遅牛早牛

時事雑考「労働団体と政権のかかわり方-変化の予兆が」

◇ さて、7月の参院選の結果をうけ、あらためて「労働団体と政権のかかわり方」について、やや旧聞にぞくする部分も、また反省記のようなあるいは敗戦記のような内容もふくめ総ざらいしてみようと思う。(文中の漢字とひらがなの使いわけについては、前後のくぎりに漢字をもちいてみたり、また見た目感を優先したりと、そうとう気ままであること、くわえて8月後半には所用輻輳し掲載がおくれたこともあわせご容赦ねがいたい。)

1 参院選の野党選挙協力の不調は「懐柔」よりも「自壊」が原因

 2021年10月の衆院選挙後に、自民党副総裁の麻生氏らが国民民主党や連合を懐柔していたといわれている。その懐柔のねらいが、2022年7月の参院選における野党選挙協力のきりくずしや改憲議席の確保にあったとも。もちろん、そういった思惑をふくんでいたと想像することはまちがっているとはいえない。しかし、永田町で「飯でも食うか」となれば、メンバーの組みあわせの数だけストーリーがうまれるもので、いちいちまともにうけとめることもないと思っている。

 たとえば、野党選挙協力が参院選でさらに不調をきわめたことは、衆院選がおわった時点から予想できたことで、またその原因が野党間の基本政策の差異にあったことは衆知のことであろう。とくに、外交安全保障政策と原発をめぐるエネルギー政策の違いが決定的であったといえる。

 こういった溝は、社会党・民社党時代からあるもので、それがうめられたのはおもに民主党(1998~2015)時代であり、とりわけ政権担当時期(2009~2012)であったといえる。

 それが、2015年安保法制への対応をめぐり、当時の執行部(岡田代表)が共産党をふくむ野党共闘へ重心をうごかしたことにくわえ、2016年の民進党結成あたりから反原発が浮上したことなど、民主党政権時代のさまざまな妥協路線がつぎつぎと崩れていったといえる。また、これらのことが2017年9月の、希望の党結成による民進党分裂騒動のかなり重要な伏線となっていたとうけとめている。したがって、野党との選挙協力が不調にいたった原因は、他党からの懐柔などではなく、当面の選挙を意識した政策純化によるものといったほうあたっているといえる。それゆえ多くの民間労組にすれば不本意な路線変更であって、このことがその後の再編が不完全燃焼にいたる遠因となったというのが、筆者の解釈である。

 つぎに連合への懐柔であるが、連合の政治方針は文書のとおりであって、基本は機関主義であるから、懇談などが連合方針に影響を与えることはきわめて稀なことである。しかし、会長発言が注目をされ、ざわざわすることも多いといえるが、それは会長の個性に由来するもので、歴代においてはもっときわどかったともいえる。ということで、「懐柔」説はあたらず、選挙協力については「自壊」説のほうが適切ではないかと考えている。

2 労働団体にとって、キシダ政権の本質を見きわめることが先決であろう

 さて、「政権とのかかわり方」といえば、まずはキシダ政権の方向性を確認する必要がある。そこで、キシダ政権についてあれこれ分析をすすめていくのは手順であるが、かれら(自民党の先生)はつねに片足を政局に突っこんでいることから、静的分析では不十分である。そこで焦点は、政局に連動したキシダ政権の対応すなわち「つどの政治判断」に注目する必要があると思われる。たとえば、感染症対策などにおける「つどの政治判断」をくわしく分析していけば、おのずからキシダ政権の政治価値観が明らかになるもので、労働団体としては耳をすまし、目をこらすことになるであろう。

 ところで、大宏池会構想については注意が必要である。発信元不明の目論見にまどわされてはいけない。世間では名は体をあらわすというが、政界では名は体をごまかすため、ということがおおいので気をつけたほうがいい。政治家は自分をだませるから大法螺がふけるのであろう。そういう意味では大宏池会とは大法螺であって、軸のない駒はまわらない、のである。また、多軸の駒もまわらない。

3 宏池会と労働組合の相性についての伝説

 ところで官公労組には、遠いむかし話として宏池会と労働組合との相性についてとくべつな伝説があるようだが、その伝説なるものを支える事実については残念ながら筆者の知りえるところにはならなかった。21世紀にはいって、コイズミ政権からアベ政権までほぼ清和会系がつづき、新自由主義にもとづく経済運営あるいは規制緩和がすすめられ、自己責任のかけ声のもとアンチ保護政策が称揚されてきたことは、労働団体にすればすごく残念なことであったといえる。だから反作用的にも、また気分的にも宏池会伝説がよみがえる素地ができつつあるのかもしれない。

 露骨ないいぶりで失礼なことだと思っているが、旧民主党(民進党)系の野党の党勢が低調なうえに復調のきざしすらうかがえないという、ひらたくいえば、あまり役に立ちそうにないという、主要な労働団体にとって残念かつ厳しい現実となっているが、この先3年間の政策・制度課題のやりすごし方について、これまでどおり支持政党(野党)を中心に展開するのか、またはあたらしい道を開拓するのか、いろいろと迷うかもしれない。そこに昔の宏池会が大宏池会としてつけ入ってくるのかもしれない、むろん言葉のうえでのことであるが。

 悩むのはさておき、迷うぐらいならやってみればいいと思う、というのが今日的状況ではないか。

4 労働団体が、政権を懐柔するのが正規シナリオである

 いろいろと報道されてはいるが、連合が懐柔された、とは思えない。なぜなら、懐柔される中身がないのだから、いってみれば無用の議論である。といいつつ、爾後(じご)あるかもしれないとは思う。それは労働団体すなわち連合がキシダ政権を懐柔するというケースにおいてありうるもので、怪訝(けげん)に思われる向きもあるだろうが、ロビー活動とはそういったものであろう。聞く力とはいわないが、キシダ政権側にはその需要があるといえる。

 需要のひとつは、連合などの中間団体が「時の政権」と忌憚のない意見交換をおこなうことには、それなりの意義があるわけで、とくに中間団体では過激な意見あるいは情動はてきとうに微分されることから、聞きやすいといえる。また、おおくの場合クロストーク(シールドされていない線はよく他線の信号を雑音としてひろうが、聞きとりにくい。漏話である。)になるから、政権にしてみれば、立場のちがう意見にソフトに(責任をともなわないという意味)、接することができるわけで、有用なものと思われる。クロストーク(他線信号漏れ)というかぎり、これをもって連合が自民党にくみするということにはならないだろう。

 もしこれが団体間協議ということなら、すくなくとも根拠文書の交換が必要だし、堅苦しいうえに面倒である。また、政労会見とか、政府申し入れとか、官邸への要請などと肩ひじはったいいまわしをしているが、とりあつかいは陳情である。とくに政権は国家中枢そのものであるから、申しいれ内容は公開されるべきもので、公開されるとなると、申しいれの中身はいつもの公式文書の範囲に限定されなけばならないから、ほぼ定型文となる。話すほうも面白くないが、聞くほうはさらに面白くないと思う。このように、建前でいえば労働団体はそうとうに窮屈な団体なのである。

 そういえば、頭でっかちの欧州は「社会対話」を重視してきたという。とくに、政労使からなる三者構成こそが欧州民主主義の精華というのであろうか、ずいぶんと尊重されているようにみえる。わが国の仕組みもけっして劣るものではないと思うのだが、実がすくないのが玉にきずといいたい。

5 国会中継を不愉快と受けとめる人々も多い、国会審議には演出も必要であろう

 清和会系の政権は、印象論でいえば、「力の政治」感にあふれていた。また選挙でかてば万能といった、民主主義を誤解している面もあったと思う。まあ野党の意見など聞かないと正直なものだから、野党側の舌鋒がするどくなるのはしかたがないことで、ともに折伏(しゃくぶく)に突入することも多かったと記憶している。ということで、この時代(2000年代)の与野党の応酬には、すくなくない有権者が眉をひそめたのではないか。これ以上対立が激化すれば元にもどれない、という不安をおぼえた人も多かったと思われる。その予感が的中したのか、2007年7月の参院選で、与野党逆転となり対立はさらに激化し、自民党にとって困難な状況がつづいたが、2010年7月の参院選で再度の逆転により、今度は2009年9月に成立した民主党政権が失速の危機にひんすることになった。参議院が伯仲から逆転へと変わると、野党は倒閣にはしり、少数与党は守りに専念せざるをえないことになり、国会での議論は攻守所をかえることになる。

