遅牛早牛

時事雑考「ロシアのウクライナ侵略がわが国の安全保障意識に与える影響」

◇ たしかにきな臭くはあったが、それでもまさかという想いであった。―

あれから34日が過ぎたが、戦火は一向に収まりそうにない。被害の拡大を防ぐためにも、人びとの不安に終止符をうつためにも、一日も早い停戦を期待したいが、それでも国連憲章などを違(たが)えてのロシアの侵略行為を認めるわけにはいかない。また、ロシアが侵略の成果をえることも断じて受けいれられない。という多くの気持ちはそれとして、プーチンもゼレンスキーもいずれ泥沼から抜けだすための決断を強いられることになるであろう。しかし、そういった出口の議論にたどり着くにはまだまだ時間がかかると思われる。また軽々にあつかうべきものではないし、わが国も時期がくれば今以上に巻きこまれることになることだけは確かであろう。

 それにしても、事態が激しく動いているなかで、遠く離れた東アジアの地にあって、さまざまな地図が解説のために映しだされるのであるが、ジブラルタルからウラルまでの広大なヨーロッパ大陸がジグソーパズルのように分割されていること、さらにそれらのピースが時代ごとに変形消失あるいは生成されていることに「わあっ、ヨーロッパは大変だな」とあらためて驚きを覚えると同時に、だから東アジアの地政学センスでヨーロッパを観ることも語ることも難しいのかしらと、やや閉じこもり気分になるのである。

 さて、今回は一連の出来事をうけてわが国の安全保障意識にどのような変化がみられるのかについて、管見を呈したいと思う。結論をいえば、いままで理屈のための理屈に終始していた安全保障議論が従来の枠にとどまらず、中国の台頭と米国の若干の減力から現実直視型の議論へ移行する過程にあって、世界大戦型の脅威だけではなく局地型の脅威が現にありうること、またそれへの対応策は実戦的に構築する必要性があることなどなど、平和構築の視点が多様化していると思われる。また国民の関心も観念的な反戦平和論から実効性の高い現実的平和主義へと移行しているとも思われる。

 ということを政治勢力別にみると、旧来の左派あるいはリベラル陣営では平和戦略の刷新と再構築が喫緊の課題になっていると思われる。が、ロシアのウクライナ侵略の前であれば「変わること」についての好機であったと高い説得性がえられたであろうが、後となってはたんなる「後追い論」としか受けとられないので、左派支持層を失うリスクだけが残ることから、いずれにせよ路線刷新は難しいと思われる。   

 とくに、日本共産党、社民党にとっては逆風である。また、立憲民主党が政権を目指すのであれば、鮮やかなイメージチェンジを成功させなければ、残念ながら政権担当政党とは認知されないであろう。このあたりについては、2022年2月9日の弊欄「政界三分の相、立憲民主党は左派グループにとどまるのか」で、「立憲民主が憲法改正(9条)を主導し、日米同盟の双務的再定義をあわせて提起するならば、わが国の政治シーンはコペルニクス的大転回によって、現在の保守グループのアドバンテージは雲散霧消するといった連想を生むのであるが、」と政治的転向の難しさを踏まえながらも、わが国の政治の活性化のためには同党の大胆な行動変容が必要であると呼びかけているつもりであるが、難しいのかもしれない。

 一方の保守グループにあって、自民党はしたり顔であることは間違いないと思うが、「核共有」など多少アドバルーン的に世論をリードしている気持ちがあるのかも知れないが、国民の多数は「はしゃぎ過ぎ」と受けとめるであろう。 そもそも議論にはその重みに応じた作法があるもので、今現れているのは先陣争いに近い早い者競争であり、軽率感に満ちている。風向きはプラスであるが、政権政党というのは本来深沈厚重でなければならないのに、他国の不幸をダシにすることのないように気をつけるべきであろう。なにごともやり過ぎると失敗する。

 ところで、平和と福祉を大切にしてきた公明党であるが、筆者は時代に即した平和主義があるのだから、状況への適応をすすめればいいのではないかと考えているが、当事者としてはそうもいかないのかもしれない。限界を超える議論になる怖れもあるので、どちらの道を選ぶのか、連立20年をふりかえりながらということであろうか。

