早い話、顧客に製品の納入を保証できないでしょう。そういう問題を解決するには、労使が協議して平和的に解決するというのが常道であって、世界中そうやっている。

 日本の場合には、仲裁で解決するという仕組みができなかった。労使共に嫌がった。結局どういうことになるかといえば、労使協議していたら、どこかの時点で団体交渉に転換できる。労使協議って平和的な顔してやっているけど、突然、顔つきが変わって団体交渉になる。結局、後ろに刃物を隠しておいて、それでニコニコ協議しているわけだ。だからいざとなると、団体交渉になってストライキが起こるかもしれない。実際は、簡単にはしないけど。こういうのは、世界の労使関係の常識からすると安定装置の欠けた労使関係システムだ。だから労使がよほど信頼関係を持っていないとやってられない仕組みだ。

 だから、労使協議が、団体交渉と癒着していると言っているのは、それは言っている人がおかしいというのが私の意見で、石原さんの感覚の方がずっとまともだと私は思っている」

石原「なるほど、よく理解できました」

加藤「現実に、三菱電機の労使にとってある種トラウマになっているところもあって、もう50年60年前の話ですが、ミスター三菱電機労働組合の石原さんが未だにそういう問題意識を持っているというのは、そのくらい真剣にやられたと。僕の場合はナショナルセンターの期間が長いものですから、少し見方がちがうかもしれませんが。石原さんは委員長の時にストライキはやっていない?」

石原「やってない、私は団体交渉もしていない」

加藤「しかし過去には、電機連合(当時は電機労連)の仲間と共に無期限ストまでやっているのですよ」

石原「やってますね」

加藤「で、徹底的な話し合いで協議会をやるわけですが、話し合いをしても埒がいかんという場合には団体交渉に切り替えることができる。今から団体交渉を行いますと、委員長が宣言すればいいわけで、更にスト通告という縛りはありますけど、少なくとも24時間以降にはストライキを打てるということで、現に打ってきたという事実をもって、あの議論があった頃にね、そういうストライキがなかったから議論になったが、現実にストライキを行使しているからいいのではないかと」

石原「一般論としていうと、労働組合が弱くなっているとか、労働組合の協議に臨む姿勢も腰が引けているんじゃないかとか。いろんな世論がありましてね、その世論が正しいかどうかは別だけども、その要因の一つに協議会方式と団体交渉のこの力関係において、団体交渉が労使協議に隠れちゃっている、潜り込んでいるというんですかね。団体交渉の存在感が薄くなっているんじゃないか。憲法で保障されている団体交渉が、影が薄くなっているという指摘があって、その背景には労使協議制が影響しているのかな、とか、まあいくつか問題が労使協議制にはあって、ですね」

加藤「それは、要は団体交渉万能主義っていうのは、その団体交渉にどれだけの力があるのかというと、それはまさに労使関係の実相を表明しているだけだから、団体交渉に移らなくても労使協議会の中で、労働組合の方が賃金カットを含む、時短をやったわけですから。大変な経営危機の時にやったことは、別に団体交渉ということではなくても協議は徹底的にやって、その成果としていろいろな対策、制度を労働組合主導で展開していけたということ自体が別に団体交渉でなくとも、協議を遂行する能力が双方にあればいい。一番大事なのは交渉相手の使用者側が、他の重役をちゃんと説得すること。なんや労働組合にいわれて10日も休みを増やしたのかと、事業サイドにすれば不満があるでしょうから、それを労担重役が説得できなければいけない」

石原「思い出しましたが、郵政民営化になった時に、民間の労使協議と団体交渉をどうやっているのか知りたいというので、誰か相応しい講師はいないかという事で、周り回って私のところに来て、郵政の四国地本、四国四県の、幹部が集まった研修会で、すごい200人ぐらい集まっていましたね。そこに呼ばれたんですけど、「石原の話はよくわかった。でも、一つだけ分からないのが、協議会方式については、全く理解できない」といわれてしまった。私がいくら団体交渉だけではなく、民間であれば協議会方式っていうのが大事なんですといくら強調しても、全く理解されなかったですね」

加藤「それは、官公労、公務労協の皆さん方といろいろ話をしてきましたが、基本的に賃金、労働条件は国会で決まる。人事院勧告があるということで、だから三公社五現業の時代から、国家公務員と地方公務員とは少し仕組みが違いますが、やはり労使協議を成立させる基本的な要件として、労働組合以上に、経営側の確固たる労使関係に臨む経営としての意思なり、信念がやっぱり必要だと思います」

仁田「労使協議制を機能させるには、当事者能力がなきゃ駄目だ。労使が会社の経営に責任を持ちましょうという考え方が基本にある。だから、組合も無茶は言えません。これは自分たちの飯のためで、会社は大事なんです。誰も助けてはくれない。自分達でやらずに会社が潰れちゃしょうがない。経営側もちろんそう。その上に立って労使関係を支えていくためのサブシステムが、労使協議制だ。民間では、普通まともな労使関係やっているところは、お互い言わず語らずで、分かっているんだと思う。ところが、官公労は、基本的に経営主権がない。責任を持ちたいと思っても、持たしてもらえない、経営責任が持てない。使用者だって持ってないんだから。自分たちのことなんだから、自分たちが責任を持ってやる、やらせて欲しいというのが、労使関係の考え方としてはまともなんじゃないかなと思う」

加藤「まともだという結論がでましたので、とりあえず鼎談の方はこれで終了いたします。大変ありがとうございました」

ー了ー

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【講師】仁田道夫氏、石原康則氏

仁田 道夫氏
1948年 山口県生まれ、東京大学名誉教授
(詳しくはウェブで検索願います)

石原康則氏
1951年 兵庫県生れ
2013年 神奈川大学法学研究科博士前期課程修了
社会福祉法人電機神奈川福祉センター理事
公益財団法人富士社会教育センター理事
日本労使関係研究協会会員
2003年~2010年 三菱電機労働組合中央執行委員長
2011年~2019年 社会福祉法人電機神奈川福祉センター理事長

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