 ふりかえればの視点であるが、2010年7月の参院選の結果を直視し、迅速な多数派形成ができなかったことが、民主党政権の寿命を決したといえるかもしれない。村山富市氏を首班にするといった大胆な自民党流におよばなくとも、「与えることは取ること」を実践しておれば、その後の展開をかえられたと思う。権力は参議院でつくられることを、衆議院側が理解できていなかったのであろう。また、権力への執着心にちがいがあったのかもしれない。政局をうごかす技量において自民党に一日の長があったと思っている。 

 二項対立よりも二項融合をもとめるのがこの国の伝統(好み)と思われるので、ここらあたりに、労働団体がキシダ政権とかかわる場合の、国民が期待する役割があるように思われる。

6 自民党にとって労働団体ってなんだ、敵か味方か、遠くの人か

 さて、自民党にとって、労働団体との交流は魅力的であろう。まずはクロストークの有用性である。つぎが、なんといっても支援と票の魅力であろう。とはいってもおおきな期待はどうであろうか。なぜなら、労働団体の慣性力はそうとうにおおきなものであるから、「反自民」とか「非自民」といった気分をけしさるには努力と時間が必要であろう。

 そういえば、今世紀のはじめあたりから自民党は大切なことをわすれ、もっぱら議席の確保に妄執する、ありふれた政党におちたと感じていた。そういうことから「やはり深刻なんだ」とうけとめていたが、むしろ1990年代からすでに単独政権をいじするだけの支持をうしなっていたと思われる。また、大政党の風格をなくしていたようにみえた。もちろん選挙制度の影響もあったと思われるが、おおきくは冷戦終結後の外交安全保障、あるいはバブル経済やその崩壊後の経済運営などの構造的課題へのとりくみが粗雑というか、まるで方向感覚をうしなった鳥のようで、また米国からの圧力もあり、独立国家としては見当識をかいたありさまであったと感じていた。ようするに構造的路線転換に失敗したのである。ベルリンの壁崩壊を画期とし、あたらしい、国家としての自立性の回復に消極的であった、と思う。そういった内面的葛藤が、党内に自信喪失をもたらしたのではないかとも。ようするに55年体制からの離陸はできたが、創造的離陸には失敗したのではないかと思う。

 そういった、わかりやすかった自民党の弱点が、コイズミ政権になってから強がることによって「弱点はない」という錯覚をうみだしたと分析している。また、アベ政権時代には民主党をこきおろし、その反作用で自らを浮上させるという手法をとりいれ、さらにメディアを活用しながらメディアの色分けをすすめるという複合作戦を採用したといえる。また理屈よりも感覚をまえにだすことによって、政権の好感度をあげていったと思われる。

 しかし、冷戦終結後の国の進路が不鮮明であるという真正の大問題は手つかずのままのこっているわけで、それには対米関係での大統領との個人的関係を演出することで大問題の存在を糊塗していたといえる。山荘で、焼き鳥屋で、すし屋で、ゴルフ場でと、民間の接待さながらの今でいうインスタ映えに気をとられすぎたイメージ作戦にのめり込んでいったといえる。

 このように自民党は構造問題をさける傾向がつよいのである。おそらく自覚をしていると思う。自覚するからこそ、米国大統領との友情関係をことさら演出するのであろう。だが、これは外交の矮小化であり、国内対策としての目的外利用である。うまくやっているようでも、自民党が内包する脆弱性の克服からにげているのではないかと思われる。

 また、1989年前後は経済においてはバブルとその崩壊に気をとられ、冷静構造の崩壊以降の国際関係の再構築あるいはわが国の進路の議論が手うすになったと筆者は考えている。たとえば、ソ連崩壊からロシアの民主化へむかう揺籃期において、日ロ関係の再構築それはとりもなおさず日米同盟の再定義と連動するもので、東アジアの平和構築への好機ともいえたのではないかと。飛躍するが、歴史と哲学が苦手な政治家が多すぎる弊害ではないかと思っている。

 今の与党は、国家経営の基本において本格的な論をもっていないと見うけられる。その原因のひとつは党内に左派、あるいはリベラル人材が少ないこと、あるいは本格的な理論闘争の経験がないからであろう。いつもの直感的、感覚的対処では長期の構造戦はたたかえないのである。とちゅうで息切れをおこし支離滅裂になることがある。だから、はじめに構造化しておく必要があるのであって、このあたりは左派の得意とするところである。だが左派は途中でアクシデントにみまわれるとメロメロになり、つかえなくなるのであるが。

 したがって、有権者は与党のこの脆弱性を肝にめいじるべきであろう。というのも、長年にわたってつづいているわが国の衰退は、構造問題への苦手意識からきているのではないかとさえ思うのである。また、それは政治における切磋琢磨の欠如による病ではないかとも思う。とくに外交課題ははじめに構造化しておかなければ、入口が出口になり、出口が入口にと錯綜してしまうのである。これは近隣4国との外交交渉が示すとおりであり、自民党として、また与党として成果をあげたとはいいにくい事態になってしまった。

 そうなったのは、問題形成とそのアプローチにおいて構造的な難があったからで、せつな的、個人的、おもいつき的、とりひき的な対応ではうまくいかないということで、すくなくない有権者の不安がそこに集中しているといえる。現時点での対処策は、外交案件は超党派あつかいとし、内政の競争からは外すことぐらいであろうか。せっかくのアベ長期政権でできなかったということは、やはり構造的にとりくむしか手がないということではないか。

 だからというわけではないが、暴言的にうえから目線であえていえば、更生(?)する気があるなら、たとえば連合に相談したら、と。こういったことも、いまだからいえるわけで、めったにない天の岩戸の開くときかもしれない。まあ、この国にとってなにが大切なのかと立ちどまって考えるときであるといえる。また、連合にとっても同じことがいえると思っている。

7 連合が政権への影響力を強めるためには、動員力の強化を

 ところで、連合が政権を懐柔できるほどの影響力をもちたいのであれば、政治活動をさらに強化しなければならない。そのためには、政治活動の「大義」が必要である。「力と政策」はコインの裏表で一体ものである。ということは、大義と動員力も一体でなければならない。つまり、「何のため」にという大義について明確にこたえられないのであれば、動員はやめたほうがいいと思う。さらに、やる以上は直接動員を桁上げするくらいでなければ、連合としては力不足というマイナス評価をうけるだけであろう。

 この場合の直接動員とは、連合本部ならびにその構成組織が直列的におこなう組織動員であって、組織(機関)決定でうごかすことができるものである。もちろん個別には協力要請となるが、組織参加なのか個人参加なのか明確にしたほうがよいと思われる。

 動員といえば、最近の組織文化ではふるくさいと嫌われているらしい。しかし、ふるくさいといった流行性ではなく、たとえば「労働法の改正」とか「福祉制度の向上」といった大義そのものに活動目的があるのだから、納得できる大義であれば獅子吼(ししく)をもってどうどうともっと組織をうごかすべきである。これは、活発にやらないからふるくさくなるということではないか。

 ただし、「何のため」にという大義をまとめきれないと獅子吼が空砲におわる。また、動員が不十分であれば、せっかくの大義がくすんでしまうことになる。近年、動員がのびないところに連合の弱点があるのではないかという指摘もあるが、1989年の結成から33年経過して、「何のため」について、わかりやすく説明できなければ人はうごかないであろう。やはり、説得性があってこそ力が結集できるのである。大衆運動とはそういうものであろう。

8 論調の変化は世界情勢の変化が原因

 さて今までは、どちらかといえば政治と労働とのあいだに距離をおく方向であったのに、それが接近にかわったのではないかと感じる向きもあると思うが、それは筆者の考え方の変化によるものではなく、世界情勢の変化のなせるものである。直截にいえば、米中対立がこのさき3年をこえると思われるのであるから、短期戦が長期戦になった。もちろん最終衝突は避けられると確信している。また、両国内の経済対策のため、「理念を金に換える」ちいさな妥協がかさねられることも想定される。しかし、衣がえのように簡単には妥協できないのが覇権国の対立である。簡単に解消されるものではないという、きびしい現実にそなえなければならない。

 一方、ロシアはウクライナ侵略戦争の動向にかかわらず、資源国として生き残るだろうが、膨大な核兵器と常任理事国の地位がロシアにとっても世界にとってもプラスなのかマイナスなのか、といった論評にさらされる「いじられ国」になるであろう。が、ロシアの面倒くささはとうぶんつづくのではないか。