 筆者が中道グループと勝手に仕分けた日本維新の会と国民民主党にとって、情勢が「中国、ロシアへの対抗」へ向かうことが逆風になるとは考えられないが、他方大きくプラスに作用することも考えられない。つめればややプラスであろう。安全保障でのスタンスはもともと中道の右の人たちだから対応は容易であろう。

 問題は7月の参議院選挙のテーマがどうなるかで、ウクライナ情勢、制裁下の世界経済、新型コロナ感染症の動向、インフレと生活実感などにくわえ与党が新たな安全保障のあり方をうまく提起できるかどうかであろう。今のところキシダ政権にとって悪くはない情勢といえる。

 野党は、もっぱら選挙協力に注力しているが、自民党に「有事近し」とあおられると安全保障のきしみが生じ、盛り上がりを欠くことになると思われる。それでも大きく負けることにはならないと思うが。

 全体として右ブレが予想の中心であるが、日米安保の信頼性と対等性についての本質的議論が芽生えるなど左派が本格的に安全保障政策を穿ちはじめると現在の保守グループの浅さ軽さが目立つと思われる。それよりもインフレ対策、生活防衛の波にかき消される可能性もあり、状況は不確定である。

 

往年盛んであった「非武装中立」はいよいよ歴史博物館へ

◇ さて各論としてまず一は、半世紀以上前に流行っていた「非武装中立」が空論の世界からも完全に脱落したということであろう。これはプーチンが初めにウクライナに要求していると伝えられている「中立化」「非武装化」「現政権解体」の三項目のうちの二つであることから、皮肉ないい方になるがプーチンによって非武装中立が独立国家の存立を危うくするものであることが、裏面から証明されたといえなくもない。言論は自由であるから理想論としての存続はともかく、現実論としては特別な環境変化のないかぎり採用不可であるといえる。

「武装中立」はハイリスクでハイコスト

◇ 二は、では「武装中立」はどうなのかということであるが、米中ロ以外の国にとって武装中立すなわち単独防衛はハイリスク・ハイコストであるという現実から逃れることは難しいといえる。とくに兵站といわれている補給については支援国の協力なしに成立するものではないことが明確になったわけで、わけても兵站維持は防衛側にとっては死活問題といえよう。という視点において単独防衛はハイリスクといえる。またハイコストとは、単独ですべてを賄うのだから金がかかることは自明であろう。とりわけ情報収集などは一国では質的にも量的にも難しいといえる。したがって、いずれにしても二国間同盟あるいは集団による防衛体制が必要であるというのが、今日における結論といえるのではないか。ということで、以降の議論はどのような同盟をどの国と結ぶのかということに収斂するであろう。

 蛇足ではあるが、膠着する外交交渉を打開する方法として、特殊軍事作戦とか、架空のジェノサイドからの救出とか、偽旗作戦とかさまざまな権謀術数を駆使し、最終的には事実上の軍事行動をもって目的を達成する古典的な方法はなお残ると考えている。またそういった選択を為政者に強いる国内事情がどの国とはいわないが、ありうることは現時点では排除できないことを前提に安全保障の議論はすすめるべきであろう。

今回の「ウクライナ侵略」は特異型である

◇ 三は、とはいっても今回のような軍事侵略あるいは侵攻が日常的に起こるのかといえば、それはそうではないと明確にいうべきである。今回の「プーチンのウクライナ侵略」はきわめて特異であって類例を呼ぶものではなく、やはりこれはロシアでありプーチンであったから起こりえたと考えるのが妥当ではないかと思う。まるで前世紀前半へタイムトリップした錯覚に陥る今回の出来事を普通に起こりうることとして扱うのは無理筋である。もちろん起きてしまったことは事実であるから、その発生理由を詳細に検証したうえで、必要な安全保障の議論をおちついて進めるべきと思うが、待ってましたとはいわないまでも、スキップを踏みながらの議論については、「やっぱりおかしいぜ」といいたくなる、冷静な議論のためにも冷静な立ち居振る舞いが求められるのではないか、と思う。

