遅牛早牛

時事雑考「予算案は参院に、ウクライナ侵攻が変える安全保障意識」

予算案は参院へ、どんな議論を創るのか

◇ 来年度予算案が22日衆議院本会議で可決され参議院に送付された。3月23日にも自然成立することになる。地味な予算委員会であったことはまちがいないが、感染症が拡大している状況やモリカケサクラといった醜聞モノが少なかったことなどが議事を促進させたと思う。騒がしさを求める人びとにすれば大いに物足りないかもしれないが、あくまで議論の中身を吟味してからのことで、従前に比し劣後しているとは思えない。

 それよりも、野党国対間の連携について、代理ベースで日本維新の会や国民民主党などと情報交換する場を立ちあげたようであったが、共産党の抗議をうけ一夜で落城となった。もともと国対とは裏方組織であるのだから多角重層的にやればいいと思うのだが、立憲民主党の選挙総括のからみもあって機微なテーマになっていたのだろう、共産党の逆鱗に触れてしまったということか。

 共産党に一喝されてしぼむようではいかにも心元ないではないか、立憲民主党国対の一歩後退感は否めない。というのも、野党全体のまとめ役になれる条件が整いつつあったと考えていた人びとにすれば、せっかくの右側の結合手の芽が萎えたことに心底がっかりしているし、また野党全体としてもマイナスであろう。

 たしかに共産党の怒りにも理はあるといえるが、ここは立憲民主党の力量を強化しないと野党共闘の芽が出ないのだから、短気は損気のような気がする。最後には共産党のいい分を受け入れると思われることの風評を十分思慮しなければ、「やっぱりそっちを向いているんだ」ということになる。

 くわえて、この時点で野党国対委員長会談が事実上空き家になったことの意味を分かっているのかしら、とつぶやきながらも筆者の気持ちは来るべき大変化のほうにすでに向いているというのが正直なところである。

国民民主の予算案賛成は椿事か、問われる覚悟

◇ ということが関係したかどうかわからないうちに、国民民主党が予算案に賛成してしまった。過去完了なので是非もないといわざるをえない。ただ予算案に反対しない野党は野党ではないという非難を、今の立憲民主党が声高に発することは控えるべきであったと思う。事前に賛否を政治的に話しあう場を用意できなかった野党第一党としては、「野党の盟主」ではないことを自ら宣言したに等しいわけで、相互の「しばり」がないなかでの非難には、烏の勝手でしょうと相手は開き直るだけであろう。喧嘩を売るのならそれでもいいといえるが、野党を大きくまとめていく気があるのなら、さらなる工夫があっても良かったのではないかと思う。

予算案への賛否は政治判断か、それとも陽動作戦か

◇ ところで予算案への賛否であるが、多岐にわたる膨大な予算案であるから、賛成できる箇所あるいは反対すべき箇所など探せば多々あると思われるが、ひとつでも賛成できるところがあれば全体に対し賛成できるのか、あるいはひとつでも反対なら全体に対し反対すべきであるのか、といった議論は簡単ではない。こういったことは個別の法案でもありうることで、たとえば100点満点でなければ反対なのか、あるいは51点でも賛成なのかといった議論も過去にはあったが、結論はその時の政治判断によるということであったと記憶している。

 まだ詳しい事情は分からないが、国民民主党も党内は決して穏やかではないと思われる。すでに参議院の予算委員会は始まっているが、衆院での賛成が参院での質疑に微妙な影響をおよぼすことは避けられないであろう。まあ、覚悟のうえでの賛成だと思われるが、その覚悟のほどと、これからの展開の二つが焦点になると思われる。

 ところで、永田町界隈では、連立を意図しているのではないかといった憶測などを面白おかしくいいたてる向きもあるようだが、少し考えれば連立が簡単な話ではないことは自明であろう。

 この点については、2022年1月29日弊欄で「政界三分の相、中道グループと是々非々」において、一般論として「小政党にとって連立政権への参加はハイリスクローリターン」であると指摘したが、現実問題として自民党にとって公明党との連立で十分であるうえに、つまり二元方程式でも時としてややこしいのに、それをわざわざ三元方程式にする必要性があるのかと考えれば、現状では連立の可能性は限りなくゼロに近いといえる。ただし、針の孔ほどではあるが、ある条件のもとでありうる可能性があるが、これについては後日論じたい。

 ということでここでは、この一石を投じたのは与野党のありよう、あるいは国会の姿について固定観念を打ち壊したいという想いから発しているのではないか、と考えたりしているのだが、甘いかもしれない。しかし、メディアの反応もふくめ、ずい分と固定観念にビタビタに浸かった古臭い見方に接すると、どうにもならない時代閉塞の現実を思い知らされた感じがするのである。

