遅牛早牛

時事雑考 「近づく参院選、苦しい野党選挙協力―覆水は盆に返らず」

◇ とかく思い込みと思い入れに偏りがちな政治や政党論議ではあるが、ここは客観的にいって、立憲民主党(立憲)、日本維新の会(維新)、国民民主党(国民)、日本共産党(共産)、れいわ新選組(れいわ)、社民党(社民)による選挙協力については始めから無理があったということに落ちつきそうである。 

 そもそも、政党の存在理由と選挙協力には排反関係があることから、金庫のダイヤルのようにいくつかの数字(条件)がそろわないと、開かないということのようである。 

 そこで、自民党と公明党の選挙協力がうまくいっているのは、政権という最強の接着剤があるからというのは、もはや常識となっている。それでも、両党の選挙協力の結果は、どんな候補者なのかという人的要素にも大きく影響されるが、クロス投票でいえば50%から80%に上るのではないかといわれている。クロス投票とは自民党支持者が公明党候補に投票する、あるいは公明党支持者が自民党候補に投票する比率をいうもので、出口調査や投票後の組織調査などで推定されているようである。(筆者の場合は経験にもとづく勘ピューターであるが)

クロス投票が読めない野党関係がブレーキとなっている

◇ 国政選挙で、クロス投票が80%を超えるのは、遅滞なく運動が進んでいる理想状態といえる。また組織型選挙でなければここまでの浸透は難しい。そこで、前述の野党6党間の立候補調整後におけるクロス投票を想像してみれば、たとえば維新支持者が立憲候補に投票する比率(確率)はどうであろうか。50%はとうてい無理で、まあ良くて20%ぐらいまでではなかろうか。逆に立憲支持者が維新候補に投票する比率も低いと思われる。という感じで、想像を重ねていくと、たとえば維新・共産間にはクロス投票は成立しないといったいくつかのセオリーが浮かび上がってくる。同様に国民・共産間でも成立しないであろう。

 そこで、立候補調整後におけるクロス投票の比率が50%を超える場合を一応成功と考えれば、つまりその水準であれば選挙協力に意義をみいだせると考えられるので、立憲、共産、れいわ、社民の4党グループにおいては、おおむね選挙協力意義ありと判断できるのではないか。とまとめてみたが、しかしこのまとめは何のことはない、世評なり現状を上塗りしただけのもの、つまりみんなそう思っていることなのである。ただし、立憲・共産間については立憲支持者が共産候補へ投票した比率は、逆ケースである共産支持者が立憲候補へ投票した比率に比べ、おおよそ20%から30%ポイント下まわっているといわれている。正確な調査の数字ではないが、クロス投票の雰囲気がでていると思われる。

野党選挙協力の効用が落ちている一人区

◇ さて、立憲、共産、れいわ、社民の4党グループといっても、れいわは全国規模とはいえないことから、また社民は影響票数が100万票以下と思われるので検討の対象外として、主に立憲、共産つまり筆者の区分けでいえば左派グループに絞りこんで、選挙協力の効用を評価してみると、端的にいって、共産が動かしうるクロス投票数が選挙の勝敗に影響しうる水準でなければ、選挙協力の実利が存在しないことになるので、参院選選挙区(一人区)で共産からの協力によって、得票水準でいって競合候補を凌駕するか、あるいはマイナス5%内に肉薄できるかどうかが当面の判定基準になると考えられる。もちろん、5%差が統計的に意味があるとしても、調査自体の精度という重要な関門があるので、判断は慎重でなければならない。また、10%以上の差が選挙期間中盤までもつづくようであれば、逆転勝利の可能性は相当低いと考えるべきであろう。もちろん、候補者を決めてからの準備期間や知名度により評価関数を変える必要があるが、そうはいってもセオリー的には現職候補を追撃することは難しいわけで、通常の活動以外の要素、たとえば現職の醜聞などがなければ、知名度、実績量、組織力、資金量において劣後する候補の逆転勝利は困難であろう。