《付録》

 また原因究明にはいささか早い気がするが、たとえば8年前のクリミア併合を厳しく咎められなかった集団としてのG7が、今回こそは「力による現状変更」を認めないと激しくこぶしを振りあげるのは前例(クリミア併合)との比較において合理的な違いを意識してのことであろうし、もっといえば前回は甘かったという反省に近いものがあると思われる。たとえば、わが国の対応においても8年前は対ロシア融和の視点に立ち、どちらかといえば形式制裁に近かったと指摘されているが、今回のウクライナ侵略が2週間ほどで終了していたならば「日本政府はどのような態度をとっていただろうか」という問いかけは、元総理の長期にわたるロシア篭絡作戦に対する評価と反省に絡めながらとうぶんの間保持すべきであると思う。

 さて、ここで特異であると指摘しているのは、その動機と方法があきれるほどの大国主義あるいは帝国主義を丸出しにした典型的な侵略行為で、常任理事国かつ大量の核兵器保有国でなければ確実に「瞬殺」の憂き目にあっていたと思われる。わけても、プーチンの核兵器信仰が本物であったという衝撃の事実に、米国はじめNATO参加の主要国が薄氷を踏むがごとく神経質に対応せざるをえないところに、世界平和の土台の脆弱性が見てとれるといって構わないだろう。

 そこで、「力による現状変更」におよんだ場合の罰としての制裁については、今回のロシアとは違った動機や方法によるもの、つまりアナザーストーリーであっても、「力による現状変更」であるかぎり、たとえそれが東アジアであっても、厳しい制裁を課すことを徹底しなければならない。

 もちろん安保理決議をへて国連軍を繰りだすことができればよいのであるが、相手が常任理事国で核兵器保有国である場合には実質適用できないという、二重基準の国連の実態から、ここはどうしても経済制裁の効果性と普遍性を貫徹する必要性があることについて、たとえ制裁側に反作用を生じるものであるとしても徹底されなければならないといえる。常任理事国で核兵器保有国が問題を起こした時こそが国連の危機であり、その予定候補国が固唾をのみながら成り行きを見定めようとしている。ということで、制裁の成否が歴史を決するといっても過言ではないだろう。ただし、制裁によって追い込まれた独裁者がなにを始めるかは想定外かもしれない、たとえば平和条約なき日ロ間で北方領土に強大な軍事基地が建設されたなら日米はどうするのかなど、ありえないことではない。制裁一本槍でいいのか、多面的思考も必要だと思う。

《付録終わり》

発生確率が低いからといって無保険で済ますことはできない

◇ さて問題は、発生確率が低いからといって無保険では困るということであり、同時に予防に勝る対策はないことから、他の方法においても最大限の努力が求められているといえる。いいかえれば、いかなる国も安全保障について無関心であってはならない、また平和ボケしてはいけないということである。平和ボケというのは、今日まで平和であったから明日もきっと平和であるだろうと単純に考えてしまうことである。

 ところで今後起こりうる議論として、そのような軍事侵略の発生確率が低いといいきれる根拠を、それぞれの防衛力あるいは同盟などによる抑止力の存在に求めることになると予想されるが、そうであれば専守防衛論そのものが侵攻側の損害を限定化してしまうという弱点を有するがゆえに抑止力を低減させるのではないかという批判が生じると考えられる。そこで、現状におけるウクライナの防衛策は専守防衛ともいえるもので、飛来するミサイルこそ撃ちおとしても発射基地への攻撃は控えているようにみえる。これはやりたくてもできないということなのか(たぶんそうであると思う)、ふくむところがあってやらないのか、筆者には判断がつかないが、国際世論における優位性を維持するためには必要なことと考えているのかもしれない。(関連して、わが国の憲法第9条の戦力放棄や政策としての専守防衛での論理の組みたてに、非戦国家だからという国際場裏における同情の獲得に近い心情があるのではないかと、筆者は批判的に受けとめている、つまり一人相撲ではないかと、またそれは世界には通用するべくもない国内に閉じこもる心情であると思う。今回のウクライナの情報宣伝戦略は冷静かつ緻密で、親ウクライナ勢力を最大動員しながら積極攻勢にでている点に特徴があり、情報宣伝戦域においてはロシアを圧倒しているといえる。国際世論の動員とはこのぐらい徹底してやらなければ成果には結びつかないということであろう。)

