遅牛早牛
時事雑考 「当世言葉の重み事情1、『日銀さん、お先にふくらんでいます』政治の言葉」
(棺を蓋いてもなお事定まらず、ということか。過日の追悼演説を聞きそう思わざるをえない。立憲+維新-共産≒政権となるのか。旧統一教会問題は心臓に刺さった一本の矢であるのか。もう一本で絶命、抜けば出血多量となる。ここは政治シャッフルしかないだろう、国民のためにも。)
労働組合の言葉遣い
◇ いまとなれば古い話であるが、春の賃金交渉にむけて「たたかい」を「闘い」と書くか「戦い」とすべきか、当時の全民労協の事務局でちょっとした論争になったことがあった。もちろん「春闘」または「賃闘」と総評、同盟、中立労連、新産別の既存団体が表現していたので、結論は「闘い」におちついた。が、「だれも血を流していないのに」と不満顔が一人いた。なにが不満なのか気になっていたのであるが、そのあとの新宿での会議では聞きそびれてしまった。(全民労協とは、全日本民間労働組合協議会の略で民間先行による統一にむけての組織母体。1982年~1987年)
◇ 「ひどく大げさ」ということか、あるいは言葉どおりはげしく「闘え」ということだったのか、または職場でのうけとめと表現がかけ離れることの弊害をいいたかったのかもしれない。表現は過激化するが実態は過激化しないから、古い組合員にはそんなものだと思ってもらえるが、新人にはどんな団体なのかと警戒心をもたれるかもしれない、ということであろうか。
その後、協議会から連合会(現在の連合の前身組織)に移行し、ずい分と本部組織が大きくなったころ、「むかし先輩から『目にゴミが入ったではだめだ、目に土砂がとびこんできたぐらいに書け』と指導されたんだよ。」と笑いながら教えてくれたのが、故河口博行氏(元連合副事務局長)であった。笑いながらであったから氏の本心を知ることはできなかったが、大げさでもいいからとにかく目だつようにということであったらしい。これにはおどろいたが、正確に書くことを譲ってでも、組合員をひきつけることが大切であるという理屈があってもいいと思う。とはいっても、やはり「それでいいのか」と問題意識をもったことが、労働界での表現方式のありかたを考えるのに役立ったと思っている。それもあって河口さんにはいまも感謝している。
運動のマンネリ化への批判が大げさ表現の始まりなのか
◇ 筆者自身は「大げさ表現」はあまりつかわないようにしていた。表現がエスカレートして、次の言葉に窮するのではないかとただ心配していたからで、また「超」とか「弩」をつかって「超弩級」というのもあったし、それがいいようもなく下品に感じられたからである。
しかし、マンネリ化したと表玄関からでさえ悪口をいわれていた「春闘」のながれをひく、春季賃金交渉などの見出しはじつにむつかしかった。ややもすると日常に埋没しがちな労働運動を浮上させなければ賃金交渉はもりあがらない。だから耳目をひく表現にはしるのであるが、数字はいじれないから、修飾語を思いっきり派手にするしか手がないのである。週刊誌の中刷り広告に似ている。
しかし、協約締結単位でおこなわれる労使交渉はほとんどルーチン化されている。もちろんルーチン化されているのは、すでに血肉となっている証拠なのであるが、どうしても飽きあきした感じが運動の停滞のようでおもしろくないと、よく批判された。まあおもしろくないといわれても、吉本ではないからといいたかったが、時流は「おもしろいことはいいことだ」の一色に近かった。
そういった内部葛藤ともいうべき摩擦が生じていたのは、「あたらしい中身もないのに包み紙だけ派手にしても」という醒めたというか、冷静な声が労働運動の根っこにあったからかもしれない。
この中身と包み紙とのかんけいは、労働運動においては永遠の課題といわれていたもので、「毎年おなじ文章ではないか」と非難されても、かんたんにはかえられないのである。それは労働運動の保守性が問題であるといったことではなく、労働者のおかれている環境がかわらないことや、また目標どおり改善されていないことから、表現をかえることがむつかしいという事情があったのである。この事情は今もかわっていないのではないか。
だから事情がかわれば状況は激変する。たとえば個別企業や事業所が景気や産業・業種の動向をもろにうけ、倒産、閉鎖ともなれば地域をまきこんでの雇用問題に発展し、景色は一変するのである。場合によっては賃金交渉どころではなくなり、まさにマンネリズムとは別世界となるのである。
ということで、平穏無事であるかぎり米作りが前年の作柄にかかわらず、毎年真剣にとりくまれるのと同じように、春に賃金交渉にとりくめることはたいへんありがたいことなのである。
「かわる」ことを評価する社会の根っこにある進歩思想と賃上げ?