 ということで、32の一人区の過半を超えることは全野党が一丸とならないかぎり難しいといえる。したがって、立憲、共産を中核とする選挙協力では、新人候補を打ちあげるための基礎エネルギー量はもともと不足しているのが実態であるといえる。もし、数回以上の当選実績をもつベテラン議員を野党候補とするならば、立憲、共産以外からも支持をえることにより、(一人区では野党系が現職であれば与党系候補は新人あるいは鞍替えであるから)当選の可能性が高まるといえる。そういった視点にたち32選挙区について今日時点でいえることは、与党以外の議席は最大10(つまり22対10まで)ではないかというのが大方の予想となっている。結論をいえば、一人区での野党選挙協力の効果は議席に換算して数議席程度ということであろうか。ここで重要なのは、共産が動かす票数の効果は、経験的に衆院選の小選挙区のほうが大きく表れ、一方参院選の一人区では小さく表れると感じている。参院選の複数区の場合一人区に比べれば効果は大きく表れることから、複数区での選挙協力に軸足を移すほうが合理的といえるのであるが、政党原理を優先し自党立候補が多いようである。つまり、一人区での選挙協力の効果は注目を集めたほどは高くないといえる。

政党よりも、有権者こそが変わっている

◇ さきほど6野党と表現したが、筆者は維新と国民を中道グループと位置づけ、さらに立憲、共産などを左派グループと区分けしている。中道グループと左派グループの間ではクロス投票が成立しないことも区別の理由のひとつである。クロス投票が成立しない間柄で選挙協力が機能することはないであろう。ということからも、全野党選挙協力が成立する条件は当初からなかったか、あるいはすでに失われていると考えられる。

 もっといえば、有権者の選好がそうなっているのである。だから、組織政党以外がクロス投票を有権者に要請しても、おそらく徹底するのはずいぶんと難しく、下手をするとせっかくの支持を失いかねないので、どうしても否定的あるいは消極的にならざるをえないのであろう。

 ところで、立憲や国民を労働組合からの強い支持があることをもって、組織政党に準じる扱いをする向きがあるが、現場からいえばそれほどのものではないというのが実態である。つまりユニオンショップ制における組合員は、いってみれば自由電子的で、目的とか大義という電磁界がなければクロス投票を受け入れることはない、つまり電流は流れないのである。とくに連合系民間労組組合員にはその傾向が強いと思われる。

与野党対立構造の土台が崩れつつある―露のウクライナ侵略の影響も

◇ また、世評いわれている与野党対立構造は一部マスメディアのほぼ虚構あるいは願望であって、現実は有権者の政治価値観の多様化を受け、豆腐汁状態に近づいているといえる。有権者が重要であると考える政策項目と支持政党との相関関係は漸進的に、また煮詰まるほどに崩れていっているといっても過言ではなく、たとえば過去において最大の識別マーカーであった安全保障やエネルギー政策が、今般のロシアのウクライナ侵略により大きく変更されようとしているが、このマーカーが崩れると彼我の識別がつかない、いいかえれば敵味方不明状況に陥ることになるわけで、70年世代の筆者などはまさにガラガラポン状態になりそうで心もとないが、よくいえば路線修正のいい機会ともいえる。このような歴史的大変動期に従来の政治価値にもとづく選挙協力体制をいかに頑張ってみても、時代との齟齬を覆い隠すことはできないのではないか。有権者の感覚に追いつけていない政党が苦戦しているようにも感じる。

これからは中間政党の役割が高くなる

◇ それが与野党対立構造が大きく崩れつつある原因になっているのか、はたまた単なる結果であるのか定かではないが、論理的に考えてもやはり中間政党の存在が状況の曖昧化に大きく寄与していると思われる。筆者は便宜的に維新、国民を中道グループと分別しているのであるが、中道グループの政権あるいは与党との垣根の低さこそが、今世紀のわが国の政治の特徴ではないかと考えている。もちろん、対立構造こそが正しいとする見方からいえば、これらの中道グループの存在は余分な緩衝地帯であり、政権への寄宿という不純な動機を抱える権力亡者の集まりであるから、屹然とした対立構造にとって不要なものと受けとめられているようだが、そういった認識こそが時代遅れではないかと思われる。

