遅牛早牛
時事雑考「2022年のふりかえり-年の瀬に、防衛力強化を考える-」
(一か月をこえる空白ができたが、実家の整理や登記手続きが主な理由であった。また四国への行き帰りのおり、大塚国際美術館や大原美術館などを楽しんだもので、ホテルでは登録時にひとり三千円分のクーポンを受けとり、年がいもなく喜んでしまった。気がつけば2022年もあとわずかとなり、すこし焦っている。あいかわらず書くべき種にはこまらないが、判断にこまることがふえている感じがする。)
内閣支持率が低いのは
◇ 内閣支持率が低調である。発足から今夏まで、意外にも高い支持率を維持してきたことについては「何もしてないから」と話していたのであるが、ここのところ低調なのは「何かをしたから」で、世間でいう「差し障り」のあることを、たとえば「国葬儀」を強行したからであろう。また、問題ぶくみの閣僚の更迭が遅い、といったメディアからの批判の影響もあったと思われる。
もちろん、「大臣を辞めさせる」ことが重大事であることに異論はないが、どのぐらい重大であるのかは個別に判断すべきである。「やめられても惜しくはない」という世間の本音からいって、報道はかなり過剰だったと思っている。だから、岸田総理の任命責任をことさら問うてみても、褒められたものではないことはたしかだが、「だからどうしたの」といった蛙の面になんとやらの域をでることはないであろう。
◇ そんなことよりも、この総理には暴走の性癖があるのではないかと心配しながら、どうじに期待もしている。つまり凡ではあるが異能をはらむタイプではないか。というのも、昨年二階幹事長(当時)に対し任期制限というピンポイント攻撃におよび、「やるときはやるもんだね」という評価をえたようであるが、そのときの突然の「青々しさ」が印象的であった。
べつにキシダ応援団ではないが、その青々しさが気にいっているので、いまは模様ながめをきめこんでいる。それと、さみだれ的に内閣支持率で政権を威嚇するマスコミが気にくわないので、あまのじゃく化しているのであろう。
岸田総理って、どうなん?あんがい専制的で、エリート主義者かも
◇ さて、暴走に期待するとはどういうことなのか、正直いって筆者自身にもよく分からないのであるが、老獪にして変幻自在なる二階氏に決然と匕首(あいくち)をつきつけた残影の影響があることはたしかで、これは玄人はやらない、いやできない所業であって、そういった青々しい素人技が場合によっては歴史を変えるかもしれない、といった無責任ともいえる期待である。
また「根まわし」というやっかいな「概念」が欠落しているところが政治家らしくない、つまり珍種といえるし、さらにもともと人の意見など聞く気がないのに「聞く力」などと平気でいえるところをみれば自家撞着系かもしれない。
たぶん根は専制的な、あるいはエリート主義者だと思う。だから、岸田総理に対する当座の批判は本人にしてみれば慮外のことで、おそらくいわれなき誹謗と思っているのであろう。だからなのか、党との関係ではギクシャクするし、間をとりもつ女房役もいないから円滑とはいえないのであろう。しかし、だからといって総理失格とはいえないのである。
なぜなら、宰相の評価は問題提起力を軸に考えるべきであって、もちろんまとめる手腕も大事ではあるが、問題提起があってこそまとめる力量が脚光をあびるのである。まずは的確な問題提起が重要であると思う。
◇ そこで、一年前にくらべ風景がおおきくかわったのは防衛予算の議論であろう。GDP比2パーセントが国際公約になり、いつのまにそうなったのか知らないが、いわゆる西側に在するかぎり撤回できないものになってしまったのである。そしてこの師走の論議が、防衛予算の財源論一色に占拠され、たぶん出口では増税も国債もという二兎を手にすると思われるから、まるでぬれ手で粟状態ではないかしら。自民党内に右派がいるなら大絶賛するであろうし、予算交渉においても成果といっても過言ではないだろう。もちろん、「安倍さんが引いたレールを走っているだけ」という声も聞こえてくるが、アベ・スガでは党外の反発が盛りあがりすぎて、むしろ難しくなっただろうというのが筆者の見立てである。
党内のドタバタをもって世論を制した嫌いがあるが、それでも防衛力強化の財源として増税を敷設した実績はゆるがないと思われる。