 さて後ほどの議論になるが、いま議論してほしいと人びとが思っていることは、古い新聞紙に包まれた旧態依然とした政治体制でも与野党観でも何でもない、もっとリアルな問題について自由にまた闊達に議論し、あっと驚くとはいわないまでも、まあ最低でも目が覚める程度の処方箋を見出してほしいというものではないか、と筆者は受けとめている。梅雨でもないのに日本中嫌になるほどカビ臭い、これを何とかして欲しいのである。

変わったことをすればすぐにたたく、同じことをすればマンネリという

◇ ところで、今回の某野党による予算案賛成という椿事が生じたのは、野党間の縛りがないからなのか、あるいは勝手なことをするから野党がまとまらないのか、といった後ろ向きの堂々めぐりに時間を遣うよりも、これからの国会での議論のあり方を模索したほうがいいのではないかと思う。というのもすでに大きな変革の時代に入ったと思われるからである。そういえば、ワンパターンでお仕着せ型の批評をしながら、他方で政治の大幅な変革を求める評論が多いように思えるが、それらの主張は多くの矛盾を抱えている。そのひとつが変わったことをすればすぐにたたく。で、同じことをするとマンネリだと罵倒する。ではいったいどうすればいいのかと問えば、答えはなにも出てこない。といった批評が多く、とりわけネットに流れるコメント群は流出オイルのように薄く広がっていく。まあ薄いだけが唯一の取りえといえよう。

 どんなにいいアイデアであっても、試行がなければ始まらない。今回のこの波紋がどのように広がるのか見守りたいが、国民民主党がその身を危険にさらしながら問題提起したことだけは覚えておきたい。願わくば吉とならんことを。

ちょっとだけ変えた感じの連合方針

◇ 問題提起といえば、いま連合が注目を浴びている。7月に予定されている参議院選挙への方針をめぐり、ややかまびすしいリアクションがほうぼうで見うけられた。いきなりのそもそも論で申しわけないが、「候補者本位」というのは団体推薦においては決して珍しいことではない。推薦対象には無所属候補者もいれば政党を変えた者もいる。さらに推薦団体と同じ業界出身であれば、異なる政党の複数者を推薦するケースもかなりあると聞く。であれば、政党から距離をとり団体のために尽力してもらえることを期待して推薦するというのが標準であり、さらに与党を支持することによって得られる便益を大いに期待する団体も多いというのが現状であろう。

 そういうなかにあって、労働運動を中心に社会運動もになっている労働団体が、選挙活動への協力を予定しながら政党一括推薦にはしる論理を今一度つまびらかにする必要があるのかもしれない。

 連合は政策制度要求を掲げているが、その実現を図るもっとも効率的な方法は与党との関係を親密化させることであるが、それを阻んできたのは安全保障の考え方の違いであったが、最近では組合員の意識レベルにおいてそういった歴史的イデオロギーの違いを見出すことは難しいというよりも、組合員のほうがはるかに現実主義であり、何年か後には労働組合の執行部が取り残される危険性さえ感じられるようになってきている。

 また、今までも一括のように見えても個々の審査は厳格におこなわれていたわけで、それを怠ると推薦したけれど後で困ってしまう事が起こりうる。だから、もともと「所属政党条件付き候補者本位」であったものが、今回の連合の方針では、所属政党条件の部分をぼかさざるをえなかったということではないか、と受けとめている。そして、その原因は恩恵を受けてきた政党の側にあると考えるべきで、推薦する側の連合がうれしくて変えたとはとても思えない。これはあくまで受動態の連合の事情であって、外部から意見はされても非難されることではないと思う。

政治と労働の関係にも代謝が必要

◇ 筆者が長らく「政治と労働の接点」と題して、政治と労働の総体的な関係や政党と連合あるいは産業別労働組合との関係、また政治家と労働組合とのかかわりなどについて、経験をふまえながら問題提起をしてきたが、今回は政党と連合との距離が広がる方向つまり接点を失いつつあると受けとめている。

 そのことについては、もちろん過去に学ぶという姿勢も大切であるが、時に関係を清算することにも意義があるわけで、さまざまな副作用が生じるとしてもダラダラと不本意な関係を続けるよりもはるかに健全であると思う。そのうえで、新しい関係を構築すればいいのではないかとも思う。

 

 そういうことでいえば、連合には連合の使命があると自覚しているということで、まわりが社会的責任などと道端で拾いあげた棒切れを振りまわしての勝手な「ご意見」を押しつけることは不要であろう、どこまでいっても連合が考え、連合が決めることに違いはない。

政党一括推薦は昔の話、今や候補者本位?

