遅牛早牛

時事雑考「お騒がせな人が飛びつく核共有は百害あって一利なし」

◇ 「議論はすべきではないか」といった前説をぶら下げて、突然「核共有」がヘッドラインに現れ、なんともいえぬ雰囲気を醸しだしている。もちろん、頭ごなしに議論を禁ずることはできないし、それは穏当ではない。とはいっても話題には内容にみあった重さがあり、議論にはその重さに応じた作法があると思う。そういえば「軍事を語ってはいけない平和主義」なるものが闊歩していた時代があったが、それが安全保障にかかわる議論を閉塞させたことも事実であった。当時、筆者は平和主義を標榜するのであれば、軍事についても考察を深めるべきという考えであった。したがって、軍事オタクとは一線を画しながら、あくまで軍事関係にも精通した平和主義の必要性を痛感していたのである。これは今も変わっていない。

 そういった視座から、今日の「核共有」をもふくむ国防論議について、雑考してみたい、というのが今回のテーマである。

「劣勢に陥ったロ軍が戦術核を使うのではないか」から始まった

◇ 話は、劣勢に陥ったロシア軍が(ひょっとして)戦術核を使うのではないかと、にわかに騒がしくなったことから始まった。もちろんプーチンとその周辺から、意図的にそのことを匂わす文言が流されたことも、騒がしくなった一因といえる。

 という流れを受け、自民党を中心に「核共有」、あるいは「敵基地攻撃(反撃)能力」、さらに防衛費のGDP比2%規模への増額など、さまざまな議論が活発化していったが、つられて憲法改正(9条)論議も煽りたてられたようで、ずい分と騒がしいことになってしまった。そんな中、左派グループ(立憲民主党、日本共産党など)は安全保障面では攻められっぱなしで、防戦に手いっぱいなのか、なかなか新基軸の議論を生みだせずにいる。ということは、従来の政策と論理でのり越えようと考えているのであろうか、のり越えられないだろうという声が多いのであるが。

◇ 大まかにいって、従来路線で対処するという方針かもしれないが、日本共産党はともかく立憲民主党においては、そういった従来路線では「危機」に対応できないと考える議員も少なくないようで、彼ら彼女たちは現在の党内の閉塞感に対しある種の焦りを感じているのではないか。また、いい雰囲気ではないことから、そういった焦りが逆方向に働き、「ロシアより許せないのは今の与党」との発言につながったとやや断定的ではあるが、そう思う。(発言は撤回されているので論評は措くことにする。)そのことに対しては、やや同情的に捉えているのであるが、件(くだん)の集会の締めくくりが「参院選での三分の二阻止」ということで、立憲民主党としてもこの夏の参院選を改憲議席阻止に絞り込んでいるようで、明らかに憲法改正反対に同調したように見うけられる。たぶん、5月3日の憲法記念日の影響を受けてのこととは思うが、はたして適切な対応であったのかと疑問に思う。

 この情勢下で、憲法改正阻止を正面に掲げることは、日本共産党にとっては集票上の合理性があるとしても、立憲民主党においてこの段階で護憲イメージをことさら強調する必要性があるのか、まだまだ集票上の効用が不明な中で、むしろ問題が多いと思われる。とくに漫然とした対応をつづけることが「立憲プラス共産党」というイメージを固めることになるのではないかと、大いに気になるところである。

 なぜなら、2020年9月以来「立憲民主党は護憲政党なのか」と問われて、「そうではない」と答えてきたと記憶している。であればこんな形のぶれ方は非常にあぶないと思われるので、改めて方向性を明確にすべきではないかと思う。

