遅牛早牛
時事雑考「年内解散総選挙は凶、政界再編は吉、政界再編解散総選挙は大吉」
線状降水帯に襲われているキシダ政権
◇ ここのところ週末になると雨が降る。あるいは台風に襲われる。9月は休日もおおくかっこうの行楽月であるが、宿泊先で閉じこめられる、あるいは交通の乱れで帰れなくなるなど、むしろ不向きではないかと思う。いっそのこと敬老の日を10月に移すとか。しかし、10月は10月で、大型台風があばれるだろうから同じことか、まあ思いつきはいつも竜頭蛇尾である。
竜頭蛇尾といえば、強運と思われていたキシダ政権がきしみはじめた。直近の支持率のきつい低下は「国葬(儀)」と「旧統一教会問題」が原因だといわれている。まあそうではあるが、それだけではないだろう。たとえば、何もしなければ良かったのに、意を決すると裏目がでる、岸田さんにはそういう質(たち)があるのかもしれない。という話はよこにおき、不支持率が頭をもちあげている真の原因は物価上昇だと思う。与党はことの深刻さにまだ気づいていないようであるが、物価上昇は倒閣の下地をかためるものである。
◇ たとえば、週に4回は買いだしにでかけている炊事人の感覚でいえば、子育て家計の負担は千円札単位でふえている。そこで問題は、この負担をうめられない家庭がふえていることで、さらに悪化すると思われる。にもかかわらず、メディアは「国葬(儀)」と「旧統一教会問題」をピン止めしている。また「ウクライナ」が定番化し、くわえて「英女王の国葬」がスポット的に注目をあつめ、かんじんな「わたしたちの苦しい生活」が置きざりになったのが、9月のメディアであった。
さすがに「国葬(儀)」騒ぎは27日でいったんおわるが、「旧統一教会問題」は核心をはずしたままダラダラとつづくだろう。キシダ政権にとってぬかるみはつづく。
一日もはやく「わたしたちの苦しい生活」への対策をうちださなければならないのに、国会開会をおくらせたのは不誠実であると、とくに低所得層はうけとめている。誠実そうだと思っていたのに、ほんとうは不誠実なんだ、という評価がキシダ政権の憂うつの原因であろう。
「旧統一教会問題」はステージX、総選挙は凶、むしろ本格的な政界再編を
◇ だから、年内早いうちにみそぎ解散をという声も聞こえているが、「何のための選挙なのか」を鮮明にしなければ、こんどこそほんとうに大敗し、後世自滅解散といわれるであろう。たしかに、2012年12月の総選挙から自民党は国政選挙において負け知らずであった。しかし、そろそろ与党にお灸をすえなければと考える有権者がふえているのも事実である。という他愛ない、根拠ゼロの予想であるが、根拠ゼロがままあたるのである。あえて理屈をいえば、すこしぐらい野党に票をまわしても、立憲と共産に政権がわたることはないだろうという確信が支持なし層にあることが、冒険的な投票行動を誘発するかもしれない、といった綿菓子のような話である。
綿菓子のような話はべつにし、旧統一教会問題に内在している深刻な核心について早急にあきらかにすることが、わが国の政治にとって焦眉の急といえる。また、この問題が深刻であると思われるのは、おおくのメディアの報道がなかなか核心に触れようとしない態度から、あるていど推察できるのである。それは、7月につたわってきたメディアの「おっかなびっくり感」が、なんか違和感がありすぎたというか、隠された事情があるかもしれないといった疑惑を呼ぶに十分すぎる、のろのろ感にあふれていたのである。
だから、これはひょっとして無意識の自己規制かも、つまり政治への忖度ではなく、純粋に報道自身の何かにたいする忖度ではないかとも思った。そういえば、おなじことを堂々めぐりでやってみたり、些末事項を棒大にとりあげてみたり、といった奇怪なことをまじめにながしているではないかと。
ということから、すこし飛躍するが30年前に強制捜査をやっておれば、すくなくとも自民党として「有力な指導者」を失うことにはならなかったわけで、またそもそも論としてソ連崩壊以後の、反共や勝共の意義が大きく薄れた時代に、今にして思えば好機ともいえるその時期に、件の反社会的行為を摘発できなかった政治と行政に対し、とくべつな事情の有無についてどうしても質問をしたくなるのは当然のことと思われる。
民主政治を真に脅かすのは国民の無関心である
