遅牛早牛

時事雑考「政界三分の相、中道グループと是々非々」

◇ 中道は平原にあるから左右が開けている、だが右派にも左派にもそれぞれ壁があり、その壁には極左あるいは極右が陣取っている、という模式図にはこれといった根拠があるわけでもなく、人それぞれが勝手なイメージを作りあげているだけである。しかし、だからといって意味がない、あるいは不要であるということではない。もちろん、正確とはいえないがそれなりに人びとの意思疎通には役立っている。という前提でこの雑考は始まる。

中道グループの定義のための位置関係と保守グループ

◇ さて、中道を定義するためには、中道の両側に左派と右派が居ることが必要であり、右派とは前回長々と述べた保守グループのことである。保守グループの本質は現状肯定であり、それゆえの現状維持であるから、中道グループから見ると「現状そのもの」と映る。まあ、空気のようなものであろうか。だから、空気の存在を否定する論がないように、中道グループは保守グループの存在を否定することはしない。しかし、汚染された空気には厳しくあたる。また、汚染の原因を取り除き、改善したいとの強い意欲をもっている。

左派グループは現状否定が原点 立憲民主党は中道左派?

◇ 一方、左派は現状否定から出発し、現状を変革することをめざす。何をどのように変革するのか、そのためにはビジョンや理屈が必要であるから、社会主義あるいは共産主義を掲げるグループもいるが、今日では進歩主義的リベラリズムが中心であるといったほうがいいかもしれない。

 この進歩主義あるいはリベラリズムは、理想とする社会像もしくはモデルをまとめることへの関心は低いようで、どちらかといえば個別課題への関心のほうが高いようである。ということが原因なのか、あるべき理想を抜きにして、現状否定の言説だけをふりまく傾向にあり、それを聞いている人びとは不安を感じるので、「批判ばっかり」という風評に影響されることになる。「ビジョンなき批判政党の罠」とでもいうものがあるのではないかと、現在の立憲民主党を見ているとふとそのように思う時がある。

 では、現在の立憲民主党が社会主義なり共産主義と重なるところがあるのかといえば、ほとんどないのではないか。たとえば、資本主義あるいは市場経済を否定したという話は聞いていない。また、おおきな政府みたいな方向を示してはいるが、それは新自由主義的政策の修正が頭にあり、国民生活の現状を考えれば妥当な方向ともいえる。くわえて、日米関係を再定義するでもなく、あくまで肯定していることから、どちらかといえば中道左派の位置が妥当だと思うのだが、不思議なことに2020年9月の合流では中道という表現を避けていたようなので、とりあえず左派グループに納めたということで、先々は変わるかもしれない。

中道は自由な公共空間的で戦略性が高い

◇ ということで、中道については右派でもなく左派でもないという気楽な表現が可能ではあるが、それは同時に右派とも左派とも少しぐらい重なっても良いともいえるわけで、いわば原っぱのような風情と、やや出入り自由な公共空間的色彩が濃いともいえる。

 さて、自由な公共空間的といった政治広場は、これからのわが国の政治シーンを考えていくうえで戦略性の高い舞台となる可能性があると思われる。そこで、その理由を述べる前に、わが国がすでに「連立政権時代」にあるという前提を確認しておかなければならない。これは現在の選挙制度を前提とするかぎり単独政権が困難であること、また国民の政治意識が自然な形で多様化しており、両院において過半数を安定的に確保できる「政治ポジション」がなかなか見あたらないことなどからいえる。

 もし経済が順調であれば、国民の不満をまとめて慰撫する配当として賃上げや減税を用意できるのだが、現状は「配当なき負担だけ」の時代であるので、単独で安定多数を制することは簡単なことではないといえる。

【参考】 そもそも現在の衆議院における小選挙区比例代表並立制は政権交代を念頭に設計されたものである。しかし、参議院では32の改選一人区が小選挙区となっているが、人口動態の影響を受け改選定数三人以上の選挙区の比率が高まっているうえに、改選定数の約40パーセントが比例区選出となっている。

 これは、政治意識の集約化すなわち少数意見の切りすて効果をもつ小選挙区制と、多様な政治意識のすくいとり効果をもつ大選挙区・比例区制との混合型であり、どちらかといえば後者に重心があるといえる。ということから、現下の情勢からいって、選挙制度とくに参議院のそれを変えないかぎり、また政治意識の集約化つまり有権者の多数が結束することができるビッグな政治課題を見つけないかぎり、単独で恒常的に安定多数を制することはそうとうに困難といえる。では、その選挙制度の改正であるが現状は一票の格差問題だけで精いっぱいのようで、抜本改正などは見通せないといわれている。であるから、単独ではなく連立政権を模索することが常態化するわけで、その状態をとりあえず「連立政権時代」と表現することに異論はないと思われる。

二大政党制より連立政権のほうが現実的

◇ そこで思いおこせば、1993年の細川政権からほとんど連立政権であったことから、ここであらためて連立政権時代などと宣言することもなかろう。それよりも「二大政党制」にもとづく政権交代論の方が世間的には定着しているので、あえて二大政党制ではなく「複数政党の連立による政権交代」の方がスタンダードであるといったほうが、議論としては現実的であるといえる。

 ところで、二大政党制がモデルとして意味があるのは「政権交代」への可能性が高いからで、たとえば55年体制とよくいわれているが、いつも政権を担っているラージA党(自民党)と、ほとんどないスモールB党(社会党)という二大政党の組合わせでは話にならない。また、二大政党制だから確実に政権交代が可能であるということが、政権喪失後の民主党・民進党の変遷をみるかぎり期待できなくなった現状において、二大政党による政権交代ははるか後景にかすんでいるといわざるをえない。

 また、二大政党制が現実的でない理由の一つは、議論をよぶテーマのすべてを、A党対B党の対立図式にきれいに区分けすることが難しいという問題があって、とくに有権者において、たとえば教育政策はA党だが年金政策はB党が良いといったまだら支持が多いという実情を踏まえるならば、二大政党制の欠点が見えてくると思う。

 さらに価値観の多様性が叫ばれて久しいが、多様化が進めば進むほど政党を二つに集約することはほとんど不可能になることから、何も二大政党制にこだわる必要もないわけで、複数政党の連立による政権交代という、考えてみれば現状にもっとも近い方式を前提に議論を進めるのが順当であろう。