「自民より左、共産より右」の安全保障政策を

◇ もとより憲法改正は簡単なことではない。自民党には憲法改正は議席問題と捉えている向きがあるようだが、それは問題の矮小化であって、折箱の大きさだけを気にして中身のことを忘れているに等しいといえる。とくに、示されている自民党案は、前にも触れたが、いい出来ばえとはとてもいえない代物であるから、立憲民主党には正面からぶつかって欲しい、あるいはまともな議論をして欲しいと期待している国民も少なくないのではないかと思う。多くの人がウクライナがロシアに侵略されている現実を重く受けとめ、どちらかといえば安全保障面での強化の必要性を痛感している情勢にあって、立憲民主党として中道層からの支持をえるためにも、「自民より左、共産より右」に重心を置いた安全保障政策が必要であり、そのためにも改めて党内での大きな議論を、中道層としては期待しているのではないか。

戦術核の使用についての報道には、仕切りが必要である

◇ さて、ウクライナでの戦術核の使用について、報道関係者も餌に寄りつく鯉のようなありさまで、一部のことではあろうがそれでは「まずい」のではないかと思う。もちろん筆者とて同類であり、いく分反省を込めながら「まずい」と感じる子細について述べていきたい。

 そこで、戦術核とやらがまだ使われていない段階での議論についての仕切りであるが、一つは、起こっていない事象については、どんな議論であっても不正確この上なく、また工夫して真実味をくわえてみても曖昧空間からは一歩も出られないのだから、結局不安感だけを掻きたてることになりかねない。これは大変「まずい」ということである。

 二つは、使われないことが「お約束」だったのに、あえて禁を破ることへの議論を、単なる議論としてあつかっていいのかという、問題への基本的な姿勢を問う議論が倫理上も存在することである。つまり、地政学上なんでもありの議論を無制限に許すことから生じるさまざまな害悪について、言論の自由との均衡をはかる必要は認めながらも、ここは厳格に考慮する必要があるのではないかということである。

 という仕切りを申しあげると、「(核をはじめ大量破壊兵器が)使われてからでは遅い」との反論がただちにかえってくるのである。やや水掛け論的であるが、使われてからでは遅いといういい分は、事故が起こってからでは遅いという発想と近似していて、それに異をとなえる気はないが、一般的に起こって欲しくないことが起こってしまったケースでは、何事であれ「手遅れ」なわけで、「手遅れ」を責められているかぎり反論できないのである。またこの種の手遅れ対策には決定打はなく、あえていえば「すべからく万全を期すべし」という空疎な精神訓話ぐらいなのであるが、核使用という恐怖を前に慌てふためいておこなった議論はえてして有害な要素も多いので慎重でなければならない。

 しかし、今回の問題は「使われる」という当事者の意思に帰結するものであるから、当然「使わせない」意思表示が肝心であって、また「使ってしまえば」こんなにひどいこと、つまり被害の壮絶さと報復によって生じる不利益の連鎖について、より厳しく指摘すべきといえる。つまり成りゆきの議論ではなく、禁忌にもとづく咎めだての議論を中心にすべきであろう。

 また、ロシアに戦術核を使わせないために、ウクライナに対し反撃中止を勧告するといった、理不尽で不正義な結論が導かれてはならない(もちろんウクライナ自身が決定すべきことであるが)。くわえて、非保有国は核の恫喝に屈することがあってはならないことを確認し、現在の不平等で理不尽な核兵器管理体制への批判を徹底することにより保有国に精神的打撃を与え、ロシアの核恫喝をもてあそぶ態度に対し、保有国が連帯して厳しく対処しなければならないことを、そうしなければ世界的に核保有への潮流が高まりNPTの信頼性が低下することを厳しく警告すべきであろう。今回の核使用をにおわせる恫喝(疑惑)問題などは、特権クラブ会員である保有国こそが自律的に解決すべき課題であることから、逆に特権クラブ内で解決せよと要求する権利が非保有国にはあると筆者は考えている。