◇ さて、運動のマンネリ化への集団的つきあげ衝動は、政治の世界でも同じであるが、とくに「かわる」ことへの憧憬と評価が、人びとの心底にひそんでいたように思う。もっといえば、「かわる」ことは善である、といった単純な進歩思想が広がっていたのであるが、それをささえたのは毎年交渉のたびに賃金があがるという、昭和30年代からの原体験ではないかとひそかに思っていた。だが、「単純な」とことわってはいるものの、進歩思想のひろがりの根拠に、毎年の賃上げをよびこむとは、小事が大事を規定するに似た、まるで天地逆転の着想であると非難されるかもしれない。
しかしここで強調したいことは、毎年春になると賃金があがることが、人びとの気持ちをどれだけあかるく安穏とさせたかということである。賃金がどうなっているのかが、とくに民政における最重要事であるにもかかわらず、この30年間ワクワク感がなかったことが、わが国のほとんどの職域から色彩をうばいとったのではないかと、やや一方的ではあるがそう思っている。あるいは集団心理において、あがりようには差があったとしても、「みんなの給料があがる」ことが、たとえば処遇などへの不平や不満をうまく吸いとるスポンジ効果をもっていたと確信しているのであるが、そのように説明しても、最近では共感されることがないかもしれない。それほど体験者が少なくなったといえる。
ということで、よくよく考えれば筆者は過去の人である。だから、現在の人、とくにまだ還暦に達しない方たちには、毎年おこなわれる賃上げをどう評価すべきであるかなど、おそらく身におぼえのないことであろうから、社会事象としてそれが小事であるかどうかについて、判断することはむつかしいことであろう。
いいかえればこの30年間は、賃金については「かわる」ことのない、進歩思想には似つかわしくない「停滞・凍結」の時代であったといえる。
「賃上げはしたいが、先立つ原資がない」とは経営者団体の常とう句であったが、先立つ原資があったのにやらなかったこともおおかったではないか。あるいは起業投資や買収はいそいそとやるくせに、人的投資には後ろむきであったのではないか。さらに、ここ数年は内閣総理大臣が賃上げの旗をふっているが、経営者としてはずかしくないのかと思う。どんなに理屈をならべても、長期間にわたり労働分配をケチったことが、わが国の経済停滞をまねいたのではないかという指摘を、かんぜんに否定することはできないであろう。
30年間も賃金が停滞したのは進歩思想が飼いならされたからかしら?