ところで、支持率低迷の主因と解されている旧統一教会問題であるが、これは前の前の総理の案件であって、新法などの薬が効かなければ外科手術というさいごの手段が残されているのだから、気分は悪くはないはずである。遮断、決別、追放を宣言して解散総選挙にいたる「乱暴な勝負手」が総理の手にはまだ残されているといえる。筆者は「キシダはアベ派を切り、イズミは(党内)左派を切り大連立を(考えてみては)」旨の妄想を保持している。おさえきれない党内騒擾にたいしては大戦術で対応するのが定石であろう。内外ともに難問山積の現状において、期間限定の大連立も悪くはないと考えている。今のままの与野党関係で打開できるほど事態は甘くはないというのが筆者の基本認識である。
原発については前進、すなおに評価したい
◇ さらに重要な点は、原発の再稼働をはじめ期限延長、新増設などの難題をスルリと着地させたことである。十年来の懸案に、正確にいえば自民党の怠慢によるものであるが、すくなくとも為政者として答えをだしたことはもっと評価されてもいいのではないか、と思う。これも旧統一教会問題の騒ぎに乗じてといった表現はあたらないが、マスメディアあるいは立憲民主党などの反原発グループとしては虚を突かれた思いではないか。あるいはそれ以上に世論が熟していたのかもしれない。これから数年にわたり、国民生活を圧迫しつづけるであろうエネルギー問題に、わずかではあるが光明が見いだされたといえる。
ところで、綱領に原発ゼロをかかげる立憲民主党は、今回の政府の方策を事実上追認するのか、あるいは反対闘争をしかけるのか、野党第一党として方向性をあきらかにすべきときがせまっている。来年の政局予想でいえば、日本維新の会との連携をどうするのかが重要事項と思われるが、両党のあいだで不整合となる項目は早めに処置したほうが野党の軸が明確になると思うのだが、よけいなお世話かもしれない。
立憲民主党にはいつも乗りおくれ感がついてまわっているのが気になるところで、人にたとえればおそらく身体能力の低下あるいは感覚器官の鈍化が原因ではないかと勝手に診断しているのであるが(自分のことなので失礼はご容赦願いたい)、先ほどの大連立ぐらいの大胆な策を講じなければ草叢に埋もれてしまうであろう。その点でいえば、維新との連携は試行として評価されるべきと思う。しかし、来年の国会では気まぐれ共闘におわるのか、それとも連立をめざす共闘に発展するのか、いよいよ正念場をむかえることになる。となれば、ここは反撃能力を中心とする防衛力強化やエネルギー政策での大変身が必須ではないか、これは維新とておなじことで、身を切る改革とはエネルギーを集中し苦しみのなかでみずからを変えていく自己変革をいうのではないか、議員処遇問題に矮小化しているのはよくない、といいたい。
小局においては巧妙な誘導であったが、大局的な議論はおおいに不足
◇ そこで防衛予算について、「はじめに枠(予算規模)ありきであってはならない」とか「議論の順番が違う」「拙速だ、もっと議論がひつようだ」と党内あるいは党外からさまざまな声が噴出している。もっともな主張ではあるが、それらは本格的な反対論にはなりえない、ただの順番論である。さらに、どこかアリバイづくりの匂いさえする。増税にも反対、国債にも反対ということは、とりあえずの反対表明が議員としての保身の近道と考えているからであろう。時間をかけて議論をすればいい答えがでるのであればそうすればいいと思うのだが、たんなる時間かせぎであれば、厳しい状況にあるから反撃能力を中心とする防衛力強化が必要という説明を自民党議員が理解していないことになるが、岸田総理の説明をそのままうけとめれば、「遅すぎるのではないか」と思う人も多いと思う。やみくもに反対することを勧める気はないが、方針の大転換にあたっての責任政党である自民党の足もとの反応が、質的にも強度においても低すぎるのではないか。つまり、ほんらい防衛方針の論議にあたるべきスポットライトが巧妙に予算問題に移され、世論工作の第一幕にしたてたと勘ぐってしまう。ボケているのか、ボケたまねをしているのか、いずれにしても困ったものである。