ロシアの核使用原則は不正義である、まず先制不使用を前提にすべきである

◇ さて、筆者がとりわけ不思議に思うのは、ロシア側の発言がそうとうに婉曲で、後日そういう意味ではないと容易に強弁できる工夫がなされていると思われるのだが、にもかかわらず、ウクライナを支援する側が情報精査なしでロシア関係者の話をただ流していることである。無批判すぎるのではないか、と思う。発言についての事実はともかく、戦術核の使用をほのめかしているといった解説までわざわざ丁寧に流すことはなかろう。また、ほんとうに真意がそうであるのか確認できないにもかかわらず、ただ得意げな予断に満ちたシナリオの説明などはさらに不要なものである。報道がそこまでやってしまうと、敵の術中にはまるというか、まるで餌に寄りつく鯉の群れのようで、核使用の可能性が万に一つ程度であったとしても、何回も聞かされていると、人びとはその可能性が上がっているように、つまり錯覚に陥るのである。報道量が閾(いき)値を超えると、報道内容そのものが許容されているような錯覚が起こるような気がしてならないのである。

 また、地政学上なんでもありの議論を無制限に許してはならないという二つ目の仕切りからいえば、核兵器の使用を軽々しく受けとめてはいけないのである。ナイフによる脅迫には、ナイフを見せる場合と、見せない場合がある。一般論ではあるが、脅迫をする側はできるだけ見せないようにするものである。見せなくても脅迫の効果には変わりがないとするなら、見せないで済ませようとするであろう。後日そのことを咎められた場合、ナイフでは脅していないと強弁できるので、狡猾な脅迫者はそうするのである。だから、脅迫される側としては、明確にナイフをださせることが重要なのである。ということで、ロシア側の思わせぶり発言には一切反応しない、つまり明確に戦術核の使用という決定的な発言が現れるまでは、無視をつづけるのが適切ではないかと思う。また、核使用を明言した場合は、激しく反撃をするのが報道機関の責務であって、ようするに報道は巧妙な恫喝の仲介者であってはならない、たとえ悪意はなくとも恫喝のお先棒を担ぐような真似はしない、ということではないか。筆者においても今後そのように対応していくことにする。

使う気がないからほのめかすのであって、使う気があるのなら沈黙すると思うのだが

◇ さて、肝心の核問題であるが、戦術核(出力を抑えた小型核兵器など)であれば使いやすいのか、あるいは現実に使えるのか、ということについては前々回の弊欄に掲載した「ロシアのウクライナ侵略がわが国の安全保障意識にあたえる影響」(2022年3月29日)のなかで、「大量破壊兵器は使おうと思えば使える状態にあるということである。とくに、戦術核については核抑止の線引を片足分踏みこえているように思えてならない。少なくともそのように考えている核保有国が現にあり、今回それが直接的な表現ではなかったとしても、条件次第で核兵器を使う可能性が表にでてきたということ、またその恫喝効果が出現したということであろう。」と述べた。また、「ということでそろそろ核兵器をめぐる議論の整理が必要になっているといえる。これは議論だけを整理すればいいということではない。しかし、議論の整理でさえできないということは混乱状態にあるということであるから、核拡散防止と核兵器廃絶を(この二つは廃絶が完了すれば、開発管理は残るものの拡散防止は不要となるが、完了するまでは拡散防止は必要であるから、拡散抑止という観点からも一部の国の保有を是認せざるをえないので、結果的になかなか廃絶できないという、つまり理想においては並立しているが、現実においては背反しているといえる。)現実的に一体化するための方向づけが可能になるよう今一度の整理が必要ではないかというあたりまえの提起である。」とも述べた。

問われれる「常任5か国」の責任 保有国が非保有国を恫喝してNPTが成り立つのか

◇ 問題は、核兵器の完全な廃絶こそが人類共通の目標ではあるが、さすがに現状はドロドロしすぎている。しかし、今回の核恫喝(疑惑)はドロドロの問題ではなく、保有国と非保有国の不平等関係を悪用したきわめて卑劣ではあるが単純な行為と思われる。この行為が是認されるのであればNPTそのものが不要で廃絶されてもしかたがないとなるであろう。