 ここで、筆者の感想を述べれば、世間に対し二大政党制と喧伝したものの、もっとも重要であった政策の体系化(系統分類)をおざなりにしたため、個別の政策論争からは二大政党制の断片すら見えなかったことから、有権者にしてみれば空論に映っていたのではないか。言葉は残ってはいるが中身は空洞というのが二大政党制の実相だったと思う。これが自身の経験を反省しながらたどり着いた結論である。

 ここで、政策の体系化(系統分類)であるが、たとえば財政規律重視であるなら消費税減税には慎重であるだろうし、赤字公債につながる財政出動には批判的になるだろう。また、現代貨幣理論(MMT)を否定しながら異次元の金融緩和を続けるのは居心地が悪いわけで、そういった政策や方針には合理的な接続性が求められるわけで、それらが大きく二つの系統に矛盾なく仕訳けられるなら、二大政党制の政策面での拮抗性が担保できるということで、有権者として気持ちよく政権選択に臨めるといえるが、そうではないということであれば、有権者からはわけが分からないといわれるであろう。

 ということは、政策の系統分類とその評価なくして「新しい政治勢力の形成」を図るのは無理筋であって、さらに反自民というだけで野党統一候補に結集するという考えはあまりにも独善的であって、多数の支持をえられるものではない、というのが昨年の総選挙での教訓であったといえる。

 考えてみれば、わが国の政界は目の前の課題処理には熱心ではあるが、構造的解析や政策の体系化は好みではない(苦手)ということで、二大政党制というものはいってみれば使いようのない舶来ものであったと、べつに良い悪いではなくそう思っている。

複数政党の連立による政権交代がスタンダード

◇ 複数政党の連立による政権交代が標準状態(スタンダード)であるとするなら、当面の議論の流れとして、どういう状況下でどういう組合わせが選択されるのかという「連立組合せ」論が俎上にのぼるであろう。

 この場合、まず中道グループ内での議論が先行すると仮定するなら、現状でいえば日本維新の会(以下、維新)と国民民主党(以下、国民民主)との連立が具体事例として対象となると思われる。といっても、当事者は当然のこととして沈黙しているのであるから、外野が先走った議論を展開することは余計なことであるうえに、議論にも限界があるのでここでは措くが、政策集を眺めるかぎり、水と油というものではないと思う。

 また、当事者からは余計なことと遮断されても、そういった連立の可能性や、対応に差のある方針あるいは政策の「折りあい方」などについて、有権者が事前に予習的思索を積み重ねることは、連立政権時代にあってきわめて重要であり、また現実問題として支持層の考えを政党側に知ってもらうためにも有意義であると思う。このようなやり取りが日常化することこそが連立政権時代の到来を実感させるものであろう。さらに、有権者が投票時に多少なりとも政権組合せを意識するなら、「他に代わるものがない」といった消極性をふくんだ一点集中型投票行動の変化を期待できることになるかもしれない。

 このような変化が生じるならば前述の中道グループが戦略性の高い広場に居るという文意も生きてくるのではないかと、自賛的ではあるがここで触れておきたい。

保守グループと中道グループの連立は時期尚早か

◇ つぎに生じるのが、グループを跨(また)いでの連立であるが、このケースでははじめにその可能性についての事前検討が必要となるであろう。つまり保守グループと中道グループまとめての連立が可能なのかという問いかけの前に、その必要性についてさまざまな角度からの検討がなされるべきと思われるが、とくに保守グループがいちじるしく議席を減らさないかぎりそういった必要性は低いままではないか、ということで、現状では政党単位で保守グループと接合する可能性がのこると議論上はいえるが、維新にも国民民主にも難問が控えていて実際のところ接合など簡単ではない。結論的にいえば、中道という政治路線があって、そのことが人びとにしっかりと根付いていない現状で連立政権に加わることは、政党のアイデンティティあるいは政党ブランドの確立という視点からいってすこぶる危険であるといえる。

 もっとも、保守グループの主力である自民党としては、中道グループの成長は利害二面性をもつことから、その対応は複雑になると想像できるが、当面は秋波をおくるなど陽動作戦を駆使すると思われる。

 こういった場合は、閣外協力に止(とど)めながら支持者や支援団体さらに有権者全体の反応を慎重に見きわめるべきであろう。筆者としては政権への参加よりもブランド優先であり、とくにわが国における中道政党の今なお低い存在感、あるいは国民にとっての価値がまだまだ定まっていない現状を考えれば我慢の時代であると思う。

 連立政権は共同責任であり結果責任である。もちろん少数政党が政権に参加する価値を否定するものではないが、場合によっては致命傷を受けるかもしれない。この点については、公明党は組織政党であり強力な支援団体が控えていて、その強さが政権毒への免疫系を支えていると考えている。なかなか真似のできないことである。一般論になってしまうが、歴史的にみれば連立政権への参加後に衰退した小政党も多いということを肝に銘じて欲しい。

 また、この国の民主政治のためを思えば、政治における「分かりやすさ」が必要で、そのためには中道グループ政党は戦術的に「閣外協力」に止めたほうが良いと思う。もともと内閣提出法案への賛成率が地べたで90パーセントを超えるのであれば、さらなる法案修正は表で協議したほうが分かりやすいといえる。昨今、政治プロセスにおける「分かりやすさ」こそが、民主政治への信頼回復の決め手ではないかと痛感している。 

 さらに余談になるが、少数政党が閣僚をだすことの利害については状況次第であろうが、だして失敗するよりもださなくて損したということのほうが傷は浅いということである。これもダメージコントロールのひとつと考えている。

小政党にとって連立政権への参加はハイリスクローリターン

◇ 政治の世界において、公論と理の支配が確立するにはとても長い時間を必要とするのであろう。だが、密話と情動の支配を許せば国を過(あやま)つことになる。公論と理の支配が確かであれば、小政党が連立政権に参加しても道理が通用するから、政治的に嵌(は)められることもないのだが、逆に密話と情動が支配する世界であれば、不明朗な事態が生じた場合には支持層が誤解するかもしれない。また、支持層の意向に反した政治判断が頻発すれば組織基盤が傷つくと思われる。だからといって、政権からの途中離脱はケースバイケースではあるが、一般論として「よくやった」と褒められることは少ないだろう。さらに、「使い捨て」とみられると集票力が落ちることになろう。

 そういった議論を進めるなかで、任務を鮮明にしたうえでの政権参加もありうるが、いいとこ取りはできないもので、時に不本意賛成を余儀なくさせられるであろう。つまり、一つのプラスのために多くのマイナスを甘受する方程式の結末は常にマイナス多めになることは間違いないから、強力な弁明力いいかえれば詭弁力をもっていないかぎり、政権参加は凶の目がでる確率が高いと思う。

