遅牛早牛

時事雑考「たたかいすんで日が暮れて、探し求める明日への道」(その1)

「まったりモラトリアム選挙」だった参院選

◇ さびれゆく鉱山町にも似た光景のなかで、わが国は昨日のつづきの今日をおえ、つづきとしての明日を迎えようとしている。そんな中、第26回参議院選挙は当事者あるいは組織にとって悲喜こもごもなる思いを残しながらも、大勢としては事前予想にそった結末を迎えたといえる。

 その主旋律は、「今は変える時ではない」というものであろうか。この旋律は、押しこめられたわが国の状況を、まずは受けいれなければならないとの有権者の思いからもたらされているもので、逆にたとえば打ってでるとか自力で状況を変えるといった、積極果敢な行動に対しては否定的であると思われる。やはり安全保障環境へのとぎすまされた感受性が主役であったと思うが、さらに習近平、プーチンの両氏が反面的に影響を与えたといえばいい過ぎであろうか。いずれにしろ、つねに優柔不断である国民性に照らせば、かなり明確な意思表示であったと思う。

 では、今回の選挙でしめされた民意すなわち国民の政治的意図とは具体的に何であろうか。そのひとつは、政治プロセスを通して選択されてきた「この道」をそのまま歩み続けることが、国あるいは国民にとっての最善策であるという、筆者には迷信に近いと思えるのであるが、ことに臨んで何もしないことが上策であるという、まるで禅問答のような考えに集約されているように思える。

 だから、はたしてそうであるのかといった議論よりも、やがて襲来するであろう巨大な暴風雨に備えるため、とりあえず身をひそめ動き回らないことを約束しあっているような感じではないかと思う。けっしてパニックに陥っているわけではない、ちょっとした思考停止のように見うけられるのである。

 といえば、何か「いいがかり」のように聞こえるかもしれないが、そうとでもいわなければ収まらないのである。というのも、30年を超えて賃金が上がっていない、あるいは統計がおかしいのではないかと思うほど実質生活が劣化している、またかつて黄金色に輝いた産業業種の衰退が目にあまる、くわえて近隣国との関係が厳しくなるばかりで、相手が悪いということしか説明されていない、とくに核保有国との関係が悪化し米国依存が底なし沼状態になっている、さらにいつまでたっても少子化、高齢化に歯止めがかからず社会保障制度がゆらいでいる、そのうえ労働力不足に対しては無策に近く、まして財政は大丈夫かなどなど、なにからなにまで政治が責任を負うべき課題が山積みなのに、今回の参院選のいいようのない「まったり感」は主権者たる国民としてまことに緩すぎると痛感するものである。

 全くのところどうするつもりなんだろうか。何十年も口の中でかみ砕けずにたまってばかりで、呑み込めないでいる。また吐き出す勇気もなく、結局栄養失調でやせ衰えつつあるということであろうか。

 だから、何かしなければと思うべきなのに、何かしてそれがダメであったらどうしようと、後の心配が先に立つ。まさか民主党政権に懲りたというわけではあるまいに。しかしそういうことでは主権者として少しだらしがないのではないか、すえ膳以外は受けつけないというのでは民主政治は成りたたない。現下の問題山積み状態は、主権者が受け身を貫いて打開できるほど容易ではなくきわめて深刻だと思うのだが、という意味においても「まったりモラトリアム選挙」であったといえる。

自民党:大勝とはちょっと違う  維新:全国展開の図面はだれが画く

◇ もちろん自民党大勝と評されているとおり、とりあえずの政治的安定は確保されたのであるが、これは仮置きの安定といえるのではないか。というのも、比例票で見る自民党への支持は1800万票台で一頭地を抜いた数字ではあるが、2000万票を超えるものではなかった。また、一人区は野党協力が不調であったことなど、少なからず外因や選挙制度によって支えられた勝利の側面があり、怒涛といった感じではない。つまり、国民としてとびっきりの信頼を寄せたとは思えない、むしろ消去法による支持と思わざるをえないのである。

 他方、大躍進を予想された日本維新の会も議席倍増ではあるが、筆者にはピーク感の印象のほうが強い。皮肉をいえば、大阪の独自性や活力を否定する者がいないのと同じように、大阪なるものに敬意を表す者もいないわけで、また行政執行力も、現地メディアが喧伝するほどの立派さがあったとは思えない、のである。たとえば感染症対策をとってみても、「さすが」というほどの優位性を実感することはなかった。評点はCあるいはCマイナスで、吉村知事の雰囲気でなんとかBランクに入っているというのが筆者の見解である(そうとう甘い!)。だから、積極的魅力があっての議席倍増なのか、単なる受け皿効果なのか、今のところよく分からないのである。