 そもそも国連安保理常任理事国の5か国は、拒否権と同時に排他的に核兵器を保有している、つまり特別な地位にあるといえる。ゆえに、本来は廃絶に向かうべきであるが、現状をいえばむしろ拡大に向かっているのである。他方、核兵器管理については「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)」があり、この条約は保有国と非保有国とを厳格に区分し、非保有国が核兵器をもつことを厳しく禁止している。いってみれば、相当にえげつない不平等な仕組みで、現在の独占状態を維持することを前提に、核兵器の拡散を防止していくという。つまり、掲げる旗は立派ではあるが、実態は既得権益保護を目的とした核特権クラブ(常任5か国)の存続システムといっても過言ではなかろう。くわえて、NPTの目的でもある核軍縮あるいは核廃絶を本気で実行するとは思えないと、少なくとも非保有国はそのように受けとめている。

 NPT非締約国のインド、パキスタン、イスラエル、南スーダンのうち、インド、パキスタンは保有しており、イスラエルは保有については緘黙している。勝手に脱退を宣言した北朝鮮は確実に保有していると思われる。ちなみにNPT締約国は191か国・地域(2021年5月)である。そこで核保有国であるロシアが非保有国のウクライナに対し核使用をにおわせ恫喝したとなると、NPTの今後もさることながら、国際的にロシアの立つ場所がなくなることは必至であろう。常任理事国は構成上優遇され、長年甘やかされてきたから、前後のことについて深くは考えられなかったのか、戦術核を使用すればロシアは国際社会からは100%孤立し、復帰することはできないであろう。使用しなくとも国際社会は、「使うかもしれない国、あるいは核恫喝国家」ではないかと強い疑念をいだくわけで、こうなったことはプーチンの重大な失政ではないかと思う。

核使用訓練のポイントは何か? だれがボタンを押すのか?

◇ ところで、核保有国は核使用を前提にシミュレーション訓練をおこなっていると思われる。訓練が行きとどいているからといって、容易に核使用に踏みきれるものではないことは、ほとんどの人が理解している。つまり、きつい社会的、倫理的縛りがかかっていることは間違いないのである。軍事訓練にはそういった縛りを解いていく内容のものもあるのであろう。たとえばそれらの訓練は、将兵らがもつ個人的な倫理観の遮断あるいは凍結を目的とするもので、これは何も核兵器に限ったことではないのである。どんな作戦であっても最終的には、通常の感性では対応できない任務に突きあたるのである。「傷つけ命を奪う」ことは日常ではない。さらに、生身の人間の精神心療にかかわる問題もあり、これは人類が先史来抱えている普遍的課題でもある。通常兵器においても難しいのに、核兵器となればなおさらのことであろう。

 だから、表現には多少問題があるのだが、核兵器は使えるが使うのが難しいといえる。しかし、難しいといいながら、いとも簡単にボタンが押されると思う。もちろん、人さまざまであるからケースは多様で、当然のこととして定番はないといえる。

 ということで、たとえ戦術核であっても核は核であり、その「まさに使用せん」とするもっとも尖った局面をリアルに再現することは大変難しいが、任務遂行者は現実事象に遭遇するわけなので、人によっては激しい自己嫌悪あるいは罪悪感などによる心的外傷後ストレス傷害(PTSD)に苦しむであろう。当該者だけの、この場合兵士だけの症状と考えている向きも多いと思うが、核兵器については多くの国民が心を痛めることになるのではないか。また、「やむを得ない」ことであったと説明しても、たとえば愛国心が核兵器使用というおぞましい行為を包み込んでくれるのか、という問いには国民感情としてはおそらく分裂的になるのではないかと筆者は予想している。

 もちろん、核兵器も兵器であるから、核兵器だけを特別なたとえば悪魔の兵器といい募ることは、ある意味合理性を欠くともいえるのであるが、さりとて通常兵器との垣根をなくすことが倫理的に、また感情的にたやすく受け入れられるとも思えないのである。とくに、被爆国であるわが国の心象にはそういう傾向が強く、それはそれで当然のことであり、さらに健全であるともいえるかもしれない。

