遅牛早牛

時事雑考「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」

通常国会は参議院選に向けての下り坂になるのか、上り坂になるのか

◇ オミクロン株の感染拡大が止まらない。感染者増と内閣支持率は負の相関にあるようで、また今後医療ひっ迫がつづき、社会経済活動に支障がではじめると内閣支持率は低下しまた低迷するとみんなが思っている。みんながそう思っているから、政府にとっては厳しい事態になる。よくよく考えれば、キシダ政権は安定しているようで不安定、幸運のようで不運なのかもしれない。問題は、不安定で不運とみなされれば不穏な動きを招くことにある。強力な敵がいなくなると、城内は緩み、内ゲバがはじまることが多いのだ。また、自公政権には賞味期限と品質期限が逆相している可能性があり、ところどころ薄氷ありといえるが、この件はいずれ近いうちに。

 ところで同じ株でも、日経平均が冴えない。この点を衝き、キシダ政権は株式市場に冷たいといった恨み節が聞こえてくるが、予算規模や国の債務を考えれば、これ以上何を望むのかということであろう。また、異次元の金余りをいつまでも続けるわけにはいかないので、どこかで調整せざるをえないと思われるが、ぼやきが脅しにきこえるのは業界の日ごろの行いのせいなのか。それとも、客への言訳を考えてのことか、とにかく金融環境が変化するのは確かであろう。

◇ さて、通常国会は予算審議で花盛りのはずだが、思ったよりも地味である。モリカケサクラの主人公がいないのだから平穏なのは当然かとも思うが、逆に討論の中身が濃くなることを期待している。国会日程は150日を想定しているとのことなので、明ければ参議院選挙が目の前である。上りか、それとも下りか、各党代表者の試練が近づいている。

左派グループは立憲民主党、日本共産党、社民党が中心

◇ 「政界三分の相」で、のこっているのは左派グループである。立憲民主党(以下立憲民主)、日本共産党(以下共産)、社会民主党(以下社民)の三党は普通の左派であるが、れいわ新選組は左派ポピュリズムであろう。これはかなりの新種で、旧種の代表が共産で次席が社民であろうか。問題は立憲民主の左派性であるが、その点についてすごく無自覚であるのが特徴的で、今は悩みの原因がよく分からない悩みに陥っているのかもしれない

立憲民主についてはいく度となく論評をかさねているのだが

◇ そこで、立憲民主については、弊欄において「すりかえられた争点―選挙の顛末と時代おくれ感」(2021年11月8日)、「立憲民主党の再生なるか?遠ざかる二大政党制(その1)」(2021年11月26日)、「視界不良、立憲民主党のこれからと合流組の誤算」(2021年12月16日)とすでに3本掲載してきたので、書くことはあまり残っていない。したがって、問題提起を中心にまとめてみたいと思う。

やはり安全保障が問われている

◇ まずは、安全保障についての基本的な立ち位置である。とくに中国の脅威のあつかいが問われている。同時に国家防衛の具体的方法論も、である。もちろん外交上の努力の必要性は論をまたない、当然のことであるが、現在の中国の荒々しい動きには在来型の外交は通用しないと思われる。とくに、経済力と軍事力など総力をあげて現状変更を求める「力の外交(戦狼外交)」については、21世紀の国際社会においてきわめて異常ともいえるもので、とりわけ特異なのは「国防動員法」(2010年7月1日)と「国家情報法」(2017年6月28日)」にみられる全国民の動員体制である。おどろくことに海外在住の国籍保有者は本国から指揮を受ける可能性があるといわれているが、まさか全員がスパイにされるわけではないだろう。だが、そうかもしれないと思わせるところが暗黒〇〇的である。さらに国内に残された家族の安否を人質に、家族を人質ではなく安否を人質にするといった高等(?)テクニックを駆使して動員する可能性もあるというから、監視国家暗黒バージョンがすすんでいるのかもしれない。

 また、「一帯一路」と「債務の罠」のトラブルも顕在化してきているが、これらの流れからうかがえることは、中国の覇権主義にもとづく膨張政策や各国への影響力行使といった傾向は、前世紀はじめの帝国主義をほうふつとさせるもので、とても「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」(日本国憲法前文)という心がけではもはや対応できないのではないかと、ふと考えてしまう。