◇ あるいは、かりにとくべつな事情がなかったとしても、ことの成りゆきからいって、内心の自由とか政教分離とかいろいろと理屈をならべたてても、被害者が続出していた当時の状況をふまえるならば、国民を守るという国としての最低限の役割を貫徹すべきであったし、そうしていれば落着していたはずであったのにという悔悟の思いをおおくの人がいだいているのではないか。また、私たちの社会があやしい宗教団体に対し、かくも無力であることに悔しい思いと、どうしようもないイライラをおぼえている。とりわけ、この問題が国民の視界から長らく消えていたのは、いや消えていたように感じていたのはなぜなのかという重大な疑問もでてくるのである。もし7月8日の悲劇が起こらなければ事態はいまだに闇のなかであったと思うと、複雑な思いをいだきながらも慄然とならざるをえない。
だから、国が役割を放棄したいきさつについて、だれしも知りたいと思うのはとうぜんであって、政治こそがそういった切実な問いかけに誠実にこたえてくれるはずだと、そぼくに思う。もっとも、国だけでなく関係するセクターの多くが無関心の闇に自らを閉じこめていたともいえるわけで、筆者においても教団のカモフラージュや隠密化にまんまとひっかかっていたのではないかと思う。
裏切りと二重の裏切り
◇ くわえて、不法ともいえる手段で信者から収奪されていった莫大な資金が最終的にどこにいったのか、つまり資金の流れがことの真相をしめすのであれば、核心のひとつが資金の終着地にあることは間違いないといえよう。このようにさまざまな疑問が山のようにあるわけで、優秀なわが国の官憲がそれらについて手をこまねいていたとも思えないことから、たぶん「深い事情」があると思われる。また、それがかぎりなくダークなものにも思われるのである。さらに、国内法人の権限のおよばないところで、つまり知らないところで、国際的なある種のとりひきがあったのかもしれない、といった空想にはしる人がいてもおかしくはない。
つまり、「勝共」について本気であったとしても、東アジアの政治シーンからして「勝共」印は官憲の監視をかいくぐるにけっこう都合のいい、まるで朱印状を手にした海賊とはいわないが、それこそ反社会的な部分を組織内にもつ団体にとって、目的と手段の紛淆(ふんこう;入り乱れること)状態が治外法権的桃源郷をうみだしていたのではないかと思えてくるのである。
ともかく、政治にとって利用価値があるのであれば、多少の不法行為については目こぼしするというのでは、法治国家は成立しない。成立しないどころか、そこに被害者がいるかぎり、それはまぎれもない裏切りであるといわざるをえないのである。さらに、それらの裏切りが愛国主義や民族主義を標榜する右派政治家一派により巧妙に隠蔽されつづけていたとすれば、それは裏切りに裏切りを重ねる二重の裏切りといえるのではないだろうか。
おそらく「絶縁宣言」だけでは不十分
◇ ところで、「旧統一教会」の教義にみられる反日性についてここでくわしく議論することは避けるが、先ほどからの文脈でいえば、それらの反日性と国民政党である自民党の理念との背反性について、どう説明するというのだろうか、まさか敵の敵は味方だから、反共であれ勝共であれ、その旗をふっているかぎり反日性については黙認するとでもいうのであろうか、それではほんらい闘ってくれるはずの人たち(政治家)が闘ってくれなかった、またほんらい護ってくれるはずの人たち(政治家)が護ってくれなかったという、別建てのストーリーが発生するわけで、こちらのストーリーがよびこむ非難のほうがさらに激烈であろう。もっとも、こちらのほうが核心であり、震源地であるのだが。
だからといって、自民党という保守政党への一定の評価を帳消しにする気はない。が、「ほんとうに勘弁してよ」というつぶやきと、さいごまで同党支持へふみきれなかった筆者自身の平衡感覚あるいは嗅覚を、気持ちわるさをともないながらも、あらためてナデナデしているのであるが、ともかく護民をおざなりにする政党に明日はないことだけは確かで、またそうあってほしいと思う。
といった視点からいえば、「絶縁宣言」だけでは不十分であろう。いや、それだけでことを済ませるのであるなら、それは新たな隠蔽である。だれが見ても筋のわるい団体と、どうしてくされ縁ともいうべき関係をながながとつづけてきたのか、普通にいえばその方面を担当する行政組織から的確な情報がはいってきているはずなのに、だれかが配線をきったのであろうか、まあ電源をきればアラームは働かないから静かであろう、世界史的にはよくあることではあるが、多くは滅亡直前の事象である。