「敵基地攻撃能力」について

 また、ウクライナ情勢に関連して「敵基地攻撃能力」といういかにも物騒な議論が起こっているが、専守防衛論が、侵攻側に侵攻軍の損害の規模を事前想定させることをもって防衛の効力を最大化させる原理を前提にしているとすれば、侵攻側の損害の最大化について侵攻の方法、手段に応じてさまざまな対応策を用意しなければ、ケースにおいて侵攻側の損害が軽微ということもありうるので、専守防衛論自身を補強する必要が大いにあると思われる。とくにサイバー攻撃やミサイル攻撃などやりたい放題であると相手に思わせることが、相手をして有事の敷居を低くする可能性を高めるのではないかと強く危惧されるものである。

 ということを考えれば、なにもわざわざ追撃を縛る必要があるのか、筆者には疑問である。反撃と追撃は本来一体のもので、その程度については都度の判断としておくのがもっとも効果的と思うのだが、不思議な議論が多かったように思う。もしくは、追撃あるいは侵攻側の領域への攻撃はすべて米軍にお任せと考えているのであれば、余りにも粗雑であるしそれで通用すると考える根拠がまるで分らないといいたい。とくに追撃という危険な任務に就く米軍の防御を自衛隊が担うとするなら、そういった珍奇な役割分担について、まずは米国民が首をかしげるであろう。国の防衛は国民の信念のうえに成り立つものだから、自らの危険負担を前提としなければ同盟は成立しないと考えるべきではないか。

 また、ミサイルや戦闘機の射程あるいは航続距離が長いものは専守防衛に反する、という理屈はあまりにも非現実的であって、二つの危険をもたらすといえる。その一つは、防衛力の劣勢である。長い槍であれば互角であるのにわざと短くして劣勢にまわることの意味が分からない。二つは、侵攻側の主戦論者に口実を与えることである。追撃されないのだから駄目でも元は取れるという、ダメもと論である。専守防衛の真髄が侵攻側の損害予想を大きく算定させることであるとすれば、少なくとも追撃とその範囲については暗箱に納めるべきであろう。また発射基地攻撃の判断は、その時のわが国家の意思とする暗箱対応が妥当ではないか。

さらに、ここでの国家の意思というものは、防衛力の行使がやむを得ないものでもっぱら侵攻側の攻撃と意思をくじくところに主眼があるという現実的平和主義に立脚するものであることを原則としていることをとくに強調し、またそれは平和を願う国民の総意であることを明示し、筆者の指摘が曲解されることがないよう願うものである。

 (余談ではあるが、こういった議論をおこなうことについて、有権者が嫌悪するのか評価するのかといった物差しで、各政党は判断しているのかも知れないが、国の存立にかかわる事項については、いわゆる美人投票に委ねるべきではない、これはあくまで政党としてまた議員としての信念で判断し、対応すべきである、といった矜持を政治家はもつべきである、というのがウクライナから学ぶべき事項ではないか。)

大量破壊兵器は使おうと思えば使えるという現実

◇ 四は、大量破壊兵器は使おうと思えば使える状態にあるということである。とくに、戦術核については核抑止の線引を片足分踏みこえているように思えてならない。少なくともそのように考えている核保有国が現にあり、今回それが直接的な表現ではなかったとしても、条件次第で核兵器を使う可能性が表にでてきたということ、またその恫喝効果が出現したということであろう。

 さらに「昔使ったではないか」といった幼稚な論理を、誰かが倫理回路を外し短絡させるかもしれないと考えるだけでも、ゾッとする。これはけっして筆者だけの恐怖、困惑ではなかったと思う。

 くわえて厄介なことは「被害を最小限にとどめるための合理的判断」という理屈を掲げて、某国指導者が核兵器使用へと暴走するかもしれないというリスクを、人類は正面で受けとめなければならない時代に至ってしまったということである。まったくもって詭弁としかいいようがないのであるが、それでも暴走を止めることができなければとてつもない被害が現実のものとなる。

 ということで急いで考えなければならないのは、「暴走」を止めるブレーキがあるのかという深刻な問題であり、また各論としての非保有国の対応策であるが、いずれもきわめて難しいということで、残念ながらほとんど「打つ手なし」と思われる。おそらく使われないと思うが、「使われるかもしれなかったが幸いにも使われなかった」というのは論理としては「使われた」と同じではないか。抽せん器から白い球が出てきてよかったではなく、抽せん器の中の赤い球はすべて取り出し、破棄されねばならないのである。人類の運命を人為的確率にゆだねるのは許されないというのが議論の前提である。同時に核の恫喝に決して屈しないことが非保有国の意地であり矜持ではないかと、苦しい論理ではあるがそう思う。(保有国に負けてはいけないのである)

