遅牛早牛

時事雑考「敵基地攻撃能力を議論する意味と、議論しない立場について」

◇ たとえば、専守防衛だからとか、また必要最小限でなければならないからといってみても、目的(防衛)が達成できないとなれば、「防衛組織の存在価値がない」ということになるのだから、これらの二つの制約についてはつねに議論の対象にならざるをえない。としても、議論の必要性でさえ意見が大きく分かれていることから、あれもこれも同時に議論すると話がもつれ放題になってしまいそうで、多少政治が気になる一般人としては敬遠気味にならざるをえないのではないか。

 そこで、前提として確認しておきたいのは、国の防衛については状況に応じたさまざまなステージがあり、防衛の議論はそのステージに応じたものでなければ結局役にはたたないということである。くわえて、その状況というのは主に周辺国が手前勝手に作りだしていると思っているから、わが国としてはどうしても受け身にならざるをえない。ということで不安や歯がゆさを覚えることになるのであろう。また、この受け身という立場は努力して変えられるものではないということも共有されているようである。

もし、複数の都市が弾道弾(ミサイル)攻撃を受けたとしたら

◇ さて議論のとりかかりとして、たとえば極端ではあるが、複数の都市がいきなり多数の弾道弾による攻撃を受け、都市機能の大半を失うといった状況になった場合には、その直後からの防衛のあり方をただちに確定する必要があるのだが、その場合において「弾道弾の発射基地」への反撃に対し、異を唱える人びとがどの程度いるのかということが政治的には重要課題になると思われる。そこで、このステージでは、さらなる弾道弾による被害の防止が喫緊の課題になることから、おそらく国民の多くは、まさに正当防衛として「敵基地攻撃」を程度の差はあるとしても容認すると思われる。これは個別的自衛権の問題である。

 すなわち、先制攻撃を受けた後の「敵基地攻撃」は正当であり、そのための攻撃能力は必要である、という結論がもっとも妥当であると思われる。この場合の妥当であるとの意味は、大多数の国民の同意と国際理解が得られる可能性がきわめて高いということである。であれば、条件を限定し事前に細目を決めておけば、事態への対処において遺漏を防ぐことができる。これが、本件を議論することの必要性である。であれば、これらの議論をしたくない立場とはどのようなものであろうか。今回は直接的に論じる気はないが、それでも鮮やかにに浮かんでくると思われる。

攻撃を受けても、憲法の平和主義を貫けるのか

◇ そこで、わが国では憲法の平和主義の解釈において、たとえば憲法9条をめぐり歴史的対立をくりかえしてきたことから、先制攻撃を受けたという状況にあっても、憲法9条をテコに「弾道弾の発射基地」への攻撃に反対する立場が存在しうることから、事前に議論をこなしておくことは民主的過程を尊重する立場からも重要であると思われる。しかし、意見があっても政治的に活性化するかについては疑問が残る。というのも、強烈な同調圧力が働くなかでそれらに抗い、水を差すような所論を展開するのはそうとうに困難であると思われるので、政治的にありうるのかと問われれば、ほとんど表にはでてこないと筆者は考えている。

 たしかに、悲惨かつ甚大な被害を目の当たりにすれば、ほとんどの国民は激高する感情を抑えきれないだろうし、被害者がでれば気持ちとして報復感情が生じるであろう、といった雰囲気の中にあって、あえて反撃に反対する立場を堂々と主張する人たちが仮にいたとすれば、それはそれで思想信条の自由が守られているという観点からも、むしろ意義深いことであると思うのであるが、わが国の社会とくに言論空間にそういった素地が残っているとはとても思えない、良い悪いではなく、現実的には情動が先行するということではないだろうか。

 といった、反撃についてあれこれと議論をしているうちに、第二段の弾道弾攻撃を他の都市が受けたとすれば、おそらく多くの人は、なぜ「弾道弾の発射基地」を攻撃しておかなかったのかと政府を厳しく糾弾すると思われる。さらに、列島規模での倒閣運動がわきおこるかもしれないと、別の心配も生じると思われる。

 ここで歴史的視点からいえば、すべからく国論は状況の関数であり、また状況次第で猫の目のように素早く変わりうるものであるといえる。とくに、国防にかかわる議論にはその傾向が強く、憲法の平和主義はなるほど崇高ではあるが、有事勃発においても国民から強く支持されるものであるのかと問われれば、筆者は「確信できない」と正直に答えたい。さらに、一歩踏みだしむしろ懐疑的でさえあるともいいたい。(だから、憲法というものは重心が低く、大きな慣性を持っていなければ、コロコロと転がされてしまうのである。また、弾道弾攻撃を受けた後にいわゆる護憲運動が生き残れるのか、左派グループとして問われるものがあると思う。)

平時と有事とでは、国民の対応が違ってくるかも(状況主義的)