 というように小政党にとって連立政権への参画はハイリスクローリターンといえるので、何らかの保険なしにはお勧めできないことになる。では、保険とは何か、それは選挙での切り札をもつことである。昔から「二つの札」とは組織票と資金であるから、最低でもどちらかをもたなければ、大政党との本格的な同盟関係は成立しないといえる。

中道には地の利がある 国民民主はもっと注目を浴びなければ危うい

◇ そこで、中道グループが位置しているところが戦略性の高い広場であるとの意味は、現状ではなく次のステージを見越しての話であって、現状のように保守グループで絶対安定多数を確保している場合は、日の目を見ないものであるということだけは断っておきたい。

 という前提のうえで、戦略性が高いというのは左右に開かれているという地政学的立地と、戸締りが比較的緩(ゆる)く出入りが簡単そうに見えることである。これは、保守グループと左派グループとの間にはブリッジ(連絡橋)は掛けられないが、中道グループはどちらにもブリッジを掛けられるということと同義である。とはいっても、現状においては左派グループとのブリッジについては拒否感が強く、鳥も通わぬ関係のように見えるが、状況は大いに変わりうるものであるから、いつまでも冷たい関係が続くとは思えない。この点は左派グループのところで述べたい。

 ところで、人の出入りが自由であるというのは歴史的に交易路や情報の交差点の特徴であって、天下の動向の観測地といえる。そこは天下になにかあればかならず動くから世間の注目を浴びる。天下の耳目を集めることこそ、維新はすでに及第であるが、今の国民民主にもっとも欠けているところである。

 そのうえで、いかなる調査においても政党支持率が5パーセントを超えていることが生き残る最低条件ではないか。いくら政党に知名度があっても支持率が低ければ、それは衰退過程と認識すべきであろう。政界とは熾烈な競争世界である。まず有利なポジションを取らなければならない。という意味で、中道の広場は公共空間的に運営すべきである。

維新は地方行政を党の執行能力の実践場としてうまく活用

◇ さて維新であるが、地域政党には収まらない特質を備えている。それは、大阪府・市の地方行政を党の執行能力の実践場として、それも二枚看板というビジュアル的手法を駆使しての巧妙な展開が今の時代に合致しているといえる。また、張りぼてではなく、地方行政での実績を証拠に、有権者が迷ったときに、まるで背中を押すように「うまいことやりよるで」とポジティブアナウンスが聞こえてくるといった感じであろうか、実に巧みである。

 こういった手八丁口八丁的な手腕は政界では案外希少で、立憲民主党などにおいては口八丁は多くても手八丁は少ない。だからお節介とは思うが参考にしたらと思う。

 さらに、新型コロナウイルス感染症への対応では、どう転んでも賞をもらえるとは思えないが、知事の映像がほぼ毎日流れ、時々市長がインパクトのある発言をぶつけるという、感心するほどの連携プレーがプラスプラスに効いていると思う。おそらく近畿ではその勢いはなお波及するであろう。

 ただし、前政権までの首脳層との強力なパイプの効用は薄れていくと思われるが、それ以上に政党としての立ち位置を問われるであろう。だから政権との距離感あるいは国政を担当する国会議員との役割分担など新しい顔つきをみせなければならない時期がきているということか。

 また、地方政治とのコラボが相乗的効果をだしているといっても、地方政治は結果責任の世界であり、多少の隘路も散見されることから、一歩間違うと「親亀こけたらみなこけた」現象を起こすかもしれない。つまり、地方政治が盤石というわけでもなさそうで、逆風への備えも必要ではないかと思う。

 そういう意味で、左派グループをコケにする売りはまだまだ売れ筋ではあるがいずれ飽和すると考えられる。また保守グループとの距離感は慎重に調整する必要があると思う。というのも有権者にしてみれば、政権外にもう一つの与党はいらないというより邪魔なわけで、後述する国民からみての価値を、中道政党としてどう受けとめるかがポイントではないかと思う。

連立にあたっての三つの整合性とひとつの親和性

◇ さて、連立にあたっては、理念や政策の整合性、当面解決を図らなければならい喫緊課題での整合性、各種選挙での競合排除と協力策などでの整合性、さらに政党幹部を中心とした人間関係での親和性など多くの論点が予想されるが、とくに支援団体や支持層において背反対立関係のないことなど、十分な配慮が必要となる。これは選挙協力が為される場合においてはなおのことで、2021年10月の総選挙での立憲民主党と日本共産党との選挙協力や連合政権云々が結果的に支援団体や支持層から強い反発や抵抗を招いたことからも、慎重にあつかわなければならないといえる。

 また、選挙の結果をうけての政治工作の結果、「できちゃった連立政権」というケースも十分考えられるが、こういったケースでは往々にして数合わせと人事に注目が集まり、先ほどの整合性や親和性が置いてきぼりになりやすいといえる。そうなると政権は短期間で瓦解するリスクが高くなる。

 

◇ 1993年の細川政権以来さまざまな連立政権があったが、そのなかで現在の自公政権がもっとも安定していたといえる。この安定性の秘訣の一つが、公明党が実利を重んじる現実主義をとり、あまり理想論に走らなかったところにあるというのが筆者の見立てである。2009年に発足した鳩山政権は民主党、社民党、国民新党の三者連立であったが、翌年5月の社民党の離脱により参議院では過半数ギリギリ(122)を維持したものの急速に弱体化していった。この連立離脱は、沖縄県米軍普天間基地の辺野古移設にかかわる閣議決定への福島瑞穂大臣(社民党党首)の署名拒否(後に罷免)に端を発するもので、問題は安全保障政策の差異を埋められなかったところにあり、政権発足時には文案的に整合していたが、執行レベルでの個別事象への対応では整合できなかったということで、「最低でも県外」というコミットメントの扱い方などもふくめすぐれて教訓的であったと思う。また、理念が優先される政党が政権に参加する場合のリスクを示しているともいえる。

理念政党の連立参加は難しい?