核兵器非保有国の対応策として

 さて愚考ではあるが、核兵器で攻撃された非保有国の対応策としてたとえば第三国である核兵器保有国が代理で報復使用するという枠組みをもって仮想上の核抑止効果を期待するというアイデアが直感的に思いうかぶのであるが、これもどこに報復投下するのかということにくわえて核報復連鎖の危険責任をだれが負うのかなど、どう考えても第三国の代理報復はありえないといわざるをえない。ということは自己保有していても報復投下には同様の倫理ループが課されることからヒューマニズムを標榜する国にとって簡単ではないと思われる。

 であれば、それこそ強力な国際世論に期待することになるが、これは完全な事後対処であって、おびただしい数になるであろう犠牲者の発生を防ぐことはできないのである。このジレンマの解消策も大きな課題であろう。

 ということは、多少飛躍するが、結局いずれの国も拡大核抑止が機能する集団に加盟するか、それとも核拡散防止法(NPT)に違背しながらも核抑止レベルの核兵器を開発所持するか、つまり二つに一つを選択するしか道はないということになるのである。しかし、議論ではあるにせよNPT違背を前提とすることはあってはならないことなので(北朝鮮と同じ道を歩むわけにはいかない)、議論の流れは核の傘を中心とした同盟化の促進にむかうと思われる。もちろん、どんな同盟に加わったとしても100%の安全はありえないうえに、当然のこととして相応の危険および費用負担(思いやり予算とか)を求められることから同盟参加も楽な道ではないといえる。さらに、軍事同盟とは攻守において全力をつくすことを前提にするものであるから、あなた任せは通用しないことはあたりまえであろう。あなた任せでも助けてもらえるのは地位において属国であるからであって、この点はハードボイルドというか、自国軍人の生命がかかわることからドライかつリアルな関係になることは当然といえる。

 さらに、生物化学兵器は戦術核よりもハードルが低いと思われる。化学兵器は近過去において使用例が報告されているが、国際社会は有効な防止策をとれなかったと批判されている。また、現下のパンデミックの経験から悪魔的な着想をえる某国指導者の存在を否定することはできない。これらの兵器の使用については、使用者証明と与罰がセットにならないかぎり抑止は難しいと思われる。悪魔のささやきに耳を傾ける某国指導者は単数ではない、複数それもかなり大きな数になるかもしれない。という難題が目の前にある。

核拡散防止と核兵器廃絶、困難ではあるが一歩を進めるほかに手はない

◇ 五に、ということでそろそろ核兵器をめぐる議論の整理が必要になっているといえる。これは議論だけを整理すればいいということではない。しかし、議論の整理でさえできないということは混乱状態にあるということであるから、核拡散防止と核兵器撤廃・廃絶を(この二つは廃絶が完了すれば、開発管理は残るものの拡散防止は不要であるが、完了するまでは拡散防止は必要であるから保有を是認せざるをえないのでなかなか廃絶できないという、つまり理想においては並立しているが、現実においては背反している)、現実的に一体化するための方向づけが可能になるよう今一度の整理が必要ではないかというあたりまえの提起である。同時に議論の場をどこに求めるのか、議論のルールとコントロール(レフリー)をどうするのか、具体的には常任理事国の権能の抑制と執行力の確保など国連改革をはるかに超えるスーパーレベルでの改革が求められるであろう。でなければ、核兵器をめぐる議論の整理はつかないと思う。今回は1945年時点での戦後処理から受けつがれた世界管理体制の流れにあって、ソ連の地位の相続者たるロシアが反則行為を犯したことが発端であるから、原理からいって常任理事国の権能を有効化することは矛盾増幅を引き起こすことになる。