◇ ここで状況次第というのは、外部から攻撃を受け被害をこうむることが、ナショナリズムを高揚させるもっとも簡単で効果的な方法であることがよく知られており、そのことについてとくにわが国だけが冷静でいられるとはいいきれないからである。おそらく国民は普通に激高するであろうし、その時点ではたぶん平和主義については思慮の外になっているかもしれない。

 少し外れるが、憲法の重要な柱である平和主義が70年を超えるその歴史の中で、いささかもストレスチェックなるものを受けていないことから、状況によって国民の意識が大きく変わることへの耐性力についてほとんど検証ができていないのである。だから、おそらく有事と平時とでは平和主義に対する国民の捉え方が大きく変わりうるという事態が、つまり心の準備のできていない者にはとても信じがたい予想外の事態が生じることを、管見ではあるがあらかじめ提起しておく必要があると思っている。

◇ ということで、状況によってもたらされる「安全保障上のステージ」によって議論が大きく変わることを踏まえるならば、さきほど例示したのは先制攻撃を受け甚大な被害をこうむった場合であり、これは有事ではあるが国家存続の危機にまではいたっていないステージといえる。状況がさらに悪化し、国家存続が危殆に瀕するステージにいたった場合の議論はどうなるのであろうか。また、そのような緊急事態ともいえるステージにおいては、どのような仕組みが必要であるのか、といった緊急事態下で民主制を尊重しながら国家意思を貫徹していく政治論の重要性が浮上すると思われる。さきほど憲法の平和主義がストレステストを受けていないと述べたが、それ以上に行政、議会、司法という国の基本機構そのものが存続の危機といった強烈なストレスには遭遇していない、つまり経験不足といえる。だからどうだこうだという議論を起したいわけではない。むしろ静かにそういう現実を受けとめておくべきではないかということである。

 理屈ではなく、強烈なストレスに遭遇した(普通名詞としての)国民は思いがけない行動あるいは選択をすることがあるということも、一連の議論にあっては重要なことだと思う。ということから、「敵基地攻撃能力」についての議論をどちらかといえば避けている、議論をしたくない立場というものがあるとすれば、それはわが国への侵攻はないとする昔物語の系譜を受け継ぐものではなかろうかと思うのである。それらの立場は今日きわめて不利な状況にあるといえる。(やや後付けではあるが、2015年安保法制への対決姿勢が、情勢を吟味したうえでの判断ではなく、2016年国政選挙をにらんだ野党選挙協力をめざす党内政治を優先したことによるものではなかったかという疑問をもちながら、この時点での外交安保へのゆらぎがその後の党勢に影響を与えたように思えてならないのである。)

平時に有事を語る難しさ

◇ さて、本日2022年6月6日はどんなステージなのか。おそらく有事に対しては平時というべきで、緊張感こそ高まっているものの、有事につながる事象は見いだせない、いわゆる無事な時間の経過に身をまかせている状態といえるであろう。では、平時において有事を語る意義をどこに見いだせばいいのであろうか。その事例としてたとえば5月31日、自民党佐藤正久外交部会長がウクライナ情勢にかかわる会合で、「ロシアによるウクライナ侵略や中国、北朝鮮など、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを踏まえ、日本は「『国破れて山河あり』ではだめだし、国破れて憲法9条だけが残っても意味がない」として、時代に即した防衛力を整備することが必要だと強調した。」と伝えられている。また、「このことから日本は、中国、ロシア、北朝鮮の3正面同時対処の備えを今からやらないといけない」とも語っている。(FNNプライムオンライン2022/05/31 10:34)これは平時における有事への備えを説いているのであろう。

◇ 有名な杜甫の『春望』を引いての発言で、おそらく耳目を引く工夫をしていると思われる。ところで「3正面同時対処」の必要性と対処の要件について自民党内では、どのような議論がなされているのであろうか、だれしも気になるところであろう。とくに「3正面」それぞれとの関係は日中、日ロ、日朝という個別外交関係として対処されてきたもので、その任に当たっていたのは自民党政権であったのに、その自民党の内部であたかも「三国同盟が成立し、わが国の安全を脅かすがごとき」議論がおこなわれているということなのか。決してそこまでの文脈ではないと判断しているのだが、印象、連想をともなうことから、そういう受け止めが起こりうると思う。ここらあたりに平時に有事を語ることの難しさがあるのではないだろうか。

 冷静に考えれば、これらの三か国との外交関係における、今までの経過と蓄積を考えれば、突然「3正面」と注意を喚起されても市井の国民としては困るわけで、発する言葉がないとしかいいようがないではないか。また、莫大な外交資源を費やした結果が「3正面」という仮想敵的存在を膨らませただけであるなら、なんともいえない空しさをも感じるもので、この十年間の中ロ朝に韓をくわえた近隣国との関係の現状をみるに、あらためて近隣外交の難しさを感じるのである。はたして近隣国との外交は成功したのであろうか。うまくいかなかったから、気分は嫌中、嫌ロ、嫌朝、嫌韓なのか、何ともいえない無責任な風が吹きはじめているのではないかと憂慮している。

