遅牛早牛

時事雑考「2023年になっても、とても気になること、ウクライナと国内政局」

(2022年は、もうすぐ過去になる。しかし整理のつかないことが多い。そこで前回書ききれなかったことを書いてみた。追補である。それでも、まだまだ不足感があり、おそらく年があけてもつづきそうで、筆者の2022年は当分おわらないであろう。)

ロシアのウクライナ侵略は破壊と殺戮が目的だったのか、違うだろう

◇ これは破壊であり、殺戮である。ロシアのウクライナ侵略がはじまってから十か月がすぎたが、どのようにいいつくろっても、破壊を目的とした破壊のむごさをおおいかくすことはできない。また、得ようとして得られなかったからといって、それをこなごなに破壊していいのか。あるいは、特別軍事作戦というのは「ルールなき戦争」という意味だったのか、などと自問しながらもふつふつと沸いてくる怒りをおさえることはできない。

 ここにきて、当初の目的がなんであったのか、プーチン(例によって敬称を略す)ですら分からなくなっているのではないか。もともとのNATO(北大西洋条約機構)との緩衝地帯を確保するという目的にたちかえってみても、結果としてウクライナを永遠の敵にしてしまったのだから、プーチンの作戦はみごとに失敗したといえる。

 この特別軍事作戦となづけられた「戦争」は、構造的に出口をもっていないのではないか。というのは、二週間ですべてが完了するシナリオだけしか用意されていなかったという、まるで演習のような作戦であった。という、とんでもない「お粗末さ」からすべての問題が発生しているのである。またその作戦は、あまりにもロシアにとってつごうのいい展開だけを描きこんだ、おとぎ話のような計画であったために、たったひとつかふたつの思惑違いによって、全体が破綻してしまう粗悪品であった。 だから、喜劇役者出身でまるで役に立たないはずのゼレンスキーが、思いのほかクールで勇敢であったというだけで、計画のすべてがくるい、残虐非道ともいえる惨禍をもたらせたのである。犠牲者のおおさから考えても作戦は完全な失敗であったといえる。たとえいいわけが山ほどあったとしても、失敗は失敗である。もちろんそのまえに武力で国際関係を変えようとすること自体が国際法違反であり、とりわけ常任理事国のなすことではない。

 ということで、ロシアの安全保障のための特別軍事作戦が、強固な敵対国をうみだし国際社会の非難をあびたのであるから、これ以上の皮肉にはめったにお目にかかれないであろう。

 さて、今後ウクライナの発電設備などのインフラを破壊し、ウクライナの人びとをどれほど苦しめたとしても、プーチンの失敗をリカバリーすることはできないであろう。もちろん、彼にもいいわけがあるとしても、死者は生きかえらないし、失われた財産は戻ってこない。また、ウクライナの人びとの恨みが消えることもないだろう。さらに、この先ながきにわたり両国が敵対しあえば、どちらも傷つきともに貧乏になるだけである。

 このように、一見だれにも利益がないように思われるが、旧ソ連の主要メンバーであったウクライナを反ロシア陣営にひきいれ、強力な反ロ橋頭堡を築けたのであるから、フィンランド、スウェーデンの動向もあわせ、NATOの優位は決定的なものになったといえる。とにかく、NATO諸国にとって、支援コストをはじめエネルギーや物価などでのマイナスも決して小さなものではないが、NATO域内が拡大され強化されたと考えれば、それは何よりの成果であろう。とにかく悪いのはロシアあるいはプーチンであり、援助負担に国民の不満がのこるにしても、正義の戦いであるといいくるめれば、政治的には乗りこえられると考えているのではないか。ということからも、ウクライナ支援はNATO諸国の政権にとっても最初から最後まで生命線というべきものであろう。

 それに、欧米流の手練手管でいえば、後はロシアのミスをまてばいいわけで、ミスのたびにロシアの国際社会での影響力が剥離していくと踏んでいるのであろう。そのためにも、正義の旗印であるゼレンスキーをまもりきらなければならない。