◇ とくに、習体制2期目に入ってからの、少なくとも南シナ海と東シナ海における中国のテリトリー拡張は、軍事展開をともなう強引な「現状変更」を意図するもので、米国はじめ関係国への激烈な挑戦といわざるをえない。しかも、何事も回数と年数をかければ既成事実化できるという悪質な確信行為をともなっており、そうとうに危険である。この脅威の増幅こそが以前に比して、わが国の安全保障環境が加速度的に悪化した原因といえる。もはや違う国と向き合っていると考えなければならない。

激変したわが国の安全保障環境、厳しさは数ランクアップか

◇ という認識にたてば2015年当時に議論した安全保障環境については、リスクゲージを相当程度上昇させる必要があるのではないかと。さらに香港処分ともいえる乱暴な対応は、質的にも覇権主義をブートアップしていると認識する必要があるとも考えられるわけで、これは文書レベルの覇権主義ではなく、進行形の覇権主義として、周辺国はもちろん多くの国々に受けとめられつつある。まさに、わが国だけの独断ではなく国際社会において広く共有されつつある現実といえる。

 ということから、今日的認識として2015年の安全保障(安保法制)にかかわる議論については大きく変更する必要があり、少なくとも脅威への対処については当時よりも格段の強化策を準備すべきというのが、この間における世論の合理的な受けとめであったと思われる。

現下の厳しくなっている安全保障への対策をまず確立してから批判を!

◇ そこで、暴走気味の覇権主義国への対応策として、具体的にどういったことを考えるのかという点において、左派グループが2015年の安保法制を破棄すると主張して「いた」こと、さらに違憲部分と言訳風に変化したことが逆に気になるところである。それは、高まる緊張の原因が中国の覇権主義にあると認識するのであれば、それへの適切な対応策として憲法による集団的自衛権への縛りを解くというのが素直な考え方であると思えるのだが、この急所を憲法違反という明後日を向いたようなとぼけたいいまわしで回避している、つまり逃げていると国民から見られている点について、どう答えるかということであり、さらにその逃避路線をつづけるのかどうかが、立憲民主ひいては左派グループ全体としてのビビットな論点になっているといえる。

 また、集団的自衛権についてのアベ政権による憲法解釈変更について、立憲民主としてどう考えるのかという正面の課題にも直面しているといえるのである。個別自衛権の範囲で昨今のリアルな脅威に対応できると考えている人びとは少ないのではないか。

 さて、ここで従来からの憲法リベラル路線を踏襲するべきか、あるいは大胆に現実直視のリアリズムへ大転換するのか、大きな分かれ道を前に立憲民主は立ちどまっているように見える。

 世上しつこく指摘された「批判ばっかり」という批判は、弊欄ですでに指摘のとおり印象操作的側面が強いものであるが、その批判の数少ない正当性を述べれば、人びとにとって近年急速に高まった安全保障上の危惧に対し、適切な対応をすることなく、旧来型のモリカケサクラ追求に耽溺していながら、また護憲的・反安保的な安易な姿勢に胡坐をかきながら、逆に選挙では共産党と結託して政権交代などと叫ぶのは正気の沙汰ではないという非難と連動していると思われる。

 政権を語るなら、まず安全保障への基本方針を示すべきであり、それの今日的妥当性について人びとの共感をえなければならない、これが鉄則であろう。

集団的自衛権は必要と考える人は多い

◇ だから、悪魔のささやきではないが、現下の東シナ海の緊張の高まりを直視するならば、集団的自衛権を認める方向での憲法改正の必要性について、もちろん世論が割れていることを承知のうえで、これをどうするのか。つまり、日米安保条約の非対称性をある程度解消する方向で、憲法改正まで射程に入れることについての判断がセットの論点といえる。

 このように世論が本質的な変化を起している原因は、わが国の変質によるものではなく、ひとえに中国の対外諸行動が、香港あるいは台湾周辺そして尖閣などにおいて、力による現状変更を明示的ともいえるほど露骨に希求するものになったことから、他律的にもたらされていることは明白であり、責任の所在も明らかであるといえる。