◇ NHK NEWSWEB「連合『候補者本位で臨む』夏の参院選基本方針を発表」(2022年2月17日18時11分)では「基本方針では、立憲民主党や国民民主党との関係について、去年の衆議院選挙の基本方針にあった『支援する』との記載はなくなり『連合の政策実現に向けて、それぞれと引き続き連携を図ることを基本としつつ、今回は、候補者本位で臨む』としています。」と報じられている。また、「党名の明示は避けながらも『目的や基本政策が大きく異なる政党と連携する候補者は推薦しない』としています。

この記載について芳野会長は『共産党は念頭に置いている。日本維新の会を含め、その他の政党については、地域によって事情が違うので、地域で判断することになる。連合として現場が戦いやすい環境をつくっていきたい』と述べました。」ということで、簡潔な報道と同じように簡明な方針といった印象を受ける。

 今後の課題として残るのが「政党一括推薦」のあつかいであろう。立憲民主党の泉代表はまだ期待をしているように見受けられるが、2017年の希望の党の出現から基本的な問題が解決されたとは誰しも思わないであろう。2022年2月9日の弊欄「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」で詳細に述べたが、とくに「やはり安全保障が問われている」ことには変わりがない。

 また、直近の「ロシアによるウクライナ侵攻」が人々の意識変化をうながすことも予想されるなかで、各党の安全保障政策も大きく調整されるべきであろう。とりわけ連合構成組織の組合員の意識変化については、さらに感度を上げておかないと組織運営に支障をきたす恐れもある。ということから政党丸抱えの推薦にはさらに時間がかかるのではないかと思う。また、連合あるいは労働組合として、伝統的な平和と民主主義を守る運動が組合員から見てとても現実的でなく硬直化していると受けとめられている現状にあって、丸抱え推薦のメリットを明示することは難しいと素朴に思っているのであるが、この点については労組幹部の思い込みつまり固定観念が、悪くいえば血管壁コレステロールになっているのではないかと心配している。

 ところで、上述の報道での芳野連合会長の発言によれば、「日本維新の会も地域での判断対象」と読みとれ、今日的に妥当であると思うのだが、「目的や基本政策が大きく異なる政党」に日本維新の会がふくまれているとの理解も流れている。たしかに、官公労組において「反維新」があることは理解するが、それを前面に出すのであれば、夏の参議員選挙における連合の調整は難しいことになるであろう。今日段階で、発信のノイズレベルが高いということは無線機としては役に立たないということで、それを承知のうえでの高度なオペレーションという理解があたっていると思われる。

 ということは、32の地方区での候補者調整はもっぱら政党(野党)の責任でまとめられるべきもので、まとまった候補者への連合の対応は「候補者本位」でそれは「地域での判断」という読み方が今日の標準ではないかと思う。いずれにせよ、ところどころ混沌状態は避けられないと思われるので、それに深くかかわって連合や労働組合が消耗する必要はないのではないか、といいたい。

ロシヤのウクライナ侵攻がもたらす安全保障意識の変化

◇ ところで、2022年2月9日の弊欄「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」において、中国の覇権主義を前に「とても『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』(日本国憲法前文)という心がけではもはや対応できないのではないかと、ふと考えてしまう。」と述べたが、ロシアによるウクライナへの侵攻を目のあたりにして、さらにその意を強くするのである。もちろん、諸国民は平和を愛していると信ずるし、また諸国民の公正と信義を信頼するものであるが、そのこととわれらの安全と生存を保持することとは何ら関係ないのではないかと疑心的に思うのである。

 筆者にかぎらず多くの人がそう思い始めている最中(さなか)に、「プーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」と共産党の志位委員長がツイッターで訴えたと伝えられた。2月24日のことである。(読売新聞オンライン2022/02/25 19:54)

 多くの人が違和感を覚えたのではないか、焦点があべこべではないかと。つまり、憲法9条をもつわが国をロシアに置き換えるのではなく、この場合ウクライナに置き換えるのが妥当ではないかということである。

 ということから短絡するつもりはないが、プーチン大統領も駐日ロシア大使も戦争ではない、軍事侵攻ではない特別な作戦だと強弁していることを見れば、言葉などはどうにでもなるのだから、憲法9条が覇権国家に対して侵攻抑止として機能することはもともとありえないわけで、個別自衛権は当然のこととして、集団的自衛権についても普通に考えなければならない時代に入ったと思う。ウクライナはNATO加盟希望であっても、現実は未加盟である。今さらながら集団的自衛権の大切さを知った人が多いのではないか。

 まあドタバタすることはないが、ロシアも中国も国連安保理の常任理事国で拒否権をもつ有数の核保有国である。

 ことさら不安をあおることは避けたいが、前々回の弊欄で立憲民主党に対し「集団的自衛権を認める方向での憲法改正の必要性」と「日米安保条約の非対称性をある程度解消する方向」などを紙上ではあるが提起したつもりであった。一瞥もされないと自覚しながらの唐突な2月9日の提起ではあったが、立憲民主党には本気で宗旨がえを求めているのである。

 現在ウクライナで起っている事態は、今日の世界が決して安定した平和なものではない、また国連は常任理事国には無力である、そして核保有の威力は絶大であるといったヒリヒリするほどの痛い現実そのものであると思う。

◇春や早や影も重なる松並木

 

加藤敏幸