 おそらく「3正面同時対処」のための防衛費は膨大であろう。油断あるいは敵を侮ったために「国が敗れる」こともあれば、膨大な軍備によって人心を失い「国が破れる」こともある。

憲法9条だけが問題なのではないのだが

◇ また、「国破れて憲法9条だけが残っても意味がない」と聞かされるとそれもそうだと思えるのであるが、思えば不思議なフレーズである。100歩譲って憲法9条だけでは国は守れないとの意味であるなら、今日憲法9条だけで国を守れると考えている国民は極めて少ないのではないか。

 わが国の防衛が、固有の自衛力と日米同盟を基本にしていることは、国民の過半を超えて理解されている。また70年を超える国会での議論の蓄積と、政府による憲法解釈からいっても、さらに年々の防衛費の支出を国民が許容していることを考えても、「国破れて憲法9条だけが...」との発言は、今日的には心に響かないのではないか。冒頭の国破れてを、国敗れての意に捉えての引用だと思うが、国が敗れないようにすなわち有事を回避するために、また紛争の収拾をはかる外交努力が大切であると思いながら、発言の意図が予算不足を嘆じるためなのか、憲法の平和主義を疎んじるためなのか、よく分からないといえる。

 問題意識には気分的に理解できるところがあるものの、憲法9条を解釈によって現実化し、実効性のある安全保障体制を与野党ともに苦労しながら確立してきたつもりであり、また憲法の平和主義をなんとか活かし支えてきたつもりであるが、まさか揶揄的表現の対象になるとは夢にも思わなかった。憲法条文の改正をいいたいのであれば、そのように直球で提起すべきであろう。

 そこで気になるのは、「国破れて憲法9条だけが残っても意味がない」との表現には「憲法9条のために国が敗れることになってはならない」(ゴチック体は筆者)という意を修辞的にもつことである。修辞的というのは、文の構造上、国の存亡と憲法9条だけを対比させて因果関係を表現すれば、そのような解釈がにじみ出るということで、少し憲法9条を過大視していませんか、あるいは憲法9条イジメかな、と思う。もはや憲法9条に責任を負わせる時代ではないと思うが。(時代は変わっているのだ。)

 また、敵を減らすのが外交だと思っていたが、自民党の今様はそうでもないようで、理解よりも離反を優先しているのか、中ロ朝をわざわざ敵国扱いしなくともいいのではないか。嫌中、嫌ロ、嫌朝が仕事ではあるまいに。まあ、国民の平和意識を過小評価していると状況は難しくなっていくのではないかと思う。

◇ 余分なことだが、バイデン大統領の台湾に関する曖昧戦略についての記者質問への回答に対し、「よい『失言』」あるいは「最高の『失言』」とのコメントが流れていたが、思いきった発言である。まず失言と断定できるところがすごいし、その失言を最高と評価できるところが、さらにすごいではないか。もちろん、バイデン発言は重要な意味をふくんでおり、わが国へも大きくかかわってくるもので、抑止効果としてプラスなのかマイナスなのか、きわどいといえよう。プラスであれば立派な成果といえるが、マイナスとなった場合、わが国も渦中に引きこまれるわけで、そうなれば立場の違う人々からは「巻きこまれ」事案として強烈な非難を受けることは確実であろう。プラス効果を期待したい。

 ところで、台湾有事は日本有事といった警告対応は、外交的効果を狙ってのことと思うが、短絡印象が強く国内の中道的立場からは持続可能ではないと受けとめられるであろう。決めつけることがもたらす災厄を思えば、軽々に発言はできないと思う。どんな事態がもたらされるのかが見とおせない中で、状況に応じて国民の意識が変わることを踏まえれば、現在のステージでは国民の意識が防衛力強化に傾いていても、さらに切迫感が強まると緊張緩和に傾く可能性も低くはない、むしろ高いと筆者は考えている。

 そうなると国政選挙では、自民党離れの可能性があるかもしれない。一般論として、国民の命と生活にかかわる事柄については慎重にといわざるをえない。ということから、とくに安全保障については、自民党内の勇み足が気になるところであり、やりすぎれば野党における左派グループに光があたるかもしれない、もちろん可能性は低いと思うが。

先制攻撃をうけた場合、政府機能の維持と国民の信頼の確保が重要

◇ さて、わが国が弾道弾の先制攻撃を受けたとして、それへの対応(敵基地攻撃など)をめぐり国論が分裂し、たとえば倒閣運動などが列島を覆うことになれば、実質的には政府機能の低下喪失に向かうわけで、いわば未曽有の混乱に遭遇することになる。また、こういった混乱こそが当面の攻撃国の望むところではないかと思われる。だから、有事への対処とはまず政府機能の維持と政府に対する国民の信頼の確保が第一であるし、それは国の独立存続の要件ともいえる。と述べれば多くの人は首肯すると思うが、政府機構の維持には多くの国民の犠牲がともなうわけで、そのうえで国民の信頼を確保するというのは、そうとうの難題であろう。有事とは犠牲と被害が不可避であることを意味するもので、それに国民が耐えていかなければならないのである。