世論は右傾化などしていない、脅威に対し適切に反応しているのだ

◇ 何年かまえに、「右傾化」という言葉を使って世論動向を批判的に解釈する言説が流行ったが、これは「右傾化」というよりも「防衛反応」といったほうが適切と思われる。つまり、人びとは中国による一連の示威行為を普通の感覚で受けとめたわけで、その結果としてきわめて警戒的になったというのが、解釈としては自然ではなかろうか、だから勝手に「右傾化」していったのではなく、仕方なく「防衛反応」として安全保障政策を強化する立場に追いこまれたというのが正しい解釈であると思う。それを「右傾化」とあたかも上から目線で非難をこめて発信するものだから、その態度と、偉そうにいっている割には安全保障にかんしては無策、無能ではないかという失望などが合わさって、左派グループから多くの人びとが離れていったのではないかと考えている。(時系列上でいえば、そういった人々が離れていったことが、立憲民主党をして左派グループに定置させたともいえる。)

 このような深層をとらえきれずに、単に右傾化と指摘する政治家はもちろん評論家などは「中国による危険惹起」について見て見ぬふりをしているのではないかといった疑いがあることも事実であろう。

 だから、昨年10月31日の総選挙にかぎっていえば、終わった話ではあるが、「不安心理」を正しく受けとめ安全保障政策上の工夫を丁寧にしつらえていたならば、人びととの意思疎通はもっとましだったと思えるのだが、たとえば左派グループにおける一部の一連の主張などを聞いていると、一般には理解不能な論理であって、「では、憲法と国民とどちらが大切なのか」と反射的反問を受けるのはごく自然であると思う。

 憲法原理主義は国民を犠牲にするかもしれないといった、感覚的ではあるが妙に正鵠をえた感じの指摘が大きな説得力をもつ時代であることを正面で受けとめないと、衆議院選挙での躍進はおろかよくてギリギリ現状維持の長期停滞に陥ると思う。これは立憲民主への矯正的提言であり、60年安保世代が引きついできた不思議な国際関係観念論は、皮肉にも中国共産党によって踏みにじられたというのに、どうしてそういった思想系列とは無関係であるはずの立憲民主の多数が巻きこまれているのか、これは歴史上の椿事であろう。集団催眠波でも浴びたのか、あるいは党内に異星からのエージェントが紛れこんでいたのか、失礼ながらそうとでも思わなければ理解できないことなのである。

総選挙の結果96はまずまずではないか、もっと減っていたかも

◇ 今回の総選挙におけるエダノ立憲民主のミスは、政権交代を叫びながら、人びとが普通に「ざわざわ」と感じていた中国からの脅威、これへの対応を明確に示しえなかったところにあったといえる。ということがあって、自民党批判票は安全保障上の安全な位置にそうように右側(維新と国民民主)に流れていったといえる。メインは安全保障であると規定できなかったところに限界があったと指摘し、そこにエダノ立憲民主の左派性があると思われる。

 ただし、今回の総選挙の結果について、弊欄では「(立憲民主の獲得議席)96はサバイバルラインギリギリともいえるものだから、左派政党としては善戦したと思う。」(2021年11月8日)と述べたが、投票率の低さが幸いしたとも思いながら、大幅減にはならなかったことは評価している。今後方針の一部を変える必要があることを前提に、決して悲観することはないと多少激励をこめて、そう思っている。

「国民の多数は外交安保では現実主義である」

◇ ここで、「現実問題として外交安保リアリズムをとる人が国民の多数を占めるため、安全保障でリベラル票を惹きつける戦略を維持する限りは、政権交代は難しいということである。」(『日本の分断 私たちの民主主義の未来について』P52 三浦瑠麗著 文春新書)を、2021年3月27日の弊欄につづき再掲する。なお、同書P131には、「他方、立憲民主党の逢坂政調会長は、立憲民主党が持たれているイメージに異を唱えた。立憲民主党は憲法が「不磨の大典」であるとは思っておらず、日米同盟も必要不可欠だと思っていると述べている。政調会長がこうして安保現実主義の立場を述べているのに、世間のイメージとして必ずしも立憲民主党を安保現実主義であるとは受け取ってくれていないのが残念だという趣旨の発言も出た。」文中の逢坂誠二氏は、現在立憲民主党代表代行である。なお、本文にも紹介されているが、逢坂氏の発言はYouTube「創発チャンネル」で確認できる。

