遅牛早牛

時事雑考 「国防論議について、左派グループは豹変すべきである」

豹変

◇ 「豹変すべきである」。プーチンロシア大統領のウクライナ侵略をうけての国防論議に対する左派グループへのささやかな贈語である。筆者は、立憲民主党(立憲)に対しては「憲法9条改正(自衛戦力保持)を主導し、日米安保条約の実質対等化を目指す」ことを方針化すべきではないかと、ウェブ上で勝手に例示しているのだが、あいかわらず動きはないようである。常識的にはありえない話なので悲観はしていない。おそらく一周遅れで気がつくのではないかと受けとめている。

 ところで、平等原則からいって、日本共産党(共産)にも社民党(社民)にも同様のことを求めるべきであろうが、無駄になると思われるのでやらないでいたのであるが、意外なことが起こっている。ようするに、赤い旗と白い旗が同時にたなびいているのである。

◇ 「共産党は7日、全国都道府県委員長会議を党本部で開いた。志位委員長は『共産党の躍進で自民党、公明党、日本維新の会、国民民主党による平和を壊す翼賛体制を許さない審判を下そうではないか』と述べ、従来の与党と維新に加えて国民とも対決していく方針を示した。」(注1)と伝えられているが、ガリガリの思考を変える気はさらさらないようだ。

 で、立憲は、「立憲民主党の泉健太代表は8日の記者会見で、共産党の志位委員長が『急迫不正の主権侵害に際しては自衛隊を活用する』と発言したことを歓迎した。『全国民が自衛隊は大切な存在だと認識している。わが国の国防を担うのは自衛隊だと多くの政党が認識することは、基本的によいことだ』と述べた。」(注2)ことにくわえ、「その上で『明確に、自衛隊は合憲だという理解をしてもよいのではないか』と共産に呼び掛けた。」(同)ようである。

◇ 引用文中の「平和を壊す翼賛体制」と志位氏が指弾しているのは、憲法9条改正に動く政党を指していると思うのだが、ともかく憲法9条改正が平和を壊すことになるとの理屈がまずもって分からない。さらに、その理屈を説明することなく「平和を壊す翼賛体制」と一方的にレッテルを貼って一件落着とするいつもの手口も、独りよがりの感性もあいかわらずということであろう。

 といいながら、他方で「急迫不正の主権侵害に際しては自衛隊を活用する」とも述べていると伝えられているのだが、それでは自衛隊にかかわる法律すべてを是認するのかと問いたい。また活用するための根拠法はどうするのか。つまり細部については選択的に対応するのか、どうかである。さらに、活用するのは自衛隊だけではないだろう。日米安保条約により米軍も出動するのだから、上から目線まるだしの「活用する」だけでは言葉足らずではありませんか、といいたい。ところで、活用とはいかにもしぶしぶ感があふれていて、どちらかといえば傭兵に対する口ぶりに近いと感じるのだが、まあ本音がでたのかもしれない。あるいは日米安保条約を否定した時点から、思考停止しているためなのか、結論は常識的だが、論理過程は支離滅裂とはいわないが、不連続あるいは破綻していると思われる。

 蛇足ながら、わが国への主権侵害(攻撃)に対しては、日米安保条約にもとづく共同行動、つまり同一指揮系統下での反撃となるわけで、現実には両者(自衛隊と米軍)は一体不可分といえる。 

 といった常識の範囲内での、つまり分かったうえでの発言だと思われるが、それでも「平和を壊す翼賛体制」と「自衛隊の活用」がかなり異なる文脈に属することから、赤旗と白旗が混じった不思議な光景に見えてしまうのだろうか。筆者としては、本気で「自衛隊の活用」を考えるのであれば、憲法9条を改正し、必要な法的整備を図るのが自然な対応であると考えるのだが、どうされるのか注目したいと思う。

共産の真意について立憲は糺すべきである、でないと矛先は泉氏に向けられる

◇ そこで、今回は共産の認識を俎上にのせるのではなく、泉氏の選挙協力をにらんでの小局べったりの認識では、不安に思っている人びとへの答えにはならないのではないかという問題意識をもちながら、立憲の国防意識を俎上にのせたいと思う。