自国の防衛力を縛り上げることが左派の正義であった時代

◇ そこで議論を一歩すすめて、必要最小限の自衛力とはいってみても、結果において政府機能を維持し政府への国民の信頼を確保しつづけることができるレベル以上の自衛力でなければならない。ということは、ここでは「レベル以上」と表現しなければ目的を達成することができないと考えるのであるが、必要最小限と表現されてしまうと、「レベル以下」のニュアンスが前面にでてくることから、議論の流れが逸れて、本来の防衛目的を是が非でも達成しなければならないという意思をも希釈するのではないか。つまり、「レベル以下」の水準にとどめることにくわえ、同時に防衛意思をも希釈する方向で、今までも左派グループにおいては理論構成されてきたのであろうが、それが表舞台においても同じニュアンスで、必要最小限という言葉に筋肉弛緩剤的意味が注入されてきたと筆者は理解している。 

 ここは推測記述が中心となっていて申しわけない気がするのであるが、見方を変えて非武装中立をあるべき姿とするグループとしては、権力サイドの悪しき意図を徹底的に粉砕することが正義であるから、国会においても自国の防衛力の骨を抜くがごとき、揚げ足取りの細部各論が展開され、結果として防衛組織を何重にも縛っていくという、世界でも珍しい様相が展開されていったのである。 

 自国の防衛力を弱体化するグループが国会で議席を維持できる国は限られるであろう。もちろん、憲法を素直に読めば感覚的には非武装中立をイメージするだろうし、それはそれで否定されるものではないが、戦後の長くまた困難な議論(決して効率の良いものではなかったが)の結果、ようやくたどり着いた現在の安全保障体制に対し、今でも何かしら割り引くことが平和を守るグループの成果とされているように感じられる。しかし、事態は急速に変化しているなかで、国民の意識は有事への警戒と周辺国の軍事的圧迫への反感を強めている過程にあることから、国民の気持ちが防衛力強化の方向に動くことは自然といえる。したがって、歴史的に防衛力の引き算に注力してきた政党が徐々に支持を失っていくことも避けられないであろう。風向きが大きく変わったということである。最近の主要野党の退潮が国民の安全保障意識の変化をしっかりと捉えられていなかったところにあると考えられる。

 さて、有事で国家存続に赤ランプが点灯するようなステージにおいては、防衛力を必要最小限とする議論は、攻撃側にとって大変都合の良いものといえる。ということであれば、必要最小限という制約は必要かつ十分という趣旨に変更すべきであろう。  

 また、自衛力あるいは防衛力の必要最小限とは相手があってのことなので、もともと相対的に決せられるものであるから、周辺国の侵攻能力によってその中身が論じられることになる。つまり基本はあくまで相対基準である。

有事では国民の信頼が一番大事である

◇ 余談ではあるが、有事に向けてあれこれと考えるのが与党の役割であるが、有事において国民の信頼をえることを考えれば、日ごろの各党の政治姿勢についても一考願いたいものである。汚職で有罪判決を受けるなど論外であるし、時の総理大臣が国会答弁で百回以上ウソをつき通したことを批判・譴責できない主要政党の憲政逸脱状況を改めないかぎり、せっかくの議論が台なしになるのではないか、というのも有事の議論にはなにがしかの国民の犠牲を残念ながら前提にしたところがあることから、そういった厳しいものを国民に求める以上は過去の醜聞についてもけじめをつけるべきではないか、ということである。

 同時に、野党においても有事への対処にあたって、野党としての視点を活かすなど、参画する意義も義務もあることから、ここは積極参加を期待したい。とくに、むずかるような態度は避けたほうがいいのではないかと、これも例の心配心からではあるが。

有事への備えは一筋縄ではいかぬ

◇ 現に攻撃を受けた、また現に被害が発生した事態における「敵基地攻撃」は優れて自衛的措置であり、さらなる被害の発生を予防するためにも、主権国家として当然の義務であると考えられる。これこそ「座して自滅を待つ」べきとする論など地上にはないと考えるが、残念ながら憲法9条を特別に重視する人びとがふりまいた気分の中に、完全非武装中立といった過剰な情緒主義と思えるものがあったことは事実である。さらに今なお野党の中には、「座して自滅しても仕方がない」としなければ論理が完結しない主張を、入り口の耳あたりの良いところだけを選んで喧伝している実態もあり、それが攻撃側の意図と共鳴することにより、国内においては敵対的に、国外においては協調的な姿勢であると受け取られる危険があるといえる。機微に触れるところであるが、ことほどさように、有事への備えには一筋縄ではいかないところがあると思われる。