 また、中ロの背後からしのびよるインドが力をたくわえ、国際関係をさらに複雑にしていくと思われる。

 ところで、老舗意識のつよいEUはあいかわらず策をろうすると思われるが、得意とする理念に足をとられ言行不一致となり、それをつよく非難されるかもしれない。たとえば、ウクライナ支援をどうするかによっては、対ロシアでの敗北を意味することになりうるから、あらためて団結を強化する時代にもどるのではないかと思う。

 そんな中、日本は自意識大国のままで、政治構造がかわらなければ衰退に歯止めをかけられないであろう。

 ということで全体をながめれば、米中関係が安定化するまでの間、世界経済は動揺すると思われる。その米中関係は、すぐれてそれぞれの国内事情に依拠していることから、変数がおおすぎて解が定まらないのである。とくに中国は、資本主義市場経済と社会主義という二刀流をうまくつかいわけられるのか、たとえば共同富裕がうまくいかなければ体制への不満が爆発するかもしれない。

 ともかく、いずれの国も成長の条件が厳しくなっていることから、民生を安定させるための、経済以外の工夫が必要になっているといえる。(よからぬ工夫は勘弁してほしいものであるが。)

 という情勢にあって、労働団体が政治から距離をおくだけでいいのかという疑問にこたえなければならないのである。

9 気候変動への対応は難度Zを超えている

 また今のところ、感染症(Covid-19)とウクライナ侵略戦争によって影がうすくなっている気候変動への対応は、かたときもゆるめることはできない。が、冷静に考えれば化石燃料への依存が劇的に改善できるとも考えられないことから、燃やした分はCO2ガスがふえるので、日ごとに熱地獄にむかっていることはまちがいないといえる。また、最良の対策をとりつづけたとすれば、確実に経済がダメージをうけることから、現在の生活水準を維持するのはむつかしい、つまり世界規模の人口減少にむかうと思われる。

 (気候変動問題については、弊欄にて「2021年猛暑に気候変動問題を考える-さまざまな疑問」と題し、2021年8月8日(その1)、8月22日(その2)、9月5日(その3)、9月16日(その4)、9月30日(その5)を掲載。)

 ようするに、経済発展によってうみだされた不都合は、さらなる経済発展では解消できない、という歯がゆい現実とむかいあう時代になったということである。こうなるとリアルに生活をかえる、つまり化石燃料については大幅減しか手だてがないということであろう。

10 気候変動対策や核兵器廃絶は人間の本性が問われる課題である

 かぎられた資源をめぐるあらそいを人類は長らくつづけてきたが、これからは温室効果ガス排出権をめぐるあらそいとなる。いままでは、あるもの(資源)をうばいあったが、これからはないもの(排出権)をうばいあうのである。排出権をCO2予算として国際管理するといっても、現在の国際社会の実情を思えば、そんな抽象度のたかい調整が平和的にできるのかと、まずは悲観的にならざるをえない。

 それにしても、核兵器廃絶については、保有国の傲慢と不誠実があらわになっている。とくに常任理事5か国は平静をよそおってはいるが、じつにきびしく問われ、倫理的においつめられているといえる。なかでも、自由と民主主義をとなえる主要3か国(米英仏)が、優越的地位にあぐらをかき、核軍縮をさぼっているのではないかと疑われていることが、民主主義をきずつけているのではないか。また、自国の覇権拡大に注力する大国(中国)の自己中心すぎるふるまいが、国際社会における役割を自覚できない社会主義国の堕落を象徴している。さらに、ウクライナ侵略にあわせ、戦術核の使用をにおわせたロシアは、NPT体制が虚構であることをばらしてしまった。保有国が非保有国を恫喝するということは、核独占体制の不条理を露呈したといわざるをえない。こうなると、ソ連からロシアへの常任理事国の継承にさえ文句をつけたくなるもので、今後ロシアの地位をめぐり国際社会は脈動せざるをえないであろう。

 このように、核管理をめぐっても戦後体制がおおきくほころびを見せはじめているといえるが、おおくの課題に対し現状では幔幕(まんまく)にすぎない国連に期待できることはすくない。といって新国連をたちあげるエネルギーも、現国連を破棄する勇気も、今の国際社会にはないということであろう。国連改革については、おそらくロシアとウクライナの終戦協議にあわせて議論されるのではないかと思われる。が、現在その見通しは暗い。

11 日本にとってのバッドシナリオは

 さて、わが国にとってのバッドシナリオは、米中ともに政権崩壊にひんすることであろう。また、米国の分断の激化はかずすくない解決策さえ無効化するという、最低最悪の事態をまねくもので、わが国がうける影響はじんだいであると思われる。一方の中国は、経済運営においてさいだいの難所にさしかかろうとしている。難所とは、中国経済がかかえる根本的矛盾と構造的課題がシンクロナイズされ、連鎖悪化する時期と場面にいたっているということである。

 問題は、発生するであろうばくだいな損失をだれがひきうけるのか、正確にはひきうけさせられるのかということであり、もっといえば社会秩序や治安を維持しながら事態を収束させられるのかが、当事国はとうぜんとして世界が注目するところである。

 中国共産党の専制政治であるのだから、権力の帰属先が保険でいう最終引受人であると考えれば、損失は党に帰属することになるのであろう。しかし、市場経済であるかぎりそんな資力が中国政府や共産党にあるとは思えない。そこで、最高権力者が「生贄たりうるのか」という統治上の経験則が、支配層の前提になっているのかしらと思ってしまうのである。しかし、この文脈は政治小説的すぎるもので、権力者の引責ていどではおさまらないというのがリアルなところではないか、とも思う。さらに生活破壊がつづくようであれば、流れはむしろ、犠牲者として最終責任をひきうけざるをえない人びとの荒ぶる情動が、権利としての政治参加にむかうのではないかと予想している。

 対中国の寛容政策が、中国の民主化に役立ったかどうかは、これから起こることをよく見定めて判断すべきあるが、時間がかかっても中国流に民主化していくと思われる。なぜなら損失を、さらに生活破壊を、国民に負担させるためには、代償措置として政治参加を認めるという、平和的交換に応じるしか道はないというのが、普遍的な政治原理だと思っているのだが、甘いかもしれない。いろいろと考えてみても、莫大な経済損失や生活破壊をのりこえられるほど共産党支配が強いとも思えない。経済成長ではなく経済混乱が中国の民主化の原点となるかもしれない。

12 台湾有事への備え(敵は全焼、我は半焼、ゆえに我らの勝利とは馬鹿げている)

 ここでひとつ不安なことは、内政の矛盾を外政に転嫁する誘惑の存在である。かりに台湾への進攻があるかもしれないとしても、実効支配は無理であろう。破壊と支配は次元がことなり、コストは桁がちがうと考えられる。さらに重要なことは、台湾封鎖は中国封鎖とほぼ連動するので、中国にとってのリスクがあまりにもおおきすぎる。ということは、東アジア経済が崩壊の危機にひんすることをも意味するもので、そうなると経済恐慌であろう。いずれの国にとっても経済崩壊は社会崩壊をまねくから、とんでもない犠牲をうむことは確実といえる。

 もうひとついえることは、台湾への進攻は国際社会の同情をよび、国家承認がすすむかもしれない。経済混乱が中国のプレゼンスを下げることになれば、なにがおきてもふしぎではないといえる。いずれにせよ、台湾進攻は習体制にとって敗着となることから、権力抗争の経路において「そのように仕向ける」ミスターXがあらわれる可能性がたかいという物騒なシナリオも考えられる。歴代王朝でおこったことは、彼らにとっての教科書であるから、その範囲のことはおこりうると考えるべきであろう。

 とあれ、わが国があれこれと論じるには、さまざまな文脈の整理が必要であるうえに、歴史経過をふまえるならば、たとえ民間であっても慎重をきすということであろう。

 ということで、台湾有事が中国国内の混乱と重畳するなら、思わぬ大混乱もありうるわけで、どう考えても選択してはならないものであろう。周辺国とすれば、ただひたすらに安定収束をいのるばかりである。そのためには、日中間の緊張をすこしさげたほうが、と思うのであるが。

13 対策の基本は、必要とされる政治能力を用意すること

 さて、重層化した諸課題が山ほどころがっている、また経験したことがないほどの危機がせまっている状況にあって、わが国がどのように対応していくかは、遭遇した時点で、事態にそって考えるしかないのであるが、問題はどのような政治態勢を準備するべきかであろう。この議論に参加することが、きえていく世代ののこされたつとめであると思っている。という視点でいえば、総力結集型の政権を準備しておくことがよさそうではないか、やや陳腐であるが、ということである。