 これからも中道政党として右から地歩を固めていくと思うが、党勢は伸長のなかで限界が創られていくのも真理であるから、人的にも何か特別な魅力を新たに獲得しないかぎり、全国展開の道はそうとう遠いと思われる。さらにそのための設計図を画くのはだれなのか、未完のままの可能性もあると思う。空き地が多い中道の沃野をどのような形で開拓していくのか、現時点ではもっとも活性化している政党といえるが、連衡なしで成業できるのか、という意味で興味深いのである。

呪縛から抜け出せない左派グループ(立憲民主党、日本共産党)

◇ 筆者が左派グループと呼んでいる立憲民主党と共産党については、左派の呪縛を解消できなかったところに敗因があったと考えている。とくに立憲民主党については、党の安全保障・エネルギー政策が象徴しているように、資本主義や現実への向きあい方がまだまだ青臭いというか、素人臭をまとったままで安定感に欠けるというのが、筆者の印象である。

 もし、本気で政権を目指すのであれば、安全保障・エネルギー政策を180度転換するほどの大変貌をなしとげるなり、もっと資本主義にどっぷりと漬かるなり、多数との協調性をもたなければ広範囲の支持をえることはできないであろう。もちろん社会主義を標榜する政党ではないことは確かである。しかし残念ながら彼ら彼女らが「資本主義」を口にするとき、僅かとはいえない「いやいや感」がしみでてくるのである。

 もちろん昨年は、共産党との選挙協力が批判されたのであるが、ことの本質は共産党との親和性にあるわけで、その由縁が人的関係なのか、政策論なのかあるいは政治思想なのか、あまり深ぼりされていないのである。さらにいえば、2017年10月の立憲民主党(旧)の結党から今日まで、「枝野さんの政党」という伝説から完全に解放されていない、とくに2020年9月の国民民主党との合流においてさえ、ワンオーナとその番頭による経営というイメージを克服できなかったところに、党勢不調の原因があると筆者は見ている。つまり、みんなの立憲民主党ではなく、枝野さんと福山さんご一統の政党というプライベートブランド感が残ってしまったといえる。これがこの党の第一の呪縛であると思う。

 さらに、2020年9月の合流が早すぎたというのは個人的意見ではあるが、それでも真っ白いキャンバスでの出発つまり幅広い支持層の結集であればと期待したのであるが、実態は結党時からつづいていた左派からの支援を内部にしまい込んだものだから、遠目には共産党との垣根なしと映ったわけで、ここが親和性の湧水点であり、第二の呪縛ではないかと思う。

泉新体制の魅力を発揮させなければ退潮は止まらない?

 さて、2021年10月の総選挙の責任をとり、枝野執行部は決然と辞任し、新たに泉代表の時代となったが、新執行部のどことなく憂いを感じさせる雰囲気と、経営権は得たものの所有権はそのままといった雇われ感のためか、なんとなく自民党政権はとうぶん安泰というムードを許していると思われる。ここで、枝野氏や福山氏らの獅子奮迅の活躍に水をさすつもりはない。さらに若き泉代表へのエールを惜しむものではないが、状況への適応という文脈でいえば、有権者との間に齟齬をきたしていることも確かである。もちろん、政権を目指す議席規模をものさしにすればの話であるが。

 さらに、元総理の大坂の陣もどきと野党第一党争いが、どのように連動しているのかよく分からないが、いかにも党執行部のグリップ力の低下を連想させるもので、正直声が出ない。野党では最多の大臣経験者をかかえる老舗政党の頭(えらいさん)の重さに、泉新代表が圧迫されているのではないかと同情を禁じえないのである。

2015年安保法制以降の環境変化への適応が不十分では(ずれてしまった)

◇ ここで2015年安保法制への野党共闘をふりかえるが、そのなかでもっとも気になったのは、市民連合などの従来にない運動体の出現をニューレフト的広がりと受けとめたことを一概に間違いとはいえないが、安全保障環境の変化の方向についての認識が逆向きであったことである。このような激しい状況変化に対し、平然としていられるほどの自らの政策への自信は立派といえるが、それが裏目にでたということであろう。もっとも、状況への適応を第一とする筆者なんぞは、状況次第で方針を変える変節漢と思われているのかもしれないが、中国の軍備拡張や外洋進出に対し、また台湾有事への備えもふくめ、わが国の防衛体制を強化していくのは当然であり、選挙で示された民意もその方向であろう。