報道にみられるまどろっこしさは何なんだ
◇ ということで、いま世論の刃は「旧統一教会」にむかっている。そして、何らかの決着をつけるべきであり、そうなるであろう。問題はその後である。護民を忘れていたといった業務上過失でおわらせることはできない。領民を棄てた領主へのお仕置きがまっている。今日領民は主権者であるから、いずれ領主(政党)の責任を問うことになるであろう。でないと、いつまでも民主政治ごっこがつづくことになり、真の国民主権がふわふわのままでおわってしまう、ということで、ここは主権者自身がピシッとけじめをつけるべきであろう。
こういった主権者と為政者との軋轢というあたりまえの民主プロセスを目の当たりにして、多くのセクターが、ようやくことの重大性に気づいたようである。歴史的にいえばほんらい粛清の嵐に見舞われることになるはずであるが、そこに日本的喜劇が介在することになるであろう。私たちは悲劇に耐えられないので、奇妙に笑うことによって悲劇を喜劇にすりかえるのである。といった、小理屈をならべながらも、今日の自民党の対応が五合目あたりで堂々巡りをくりかえし、ちっとも高度を上げないのは、彼ら彼女らの多くが核心に到達すればかならず地獄の扉がひらくことを内心よくわかっているからではないか。だから逡巡しているのであろう、といった解説がうかんでくるぐらい、この問題は底もふかいと思われる。
また、関係者の多くも、これはとんでもない、つまり異次元の醜聞であるから、できるかぎり疑獄でおわらせたいと、それがわが国のためであると、まじで考えているのかもしれない。もし、報道関係においてもそうであるなら、ゆゆしき事態の3乗もの大問題であろう。報道はしゅくしゅくとなされているが、つねに急所は外すといったことはないとは思うが、資金の流れについての追求がいまいちなのはどうしてなのか、まだまだ分からないことだらけである。
大事なところで思慮分別を欠くところに「国防の脆弱性」がある
◇ さて、今回の文脈での「反日」というのはずいぶんと目のあらいフィルタではないか。親日と反日、まるで奇数と偶数のくみあわせに似ていて、ようするに世の中をはんぶんも見ていないということか。
こういった二分化の言葉は使いやすいがひどく粗雑であるから、論旨がさいごまでその粗雑さをこえることができないと思っている。同じようにこの集団の教義も粗雑である。(まずい料理は一口でわかる。)人に原罪があるとしてその由来は深淵なものとうけとめるのが、この国の人びとの感性だと思っている。ところが、複雑な国家形成の由来を斟酌することもなく、ただただ大きく雑然とつつみこみ、本来人の普遍的な属性とも捉えられるべき原罪を国家単位で裁断するという、とんでもなく無教養な彫塑をほどこした結論が「サタン」なのか。そんなバラック造りにもおよばない概念で構成された集会に政治家がでかけるというのは、おそろしく平和な世の中ということではなく、おおくの政治家には最重要場面で思慮分別を欠くことがありうるという、とても信じがたい一面があることと、選挙を基盤とする民主政治にはすくなからず欠陥があることを示しているだけのことであろう。
「正体をかくし、身分を偽るものはかならず後に害をなす」というのが今回の教訓であろうか。くわえて、のこのことでかけていった人たちのなかには、スパイ活動防止法をつくれといった愛国的また右翼的な傾向をもつ人もいるようだが、口でいっているほどは防諜的でもないという、ふがいない現実がうかびあがってくるわけで、わりとたやすく嵌められるのではないかとほんとうに心配になる。いいたくないが、こういった意識たかい系のままごとのような行動をみるにつけ、そろそろ表面的な評価手法からは卒業すべきではないだろうか、と思う。
それにつけても、正体をかくしカモフラージュしながら近づいてくる連中をみわけるのはけっこうむつかしいことではないか、とも思う。また、公的身分をもち、議員会館に常駐する人たちの安保法的確認をうんぬんしはじめると、議論はさいげんなく広がっていくから、入口も出口も難しくなるであろう。今回は、安保意識では一等たかいはずの自民党に防御欠陥がみられたことで、関係者はおおいにショックをうけたのではないか。医者の不養生、紺屋の白袴である。人の振りみてわがふり直せ、とよくいわれたが、「国防における脆弱性」を政党レベルで点検してから、国会で議論するひつようがあるのではないか。