 ここで、総力結集型とのべた瞬間、政治と労働の距離をつめる方向にベクトルは働くのである。もし、連合あるいは労働団体が社会的責任を口にするのであれば、おおくの国民が災難にみまわれているときに、どうして部外者でいられるのかと問われるであろう。つまり、災難がかさなって襲ってきているのに、政治から距離をとってどうするの、逃げていいのかということである。また、キシダ政権だけにまかせておけるのか。それで失敗したときに、笑っていられるのか。さらに、協力できることがあったのに、それをしなかったため国民が大損害を受けたとしたら、などと考えれば、政治と労働の距離感を意識的にかえるべきではないか、という議論である。

 思えば、大正デモクラシーといわれ、わが国においても政党政治がさかんであった時代が、しだいに輝きをうしない、最終的に軍部の専断をゆるしてしまったのであるが、その理由については歴史家がさまざまな指摘をしている。そのひとつが政党政治への失望といわれている。汚職と抗争にあけくれた結果が、不毛な議会政治をうみだしたのである。政党政治家の言葉は、いきおいがあり、きれもよく、断定的でわかりやすいのであるが、そこに国民が希望をみいだすことにならなかったのは、言葉とはうらはらの醜い収穫ゼロの現実があったからではないか。

 だから、軍部がすがすがしく、力強くみえたのであろう。筆者が、危惧するのは外に問題がうずまく状況での、二党抗争は国内に亀裂をうみ、政治の解決力をそぎ、一党化へと向かわせることである。さらに、一党化は独断政治となり、独断政治は外にむかい国をあやまつおそれが高いということである。したがって、そうならないためには、高度な政権あるいは高度な政治状況を準備しなければならないと考えている。

 そこで、高度な政権とはなにか。だれが考えても重要なのは人材であろう。しかし、この人材こそが最大のネックになっている。というのもすこしだけの例外があるにせよ、この国では国会議員であることが政治家の条件であり、ここがまさに関門なのである。10年20年先のことであるなら政治家を育成していく時間はある。しかし、今年、来年への対処を考えれば、いまの人材でやるしかないであろう。つまり、臨機に適材を政治の場に投入することが難しいしくみになっている。といえば、ひどく悲観する声が聞こえてきそうだが、いまの人材がそれほど悪いということではない。どこの国においても、選挙でえらばれる人材には偏りやバラつきがあるもので、それを前提として、手持ちの人材(多少の補充があるとして)でおそらく今から20年ほどの間、国をあやまつことなく、国難をのりきることができるように、つまり彼ら彼女らをして最大の能力発揮ができるよう環境を整備しながら、態勢を準備する必要があるということであろう。

14 高度な政権といっても、天才・英雄をもとめないのが民主政治である

 高度な政権の基盤となる人材については、現行の人的資源を前提とせざるをえないといえば、人びとのなかに不満なり失望がひろがると思われる。が、民主政治は天才あるいは英雄をもとめるものではないと考えている。もちろん、英雄願望は人びとの素朴な気持ちではあるが、時々刻々変化する状況すべてにおいて、適切な判断をつづけられる天才英雄などいるわけがなく、英雄願望にもとづく人材登用はいってみれば宝くじよりもひくい確率に国家の命運をかけることにひとしいといえる。もっとも、天才英雄といわれるほどの才能にあふれているであれば、まず政界にはでてこない、おそらく割りにあわないと思うであろう。また、天才英雄願望は独断政治につながるという大きな欠点もある。

 ということから、論点は人材以外の要素において高度な政権をささえるものがなんであるのか、ということになる。

 筆者はそれは「信頼」であると考えている。あっけないほどの普通さ加減にやや拍子ぬけの感がするかもしれないが、国全体として政治への信頼をそだてていくことは、高度な政権をうみだすためにきわめて重要であるが、まことに難しいことでもある。

 まず国への信頼には歴史が必要である。また政治への信頼には実績が必要である。とくに、わが国は77年前の敗戦という大失敗をふまえての出発であったから、国家、政府、政治への不信感が国民のあいだに根強くあることはやむをえないといえる。また、人びとが積極的に信頼をはぐくむ努力も大切で、つねに国に対する被害者意識によりかかっているようでは、信頼にもとづく民主政治には遠くおよばない。被害者意識は被支配感情のうらがえしであって、それでは「私たちの政治」にはならないのである。高度な政治とは「私たちの政治」でなければならないといえる。

15 政治家間に、信頼関係がなければ説得性の高い議論はできない

 そこで、高度な政権あるいは「私たちの政治」をめざすためには、政治をになう政治家集団において、たとえば信頼と真実にもとづく人間関係といった「信頼」をベースにしたものがなければと思う。たとえばこの20年あまりの政治をふりかえってみても、さまざまな議論がなされたが、最終的な決着法をひとことでいえば、公的債務増つまり借金で解決するという、寂しく残念なものがほとんどであったと思う。だから、もうすこし説得性の高い議論ができないものかとか、さらに膠着した与野党の関係をガラリとかえられないものかとか、考えれば考えるほどにこれには政治土壌の改良と涵養が必要であるとの結論にたどりついたということである。さらに、きびしい国際環境へ適切に対応するためにも、改良と涵養が必要ではないかということである。

16 政治土壌の改良と涵養はいかにして

 では、政治土壌の改良と涵養がいかにしてなされるのか、ということになるが、これがたいそう難しい。といっても、土壌の本質をみきわめれば道はおのずとひらかれる。植物にとって土壌の本質はなにか、それはみずからを育むものであるということではないだろうか。では政治土壌の本質とは、それは政治家を裏切らない、むしろ政治家をはぐくむものであるということになるのではないだろうか。つまり有権者からの信頼こそが政治土壌の本質であると考えられる。さらに、いいにくいことではあるが、「お客様は神様」とおなじように「有権者は絶対」であるとする顧客絶対主義をマスメディアが採用するかぎり、わが国の政治土壌の改良と涵養ははかどらないのではないか、とも思うのである。つまり、土壌とは有権者であるから、土壌の質とは有権者の質ということになり、聞きようによっては失礼この上ないことではあるが、議論として避けて通ることはできない。

 ということから、高度な政治を支える政治土壌の構成要素である有権者のあり方が肝要であるという結論に達するのである。ややもするとすべての責務を政治家側におしつけ、有権者としていいたいほうだいという放埓な在りようもみられるが、それでは相互信頼は生まれない。

 民主政治においては有権者は主権者として当然の責任を背負わなければならない。この責任とは最終引受人としての責任であり、見方によれば政治の後始末にあたることから、有権者は政治に無関心であってはならない。またデマや風評にまどわされないよう慎重でなければならない。感覚で判断するのではなく、ときには事実にもとづく判断も必要であろう。というように、ときに有権者に注文をつけることがあってはじめて、有権者と政治家との信頼が成立するように思えるのである。だから「お客様は神様ではない」のと同じように「有権者も神様ではない」のであって、これは有権者と政治家間の信頼のあり方を考えなおさなければといっているのである。もちろん双方向性を前提としての話ではある。

 また、政治家間の信頼も重要であり、たとえば管鮑(かんぽう)の交わりのような理想的ではあるがまれな人的関係をめざすとしても、さらに信頼と真実の関係にしても、その価値と効用は体験した者にしかわからないもので、いずれにせよ理想的ではあるが、議場で悟りをまつようなことなので、一般化できるものではない。また、とても納期に間にあうとはいえない。

 ということで、のこる方法は異種混合あるいは異種交流であろうか。けっしてまじわらないと思われていたものが、偶然にあるいは強引にまぜあわされることで、条件がととのえば新種の物質が生成されるといわれている。

 おなじ穴のムジナではなく、また似たもの同志でもない集団が形成されなければ政治土壌の改良とはいえないであろう。ということは、現行の政権生成のしくみでは、高度な政権をつくりあげることはできないのではないか、ということである。たとえば、第二次キシダ政権にしても、前例踏襲型であると世間からは思われているが、このあと改造をくりかえしたとしても、前例踏襲型あるいは状況適応型の政権の大量生産がつづくだけではないかということで、もちろん、それで間にあうのであれば問題ないのであるが、事態はどうもちがうように思われる。つまり、内航仕様の建造をくりかえしても、難しい環境(外洋)へ出航することはできないということである。

