遅牛早牛

時事雑考「当世言葉の重み事情2『日銀さん、お先に信用落としてます』政治の言葉」

(当初、一本(2万字)であげていたが、あまりにも長いので分割し、すこし加筆した後半部分である。あいかわらず、漢字とひらがなの比率に難儀している。今回のながれは、ややごういんな展開だと自覚しているが、言葉がかるくなると実態まで軽くなるようで、心配で筆をとってみた。しかし、あんがい実態がかるくなったので、言葉もかるくなったのかもしれない。ところで5パーセント賃上げ要求にはエールをおくりたいが、「遅くない?」早められないのかしら。みんな首をながくしてまっているから、急いでほしい。年があければ、年金生活者の怒りが爆発するから、春の地方選挙は雰囲気がかわると思われる。)

「闘争宣言」が懐かしい世代です

◇ 労働界には、「闘争宣言」文学があると筆者は考えている。ごくせまいジャンルなのだが、にがてで嫌であった。

 さて、「闘争宣言」というのは鼓舞の文学であるが、どうじに安定剤としてはたらく。たとえば「総力を結集して断固闘う」とか「要求満額をめざし最後まで闘う」といった、いわゆる定型文があって、何回も聞くとなんとなく心地よくなってくる。それが、最後までたたかうと宣言した翌週には、だいだい妥結するわけで、「最後まで」の最後とは解決までということなので、妥結とはすなわち解決なのであるから、最後までたたかったことになる。ごまかしではなく、そういうことなのである。

 では「総力を結集しているのか」ときかれれば、「総力を結集しなければいい回答はえられない」ということであるから、いつも総力を結集している(はずな)のである。また「総力を結集していない」と立証することはほぼ不可能であろう。もともと、総力とか結集といった言葉は、筆者の語感でいえば紙風船のようなもので、普段は折りたたまれて引きだしにはいっている。出番がくればふくらませるが、中はからである。しかし、そうであるからといって不要なものではない。大衆参加型の運動においては、節目をしめくくるイベントとしての全員集会、そして節目であることをあらわす「印」がひつようで、その「印」が「闘争宣言」なのである。

 で、まず大げさでそらぞらしい。そして、心にもないことを作文するわけにはいかないので、その気にならなければ書けない。また、文案をひねっているうちに、書いた文章に触発されて、さらにその気になって自分で盛りあがっていくのであるが、そこが嫌であった。べつに憑きものという状態ではなかったが、芝居とおなじように「自己励起」していくのであろう。

 ベテラン組合員は「闘争宣言」を、そろそろ終わりだなとうけとめ、新人はいよいよ始まるのかととらえるのである。かつて、「闘争宣言」が数次にわたった時代があったが、毎年とりくむ交渉で、毎年爆発していたのでは労使ともにもたない。ということで妥協をルーチン化せざるをえないのである。

表現インフレが悪影響をもたらす

◇ さて、政治分野での表現におけるインフレーション(表現インフレ)がもたらす有権者の政治意識への悪影響を考察するのであるが、自分の言葉に自己励起していく過程や、みんなでワイワイやっていくうちに集団として励起していく過程では、表現として「ふくらませた部分」のあつかいがむつかしくなることがある。とくに集団の場合は先鋭化した人びとにリーダーシップがうつる傾向があって、ほんとうはわすれてほしい「ふくらませ部分」がたまたまクローズアップされると、思わぬ方向に動きだすのである。また、人は集団になると過激好みになるようで、表現がふくらんでいる以上に気持ちがたかぶるのであろう、行動もふくらんでいくのである。という発信側におこっている事態が、受信側に伝達されていくと、さらに過反応をまねくことになり、いってみれば、たいした確信があったわけでもないのに、表現だけの都合でふくらませたことで、おもいのほか多数の関心、気持ちをたかめてしまうことが、まま生起されるのである。