◇ ではこの30年間、「かわる」ことが善であるとする、あの進歩思想はどこへいったのか。年々、賃金構造上の賃金上昇、たとえば定期昇給があったとしても、それは見せかけのもので真正の賃上げではないことぐらいは周知のことであろうから、さきほどの「マンネリ化への集団的つきあげ衝動」をよくぞ飼いならしたというか、みんなでよく我慢したというか、もっといじわるくいえば、「横ならび」意識が進歩思想をまひさせたのではないかとも推察している。たとえば、となりが1000円賃上げしたと聞けば、わが社も同じようにというのが、春闘の行動原理であったが、その逆向きとしてみんなが賃上げしないのであるなら「それでいい」ということで、「集団的つきあげ」にはいたらないことになったのではないか。あとづけで無理すじの、さらに根拠のない説明なので、早くつぎへ移りたいのであるが、今ふりかえればある種のマインドコントロール下にあったのかもしれない。醒めてしまえば不思議なことだったというしかないのであるが。
こんな風に愚考をめぐらせば、この国の進歩思想なるものをささえるリアルな事象として、賃上げ以外にいったい何がのこされているのか、年々歳々かわることを「改革」といいながら、またよきこととして、いったい具体的に何を求めてきたのであろうか、など考察すべきこともあると思う。とりあえず、わが国においては、飼いならされた進歩思想という表現がピタッとくるのではないか、残念ではあるが。
◇ たしかに、社会事象としての賃上げが非常に複雑な機序をへた、また輻輳したものであるから、たとえば1960年代から1980年代にかけての賃上げについて、その決定要因などの分析があまたあったのであるが、「労働市場の需給関係」がもっとも影響しているようだ、ぐらいの指摘が限界であって、また産業ごとの賃上げの結果についても、ものがたり解説はあるが、詳論はわずかであったと記憶している。分かったようで分からないまま、つぎの年をむかえていたということである。
ようは、これほどまでに進歩思想に浸かりきっているというか、毒されていた人びとが、30年間余にもわたり、賃上げについて声らしい声をあげなかったといえばすこし大げさかもしれないが、その理由が分からないし、声をあげなかったことの意味も分からないのである。もちろん、労働運動として賃上げは毎年連綿ととりくまれてきたが、たとえればやや限界集落的で、全国にわたる社会運動には発展しなかったということかもしれない。
それが今頃になって、経済不調の原因のひとつかもしれないと、真顔で国会での議論がはじまっているではないか。かつてそういう主張をしていた筆者としては、うらぎるつもりはないが、「自民党政権は、資本主義の皮をかぶった社会主義だったのか」と突っこみたくなりに候である。また、そういえばアベ時代にもあったなあと懐かしんでいる。
まあ官邸主導の賃上げなんて、そもそもベースとなる理論がないではないか、それよりも、負の税額還付とかベーシックインカムなどの二次分配を制度化する方がさきであろう。
といろいろあるが、ここでの問題は、進歩思想を信奉しているにもかかわらず大義なき賃金停滞を、それも先進国において珍現象とさえいわれている、30年余の大停滞をどういう理屈で人びとはうけいれていたのか、というこの国の人びとへの本質的な疑いが本線となりつつあるのであるが、本質的疑いなどとは例の妄想的議論をこえて、筆者の経歴からいえばいよいよ危険思想へ突入することになるかもしれない。
だから、この国におけるいわゆる進歩思想は、たんなる「あたらしいもの」好きであって、本質的に「かわる」ことが善であり、価値を生むとは考えていなかったということかもしれない。であれば、例の「改革」大好き現象はどこからやってきたのかという疑問につきあたることになる。
政治言語「改革」に振りまわされた20年間、はたして正しい方向であったのか
◇ さて、さまざまなとらえ方があったとしても、「かわる」ことを許容し、さらにそれに期待をするといった人びとの性向を、するどく見抜き、そのうえでつかわれたのが、政治言語としての「改革」であったと思う。ともかくおおくの政党が「改革」とさけんでいた。(筆者も当時はそうであった。)