17 高度な政権とはどんなものなのか

◇ では高度な政権とは具体的にどのようなものと考えるべきか、というのがここでの設問であり、筆者のこたえは「個々の政権の特質や能力あるいは相対的な力量といった視点だけでなく、予想される外部環境への適応を中心に、対抗する勢力とのあり方をふくめ、人びとが期待をもって凝集することができる政治状況下で形成される政権」ということで、国政選挙でいえばあと10から20パーセントポイントぐらいは投票率があがる状況が前提となる。

 ここで投票率とは、初歩的な提起だと思われるかもしれないが、たとえば7月の参院選の投票率は52パーセント程度で、この投票率を土台としたうえでの自民党大勝であったが、その解釈はかなり微妙なものといえる。それは、投票しなかった48パーセントにあたる有権者が52パーセントにあたる投票者とほぼ同様の投票行動をとるであろう、という仮説のもとでの大勝説であって、投票しなかった48パーセントのうち5ポイントほどにあたる約500万人が、非自民への投票をおこなったならば、たちまち大勝が大敗に変じることになる。というように、評価が容易にかわりうるという変動性をふくんでの大勝といえるもので、なにやら条件つきのようで、これでは高度な政権としては不十分ではないかと思う。

 つまり、有権者の政権支持への確実性を担保するには、勝手な主張ではあるが68パーセントを超える投票率(三分の二以上)が必要ではないかということである。つまり、せめて68パーセント程度を超える投票率の選挙で信任された政権でないと、先ほどのべた課題山積の国際環境をのりきるにはすくなからず難があるのではないかといいたいのである。

 定常的に国政選挙の投票率をたかく維持するためには、国民の政治意識をふくめ政治土壌の改良なくして実現できるものではない。たかが10から20パーセントポイントの投票率の上昇が、どれほど政治土壌の改良につながるのかといった疑問がでてくると思うが、逆にこういった数的上昇が有権者の意識変革なくしてできるものだろうか、と問いたい。また、かならず数的変化は質的変化をともない、質的変化は数的変化をうながす、と考えているので提起におよんだところである。

 余談ではあるが、与党には低投票率についての危機感も切迫感もないと思われる。表向きの発言はともかく、選挙で有利であると思えば、それをかえる方向には動かない、という原理はじつにわかりやすい。勝利者は、自分を勝たせたルールをかえる動機をもたない。つぎの勝利のためにはかえるべきでないと信じているから、よりよい制度を求めて前にすすむことはできないのである。つまり、進化のない世界に陥っているといえる。

 そういったことは、国民もうすうすわかっているのではあるが、国民も変化のリスクを過大視しているから、衰退路線(ぬるま湯)に首までつかっているのであろう、茹でカエルになるかもしれないのに。といいながらも、投票ぐらいいけるのになにが気に入らないのかしら、とぶつけてみて、結局いまの「ご政道」に連帯したくないのね、と嫌味ながら念をおしてみるのである。

 障壁もないのに選挙に参加しないのは、無関係で非連帯の消極的表明であるのかもしれない。現在多数を制している与党にしてみれば、そういった支持なし層はきっと無害なんだろうとたかをくくる気持ちの一方で、無関係で非連帯という、闇夜で松林を見るような寒々とした感覚に、いやなものを感じるであろう。ながい目でみれば与党にとって危険な傾向かもしれない。

 なぜなら国防の基本は国、郷土、社会、集団への連帯心であるから、低投票率の改善こそが、第一の愛国行動ではないかと、すこし無理をしているが、そういいたい。

 だから、投票率を数として目的化する議論はさけつつも、高度な政権をめざすならば、どうしても高い投票率にうらづけされた政権でなければならないとの結論にいたるのであるが、世間からはいまさら投票率がどうしたのと軽くうけとめられるだけであろう。

18 高度の政権とは、対抗勢力に対し高度な対話ができるものである

◇ 高度な政権の説明に「対抗する勢力とのあり方」とのべたが、政権にとっての対抗勢力とはまず野党であろう。つぎに、政治主張をもつ団体であるが、この場合、連合などの労働団体がわかりやすい。とくに「対抗する」関係でいえば現在のところ、連合が与党を支持するながれにはないことから、対抗関係にあるととりあえず分類してみたが、現下の厳しい国際環境にあって、連合を対抗勢力とみなすだけでは能がない、いいかえれば高度な政権としては失格であるといえる。

 なるほど国内的には立憲民主党、国民民主党の支持団体で、選挙では対立関係にあることから、没交渉であっておかしくはないのであるが、それでのりきれるのかということである。今日において、国内事情を最優先とする論理では国家経営はいきづまる状況にあるのだから、どうしても対外的には総力結集型でなければならないということから、高度な政権としては、連合との関係は選挙などは除外したうえで、より緊密な関係へと発展させるべきではなかろうか。

 とくに、労働組合の国際ネットワークは先進国においては長い歴史のなかで洗練され、また実績もあることから、政治的にも社会的にも高い評価をえているといえる。ということを考えれば、すでにのべたとおり立場のちがいを前提にクロストークとして意見交換をすることの意義は高いのではないかと思う。 

 筆者としては、混迷の度をふかめつつある現状に対し、「せめて連合の政治的影響力を残しておく」という下心がないわけではないが、比較的中立で、行動が穏健、運営が民主的、組織の偏りがほどほどで安定性があり、常識的で保守的であるところが、連合とその構成組織の長所であるから、近未来のとても困難な状況を考えれば、オールジャパンのなかで重要な役割があって当然であると思われる。高度な政権とはこのような広い間口と深い奥行きをそなえているべきであろう。

19 いよいよ問われる「連合とは何者か」

 かつて、一世を風靡したと一部の人が考えている「総資本対総労働」の対立構造が、論としてはありうるとしても、実体としてはないにひとしいといえる。また同様に「政治と労働」というおおきな関係があるとしても、現にそれらの存在を知覚することができないのであれば、存在しないものとして議論をすすめざるをえないといえる。

 つまり今日の状況は、連合とは概念としての総労働に相当するものではない、という現実をうけいれていく過程と考えられる。またそれは、700万におよぶ構成員の政治意識が、連合(本部)によって統合されてはいないという現実によって、連合自身が政治において労働者を十分に代表するものではないことをも意味しているといえる。

 また、政権交代が事実上不可能と思われる今日、700万の構成員が連合なるものを能動的な政治アクターとして認識しえるのかといえば、やはりそこには無理があると思う。つまり、すくなくとも支持政党を立憲民主党および国民民主党に限定しているかぎりにおいて、いいかえれば連合の支持関係から政権交代を想像することができないのに、どうして連合を能動的な政治アクターと認識することができようか、という連合にとってかなり深刻な問いかけがあるといえる。逆にいえば、連合は受動的な政治アクターとして認識されているということであろう。受動的というのは状況にながされる存在ということで、やはりはじめに700万人の多様な政治意識ありきと考えるのが現実的であろう。

 視点をかえれば、単一の綱領や規約あるいは行動規範をもたない、また700万人が政治に関与する心的態度においても、全国組織としての統合性が発揮できていないのに、所属からもたらされる表見的統合性(連合700万人をひとかたまりとみなす所論)という一種の仮想を土台にさまざまな議論をかさねてみても、意味のある結論などはえられないと思われる。

 そもそも、政治結社でない連合あるいは労働団体の政治参加には、とうぜんの限界があるのであって、いわく政党支持や選挙協力なども、あえていえば確率分布を前提とした論をでることはないといえる。

 たとえば今回の参院選において、比例代表連合系(産別)候補が獲得したのは、民主党(民進党)系2党9人分約153万票であり、それに準組織内候補に投じられた私鉄総連系の票数をかってに7万票と推定し加算すれば約160万票であり、連合組合員を700万とするなら、160万/700万すなわち約23パーセントを中心とする確率分布が、連合の統合力と表現できるかもしれない。この水準をもって、たとえば連合が総体として立憲民主党支持であるとか国民民主党支持であるといっていいのかと、すくなからず疑問を感じるのである。

 もちろん、世間での政党支持率は両党ともに一桁台であるから、それらの数字との比較において、23パーセントというのは強い支持関係をしめすものといえるが、ではのこりの77パーセントの投票行動については、もちろん政党名投票もあるが、はたしてどのような内容であったのか、気になるところである。