 

攻撃される前に、予防措置として攻撃する専制的自衛は異なるもの

◇ そこで紛らわしいのが、厳格に定められた条件を満たせばわが国への攻撃の蓋然性(確かさ、可能性)が極めて高いと判定し、そのうえで特定の敵基地を予防的に攻撃することを可能にすることで抑止力の強化をはかる「先制的自衛」というもので、さきほどの第二段以降の攻撃を防止するための「敵基地攻撃」とは次元を異にするもので、わが国は武力攻撃の発生(着手)を自衛権行使の条件としているため、発動できないとしている。

 この先制的自衛が、自衛措置としての正当性をもちうるかどうかについては国際法上もさまざまな意見があり、わが国としてはこれからの議論といえるが、一般的に正当性について事前(攻撃前)に立証することは難しいといえる。また、事後においての立証も、証拠保全が困難で検証そのものが不確実であることから、立証責任を有する自衛側としては、強力な情報機関を配置していても、立証はおぼつかないと思われる。

 ということで、自民党内でどういう議論が予定されているのかもふくめ、くわしいことは分からないうえに疑問点も多いのが現状のようである。ともかく、先制的自衛と類される予防攻撃は国民の受けとめ方や、判断に過誤があった場合の政治責任などを考えれば、利益よりも不利益のほうがはるかに大きいことから、選択肢の一つとしてテーブルに置くとしても、採用することは稀(まれ)と考えるべきであろう。ただし、だからといって予防的敵基地攻撃(先制的自衛)の破棄を宣言するかどうかは、安全保障環境の実態や周辺国の弾道弾システムのレベルにそった個別関係や抑止力の状況を勘案しながら総合的に判断すべきものではないかと思う。もともと抑止力を念頭においた戦術からきているものでテーブルに載っていることに意味があるともいえるわけで、取り扱いをあいまいにすることを否定する必要はないのではないか。ただし、専守防衛とはすこぶる相性が悪いことは間違いなさそうである。

能力は保持すべきという結論は変わらない 

◇ さて、「敵基地攻撃能力」と表されているように能力の有無についての議論であれば、結論は「能力は保持すべし」ということになるであろう。理由は、急に「敵基地攻撃」が必要になったにもかかわらず、その能力を保持できていなければ、いわゆる「座して自滅をまつ」という、もっとも惨めな事態にいたるわけで、弾道弾による攻撃を受けた後の対応は、個別的自衛権の行使の範疇であるから、近隣に弾道弾をやたら発射している国が存在する以上、対抗的に攻撃能力を保持することで抑止効果を期待するのは当然の流れであろう。

 ところで、いわゆる日米の役割分担を「自衛隊は盾、米軍は矛」とする論は、軍事力が周辺国に対し優位性を保っているときの対応策というべきもので、今日のように局部的あるいは武器種によっては先方優位といえる状況にあって、そういった旧態のままの分担が機能するのかといった疑問もあると思われる。 

 さらに、状況が千変万化するなかで、反撃は矛としての米国に依存するとしても、100パーセント確実に実行できるかどうか、そこには微妙な判断があると思われる。つまり状況次第という側面が大きいのである。またわが国に弾道弾が打ちこまれること自体がゆゆしき情勢であるし、攻撃目標に米軍基地がふくまれているとすれば、核弾頭である可能性もあることから、当然共同して対応することになると思われるので、大綱としてまぎれる恐れは少ないと思うが、それでも個別的自衛権の行使として責任ある対応をするのが、主権国家の国民に対する責務であると思う。将来の抑止のためにも攻撃国に対し、明確に国家意思をつきつけることなくして、国の防衛は成り立たない。攻撃されても反撃することが時としてあいまいであるなら、それは国家としては端からの敗北主義であり、であるなら専守防衛に徹することの意味がどこにあるのか、国民に対する説得性を失うものといわざるをえない。というか、かならず倍返しあるいは3倍返しがあると思わせなければ抑止力にはならない。ただし、その時点での国民の考えがどうであるのかは、分からないのである。

「能力」と「意思」の問題である

◇ ということで、「敵基地攻撃」についての現状は、「能力」の保持とそれを行使する「意思」との関係が必ずしもうまく理解されてない中で、能力の保持にだけこだわり、それを禁忌する方向に偏っていたが、それは地面から浮き上がったものといわざるをえない。似た議論として「持つと使いたがる」という幼稚なものがあるが、持っているから使うのではない、必要があるから使うのである。必要がなければ使わない、同様に必要があっても持っていなければ使えないすなわち困った事態ということである。

 つまり、使う「意思」のあり方こそが重要であり、いいかえれば状況の把握、分析をはじめ意思決定のあり方や検証など総合的な執行管理が肝要であるといえる。もちろん「意思」は個人帰属のものではなく、国家、機関の執行手続きに沿ったものでなければならない。