とりわけ小泉時代にはずいぶんとキャッチコピー化がすすんだといえる。たとえば「聖域なき構造改革」とか「骨太の方針」には、何かを期待させる語感がたしかにあったと思う。しかし、改革の中身がどうであったかという点でいえば、おおくの場合、からっぽのバケツとしかいいようがないほど空疎であって、とくに政治的に対立し、決着をつけなければならないほどの争点を有していたのかどうかでさえ、あまり頓着されずに、ただ大騒ぎしていただけという印象しかのこっていないのである。
つまり「聖域なき構造改革」という、十年に一度でるかでないかと思われるすごい表現に、あたいするほどの中身はなかったということではないか。いってみれば郵政民営化などは、私的動機を公的な大義にかくあげしただけで、そのうさん臭さを秀逸なコピーでカモフラージュしているだけだったのではないかと思うのである。
一般論ではあるが、そもそも「かわる」ことと「かえる」こと、さらに「改革」が、政治的にどのような位置関係にあるのかについても、十分な議論をせずにただ無造作につかっていた状況に浸かっていると、とても疲れてしまうのであった。とくに、人びとにとっての利害得失が曖昧にされていたことから、これでは政治ではなくお祭りではないか、とさえ思わずにいられなかった、のである。
さらに、たとえば郵政民営化が、構造改革としてあるいは国民にとって、成功であったのかどうか、いまだに判然としない。むしろ国鉄・電々・郵政事業の民営化の結果として、労働運動の闘争力が低下していったことは間違いないわけで、べつにそのことの是非を論じる気はなく、あえていえば中立なのであるが、そもそも保守政党としては、公営事業体の労働組合が全国規模の単一組織体であることへの恐怖感もあってか、なんとか弱体化したいと考えていたと想像するのは自然であったといえよう。もちろん改革の動機がひとつとはかぎらないので、いくつかのうちのひとつであったというのが妥当なところであろう。
さて問題は、そういった民営化がもたらせた数々の負の部分について、どれだけリカバリーされているのか、ということである。つまり事業体経営の見地からいって、組織改変などが必要となることは十分ありうることであるから、そのことを争うのではなく、組織改編の結果についての検分をまじめにやれよ、ということではなかろうか。つまり、小泉改革によってわが国がどれほど良くなったのかについて、解説する責任があるということであるが、衰退国家の今日の実情を考えれば、あの時あの場面で改革すべきことはほかにもいくつもあったのではないかと、改革のやりっぱなしが多い現状をまえに、ふと考えこんでしまうのである。
20年余の間、莫大な政治資源をついやした結果としての今日のありようを、これしかない、あるいはこの道しかなかったと、いい張るのはまことに勝手すぎるのであって、ここはさまざまな道が考えられるなかで、ひとつの選択の結果としての「今日のありよう」として認識しなければ、政治を比較し批判を構築することにはつながらない。つながらないということは、経験からまなび次代に知恵をのこしていくことができないということである。今の政権政党には、そういった謙虚なセンスがかけていると思われる。また、経験からまなぼうとしても、経験が整理もされずに散らかっているようでは、まなびようがない。謙虚さの欠如が、わが国の不調をまねいているように思える。
自由民主党ははたして保守政党であるのか、疑問
◇ 今日まで自由民主党(自民党)を保守政党と分類してきたが、自民党ほど「改革」を多用した政党は他に類をみない、というのであればわが国において保守政党とは何かという疑問につきあたることになる。
保守政党それも政権政党が「改革」をキャッチコピーとして道具化し、大騒ぎをくりひろげてきたともいえるが、その改革の中身が時宜をえていたのか、また成果をうみだしたのか、という点についてはさまざまな評価があるものの、期待値からいえばいまいちであったといわざるをえない。とくに人口減少に歯止めをかけられなかった点は、おおいに反省すべきであろう。というのも、今日のわが国の衰退感が近未来から加速される「労働力人口の減少」にあることは周知の事実であって、対策の基本は出生数の維持さらには増勢にあると筆者は考えている。たしかに大勢として、人口減少がベーストーンとなっているなかで、なお労働力人口を維持していることは、女性や高齢者の労働力人口化を支える施策をふくめ評価されるべきである。