 そういう意味では、たしかに「連合には票がない」といえるかもしれない。筆者としては、苦労しながらの2020年の合流が、この23パーセントを30あるいは40におしあげるのではないかと、すこし期待をしていたが、2019年の第25回参議院選挙とくらべてもほとんどかわっていないということは、合流による集票効果は連合内においてもなかったということなのか、といぶかっている。

20 政策・制度課題へのとりくみが、政治とのかかわりの中心であった

 労働団体が政治にかかわる動機のひとつが、政策・制度課題の改善あるいは実現にあることはまちがいない。ここでの労働団体とは連合に代表される全国中央組織(ナショナルセンター)であり、それに加盟している産業別労働組合をおもにさしている。

 

 政策・制度課題については、もともと支持政党(連合発足当時でいえば日本社会党、民社党)とは考え方において完全に一致していたわけではなかった。また、一致の程度もさまざまで、とくに外交安全保障では日米安保条約をめぐり、連合以前の総評・同盟間の懸隔はおおきく、議論をすればするほどに関係がわるくなるといった状況にあったと記憶している。また、原子力発電(原発)については、総評系は核廃絶と連動した運動として、原発建設予定地などでは反対闘争を展開しており、エネルギー問題という視点は希薄であったといえる。このように、双方の姿勢にはおおきなちがいがあり、これらがまじわることについてはかなり悲観的であったとも記憶している。

 筆者は、1987年民間連合発足時の運動方針担当(事務局)であったが、「国民運動」の項目をうめるのにずいぶんと苦労した記憶がある。苦労の原因は筆者の非力にくわえ、ながい歴史経過をへた課題のぬきさしならない難しさにあったと思っている。

 一方、民間労組のおおくは、石油ショックの経験から、エネルギー自立をめざすためにも準国産エネルギーとしての原発を、今でいう経済安全保障の観点からも、容認から活用へと理解をふかめていったといえる。

 さらに、2000年代にはいると、エネルギー自立から環境対策へと視点がうつり、さらに2022年にはロシアのウクライナ侵略による石油、天然ガスの調達不調あるいは価格高騰などが、国民生活を直撃するなかで、生活安全保障といった視点も浮上し、ライフラインそのものであり、また他のライフラインをささえる「エネルギー」の安定調達がにわかに争点化していった。エネルギー資源を外部に依存する国々は、それぞれ工夫をこらしながらも、国民生活をささえるために奮闘しているといえるが、皮肉にも脱CO2の強力な流れが化石燃料開発のブレーキ役となり、調達の混乱あるいは価格高騰をもたらせているといえる。ロシアのウクライナ侵略がこれらの混乱の原因のひとつであったことはまちがいないものの、エネルギーあるいは電源構成についての冗長性確保という、基本設計そのもののあり方があらためて問われているといえる。

 年末にむけ、北半球の高緯度地帯での暖房需要が急増すると予測されているが、そういった現実を直視するならば、現状はエネルギーについてはまさに世界的な危機といえる。

 こういった基本事項において、方針なり政策がどのていど一致しているかが、政党間の協力連携におおきな影響をあたえることは当然であり、また、政党と労働団体の支持関係においも同様であるといえる。しかし、連合発足時でさえ、政党間はともかく政党と労働組合あるいは労働組合において、基本政策において必要最低限の「政策の一致」にはいたっていなかったというのが、おおかたの認識であったということであろう。

21 組合員と対面できる組織でなければ、動員などの協力要請はすすまない

 連合などの労働団体は中間団体(組織)であり、個人構成員(組合員)をもたないことから、政治意思をまとめる組織体としては中途半端であるといえる。また、そういった団体加盟型組織体にはいくつかの弱点が考えられるが、その最大のものは拘束力で、決定事項の衆知と徹底には、議論とはべつに手続きが必要であり、さらに強制することは簡単ではない。とくに選挙についての動員などはもともと協力要請であるから、無理におしつければあつまる人数が激減するだけのことである。

 ということで、動員には十分な説明が必要である。過去には地下水がわいてくるような現象もあったが、昨今では義理的参加がふえているように感じられる。世間では、労働団体を政治結社のごとくあつかう向きもおおいが、組合員の考えはさまざまであり、事情も多様であることから、組合員だからということでおしつけることはできないし、効果的でもない。つまり理解なくして協力はうまれないのである。

 もちろん政権交代が理屈ぬきで支持された時代もあったが、民主党政権が崩壊してからは、耳をかたむける組合員は激減しているといわれている。

22 連合の職域は、立憲民主党や国民民主党の票田ではあるが

 むかしから労働界の議論には、はりぼての部分があって、見てくれは立派でも実際はそよかぜですら凌(しの)げないといった陰口もあった。にもかかわらず、政権樹立に決定的な影響力をおよぼしえるのではないかというメディアの独特の話法に、つい本気になってしまうのであろうか。それが、組合員数700万といいながら、連合系産別候補(比例)の総得票数が今回9人で150万票程度で、さらに漸減しているという。そこで「連合には票がない」との認識がうまれているようである。また「いろいろあっても最後は連合はついてくるから」さらには「他に投票先がないから大丈夫」といった嘲弄的言辞が民進党時代にながれたことも事実であった。支援団体への感謝なくして党勢を拡大させることは無理だと思うのだが、不思議な政党と団体であった。

 くわえて、この10年間、職場からの票は指摘されてのとおり、かなり漸減しているといえる。皮肉をこめていえば、もはや連合の職域は立憲民主党にとっても国民民主党にとっても、かの予言のとおり安定したまた十分な票田とはいえないのである。

23 連合700万人、労働課題に対する結集度は高いが、それ以外はまさに多様性の世界である

 少し視点がかわるが、たとえば安全保障に対する考え方は、連合に参加する産業別労働組合それぞれに差があり、一方ではほとんど非武装中立の域をでないものから、他方では集団的自衛権はあたりまえ、さらに核武装論にまでおよぶといった、なんとも幅広い議論があったと聞いている。

 そこで、連合内での議論をすこし集約する必要があるのではないか、とくに支援政党が政権に手がとどく時こそ、双方がそれぞれ半歩でも間合いをつめてはどうか、といった「はなし」もあったが、それは簡単なことではなかった。 もしそれが、労働問題であったなら変えられたであろうし、かえなければならないのである。が、ヘッドラインのうしろのほうにあるテーマは沸点がたかいためなのか、かえることが難しいのである。

 

24 団結できない政党は信頼されない、それだけのことである

 さて団結力については、対象となっている政党がいずれも議員政党であることから、議員以外の組織要素である、たとえば党組織、地方組織、党員、支援団体などの存在感がうすく影響力もよわい。さらにイデオロギー的背景が希薄であることから、組織としては慣性力にかける、つまり軽いのである。また、ひとり一人の議員についていえば、優秀ではあるが我慢ができない、踏んばれない、力をかせないという、以前からの弱点の克服ができていないというか、そもそもそういった問題意識すらもちあわせていないと思われる。組織論がいわれるほどには尊重されていなかったところに、団結力の欠如の原因のひとつがあるのではないか。また、支持率という流行にまどわされた、じみちな運動や組織をけいしする作風が致命的であったように思えてならない。

25 産業別労働組合にとって政策実現の「登はんルート」は多様である

 さて、連合につどう産業別労働組合(産別)のおおくは、政策実現の「登はんルート」にはさまざまなパターンがあると考えていたし、そういったルートについては主体的に判断していたと記憶している。もちろん、全国中央組織の統一にあたっては、政策・制度課題のとりくみを一元化するという目的があり、現在の連合がとりまとめている要求書に、それらが集約されているといえる。要求書は最小公約的にまとめられているが、実現の方法すなわち「登はんルート」については、連合として試行錯誤をくりかえしながら、実績をつみあげていると思われる。

 したがって、政党との連携はその一部といえる。同様に、産別としての固有(最小公約からはずれた)の政策、おもには産業政策などについても、政党との連携以外の「登はんルート」も必要におうじて活用されている。

 また、経済団体との連携もそのひとつで、たとえばILO条約については民間連合結成時(1987年)において7年ちかく批准がとどこっていたのであるが、日経連(当時)の協力をえながら数年後には3本を批准することができた。さらに、関係省庁との連携をベースに、均等法や育児休業法および同給付金制度などは、はばひろい運動のなかで実現できたといえる。

 くわえて、法律として成立するには与党の理解と協力が必須であるから、局部的には与党(の関係議員)とは協力関係にあったともいえる。しかし、そういった事例がおおくあったとしても、非正規労働者を常態化する規制緩和についてはきびしい対立関係にあったことは忘れることはない。