 こういった現象に対して「意外とうけましたね」という「意外」がどこからやってきたのか、要因が複雑にからんでいるので、解析はかんたんではない。ただ、こととしだいによっては「好ましからざる」何かが起こるかもしれないから、「うけた」ことよりも「意外に」のほうを気にしなければならないのである。

 かりに、時間のけいかとともに現象が減衰していったとしても、かんけいした人びと、とくに受信側にはきょうれつな記憶として、あるいは体験として何かがのこり、そしてその何かが、つぎの何かの種になるのかもしれない、のである。ということで、思わぬもりあがりをよろこんでばかりはいられなくなるのである。それは事態のインフレーション(膨張拡大)ともいうべきもので、予定していたものでなければ、収束は困難となるおそれがある。

 政治家は自信家であるから、事態をコントロールできていると思いがちであるが、筆者には、事態が関係者を支配しているとしか思えないケースが多いように思えるのである。経験として、多数がかかわることには、ある種の慎重さがひつようなのではないか、とりわけ政治においてはと思っている。とくに、ふくらませることにはより慎重になるべきであろう。

「重くうけとめる」をくりかえすと言葉はかるくなる

◇ 表現インフレとは、政治家の言葉がどんどん軽くなることである。たとえば、発言のたびに「重くうけとめる」をくりかえすと、「重く」のエッジがすりへって、重くも軽くもなくなるのである。「真摯に」といえば、心的態度としては最高度とうけとめられる語感があるが、これも頻発されると、「まじめに」とおなじていどになり、ついには「善処」とか「検討」とか、あるいは「可及的速やかに」といった官庁用語におちつき、廉価品あるいは普及品あつかいとなるであろう。また、「スピード感をもって」といわれた時には時速○○キロなのか、とかやる気だなとうけとめたものであるが、いまでは感じだけでメーターのない世界だと思われているようである。

 さらに、表現インフレとは異なるジャンルではあるが、「新しい資本主義」とは、幕があいたにもかかわらず、役がきまらない役者のようで、とてもかわいそうである。政策は細部が肝であるから、それが見えてこないかぎり、はやりの紙袋におわってしまうであろう。そういえば、コイズミ時代の「トリクルダウン」を思いだす。低所得層にとっては「馬の鼻先の人参」であった。その冷酷さと罪深さはなかなかのもので、その非情にして巧妙なところをあらわす言葉を筆者は知らない。考えてみれば、貧困をうみだす社会機械をセールストークでうりこんだようなもので、うみだされた貧困はいまだに解消されていない。また、トリック(しかけ)は破棄されず、なお温存されている。「新しい資本主義」が「トリクルダウン」とおなじ道をたどることはないであろう、と期待しているが、しかし、学者もいろいろであるから油断はできない。低所得者にとって学者の半数は天敵かもしれない。

 政治表現は、どうしても盛ってしまうので、おいていかれる実態との間におおきなギャップが生じる。それが問題なのである。

大げさな表現は雑な思考をまねく

◇ たしかに、表現としてどこまでふくらんでいくのか、またその行先はどこなのか、糸のきれた風船のように、とおくへながされて見えなくなってしまうのか、あるいは落下してしまうのか、いずれにしても危ういものといえる。

 危ういというのは、表現がただふくらむだけではなく、表現と写像関係にある実態や実物が、表現がおおげさになるにしたがい、どんどん相対劣化していくように思われるのである。

 くわえて、言葉には表現において細部化をすすめていく虫めがね機能があると筆者は考えているのであるが、表現がインフレをおこすと、細部についての表現が雑になってしまうのではないかとふしぎに思っている。