仮説1、合流後の立憲民主の基本路線に変更はなかった

◇ さて、ここで11カ月ぶりに再掲したのは、同書の著者日付が2020年12月18日で、発行日が2021年2月20日、そして「日本人価値観調査2019与野党はどううけとめるのか」と題したパネルディスカッションの映像日付が2020年3月12日となっており、立憲民主と国民民主の合流が2020年9月であったことから、引用した三浦氏の指摘について、合流前の立憲民主、合流後の立憲民主それぞれがどのように受けとめたのか、さらに2021年10月31日の総選挙に少しでも生かされたのかなどなど、筆者の関心がすこぶる高いからである。

◇ そこで、仮説の一が、「合流後の立憲民主の基本路線に変更はなかった」というもので、合流の大義として、明示的であるかどうかは措き、国民民主からの合流組が(水面下で共有化されていたのかどうか知らないが)意図した野党第一党の適切な右方向への路線修正が「不発」であったといえるのではないか、というものである。だから政治路線は簡単には変えられない、また変えようと突入しても、ミイラ取りがミイラになるだけの話ではないかという教訓がのこっただけではないかと、これは外野からのお気楽な意見である。といった、ややだるい解説とはべつに深刻な問題が透けて見えるのである。それは2020年9月の合流にいたる協議経過である。詳細は開示されていないので考察には限界があるのだが、当時の連合首脳をも巻き込んでいると外見的には思われる協議の内容が、2021年10月31日総選挙にはプラス効果を引きだせなかったのはどういうことなのか。少なくとも国民民主からの合流組は「憲法」「同盟」においては右派ではなかったのか、それとも口を封じられていたのか、どんな力が口を封じたのか、あるいはエダノ立憲民主には民主的運営が欠如していたのかなどなど令和政局の七不思議が浮かび上がってくるのであるが、いずれ解明される日がくるであろう。

仮説2、立憲民主が護憲、反安保とみられたのは共産との選挙協力が原因か

◇ 2020年3月12日時点で、逢坂氏の上述の「残念だ」発言が真であるとするならば、強い問題意識をもちながらも2021年10月31日の総選挙までに、少なくとも選挙に負けないためにといった程度の路線修正さえもなされていない、つまり国民が持っているイメージの修正が不成功のまま選挙に突入してしまった、と少なくとも筆者はそのように受けとめている。ということであれば、合流が路線中和という化学反応を引き起こせなかったと判断すべきで、ということは合流の評価さらにはその正当性さえも棄損するのではないかといった大きな疑問を誘発するのではないか。もしそうであるなら支援者あるいは団体としては、支援している政党の再編については簡単に楽観視してはならないという教訓が残るのではないかと思う。

◇ という小さな教訓話で終わらせてはならないわけで、仮説の二は、逢坂氏そのものは立憲民主の枢要なメンバーであることから、本人の自己認識とは少し距離のあるイメージが支援者あるいはマスメディアをつうじて形成されている可能性も考えられる。ここで強引ではあるが、三浦氏が挙げている「憲法」「同盟」にかぎれば、逢坂氏は護憲であり、心情的に反安保あるいは脱安保のイメージが、(2020年3月12日の「残念だ」発言を踏まえるならば)氏にとってはとても不本意であると思われるが、世間の見方は間違いなくそういうものであるといっていいのではないかと思っている。

 ではそういったイメージが、どういう経路で形成されたのかについての推測であるが、本来議員個々にまた履歴にそった詳細な分析にもとづくべきであるが、わが国の議会は党議拘束を前提にしていることから、党議違反こそ話題になるが通常は議員個々の政治意思について、細かく報道されることはあまりないといえる。したがって、たとえば逢坂氏が護憲であると世間で受け止められているとすれば、それは集団的にスタンピングされているというか、あるいは大きなギフトポーチにいれられているので、そのポーチの印象に支配されているといえるのではないか、つまり個別包装ではなく全体包装がよく効いているということであろう。さらに直近の政治エポックの影響を直に受けることで、その印象が強化されていると思われる。具体的なエポックとしては、やはり「共産党との選挙協力が一番であり、その影響が大きく作用している」というのが筆者の結論である。