◇ さて、連立政権を前提とした場合、理念優先型の政党が少なからず不適応を起こしやすい項目については、事前に措置すべきではあるが、これは必ずしも簡単ではないと思われるので、多くの場合連立対象外に位置づけられると思われる。では、理念先行型と考えられる政党であるが、多くはビジョンを有する主義主張のはっきりした政党であろう。また、現状否定からの発想であるから「反○○」「脱○○」といった表現が散見されるのも特徴的である。

 この点でいえば、是々非々というのは確かに便利なところがあるものの、是は是、非は非とはいうが、では何が是で何が非なのか、その基準が事前に明らかにされないことも多いようで、皮肉を込めて見事な曖昧路線といいたい。

 これは普通には非難されるべきことかもしれないが、緩衝材としての曖昧さあるいは融通無碍というのは連立には向いているのかもしれない。

 ということで、中道グループが保守・中道政権に参加する場合のハードルは高くはないといえるが、問題は世間の反感であろう。とくに一部のメディアが権力批判として常備している「反自民」的世論に火がついた場合、基盤脆弱な中道政党は波にのまれ易いことから揺れるかもしれない。これも周到に準備すれば難しいことにはならないと思われるが、先ほども述べたようにできるかぎり慎重に対応すべきであることは変わらない。(筆者が反対すると円滑に流れることが多いのはどうしてかな)

◇ もうずいぶんと薄れてはいるが、権力批判としての「なんとなく反自民」カードがいつまで通用するのか、とくに野党は真剣に見きわめる必要があるだろう。筆者は「なんとなく反自民」の賞味期限は近いと考えているので、野党こそ「証拠に基づく政策立案(Evidence-based Policy Making)」に励んでほしいと思う。

 さらにいわずもがなであるが、反自民コールは自民党が強力であるからこそ成立するもので、弱くなれば逆にナンセンスになるだけだから、作戦を変えるべきであろう。あくまで、国民生活に根差した表現にすべきである。

保守グループの政権運営は半永久なのかしら

◇ そこで、保守グループによる政権運営にも寿命があるという歴史観であるが、前回保守グループについて述べたなかで、わが国が長期低落途上から脱出できないことがはっきりした時点で、保守グループの政権政党としての魅力が消失すると予想している。魅力消失で済めばまだ良しとすべきで、本当に恐れるべきは失われた30年の、あるいはわが国衰退の直接責任は保守グループにあると、政党としての評価が確定されることであって、そうなれば政界の地殻変動が起り政局的に面倒なことになるであろう。

 ところで、保守グループの中核である自民党の魅力はなんであるのか、さまざまな答えがあると思われるが、たとえば新型コロナウイルスへの対応において顕著な成果を示しえたのか、といえば多くの人は否定的であろう。政府と与党自民党について、それぞれの役割を分析的にふりかえってみても疑問点のほうが多々あるということであろう。だから、2011年3月からの原発事故への当時の民主党政権の対応とは完全に比較できないが、後者を頭ごなしに全否定する論に客観性があるのか、大いに疑問を感じるのであるが、筆者としては緊急事態への対応は事程左様に困難事であるから、いずれにしても政権をになう者には謙虚さが必要であると感じている。

 ここでいささか飛躍するが、政権運営における寿命とは為政における謙虚さの消耗あるいは消失と同根ではないかと、自戒をこめてそう思っている。

 しかしそれだけではあるまい。長期にわたり、それもほとんど独占的に権力を意のままにしてきた集団や組織体が、もろくも環境変化への適応力を失っていく、そしてあっけなくまた冗談のように崩れていくという、信じがたい光景を人びとは幾度となく見てきたのであろうが、これをうまくいい表す言葉がないのである。どういう摂理なのか、あるいは天の配剤なのか、それとも組織体にも老化老衰があるのか、よく分からない。

政権交代は民主政治の優れた仕組み

◇ あるいは、国家にもライフサイクルがあるのかもしれない。あるとすればその低落期あるいは衰退期に政権を担当する不運というものもあるかもしれない。が、主権者たる国民はそうは思わないであろう。適切な対応や対策を取りえなかったダメな政党であり、権力を手中に収めることには熱心であったが、経世済民といった志や手腕の点で劣っていたのではないかという、衰退途上国という屈辱と実害を味わった人びとからの厳しい評価になるかも知れない。もちろん、これは筆者の空想的見通しであって、科学的根拠は一切ない。

 さらに一段深堀りすれば、保守グループの主体である自民党は、政権交代を民主政治を支えるうえでの不可欠の機能と捉えることができなかったのではないか。それは政権担当があまりにも長すぎた故なのか、だから単独政権、超長期政権(連立をふくむ)以外の形態を素直に受けとめられなかったことが、政権交代を通してわが国の民主政治の発展をはかるという発想をかの党がもてなかったのではないかとも思うのであるが、どうであろうか。

 つまり、複数の政党による責任分担(分散)ともいえる機能が、政党が時期を画して責任を背負いあうという、考えてみれば平等ともいえる仕組みによって、政権交代というのは優れた制度といえるのであろう。だから、政権を外れた期間は気力の回復に努め、次に備えるとか、政権毒を薄めるとか、なにかと有用な過ごし方があるといえる。

 また、適宜交代していくから環境変化への適応が可能になるという、これも考えてみれば持続可能性のひとつではないか。と考えれば「野に下ることもまた楽しからずや」であって、もちろん決して楽しくはない、経験からいえば逆流する胃液に喉がただれるような痛みを感じるものであるのだが、しかし政治は国民のためにあるもので、政党や議員のためにあるものではないことは小学生でも理解しているわけで、悔しいけれどもそこは虚心に交代制の意義を見つめなければならないと思う。

政党は対立の前に国民に対し連帯責任を負うのか

◇ そこで、やはり政権交代は起こりうる。その必然性はある。と思うが、問題は政党それぞれが、国民のために時代を紡いでいくうえでおたがいに連帯責任を負っているという、たとえ対抗しあう関係にあっても、そういった崇高な自覚をもっているかどうかであろう。わが国の憲政史でいえば一世紀前は二大政党であった。そして、いくたびも政権交代を繰りかえしたが、どろどろの権力闘争に終始したと聞いている。そのあまりの酷さに国民が背を向け、議会への信頼と支持がうすれ、ついには軍部の暴走を招いたといわれている。結局、議会が暴走する軍部を制することができなかった痛恨の歴史を、議事堂の同じ席に座する者は真摯に受け止めなければならない、と思う。

 だから、政権交代にあたり焦土作戦などは言語道断であり、外交防衛、治安はじめ基本事項については、機微情報もふくめ入念な引継ぎが当然のこととなるよう英知を絞らなければならない。保守グループが何かにつけて口にする「国益」の解釈をできるだけ一致させることが大切ではないか。永田町や霞が関は当然として、法曹界も、もちろん経済界また学会もいい意味で「政権交代慣れ」が必要ではないか、そうでなければ国民が安心して政権交代をもイメージしながら投票することができないという、民主主義の窒息が始まるであろう。