ということで、民主党から民進党、立憲民主党(旧)、立憲民主党(合流)と組織的変転をくりかえしたものの、有権者の意識変化を的確にとらえることができずに、あるいは変化にともなう路線修正を、機会はあったものの実現できなかったということが、現状での党勢の変調をもたらす原因となったのではないかと思う。さらに、2020年9月の国民民主党との合流後においてさえ、共産党との関係から連合政権的なものへの展望をもって、なにかしら盛り上がったことは紛れもない事実であったことから、やはりここは確信者の政治行動と受けとめた向きが多かったといえる。確かに2021年夏には当時の菅(すが)政権が低迷をみせ始めたことを奇貨として、近来する総選挙を大逆転の機会とみなす目論見について、外部からとやかくいうことはないが、ただ有権者との関係において、その目論見はけっこうな空回りであったことは、選挙結果をみれば明らかであろう。結果、みんなの立憲民主党が、遠くの立憲民主党になってしまったと思う。

 結論的にいえば、2015年時の野党共闘の思い出を清算し、現下の安全保障環境を直視したうえで、党としての基本方針を提起し、有権者との齟齬を多少なりとも解消するのが妥当な方策ではなかろうか、と思う。

◇ 余談であるが、資本主義どっぷりが嫌なら、思いきって社会民主主義ぐらいのポジションをとらなければ、目鼻立ちあるいは姿かたちが不鮮明になる。相貌不鮮明なるものは信用されないのである。

 ここは、資本主義をベースに生活を改善するのか、資本主義を改造して生活を改善するのか、または資本主義を壊して生活を改善するのか、いずれも困難の極みではあるが、道は三つに一つである。政権を目ざす野党第一党として、はっきりさせる必要があるのではないか。

いつの時代も与党には7分の利があり、それが強み!

◇ ところで視点が変わるが、どんな政策にも7分の利があれば3分の不利があるもので、与党は7分の利に乗っかり、野党は3分の不利を衝くといった形が55年体制以降、常態化したともいえるわけで、得意げに3分の不利に執着するかぎり政権は回ってこない仕組みであったともいえる。もちろん一時期には政権交代が見られたが、2013年以降ふたたび野党は3分の不利に立ちかえっているように思える。であるからなのか、野党は批判ばっかりというおよそ見当はずれの批判が生じているのであるが、その真意は野党も7分の利に着目せよとの、政権交代を少し意識した物いいであると、筆者はそのように受けとめている。

(ところで、7分の理と表すことも考えたが、メリット、デメリット論に拘泥する現状において、理を議論する場面は少ないのでストレートに利を使った。)

 

 具体的には、2015年安保法制あるいは集団的自衛権の解釈による容認も7分の利であり、国民の多くもそう受けとめているのではないか。もちろんそれらに3分の不利があることはわかっているのであるが、そうはいっても個別的自衛権だけで、中、北、ロに対抗することは危険であり、力不足といわざるをえないことから、米中ロ紛争に巻き込まれたらどうしょうと逡巡する気持ちは理解できるものの、この問題に中立地帯がないのであれば、旗幟を鮮明にするしか手だてがないのも現実というものであろう。賽はすでに投げられているのであって、やり直しは効かない。立憲民主党が政権を語るのであれば、すでに投げられている賽の目を受けいれ、そこからスタートしなければならない、そういう姿勢でないと政権を手に入れることはできないのではないかと思う。

 くわえて、エネルギー政策も原発なくして現下の苦境はのり越えられないことはすでに自明のことであるから、原発ゼロ社会を綱領に入れてしまった短慮については上手に反省し、当面の方針として原発併存を掲げるほうが、生活安全保障の視点からも合理的といえる。どうしても、3分の不利といえる原発の不都合を衝くのであるなら、雨の日、雪の日、曇りの日それに夜間に、しっかり発電できる代替エネルギーの提起が必要であろう。いいたくはないが、再生可能エネルギーという看板だけに依拠しているようでは、国民多数の信頼すなわち政権につくことはできないであろう。

 同じく資本主義の3分の不利を衝くことは当然のことである。しかし、では解決策を有権者から求められたときに、当座の弥縫策だけではなく体系的な対策を提示できるかどうかが勝負所であり、与党は3分の不利についてはひたすら目をつむり、もっぱら7分の利を強調するばかりであるが、それでも差し引き4分の利が残るのである。という風にそろばん勘定はできているのである。 

 もちろん、格差拡大をはじめ資本主義が多くの矛盾を抱えていることは間違いないのであるが、これらの矛盾を指摘し追求することが成功したとして、その次のステージは代替システムを提示することになるのであるから、問題があったとしても資本主義を背負っていかなければならないのではないか。という意味において、できもしない社会主義を掲げ、万年野党に甘んじていたほうが楽といえば楽ではある。が、これは昔の話である。