 選挙は行動である。それも全力を挙げての行動であるから、そこから受ける印象に有権者は支配されやすい、と思う。ということで、立憲民主は中道グループである国民民主から過半の勢力を受けいれたにもかかわらず、見事に左派グループとして護憲、脱安保のポジションを確立したといえる。と書けば、多くの関係者から「そんなことはない、いったことも書いたこともない」との反論が山のように押しよせるであろう。それはその通りであるが、しかし、現実に有権者が投票所まで足を運び、用紙に記入する時点において有権者の頭の中にある政党のイメージは、そうとうにシンプル化されていることも間違いないであろう。で、立憲民主の皆さん方がどんなにいいたてても、イメージの世界での勝負はついているのである。だから、これからも左派グループの雄として政権とかかわらない領域で、護憲派、脱安保派として生き残る道は十分あると思うが、問題は支援者がそれで満足あるいは納得できるのかということと、さらにそれでは保守グループによるダラダラとした現状追認型の政治が止まらないということから、わが国の低落がつづくのではないかという問題が残る。

仮説3、泉立憲民主の進路は「長い路線闘争の時代」あるいは「分派」?

◇ そこで、仮説の三であるが、泉代表が率いる新執行部が、連立を前提に政権交代を目標化するのであれば、政権交代を達成できる議席水準を定めなければならない。そのうえで、連立相手と立憲民主自身の政治ポジションをどうするかが焦点となるであろう。もちろん、憲法改正(9条)と外交安保現実主義の採用を文脈上の前提としていることは了解願いたい。となると、筆者の想定は「長い路線闘争の時代」あるいは「分派」の二通りシナリオで、前者は旧日本社会党の左右対立のような状況であり、後者は憲法改正と外交安保現実主義を採用するグループが離党し、維新や国民民主とともに中道グループを形成する道である。したがって、残る護憲・脱安保を掲げたい人びとは左派グループの一員として、共産や社民などとの共闘を強化する、というのが政治価値観にそったスムーズな再編と思われる。のであるが、大昔に日本社会党右派が日本社会党を飛びだし民社党を結成した歴史劇の再演を時代が待ってくれるのかと問われれば、筆者は悲劇的結末を示唆せざるをえないのであるが、これは別の話である。 

 あるいは、党勢からいえばもっとも上策であるシナリオとして、現立憲民主が党をあげて憲法改正、外交安保現実主義を採用するという、空前絶後の大転換作戦が考えられるが、これは妄想としての楽しみはあるが、現実問題としては実現しないと思っている。

 その理由は、現在の立憲民主は閣僚経験者だけで十数名という「大臣老舗党」であって、申しわけないがすごく枯れているところもあり、大博打は打てないであろうと党の動態的分析から予想するものである。また支援者の政治価値観の傾向はリベラルであるから、方針の大転換の瞬間から支援者においては紛糾必至であり、結局規模はともかく残留部隊がリベラル票の受け皿となると思われる。これは結果的には「分派」と同じことである。

 ただし、大臣老舗党であるとしても、大臣というのは日米安保条約を是認しなければ仕事にならないのではないかという巷の疑問もあるのであるが、これにはどう答えるのであろうか。少なくとも反安保のスタンスはない、と思う。

 もちろん「大臣としては(個人の見解は見解として)内閣の方針にしたがう」という答弁があることは否定しないが、条約は憲法を超える存在であることからも、精密な説明が必要であろう。でないと、せっかくの大臣経験という政権交代への近道になりうる宝をむざむざと死蔵するだけに終わるかもしれないではないか。

立憲民主のコペルニクス的大転回が政治を変える、「憲法」「同盟」を争点から外すとどうなるか

◇ 三浦氏の指摘をさらに外延すれば、立憲民主が憲法改正(9条)を主導し、日米同盟の双務的再定義をあわせて提起するならば、わが国の政治シーンはコペルニクス的大転回によって、現在の保守グループのアドバンテージは雲散霧消するといった連想を生むのであるが、このあたりになると筆者の例の妄想といえるもので、氏の責任外のことである。