 総選挙で自民党が負けたら日本は終わるとマジで考えていたと、まあ政治家のいうことなので割り引くが、ノーフィルタ報道が伝えていたようだが、この程度の政治しかできてないのによくいうわ、それにしても謙虚という言葉を知らないのだろうか。

 そういう状況であるので、国民も「野党がだらしないから」という言訳で事態を合理化してはいけない。また、政権交代ができない状態を作ることに与党が精を出すようでは、民主政治すなわち国民のための政治は漂流するであろう。これはすべての政党が心すべきことではなかろうか。

◇ また、これは何も自民党に対してだけのことではない、筆者がもっとも厳しくあたらなければならないのは下野した民主党(当時)である、分裂することは必要なかったと思う。分裂は支援者への裏切りであったといまだに胸の痛みを感じている。

 だから、2013年から2017年までの間、有権者が与えてくれた政権から離れた「非番」という立場をもっと積極的に有意義に使えなかったのかと今でも心の内では堂々巡りをしている。

 埋められない政策や理念の溝があるといっても、それを埋めようとしないところが問題なのである。さらに、埋めようとしないのは利己心によるもので、辛辣にいえば利己心を克服できなかったことが有権者の信頼を失っていく原因となったと思っている。煮ても焼いても食えない連中だと皆思っているだろうが、心配りでいえば政界は超プロ集団といえるし、利己心といった心の置きようについても感受性の高い世界である。もちろんそうでない人も、結構いるが。

中道グループの存在意義 中道にメリハリはないのか

◇ さて、中道グループの存在意義とは何かという質問は、とても左派的で、70年安保世代までの、学生時代に好きなことをやっていながらラクして社会人におさまり、やがて管理職で卒業して、それでおいしい年金に胡坐をかいている、頭の中だけサヨク(自虐的表現がひどすぎるかしら)の思いつきそうなものだと思う。それに対し、選挙で当選した議員やその集まりの政党に対し、あたまから存在意義なんて聞いてどうするの、お前はそんなに偉いのかというのがSNSでは標準反応だし、聞いてどうなるわけでもないだろうと思う。

 そういうことを踏まえたうえで、中道グループの存在意義を強いていうならば、常識とか「まとも」とかそういったものは少しも面白くないものだということを有権者に理解してもらうための存在といえる。中道は中庸に近似している。普通であることは、票が集まらないポジションといえる。ところが、昨今猛烈に票を集めている維新の存在は、この先のことは分からないとはいえ、新たな視点を求めていると思われるが、ここらの雑考はまだ先のことである。

政治的中立地帯? 対立思考からの脱却

◇ さて、先ほどは左右を定義して、それらの真中を中道と呼んでみたが、今度は中道を起点に左右に左派、右派が居るということで、ずいぶん相対的な認識論にぶれてきたが、実は保守グループには現状肯定という、あまり説明しなくとも分かった気になるイデーがあり、左派グループには現状否定のうえで目指すべきビジョンがあって、さらに奥の間には社会民主主義、社会主義、共産主義が控えているから、それらの人気のほどはともかく、やはり分かるのである。ところが、維新、国民民主にはそういった奥に控えているご本尊ともいうべきものが見当たらないのである。今では、立憲民主にも似た匂いがしてきている。

 だから、あるがままの「私」を受け止めてほしいということなんだろうが、ではお前は何様なのか、何なのかと聞きたい有権者の気持ちも分るでしょう、ということである。

 と同時に、1月23日の沖縄県名護市長選挙の結果が、現職の勝利であったことにつながる有権者の気持ちが示す何かが、大変重要なのである。率直にいって、国の安全保障にかかわる「とげとげしい論争」の角(つの)を毎度のようにうちの市長選挙にぶつけないでほしい、というのも偽らざる気持ちではなかろうか。移設の賛否は明らかではあるが、だからといって毎日の生活を無視して、工事反対に熱中する理由はないと思う。

 ところで、よく被災者に「寄りそう」というが、本当に寄りそえるのか、気持ちだけ寄りそうだけでも意味がある、というのなら議論は止めるが、寄りそうふりして寄りそわせているのかもしれない、そういうのはあまりにも偽善的ではないかと思う。

 市民の生活にかかわる多くの課題を争点とする市長選挙を闘争場とするかぎり、反対運動は行きづまると思う。もちろん与党の勝利でも何でもない。敗戦から戦後へとつづく巨大な問題構造は今日さらに矛盾を噴出しているではないか。与党は政治責任をしっかりとは果たしていないのに、どうしてテレビに向かってニコニコできるのが不思議でならない。

 という文脈で、中道グループの存在意義とは、政治的中間地としての停戦地帯があることを明示することで、何もかも二項対立図式に巻き込んで人びとを不幸にしていく、ここ十年その傾向を強めてきた保守グループとずっと以前からそうだった左派グループのほかに、まともな選択肢があることを示し、証明するところに中道グループの存在意義があると思う。

 人びとは、対立構造の政治利用にとても迷惑だと感じていると思う。素朴にいって、政治の役割は対立の予防、解消ではないのかと思っている者にすれば、いよいよクレイジーエイジに突入したのかと嘆かわしい思いであろう。政治との距離を広げようとする労働界の一部にもそういった気持ちがあるのだろうか。

安全保障が焦点 方向性は中道グループが決める?

◇ さて少し各論になるが、保守グループの一部は対米関係では運命共同体論へと恥も外聞もなく突き進むだろうし、その泥臭いリアルさがたまらないと一部の若者には受けるかもしれない。この点、左派グループは「米中」間を七三に分けた米寄り三ぐらいな位置どりで、話合い外交とかバランスといった実用性ゼロの形而上学的お理屈を展開すると思われる。どこまでいっても、戦争を終わらせるための戦争は論理矛盾であると、この線から飛びださないのか、飛びだせないのか、まあそういうことでしょう。

 さて、中道グループはどうするのか、実は保守グループが現状追認で、いわゆる「やむを得ない」路線というもっとも「非責任」な道を歩くと思われるが、焦点は中道グループがこれに追随するかどうかであろう。

 とくに、中道のなかにあって右派的傾向が強いと見られている、維新の外交政策のバックボーンはどうなのかがとうぜん注目されるであろうし、さきほど運命共同体論と表現したが、共同体というからには安全保障上は対称関係であるべきで、そうするためには憲法九条はもちろん前文も改正すべきであろう。ただ、現在の保守グループにそれだけの意欲なり胆力があるのかについては、はなはだ疑問であって、強行すれば連立組みかえに発展する恐れも高いと思われる。