 つまり、先ほど引用した志位氏の、綱領とは異質な発言について「基本的によいこと」で、「明確に、自衛隊は合憲だという理解をしてもよいのではないか」と発言することで済まされる問題であろうか、ということである。もちろん、世界的な安全保障上の環境変化に遭遇し、ようやく共産も覚醒したのだから結果オーライではないかという見方もあるが、もともと日米安保条約破棄・自衛隊廃止と大騒ぎしていた共産の根っこの議論が、事情によって「活用」に変化するのだから、要は「その程度のもの」であったのかと、筆者などは大いに白けてしまうのである。そういうことなら、「早く綱領を変えたら」と呼びかけるべきではないだろうか。

 だから、共産ではない立憲として、志位氏の言説による共産の都合主義を批判しなくていいのですか。また「国会は、理屈を、理論を、倫理を、価値を、そして未来と現実を言葉で争う場ではないのですか」と、さらに「野党であっても互いに論争が必要であることは当然のことではないですか」とも。

 というのも、野党には政策実践の場がない。つまり論理の場しかないのだから、その論理においてぶつかり相互に磨きあわなければ、有権者から見て「くすんで」しまうのである。現在の野党の不振の一因がこの政策や論理の「くすみ」にあると筆者は考えているから、せめて理屈の世界だけでも際立ってほしいものである。おそらく多くの批判が共産に向けられると思うが、その矛先は志位氏だけではなく、泉氏にも向けられるのではないかと考えている。

自衛隊合憲・日米安保容認で収まるのか、国民の意識は先をいく

◇ 国防をめぐる議論において、立憲と共産との認識の違いを取りあげて両者の離反を図るといった気は毛頭ない。むしろ選挙協力を進めるのであれば、安全保障政策の近接化を図るべきであるが、共産の現状認識があまりにも固陋(ころう)すぎて、近接には無理があり、せいぜい立候補調整にとどまるのではないかと思う。ということながら、まずは立憲による政策調整を強化するべきとなるのだが、調整の結果が自衛隊合憲ぐらいでとどまるようでは話にならない、それでは立憲が割を食うことになる、ということであろう。

 しかし考えてみれば、昨年10月の衆議院選挙における4野党政策協定もあったではないか。2015年安保法制については「違憲部分廃止」だったのではないか。なのに「自衛隊を活用」との言葉を発した以上、自衛隊にかかわるすべての法律を受けいれなければ「自衛隊を活用」することにはならないと考えるのが通常の感覚であろう。くわえて、より活用するための環境整備も必要であり、とくに軍隊として「普通の扱い(国際基準)」が求められていることに、どう対応するのか。など課題が山積しているにもかかわらず、立憲としてニコやかに「歓迎」している場合ではないだろう。むしろ、そのような共産のいい加減なところを、立憲が糺さなければ選挙協力の木が朽ちていくのではないかと思う。(やる気がないのならそれでいいのだが)

 もともと厳しい状況に追いこまれている野党選挙協力であるが、さらに志位氏の発言が本気であるとすれば、野党選挙協力の大義が問われるであろう。つまり、自衛隊違憲・安保廃棄を目指すグループを切りすてる覚悟なのか、あるいは一時の方便なのか、どちらにしても有事に自衛隊に頑張ってほしいのか欲しくないのか、とくに立憲としてまずここをハッキリさせるべきではないか、と考えるのが出発点であろう。

日本社会党の衰退から学ぶ、環境変化への適応

◇ かつて日本社会党(社会党)の委員長であった村山富市氏が、自由民主党(自民)から自社さ政権樹立への強い要請をうけて、内閣総理大臣に就いたが、流れとして立場上「自衛隊合憲」へと党方針の変更を求めざるをえなくなり、結局そうなった。しかし、「自衛隊違憲」は非武装中立論に淵源をもつ、護憲政党社会党の看板政策であったのに、なぜか総理の椅子とあっさり交換してしまった、と人びとには見えたかもしれない。また、「自衛隊違憲」とは「その程度のもの」だったのかといった侮蔑の声も聞かれた。

 村山氏の人望や人気はともかく、その後の社会党は社会民主党と名前を変えながら、また民主党結成もあり、静かに衰退していったのである。

 政権復帰に対する、自民党の得体のしれない強烈な執念が生みだした村山総理大臣ではあったが、その評価はいまだに定まっていないと思う。ただし、1995年段階において、長らく老舗野党であった社会党から看板政策を取りあげて、日米安保体制下の自衛戦力保持を認めさせたことは、戦後のわが国を長らく二分してきた、最大の政治的対立を事実上解消したともいえる。ただしその経緯は実に奇天烈であったといわざるをえない。