 たとえば、「目に石が」ではなく「土砂が」はいったと表現したとすれば、どんな石がはいったのかという視点は完全にきえて、「それはおおごとだ」という感想しかのこらないのではないか。小さいのも大きいのも、いろいろまとめて大量の土砂なんだから、どんなこんなといっている場合ではない。またゴロゴロしているのか痛いのかかゆいのか、あるいは出血しているのかといった心配などもおかまいなく、「そりゃ大変だ」で話はおわってしまうのである。つまり、大量であるがゆえに量などはかんけいないと、またどんなものがはいったのかについても、大量の土砂なんだから、こまかな質問はいらない、といったぐあいに、量も質も不問にふされることになる。いいかえれば、表現をふくらませると細部が被覆されてしまうともいえる。これでは細部にやどる神々はおかんむりであろう。

うけとる側の事情を考えない政治からの発信

◇ あるいは、いつもいつも「最大限の努力」をしているということのようであるが、「最大の努力」と「最大限の努力」とはおなじなのか。おなじようではあるが、微妙になにかが違う、と感じるのはどうしてなのか。そのうえ、まるで手元にモザイクをかけた料理番組を見ているようでもあり、実際のところどの程度「力」をいれているのか、「最大の努力」にせよ「最大限の努力」にせよ、いずれの表現をとってみてもほんとうのところは見えない、よく分からないのである。

 まあ、どうでもいいことではないかと思われるかもしれないが、言葉を発信する側は、うけとる側の事情については、たぶん無頓着だから、自分たちの都合で言葉をあやつっている(気になっている)のであろう。それが、受信する側にはひどく無神経だと感じられるし、いちいちつきあうのはめんどうであると距離をおいているのであろう。無関心を装わなければ、また、はいり込んでくる。とにかく、だれが考えたって中身がおなじなら、おなじ表現でよさそうなのに、聞くたびに表現がキャッチコピーとして大げさになっていくのだから、だれだって怪訝(けげん)に思うのではないか。ほとんどの人は生きていくのに忙しいのであるから、そんな政治家の表現インフレにつきあってはいられないのである。

 中身がおなじなら表現はかえない、というルール(不文律)を提案したい。

◇ めんどうないい方になるが、「発信者である政治家が、受信者である有権者と、こうかてきな意思疎通をはかりたいとのぞんでいる」ことがあたりまえだと思うのだが、旧統一教会問題のなりゆきをみれば、ひょっとして政治家の側にこうかてきな意思疎通に憚(はばか)りがあって、ほんとうはやりたくない何かがあるのかもしれない、という疑念がうかんでくるのである。

 「聞く力」も「説明する力」も、からっきしダメではないか、と思わせる日々がつづいている。ところが、予算の「金ばなれ」だけは妙にいいのが気になる。やはりバラマキをつかった慰撫作戦なのかと。

 また、毎年のようにスローガンをかえていく心理には、おなじ表現をつづけていると政治的無能さがばれてしまい、いずれきびしい追及をうけるのではないか、といった不安感があるのではないかと、まあ憶測ではあるが、国会運営などにしても確固とした決意、方針が見うけられず、とにかくにげまわっているとしか思えない。それというのも、「国葬儀」と「旧統一教会問題」への対応に失敗したからであろうか。それも大失敗でいまのところリカバリーできそうにないではないか。

 ところで、アベ時代の政治遺産がマイナスに傾きはじめている事態、これがけっこうきついのであるが、に対処できる人材が見あたらないムードである。あるいは党をあげて「自信喪失」におちいりつつあるのか。そうであれば、これは危険な兆候であろう。このままだらだらと国家運営をまかせていいとはだれも思わないであろう。

 やはり、時代がかわったという「何か」がひつようで、とくにアベ時代を清算する「画期イベント」がひつようであると思う。しかし、「国葬」をもちだすようなアベ礼賛者にはとうていできないであろう。

 残念ながら現在の自民党は、アベ礼賛者であふれかえっているから、アベスガ時代を相克する新時代をたちあげられないかもしれない。その原因は、党内に反主流(アンチ)を温存できなかったからで、アベ礼賛者だけではこの苦境をきりぬけることはむつかしいと思われる。

 となれば、異端系の登場をまつということになるが、いまの異端系はケンカがよわそうで、また役にたちそうにない、と思う。だから事態は危機的なのである。いいたくないが、「みんな小物にされちまった」のだから、外からもってくるしかないとなるが、外にも見あたらないからこまったことである。

  

もはや幻術の世界か?