◇ おそらく防衛力強化の細目が急速にあきらかになっていくなかで、財源だけに反対をつづけることは困難であろう。また、来年度予算案に反対するのかといえば、防衛費強化の細目がどのような形でこれからの予算案に計上されるのかまだ不明ではあるが、ひとことでいえばこの議論の方向性は確定したといっていいのではないか。時間をかけても与党としての結論はかわらないであろう。どうしても国際公約が優先するし、さらに米国との連携が最優先という現実を直視すれば、ほぼ既決箱にはいっていると考えるべきであろう。それでも文句があるのなら党を割る、あるいは離党すればとなるが、そんな気骨のある議員がいるのか疑問である。3人ぐらいはいてほしいと思うが、議論は議論、保身は保身という利口な立ちまわりが議員の本能であるから、すべからく想定内におさまるであろう。
来年通常国会では本格議論を、いまはあくまで与党内の議論である
◇ 気がつけば、安全保障のあり方論をとびこえて、いきなり「で、いくら用意すればいいのか」と財源論に着地してしまった。順番がちがうこと甚だしく、まさに暴論のきざしである。いってみれば旅行にいくこと、またどこへいくのか、何をしにいくのかなどあらゆる議論を横におき、でいくらかかるのか、定期預金を解約しようか、それとも消費者金融かな、といきなり銭勘定にひきずりこむ軸足換えはほとんど作為的なまた詐術をふくむ引き回しではないか。これも暴走の一種であろう。ということで、ときどきは暴走宰相と呼びたい。
さて、国民はこの暴走を受けいれるのであろうか。もしこれが故安倍晋三氏のもとでのことであればどうであろうか。あるいは菅前総理であれば世論はどのように反応するであろうか。
つまりは、総理のキャラへの反応ではないのか、という疑問がわいてくるのである。とくに、宏池会的立場の、また広島を選挙基盤にもつハト派みたいな、岸田氏の固有の属性がカウンター効果をもっているのではないか、という仮説が考えられる。おそらく誤解ではないかとも思うが、キシダ政権は右派ではないと多くの有権者は識別しているのだろう。となると、右派ではないと思われている総理が防衛力強化を実現し、右派と思われている総理(たとえば故安倍晋三氏)が左派的政策を推進するのが、摩擦最少化の道であると自民党は学習しているのかもしれない。
反撃能力の保有は大きな転換であり、遅いが前進である
◇ さて、敵基地攻撃能力あらため反撃能力についてはかなり注文がつくとしても、大枠許容されつつあるのではないか。たいした議論もなしにといえば、気を悪くする向きが多いと思うが、どう考えても偏った広場での議論で、ひらかれているとはいいがたい。もっとも筆者としては敵基地攻撃能力の保有はとうぜんのことであり、その能力などは一部をブラックボックス化しておくのが適当と考えている。さらに、防衛においては長い槍のほうが有利であること、くわえて速いほうが、また早いほうが効果的とも。
そこで、専守防衛というスローガンは通りはいいのであるが、専守だけでどの程度の防衛が可能であるのか、技術面と費用もふくめ十分な検討がひつようであろう。以前にものべたが、専守防衛と反撃能力は相性のわるい対概念であって、後者の議論をすすめるならば前者の再定義がひつようであろう。
◇ 世間ではメディアや川柳などでさんざんな目にあっているキシダ政権ではあるが、またグズでもたもたしているようにみられているが、ここまで議論が進んだのかという感慨をこめて、防衛力にかんしては飛び級の進捗といっていいと思う。ただし、安全保障政策としては、米中対立構造によりかかりすぎという点において非対称性がキツすぎるし、国民の理解がえられているのか、不安心理に寄りかかっているのではないかなど、いつものことであるが恣意的情報や憶測ものが人びとの認識をゆがめていると危惧している。とくに対中関係にかんする認識をどこかで修正しなければならないと思うのだが、さてそれを担うのはだれなのか、立憲民主党がいちばんふさわしいと思っているが、世の中ままならないということであろう。
新たな議論がはじまるなかで、立憲民主党の対応に注目が集まるであろう
◇ さて、反撃能力を中心に防衛力強化が確認され、その予算が議論の俎上にあげられ、さらに安保関連政策について与党内での合意が成立したという時点をとらえて、いくつかの課題を提起するならば、野党とりわけ立憲民主党の対応が第一となる。