 決して間違っているというのではない。時代すなわち現実に即していない面があるという意味で、時代遅れであると指摘しているのである。なぜなら、中道グループの一見中途半端とも思われる政治位置の源流は、どちらかといえば有権者から発しているのであって、中道グループによる勝手な作りものではないということである。それは選挙のたびに有権者の意向を取捨選択しながら、いわば現場合わせ的に政治位置を工夫した結果ともいえることから、たとえればマーケティングの途中経過ともいえるもので、緩衝地帯的であってもその淵源が有権者にある限り、時代の潮流を知るためにも意味があると考えるべきではないか、と思う。

 ということで、ナイーブな気分に追いこまれている立憲、共産のさまざまな努力に、政治史上例を見ないほどのつれなさで、よそ見をしている維新、国民の態度から、同じ野党であっても見ているものと見えているものがまったく違うのではないかと、そう思わざるをえないのである。ということは、立憲、共産のめざす選挙協力の理想形としての2007年参院選の再来はありえないということがキーポイントではなかろうか、立憲、共産が強く求めれば求めるほど、そうはならないと維新、国民はそっぽを向くという、そういう時代にすでに入っているというのが、適切な受けとめかもしれない。少なくとも有権者の間には、そういった潮流があることだけは確かだと思う。

2007年逆転の夏は過去のこと、リーダーは新しい組み合わせを

◇ 2007年参院選の再来は許さない、と有権者が決めているわけでもなかろうに、と不服顔でぼやく気持ちはわかるのだが、昨年の総選挙の敗北原因を共産との選挙協力に求めた時点から、無意識のうちにも、そのことつまり2007年の再来はないということを受容していたように思えてならないのである。立憲の話である。その立憲は紳士でありすぎたのではないか。非協力な態度に対し、ちゃぶ台返しもよし、全方位戦闘態勢も結構ではないか、気分が悪い時や腹が立った時には大いに爆発させなければ、存在しないも同然という世界である、政界とはそういうものではないか。若きリーダーを批判する気はないが、時に暴れる、時に無茶をする、そういうところに惹かれる人もいる。むしろ多いのではないかしら。

 立憲に対抗している維新にはそれがある。むしろありすぎると思う。常識とか紳士的とか、そういった価値観に惑わされてはいけない。とくに変革の時代においては非常識の創造が求められているのだから、常識や紳士的価値観の権化が、たとえば連合だとすれば、そういった連合的価値を超えてこそ、政党らしさが発揮できるのではないか。政党が品行方正をもって評価されているようではまだまだ物足りないと思う。

 さて、野党選挙協力について、いつまでも待ちつづけることはなかろう。土台が崩れているのだから、やれることしかできないのが現実ではないか。これからは協力論よりも政策論を急ぐべきである。

政党の存在理由は当面の戦術ではなく、「綱領」や「基本政策」にある

◇ そこで、政党の存在原理とは何かと考えれば、諸説があるにせよ突きつめればそれぞれの「綱領」と「基本政策」に集約されている「もの」と考えるのが妥当であるのだが、支持者がこぞって支持政党の「綱領」や「基本政策」を熟読しているわけではないという実態にあって、それでも日々の報道や2、3年に一度おこなわれる国政選挙での、各党の主張などからおぼろげながらも浮かび上がってくる、イメージ的ではあるが各議員や政党の立ち位置や政策目標などを素材として、支持者としての政治認識が形成されていると考えられる。もちろん、党員や協力者という積極的な支持層においてはさらに明確に「主義主張」につながる政治認識を有していると考えるべきであろう。だから、支持者や有権者が受けとめている先ほどの政治認識がおおむね一致するのであれば、すみやかに政党統合あるいは連立政権をめざすべきである。逆に一致しないのであれば政策のすり合わせに注力すべきである。これは挑戦者である野党の原理であって、与党は日々の政権運営において錬磨しているので一歩前をいっているといえる。

選挙協力とは、「敵」と「味方」と「同類」と「敵の敵」との関係である

◇ では、選挙協力の原理とは何であろうか。それは選挙区での当選を上位価値とすることである。いいかえれば、政党の存在原理の譲歩であり妥協である。よくいえば次善の策といえるが、もっと直截にいえば、ある選挙区において自党候補の当選をあきらめるかわりに、敵の当選を排除し、味方あるいは同類もしくは敵の敵の当選をえるための戦術的行動である。ということは、味方の当選、同類の当選、敵の敵の当選という選挙結果の価値序列が形成されていて、あるいはそういう前提に立っているわけで、この前提は永田町でのみ通用するものと思われる。