為政者は核兵器を完全掌握できていると勘違いしている

◇ ということから、戦術核の使用にいたる蓋然性が高くなればなるほど、為政者の思惑を超える形で、思わぬ波紋が生じるのではないかと、多少期待しながら案じているのである。たしかに、今の時点でどのような波紋が起こるとか起らないとか、手がかりもないので全くのところいいようがないのであるが、ことほどさように、戦術核であってもその使用はさまざまな波紋を引き起こし、当該国の政治そのものに重大な変容を強いるのではないか、さらに権力の異動だけに収まらない「何か重大なこと」が起こるのではないか、たとえばロシアの権力体制が崩壊するといった、そういうことも想い浮かぶのである。

 まあ確かなことは、戦術核の使用により引きおこされる事象(凄惨な被害)についての責任だけはまず明確にしなければならないであろう。

「核共有」といえどもボタンを押せば無差別大量殺戮ではないか

◇ そこで、戦術核を使うことの物理的影響のみならず倫理的、社会的さらに政治的マイナス影響が危惧される中で、どういう「核共有」を想定しての議論なのか、筆者には知る由もないし知るつもりもないが、確実にいえることは、核実験ではないリアルな核使用を想定しての議論でなければならないということである。

 核使用により凄惨な被害が生じることが確実である状況にあって、使用を決断し、ボタンを押すという一連のルーチンをだれが担うのであろうか。筆者にはとてつもない大問題であると思われるうえに、そんなことが簡単にできることなのかと強く疑うのである。

 共有される核そのものは核抑止としての機能を期待されているのであろうが、ある事情があって使えない可能性がすこぶる高いとなれば、抑止力はいちじるしく低減することになる。使えないのであるなら配置する意味はない上に、配置していることを理由に攻撃される恐れがある。先方にとっての「敵基地攻撃」論である。そこで「ある事情」とは何であるのか、おそらく笑止と思われるだろうが、筆者の指摘はボタンを押す人がいないという、奇しくはあるが常識的な事情なのである。

 ここでは、天文学的褒賞をもって誘導するといった珍案の類を議論しているのではない。人がなしうる行為なのかと問うているのである。侵入する戦闘機を迎撃するのではない、大量殺戮、無差別殺人になる蓋然性がきわめて高い核兵器の使用を問うているのである。これは世にいう未必の故意ではないのか。こういった問いかけに耐えうる無表情の人格を筆者は想定できない。

 まさか「本人がケロッとしているならそれでいいではないか」といった議論にすり替え矮小化する「お馬鹿な」ことにはならないと思うが、私たちは大量殺戮、無差別殺人を背負うことはできないのではないか。それらは専守防衛・必要最小限原理とは相容れないものである。「核共有」といえども、ボタンを押せば無差別大量殺戮が引きおこされるのである。

軍がもつ本質的課題に真剣に向きあっていない者は「核保有」を語るな

◇ ここに軍がもつ本質的課題がある。それは、通常兵器においても当然「敵」を規定しなければ任務ははたせないし、「敵」の攻撃意思と手段を取り除くためには高い確率で殺傷することになる。そういう世界なのである。だから、専守防衛にあっても必要最低限と規定するのは、防衛といえども結果として「殺人」行為であることから、内閣総理大臣の命令によってその行為を犯した将兵を顕彰をもって救わなければならないし、侵略者(敵)とはいえ死傷者をだしたことを遺憾とする建前が要るのである。 

 この「当事者」が背負うたとえば罪の意識を消し、さらに正当化することができるための要件とはなんであるのか。軍備も大事であるが、人びとが納得できる理由こそがさらに重要なのである。つまり正当な国家の命令だけではなく、大義なり名分がなければ将兵は納得できないであろう。動かない、動けないのである。歴史的に多くの犠牲の上に成りたっているわが国の民主制とはそういうことなのである。今なお、わが国の民主制を信じることのできない民主主義者がいて、自国の軍(組織)を信じることをかたくなに拒む主張をしているのであるが、皮肉にもその主張は軍(組織)がもつ平衡感覚によって裏切られていると思う。