まずは反撃能力について許容するのか、ということであろう。許容するということであれば、支持層の一部が離反する。この痛みに耐えられるのかということで、ぜひ耐えてほしいと思うし、2015年安保法制反対ライン(日本共産党など)との清算を提起したい。そのうえで、違憲部分としている集団的自衛権の行使について合理的現実的対応を提起願いたいのである。これは、「反撃能力を中心に防衛力強化が確認」されることは、どう考えても敵基地への反撃にあたって日米連携を前提としなければならないのであるから、必然的に日米同盟が軍事同盟として本格化することになり、とくに運用面において実行レベルでの連携が整備されることを意味するもので、実行レベルとは戦闘行為そのものであり、とくに重要なことは実行レベルにおいて障害となる事項は排除される、つまり有事と確認されしだい準戦時体制になるということであろう。
故安倍晋三氏が「台湾有事は日本有事」との認識を表明しつつ、つづけて日米関係に言及したのは踏みこみすぎで、総理経験者としては逸脱であったと思うが、故人得意の政治的誘導と解釈するならば、その意図ははたされつつあるとうけとめている。
という認識を前提として、立憲民主党が合理的現実的対応として「何を提起できるのか」がきわめて重要であると考えている。が、そのまえに同党が泉・岡田体制のもとで中道路線を模索していると聞きおよんでいるのであるが、その確実性すなわち本気度と成功確率が気になる。また、日本維新の会との国対レベルでの連携のさらなる伸展性についての首脳陣の考えや見通しなども聞いてみたい。率直にいって党をわってでも中道路線を追求するのか、ということである。腰がくだければ維新との関係を国対レベルにとどめることになるが、そのようなことで持続的関係を維持することはできないであろう。
ところで、立憲民主党は自らを中道左派と認識しているようであるが、世間は左派とみなしているのではないか、いずれにせよ中道政党への道のりは遠く険しいと思われる。
なぜ遠く険しいかというと、たとえば反撃能力を容認しながら米軍との攻守における連携行動を否定することは、効果的な反撃を起動させないことを意味するわけで、それでは論理的にも現実的にも反撃能力を事実上容認しないことにつながるわけであり、あくまで集団的自衛権について否定的態度をつらぬくならば、防衛の現場に齟齬が生じることになるので、そうであるなら立憲民主党として違憲性を排除するために憲法改定に踏みきったらどうかという声もでてくるのではないか。
つまり、「現実」に対しむりやり憲法理念をおしつけるのではなく、「現実」にあわせ憲法をかえる、ということもひつようであろう。国の防衛は現実論であり、不戦さらに非戦をめざす現行憲法は理想論であるから、そういった次元にちがいがあるものを背反関係として択一を強要する議論がひつようなのかと思っている。いいかえれば、無理な議論は不要ではないかということである。
くわえて、憲法はわが国の最高法規ではあるが、現実への適応性も重要であり、事実上改正をこばむかのごとき政治状況つまり憲法条文の塩漬けともいえる状況にあって、あえていえば一度も改正審議のない法典の最高法規性に多少の濃淡が出現することはやむをえないのではないか。いいかえれば、不断の努力でその最高法規性を維持する努力なくして、時々刻々激変する国際情勢への具体対応に教条化した条文解釈をあてはめることの理不尽さも、あらためて議論するひつようがあるのではないか、と考えている。
反撃能力を容認することは敵基地攻撃を容認し、わが国の被害を未然にふせぐことなのであるから、たしかに先制攻撃との紛らわしさはいなめないが、といって先制攻撃との疑いを完全に払拭するためには、確実な確認がひつようとなることから多くの場合、時間遅延が発生し事後対処つまり手遅れとならざるをえないのである。場合によってはわが国への着弾を避けることが困難になりうる。それはわが国の被害、国民の犠牲を受忍することを意味するわけで、そういうことであるならそのことを明確に宣言するべきである。しかし、それでは理屈の整合性があっても、国としての国民への義務を放棄するにひとしく、政治的にはありえないといわざるをえない。また、多くの紛争の端緒は不明のままで、例外なく自国の正当性が強調されるものである。ミサイル攻撃をうけた結果、生じた被害・犠牲の程度にかかわらず、その時点で国として最善をつくしたのかと問われたときに、犠牲の発生を受忍するがごとき答弁では政府が信任されるはずはないと思うが、どうであろう。ここらあたりが、国家観の違いが鮮明になるところかもしれない。国民をまもる義務をあいまいにすると、国家崩壊の危機がまちうけているもので、国家崩壊はほとんどの国民に災禍をもたらし、人びとを不幸にするものである。
