遅牛早牛

時事雑考「衆議院予算委員会-一番野党よ、膾(なます)を吹いてどうするの」

「2回目接種から原則8か月以上」がもたらした影

◇ 衆議院で地味な予算委員会がつづいているが、2月14日のそれは興味深いものであった。長妻昭議員(立憲民主党)が3回目のワクチン接種について後藤、堀内両大臣に厳しい質問を浴びせた。質問の焦点は、昨年11月15日に開かれた厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会での諮問内容などについて、翌16日におこなわれた後藤厚労大臣あるいは堀内ワクチン担当大臣の記者会見の内容が、「2回目接種から8か月以上」に重心がおかれ、「地域の感染状況に応じて6か月以上であれば接種可能」とする分科会での方向性を押し戻してしまったのではないかという問題提起であった。また、質問の背景にはオミクロン株の感染拡大がピークを迎え、高齢者を中心に亡くなる方が急増している2022年2月の悲惨な状況のなかで、長妻議員の指摘はその原因のひとつが「押し戻し」によるものではないかというもので、そうであるならまさに人災ではないかという非難をともなうものであった。(予算員会の映像や分科会の議事録などから確認)

 しかし、映像や議事録を見るかぎり、2月16日の記者会見について「8か月以上を原則としつつも感染状況に応じ6か月以上であれば接種可能」とする諮問内容をなぞったものであったという後藤大臣の答弁はその通りで、押し戻したという指摘をささえる直接証拠を見出すことはかなり難しいと思う。

 ただし、2月11日には河野太郎衆議院議員(自民党広報本部長)がBS-TBS「報道1930」で、「8か月には、私は根拠はないと思ってます。これは完全に厚労省の間違いだ。それは素直に認めないといけない ー略ー」と発言し、オミクロン株による感染爆発への対応が3回目(ブースター)接種の遅れなどによるのではないかという世間の反感に対し、ひとつの見方を示したものと思われるが、そういった河野議員指摘の役人責任論ではなく、政治家責任論がありうるというのが長妻議員の主張であるなら、その点は賛同できる。

◇ では、役人責任論と政治家責任論であるが、そもそも政治家といっても大臣の任にあるのだから、もともと役人を指揮、監督する立場にあるわけで、そういう意味では役人責任論は一歩間違うと政治家の責任回避に聞こえることから、扱いは慎重になされるべきであろう。では、薬事承認上は6か月以上の間隔を必要としているものを、接種実務において原則8か月以上としたことの根拠については、先行していた各国の接種間隔の平均値を採用したのではないかとか、接種実務にあたる自治体の準備体制あるいは保有ワクチンの絶対量や配送などが関係しているといった見方が伝えられている。ここで間違いだと一刀両断に切り捨てることができる人はともかく筆者もふくめ普通の人には何のことやらさっぱり分からないので、ぜひとも真相を聞かせてほしいものである。

◇ このことについては、たとえばNHK NEWSWEB「3回目ワクチン接種『2回目からの間隔 原則8か月以上で』厚労省」(2021年11月17日21時04分)によると、「来月12月1日から始まる予定の新型コロナウイルスワクチンの3回目の接種について、厚生労働省は17日に全国の自治体を対象にした説明会を開き、2回目の接種からの間隔を原則8か月以上とするよう求めました。」と切り出し、経過を伝えた後段において「説明会に参加した自治体の担当者はNHKの取材に対し『8か月で準備していたので正直ほっとした。ワクチンの配分がどうなるかなど先が読めない状況が続いているので、国はわかりやすく説明してほしい』と話していました。」と報じている。

◇ いずれにしても2022年2月時点をいえば、年が明けてからの感染拡大が国民の不安感をかき立てていたことは確かであり、さらにほとんどの人びとが生活や経済への悪影響などを体感していたことから、政治への風当たりがことさら厳しくなったのは当然であろう。という状況での衆議院予算委員会であったから、人びとの注目も高まるのではないかと考えていたが、予想よりも低調なので少しがっかりしていたところでの2月14日の質疑であった。

打てるときに、打てるところから、さっさとやっておけばよかったと、人びとは単純に考えている、で多くの場合それは正しい

◇ さて、1月に入ってからの感染拡大(爆発)への政府の対応が、決して褒められたものではないという世間の受けとめが、原因追及あるいは犯人捜しの気運を支えているのではないかと思われる。いってみれば、3回目接種が数週間早ければ助かった命もあったのではないかという悔恨の情も関係者にはあるのだろう、また再度厳しい事態を迎えている大阪府に対するキツイ評価など行政実務への関心が高まっていることも、背景としてあるように思われる。