ロシアの正義はボロボロになってしまった

◇ 一方、ロシアにとっての正義とはなんであるのか、また「NATO東方不拡大」という口約束にどれほどの効力があったのかなど、考えれば考えるほど状況はロシアにとって不利の一語につきる。現状は、切り札はおろかカス札さえないにひとしいから、味方を増やすことは難しい。それでも既成事実を積みかさねれば、いつか道がひらけるのではないかと考えているのかもしれない。だから、集中的大反撃をおこない東部4州の独立、併合を実効化するしか道はないということであろう。

 しかし、特別軍事作戦はすでに破綻しており、戦略としては大失敗であった。くわえて通常戦力はひどく減耗し、ミサイルの在庫も底をつきはじめていると聞く。核がなければ防衛体制を維持することさえむつかしいのではないか。さらに戦後処理への不安もあるであろう。戦争犯罪の後始末も難題である。常任理事国であるから免責されるとでも考えているのか。など、さまざまな課題を考えれば、大失政いがいの何物でもないわけで、考えたくもないとは思うが、長びけばながびくほどロシアの負債は増えていく。いくら独裁国家とはいえ馬鹿げた無駄遣いがゆるされるはずがない、国家基盤をゆるがせる大損失だと思うが、自然停戦でごまかせるものではないだろう。

 ロシア国民の生活を考えても、経済再興がひつようであると思うが、経済制裁などの解除はロシアがきめられることではない。ウクライナ復興と連動し、おそらく賠償とセットとなるであろう。主権国家としてロシアが存続できるのかという次元のことなる課題もあるのではないか。プーチンのいないロシアがいいとはだれも断言できないところに悩みがあるということであろう。

膠着すれば、大戦のリスクもあるのではないかと、心配している

◇ さて、双方に妥協の余地がない状況において解決の道をみいだすことは難しく、事態は膠着すると思われる。そういった膠着状態がうごくときこそ、だれもがのぞまない事態すなわち大戦へと戦火が拡大するのでは、というのが筆者の心配事のひとつである。つまり、欧州大戦の危険性がゼロとはいえないと思う。

 もし誰かが大戦をのぞむのであれば、他の誰かが思いっきり阻止しようとするにちがいないから安心ともいえる。では誰も大戦をのぞまない状況にあっては、たぶん誰も思いっきり阻止しようとはしないうえに、その準備もできていないから、あれよあれよという間に大戦がはじまるのではないかと、心配性の筆者は考えている。誰ものぞまないからこそ大戦はおこりやすいといえば、レトリックにはしりすぎかもしれない、しかし歴史をながめればそのように映っているのである。ともかく、大戦をのぞむ者がいないからといって安心はできない、用心するにこしたことはないという話である。

 また、権威主義国から民主主義をまもるといったスローガンは、NATOの立場で、加盟国でもないウクライナに武器支援をおこなうための方便として、今のところ上々のものと受けとめられてはいるが、2023年の冬から春にかけての戦況次第では、欧州のNATO諸国にとって、厭戦気分が重たい政治課題として浮上する可能性もあり、「ウクライナを見殺しにするのか」と国民につよくうったえても、「背に腹はかえられない」との反論がかえってくる可能性もあるわけで、2022年のようには都合よくことが運ばないのではないかと危惧している。いずれにせよ、現在のNATO諸国にとってギリギリの対応であることはまちがいないといえる。

 という文脈を前提にすれば、ロシアが明瞭でのがれられない証拠をのこす戦争犯罪を犯すとか、それこそ大量破壊兵器をつかうといったことがないかぎり、NATO軍の投入は考えられない。もしNATO軍が投入されることになれば、ロシアは局面において小型戦術核の使用にふみきるであろうし、そうなった場合NATO側にはそれへの対抗措置をどうするかといったむつかしい事態がまちかまえているといえる。核には核をという判断は核戦争を肯定し、確実に核抑止を崩壊させるといえる。局面でいえば、核抑止体制に非対称がしょうじていると思う。これは危機である。