◇ という、ざんねんな状況にあって、今日おおくの政治家が興味をしめしているのが、識別をさまたげるカモフラージュ(匿名やオフレコの多用)、やっている感だけ見せるモザイク(あそんでいる手にはモザイクをかける)、焦点をそらすデコイ(おとりをつかって、気をそらす)、それに存在をかくすステルス(秘匿)などであり、「真相をあきらかにする」とか「実態をつたえる」ことには、あまり興味がないように見うけられる。まあ、いいすぎかもしれないが、こういった為政者にとっての幻術的手法の需要はふえているようである。

 だから、「百年安心年金」といっていたころが懐かしい。「うけとる年金ではなく、制度が百年安心なのです」という弁解も、今にして思えば牧歌的でさえあった。そこには、まだまじめさの片鱗がのこっていたと思う。

 それが、いつのころからか「徹底的にかくしとおす」あるいは、「ばれたらごまかす」といった幻術にそまってしまったのであろう。だから、ちかごろの政治シーンにおいて「さらけだしたうえで決着をつける」という場面には、めったにお目にかかれないのである。おそらくは喝采とか賞賛とはいっさい縁のない灰色の世界に、迷いこんでしまったのではないかと思う。

 といいつつも、きびしい指弾をつづけると、なぜか精神に変調をきたすので、バランスをとるためにわざとべつの見方を心がけている。すなわち、政治家がみずからのまちがいを認めるに臆病であるのは、世論のなかには底いじのわるい加虐性がひそんでいて、ときどき容赦なく鞭をふるってくることを政治家が知っているからであろう。また、その鞭は正義に依っているといいつつ、実は非合理的で恣意的でかつ不寛容であるから、鞭をうける側としてはけっして油断できないのである。本心を吐露して復活した政治家などいないと確信しているから、徹底して嘘をつきとおすのであろう。おそらく政治家として、生存のために学習した結果ではないかと思っている。

 ということで、「正直に話しなさい、そのうえで再出発を」というフレーズが偽善そのものであって、正直に話したがさいごとなり、結局永久追放の憂きめにあうのだから、という政治家の本音をくつがえすことはできないのである。だから、正直に告白できない政治家という稼業に、ふかく同情しているのであるが、同情だけでは事態は改善しないのであるから、やはり正直なる告白をいいつづけざるをえないのである。まあ、追求する側にも偽善の罠があるということか。

◇ つまるところ、「モリカケサクラ」といわれながら、国会を大騒動にまきこんだ一連の不祥事とはなんであったのか、当事者の告白をまたなければ結論にたどりつくことができないので、「物語」の真相はついに明らかにならなかった。あきらかにしたかった人びとにとっては、力の限界であったといえる。そうでない人びとにとっては、壮大な無駄であった。分断というほどのものとは思わないが、壮絶な「すれ違い」であったことにはまちがいないであろう。かりにおおきな問題ではないとしても、そのつじつま合わせの「ネジのゆるんだ答弁」が、除夜の鐘のかずほどの嘘をついたと難じられる原因となっていたのだから、それが政治への信頼を損ねさせたことは疑いようのないことで、おおきな問題ではないにしても、騒ぎとそれがもたらせた悪影響は大きなものであったのではないか。「ごめん、そういうこともあった」と、はやい段階で告白することで、また何らかの贖罪行為でおさめることができなかったのかしら、と性格的にゆるい筆者などはそのように感じるのである。