 ここで筆者の感想を述べれば、2月14日の予算委員会での後藤厚労大臣の答弁については、役人の頭目である大臣としての答弁ととらえればそれも「ありかも」と思うのであるが、しかし岸田総理がいっている「先手」とはこの場合何であったのかと考えを巡らせれば、ここは政治家として反省もふくめ率直なところを国民に語るべきであったと思っている。ということで後藤大臣の答弁は「ありかも」知れないが、内容としては大いに不足といえよう。昨年11月の時点ではこんなに感染拡大するとは思わなかったという言訳が通用するのなら、この世に政治家なんぞ要らないではないか、また11月15日の分科会で「『地域の感染状況などを踏まえて自治体の判断で、8か月より前に3回目の接種を行う場合は6か月以上の間隔をあける』とする案を示し、了承されました。」(前述のNHK NEWSWEBから)と伝えられている分科会のせっかくの了承が何の役に立ったのか、活用する気が本当にあったのかなどの疑問が残るのであるが、せめて12月あるいは1月から実施できていれば、高齢者における3回目接種率は今日相当の水準になっていたのではないかと思えば、まあ残念ということであろう。

 政治家には想像力を働かせることが大事な局面があるといわれるが、問われているのは昨年11月に何を想像したかであろう、政治家として。という議論である。

 

◇ 前々から、自民党を中心とする保守グループについて、現状対応型の政治はずいぶん得意であるが、体系的なものは苦手ではないかとしつこく指摘してきた事例のひとつがここにあると思う。それは、昨年の11月頃は全国の感染者数も三桁止まりで、ほっと一息ついていた時期であった。しかし、欧州はオミクロン株の感染爆発に遭遇し大変な時期であった。また、多くの人がいずれわが国もと心配していた時期でもあった。だから、この時期に何をなしたかが重要であると常識的にはそう考えるべきであろう。

 いいかえれば、たしかにわが国の「今日」は平穏であっても、「明日」は分からないといった状況下における政治家の役割は、いわずもがなであるが「明日、明後日」を心配し手を打つことであろう。つまり、平穏な今日にかまけて明日を怠けてはならないということで、ここで大切なのは、昨年11月、12月に危機意識をもち、大車輪で手をつくしておけば助けられた命があったのではないか、という指摘から逃げてはいけないということではないか。

国民のためにリスクをとる政治家はいずこに

◇ そういう問題意識をもって2月14日の予算委員会でのやり取りを反芻すれば、ミスさえなければ合格という保守政権の評価基準では有為な政治家が育たないのではないかと危惧するもので、いいかえれば、政治家個人として多少のリスクはあっても、世のため人のためにはあえて挑戦するといった精神をもっと評価できる仕組みをもたなければ、パンデミックのような災厄を乗りきることはできない、ということである。もちろん、ここでいうリスクは政治家としての出世にかかわるもので、国民が被る危険とは別のものである。残念ながらよくある例が、政治家個人は一切のリスクを負わず、その分国民それも将来の国民に大きなリスクを負担させるというもので、それじゃあ三流にも及ばないと断ぜざるをえないのであるが、そういった評価軸と選挙の当落とがまるで関係してないところが思いっきり日本的であって、そういった風に原因と結果がテンでバラバラなのが「みんなでゆっくり衰退」している原因かしらと思ったりしているのだが。

 ともかく次の選挙では、予見的にまた総合的に立案し実行できるのかという観点からの評価もあっていいのではないかと期待したいのであるが、やはり有権者が積極的に評価軸を創っていかないと、主権在民にはならないと思う。

膾は吹かなくてもいいのに、落ち着け立憲民主党

◇ ところで、立憲民主党は、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いているのではないか。「批判ばっかし」という批判は、参照とすべき物差しを示さずに、「もっぱら非を鳴らす」ところを衝いていると筆者は考えている。2月14日予算委員会での追求も、パンデミックの渦中にあって国民から求められている「先手」あるいは「先見性」を指し示しながら、現在の政権に欠けているサムシングエルスを衝けば、文字通り提案型の質問になったと思うのだが、まことに「惜しい、あと一歩」と不遜なることは重々承知のうえで、一言申し添えたい。

 さらに蛇足ながら、政治は往々にして人災を招くので普段から心して事に当たらなければと思っている。だから、「人災ではないか」との決め台詞はもっと溜めてから使わないと、もったいないというより「軽く」なるのではないかと思う。

◇ 颪(おろし)止み独り烏がアンテナに

加藤敏幸