 さて、「能力」と「意思」の関係であるが、「能力」がなければ「意思」のありようにかかわりなく実行できない、つまり「無力」である。「能力」があっても実行する「意思」がなければ実行しない、これは「抑止」である。さらに「能力」があって実行する「意思」があれば実行することになり、これは「決行」である。

 したがって、「抑止」があって「決行」があるという二段構造であること、またそれぞれが「意思」の所産であり、当然政治責任をともなうものであることが重要である。

 ここで政治責任であるが、たとえば「無力」であることについても、ステージに応じて政治責任が追及されることになるであろう。つまり、「無作為」の罪である。そこで、唯一「能力」も「意思」もない状況が許されるステージとして考えられるのは、平時でかつ緊張緩和時であるが、今日国民の認識において、有事への危機意識の高まりと近隣諸国からの軍事的圧迫の増大がリアルになっていることが、従来とはちがうステージを呼び込んでいると思われる。

 ということで、現実を捉えれば「能力」と「意思」を状況すなわちステージに合わせて整合させるべきであるというのが筆者の結論である。

 

専守防衛、必要最小限といえども周辺国との相対関係である

◇ 他方、専守防衛を基本として保有できる自衛力の規模あるいは能力についてであるが、まず周辺国との比較で判断されるものであるから、周辺国の軍事力が強化されれば当然わが国も強化する必要があるといえる。つまり、必要最小限とは相対基準にほかならないのである。そこで、わが国に対する侵攻を企てる国(侵攻国)が自らの軍事的優位性を確信することになれば、第一段階の抑止が崩れ、その時点でいえば防衛目的が達成されていないことになる。つまり、どうなるかは侵攻国側の意思次第ということになる。もちろん、軍事的優位性をもっているからといって侵攻がかならず成功するとはいえない。というのも軍事力の相対には軍事同盟関係が大きく寄与することから、対日比較で優位であっても日米安保体制の総力を考えれば方程式は違ってくるであろう。また、島嶼国家であるわが国への侵攻は、侵攻目的を廃棄せざるをえないほどに困難であって、揚陸のために投下した空母群をふくめた艦船の帰還率が話題になるほど成功率が低いと考えられる。また、もっとも重要な制空権を侵攻側が把握するにはどれほどの資源投下が必要であるのか、おそらく天文学的数字になるであろう。むしろ、次世代戦の実験としてなら可能性が生じると、空想的ではあるが筆者はそのように捉えている。(わが国を破壊することだけを目的とする、悪意にもとづく狂気の攻撃であるならまた話は別であるが、)

 ということから、専守防衛側とすれば互角かそれ以上の実力を保持していると思わせることが重要であるが、この場合の互角というのは、総力の比較ではなく、侵攻点ならびにその周辺の戦術領域での比較においての互角性が議論の中心になると思われる。

 筆者もふくめ一般人にとって、軍事衝突は正直いって遠い世界の話であったが、2月24日のロシアのウクライナ侵略は遠い欧州東部での出来事ではあるが、ポスト冷戦後の時代性なり、またわが国の隣国であるロシアによる侵略という身近な点などから、連想的にということなのか多くの茶の間報道において、わが国への侵略の可能性を示しながら、「集団的自衛権」「核共有」「防衛費増額」そして「敵基地攻撃」などの議論がにわかに活発化している。

 この茶の間談義の繁昌ぶりを筆者として揶揄する気は毛頭ないと断言したうえで、一言いっておきたいのはウクライナの情勢報道と、わが国への軍事侵攻の可能性およびそのシミュレーションとは微塵の関係もないということであり、これらをまぜこぜにした報道番組は大きな誤解を招きかねないということである。だから解説にまわっている専門家も内心不満に感じていると思われるが、今起こっていることと、この先のとても低い確率のことを並置した議論の展開はすこぶる危険であることを明示しながら解説しなければならないと考えているのだが、どうであろうか。

「集団的自衛権」は必要不可欠

◇ そこで、議論の整理であるが、まず「集団的自衛権」は現時点でいえば必要不可欠である。しかし、現在のような非対称性の強い保護国的立場からは脱却したものでなければ、いざというときにほころびが生じるリスクがかなりあると思われる。もちろん、沖縄を中心にわが国に配置された米軍基地は米国の安全保障戦略上きわめて価値の高いものであり、維持経費をふくめての提供は、軍事同盟の片務性を補って余りあるとの主張に相当の説得力があることは筆者も認めるものであるが、ほころびというのは次元の違うもの、要は理屈ではなく感情あるいは情動の問題なのである。すなわち、命と基地が等価交換可能であるという仮説は、有事勃発によって崩壊するであろうと考えている。国民の感情は戦死者の数とともに動くもので、有事にあっては有事の論理あるいは説得力が必要になるのである。幸いにもわが国はそういった強いストレスを経験せずに今日まで階梯を上ってきたが、同盟国の若者の命とわが国の基地とが等価であると、そんな理屈が通用すると本気で思っているのか。これはわが国自身の精神の問題であり、近く問題となるところであろう。70年を超え封じ込めてきたわが国の独立性を精神分野において問いかけ、超克すべき課題として提起される機会が、わが国周辺における有事勃発時なのである。