 また、だれが主導するのかと同時に立憲民主が実行することこそが超弩級の政治威力を発揮するという政治活劇の典型であり、いいかえれば大改革による開国譚あるいは英雄譚の出現期待にも十分こたえることができると思う。

 では、万に一の可能性として仮に「憲法」と「同盟」が政治上の争点でなくなる、すなわち不活化すればどうなるのか、やってみなければ分からないことではあるが、筆者の予想は与野党の力関係はイーブンとなり、保守グループはお高くとまっている分、各論において劣位にまわる可能性が高く、現野党の活性は倍加するというものであり、これこそが筆者がひそかに遠望していた政治リアリズムの復活なのである。

◇ たしかに荒唐無稽なストーリーではあるが、保守グループによる、わが国の衰退を追認するだけのチンタラ政治にとどめを刺し、来る脱炭素社会、脱炭素経済を正しく迎えることができる、まっとうな政治を確立するためにも、立憲民主の路線の大転換が必要であると思うのだが、同党にはそれほどの勇気もまた愚かさもないようである。

 「ああ、じつにつまらん。」あの屈辱を逆転満塁ホームランで大勝利に変えうる唯一の道を示しているのにフガイのないことである。一瞬の政治的賭けに身を呈しえないものを一流の政治家とはいわない。時代に抗うこともなく、ただ隷従するだけでは政治家とは呼べない。単なる当選者にとどまるだけで、自公の風下に座しているばかりでは「まことにつまらない」のである。

日本共産党は希種、孤高の党であった

◇ いつから日本共産党(以下共産)は左派グループの家老職になったのかしら、近ごろの立憲民主への参議院選協力についての呼びかけを聞くと、そんな気がしてならない。暗黙のうちにそういう関係になっているのであろうか。ということであれば、神津連合前会長の危惧は的中したということではないか。また、芳野会長の警告はストレートすぎるが実に端正ではないか。

 百年を超える歴史をもつ共産は政党としては希種であり、また時に孤高であった。それが2015年安保法制反対の中で野党の輪が広がり、なぜか国会前で四党首そろい踏みという異例の舞台が用意され、なんとなく船の舳先にいる高揚感を感じるようになったのではないかと、またながらくボッチ政党と思われていた共産に待望の春の到来を思わせる瞬間であったとも。さらにこの時期に「国民連合政府」との言葉が党内でもちいられたとも聞いている。

2015年安保法制反対運動が、野党共闘のはじまり

◇ この2015年はまだ民主党の時代であり、2014年の総選挙で当時の海江田代表が落選したため、新代表の座を岡田克也氏と細野豪志氏が決戦投票で争った結果、党内左派票をえた岡田氏が10年ぶりに代表に返り咲いたのである。薄れている記憶をたどりながら、2015年安保法制の議論の流れを思いおこせば、当時のアベ政権はそうとうに強硬で、どちらかといえば民主党にあえて反対のポジションをとらせようとする風情であったと記憶している。したがって、民主党内は反対といえば反対ではあったが、反対の程度は非常に幅が広く、なかでも外交安保現実主義をとる多くは、10本以上の法案をまとめた束ね法案に対し、個別の対案をいくつか用意すべきといった議論をすすめていたが、党執行部や部会を中心とした国会対応は、野党共闘の流れや国会外の動きに軸足をおいていたことから、対案路線は顧みられることなく、また翌2016年の参議院選挙での協力を考慮したのか、全体として対決路線に大きく傾斜していったといえる。

 もちろん対外環境も今日ほどは厳しくはなかったといえる。しかし、中国の台頭を厳しくうけとめる議員も少なくない中で、党全体としては共産を含む野党共闘を中心とした全面対決を選択したのであるが、その経緯、動機については分からないことも多く、後年、立憲民主と希望の党あるいは国民民主との間に、越えられない壁ができたとすれば、それはこの時に胚胎していたといえるかもしれない。些事が大事に化したというべきか、あるいは覇権主義国の強力な投射が生んだ亀裂とでもいうべきか、今となっては思慮の外のことである。