 といった議論を含め、超大国や大国のエゴからくる無関心、あるいは多くの国が採用する利益主義など、議論がまとまらないベクトルがやたら集合する国連のなかで、正直途方に暮れるのである。きっと地球人には無理な仕事かもしれないと。くわえて、旧ソ連が保有していたとされる「死の手」と呼ばれる自動核報復システムがロシアに残存されていることが事実であれば、それこそ核による恫喝であるから、そういった邪悪な仕組みについてはロシアの人びとの発意と責任で除去すべきではないか、つまりだれを守るための仕組みなのかと真剣に考えるべきで、まさにロシアの人びとの倫理と勇気の問題であると思う。

 といいつつ、ロシアの人びとにだけ倫理と勇気を求めるのも公平とはいえないであろう。先ほど述べた核の傘同盟への収斂は当面の問題解決の一つといえるが、他方で重大な危機を生みだす側面を有している。つまり局地対立が同盟関係をとおして全体へ飛び火しやすい構造になっていることは否めない。核兵器だけに限定しても、米ロ中の三大保有国が鼎立するのか、対立(米対中ロ)するのか容易には予想がつかないなかで、核の傘同盟をベースにした新たな冷戦構造が生じる可能性を否定することはできないであろう。

整理をしながら議論をすすめなければ 

◇ 六に、前項のように整理がつかないなかで、あらゆる議論が沸騰する状態を、たとえばわが国に持ちこめばどうなるであろうか。どちらかといえば論理よりも情緒に流れる傾向をもつことから、国内議論はもつれた糸さながらの状態を呈すのではないかと心配である。整理しながら議論を進められることが民主政治を支える力だと思っているので、議論もなしに多数決で決めるとか、ごちゃまぜの議論が沸騰するだけでは民主政治とはいえないではないか。

 理路整然と問題を解きほぐし、必要な討論を経て選択関係を整理したうえで多数決原理で決するといった経過が大切なのである。また議論によって問題構造が変わることがありうる、したがって選択関係が変わることによって想定されていた結論も変わるといった、議論と結論の可変性が許容されないと、形だけの議論におわり結局民意の凝集が中途半端に終わることになると思われる。とくに核兵器への対応といった巨大で深刻な課題については民意の凝集こそが重要なのであるが、ややもすると議論や討論を消化試合に貶める可能性もあり、十分な監視が必要と思われる。

 

地上にゼロリスクはない、衰退途上国の対応は限られてくる

◇ 七に、あえていえば地上にゼロリスクはないという真実を、自然災害大国であるわが国として自然災害に人為災害を重ねたうえで、総合リスクとして冷静に受けとめていくことが必要ではないかと考えるのであるが、くわえて紛争が生みだす経済不調と強力な経済・金融制裁が引きおこす経済後退、また反作用として生まれる制裁側の経済制限などによるトータルの被害も相当に大きいもので、それらは公的統計にて把握されるものよりもはるかに大きいのではないかと思われる。いってみれば人びとの被害は為政者が思う以上にさまざまでありかつすこぶる酷いものなのである。

 そのうえで、温暖化対策やSDGsさらに新たなパンデミックへの対応などが重畳的に経済減速に働くものと受けとめられることから、世界規模で政情不安が深刻化するのではないかと危惧される。

 ことほどさように、私たちの生活が多くのリスクに囲まれていることを十分認識したうえで、期待している水準の豊かな生活を享受するためには相応の危険負担を覚悟しなければならないと考えるべきであろう。とくに火山列島に暮らす私たちは非常に高い確率で噴火、地震、津波などの災害に遭遇することから、直接被害にくわえ予防から復旧までの経済負担を強いられることになる。また、台風をはじめ気象災害においても大変厳しいものがあり、その損害も毎年のように発生することから累積損害は大きいといえる。

 これらの被害は確実に国民経済を疲弊させるもので、たとえば冠水し廃棄せざるをえない農家のトラクターの損失を埋め合わせるのに何年もの農作物収穫を必要とする個別経済を列島全体で積分していくと膨大な規模になり、純粋に経済計算だけでいえば営農の意義すら薄らぐのではないかと重たい気分に陥ることになる。もちろん営農の意義は経済計算だけで十全とはいえないから政府の支援で復旧させることは十分理解されているとは思うが。

 問題は、力強い工業生産力の支えで自然災害への対応を余裕をもってなしえたと、そういう時代があったといえるのであるが、さてその工業生産力の多くが海外に引っ越ししてしまった現状において、未だに力任せの対応が身の丈に合っているのかという疑問もささやかれている。