「戦争犯罪を防止しながら、効率よく敵をせん滅する」ことを実践する困難

◇ 軍がもつ他の本質的な課題といえるのが、今回もウクライナで予想以上に多発している戦争犯罪である。非戦闘員である住民の殺害を正当化できる論理はどこにもない。しかし、残念ながら必然ともいえる程の確率で発生する戦争犯罪を21世紀に生きる人類は看過できないし、また許すこともないと思われる。戦争犯罪を犯す軍は罰せられなければならない、という規範がより厳格化される方向で国際世論は動くと思われる。戦争犯罪は軍隊にとっての敗北である。といった圧力はまだロシアに届いていないのか、おそらく同盟国でさえ弁護を拒むと思われる醜悪な戦争犯罪が明確に立証されれば、それはプーチンの敗北であり、ロシアの恥辱である。鈍感すぎる、ということはもはや政治家がいないということであろう。 

 今は20世紀ではなく21世紀なのである。21世紀という時代がつくる正義の力は国際世論が支えるもので、局面によっては破壊的になるかもしれない。この点でいえば、プーチンは20世紀に生きているのかもしれない。

心的後遺症が国を滅ぼすかもしれない

◇ 戦争時に悲惨な体験をした者が、後日強いストレス状態に陥りひどく苦しむといわれている。さらに戦争犯罪を犯した者にも同様の傾向がみられるという。心的外傷後ストレス障害である。刑法を適用せず、国家が顕彰することは簡単であっても、心的後遺症を消しさることは難しいのである。

 大義をみいだせない戦争では、命令する国家と不服従という罪に問われる個人とが、猛烈に対峙しあう領域が拡大し、常態化していくのであろう。つまり国家が作りあげた、結果的に個人の魂を砕く仕組み(軍)に人びとが耐えられるのかという、ある意味普遍性を有する問題領域に対し、「核共有」と騒ぐ人たちが真摯に向きあっているのか、また向き合ったとしても課題解決に成功するのかなど悩むべきことは多いのである。

 こういった深刻な課題は核を導入することによってさらに困難なものになっていくのである。核兵器の使用は不正義である。とくにわが国においては絶対不正義であると考えることが常識である。そういう社会において、絶対正義である核不使用という置石を、「核共有」とそれに付随して発生する「核使用」がどのような理屈だてで動かしえるのかと問われれば、筆者は非常に困難であると答えるであろう。つまり、核使用はこの国の人びとにとって、とてつもない大きな心の傷を与えると思われるのである。その傷の深さと影響については正直分かっていないのである。それが分からないのに、正当化など不可能というべきではないだろうか。防衛の正義についてしっかりと議論し、その意味を国全体で共有してこそ防衛の実が上がるといえるのではないか。 

 さらに飛躍するが、人びとの心の傷が原因となり国家をも滅亡させるといった近未来小説のようなことは起こらないといいきることはできない。当然、必ず起きるともいいきれないが。

 ということから、筆者には似つかわしくない情緒的な理由からも、「核共有」あるいは便宜的な核保有は、今日状況においてはわが国にとって一利もない有害な政策であるといえる。であるのに、「議論だけでも」と騒ぐのは、平たくいえば夜討ち朝駆け的な悪のりなのか、あるいは現政権への圧力としての嫌がらせなのか、たぶん両方でありさらに与党内のちょっとした摩擦ではないかと、苦々しく推察している。これが国内的な解釈である。