 少し話がそれてしまったが、ここでの議論の焦点は、わが国の立場から超長期的時間軸での日米同盟の基本枠組みの再定義である。ところが環境変化の要素が大きすぎて、なかなか新構想を現像し、さらに定着させることが難しいので、議論が進んでいないのが実情であると思われる。が、日米安保について賛成反対の素朴な討論状態は遠い過去のことで、今必要なのは、賛成としたうえでどのような同盟関係を作りあげていくかであろう。とくに日本側の積極的なウイルの表明が、わが国の独立とは何であるのかという問いかけへの回答として、強く求められてているように思われる。

「核共有」は必要なし

◇ つぎに「核共有」であるが前回述べたとおり「百害あって一利もない」ことから議論する必要はないと考えている。当面、米国の核の傘による抑止を洗練させるべきであろう。もし、米国による核抑止が失敗した場合、すなわち核先制攻撃をわが国が受けた場合については、それが飽和攻撃(迎撃力を超える攻撃)であれば深刻な被害を避けることはできない。だからといって核拡散防止体制をのりこえ単独保有をしたところで、避けられるとも思えない。つまり、得られるものは少なく、失うものの方がはるかに大きいという現実がまっているだけで、国家としては自暴自棄に近いといえる。問題は、甚大な被害が発生するという冷酷な現実が生じることである。この危険負担は今日的人類の共通課題であり、国連そのものが対応に苦労しているというよりも、残念ながら行き詰っているということであろう。

「防衛費増額」は必要であっても、民生予算を侵食する

◇ つぎに「防衛費増額」であるが、基本的な安全保障政策、あるいは防衛政策を踏み台に議論すべきことなのに、予算獲得ばかりに血眼になる動きを見ていると、かすかに1930年代の帝国軍部に似ているように思える。周辺の脅威を冷静な分析もなく風評的に膨らませ世論を形成するのはやりすぎのように思えるし、作り上げた世論にそのうち追いつめられるかもしれないとも心配するのであるが。

 ここは一部の野党の「はじめから額ありきではない」との主張の方が説得的であろう。衰退国家の超借金大国であり、さらに財政再建の糸口すら見いだせていない、ばらまき志向の政権にどのような工夫ができるというのか。汝自身を知れである。

 たとえば陸地設置のイージス・アショアはどうであったのか。着想の段階ですでに政治マターになっていたのではないか。国民の不安を掻き立ててとんでもなく高い買い物を、だれを喜ばすためにやるというのか。中道的国民目線でいえば基本政策を踏まえた防衛予算であるべきなのに、その安全保障基本政策の妥当性の判断がつかないところに大きな課題があるのではないかと思う。また国会議員にそういった知見があるようにも思えないところにも、大きな問題があるのであろうか。

 先ほどのニュースにあった「3正面同時対処」を本格的に準備するとしても、理論上ではわが国の防衛力を数段上げなければならなくなるのではないか。では、どの程度まで引きあげるのかといえば、侵攻国が侵攻をあきらめるほど(はたして侵攻を企てる国があるのかというそもそもの疑問は措くとしても)、と(侵攻国ではなくわが国の関係者である)自分たちが満足できなければ防衛目的を達成できない(と思い込んでいる)のだから、その水準は国民の想像以上に高いものでなければならないとなるのだろう。

 3正面と指された国はいずれも軍事大国、軍事強国でかつ核保有国である。3正面同時対処という文脈で受け止めるなら、正直いってGDP比2%でも足らないのではないか。さらに、不安は不安を呼ぶものだから、聞きようによっては際限のない防衛予算すなわち金額欄空白の要求を突き付けられている気分である。やや不快であるが、気を取り直して協力するとして、さてどんな協力ができるのだろうか。1兆円ほどの増額が毎年必要であるなら、どの予算項目から引っぺがしてくるのか。そんな議論が浮かびあがると、「外交なき防衛政策」「生活破壊の防衛予算」といった強烈な反撃にみまわれて大丈夫かしら、ということである。それと、前提となっている「3正面同時対処」の蓋然性が妥当であるのか、今一度説明が欲しいとも思う。なにも着眼に注文をつけているのではない、そういった提起は貴重であるし、話題になることにも意味があると思う。だから啓発的ではあるが、政治には作用反作用の原理があって、反作用にも啓発的であることを忘れてはならない。国の予算には限りがある。限りがあるから防衛予算は民生予算と競合しているのである。そこで、防衛費増額は民生予算を侵食することにならざるをえない。ただ侵食するだけでは許されないので、国の防衛についてのステージアップが必要になる。ここで実在としてのステージアップと願望としてのステージアップが混濁する事情が発生するのである。つまりフェイクが混じり込むのである。悪意で混じりこませるのではなく、国民のためというおぼろげな善意によるちょっとしたフェイクかもしれない。このちょっとしたフェイクをうまく選り分け捨てさることができるかどうかが国としての洗練性であって、野党の主たる役割だと筆者は考えている。