 また、ウクライナが民主主義国を代表して体をはって戦っているとの主張が、今後ますます過激になるだろうから、矛を収めるのか、さらに突きすすむのか、武器支援の質と量をめぐりきびしい判断をせまられるであろう。

ウクライナは「敵基地攻撃」を制限されている

◇ ところで、戦場がロシアの領域外であること、さらにミサイルの発射基地がロシア領域内でウクライナによる「敵基地攻撃」が制限されていることが、非対称ともいえる軍事環境をもたらせている。しかし、この制限性がウクライナにとって100パーセント不利な条件であるのかといえば、かりにウクライナが「敵基地攻撃能力」を保有し、「敵基地攻撃」にふみきった場合に、なにがおきるのかについては、全面的な欧州大戦あるいは第三次世界大戦となりうる可能性があるとして共有されているので、戦火の抑制とひきかえに安定的な支援がえられているともいえる。NATOとの連携を維持するためにも制限的軍事環境をうまく活用しているというのが、現状であろう。

 ロシア深部への攻撃には長射程の装備がひつようであるが、ロシアの反応については、おそらくやってみなければ分からないというのが、正直なところだと思うが、通常戦力で劣位に立ったときには戦術核により均衡を回復するとの考えを認識するのであるなら、ロシア領内深部へミサイルを撃ちかえすことに躊躇するのはとうぜんであろう。

 しかし、躊躇が最適解であるとする期間はながくはつづかないと思われる。ウクライナの犠牲にもがまんの限界があるだろう。筆者としては、大戦のリスクはさけるべしと考えているが、日々攻撃にさらされている人びとにしてみれば、それはきれい事にすぎるかもしれない。

 ところで、この敵基地攻撃問題はわが国にも適用できるもので、たとえばウクライナが長射程のミサイルを開発し、自国のインフラを破壊するであろうロシア領域内の基地を攻撃することは先制攻撃でも何でもない、正当な防衛反撃である。もちろん、先制攻撃への危惧は理解できるが、その問題はきわめて早い段階の設問であって、国境近辺に何万もの軍隊を説明もなく集結させたことが端緒であったと考えるべきであろう。しかし、だからといって、攻撃をしかけることが適切であるとはいいきれない。そのときの判断として侵略を確認してからの対応が国際世論をうごかしたということであれば、合理的な対応といえるかもしれない。

 それにしてもウクライナがおかれている過酷な状況が改善される保証は今のところゼロであろう。

戦況に予断は禁物で、完全な勝利はむつかしい

◇ いつの間にか、ウクライナ軍有利という認識がひろがっている。審判がいるわけでもないのに、どうしてそんなことがいえるのであろうか。同じように、明日にでもウクライナ軍が疲弊崩壊するというのも信じがたい。戦況に予断は禁物であって、ましてみずからの期待を投影しながら、都合のいい情報だけをよみこんだ「甘い見通し」を採用することは危険である。ただいえることは、ウクライナが戦っているのはロシアであるが、ロシアが戦っているのはNATOであることは疑いようのないもので、このことをプーチンは代理戦争とよんでいるが、正しくはウクライナ・NATO連合とロシアとの戦いというべきである。

 世評、プーチンのウクライナ侵略をみかねてNATO諸国が派兵いがいの支援にふみきったとうけとめられている。しかし、ソ連邦が崩壊してから30年余もの時間が経過したにもかかわらず、2010年代からプーチンによる「ソ連邦まきかえし戦略」が底流にあって、それへの対抗が身体反応的にNATOから発出されていると解釈できる。もともと根っこにはロシアとNATOとの対立があり、近年プーチンの歴史観がその対立を激化させているように思われる。ロシアは、プーチンの願望を戦略というペンキで塗りかためているのではないか。たしかに見た目は冷徹な計算がめだつが、プーチンの戦略の中身は情動の雑炊であって、冷めてしまえば食欲をそそるものではない。