票と日銀券(献金)が通行手形という政治的現実をいちがいに否定することはないが、そのことが蟻の一穴になりうることを重々承知のうえで、党運営にのぞんでほしいものである。息をつまらせてはいけないが、しらないうちに好ましからざる勢力の餌食になるようでは政治家失格であろう。ここでもっとも嫌いな言葉である「自己責任」をかみしめてほしいと思う。
臨時国会は針の筵(むしろ)
◇ 月がかわれば臨時国会である。この時期、低調のきわみにある野党のうごきに注目があつまるのはとうぜんであろう。「やっぱり駄目だったわ」と報道したいのか、あるいは「特ダネ」を期待しているのか、また絵になる論戦ぐらいはほしいとまちかまえているのか、なんであれ低調な野党にスポットライトがあたるのは好ましいことである。
しかし、いくらふるわないといっても、この状況下で選挙をおこなうのであれば、立憲民主党(立憲)と日本共産党(共産)の両党あわせて50議席は増えるであろう。例によって根拠はないのであるが、(絶対に)政権にとどかない立憲や共産は不満のはけ口として最適であるから、ある意味気軽に投票先としてえらばれるのではないか。いわゆる批判票の受け皿論である。
といった空想をかさねるならば、与党として30議席ほどの減ですめばまだしも、50議席をこえる減となるなら首班をかえざるをえないことになる。したがって、解散総選挙はキシダ政権にとって危険すぎる。くわえて、今や伝説となりつつある安保バネは、あまりにも一般化したがゆえに鈍(なま)りつつある、ともいえるわけで、ことほどさように民意は風のように向きをかえるのである。
そういえば、犬猿の仲であった立憲と日本維新の会(維新)が6項目をもって共闘するという。9月21日の話である。アズミマジックといわれている。
この段階で維新をうけいれることができるのであれば、なんでもっと早く中道結集を提唱しなかったのか、といった恨み節がきこえてきそうである。そうはいっても国対レベルだからといってみても共闘は共闘である。総がかりで打ちこわしをめざすのであれば数は多いほどいいに決まっている。もちろん、やらなければ何も起こらないから、やる方がいいという理屈がかがやく日があるのも政治の不思議なところであろう。とはいっても、小手先のマジックではつまらない。せめてイリュージョンとよばれる出し物でなければと思うが、きっとおおきなお世話なんだろうな。
不思議といえば、維新はどうしてキシダ政権に距離をおくのか、説明されたような気もするが、日ごろの切れのよさが感じられないぼそぼそで、よくわからない。「なにかあったのか」と思う。
それにしても、今年の春、維新と国民民主党(国民)との糾合がとんざしたのはどういうことなのか、一説として維新ぎらいの連合原因説がながれているが、そうであるのなら今回は連合が変節したというのか、すじとしてその解釈には無理があるように思われるのだが、そうであるなら連合もいよいよ魑魅魍魎の姻族に化したのか、ますますわけが分からなくなりそうで、こまったことである。
こうなると、昨年の麻生氏による国民民主党懐柔説の真実味がにわかに増してきたように思われる。このまま手をうたなければ泥船化する可能性がたかいキシダ丸に、あえて小舟ではあるが玉木丸がリスクの高い接舷におよぶのか、そうであるなら改革中道路線が活きる連携でなければ、苦しい状況にあっても支援しつづけた有権者や団体に顔むけができないではないか。といった国民民主党にはきびしい政党倫理がひかえているといっていい過ぎではないと思う。もちろん状況次第であるが、どのような状況を予想し、あるいは展望するのか、それぞれ政治家としてのスケールあるいは胆力が問われているといえる。(ここはこの程度にとどめておこう。)
キシダ政権の起死回生の一発勝負
◇ たしかに、このままではじり貧であることはまちがいないわけで、キシダ政権として座したまま党内において処断される、わかりやすくいえば頓死するわけにはいかない。また重大な国際事変の生起を内心期待しながら時間稼ぎをするのも針のむしろであって、許されるものではない。もちろん政界はなんでもありの世界であるから、ここはなんともいえないのであるが、そういったみじめな現実に思いをいたせばいたすほどに、あの黄金の3年間という説はどこへいったのかと、つい考えこんでしまうかもしれない。これは麦わら帽子の話ではない、一寸先は闇という話である。