 そこで、なぜ永田町でのみと断ずるのかと問われれば、選挙での投票こそが憲法にいう主権者としての最高の権能であるにもかかわらず、事前にその是非を支持者に問わずに(模擬投票や公開討論もなく)、いきなり投票場で強制的に選択肢をせばめる(支持政党の候補者が見当たらない)という、筆者にいわせればそうとうに乱暴な政党側の行為であって、そんなことが有権者から広く支持されているはずがないことから、永田町でのみ通用する方式だと批判しているのである。とくに先ほど模式的に「敵」「同類」「敵の敵」と分別してみたが、立憲的にいえば「敵とは自民」「同類とは社民あるいは国民」「敵の敵とは共産」といった感じであろうか。といいながら、この分別には大きな問題があることを見のがすわけにはいかない。それは、「自民は敵」とは考えない立憲支持層がいることである。また、「敵の敵」が味方として十分であるかといえば、「敵の敵は無関係」あるいは「敵の敵は敵」と考える人も決して少なくないのである。つまり、選挙協力に対し普遍的といったレベルまでは求めないとしても、背景として安定的な対立構造が必要であって、野党が非力である現状においては、その対立構造がもたらす凝集力に否応なく頼らざるをえないのである。したがって、その対立構造が希薄であれば、選挙協力への凝集力は弱いままであろう。具体例でいえば、2021年10月の総選挙が菅(前)総理でおこなわれていたならば少なくとも立憲・共産の議席減はなかったと思うし、さらに安倍(元)総理であれば与党は顕著な敗北を期していたと思う。つまり、野党選挙協力を支えるのは、有権者と政権との対立構造であって、さらにいえば有権者が政権への強い批判をいだいていることがその必須要件であるといえる。

大きく変わる「野党とは」 

◇ 少し視点を変えて、もし野党であるからということだけで、いくばくかの凝集力が発生するのであれば、むしろその凝集力をもちいて政党間の共同行動をおしすすめるべきということであり、さらには連立政権への模索など関係の発展をめざすべきであろう。しかしながら現状は、野党間の凝集力は「小さな力の場」に過ぎず、外部から見れば表面的でまた儀礼的な関係を超えるものではないと受けとめざるえない実態にあるのである。その原因は、現在の野党には本気で切磋琢磨する気がないうえに、もともと「綱領」や「基本政策」を変える気もないことから、争論を触媒にして新しい野党関係を作りだせないふやけた関係にあると思われる。だからたとえば、安全保障における国際環境の変化を強く感じつつも、だからといって安全保障政策を変える議論には発展させられないのである。党内での批判を恐れるあまり、旧弊に流されているのであろうか。まったく自己革新を欠けているといわざるをえない。成長のためには脱皮が必要であるというのに、まったくもう話にならないではないか。野党選挙協力への有権者の関心を高めるために、毎月一回でも各党の政策の近接化をはかるため徹底討論をしてはどうか。まとまらなくても、それぞれにはそれなりの理屈があり、譲れない理由も明確になるではないか、そういった姿をしっかり見せてからの選挙協力論議にして欲しいと思う。

「違い」があるから新党結成なのだが

◇ ここで政党原理から野党間の協力関係を論ずるならば、そもそもは旧弊を患っての新党結成であるから、「違い」があることが新党の値打ちであり、存在意義であるといえる。つまり、新党結成の意義は既存政党への対抗性にあるわけで、誕生時の第一声は不協和音である。また自己主張に始まり後にその限界を悟り協和を模索するのであるが、どこまでいっても「違い」を滅却することはできないでいる。とくに規模の小さい政党において、議席のために政党の存立価値である「違い」を一時的にしろ目をつぶることは致命的ともいえるわけで、ここらあたりが、政党原理と選挙協力とが激しくぶつかり合う排反事象といえるのではないか。