 というのも、国会では大事な議論が意外とできていないのである。少子化についても、安全保障についても、社会保障についても、財政規律についても、教育についても、感染症対策についても、災害対策についても、気候変動とエネルギー政策についても、それからあらゆる差別についても、国会で議論させないように「仕組まれて」いるのではないかとさえ思ってしまうほど、できていないのである。適宜ひつような議論が欠落する、この国の弱点は国政の非能率につきるのではないかと思わざるをえないのである。やや被害者意識がつよいことはしょうちしているが、いま議論しなければ間に合わないというテーマがじつにおおいのである。

◇ 保守主義について、人は間違いを犯す生き物であることをみとめたうえで、修正していくところに保守主義の真価があると、朗々とかたっていた与党議員を見かけたことがあるが、そのとおりだと思う。ただし、そのように「できている」のかが問題であろう。

 党として、反省すべきことは山のようにあるのではないか、どの党にも。それとも無謬性をいいはるのか、いまさらまちがえたことがないなんて、じつにおかしな話ではないか。

 とりわけ、政権の座についていた政党には、ふりかえればおおくの不都合ともいえる失敗や過ちがあるのではないか。もちろん、相対的な価値観にたっての過ち判定であるから、醜聞とはちがうものである。また、状況判断の差異がもたらす想定外の被害が生じたゆえに、過ちと判定されるケースもおおくあったと思われるが、その責任は状況判断の根拠を解明しなければ確定できない。というように、膨大な作業がひつようになるのである。そういった手間ひまをかけた作業の結果がエビデンスとなり、議論がようやく一歩前へすすむことになる。だからレビューの精度をあげなければ、判定はぼやけてしまう。世にPDCAとよばれている管理サイクルがあるが、政策レビューはPすなわちプランそのもの妥当性をあらそうところに特長があると考えている。一例をひくなら、たとえば「アベのマスク」は不要であったというべきであろう。

 もちろん、「アベのマスク」のちいさな効用を指摘する声はあるが、グズグズいわずにすなおにあやまちを認め、謝罪のうえで再生していくという、メリハリのきいた再生サイクルをまわしたほうが、処置としては上策であったと思う。また、醜聞のあつかいも、事実を確認しすみやかに処置すればいいのであって、無謬性を主張しはじめると、かえって身動きがとれなくなるのである。

 どの国をみても、失敗だらけでよくて50点ぐらいなんだから、「真摯に」反省して、すっきりしたほうがいいのではないか。でないと有権者が「ほかにてきとうな政党がないから」という理由をいつまでも保持するとは限らないのではないか。崩れはじめると大崩壊にいたるのでは、と思う。

尊敬も畏敬もされずに統治できるのか

◇ 表現インフレのいきさきは政治不信であろう。粉飾にちかい自画自賛に酔いしれている支援者のあつまり。また、騒ぎのあとの、散らかった座敷のさむざむとした光景から、人びとはむなしさを感じことになるだろう。なぜなら、とくにこの一年は、感染症対策についても、思いがけない円安についても、ウクライナ侵略によるエネルギー価格の高騰や物価高についても、とくだん優秀な施策を駆使しているとは思えない、つまり平凡よりもやや劣る政府であったと国民は感じているからである。いってみれば、自尊心が傷ついたのである。また、何かにつけて衰退国の惨状をまのあたりにしていることから、つまらない、やるせないと心中うらめしくさえ思っているのではないか。また、この何年にもわたる国会での追求劇は、なければないに越したことのないものであり、またそれだけの時間があったのなら、いろいろな手がうてたのではないかとも思われるもので、そう思えば思うほど、怒りが湧いてくるのではないか。くわえて物価上昇が生活を直撃している現状は、政治家が認識しているよりもはるかに、想像いじょうにバッドであり、政治的にいえば危険な水準に近づいているといって、過言ではないのである。

 その上に、地球規模での経済ショックがおこる可能性が高まりつつあることから、正直いって状況次第ではあるが、アベノミクス犯人説が浮かびあがる恐れもあり、そうなると「アベ派追放」で解散するしか道はなくなると思われる。ごういんすぎる極端なまた不可能なはなしではあるが、そのぐらいダイナミックな政変ともいえる事態が、たかい確率で発生すると予想しているのである。