 まあ、対中関係が微妙な中で、わざわざ火中の栗を拾うことの戦略性など誰も説明したくないと思われることから、「状況からいってやむを得ないだろう」路線でなしくずしを狙うことになると想像している。そこで、一見すれば筋を通すことの政治的価値を熟知している維新が、そういったあいまいな態度で済ますことができるのか、それとも憲法改正もふくめ理非曲直を明らかにせよと迫るのか、このあたりがこれから何年か続くであろう米中対立時代におけるわが国の安全保障の方向を決める重要な分岐点になるのではと考えているのだが、こういった見方に賛同する者は多くはいないと思う。

 もちろん、ある仮定での議論であるから迂回することも可能であるが、迂回するのは時間稼ぎであって、いずれ決めなければならないのである。また、問題に直面してから考えるのは、つまり議論をするのでは間に合わないことだけははっきりしている。あらかじめ大綱は決しておくべきである。で、有権者として注目すべきは決められるか決められないかであって、ある提案に対し賛成でも反対でもどちらにしても、「決められる」ことと「説明できる」ことの二点が重要なのである。 

 願わくは、中道グループには決めて欲しい。なぜなら是は是、非は非というのは決めることを前提にしているのであるから、ここで決められないのであれば即解散ということになる。これは道理である。いいたいのは、是々非々とは厳しい道なのである、ということで中道グループの真価はそこで問われるのである。

問われる是々非々の真価 高まる緊張のなかで真の平和を求める努力を

◇ 次の段階として、中ロ関係が緊密化し、米国への対抗を強化していくならば、東アジアの軍事バランスを保つために日米同盟のさらなる強化が必要になるとの認識が一般化すると思われる。さらに、先ほどの日米同盟の対称的双務関係への再定義が不可欠といった議論を回避することは難しくなるだろう。

 といったシナリオへの対応を考えれば、今までの平べったい立憲主義にもとづく平和主義だけでは多くの国民は我慢できなくなると思われるので、できるだけ早い段階での議論が必須であるが、その方向性を中道グループが決めるとはいわないが、ほぼそれに近いことになるだろうと思う。

 議論は十二分になされるべしと思うが、困ったことに国内での平和の議論は国際的にはずいぶんユニークなもので、ほぼ神学論争に近いところもあって、どこかぼわっとしていてすっきりしないのである。わが国の国内での議論を注視しながらも、中ロには崇高な平和主義などありえないから、そういった議論に沸くわが国の状況を、混乱とみて調略を企てることは確実であると捉えるのが国際的常識ではないか。

 また、日米関係を希薄化することで緊張関係を緩和するというアイデアもありうるが、タイミングとしては遅すぎるのと、相手が悪すぎるといえる。安全保障面での日米関係の深化は、仮想敵があっての相対関係の結果と考えるのが普通であるから、今日時点での一方的な希薄化は百害あって一利なしであると思う。

 もちろん中ロ関係も単純ではないが、とはいっても平和条約をもたない日ロ間の緊張が高まれば、東シナ海への米軍投射が薄らぐので、中国としては有利と受け止めることは間違いないと思われる。くわえて、中国の選択肢が広がることになるが、これはすこぶる危険なことであるから、最大限の努力をせよという話になるであろう。だが、このタイミングでの融和策は最悪の選択になるであろう。困ったことに帰還不能点を超えているとの前提でいえば、国防政策の構造を大幅に強化することのほかに手はなく、先方の認識において均衡するレベルまで防衛力を増強するしか道はないであろう。このシナリオは、ロシアが何の見返りもなしに中ロ関係を深化させることはないと考えれば、ウクライナ情勢が落ち着けば、可能性は急速に低くなるであろう。つまりわざわざ米国内を団結させて、永劫の恨みを買うような愚かな国はないといえる。

国家主義的風潮への対応

◇ 感染症対策をはじめ、これほどまずい政治をやりながら、保守グループがなお選挙で負けないのは、国民とくに若年層を中心に、まだまだぼやけてはいるが、リアルな安全保障上の不安があるからであって、それらの不安を真剣に受けとめたうえで、より信頼性の高い安全保障政策を野党が提起できなかったからであろう。ついでにいえば、日本共産党が不人気なのは共産党であるからで中国共産党との区別がつかない人も多い。また、立憲民主党が議席を減らしたのは同党への安全保障上の信頼が低いからではないかと思っている。十年後の選挙はいざ知らず、ここ数年の選挙ではこの傾向はさらに強まると思われる。

 なぜなら、中国の覇権主義は今後もつづくと思われるからで、またそうしなければ中国の国内がもたないと思われる。年内にも感染症の影響などで、中国経済が不調になり、順番は前後するかもしれないが、連動して不動産バブルがはじけ、人びとの不満が爆発しそうな時に、共産党の威信を守るのは対外に問題を作るしか他に手がないことも可能性としてはありうるといえる。

 さらに悪いシナリオとして先ほども触れたが、米国の虚を突くように中ロが接近し、軍事的連携を強めることになると、わが国の世論はより警戒的になり、さらにナショナリズムへ向かうであろうし、そうなれば中ロも対抗上、対日攻勢を強めるという、よくある負のスパイラルが現実のものとなる危険もありうる。というさまざまな不安が国民の意識下に潜んでいると思われる。合理的証拠のないものほど潜伏するので根絶は難しいといえる。

◇ できれば違ったシナリオになってほしいものであるが、国民の関心が安全保障政策に集中していく流れにあって、左派グループがたとえば2015年の安保法制を破棄するという姿勢をさらに強化するとすれば、世論の過半はどのように反応するであろうか、という予測は極めて重要であるといえる。重要ではあるが確実なことは不明であるから、確たることはいえないというレベルゼロである。こういった現実に脅威が存在しさらに深刻化しつつある状況で、たとえ崇高な平和主義に基づくとはいえ、警戒レベルを引き下げる提案がはたして可能であるのか、左派グループにとって極めて深刻な状況にいたるのではないかと思っている。

 できれば、本来路線を維持する主張が正解だとは思うが、かような事態において国家主義的風潮が大きく動き出す蓋然性は極めて高いと考えられるので、左派の絶対平和路線は世論と大いに激突することになると思われる。左派リベラルが反戦平和路線を旧来の通り貫けるのか、単なるポピュリズムであったのか、はっきりする時期が来るのかもしれないが、有権者の関心は低いままであろう。