議席取引ではなく、大きな政治目標の達成を掲げるべきであろう

◇ ところで、大手新聞社においても「野党乱立により与党有利」また「野党選挙協力の努力を」といった主張があたりまえのように大手を振っているが、そういった主張の裏側にある反与党という姿勢には社会の木鐸という自画像からは少々逸脱の気配が感じられてならない。時の政権への強烈な批判はあってしかるべきである。この点においては賛同することも多々あるのだが、しかしそのことと、前回の投票結果を掌にのせ、野党間の立候補調整あるいは協力関係を強く示唆することで、暗黙裡に与党議席の減数をはかることの「大義」とは何なのか、けっして簡単に説明できることではなかろう。もし与野党対立構造こそが理想であるというのであれば、現状における野党間の違いである政治的多様性をどのように捉えるのか、まさか強引に取捨すべきとでもいうのであろうか。やはりそれはおかしいことである。

 そもそも国民が政党をとおして、それぞれの政治的多様性を表現し主張していくというあたりまえのことが、どういう理屈なのか結果として多党化をおしすすめ、一強多弱状態を生みだしたとの認識に立ち、遡って与党に対抗するためには政治的多様性を抑制すべきであるといった逆行論理を、主要な報道機関である新聞社がまちがっても採用することはないと思われるが、与党議席を減じる議論の道筋において、方法論として政治的多様性の一時的ないしは例外的停止を推奨しているように思えるのである。そのように受け止めることを読者側の誤解と、はたしていいきれるのであろうか。ただし、筆者はそのような理屈づけを、毫(ごう)も受け入れないと主張しているのではない。状況によっては小異を捨て大同につくのも政治の一面であると理解をしているが、その状況とはどんなものであり、だれの判断であるのか、については議論が必要であると思う。くわえて、各政党の支持者をして十分な理解が醸成されることを前提とすべきであることなどは論をまたないであろう。

 いずれにせよ、策としての選挙協力が野党支持者をして、血沸き肉躍る段階に高揚できなければ運動としては失敗といわざるをえない。さらに、失敗は尾を引き、次回への負の遺産となりかねない。

 という意味でいえば、野党選挙協力を単なる議席取引に終わらせることなく、むしろ有権者の政治刷新に対する欲求に沿った、大袈裟にいえば感動をともなう大きな政治目標を掲げる必要があると思われる。ということで、なかなか難しい条件が付いてくるのであるが、他方の与党の選挙協力は政治権力をともなう目的性の高いもので、支持者にあれこれと説明する必要がないことから、同じ選挙協力といってもその内実には雲泥の差があるいうことであろう。

 選挙協力によって手元に引き寄せたい大きな政治目標を、反自民あるいは反与党といった、つるっとした反権力意識でごまかしてはいけない、真剣味がなければ求心力が働かないのである。そういった真摯な努力が見られなかったと思う。

 

維新の登場で野党のあり方が激変

◇ また一般的な主張として、結果として当選には遠くおよばない政党は思いきって「次回は」立候補を辞退してはどうか、という暗黙の干渉ともいえるものが流布しているようであるが、その具体例として共産の全選挙区擁立方針が挙げられる。たとえば、与党候補と僅差にあると思われる共産以外の野党候補にとって、共産からの立候補が結果的に痛打となると受けとめれば、選挙区での当選をえるためには共産の立候補とりやめを期待するというのが人情というものであろう。もちろん全選挙区の8、9割以上に候補者を立てられる野党は例外的である。この例外的な組織力が一種の限界交渉力を有していることから、野党選挙協力とは、共産の立候補調整であると受けとめていた時代があったことも事実であった。もちろん現在においてもその限界交渉力が機能しているのであるが、いくつかの点において状況の変化がみられ、野党選挙協力の効用が不確実になっている面がでているのも事実である。

 そのひとつは与野党の中間地に布石されている維新の存在である。まだまだ限定された地域という修飾語がつけられているものの、旧来の野党選挙協力の流れからは、ずい分と距離のある位置取りをしているといえる。もっとも特徴的なのは他の野党に対し協力よりも対抗に軸足をおいているところであろう。このようなスタンスをとる政党に対しては、共産の限界交渉力は通用しないといえる。こういった強気の姿勢がいつまで通用するのか別としても、少なくとも立憲とは対照的であることは確かであろう。その明快な強気が支持拡大の一因となっているとも思われる。