 だから、代理戦争であるとプーチンが批難をこめて強調すればするほど、彼の権威は傷つき指導力は低下するであろう。なぜなら、昔からロシアの正面の敵はNATOであったのであるから、NATOが手をこまねいて傍観するはずがない。だから、何を今さらというよりも、そのような基本中の基本を忘失して侵攻を開始したドジさ加減に世界は正直いって言葉をうしなっているのである。

 一方のゼレンスキーは戦いがつづくかぎり英雄でありつづける。とくにNATOにとっては不可欠な人物となっている。しかし、復興の時代がきたときにも英雄でありつづけられるかどうかは分からない。おそらくいつかの時点で、復興財源をめぐり壮絶な交渉になるであろうから、そういうときには英雄は邪魔者になりやすい。ロシアのガスをドイツがかいとり代金の一部を復興財源にあてるなど、幸いにも資源国であるロシアにとって戦後処理はまずい料理にはならない。また戦いは終結時に恵みをもたらすから、対日平和条約の締結が促進されるかもしれない(期待をこめて)。たとえば、領土帰属をたなあげにし経済権を定義し、それを日本に有償譲渡すれば巨額の資金がロシアにころがりこむから、賠償にくわえ民生の回復に道がひらけるであろう。もちろん、対ロ信頼感が最低となった日本にその気があればの話であるが。

 ところで、NATOは2014年のクリミア侵攻と今回との対応のちがいを整理すべきではないか。また、NATOの東方拡大が疑われたところにも原因があったのだから、全部プーチンが悪いといってすまされることではなかろう。NATOが考える安全保障政策について分かりやすく説明すべきである。まだおわってもいないのに総括するひつようはないが、平和が経済(経国済民)をささえるという真理は不変であるというのが、とりあえずの感想である。

 

2023年の国内政治

内閣支持率の低迷は続くであろう、覚悟のうえでの不人気政策の採用なら立派なもの

◇ 内閣支持率が低下したままである。おそらく増税で防衛力強化をもくろむ方針がいやがられているのだろう。そういえば、故安倍晋三氏の評価がおおきく割れていたうえに、好悪感情でもアンチがおおかった。であるから、「国葬儀」の強行は政治的にはギャンブルと思われていたが、裏目がでたということであろう。また、旧統一教会問題が深ぼりされるにしたがいアベ人気に影がさしはじめ、なんとなくつめたい空気がながれはじめた。さらに自民党議員を中心に旧統一教会の下部団体との関係が追及されていくなかで、いくつかが醜聞としてとりあげられ、処置があいまいになったことが、キシダ政権のふがいなさを印象づけたと思われる。いわばブランドの毀損である。

 さらに、絶対的不人気政策である「増税」を、これまた不人気政策である「防衛力強化」とセットでうちだしたものだから、内閣支持率がさがるのはとうぜんであったといえる。こういった不人気政策を承知のうえで官邸が主導していったのは、「原発」もふくめ重要政策の滞貨一掃をねらったものと、筆者はうけとめている。不人気政策に手をつけることは内閣の寿命を担保にさしだすことにひとしいから、それなりに評価すべきである。

 くわえて、12月20日日銀の利上げとはよばない「利上げ」がつたえられたが、それは異次元の金融緩和の終活を予感させるもので、そうなるかどうかは今なお不明であるが、確実にアベ時代を過去のものとする「時代意識」がすすみはじめているように思われる。どなたがしかけているのか不明ではあるが、政治への協調(忖度)路線がながく、中央銀行の独立性からいえば不健全だっただけに、これからの金融政策をめぐり尋常でない騒々しさが生まれるのではないかと心配している。物価の番人ともいわれた日銀が、ほんの二、三年のつもりで異次元の金融緩和にとりくんだが、気がつけば十年の歳月がながれた。デフレが貨幣現象だけにおさまるものではなかった、ということか。来年の物価状況で内閣支持率はさらにぶれるかもしれない。政権にとっては、利上げ風が半年早ければと愚痴りたいところであろう。

◇ という状況をうけて、今にも自民党内でキシダおろしが勃発し、世間では「増税反対」「反撃能力阻止」「原発反対」の反対運動がおこりそうなムードを「かもす記事」がながれたそうであるが、いつものようにまた陽炎のように、かもすだけでおわるだろう。