(そうでなくとも、この国には護民という観念が欠落しているのではないか、人権も政権の都合次第という恣意性がすけて見えるところが気に入らないのである。)
時としてあらわになる国際間の非情さは、プーチン大統領のウクライナ侵略を見てもわかるように、当面緩和されることはないと思われる。したがって、不戦、非戦という理想は追求しつづけるとしても、危険性をはらむ国家関係があるかぎり、「疑わしきは罰する」というオプションをみずからしばることはないのであって、最終的にどうするかはそのときの判断とした方が、合理的であり政治的にも正しいといえる。ということから「疑わしきは攻撃国の利益に」なるような主張は、ぎゃくに攻撃を誘引する危険性がたかく、防衛政策としてはありえない考えであると思う。
東アジアにおける緊張緩和と平和構築への努力を、日中ともに
◇ としつつも、外交に軸足をおいた安全保障のあり方も、重要である。たとえば、「台湾有事は日本有事」と有事一体化を基本認識とした場合、台湾有事をひきおこす国からいえば、日本を有事作戦の対象とせざるをえなくなり、侵攻のハードルが高くなるだろうという模擬的判断が推定されるが、これが抑止的に働くと考えられるとしても、見方をかえれば日台同盟と見なされるわけで、抑止的であってもその抑止がくずれたときには紛争に直接まきこまれることになり、そのリスクについては政治責任が問われることになる。要約すれば、緊張をたかめることによる抑止効果をねらったものと思われるが、おおきな副作用を覚悟しなければならないということである。(ということで逸脱であると指摘しているのだが)
そこで、現実問題として中国が東アジアの緊張をひつよう以上にたかめているとしても、そのことに重畳してわが国がさらに緊張をたかめることへの評価についてどのように判断するのか、といった冷静な対応がひつようであって、そのためにも外交に軸足をおいた安全保障のあり方が重要であるといえるのである。
今回の防衛力強化のながれはNATOとの連携強化がベースとなっているが、その前提として自由、民主といった政治的価値をまもるための民主主義国の結束が、ひつようをこえて目的化されているとも思われる。さらに、中国、ロシアといった権威主義国への対抗という防衛意識がつよくはたらき、現実的にはウクライナ支援が成功であったと評価される結果を追求する情動もあると思われる。たしかにそういった危機意識と情動には共感をおぼえないわけではないが、問題の所在と情勢をあまりにも単純化しすぎた議論にたいして、東アジアに在するわが国がどこまでつきあえばいいのか、わが国自身の頭で考えるステージにきているということであろう。
だから防衛力強化の方向性を確認し、その実現に着手したうえで、東アジアの緊張緩和を外交の場で平和的にすすめていくことが、時宜的にも重要になってきているといえる。そのためには、まず中国が覇権主義、拡張主義、軍備拡大について周辺関係国に説明すべきであり、さらに外交交渉による東アジアの平和構築に率先してとりくむ姿勢をしめすべきである。どうじに、わが国にもおなじ責任があることから、キシダ政権の当面の課題は自明ではなかろうか。
「台湾有事」をどう受けとめるべきか