 やや想像が過ぎるとは思うが、国家主義あるいは素朴なナショナリズムというのは反対をエネルギーとする性質があって、火に油現象が起りやすいのである。この傾向は左右を問わず大衆運動の特性といえるものである。

 何の議論かといえば、国家主義的風潮がいきすぎることのないように、中道グループと左派グループが安全保障政策を強化し、中ロをして間違った判断を選択させない対応が必要であろう。

 もちろん先方の立場でいえば、わが国内で与党が強硬になるのは織りこみずみで、残された判断基準は野党の姿勢であるから、左派グループにとっては不本意だとは思うが、国際政治は時としてそのような皮肉な対応を要求することもある、ということであろうか。こういった面倒な説明をしなくても、世論は音を立てて右旋回するであろう。それはそれで厄介なことである。

財政規律は方便か、現代貨幣理論(MMT)の隠れ信者が多いけど

◇ つぎに気になるのは財政、とくに財政規律である。数字を例示しながらの指摘などは今さらやる気が起らないうえに、流行らない。20年前はまだドキドキしながらGDP比率○○パーセントという数字を聞いたものだが、比率が大きくなるにしたがって、いつしかドキドキどころか気にもしない、いわゆる麻痺してしまった。これでいいのか、と内心反芻してみても、もう世間ではとっかかりすらなくなっているではないか。報道機関も完全にスルー状態で、定時報道では水道の蛇口から水が漏れるほどの関心もなさそうな、だるい扱いになっている。

 これは嵐の前の静けさあるいは落ち着きかしら、ともかく明日の市場は分からない、何が起きるのか。何回か前の本欄でも触れたが、麻生前財務大臣によって、ほとんど邪教とのレッテルを貼られた現代貨幣理論(MMT)も隠れ信者を増やしている感じである。あるいは、財務省がオオカミ少年だったのか、こんなに借金を積み上げても、ほら何にも起らないではないか、お陰でよく眠れるようになったとか。

 しかし今の政府と日銀には、2パーセントを超えるインフレでさえ収束させる手段はないといえる。金利を上げるとどうなるのか、筆者には想像できない。金利を上げなければどうなるのか、これも想像できない。全くのところ何が起こるかは見通せない。だから、中道グループには何かが起こった時の対応策をひそかに用意してもらいたい。その中心は、責任構造を明らかにしておくことである。とくに、発生したインフレは政府の借金を希釈するもので、税金よりもひどい税金であることを示し、その責任はすべて政府と与党である保守グループにあることを明確にしておくこと。小さなことの責任は明瞭であるが、大きなことは非責任という構造を破壊しなければこの国はさらに沈んでいく。

 また、何かことが起こってからみんなであたふたと慌てる事態を許してはならない。要は結果責任であり、最悪の事態に備える責務が内閣にはあるということである。政府を甘やかすことが中道グループの役目ではない。

成長政策って呪文かしら とにかく呪文政策が多すぎる

◇ ところで、為替レートは円安がいいと、惰性的思考に凝り固まっていたが、本当にそうなのか。貯蓄ゼロ世帯が40パーセント時代に、円安で潤うのはどんな人々なのか、しっかりと見分けないと、国民目線の政党とはいえないのではないか。

 よく「成長戦略」と如意棒のようなニュアンスで安易に使われているが、成長戦略そのものの実態が不明である。この30年余にわたる、成長とは縁遠い経済にあって、未だに経済成長と呪文のように唱えているが、賃上げを否定していながらどんな成長戦略があるというのだろうか。今までの政府がかかげる賃上げ策は呪文の域を脱せないもので、中道グループの政策も同様、呪文段階から少しも前進していないようである。

 数でいえば97パーセントといわれている中小規模企業などへの付加価値分配を圧迫し、率でいえば40パーセントといわれている非正規労働者への分配を扼(やく)するという、理不尽な仕組みを温存しながら、きれいごとの成長戦略や賃上げ策を唱えてみても実効は上がらないだろう。

 この30年間のマクロ経済の不調について、現政権が責任ある説明をできるはずがない。過ぎ去ったから過去であり、取り返すことはできない。無責任というより非責任という捉え方が、わが国の政治風土にあるから、小さなことは首尾よくこなすが、大きなことは流れにまかせ非責任でやり過ごすだけである。責任の有無ではなく、そもそも責任観念がない領域があるのだ。これが正に日本病であって政治家が罹患しているのである。診断する者が罹患しているから、的確な診断ができるわけがないではないか。政策云々は正しい診断ができてからのことであろう。

 ここらあたりは、国民もはうすうす感づいているのではないか。さらに、手が届きそうな近未来には、いよいよ脱炭素社会へ突入することになるが、旧来の経済成長が脱炭素経済には整合しない可能性が高いと思われる。低成長というのはそういった減エネルギー、減資源、減消費の総括概念になるかもしれないので、皮肉ながらも天の配剤かも知れない。トラック競技でいえばわが国は二三周遅れであるが、低成長が規範になるのなら向きが逆になるので二三周先行していることになる、といった無駄話は措き、現状を肯定するのではなく批判的に受け入れたうえで未来を構想するという中道の理念が生かせる時代が来ていると思う。

30年余の経済運営は失敗だったのか 責任の取りようがない

◇ わが国の30年余にわたる経済不調にはさまざまな原因があるのだろう。また、それらは複雑に連関しあっているから、一つの原因を解決しても結果は出てこないという難しい状況にあると思われる。そしてその責任は、あくまで結果責任という文脈にしたがえば、主に政権を担当していた保守グループが背負うべきであるが、この場合の責任はどういうものであるのか。

 これもずいぶん前に触れたのであるが、民主政治にあって政治責任の取り方についてもう少し整理をすべきであろう。かつて、遂行責任、説明責任そして出処進退と慣例的考え方を述べたことがあるが、先ほどの長期の経済衰退に対する責任とはどういうものであり、またこの場合の責任を果たすにはどうすればいいのか、なかなか難しいところがあるようなので、ぜひ中道グループでまとめてほしいと思う。

 メディアは辞任に追い込むことに使命感をもっているようであるが、辞めることが責任を果たす唯一の道ではあるまい。むしろ、辞めることによって真相が闇に埋もれることもあろう。仮に巨悪がいるとすれば「辞めてやる」といってゲームセットにするであろう。一般論として、責任追求のマンネリ化は知的退化を招くばかりであるから、打つ手は工夫すべきである。また、政治家の辞任を求めるのは有権者の役割で最後の手段は選挙で落選させるということではあるが、選挙で当選すればチャラになるのかという別の課題もある。