議席減3党とも大負けではないが、逆に改革が閉じこめられるかも

◇ ところで、今回の負け組(3党)についての感想であるが、それなりに粘っていると思う。つまり、やや健闘しているといってもいいのではないか。中国共産党軍がわが国にミサイルを向けているのではないかと国民の多くが疑っているかぎり、日本共産党の出番はないと多くの有権者は考えていることから、立憲民主党がそのとばっちりを受けているのであって、もっと負けていても不思議ではない状況であったと思う。おそらくシニア世代の危機感が働いたのか、踏んばっていたように思われる。しかし問題は、中途半端な負け方によって、大胆な路線改革が閉じこめられることであろう。小負けをダラダラと繰りかえすよりも、大負けを契機に再建を期すほうがいいと応援団は考えるかもしれないが、意図的に大負けはできないから結局再建は難しいということになるのか。そうであるなら、国際的な緊張緩和(デタント)が始まるまで左派グループにとって、厳しい冬の時代がつづくと思われる。もちろん、国際情勢が緩和に転ずる可能性も決して低いものではないと考えられるので、腰を据えてその日を待つという路線もありうるが、そうであるなら籠城ということであろう。

いつも後がない国民民主党、参院選には工夫が必要 

 一方、国民民主党にはまったく余裕がないことは厳然たる事実である。立ち位置が良くても、政策が評価されても議席維持ができなければ衰退するばかりである。もちろん、若年層での党名投票が数ポイント増加したという朗報もあるが、これは予算案に賛成した野党というサプライズの賜物かもしれない。しかし、固定支持層からの反発もあって収支は不明である。とにかく覚悟のうえでの決断と聞いているので、多少奇天烈であっても新しい野党像を提起しつづけるべきかもしれない。また、政権に対し激烈な批判を提起しなければ、バランスが取れないのも事実である。

 くわえての指摘であるが、昨年の衆議院選挙での善戦が頭に残っているのであれば、まるで参院選が理解できていないのでないかと思う。この先、選挙区選挙での議席維持と拡大あるいは党勢のバロメーターである比例票の議席をともなう上積みなど、支援団体との円滑な関係を大切にしながら、険しいが力をあわせて進むということであろう。とはいっても、本当に単独でやれるのか、理念を尊重したうえで、情勢いかんによっては合従連衡の道があるかもしれない。まあ、これは特殊な関係人である筆者特有の感想であるから、一般化できるものではないだろう。

 ふりかえれば、「まったりモラトリアム選挙」の結果は明白で、旧民主党系と共産党が後退している。今回の有権者の意向は、政権選択選挙ではないといいながらも、ひきつづきそれらの政党には政権に就いてほしくないということかもしれない。まだまだ世間の風は冷たいということか。とくに旧民主党系に対しては、政権を語る前に内紛分裂のないことが条件となっているように感じられる。わが国の民主政治のためにも明るい党内論議を期待したい。

必ずしも黄金の3年間とはいえない、解散時期が政局そのもの

◇ さて、次回の第27回参院選は2025年7月である。衆院議員の任期は2025年10月なので衆参同時選挙の可能性もあるが、都議選が2025年7月ごろと考えられるので、まさかの3重選は避けると思われる。であれば、衆院選(総選挙)が前倒しされることになるが、この解散時期が最大の政局になると思われる。ということは黄金の3年とはいわれているが、2023年3月の日銀総裁人事、春の統一地方選あるいは5月のG7広島サミット、また2024年7月あたりには都知事選が、さらに9月は自民党総裁任期など材料には事欠かない。いつにするか、キシダさんのルンルンがつづくであろう。

国内政局は国際情勢しだいである(次回)

◇ これからの政局の見通しについては次回とするが、何といっても国際情勢の影響が大きいことから、ロシアのウクライナ侵略の動向を軸に米、EU、中の動きから目を離すことはできない。また、世界全体の景気動向も厳しさを増しており、途上国などの不安感が強まっている。経済の不調は政治をゆるがすことから、年末から来年にかけて動揺する世界がテーマとなるであろう。おそらくウクライナ停戦への圧力が日増しに強まり、さすがのゼレンスキー大統領も不本意な決断を迫られるかもしれない。もちろんプーチン大統領も無傷では収まらないであろう。感染症の災禍もまだまだつづくと思われる。世界経済のダメージは深く、問題解決手段としての国連は混迷し、世界秩序は大きく動揺するであろう。米中ともに国内に問題を抱え、不本意合意の道を選ばざるをえないというシナリオもありうる。また大戦の危機は残るであろう。といった外部の分析があって、それをベースに国内の分析が始まるが、内外一体であることに変わりはない。

注)下線部分追記:「民主党から」2022.7.24

◇ 殺戮と読めるが書かぬわだかまり

加藤敏幸