 他の事象においても同様であって、一言でいえば人口減少、経済停滞による衰退途上にある国家がさまざまな自然災害に対しどのように対応していけるのか、冷静に考えてみる必要があることはすでに人びとは理解しているものと思われる。

 つまり、多くの人からは嫌がられる議論ではあるが、まずゼロリスクはありえないとしても、私たちの生活におけるさまざまなリスクを、十分であるのか幾分であるのか多少であるのかその程度は大いに議論のあるところであるが、国力の程度において受け入れざるをえないということであろう。いいかえれば、国力の衰退サイクルに入ってしまうと、今までは腕力ではね返していたリスクをも、場合に応じて受け入れざるをえなくなるということである。こういった現実を受け入れ理解することが「適応」そのものであるのだが、残念なことに必要以上に時間がかかるのである。わが国は未だ現実を直視できないつまり可哀そうな立場に立っているのであろうか。あらゆることが昔のようにはいかないのである。

 また、資源に恵まれないという厳しい現実は、それらの資源の希少性が高まれば私たちが支払わなければならない対価は高くなり、結果として私たちは貧しくなるのである。たとえば東日本大震災の結果として原子力発電が出力ゼロになったことが、発電のための化石燃料の輸入増をもたらし、年間数兆円の所得流出となった。これは国民一人当たり数万円の所得、すなわち消費が失われたことになるが、復旧事業などの埋め合わせがあり表面上はさほどの減速感を感じることにはならなかったといわれている。しかし、別途会計である国の負債は大きく膨らんでいるのである。

 さらに、人材こそが有用な資源であると胸をはって語られた時代があったのは事実であるが、その人材も人口減少によって枯渇化に向かっている。さらに能力開発への投資は先進国とは思えないほどの貧弱さを誇って(?)いるではないか。といったように国の強みと弱みの両面においてほとんど無策にちかい30年を費やしたわが国の軌跡をふりかえるときに、なにが一番の禍(わざわい)であったのかと問えば、百を超えるなるほどと思える答えを得るのであろうが、筆者がここで特別に指摘したいことは、今日の人びとのリスクへの理解と処し方である。中でも、安心と安全の混同であり、また安全が常に確率概念であることの理解がほとんど一般化できていないことにくわえて、安心と安全を求める気持ちを生のままで政治の世界に持ち込んでいることである。

 安心はそれぞれの気持ちの中に生まれるもので、安全は気をつかい金をつかって作るものだから、どちらにしてもどこかで折り合いをつけなければ収まらないといえる。収まらないことにあれこれと時間と金を費やす算段に明け暮れているものだから、必要なところへは時間も金もいきわたらないから、この先あまり発展しそうにない、ということではないか。

  

経済制裁、金融制裁をどうするのか、終わってから始まる大問題

◇ 八に、このロシア(プーチン)によるウクライナ侵略もいずれ終止符をうつ時がくる。で、その終わり方については現時点で予測することはできない。また、経済制裁あるいは金融制裁が直ちに解除されるかどうかは分からない。というのは、制裁の主たる目的がロシア軍の撤退を促すという点に力点があるのなら速やかに解除される可能性が高いと考えられるが、侵略行為への罰としての制裁であれば、終わり方によってさまざまに変化するであろう。とくに今後の平和構築の形によると思われるが、国境線をどうするのか、2014年のクリミア併合の処理、東部2州の扱いと親ロシア地区の地位の問題など難問が山積みになっている。さらに、被害の回復をどうするのかなど微妙な問題も多くあり、けっして楽観できるものではないと思われる。

 つまり、問題の箱はまだ明けられていないのである。また、終わってから始まるのであるが、決して楽観できるものではないとしかいいようがないのも正直なところである。

第三次世界大戦は避けられたようだが、避けられない対立がある

◇ 九に、米国がNATOの立場からも第三次世界大戦を避けた趣意については理解できるところはあるといえる。もともと政治的立場によって判断が分かれるのは当然のことではあるが、2022年の今日にあって大戦の危機が現実を動かしたということが意味するところは、そうとうに深刻なものであったと思われる。表現を過去形としたが、大戦の危機なるものが消失したと考える合理的根拠はないわけだから、大戦の危機は続いているのであろう。つまり、ウクライナの地にNATO軍を派遣すること、戦闘機を供与すること、ウクライナの空域をNATOの監視・統制下に置くことなどを実行することが大戦の端緒になりうるだろうという想定が、30日余を経て今日では「確実な端緒」に双方がしてしまったのではないか、と疑っている。