したがって、一寸先が闇であるなら、闇にみあった手をうつべきで、そういう意味ではそれこそなんでもありだから、手段をえらぶひつようはないであろう。つまり川におちた犬に選択肢はない。はやく岸にあがらないと、石がとんでくる。だから、たとえ禁じ手といわれても、のこされた道は政界再編しかないと筆者は思う。ほかに道がないことから、究極の選択になるだろう。
自民党政治は前世紀末からいきづまり状態だった
◇ 澱(おり)のようにたまった負の遺産。その負の遺産のうえに今日の自民党の苦境があるのであって、すべからく岸田総理の敗着が原因ということではない。問題は、今世紀にはいってからというより、前世紀末から自民党政治はおおいにいきづまっていたわけで、前回も述べたように、小泉純一郎氏あるいは安倍晋三氏といったトリックスター的リーダーによる政権延命がこの20年余のひとつの真実であって、古いもの、たとえば55年以来の政治体制などを破却しなければ、新らしいものは生まれないという革新の原理にもっとはやく気づくべきであったといえる。つまり革命あるいは維新という文脈で語られるべき危機認識がひつようであったと思うのであるが、「自民党をぶっ壊す」からはじまるキャッチコピーとレトリックに頼り、また多少の成功をおさめたことが古い鞘を残すことにつながったともいえる。どんなに表現を工夫しても、政治的ぬるま湯のままでは社会も経済も革新することはできない。残念なことに旧バージョンの政治アプリのままであったことが、20年余の歳月をついやしながらも、わが国の構造問題がなにひとつ解決できなかった真の原因ではないかと、考えている。
そのむかし、「経済は一流、政治は三流」といわれたが、政治が三流なら経済も三流になるというのが、ほんとうのところではなかろうか。経済さえよければあとはなんとかなるという、つまらないフレーズに騙されて、真剣に政治にたちむかわなかったツケが今まわってきていると思う。それでも、グローバリゼーションの波にのっかっているうちは何とか踏みとどまることができていたが、今日のようにグローバリゼーションが逆回転し、ブロック化がすすみはじめると、二流三流の政治では何ともならないことになる。という思いをいだきながら、国民こそがみずからの怠慢を反省すべきであると、あえていいたいのである。国民にもいずれツケ払いの悔しさをかみしめる時がくるであろうから、その時でも遅くはないのかもしれないが、政治の革新こそが最も効率の良い改革であるのだから、臆することなく声をあげるべきではないか。
これから構造問題に強い政党の時代がはじまる
◇ ところで、自民党が構造問題に弱いのは思想や哲学が苦手な、どちらかといえば実学を好む傾向が強いからであろうか。もちろん思想や哲学をかたって選挙をかつことはむりである。選挙で支持をえるためには、まず現実をうけとめるひつようがあり、さらにその現実を肯定するのか否定するのか、それが保守とリベラルのわかれ道である。あるいは、主義主張としてのイデオロギーをものさしとして現状改革をめざす政党は、おいしそうな未来を提示するものの目のまえの現実は不便で窮乏することになるから、選挙制度が人びとにおもねるしくみをもつかぎり、いずれの政党も融和的になりやすい。
今日までの自民党政治は国民政党としての、はばひろい支持をえていることからして、比較優位にあることは間違いないし、その前提で国政を担当してきたといえる。現状肯定あるいは追認からスタートし、風向きによって改革に幅寄せをする。たとえ不徹底、不十分であっても、方向性と意欲があれば有権者は支持してくれることから、低速でも前進するかぎり自転車がたおれないのとおなじ原理であろうか。
しかし、巧妙老獪ともいえるこの政治スタイルは、欧米追走型の時代に通用しても、新しいパラダイムを世界に提唱したり、政治や社会あるいは経済のあらたなあり方を模索しなければならない時代には、まったくもって時代おくれといわざるをえない。考えてみれば、欧米追走がほぼ完了してからの30年余にわたり、わが国の成長は停止したままで、今なおぬるま湯につかりつづけている。そういったわが国の日常こそが、つまり政治革新をわすれたというか、変革をきらった国民とそれにおもねる政治家がもたらした日常こそが、停滞の原因であるといえる。したがってそうであればわが国の衰退はほとんど必然であって、その原因は人びとの怯懦(きょうだ;臆病)ともいうべき気質にあるのではないかと筆者は考えている。