 そこであえていえば、党内の不平不満は常在菌のようなもので、無いほうが怪しいあるいは不健康だということである。また、個別利害を代表する議員であるかぎり何事にもひとこといいたいわけで、とくに今回のように総理が暴走気味であればなおさら声がおおきくなる。大臣をのぞけばみんな倒閣(登閣)予備軍という冗談があるぐらいだから、おどろくことはない。それが政党の活力というものかもしれない。

 ところで、党内は予定調和的であるが、世間はそうではない。つまり、有権者の本心はつかみがたいもので、為政者はつねに油断できないといえる。たとえば、年金生活者にはインフレは不安であり、それがつづけば不満となる。来年度はマクロ経済スライドとして0.6パーセント分が物価上昇率から減額されるといわれているが、再来年度もそうなればおおきなしこりとなるであろう。この、不満やしこりがいつ表面化し、反政府的ムードをかきたてるのかどうかについてはとても予測できないわけで、とくに年配者の不満に対しては敏感でなければならない。ときどきシニア民主主義と批判されているが、シニアの反乱はめったにないだけに、おきれば為政者にとってほんとうに怖いものになるであろう。社会保険料の負担増も勇気ある処置であったが、反発もあるだろう。

増税は、理性で聞き、感情で投票するから選挙はきびしくなる

◇ また、防衛力強化の必要性は理解しているといいながら、その財源が増税であると聞いたとたんに理性の糸がプチッときれるかもしれない。増税については、理性で聞き、感情で投票するという傾向がある。だから、来年の統一地方選挙への影響について神経質になるのはよく分かる。ということで、増税の年(おそらく2024年)の解散総選挙はないと思われるから、やれる時期は2023年にしぼられる。さて、キシダ政権にプラス材料があるかどうかが焦点となり、どうしても5月の広島サミット以後になるだろうと10人中9人以上がそう考えている。ではと聞かれても、なにしろ暴走宰相であるから予想できない、野党としては油断禁物ということであろう。

予算案に賛成するのか、気になる国民民主党のうごき

◇ さて、2023年政局の焦点のひとつが予算案に対し国民民主党が賛成するかどうかであろう。つまり賛成の理屈をどうつくるのか、いいかえれば具体政策での取引に注目があつまると思われる。昨年はガソリン税のトリガー条項の発動をてこに賛成にまわったが、党内の批判はすくなくなかった。それ以上に他の野党からの批判がきびしく、仲間はずれにはならなかったが、野党ぼっち路線にはかわりはなかった。

 永田町的には、こういったケースでは連立政権いりが噂されるところであるが、それは簡単なことではない。まず、総勢20人程度ではインパクトに欠け、どうしてもつけたし感がついてまわることから、はたして党勢拡大にむすびつくのかという疑問がのこる。

 また、国民民主党を支援する主要民間労組(産別)の理解なくして、そのような決定は難しい。さらに、連合にもまだまだ影響力がのこっている。連合関係者のなかには、いまだに立憲民主党との合同を、亀裂の深さを知りながらも、もとめている人たちがいてその人たちが声をあわせれば多少のブレーキになるかもしれない。つまり労働界のしがらみを乗りこえて、自公との連立を積極的に容認していくということにはなりにくいであろう。さらに、主要民間労組(産別)が統一対応をとれるのかという点も重要であり、歩調がそろわなければもっとも保守的な路線すなわち現状にとどまることになると思われる。

 考えてみれば、この規模の小政党がさらに分裂することは致命的であり、とくに連立相手からいえば連立の意義がなくなるわけで、もともとなかったことなのでと立ち消える可能性がたかいであろう。つまり、もともとなかった話、あるいはもともとむりな話というのが真相ではないかと思う。政界では、真相はひとつではない、なにかしら量子論の世界のようだが。