 ところで、無駄な時間をついやしたのは、野党がうじうじと追及したからだと、いまだにそう思っている人は頭がかたいのである。考えれば分かることであるが、原因が野党にあったわけではない。野党は質問しただけである。ほとんどの問題は国会での答弁から発生したのである。政権が言葉(答弁)の信頼性を落とし、しかもそれらをごまかすために嘘をかさねてしまったと、そのように理解している人が過半だと世間ではそう思われているのである。

 さらに最悪だったのは、選挙に勝てばすべての不都合もふくめて、信任されたと解釈したことであろう。どう考えても、選挙は嘘を真(まこと)にかえる消しゴムではない。国民にとってウソはどこまでいっても嘘である。

 といっても、ただちにおとし米をつけろということではなく、なんでそうなったのかを、論理的にしっかりと説明してもらわなければ、自民党が為政政党でいる資格などないということであろう。かぜあたりは強いというよりも冷たい。

 そういえば、政治家が尊敬の対象からはずれて、ずいぶんと長い時間がたったようである。さらに、畏敬の対象からもはずれているのではないか。おそらく、嘘をついてでもごまかさなければならない、何かがあるのだろうと人びとが思ってくれていると、かんちがいしているのかもしれないが、しかし、何かがあったとしても、畏敬がなければ統治はむつかしいのではないか。嘘をつき、ごまかすから尊敬も畏敬もないのである。とはいっても、政府や官邸を空にはできないので、いやいや投票せざるをえないところが悲劇っぽいということかもしれない。こんどは有権者が考える番ではないか、そんな気がしてならない。

政党は贖罪しないと再生できない

◇ さて、一般的に贖罪には功徳功績に光をあて、あやまちに水をそそぐはたらきがあると聞いた記憶がある。そういえば、あらためて贖罪をもって天下にどうどうと問いかけるべき場面で、かつての民主党が失敗したことを、筆者としてはすくなくとも反省の念をいだきながら、そう思いつづけているのであるが、贖罪どころか反省のいろもみられないようである。日本の政治はだめになるかもしれないと心配している。

 有権者は、政治家のかがやかしい経歴とか知力や能力などには、畏敬の念をもってはいないのである。それらはロードサイドの、センスをほめあう気のきいたショップのものであって、土台カテゴリーがちがうのである。つまり政治家の真価にかかわるものではないと考えているのであるる。

 たとえ一部であったとしても、有権者が見つめているのは、「自分たちが政治権力を行使してもいいという、その根源はどこにあるのか、またその行使にあたりどういう魂胆であるべきか」といった深沈な日々の自問であり、真剣な自答ではないかと筆者は考えている。言葉でたたかうのであれば、言葉をみがくべきで、さらに言葉を発する心的態度をきたえるべきであろう。

「いったもの勝ち」ルールをみとめたから「表現規範」が崩壊した

◇ といいながらも、このような状況にいたったのには、それなりの事情があり、とくべつだれかがわるいということでもなく、時代における共同責任というべきではないか、という考えを全面否定するものではないが、さりとて肯定する気はない。なぜなら、ある発言と行動でもって状況悪化をうながした、すくなくない人たちがいたことも事実であるからである。

 というのは、世の中から表現のものさし(規範)が消え、政治家が「好きにいえる」ようになった、つまり「いったもの勝ち」が成立したことが、状況悪化の決定的要因であったと、筆者はとらえている。そこで「いったもの勝ち」というのは、「コロンブスの卵」のような機知にとむ上等なものではなく、現実的には政治家のとっさの発言をきっかけに生じた「拾い得」であったといえるが、それによってもたらされた「表現規範」の崩壊の悪影響のひどさにただおどろいている。また、ものさしがなくなったのは、日ごろから表現インフレなどにまみれすぎて、表現をていねいに精査するという文明的行為とそれをささえる正常な感覚を失ったからであろう。