「敵基地攻撃能力」という議論の根っこは、劣位になったから

◇ 今日、「敵基地攻撃能力」という議論が浮上しているのは、北朝鮮の核保有と弾道弾(ミサイル)技術が格段に向上したからである。つまり、弾道弾すなわちミサイル攻撃に対し完全な防御が難しくなり、一言でいえば専守防衛の意味あいを変えなければというギリギリの瀬戸際に立っている、というのが実情である。軍事技術として劣位にあり、簡単には回復できないということである。多くの国民はわが国の工業力、技術力を過信しているように思える。実験、試験なくして兵器は完成しない。最後は輸入するしか手がないのである。

 さらに、中国の潜在的脅威が完全に顕在化した状況にあって、米国が対中国戦略を限りなく深めていることから、わが国をとりまく安全保障環境が経済をも巻きこみながら急速に悪化している中で、今般のロシアのウクライナ侵略により、結果的に中ロの接近がすすむのではないかと危惧されいる。中ロが軍事的に関係を強め、そこに北朝鮮が加担すれば、軍事バランス的にもわが国は苦しくなる。

 また、日ロには平和条約がなく、北方領土の実効支配がさらに強化されるとなると、軍事的対抗が強まり北方の緊張の高まりへの対応として資源配置も必要になると思われる。

 さらに、中台間の不気味な緊張が習近平体制の覇権主義の展開次第で火を噴く怖れが現実化している。

 このように、東アジアにおける緊張の高まりを受け、米国を中心とした各面での対抗策が講じられる中で、とりわけ日米韓間の連携の強化が求めれているが、日韓関係については新大統領による路線変更への期待の中、明るい兆しが感じられるものの、どこまでの改善ができうるのか未だ確信できない状況にある。といった日韓関係を横におき、新政権となった韓国が対中ロ朝の官房長官役を引き受けることもありうると思われる。これは韓国を確実に身内化するために、米国として要の役割を与える可能性が高いと筆者は考えているが、確定的ではない。分かりやすくいえば、米国が会長、日本が事務局長、韓国が幹事という相場観がわが国政界の認識だとすれば、米国の会長は変わらず、韓国が事務局長、日本は副会長ということで、位関係は変えずに役割を大きく変えるのではないか、というのが筆者の見立てである。その理由は、日米韓の三角同盟は韓国の国論がまとまることが最重要であり、そのためには韓国民のプライドに働きかけるのが上策と米国が考えるのではないかということである。

 その点、わが国は古色蒼然、過去の栄光にしがみついて、気位が高いから安定的ではあるが、新しい提案ができない国であると、経済をみても30年もの停滞は本物の衰退国家ではないかというのが、残念ではあるが世界の評価であろう。さらに経済だけでなく政治力も周辺国との外交では前進よりも後退が多いのではないか、環境の難しさはともかく結果からいえば、日本の近隣外交には見るべきものはないというのが世界の相場観のようである。辛辣ではあるが正鵠を得ている、と思う。

 という現実を直視するなら、この30年にわたる国家経営の素顔があらわになるのであるが、その多くは政治が背負うべきもので、人口問題一つをとっても真剣に取り組もうとしない、与野党ともに目先の選挙にだけしか関心を持たない、つまり民主政治の失敗例とみられているのかもしれない。問題が防衛分野に限られているわけではないといえる。

先制的自衛は止めたがいい、悲惨を呼び込むだけである

 「敵基地攻撃能力」を武力攻撃を受けた後の対応にかぎれば個別的自衛権として外枠は決着済みと考えているので、後は「能力」の整備と「意思」の問題である。そこで問題は、攻撃される前に撃つという先制的自衛であるが、やるかもしれないと思わせるのはいいが、やってしまえば全面戦争、核戦争になる可能性が高いことから、何れにしても止めたほうがいいということである。

 にもかかわらず、筆者にいわせればそのような陳腐なテーマを議論の俎上にあげなければならないのは、ここ10年余の安全保障戦略が全政権を通して長期戦略を欠いた現状追認、その場駆け足にとどまり、迫りくる危機への想像力を欠いたことへ、下手なつじつま合わせであっても、言訳が必要とされたからである。そうなったのは、日米関係を惰性的に運営し、リスクを背負う安全保障体制の真剣な追求を怠ったところにあると考えている。

◇ 雲立つや匂い先ゆく雨宿り

 

加藤敏幸