 そういう意味では、公務員制度改革などのように、どうしても支持政党が政権にからまなければできないこともあるだろうし、他方、からまなくてもできることもある、という現実感覚を大切にすれば、またテーマごとに整理をしていけば、うっそうとした森にいるようでも案外空が見えてくるものである。整理をせずにごちゃまぜに論じるから、複雑になるのだろう。

26 産業政策はさまざまであるが、「おまかせ」状態や「手つかず」状態もおおい 

 ということで、政党と労働団体の関係は政策・制度の課題(テーマ)ごとにさまざまであり、とくに産業あるいは業種にまつわるテーマについては労使共同のとりくみになるケースもおおい。くわえて、連合でさえまとめられない利害関係をもつテーマについては「おまかせ」状態であり、また労働組合比率がひくい中小規模企業のおおい業種については、「手つかず」状態にあるといえる。現状では業界団体などがとりまとめていると思われる。 

 つまり、とくに産業政策といわれているテーマは想像以上にひろいすそ野をもっている(連合ではカバーしきれない)といえる。つまり、政党と連合がセットでかかわっているのは、問題領域の「一部分」なのであって、民主党(民進党)から分流していった野党の運動がひろがりにかけているのは、それらの「一部分」の領域にしかかかわっていないからではないかと思っている。「おまかせ」が「おてあげ」にならないようにということである。

 そういう意味では地方組織、党員、支援団体が問題発掘の主体とならないかぎり、政策において与党に対し優位性をしめすことは不可能であるといって過言ではなかろう。さらに、広大な「おまかせ」「手つかず」領域を放置したままで、政権をめざすことを標榜するのは、背伸びのしすぎではないか、足元をみなおすことも必要であろう。

 地域政党やすき間政党、また専門政党が国民政党へと成長するためには、さきほどの「おまかせ」「手つかず」領域をふくめ、人びとをひろくふかく巻きこんでいかなければならない。そのうえで、政権政党への挑戦がはじまるといえるのであるが、正直いってこんなに大変なことに本気で挑戦するのですかとか、ほどほどの政党でいいとは思いませんかといった、そういう声も現実にあると聞く。たしかに、そういった雰囲気がつよまっている。

 このあたりは、政権交代可能な政治情勢をめざしてきた連合的立場にしてみれば、政権交代だけが目的となってしまうことの本末転倒感というか、あるいはなんともいえない不毛感にけっこう気がめいってしまうのではないかと思う。また、政権交代さえできれば一件落着というのでは、とんでもなく無責任であって、やはり中身というか内容がととのってこその政治論、政策論ではないかと、夜半の雨音を聞きながら、じとじとと思いいるのである。

 このような反省というか振りかえりをくりかえしながら、政権交代が必要だからというだけの単純な理由で、すきでもない政党の応援にエネルギーをついやすのも、そうとうに不毛ではないかといった声があちこちから聞こえてくるのである。 

 

27 「政治と労働の接点」とは、遠ざかるものはいずれ近づき、近づくものはやがて遠ざかるという原理である

 さて、可能性がかぎりなくゼロにちかいうえに、目的や政策目標が宙にういた政権交代論にどれほどの意義があるのか、という現実をふまえたきびしい問いかけが、労働団体においては今日的課題になろうとしている。たとえば、民主党が2012年12月に下野してから、すでに10年ちかくたつが、政権交代が期待はずれであったぶん谷がふかく、再出発に時間がかかるのはしかたのないことではある。問題なのはいくら時間をかけても再構築にはいたらない、あるいはどんなに努力しても再生不能であるといったことが、日常的に実証されるのではないか、という不安が支援者あるいは支援組織にじわじわとひろがることであろう。

 では、なにがひろがっているのか。ひとつは単純な否定感、つぎに無視あるいは無関係感が職域(職場)でうまれ、そこから労働団体へとひろがっているように感じられる。すくなくともそういう問題意識がある。そうなれば、一部とはいえ労働団体がフェードアウトしていく選挙などは、筆者にははじめてのことである。

 しかし、こういった局部現象をフレームアップして、ことさら党利党略的に解釈しはじめると、操作的組織論あるいは陰謀論にちかづくので、ほどほどにすべきであろう。そもそも「政治と労働の接点」というのは、遠ざかるものはいずれ近づき、近づくものはやがて遠ざかるという原理のなかで、その時々の最適解をもとめていくもので、ベースは動態論であるから、かたい絆とか政治同盟といった関係を想定したものではない。どこまでも状況適応論なのである。

28 自民党に接近する労組にはどんな問題があるのか?

 ところで、自民党に接近する労組にはどんな問題があるというのだろうか。筆者の経験からいえることは、55年体制とよばれた時代のほうが、今日よりもはるかに自民党の派閥との距離は近かったということである。とくに、民間よりも公務部門のほうが、労働条件のおおくが国会に付議されることから、密接といえばじつに密接であったといえる。それとの比較でいえば、今日自民党に接近する労組があるとしても、55年体制時代をこえるものなのかと疑問に思う。

 いつの時代にあっても、問題解決のために議会勢力に接近することは当然といえば当然のことである。いわんや労働組合が組合員の雇用や生活をまもるために積極的に政府あるいは議会に接近し、成果にむすびつけることは、おおくの先進国においては通常の手法(いわゆるロビー活動)といえるものである。

 といいつつ、今日問題となっているのは、とりわけ民間の労働現場の感覚として、いままで応援してきた政党にこれ以上期待をしてみても、限界があるのではないか、そろそろ手じまいの時期ではないかというものであろう。これは政治的イデオロギーの希薄化が、職域に現実主義をもたらせているといえる。

 とりわけこの10年間は、その傾向をつよめるのに十分な時間であったと思えてならない。2012年暮れの政権崩壊から苦労をかさねながら、再建の道筋をさぐっていったことを評価しながらも、いっぽうで美しくないうえに実りのない野党政治劇をみせつけられて、年々支持する意義と意欲がうすれていったというのが、正直なところであったと思う。だから、労働組合だから野党を支持しなければならないというきまりはない、なかったという気持ちになるのである。

 もっとも、なかったといいきれるきっかけを作ったのは、民主党政権の成立と3年あまり後の崩壊であったことは皮肉なことで、与党と野党が瞬時にいれかわる場面が、労働組合イーコール野党支持という構図になんの根拠もなかったことをあきらかにしていったといえる。

 さらに、政権崩壊をひきおこした内部抗争の決定的瞬間においてさえ、労働組合は蚊帳のそとにおかれていたのだから、ひどいといえばひどい話であって、選挙のときだけという典型例ともいえる。だから、労働組合の現場としてはどう考えても「私たちの政権」とは思えなかった、ということであろう。また、一連の民主党政権劇がもたらせたものは栄光と落胆だけではなく、政権とはとくだんの思いいれなしに、普通につきあえばいいというさめた感覚と現実主義であったともいえるのではないか。

29 野党から離れていくことが、ただちに与党支持に移行するとは限らない

 しかし、労働団体が野党からすこしづつ離れていくことが、反射的に与党である自民党などへの接近におきかわるのかといえば、おそらくそうはならないと思われる。もちろん、しぼりこまれた政策において協力関係が模索されることは考えられるが、生活領域において360度にわたり自民党が合格点をとれるのかといえば、筆者の経験からいえばそれはそうとうに難しいと思われる。スポット的には、自民党は労働組合の要求を満足させられると思われるが、自民党の本質が労働者政党ではないことから、おおくのちがいもすでに存在するのである。くわえて、近年の自民党の思想潮流には反リベラルにくわえて、いささか反知性主義の傾向もあって、また人権への感受性にはかたよりがあるといえる。とくに労働者管理におもく、保護にはかるい傾向がみられることから、その部分の修正がなければ友好団体の立場でさえ、えられないであろう。もちろん、純粋な産業政策にかぎれば協調は可能であるし、そのことは社会的にもプラス効果があるといえるが、本格的な相互理解と協力には、さらなる時間と自民党側の変革が必要と思われる。という文脈で考えれば当面の交流は部分的、限定的といえよう。だが、野党は安心してはいけない。与党にとって、おおきな制約があるようでも、それは条件がととのえば可能であるということで、つまり「鍵がかかっている」と悲観するのではなく、「鍵があれば」扉がひらくとまえむきに考えれば事態はうごく。自民党はそういうことが得意だし、やりまくってきたのである。だから野党も外聞を気にせずに豹変するべきであろう。