77年ぶりの核使用をめぐり内心の動揺を隠せない国際社会の現状

◇ さて、国際場裏での解釈であるが、つまり戦術核であっても核兵器に変わりがないのであるから、使われれば歴史的には77年ぶりの核兵器の使用と刻印され、さらに人類の再度の愚挙として永遠に語りつがれることは間違いないのである。しかし77年前の使用については、むしろ試用であったのかも知れないが、消せるものなら消したいと思う米国人も多いのではなかろうか。そういう問題であり、77年ぶりの使用があるとするなら、それは先ほど述べた人類の愚挙としてではなく、具体事例としてプーチンの、あるいはロシア人の人類に対する犯罪として長く刻まれることは確実であると、いい変えるべきであろう。この点にかぎれば、人類はプーチンにもロシア人にも連帯できないし、しないであろう。

 また、使われた時の被害を想像すれば慄然とならざるをえないうえに、恐怖や憤怒にくわえ報復の炎が燃え上がるであろう。しかし、同規模の核による報復にはならないと筆者は考えている。核兵器は、先制使用した側をどういう経路をたどってもかならず敗北させなければならない、そうでなければ地球を守れないのである。 

 さらに、核に対し核を使用することは将来の核抑止を支える意義があるかもしれないが、核使用がもつ本質的な罪深さをいささかも軽減しえないのであって、むしろ報復連鎖を引きおこすかもしれないことから、さらに一段と厳しく断罪されるべきかもしれない。つまり、どう考えても下策である。また、核に対し核を使用するとしても、それで終了する確証はないのであるから、確証がない以上2段目の使用に踏み切らざるをえない状態、すなわち抑止失敗によるエスカレーションにいたる可能性が高いといえる。これは最悪の事態の典型であって、文脈上の表現でいえば瞬時に数千万人を、また数年を経ずして数億人を被爆後遺症、被曝症、飢餓、疾病、暴動などにより失うことになるかもしれない。

 したがって、この場合の最適対応は、核以外の手段を総動員し先制使用国に襲いかかることに尽きるといえる。「核には核」といった報復使用が選択されるべきではないと考えるのが正当であるが、人は集団においても個人においても不完全なものであるから、間違った選択の可能性がゼロとは断言できないのである。戦後の始末、つまり国際社会の秩序のあり方、すなわち正義あるいは倫理を考えれば、使わなかった者こそが勝利者であり指導権をえるのであるから、核使用によって得られるものはなく、失うものばかりである。これは、常識的かつ穏当な考え方であろう。

保有国が陥る核の罠

◇ さて、もしロシアが核兵器使用の二国目になるなら、最初に使用した米国はどういう感慨を持つであろうか。いままでの、対日戦における戦争早期終結のためとか犠牲最小化のためといった「いいわけ」があらめて俎上に上げられるかもしれない。足早に過ぎさった過去が突然よみがえってくる。ロシアから「お前が先に使ったから、真似しただけだ」といわれて平静を保てるのか、という問題もあるだろう。考えれば考えるほどに使えない兵器なのであるが、状況によってはどこかで使わざるをえないかもしれない、米国としては。なぜなら、そのようなばくぜんとした期待を周囲に与えてきたからである。ロシアも、戦術核使用を否定していない。強がりのプーチンは皮肉なことに自分の言葉に支配されているのである。全部過去の言葉であるのに。保有国が陥る核の罠とでも表現すべき葛藤地獄から逃れることができるのか、筆者は先制不使用を宣言し厳守することでしか保有国とくにロシアは救われないと考えているのであるが、どうなるかは分からない。

 ともかく、兵器としての核は内部矛盾を抱えているのであるが、今回期せずしてその問題があらわになったと思う。簡単に廃絶できるとは思わないし、廃絶することのリスクも解明されなければならない。おそらく廃絶のためには確実な平和体制の樹立が必須であろう。人類が賢いのか馬鹿なのか近々に明らかになると思われるが、どちらでもないと答えるのが利口なのかもしれない。とはいっても、兵器としての核はできるかぎり遠ざけるのが賢明であると考えれば、「核共有」など要らぬものの筆頭ではないかというのが雑考の結論ではないか。(文中の敬称は略す)

◇ 敵基地反撃能力については、次回にまわします。

◇さつき風潮を訪ねる鷺一羽

  

加藤敏幸