◇ 当時社会党内でどんな議論があったのか、あるいはなかったのか、それさえ分からない、残っているのは土井たか子氏(故人)が衆議院議長に、村山富市氏は内閣総理大臣に就任したということであって、決して両氏を非難する文脈ではないのだが、もし本気で議論していたなら出るはずのない結論を、意図せざる事態から手にすることができたのは、まさに天の配剤としかいいようがない実に不思議なもので、しかもその結論をえた瞬間に、社会党の歴史的任務が終了したという皮肉な事象に、そういったことも歴史として起こりうると納得しながら、であるからこそ逆に自民党では決してできなかったであろう村山談話を、発することができたのではないかと思ったりしたのである。

 ということで、世にいう55年体制の終焉時期に、わが国の安全保障体制の根幹が、主要な反対者によって政治的に確定したことの意義はとても大きかったと思っている。それは議論ではとうてい達することのできない結論であって、現実的な外交安保政策を旨とする筆者としては、結果オーライであったが、一方落ち着かない何かが心中に生じたことも確かであった。

2015年安保法制の闘争はなんであったのか

◇ ということで、自社さ政権下で日米安保体制のもとで自衛戦力を保持することが共通前提となったはずなのに、熾火(おきび)が微妙に残っていたのである。先ほど奇天烈であったと表現したが、それは議論によらない経路で生みだされたことを指している。つまり、討議によって自衛隊違憲論を棄却できなかったことから、時間経過とともに復活を許すことになったわけで、もともと議論をしていなかったのだから、元に戻るのが当然といえば当然であったといえる。

 それが顕著に現れたのが、2015年安保法制への対応であった。前年の2014年に当時の安倍晋三総理の主導による、集団的自衛権に関する従来の内閣法制局の見解を、簡単にいえば違憲から合憲に変更する、いわゆる解釈変更によって議論の舞台が大きく広がったといえる。そういった乱暴な手法に走らざるをえない時代背景として、中国の台頭ならびに軍備拡大による、東シナ海あるいは南シナ海また台湾海峡などにおける緊張の高まりが挙げられるが、現実問題として日米の協力関係をより双務的にレベルアップするひつように迫られていたこともあり、また憲法改正が見とおせない中で、限りなく禁じ手にちかい手法をやむなく使わざるをえなかったという理解もあったが、他方で憲法をないがしろにするとの痛烈な批判が生じたことは当然のことといえる。助走のない、いきなり結論をぶつけるやり口は、当時の首相の得意(特異)技なのか、売らなくてもよい喧嘩を無理に売って派手派手しく対立構造を盛り上げていく、そういう策略ではなかったかと今では思っている。国の命運にかかわる安全保障のあり方については、もっと包摂的な合意形成の努力を与野党がなすべきであったと反省している。結論も大事だが経過も大事であると考えるのだが、わが国の民主政治の成熟度が問われていたのかもしれない。

盛りあがったが、政党支持は広がらなかった

◇ 集団的自衛権を、解釈により限定的に合憲化したうえで、2015年平和安全法制整備法案と国際平和支援法案(文中では2015年安保法制とまとめている)が提出され、国会外での反対行動が盛りあがる中、秋には予想通り成立にいたった。この一連の経過について、第三者の評価にゆだねるべきものと考えるが、その後の民主党(民進党)の変遷をみるにつけ、憲法解釈と2015年安保法制に対する党内での考え方の違いが、その後の離散を導いたのかもしれない。当時の民主党が、反対一本でまとまっていたわけではないことは周知のとおりであるが、時の岡田執行部の指導は全面的な対決路線であった。もちろん、翌2016年夏の参議院選挙での選挙協力も念頭にあっただろう、また例年になく盛りあがったと思われる国会外反対集会などに、新しい潮流を感じたのかもしれない。なにかしら日をおうごとに全面対決へと盛りあがっていった感じで、筆者などはとりのこされた一人であった。その盛りあがりの流れで、8月には民主、共産、社民、生活の4党の代表者の勢ぞろいが、反対集会で実現したのであるが、その後の流れから振り返れば、それはそれだけのことであって、有権者の支持が大きく広がったということではなかったといえる。憲法論議はどんなに盛りあがっても限定的であり、多くの国民は外交安保については現実主義なのであろう。有権者にとって中国の脅威は肌感覚であり、憲法論議はあくまで昔の授業なのか、全国規模では4政党は浮いていたのかもしれない。(文中の民主あるいは生活は当時の民主党、生活の党の略称)

