遅牛早牛

時事雑考「2023年の展望-正直わからない年になりそうだ-」

(新年は恥ずかしいぐらい輝いている。しかし、世の中いろいろと祈ることばかりである。とくに、最低24本掲載をめざしたい。文中は例によって敬称を略す場合があるので悪しからず。)

正月早々、岸田総理5月広島サミット準備に大忙し

◇ 岸田総理は5月予定の広島サミットを念頭におきながら、1月9日の仏をかわきりにG7構成国を順次(伊、英、加)訪問し、13日バイデン米大統領との会談を最後に14日帰国の途についた。とくにバイデン大統領とは、11日の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の内容をふまえ、日米協力のあらたなステージについて確認しあったと思われる。国内では低調な支持率になやまされているようにみえるが、一連の外交は及第点をこえていると思う。

 ところで、国内での議論をすっとばした点については、23日からの国会においてきびしいやりとりが予想されるので、それらには誠実に対応すべきである。しかし、手順が気にいらないからといって、いまさら各国首脳との話をなかったことにできるわけがない。また、首脳会談の内容について事前に国会での議論がひつようであるのかについては、そもそも行政権と立法権とは分立しているのだから、両者の議論のありかたや組みたてが違っていてもおかしくはない。また、議会が事前に政府の手足をしばって不自由な外交を強いることは百害あって一利なしというべきであろう。

 筆者は前回のコラムでは暴走宰相と表現した。ときに暴走もひつようではないか、つまり暴走でもないかぎり状況をきりひらくことができない、という意味をすこしふくませていたが、もちろんほめ言葉ではない。むしろ爆走といった方がいいかもしれない。ということで、岸田総理の爆走が東アジアの安全保障のあり方に一石どころか大石を投じたとうけとめている。しかし、それを成果というのはまだ早い。次は中国の出方である。台湾海峡の平穏すなわち現状が維持されるなら紛争はおこらず、相互繁栄の道がひらかれるというのが、今回の主旋律である。

米中対立の根っこは中国の覇権主義である、しかし米国も覇権主義的である

◇ しかし、米中対立は現実である。それも対立の根っこは中国の覇権主義である。それが気になる米国も覇権主義的といえる。ということで米中対立は覇権をめぐる争いといえる。それに連動して日中関係もギクシャクしはじめた。中国からいえば、日本の動きは目障りであろう。衰退国のくせにといった侮りがあるのかもしれない。だから、過日の日本人のみのビザ発給停止など普通にはありえない感情的対応ではないかと分析しながら、推移をながめている冷静な自分を感じている。そもそも中国には対等な国家関係というのは存在しない、とくに周辺国に対しては身の処し方において対等といった経験がなかったのであろう。といった先入観からわれわれも簡単には自由にはなれない現実がある。どうやら中国もごう慢という怪虫を飼っているのであろうか。といった覇権をめぐる争いのなかで、米国と連携をとりながら、日中関係をどのぐらい円滑化できるのかが、岸田総理のとうめんの任務であり、評価尺度であると思っている。ネット空間的には、キシダヤッホー組とキシダポチダ組にわかれて、ねちねちとした、たたき合いがはじまっているが、たんなる好悪感情のうらがえしが多いようである。

東アジアにおける日米の対中抑止力の強化により、パワーバランスの回復を図る

◇ さて、東シナ海あるいは南シナ海における中国の覇権構築活動はどう考えても「やりすぎ」であったし、今もつづいている。勝手に線をひくな、というのが国際間の常識なんだが、「つよい国にさからうとひどい目にあうぞ」とばかりに荒ぶっているのが中国である。だれしも自分の臭いはわからないし、自分のすがたも目には映らない、のである。それとおなじように、中国の「つよいものが仕切ってどこが悪い」という強烈な覇権意識について、中国自身があきれるほどに無自覚であることが、問題を深刻にしているのではないか。

 今回の岸田訪米の目的は、日米の軍事同盟のエネルギー準位をたかめることで、東アジアでの米日と中国の力の均衡を回復させようとするものである。つまり、中国が台湾関係で力の行使にいたらないよう日米の団結力を見える化しているのであるが、基本的には受け身の行動である。つまり、ボールは中国にあるということであろう。