共産、左派グループの形成を目指す

◇ という相互関係が絡む中での、2017年総選挙、2019年参議院選挙では民主党由来の野党がしのぎを削りあう、いわば骨肉の争いともいうべき状況を目のあたりにした共産首脳が、当面の目標として左派グループ形成という一点に照準をあわせたであろうことは想像に難くないわけで、おそらく左派グループのかすがいは選挙協力であると看破していたと思われる。

 衆議院選挙における小選挙区と参議院選挙における一人区での共産予定候補の取りさげという交渉カードが、どの程度の効力をもつものであるのか、筆者としては大いに疑問に思っていたのであるが、選挙においてはプロ中のプロであるべき議員たちが、野党統一候補であればかならず勝てると短絡したとは思えないが、一部の評論家やマスメディアが候補一本化の霊験を喧伝したこともあり、もっとも重要である基本政策の一致という連結ピンの存在を意識的に忘却したうえで、あとはエイっとばかりに飛び降りたのであろう、断言はできないが。

 もちろん、2021年の総選挙で決定的であったのは、選挙の時期が2021年の8月9月を外しておこなわれたこと、また表紙が菅氏から岸田氏に変わったことといいたいのであるが、そういった事象モノ以外にも有権者の意識の構造変化を指摘しなければならない。これは何度も触れたように国民の安全保障への意識変化である。ということでいえば、キシダ政権を勝たせたのは中国共産党であるともいえるわけで、まあ面白いだけの話ではあるが。

選挙協力は政策同化作戦か?

◇ 小選挙区での候補一本化とは、野党における選挙協力の完成を意味するわけで、それが常態化することは暗黙のうちに政策の収斂効果を生みだすという高度な学習を、共産はすでに済ませていたということであろう。

 たとえば、消費税は悪税である、憲法改正は断固反対、条件が整えば安保反対というように、芋ずる式に重要政策の素描が整えられていく。選挙で与党に勝つという大義名分のために重要政策が人質化されていくということで、なんとも近ごろのレバレッジのよく効いた金融商品のような仕掛けではないだろうか。

 あらためて、衆参の小選挙区で共産党予定候補が出馬を取りやめることが、どれほどの政治価値をもたらすというのかしっかりと問うてみたいものである。それも重要政策を質草にしてまで、と考えれば、この選挙協力という仕組みは共産においては十二分に練られた、ずいぶんと怪しげな餌ともいえるであろう。さらに、胸焼けしそうなそれを中和する一番簡単な方法は、重要政策において共産と同調路線をとることであるから、とりあえずの選挙協力をかさねれば重ねるほど、政策同調が促進されるという巧妙な「仕掛け」が内蔵されていて、近未来においてかならず政策共闘にいたるということであろう。

 初めての選挙協力は、初めて飲んだカルピスの味がするし、本格的な野党統一候補として与党を打ち負かしたときの感激は生涯忘れられないものであろう。しかし、選挙における依存はやがて習慣化し、当選が目的化する。そして気がつけば重要な政策での妥協を生む。ということで、選挙協力の議論があまりにも軽すぎるのだ。もっと深淵を覗かなければ、といいつつ、もう疲れた。

もっと真剣に選挙協力の功罪を考えろよ、と叫びたい

◇ だから、現在の選挙協力の仕組みをありていにいえば、立憲民主の換骨を狙う知的策略であるといえるかもしれない。そうならないためには、ぎりぎりといえる立候補調整あるいは勝手応援に止めるべきであろう。また、統一候補とするならば、完全無所属とすべきで、いわば下草をしっかり刈り込んで、日当たり見通し風通しを良くすることに徹しなければ、持続性のある選挙態勢はできないと思う。2019年の参議院選挙に向かう立憲民主の一部の幹部がとった、「対立候補を立てるぞ」作戦は選挙協力の逆向きバージョンで、効果的ではあるが沃野を不毛化する愚策であったと思う。埋もれた話ではあるが、立憲民主に徳がないのは世間がそういった手法に気付いているからかとも思う。徳がないのが支持率の低迷の原因の一つであると思う