 とくに、夏の参院選がおわった時点で、与党側の議席数にはよゆうがあることから、これから議論があるとしても質にかかわることにかぎられるであろう。質の議論とは永田町的にはどうでもいいことなのである。すくなくとも参議院においては、2025年7月までは数は十分足りているのである。

 というように、もともと歯牙にかける必要のない話ではあったが、筆者がくどくどと深いりしているのは、「今の態勢でいいのか、日本は」という視点で考えているからで、現状は問題がありすぎてどうにもならないのではないか、ということである。たとえば、先進国のなかで30年間一部を除けばほとんど賃上げができていない、賃金でいえば先進国のなかの後進国といわれている。意地悪くいえば自民党的価値観の反映がこの体たらくをもたらせたのではないか、ということである。これが、10年程度のことであれば目をつむることができるのかもしれないが、30年余ともなれば、これは傾向的作為(経済政策)の結果ではないかと疑いたくなるし、国全体の経済運営についてもおおきな問題すなわち大失政ではないかとも思えてくるのである。

 すなわち、なぜ日本だけなのかということであり、わが国だけが特別な条件下にあったということであれば、具体的にそれがなんであるのか、またそれは政権の意志で変えることができなかったのか、ということであろう。この間、対米交渉でつまづかされた業種・産業もおおい。防衛部門も米国からの購入が莫大な額になりそうで、国産主義は風前のともしびなのか、保守政権といいながら他国追従の度がすぎるのではないかと、ここは自民党の見解をうかがいたいものである。

 ところで、真性の保守、民族主義政党が誕生する条件が整っているように感じられるが、これは余分なことであろう。悪乗りのついでにいえば、民族主義者あるいは愛国主義者からいえば、自民党はずいぶんとひどい政党であるといえる。それは旧統一教会問題であらわになっているといった指摘がきびしいと思う。もともと亜保守政党であると筆者は考えている。

 

国民民主党のギャンブルがはじまるのか?問われているのは連合系産別?

◇ さて、国民民主党がキシダ政権とそっちょくに話しあい、個々の法案などの現実的な帰結を議論することはけっして批難されることではない。問題がでてくるのは、内閣において連帯責任をおう立場をになったとき(連立政権)に、個別法案についてどの程度目をつむることができるのかということに集約されると思われる。政党においては、それは覚悟のことといえるが、国民民主党を支援する労働組合において政党なみのわりきりが可能であるのかと問われれば、筆者はすかさず「困難であり、かならず混乱をまねく」とこたえることにしている。なぜなら、労働組合は、個別の課題に対しては是々非々が正しい対応であると考えており、たとえば連立政権内でのふくざつな調整の結果、是々非々でない結論をいやいや受けいれることなど全くのところ考えられないのである。

 つまり、労働組合として、そういった情けない事態を甘受するに十分な見返りがあるのかどうか、またそのことを開かれた場所で説明できるのかが重要であるのだが、おそらく個別の利害得失などの事情が複雑で説明にいたらないケースがおおく発生すると思われる。そもそも大衆運動と政治的取引の世界とは交わりようのない別世界であるから、「困難であり、必ず混乱をまねく」とこたえているのである。手法の違いを甘くみてはならないということであろう。

自民党から空気がぬけていく、これはアベロスかしら

◇ さて、昨年と今年とではいくぶん空気に変化がでているように思われる。とくに、故安倍晋三氏の逝去をくぎりに、ツキとでもいうべき何かが自民党周辺から抜けだしていくような感じがしてならないのである。もちろん、筆者の感性による勝手な思いすごしだから、気にすることもないのであるが、やはりオーラがきえているようで、精力減退期にはいったのかとも思う。

 また、自民党議員の醜聞が象徴している「せこさの蔓延」が世襲的政党からかがやきをうばっているのではないかとの思いもあってか、筆者にしても昔ほどは(自民党を)ほめることが少なくなっているのである。そういえば、新規学校卒業者が公務員をめざす比率が漸減しているとか、あるいはキャリア組の若手の離職が急増しているとか、よろしくない傾向が喧伝されている。だから、民間企業の労働生産性のひくさを指摘するまえに、行政組織の慢性病ともいえる倦怠症を改善するべきではないかと思っていたが、悪夢ならぬアベ・スガ時代のナルシズムのような自己称揚が、自己規律を基台にした職業倫理を萎えさせ、人生を賭するには不足の職に、つまり行政職を軽々しいものにしたのではないか。もっといえば、軽々しいものにしたうえに、それに代替するしくみの構築をおこたったことが問題であったと、思っている。