そのうえで、基本はベースとなる総人口の維持であることはかわらないわけで、やはり出生数の増勢が重要なテーマとなる。しかし、ゆるやかな人口減少はとくに先進国においては共通の現象であり、たとえ域外からの流入策(移民)をとったとしても、減少を止めることはむつかしい。それこそ民族大移動でも起きないかぎりということであるが、おきればおきたで大混乱となるわけで、いずれにしてもひとことではあらわせない、むつかしい課題であることはまちがいないのである。
そういった視点にくわえ、わが国には「急速な高齢化」という事情があり、問題をさらにむつかしくしている。したがって「急速な」にたいする特別な対策がひつようであることから、本命である出生数の増勢をいかにつよめるかということになるのであるが、今年生まれた子が労働力化するのには15年以上の、多くは20年以上の年数が必要であるから、2022年の出生数の増勢が労働力人口に反映されるのは2042年以降となり、そのときには高齢化問題の焦点である団塊の世代はすでに90才をこえていることから、社会保障費用は後年負担でしのげるとしても、介護などの労働力不足には間にあわないことになる。もちろんさまざま選択肢があるので、ただちに悲観することはないとは思うが、足のながい課題こそ、はやめの着手が重要である。
少子化対策はとくに20年を超える時間軸で考えるべき課題であるが、足がながいということは1、2年はもちろん4、5年おくれても気にならないということであり、目の前の課題にくらべられると、どんどんうしろにおいやられ、結局時間切れとなる怖れがあるということであろう。そういうこともふくめ国の総合力が試されるものである。
という問題意識にたって少子化対策をとらえるならば、これこそ保守政党がせおうべき課題であると気がつく。であるのに、この国にほんとうに保守政党が存在するのかと暗澹たる思いにかられるのである。
たとえば国力の基本は人口にあることは、政治家なら常識のことであろう。経済、産業、社会保障、国防、研究開発などなど、いずれも労働力人口が減少しはじめると、それらの歯車が逆回転しはじめ、どうにもできなくなるのである。「百年安心」年金の基本は、制度よりも人口構成のほうの影響が大きいのであるから、ここらあたりは保守政党が強力な指導性をはっきすべきであったと思っている。
しかしこの国では、保守政党と称される政党が、なぜかすすんで「改革」の旗ふりに堕し、本来になうべき長期課題には眼もくれず、目前の人気取り政策に血道をあげているのである。いつのころからそうなったのか不明であるが、そもそも手段としての「改革」ではなく、「改革」を目的化したところがおかしいのである、それも保守政党のポジションで。
野党が選挙で自公に勝てないわけ
◇ 政権政党が、まるで学生運動にはしるがごとき様相を呈したのだから、野党はほんとうにこまったと思う。政権政党が「改革」すなわち「反政府」の旗をふり、また野党からは最大の「うり」である改革をうばったのだから、選挙で野党が勝てるわけがないではないか。
ところで、労働界にはいまだに二大政党制を主張する動きがみられるが、こんな状況で、政権交代が可能な二大政党制が成立すると、どうして思えるのかよく分からない。30年余り前の連合発足時とは状況がまるでちがうのであって、二大政党制による政権交代論は、2012年の民主党(当時)下野によってピリオドがうたれたと解すべきであろう。とくに、いずれの政権グループを選ぶのかにあたって、きわめて重要な判断材料となるべき「政策の選択基準」が拮抗的に提示されていないという、おどろくほどの欠陥をかかえているのである。このコラムでも、いくどとなく指摘してきたが、二大政党制とか、政権交代可能な状態とかは、現状を考えればそうとうに無理があるのであるから、労働界全体とはいわないが、せめて連合においては現実的な対応を議論してほしいものである。
◇ さてくどいようであるが、小泉、安倍が政略的に秀逸であったのは、野党の「改革」ポジションをうばったところにあったといえる。しかし、それが有効であったのは国民が「改革」に好意的であったことと、もうひとつは自民党が真正の保守政党ではなかったことにつきる、と筆者は考えている。だから小泉・安倍の勇猛果敢な政略は自民党の非保守性をささえにしていた側面が大きかったといえるし、「改革」アピール作戦とその成功は、さらに自民党の保守性をうすめていったともいえるのである。