◇ あえていえば、日米台が同盟関係にあるわけではない。あるいは台湾が独立承認をもとめているわけでもない。という状況下での「台湾有事」については用語法においてもひじょうにデリケートなところがある。中国共産党流にいえば未解放地区であり、いずれ解放し共産党の施政下におくということであろう。問題はその手段として武力解放を採用するのかということであるが、中国がその可能性をすすんで否定することはありえないが、さりとて強行する合理性があるようにも思えないのである。この点についての指摘のおおくが、習氏の専制体制が確立したことを条件としてあげているが、しかしたとえ習氏への権力集中がさらにすすんだとしても、成功がほとんど見通せない、成功したしても莫大な犠牲をともない、しかもえられるものが個人の名声だけというとんでもなく割のあわない武力解放を選択することはありえないと、筆者は考えるのであるが、世界には「台湾有事」を期待するへんな輩がいるということであろうか、まったくもって不可思議なことである。
だから「台湾有事」といっても現在の情勢下では、国共内戦の終結をはかる最終決戦にはいたらないと考えるのが妥当であろう。それは、偉大な歴史事業の達成が殺戮と破壊と批難と制裁でけがされることをのぞむ者はいない、つまり先制攻撃はよほどの理由がないかぎり採用されないと考えるからである。
また、130キロメートルの台湾海峡を突破して上陸する作戦は損耗率がたかすぎて話にならない。さらに破壊はできても実効支配は困難であるから、ながびけば事実上の独立戦争になり、さすがの中国にとっても手におえなくなると思われる。また、下手をすれば、かつての半島でおきたように南北(東西)分断となるかもしれない。いずれにしても、武力行使の代償は後年負担もふくめ莫大で、もともと経済的につりあうものではない。だから、どう考えても現状にまさるポジションはないのである。
と考えればじつに馬鹿げている。しかし、馬鹿げていることを白昼堂々とやってしまうのが人間の狂気であるから、絶対にないとはいいきれなのである。くわえて、結果として台湾に基地をもつことになれば地政学上、おおいに有利になる国が現に存在するが、賢明なる中国共産党がすすんで虎口に身をなげだす愚はおかさないと思う。
また、仮に武力解放を進言するものがいたとすれば、その目的は最高権力者の失脚あるいは中国共産党の崩壊にあるのではないか、といいたくなるほど浮世ばなれしているといわざるをえない。余談ではあるが、とんでもない獲物が掛かるかもしれないと期待しながら無駄を承知でしかけられる罠があることを、北京が理解していないはずはないであろう。
◇ ということで、「台湾有事」とは発生しても威嚇を目的とした、また心理戦などと巧妙に連動した局部衝突にとどまる可能性がたかいと筆者は考えている。おそらく「台湾有事は日本有事」との判断に抵触しないレベルで、じつに判断に苦慮するきわどい挑発がぎりぎりであって、その程度にとどめるのが中国としては上策といえよう。むしろ、世論工作につながるソフト攻撃の合間をぬって、米国が口だししにくい小競りあいを演出してくるのではないか。それらは、人びとをおびえさせ、疲れさせることが狙いであるが、しかし、国内動向によってはそんな余裕はなくなるかもしれない。
不戦への努力はつづけるとして、現下の「脅威」への対応は現実的に
◇ この地球上に、一枚岩の国などないのである。権力をめぐる抗争は人類の業であり、それを平和的にあるいは無血でなしうるのかどうかが問題なのである。多くの国では国内の権力抗争の無血化を実現しているが、残念ながら国際間でいえばいまだ開発途上にあるといえる。いずれにせよ、歴史は血塗られている。現状は不信と信頼とがまぜあわさった状態であるが、めげることなく平和を希求していかなければならない。そのためには、わが国憲法がめざす不戦を実現する努力をおこたってはならない。どうじに不安定な国家間の複雑な関係を直視しながら、国民の生命、財産をまもりぬく責務もはたしていかなければならないのである。
◇ 枯れ尾花もときに幽霊に見まちがえられるが、世上かたられる「脅威」のおおくは枯れ尾花かもしれない。だから、いちいち気にするなというのはもっともな話ではある。しかし、十のうちのひとつが枯れ尾花ではないかもしれない。その実在するひとつの「脅威」を、九つが枯れ尾花であるからといって「枯れ尾花」としてあつかうことは許されない。また、枯れ尾花に擬態した「脅威」があるかもしれない。ことさら大げさにさわぐ愚は避けながらも、細心の注意でことにあたらなければならない、ということではないか。
◇枯れ尾花この年の瀬をいかにせん
加藤敏幸
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