左派グループはもっと早く変わるべきであった

◇ そこで結論からいえば、左派グループ(筆者が立憲、共産、社民などを勝手にまとめて称している)はもっと早く変わるべきであった。外交安保で政権に挑戦状を突きつける戦術の愚を悟るべきであった。(外交安保は外部環境への適応であるから、自律的政策に依拠しがたい上に、同盟関係があるので野党にとっては常に不利な条件にある。)

 今日では、多くの人びとは中国の脅威をひしひしと肌感覚で受けとめていると思われるが、さらにウクライナ侵略については、ひどい現実として身近に受けとめている。肌感覚や現実として受けとめていることを議論で覆すのは難しい。くわえて、北朝鮮が国連決議をあざ笑うように核開発再開に走りはじめ、またすでに長距離弾道弾を手中に収めようとしている。というように、わが国を核兵器を保有する専制的で権威主義的かつ非民主的国家が取りかこみ、威圧的な示威行為をくりかえすなかで、多くの人びとの不安は一層高まることになるであろう。そんな中で、2015年安保法制の違憲部分について廃止するという主張が、どれほどの共感をえることができるのか。また、昨年の衆議院選挙での野党選挙協力の前提に2015年安保法制反対闘争があったとすれば、その関係を引きずっての連携には、今日のわが国をとりまく厳しい安全保障環境からいって、内部にキズを抱えこんでいるのではないかと、危惧するところである。建物でいえば、まさに既存不適格に近いといえる。

 さて話の肝は、ここで指摘されている問題に対し、自衛隊合憲・日米安保容認だけでのり越えられると考えているのであれば、それは甘い、状況認識として甘すぎるということである。なぜなら、すでに50日にわたりウクライナの惨状が日夜報道されているが、報道のたびに、人びとの日米同盟への信認が高まっているといって過言ではなかろう。日米同盟への積極貢献という新時代が始まるのではないかと思う。自民党ですら古いのである。これが今日のわが国の現実であり、時代である。

 だから、遅れてきたものは一歩二歩では間にあわない、三歩も四歩も先を行かなければ相手にしてもらえないのである。

豹変すべきである 自民党でさえ古いのである

◇ 「豹変すべきである」とは、変わるべき時には悪びれることなく堂々と、あたかも豹が毛替わりして、いっそう鮮やかになるように、改めるべきである。また時を逃してはいけない。夏の参議院選挙まで持ちこしてはならない。それまでに反戦平和のハードルを現実に即した高さに変えるべきである。でないと現在の橋頭保は簡単に抜かれ先々の再建はかなわないことになる。

 しつこいようであるが、2015年安保法制反対を引きずったまま参議院選挙に臨むのは危険である、大敗の可能性がある。また、国民生活を守るため多様なエネルギーの活用を表にだすべきである。ゼロコロナが不可能であるように、原発ゼロも難しい。有権者は、最後は現実主義に戻ってくるのだから、政党は現実を抱擁したうえで、理想を語らないと得票にはつながらないと思う。

◇ 左派グループへの贈語はこれが最後になると思う。ところで、多くの国民にとって政党の過去などは、どうでもいいとはいわないが、ほとんど関心外であろう。大切なのは今ここで何を語るのか、また明日をどうするのかについて、人びとが鮮やかに受けとめることである。左派グループがいきなり激減するのは、わが国の民主政治にとって良くないと考えているので、今回は多少無理をしながら述べてみた、ということである。

 そうはいっても、十中八九は変わらないでしょう。一周遅れでも、まだましかとも思う。

注1)「共産・志位氏、国民に対決姿勢〓『与党と同じ』―参院選」時事通信社 2022/04/07 15:51

注2)「立民・泉氏『共産は自衛隊合憲と理解をしては』」産経新聞 2022/04/08 13:37 ――本記事では「呼び掛けた。」と結語しているが、泉代表の会見録を読むかぎり呼びかけるとの積極行動までは読みとれない、その場での見解表明にとどまるというのが筆者の感想である。――

◇ローズマリィパセリにセイジあとなにか

加藤敏幸