 くわえて、中身が変わらないのに包装だけをかえることが、いくども重なれば、正常な言語感覚あるいは判断が変調していくのは時間の問題であった、と思う。

表現構成や論理構造あるいは使用語彙などについて詳細な議論を

◇ 「言葉がいのち」あるいは「いった言葉がいのち」である政治家は、ことばを発する場をえらぶべきである。笑いをとるつもりだったのが、失言の沼に足をとられることになってしまったという、はなしもおおいが、なぜ笑いをとらなければならないのか。支援者が求めているのかどうかは、よくは分からないが、「自己責任」としかいいようがないではないか。

 もちろん、報道やメディアがそういった流れをつくりだし、さらに加速していったと考えている人びとにとって、マスコミ責任論は疑いようのない事実としてつよく支持されていると思われる。その当否は筆者には分からないが、ともかく政治表現において、コンプライアンスだけではなく、表現構成や論理構造あるいは使用語彙などについて、どのような責任を負っているのか、あるいは負うべきなのか、詳細な議論をつくすこともひつようであると考えているのであるが、現状は逆むきで、論理よりも情緒、論拠よりも雰囲気、緻密化よりも概略化の傾向にあると思われる。もちろん憂うるだけではなく、民主化がもつ大衆性と、普通選挙がもつ迎合性が民主主義のベースメントとしてはずせないものであるならば、20世紀のイメージとはちがった政治がはじまっていると判断しなければならないとも思う。しかし問題は、いつもその中身が問われていることを忘れてはいけないのではないか。

 飛躍するようであるが、表現インフレがもたらすのは、中身や実態がかわらないのに、表現だけがふくらんでいく悪弊ともいうべきものであって、それは民主政治をけっかてきに空洞化するのではないかと、危惧しているだけのことである。

大げさ表現は虚言のはじまり

◇ さて、表現インフレというものは、一万円札を前にしてその通貨価値を一万円のままに二万円とよぶにひとしく、いくらよび方をかえても一万円札は一万円であるから、人はごまかされずに、ただ軽蔑するだけであろう。

 正直いって、もううんざりである。「言葉の重み」というよりも、言葉が大切にされているといえるのは、言葉というよりも実態、事実あるいは真実がはほんとうに大切にされている状態であって、そのぜんていのうえで政治が信頼されることになるのではないか。この十年余、政治が実態や事実あるいは真実をあまりにもないがしろにしてきたことから、政治への関心が低下し、たとえば近年の参議院選挙などは50パーセント前後という残念な投票率になっているのではないかといいたいのである。だから、「言葉の重み」と聞くたびにまた目にするたびに、何かしらにがにがしい感慨にみまわれるのである。

寄りそう」「ひとりもとりのこすことなく」はたいせつにつかう

◇ ところで、筆者がであうたびに呻(うめ)きたくなるのが、「寄りそう」と「ひとりもとりのこすことなく」という表現である。ふたつともすてきな言葉だけど、筆者の感覚でいえば、あつかいがかなりむつかしいのである。とくに政治シーンでもちいられる場合がいけない、足がすくみそうになる。「政治が寄りそったのはだれですか」とか「とりのこされた者は数知れず」と即座に反論がかえってくるのではないかと、かまえてしまう。

 また、「ぬけしゃあしゃあと、よくいうわ」とも思う。政治家がつかっている場面こそが、筆者にとってゾクッとくる、緊縛の瞬間であり、「ほんとうに寄りそえるの」あるいは「ほんとうにひとりもとりのこさないの」と聞きかえしたくなる。だからなのか、いつ聞いてもそれらの言葉の重さに圧倒され、なかなかついていけないのである。

◇ 押せ押せとハチマキもせずボラ競う

加藤敏幸