 だから、報道としては真相を暴くところに集中すべきで、安易にマイクをもって「辞任するお考えは」と追いかけまわすのもどうかなという気もする。

 責任即辞任という単純な図式だけでは、複雑な政治構造にあって、より良い政治を作りあげるためにも、もっと深く掘り下げる必要があるのではないかと思う。

「身を切る改革」って、本当のところどういう改革なのか

◇ さて、「身を切る改革」とはどういった改革なのか、ネーミングのうまさがある種の説得力を生んでいることは間違いない。たとえば「国民に消費増税をお願いする以上、われわれ国会議員も身を切る意味で歳費減額を」という提案に真っ向から反対する者は稀で、たとえば議員の誰かが反対でもしようものなら想像すらできないほどの非難を浴びるであろう。いわゆるボコボコにされるのだ。だから沈黙する。あるいは時間稼ぎをするのであるが、報道はそこを衝き、往生際が悪いといったニュアンスを作るので、世間的にはかっこうが悪い、となっている。と、まあここまではいい、議会での話である。賛否は自分たちで決められるのだから決めればいいではないか、ということであろう。

◇ では「国民に負担を求める以上」、という条件の普遍性についてはどうであろうか。たとえば、新しい資本主義の議論の中で金融所得課税の話がでているが、これも増税である。この場合も身を切るのか。いやいや、金持ちが対象だからべつにいいではないかとなるのだろうか。利子配当所得は金持ちに限らないから、普遍的措置とするなら身を切るべきであろう。それでは、雇用保険料や医療保険の負担増については、社会保険は別建てということで理屈が通るのであろうか。

 いまや「配当なき負担だけ」の時代になっているのだから、総体的に国民負担率を上げなければならない。いつまでも借金にばかり頼っていられないはずで、その借金もよく考えれば後年世代の負担になるのであるから、世代間の公平性を考えれば高齢者の負担は増やすべきであると現役世代は考えるであろう。

 ということで、現役世代としては、世代間の公平性を確保したうえでの負担増は避けられない、と考えるのはとても自然なことであると思われる。という文脈が成立するなら、政策の一環として負担増を提案するたびに国会議員の歳費減を繰り返していたなら、いつしか国会議員が負担増を提案しなくなるのではないかと、つまり逆の動機づけになるのではと現役世代が心配するかもしれない。つまり、各論ではあるが「身を切る改革」がもたらす政策効果には非対称性すなわちある種の偏りがあるように思えるのであるが、ただこれをもって議会あるいは議員の処遇等にかかわる改革を全面否定することにはならないと思う。

 もっといえば、国民負担のあり方にかかわらず提起されている改革は進めるべきといえる。したがって、「国民の負担を求める以上」とは修辞的効果としては「うまい!」のであるが、政策条件としては気にすることはないのではないか、というのが筆者の意見である。

議会制度改革と有権者の関心

◇ では、本音ベースで適正な議員定数と報酬はどうあるべきかという課題についてはどうであろうか。また、いわゆる議員特権については、その象徴である議員会館や議員宿舎については。いっそのことすべて廃止して、すっきりしたらという提案がでてくるのではないかと心配していたが、さすがにそこまでの極論はないようである。

 複雑な議論にであったときに、シャッフルしたい衝動に駆られることはよくある。しかし、それも面倒くさいから遠ざかっているのだが、どこかにシャッフル効果を望む気持ちがないわけではない、と推察している。筆者がなぜそこにこだわるのかといえば、そういった靄っとした気分を放置しつづけることはよくないと考えているからで、機会を捉えてすっきりさせたいと思っている。これは性分の問題なのである、それだけのこと。

 だから、衆議院だけにするとか、議員数を4人(議長と2対1)にするとか、無報酬完全ボランティアにするとか、世襲議員以外禁止といった極論の極論を、もちろん時間があり余っていることを前提に、いろいろ考えてみれば整理できることもあると思う。

 あるいは、議会もその活動も完全リモートにすれば、会館も宿舎も交通費も滞在費もいらないではないかとか、常にそういった波に洗われる感じがあることは必要であると思うが、むしろそれほどの関心を有権者が保てるのであろうかというのが筆者の問題意識(テーマ)であって、いいかえれば民主政治にはさまざまな形態がありうるが、もっとも重要なのは主権者たる有権者の関心の持続性ではないかと考えている。国会議員という間接代表を、日常的にどのように捉えているのか、あるいは具体としてリアルな関係をもっているのか、つまり民主政治の実感をえることができる場面をもっているのかといったところに軸足をおいている。だから、定数や報酬あるいは会館や宿舎も重要ではあるが、その前に巨大な課題が横たわっていると考えているので、中道グループには、大味すぎて売れ筋ではないなどといわないで巨大な問題も視野においてほしいと、これは願望である。

 

 さいごに、選挙で選ばれた議員の責任は重いという一言に尽きるが、選挙で選んだ議員を守ることも重要で、民主政治は議員というものが、選んだ有権者たちのアバターであるという幻想から出発している。との仮説にたち、そのアバターを待ち受ける旅には危険や誘惑あるいは罠があって大変なんだが、一番恐ろしいのは論理の迷宮で、つぎに恐ろしいのは自縄自縛で、またせっかく選んだアバターが行方知れずになることも多い。これはアバターの問題なのか、アバターを選んだあるいは生みだした側の問題なのか、それとも両方なのか、暇な時間ができると考えることが増えて、勝手に困っている。

(2万字を超えたので、中道グループ編はひとまず終了し、次回はいよいよ核心の左派グループ編です。)

◇ 頻尿や立春を前に身をかがめ

【参考】 2011年の東日本大震災をうけ国家公務員については、7.8パーセントの賃金削減(2012、2013年度)をおこなった。復興財源ねん出という目的があったものの、当時の民主党の政権公約である20パーセント削減とあわせ政策効果について再考する必要があると考えている。

 筆者の考えは、労働基本権を付与したうえでの交渉によらなければ、民間労働者との比較において著しく均衡を欠き、正義に反するものであるから、政権公約は最低でも「労働基本権の回復を前提とし、賃金削減交渉を行いそのうえで20パーセント削減を目指す」と改定すべきであった。また、20パーセント削減は非現実的でありかつその合理的根拠を見出しえないことから、「交渉時に業務の効率化とあわせ議論する」と具体目標数字ははずすべきである。

 民主党はもはや存在しないのだが、筆者としては反省がてら論旨を完結させたいということである。〆

 

加藤敏幸