失われた30年のほとんどの期間、併走したのは自民党であった

◇ ここで30年余にわたる失政をとやかくいうつもりはない。ただ無反省に徒食をつづけることが、国にとってどんな価値をうむのかと問いたいだけである。衰退していくわが国にたいして、30年余も無策でありつづけたことに驚きながら、さらにいえば無策ではなく、皿からこぼれんばかりの政策をほどこしながら、よくもここまで外しまくったその不思議な技量に裏返しの称賛を届けたいとも思うのである。

 政治の世界でいえば、わが国の衰退に併走していたのはほとんど自民党であったから、たったひとつの支援政党である国民民主党が与党化することを、労働組合をつうじて職場に勧める根拠が思いうかばないのである。自公プラス国で、飛躍的に改善するのか、質的変容がうみだされるとでもいうのか。ともかく確信のもてない事態が予想されているということであろう。

政権と野党の関係を刷新する試みには期待したい

◇ ここで視点をかえるが、与党と国民民主党が連携をふかめることは、わが国の牢固とした政治システムに風穴をあけるという意味で支持するにやぶさかではない。しかし、連立政権になれば働く者の目線で政策づくりをすすめてきた職域での議論のうけざらを整理することにつながり、国民民主党としてのオリジナリティーを希釈していくことになるように思われる。杞憂であればいいのであるが、杞憂であると証明することは今はできていない。証明するには実践をみるしかないのである。実践をみるためには、発車させるひつようがあることから、議論はここで堂々めぐりをはじめることになる。むつかしい議論ではあるが、つづけなければならないだろう。

さらに注目すべきは、立憲民主党と日本維新の会の連携である

◇ もう一つの論点が、立憲民主党と日本維新の会との連携である。両党の首脳たちは内心意欲的であろう。かつては水と油のようでもあった。今でも政策領域ではそれはかわらない。いずれ矛盾が顕在化すると思われるが、それはそれ、これはこれの世界である。

 問題は、選挙でどこまでの協力ができるかであろう。本旨が立候補調整、選挙協力にあると考えられることから、工夫できることもおおいと思われる。当面、来年春の統一地方選挙が対象となるが、立憲・維新の「異物混合グループ」に反自民の民意がかたむく可能性もすくなからずあるように思える。そうなれば国政選挙へむけての調整が本格化するであろう。異物混合から異種混成への発展をめざすならば、それは中道グループの結成を意味するもので、岡田氏にとっては民進党結成につぐ二度目の仕事となる。立維を核に中道グループの形成に成功すれば、政権への道はおおきくひらけるが、路線としては、安保やエネルギー政策の中道化がひつようで、それには結党以来の主流グループすなわち左派との相克がさけられないであろう。政権交代可能な政治状況をめざすなら強力な中道化がひつようであることはすでに自明のことであるから、平和的に路線変更が可能なのか、あるいは分党によるのか、歴史的決断のときがちかづいていると思われる。とりわけ立憲内の連合系議員あるいは支援組織の判断がことを決すると筆者は考えているので、これ以上の意見はひかえるが、連合が政権交代可能な政治状況になおこだわるのであれば、安保とエネルギー政策の中道化への努力をつくすべきであろう。汗もかかずに、欲しいものだけ手に入れようとするのは強欲というものであろう。職場の大勢が支持しているのは中道であるから、臆することはないと思う。