しかし、政権政党が保守性をうすめたことによる負の影響は想像以上であり、その結果、わが国の根太がきしみはじめ、国家経営の経綸が萎えはじめているのではないかと心配している。もともと、国家機能や制度の維持は守成の床柱であるが、その保守点検は地味で、選挙でアピールできるようなものではないのである。くわえて国家経営の秘訣は細部にあり、それは宣伝するようなものではない。ここらが、保守政権にとっていいようのない負担であったから、「改革」一本槍でつきすすんだ小泉時代は、さぞや爽快であったのではないかと、妙にうらやましくも思うのである。
ということで、選挙での劣勢をはねかえすために、国民うけのよい改革に目をつけたまでは是とするが、保守政党の本来の役割をわすれ、「改革」を目的化しすぎたところに自民党のふみちがいがあったと思われる。もちろん、「改革」ができなければ「自民党をぶっこわす」という表現は、類例のないアジテーションであり、その破壊力は強烈であった。もちろん破壊されたのは野党陣営だけでなく、冷静に考えて投票するという、民主政治のもっとも大切な基盤そのものであったともいえよう。こうして選挙そのものが劇場化し、言葉も表現も実態をともなわない、まるで空砲パレードになりさがったとうけとめている。ここらあたりが、保守精神の衰退をともなう、表現インフレーションのはじまりであったと考えている。
ということなどをつらつら考えれば、もう形だけの「改革」はおわりにすべきであろう。さらにいえば、これからは「改革」というファイルカバーなどには目もくれず、具体的な項目をリアルに点検することのほうに注力すべきであろう。また、「改革」の効用については、有権者がみずから見きわめるべきで、もはや政党や政治家からの話をうのみにする時代ではない。さらに評価は主権者の掌中におくべきで、政権が自画自賛して悦にいるようでは何をかいわんやである。政治のおまかせ期間は終了し、国民ひとり一人が債権者・債務者として、この国を引きついでいかなければならない。衰退国家の債務はとりわけ重いものである。
「改革」の中身はいつも不鮮明、それで改革といえるのか
◇ いつの場合でも、政治の真意があきらかにされることはない、のであるから「聖域なき構造改革」の本丸がどうだこうだという議論に決着がつくはずはないのである。しかしながら、改革という言葉に人びとが好感をもつかぎり、これからもこの言葉が多用されることはまちがいないであろう。問題は、いつの場合も「改革」の中身が不明あるいは不鮮明なことである。
ところで、「聖域なき○○」という表現には、強い意志と公平性をあわせもった騎士風のイメージが付着しているから、コピーとしては好感度が高く秀逸といえる。あるべきは、その中身に責任をおうべきことなのであるが、秀逸なコピーがそれらを免責しているように思える。
また、「骨太」といってもわが国の骨が太くなるわけではない、国としてはむしろ細くなっている、だから「骨格的方針」としたのほうが正確であろう、しかしそれではおもしろくない。だれもふりむいてくれないことから、官庁用語としては型やぶりの「骨太」という表現が、サプリメント然としてかなり新鮮であるから、おそらく注目されるとよんだのであろう、その意図はみごとにあたったといえる。しかし、語法としての不安定感は今もつきまとう。
つまり、宣伝広告としてはたくみな表現であるとしても、政治シーンで、それも重要方針において、この手の表現を多用するのはさけるべきではないかと思う。ちっとも骨太になっていないと有権者が気づきはじめると、あざとい表現であるだけに政治への忌避感がうまれ、それが政治不信につながっていくような気がする。
表現がエスカレートしていく表現インフレが政治をダメにする
◇ このように、おもしろさとか新鮮さあるいは気のきいた表現が、世間にうけいれられたことから、中身の議論とはべつに「戦略的なあじつけ」として特別あつかいされ、とくに小泉以降の民主党政権時代もふくめた近過去における、あらたな政治表現として流行していったと思われる。