 選挙協力が成功するためには利己を捨て利他を図らなければならない。また、野党第一党が献身的に汗を流さなければ、まとまっても票が取れないということになる。

得する選挙協力はかならず失敗する

◇ 一方の共産の場合、喜びのあまりはしゃぎすぎたのが良くなかったが、案外素朴であった。これからの共産の選挙協力は損をすることに徹するがいいと思う。少なくとも献身的と見せるべきである。たぶん、たびたびの立憲民主の煮え切らない態度にいら立ちを隠せないのであろう、気持ちは分からないでもないが、一度決めたのであるなら愚直に献身路線を突っ走るべきである。そのぐらいのことができないようでは、野党共闘を維持することは不可能であろう。ふたたびボッチ政党に戻りたくなければ、我慢が大切である、それも一度や二度の我慢では全然物足りないのである。

 

中国共産党のある限り日本共産党の苦悩は続く

◇ といった前置きを踏まえながら、共産党の今日的意義を考えれば、共産党であることからくる苦悩が浮かび上がってくるのであるが、党名を変えて済むものなら変えればいいと思う。しかし、政権に参加しても天皇制は変えないとか、あるいは日米安保条約は当面維持するとか、言訳集を出すようであるが、しかし言訳ってそれは本心なのか、あるいはとりあえずの方便なのか?

 はっきりいって、そういう軟弱な、世間に媚びる姿勢でいいのかと思うのである。だからズバリいうが、革命理論を押し入れに隠す共産党は共産党といえるのか。なに、いずれ活用するために温存するのだから、護身術に近いってことか、ではなぜ日米安保条約破棄を降ろすのか、単独防衛をあきらめるのかなど、歴史的にも重要な党内議論を経なければ真実にならないのが共産党なのだから、まだまだ分からないのである。

 筆者は、長年局地的対抗関係にあったが、存在を否定する立場をとったことはない。また、議会での存在意義は現に議会が認めているもので、その根拠は選挙で選ばれたところにある。たしかに政党としてサバイバルを考えなければならない事態認識であるとは思うが、民主政治というからには多様な政治路線の存在も貴重であるのではないか。変装したところで変えられないものが本質ではないか。

ふたたび、左派グループのこれからについて、残る道は社会民主主義か?

◇ 2021年10月の総選挙の結果では、共産党についても「同様に、日本共産党も2議席減だからよく踏みとどまったと思う。中国共産党のマイナスイメージが容易に投影されやすい状況はかつてない危機をもたらせていると考えられる。」という評価ではあるが、同党をとりまく状況は想像以上に厳しいものがあるといえる。もっとも左派グループとして総勢170議席を超えたわけだから、まずまずの結果というべきだし、その中にあって共産としても小康を保ちえたとの思いもあるだろうが、衆議院選挙の結果をみるかぎり野党選挙協力の展望は開けないままといえよう。

 左派グループ全体として200を超えるには大きな壁があると思われるし、まして政権を射程に入れるにはさらに大きな壁があることも明らかになったともいえるだろう。また、そんなことよりもこれからもつづく漸減傾向を心配しなければならない。

 そこで一番の壁は、安全保障に対する姿勢(基本方針)がどんどん時代すなわち現実に合わなくなっていることであり、この点においては、今後さらにひどくなると思われる。とにかく、中国共産党の覇権主義がつづくかぎり環境は改善しないという絶体絶命のピンチといえるであろう。

 そこで、左派グループとしてのこれからの進路であるが、社会民主主義を目指すのもありと思う。今や共産主義も社会主義も堕落し汚れてしまった。もはやモデルでもなんでもない。結局人びとは救われなかったのだから、新たなモデルを希求すべきである。そして理想とすべきモデルを示しながら保守グループに論戦を挑む、これなくしてわが国の政治の活性化はないと断言してもいいと思う。脱安保が無意味だとか間違っているとはいいきれないと思う。それは、あくまで国際情勢によるのだから、選択肢は多いほうがいいに決まっている。筆者は採用しないだけで、根っこから引き抜く気はない。ということで生き残るためには自らを変革するほかに手がないのではないかと、余計なこととは思うが提言しているつもりである。

 周りを変えるためには、まず自分が変わらなければならない、それだけのことである。

 再度、左派グループにとって周りを変えるためには、まず自分が変わらなければならない、ということであろう。

◇ 雪つもり鴨はどれかと河口石

加藤敏幸