荒れる国際関係に強い体制構築を求める
◇ だからこのままでは、自民党キシダ政権には雪隠づめの屈辱がまちかまえていると思われるが、岸田氏もそれほどの柔(やわ)ではないだろう。また現下の苦境が氏のみの責任ではなく、いわゆる歴代のつみかさなったツケによるものであるのだから、ひとりで背負いこむ義理などないのである。まただれかと交代しても問題構造はかわらない。であれば、攻撃的な再編をしかけてみるのも一法ではないか。もちろん、教唆するつもりはまったくないが。
ところで、1868年の維新から154年、普通に建てかえるのも悪くはない、ということではないか。豪雨が増えているのであれば高台に、熱暑が酷ければ高地へ、風圧が強ければ鉄筋コンクリートに、というぐあいに環境変化にあわせた、つまり荒れる国際関係に対抗できる政治システムを考案してもいいのではないか。正直この十年間、古い建物を言葉だけでしのいできたことに、ご苦労さんといいたいが、それよりも不安なうえにあきあきしているのが正直なところである。
どのように再編するのか
◇ まあ品の良い右派はそれなりに、しかしあくまで中道に軸足をおきつつ、目端のきく左派を活用する、といった間口の広い構想がいいのではないか。最近は国際関係が荒れていることから、まず伝統的な国意識に焦点をあわせたうえで、つまり軸を固めたうえで、積極的に人材の国際化をはかるべきであろう。もちろん、某宗教団体に深くかかわった政治家とは袂をわかつべきである。弾圧は論外であるが、指弾、糾弾は避けられない、そのぐらい国民感情は厳しいのである。
またとくに、国際間の軋轢がつよまるご時世であるからこそ、ウイングは左にひろげるべきである。このような環境で、まちがっても国家主義にかたむいてはいけない。わが国は、自給自足から遠いことにおいては世界一ともいえる経済であるから、古きに癒しを求めるあまり世界との交流・交易をおざなりにする向きは後衛に退くべきである。とくだん旗をふらなくとも国民の国意識はおのずとかたまってくると思われる。
くどいようであるが、裏通りは国意識で飾ってもいいが、表通りには多少なりともリベラル的装飾をとりいれるべきである。とくに、対米、対中を考慮するならそうすべきであろう。国家意識の発揚は害の方が多いし、国柄にあわない。
政治が切開く新しい日本(保守とリベラルの融合)
◇ もともと、ないものねだりの論考であるから、アイデアをだしてみてもどれほどの効用があるのか、筆者自身に自信がないのだから、頼りないこと甚だしい。しかし、わが国の政治状況がにっちもさっちもいかない閉塞状況にあることもたしかである。いま岸田氏にのぞむのは、某関係議員を追放し、党をわり、中道に軸足をおいた再編を世にとう解散総選挙を提起することである。
そうなれば、まちがいなく内閣不信任にあたいするから、政界大激動の引き金となる。大きな騒動となるが、そのぐらいやらないと旧弊から脱することはできない。すなわちあたらしい日本を生むことができないのである。では、今の人にその胆力があるのかといえば、もちろん否定の声がおおいことは十分承知している。しかし、政治にはできそうな者にはできない、できそうでない者にはできるという不思議がある。そういった政治のダイナミズムを信じなければこの世は虚無主義者の巣窟になるだけのことである。筆者がわが国の衰退をいくたびも指摘するのは、反転攻勢の道があると信じているからである。
また、政治は変幻自在であるから魅力があるのであって、干からびたり苔むすところを愛でる世界とは異なるものである。日本はかわらなければ滅びるだけである。だから政治家はその先頭にたたなければならない。
追悼の辞
◇ 「まだ小暑だったのに南都では成葉が落ち、かつての丞相が遭難落命す、時は令和四年七月八日、遠く離れているので柩を見送ることも遺灰を拝すこともできないでいる、ただただ彼の無念に想いを寄せるばかりで、いつしか白鷺も飛び去り、この冬の寒さは酷くなるだろう。」(やすらかにお眠りください、合掌)
注1:悪化しているを悪化するに変更、注2:人びとのを追加、注3:未だ三月に及ばずを令和四年七月八日に変更 (2022年9月29日6:00)
加藤敏幸
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