国民民主党も新しい野党像を模索か

◇ つぎに指摘されるべきは、やはり国民(党)の存在であろう。率直にいって2020年9月の旧立憲と旧国民との合流において、完全統合を逃し、中道路線に切り替えられなかったのは当時の旧立憲執行部の最大の戦略ミスではなかったかと、あくまで後だしの議論で非当事者の意見ではあるが、昨年の総選挙の結果をみてもそう思わざるをえない。

 冷静に考えれば、合同にあたって小が大の条件を丸のみにするのはいわゆる吸収合併であって、それでは革新性に欠け規模の利益しか残らない凡庸な策というべきである。他方、大が小の条件を丸のみにするのは止揚ともいうべき革新を手に入れる妙策といえる、という経営の極意もあって、さらに外交安保やエネルギー政策などの柔軟性を高めておけば、中道層の支持もある程度保持できたであろうに、と筆者などは残念に思っている。なぜか、無理に選択肢を狭めていったとしか思えない両党の協議経過について、不十分な情報を材料にあれこれと考えているのであるが、旧来の外交安保路線にくわえ、綱領に原発ゼロを掲げるなど、ずい分と硬直化したところがイメージとして表にでてしまったようで、またせっかくの右方展開のチャンスだったのに、よりかたくなになった理由が未だに分からない。さらに、当時の交渉を担った面々は旧民主党以来のえりすぐりの器量人であったのに、また連合首脳層もかかわったとも聞いているだけに、合流した結果が間口の狭隘化に商品の縮小だったとは、今でも何かの間違いではなかったかといぶかっている。革新を矯め、旧弊を扶ける合流に終始したところが、反政治的であったと思っている。

 余談であるが、もっとも気になったのは、ひょっとして玉木氏を代表にするのではないかと要らぬ心配をしてしまったところなどは恥じいるばかりである。

 さて、中道路線を守りきったといえるが、小さいながらも苦労だけは大政党並みであるから、国民(党)の苦難はまだまだつづくと思われる。前にも述べたが、アイデンティティあっての戦術であって、「目立つ」ことの大切さは分かるが、今は他党よりも1分でも長く団結を守り抜く根性が必要ではないか、つまり術よりも根性が問われていると思う。 

夏を超えれば2025年まで国政選挙はないと思われる 

◇ ということで、維新と国民の行動は野党間の選挙協力に向かうものではなく、むしろ部分的、局部的対応にとどまるものと思われる。したがって焦点は、一人区から複数区に移るが、選挙区ごとの選挙協力の組み合わせに関心が集まるとしても、大仕掛けな全体の選挙協力は低調なままで、選挙の花といえる番狂わせは少ないと思われる。その原因は、野党の分断に尽きる。

 まとめ役がいないのだから、是非におよばずということか。ということで、キシダ政権が安定化する確率は80%を超えていると思われる。ただし、何も起こらなければの話であるが。

 もし政権基盤を揺るがす条件はと問われれば、醜聞または疑獄関係を別にすれば、オール野党結集しかないと答えたいが、それは2メートル先の針の穴に糸を通すよりも難しいと誰しも思っているであろう。第一、そのためには連合と維新の関係から改善しなければということだが、夏の参院選を超えれば2025年夏の参院選まで国政選挙はないことから、また2025年は同時選挙の可能性が高いので、オール野党結集はさらに遠のくと思われる。

 つまり、野党選挙協力が話題となるのはこの夏までのことで、その先は未完のままということであろう。(永遠に未完とはいわないが)

どうやって政治の緊張を保つのか

◇ 3年間も国政選挙がないとなれば、議員も政党も大いに弛緩するであろう。とくに野党は、無風になると騒動を引きおこしやすいのではないか。余計なお世話といわれるのが関の山ではあるが、無為の3年間にしてはならない。もちろん国際環境が変わらずきびしいと思われるので、与野党ともに緊張感をもって対処しなければならないのだが、選挙が当面ない中でどうやって緊張を維持していくのか、その工夫において案外新しい政治が始まるかもしれない。またしても、期待のしすぎかもしれないが。

◇赤芽垣皐月の風が浜に出る

加藤敏幸