立維連携が中道化に成功すれば、自公の危機感は最大化し、舞台が回り始める

◇ 当面は、両党間の政策あるいは政治理念における差異の解消はむつかしいと思われるが、方便として両党間の差異が大きいほど力学的にはエネルギー量がおおきくなるといって、動的な魅力をアピールできれば、キシダ批判と重畳して、自民を凌駕することもありうる。これに自民が危機感をおぼえれば、遺伝子組みかえのような、質的変容をめざす自己改革を旗印に、中道層へウイングをひろげていくであろう。さらに、そこまで本気だという絵図面をみせられると、国民民主党支援の労働組合も傍観というわけにはいかない。焦点は国民民主党ではなく、同党を支援する民間労働組合(産別)であるから、ややこしい話になると思われる。(ここで、前述した立維の中道化が先か、自民の質的改革による中道取りこみが先か、実は時間的競争にあるといえるから、自己変革のなかみが勝負ともいえる。)

正月休みの頭の体操にいくつかのシナリオを

◇ そこで、大胆なシナリオをしめせば、①自公国VS立維 ②自公VS立維国のくみあわせが考えられるが、①は7割以上の確率で自公国が優勢、②はほぼ互角と筆者は考えている。したがって、国民民主党としては①の組みあわせで政権参加するほうが確率が高いといえる。しかし、②においても5回に1回ぐらいの確率で政権参加できるうえに、労働界のつきあいからいえば②のほうがストレスが少ないであろう。ところで、立国維ではなく立国の間に維新が接着役としてはいるところが斬新であり、妙味があると思うが、ざんねんながらそうはならないであろう。

 なぜなら、自公国の遺伝子組みかえ的再編には政治的安定感があり、国民多数の嗜好にそっていると思われるからである。とくに中道層のニーズに合致していることから、国民民主党としてはそちらをむくであろう。問題は連合の対応であるが、①であれ、②であれ、いずれにおいても政権とのパイプが構築できることから、本音をいえばイージーゴーイングつまり執行部にとって最善の策ともいえるわけで、ものは考えようということであろう。連合がそのように判断するかどうかは分からないが。

 他方、③として公の連立離脱ケースが考えられるが、そうなれば政権形成へのベクトルがはたらき自国維でまとまる可能性が高いと思われる。つまり、自国維VS立共となり、立憲の左派グループ化が確定し、左右分裂の可能性がでてくるであろう。そうなれば右派が閣外協力となり、先々の連立いりを模索するであろう。というように、公が動けば自もふくめ流動化がはじまり、連立構成ではガラガラポンにちかい状態になるであろう。公がうごく動機あるいはきっかけには複雑なものが考えられる。また偶然性がたかく予想は困難である。もちろん、うごかない可能性がもっともたかく、それは今世紀におけるわが国の政治的安定に貢献してきたことからも裏うちされているといえよう。

 さいごに、④として、自国VS立維公が考えられるが、こうなると自国で過半数を確保できるかどうか微妙である。また、立維に公がくわわる大義があるとは思えないことから、実現性はきわめて低いので考えるだけむだということであろう。

 さいごに、再編は参議院からということを忘れてはならない。衆議院は総選挙一発でかえられるが、参議院は3年間をはさむ2回の選挙をこなさなければならないので、簡単にはいかない。とくに3年間のインターバルはながく、とりわけ3回の予算を我慢することは政治的には不可能といえる。参議院での過半数確保がみとおせない再編は計画たりえない、のである。

 以上のシナリオは妄想的空想の域をでないもので、あくまで読み物である。しかし、想定には多少なりとも根拠もあるので参考になればと思う。もちろん、未来を正確に推しはかることは人智のおよばざるところなので、あくまでお気楽にと願うところである。落書からでさえいくばくかの真実をくみとるのは読む者の器量であって、書く側のおよび知るところではないと、卑怯な逃げ口上を申しあげつつ筆を措く。

 

◇ 筆者は、あたらしいものが生まれるためには、ふるいものが去らなければと考えているので、それにつながるものはほぼ受けいれるつもりでいる。今の政界の総質量の半分は垢でできているから、早く風呂にはいったほうがいいと思っている。

◇ サザンカが散らかるままの冬空よ

  

加藤敏幸