30 労働組合の自民党接近と2020年の立憲・国民合流との関係

 「労働組合が自民党に接近」との報道を聞くにつけ、またまた繰り言になるが、2020年の立憲・国民合流はなんのためになされたのか、いまだに首をかしげるばかりである。政党の数が、合流して1になるはずなのに、合流しても2のままでは、たんなる集団移籍とうけとめられてもしかたがない。本来政党の合流とは世間に対し「あらたな大義」を主張するところに意義があるのであって、一人ひとりの議員の当選確率をたかめるための集団移籍とはちがうものである。それが、当選のための集団移籍と解釈されたのでは、合流の魅力は半減し、期待はすぼんでしまう。

 2021年10月の総選挙で、立憲民主党が不調におわったことの原因のひとつともいえる。今回の参院選も、比例票の両党の合計が約993万票で前回の約1140万票を、投票率があがっているにもかかわらず、下まわっている。2020年合流の評価については、すくなくとも有権者は否定的であったということではないか。ここを反省することなくして参院選の総括はなりたたないと思う。

 土台のコンクリートがかたまらないうちに屋をかさねるのは、当座の選挙に気をとられすぎてのことであろう。たとえば、原発ゼロを綱領に残したままでは、一部の産別を排除するにひとしいわけで、完全合流をめざさない確信的対応であったとの解釈もなりたつといえる。政党が支援団体にふみえをふますという前代未聞の事態に驚愕したものである。民主党成立から20年ちかく雨の日も風の日もささえてきた支援団体にたいする仕打ちとしては、これ以上のものはなく見事といえば見事で、おそらく気持ちにおいても断絶していたのであろう。

 残念ながら、もどることのできない2020年9月の合流は拙速不毛の事業におわったのではないか。もともと民主党にあったものは民主党にかえるべきものであるが、不用意につくってしまった間隙から水があちこちへと漏れていくようである。

31 まさか連合に原因があるのでは、と発想を転換して見直してみるのも

 ここで視点をかえ、連合そのものに原因があったのではないかという、大胆すぎる連合原因説について、心ならずもまた純粋思考として検討する必要性を正直なところ感じている。なぜなら、2020年の立憲・国民の合流がかならずしも成功ではなかったとの評価を是とするならば、合流が不首尾となった要因のいくつかが、連合内部にひそんでいたのではないかと、いわゆる感想戦として考えてみるべきかもしれない。

 結局のところ、合流がキズをのこしたのは、連合内にある政治的な立場や考え方のちがいが原因であったとしてもなんら不思議ではないといえる。政治的なちがいのおもなものが基本政策にあったと考えれば、それは水と油ということであるから、いくら混ぜあわせてもいずれ分離するであろう。だから合流してもかならず分離現象がおきるということであれば、不合流を決断したとしてもやむをえないといえるかもしれない。 

 乱暴ないい方になるが、基本政策などのちがいに目をつぶり、ひたすら合流効果による枠のかくだい、たとえば合計比例票の増票効果をもとめることは、「(議員)バッチのために(政策の)旗を降ろす」ことであり、そのことが許容できるできないは、候補者(議員)本人や支援団体の考え方しだいということであろう。また、「バッチがなければ始まらない」というのも一面の真理である。とはいっても、曇りガラス感は残るわけで、こういった事象が発生することは、合流を構想した時点でじゅうぶん予測できたことであり、最大の論点であったと思うのであるが、問題解決にいたらず、なんとなく見切り発車となったことは残念このうえないことである。

 とくに、国民民主党からの合流組にしてみれば、なんでそうなったのという疑問すらもっていたのかもしれない。あるいは合流後に改革しようという気でいたのかもしれない。いずれにせよ、現状は厳しいということであろう。

 ということで、今は傷心であると思うが、いつの日か潮のながれもかわるであろう。その時にまってましたとばかりに生き生きと手をあげられるのか、あるいは憔悴しきっているのか、議員ひとり一人が問われるであろう。民主政治にあって議員は花である、同時に消耗品ともいえる。有権者は主権者であり、主権者は酷薄であるから、しおれた切り花を気にとめることはない。

32「探し求める明日の道」とは何か

 かなり短調(♪)がつづいたが、労働組合の政治参加だけが壁につきあたっているわけではない。むしろそれ以上に、民主主義の危機、資本主義の暴走、社会主義の堕落と表現されるように、大きな土台がゆらいでいるのである。だから、国内にとじこもった議論だけでは解決策はみえてこないと思われる。さらに、気候変動、感染症(パンデミック)そしてロシアのウクライナ侵略という3本の破滅の槍が、つきつけられているのである。この3本の槍は人類にとって生存にかかわる重大な試練となっている。

 なかでも、気候変動による災厄は年々ひどくなるばかりであるが、対策はあまりすすんでいない。また、新型コロナウィルスがおちついても、あらたなウィルスが出現する可能性はゼロではない。ワクチンと治療薬があれば安全というのは豊かな国と豊かな人びとの理屈で、貧しい国と貧しい人々には通用しないのである。

 さらに、ロシアのウクライナ侵略は世界の秩序をゆるがすもので、このあといかなる経路をたどるにしても、世界秩序が元にもどることはないであろう。深刻な局面であるが、各国の対応はふるい感性とさびた手法が中心で、核心からはずれている。

 といった、地球全体を俯瞰しながら、またおおきな問題との関連をたどりながら、国内問題を整理していく必要がある。それにしてもあまりにも問題がおおすぎる。くわえて、おおすぎる問題がたがいに影響しあって、まるで生き物のように姿をかえていく。さらに原因と結果がからみあいながら、木が林に、林が森に、そして森が海になっていく。ついに、人類は問題だらけの海におぼれてしまうのか。

 とにかく、解決の糸口を見つけなければならない、のである。労働団体の政治参加は相対的にはちいさなテーマではあるが、これを刷新することはちいさな一歩にとどまるものではない。おそらくおおきな解決につながっていくと希望的すぎるかもしれないが、そう思っている。労働者が社会の主人公ではないといわれたとしても、労働問題が社会の中心課題であることはまちがいないのである。

 すくなくとも、労働団体の政治参加のあり方については、連合が道筋をつけなければならないことは自明のことである。

33 力不足のまま政権との間合いをつめると、切られるかもしれない

 といっても、キシダ政権を懐柔するには、現状では力不足である。たとえば、三桁の選挙区において結果に影響をあたえるぐらいの動員力をもたなければ、選挙支援をつうじて政治をうごかすことにはならない。いいかえれば、「支援したが、結果には影響しなかった」となれば、中途半端のそしりをうけ、中途半端がくりかえされれば連合全体の失速につながりかねない。これは連合本部の課題ではない、連合構成組織および現場を担当する単位組合の覚悟であって、現場にその気がないのであれば、議論するだけむだであろう。現場にすれば、費用対効果にくわえ大義が問われることから、実質不参加となるケースもあると思われる。(このシナリオは2009年衆院選をピークとして、その後引き潮がつづいている現状をなぞるようなもので、「何のために」が熟慮されずに放置されているかぎり、再点火は困難であろう。)

 民主政治の基本は数であるから、ストレートすぎると批判されても、数をうごかさなければ力にはならない。政治の世界の数とは票である。また票はいきているから、票が票をよぶ、なんとも不思議な世界である。

 そこで、なぜ連合が力不足なのか。その理由はわりと単純で、票をうごかせない(これはごく普通のことである)と思われているからである。とくに、うごかせないと自己暗示にかかっているところがみうけられる。なぜそんなに弱気なのかといえば、ひとつは大義を軽じているからであろう。また大義の力を信じていないから、大義が人の心をうごかすところを見るのがこわいのではないかというのは、すこし深読みかもしれない。

 おなじことではあるが、連合がみずからの力を閉じこめているからであろう。いずれも、上品すぎる、内向的で理性的すぎるところからきていると思う。政治の世界では下品が上品にまさるのである。

 これからも、上品で理性的でありたいなら、政権との距離をつめることはやめたほうがいい、懐柔もロビー活動も形式だけにとどめたほうが、組織的には安全だと思う。間合いをつめすぎると相手に切られるかもしれないから。

 しかし、挑戦しなければ道がひらけないこともたしかで、であるから連合あるいは労働団体の存在意義が「いま」問われているのである。

 

◇ 遠雷や松の葉先に雲ランプ

加藤敏幸