同時に、表現における加飾という、みばえのくふうが選挙宣伝の場面では限界ちかくまで追求されるなど、さまざまなノウハウが活用された時代でもあったといえる。さらに、選挙アドバイザーなどの専門家が参加したことにより、選挙に勝つことが優先される先鋭なムードとなり、選挙公約や演説などの訴求力強化をはかるため、加飾から過飾へとエスカレートしていったのではないかと考えている。
ここで、加飾をたとえば1を1.1あるいは1.2倍にふくらませることだと、また過飾とは1を2倍にふくらませることと考えることができるのではないか、あくまで仮のしつらえであるが、なにやら一票の格差問題に似ているところが愛嬌といえなくもないけれど、これである程度の見当がつけられると思う。
さて、ある種の政治主導が、かたくるしい官庁用語法からの解放をもたらすのであるなら、つまり政治表現が国民にとって分かりやすいものになるのであるなら、それはそれで評価できる。しかし、そうであるからといって、その動機が「うまい表現をつかって人びとの歓心をかう」ところにあるとすれば、表現を分かりやすくするというのは、あくまで付録ということなのかもしれない。
ということで、見出しから要約までは政治主導による用語法をもちいて、本文と添付は官庁用語法をもちいるといった分担ができているのかもしれない。たとえば「百年安心年金」には政治主導のにおいがするが、「マクロ経済スライド」はととのった感じがして、まさに典型的な官庁表現と思われる。さらに、「一億総活躍」などにいたっては、「ご冗談でしょう」と反射的に反応してしまうのであるが、これは1940年代の戦時スローガン「一億○○○」に似て、1億に丸めるところがいかにもスローガン然としていて、その雑っぽさにわらってしまうのである。
ところで、「アベノミクス」は表現でいえば二番煎じ系といえるが、いかにも自己中なところがお気楽で、また語呂のよさもあってか、浸透力はたかかったといえる。ところが、日銀の「異次元の金融緩和」の正体があきらかになりはじめると、「異常な金融緩和」へとイメージがかわっていった。もちろん円安や株高の恩恵をうけた人びとにとっては絶賛ものであったといえる。表現としての「アベノミクス」は中身がよく見えないステルス型で、ふかく考えなければ便利なだけの、まとめサイトに似ていたと思う。はたして、国債の日銀引き受けという事実上の規制線やぶりが、国民に害をなす日がおとずれるのか、固唾をのむ思いであるが、鳴りものいりでほめそやされていた「アベノミクス」が、低所得層にとってけっしてやさしくない、いやむしろ過酷なものであるとの理解がじわじわと浸透したことによって、その評価は低落傾向にある。
キシダ政権において、生活実感と政策表現とのいいようのないギャップを、目のあたりにしている人びとは反感をもちつつ戸惑っているといえる。どんな反感なのか、またどんな戸惑いなのか、ここはていねいにうけとめられるべきであるが、「重く」「真摯に」うけとめ「ていねいに」説明するというフレーズがすでに空まわりしているのだから、これはもう喜劇というべきであろうか。
表現と実態の乖離が政治不信を生む
◇ このように、大衆うけする表現こそが訴求力のエンジンであるとの考えから、選挙時はもちろんのこと、日常の政治においてもエッジのきいた、あるいは大げさでおもしろい表現へとすすんでいったと思われる。さらに政治側のつよい要望をうけ官庁表現からの衣がえも同時進行していった。
ともかく、競争であるからどうしてもエスカレートするのであろう。そんな状況においては、表現と実態の乖離がどのような政治的害悪をうみだすかについての懸念やとまどいなどはいっさい存在しないのであろう。いってみればブレーキのない「やりたい放題」の世界であったのではないか、嘘こそ規制されていたとしても、表現はふくらみはじめると、どこまでもどこまでも宇宙までもふくらんでいくものである。
(筆者もいつの間に平気でかような表現をするようになったのであろうか。つづく。)
◇ 南山のふもとの里の萩の宿 雲はながれつ 姿は見えず
注)2022年11月2日:一部、漢字をひらがなに変換。
加藤敏幸
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