 では上述以外であれば大戦の端緒にはならないといえるのであろうか。と問いを重ねるごとに、大戦の端緒が増えていくように思われる。これは一見チキンゲームのようで、恐れる側が負けるとすれば、ロシアとしては端緒となりうると相手が思う事項を際限なく増やしていくことによって優位に立とうとするであろう。ということで、ゲームがそのような膠着状態に陥った時の戦術、つまり状況一変の策は端緒となりうる事項を実行することであるが、ともに非妥協の状態に陥った時点でそれをやると危機は最大となる。といった危機の責任についてやり取りしている間にも爆発するかもしれない。

◇ 米国がもはや世界の警察官ではないと宣言してからもう何年になるのか、たしかに体を張って世界の平和を守るしんどさについては日本に住むわれわれが簡単に論評できることではないが、観念的には理解できる。だからといって米国の役割や責任が軽減されるものではない。もちろん今となってはアフガン紛争もイラク戦争も他に選択肢があったのではないかという批判もそれなりに説得力をもっているようであるが、そういった歴史回顧を今やっている場合ではないことだけは確かであろう。

 今起こっていることは、どのように表現してみても歴史上は「ロシア・ウクライナ戦争」であり、実態からは「ロシアによるウクライナ侵略戦争」と呼ぶのが妥当であって、また、米欧日を中心とする大規模な経済制裁は実質的には敵対行為であるから、正義の旗がいずれにあるかは別として、国際的に公正な後始末が必要であると思われる。それも大戦の危機という死神が現れる前に、である。そこで、プーチンに為政者としての資格があるのかといった議論の前に、プーチンに為政者としての握力が残っているうちに後始末にとりかからなければならないのではないか。そうでないと、後始末にはならないつまり混乱の増幅を引き起こしかねないことになるであろう。ということから、当事者として米国は対応しなければならない。

◇ そこで尚早ではあるが、また発端は別としても、秘められたテーマとして某国指導者の失脚を企図する意が暗黙裡に形成されていた可能性もありうるわけで、経済制裁の効果を吟味しながら、阿吽の呼吸で形成された暗黙の企図を完遂すべく、本気でそういった処理にあたる向きも考えられるが、なんといっても相手は軍事大国で膨大な核兵器を所有している現実を直視するならば、無謀な始末のつけ方は最悪の事態を招きかねないといえる。だから、プーチンのいるロシアとプーチンのいないロシアのどちらが危険であるかについて定説があるわけではないのだから、激昂もほどほどにといいたい。終結は、人びとに不満があるのは仕方がないとして、それでも多少の理解と少しばかりの納得がなければ不成立であるから、両国の人びとの思いについてはしっかりと受けとめなければならないといえる。

 そして、ロシア国民が受ける経済不調はプーチンがもたらせたものであることを、制裁側としては丁寧に説明しなければならないだろう。

◇ 100年前にタイムトリップしたかのようなプーチンのウクライナ侵略が与える衝撃は社会、経済、政治の分野にとどまることなく人びとの心のひだまでにおよぶと思われる。人びとはこの衝撃に直面するし直視しなければならない。また、政治思想あるいは政治哲学の分野にも強い影響をもたらすと思われる。それらについて今の筆者は全体像を捉えられないでいる。

 自由と民主主義にどれほどの価値があるのか、と問われている。欧米が中心となって育ててきたそれらの価値観について、ロシアや中国にかぎらず多方面からさまざまな問いが投げかけられているが、概念でいえば平等とか安定が挑んでいるようにも見うけられる。単純な争いではないだろう。時間もかかると思われる。また、武力や権力で決着をつけるものではない。

 わが国においても同じである。人びとが自分のこととして考えるべきであろうが、さてどうなることやら。まずは哲学、思想、宗教に火がつくのではないかと、ひそかに期待をしているのだが、いくつかの点で甘いかもしれない。(文中敬称略)

◇ 雪やなぎなぜ白いのか春の日に 

 

 

加藤敏幸