米戦略国際問題研究所(CSIS)のシミュレーションの意味するところ

◇ ところで、米戦略国際問題研究所(CSIS)は9日、中国軍が2026年に台湾への上陸作戦を実行するとした机上演習(シミュレーション)を公表したが、侵攻が成功したという判定はなかったようである。この手のシミュレーションは、どのように条件を設定するかが命である。今回は台湾がつよく抵抗し、米軍が即時参戦し、日本が米軍の国内基地使用を容認するという条件であったと聞いている。そこで、このシミュレーションをよみとけば、一つは先ほどの3条件を前提にするかぎり、多くの損害や犠牲をともなうが台湾侵攻が成功することはないだろうというのが中国向け、また台湾軍は再建不能にちかい損害をこうむるというのが台湾向け、2隻の空母と多数の艦船・戦闘機をうしない西太平洋でのプレゼンスがゆらぐというのが米国向け、そして多数の自衛隊艦船と戦闘機をうしない多くの死者もでるというのが日本向け、のメッセージということであろう。この損害一覧は前提となる諸条件の組みあわせによってさまざまなパターンをしめすが、問題は関係国がそういった損害にたえられるのかということであり、たえられるものこそ勝者である、とまではいわないものの、そうよむのが為政者であろう。しかしこの判定にはきわめて危険な要素がある。たえるというのは犠牲をうけいれるということであり、権威主義のつよい中国こそ勝者によりちかいと考えられがちではあるが、権力基盤を考えれば、中国の支配層としてかならずしも安閑としてはおられないであろう。いずれの国にとっても未知の部分があり、確信をもって断言できることはまだ少ないような気がする。

はたして「台湾有事は日本有事」なのか、けっして単純ではない事態と展開

◇ さて次の論点は、日本が米軍の基地使用を認めなければ、中国による台湾侵攻が成功する確率がたかくなるということであろう。さらりとした表現ではあるが、じつに深刻ではないかと思う。もし、世上に流布されている「まきこまれ論」が支持をえているとするなら、台湾有事では中立を宣言すべきではないかという声が勢いをえるはずなのに、現状はそうではないように思える。ほとんど無関心あるいはあまり深くは考えていない、さらには恥ずかしくてそんなことはいいだせないのであろうか。とはいえ、ここがもっとも重要なところなのである。

 また、国内には「台湾有事は日本有事」とつよく主張しているグループが存在しているが、ほんとうに台湾有事が日本有事であるという直結性を理解したうえでその論を吹いているのか、おおいに疑問である。とくに、台湾有事が日本有事に直結しない経路がありうることを、恣意的にはぐらかす表現を選んでいるような感じが、「台湾有事は日本有事」というフレーズからにおってくるのである。当然のことながら、台湾有事から日本有事へと連結していく間合いにおいて、日本政府にはいくつかの選択肢がありうる。そして、台湾有事といってもいろいろな有事がありうるわけで、有事の具体的なありようによって、事態はさまざまに分枝されていくと考えられる。

 つまり、台湾有事が日本有事に直結するあたりの樹枝状の選択肢を拡大すればおそらく複雑な模様をしめしているのではないか、さらにいえば、遠くから望遠鏡でのぞけば「台湾有事は日本有事」と映っても、ちかづいて虫めがねでのぞけば万象のごとくであって、さまざまな思考判断が求められる複雑な世界と映るのではないかと思う。

 筆者は、「台湾有事は日本有事」というアジテーション味の濃いメッセージを否定することはないと思っている。世論を喚起する、あるいは多くの人びとを覚醒させる意味においてすこぶる安倍晋三的発信ではあったと思う。そのうえで、事態と選択肢は山のようにあるのだというやわらかい考え方をベースに、主要な価値観にもとづきながら、重大かつ歴史的意志決定を国民全体の統合をまもりながらまとめていくことであると、考えている。

 もちろん、先ほどのCSISのシミュレーションからも分かるが、侵攻側の中国にとって在日米軍基地をまず急襲打撃することが、台湾侵攻の成功のための必須要件であるとすれば、日本政府の意志でもって基地使用不可となれば、作戦遂行はじつに容易になると中国は考えて(シミュレーションして)いるだろう。

 さきほど在日米軍基地を中国が先制攻撃すると簡単に前提化したが、それは日本国への攻撃であるから、ほぼ自動的に自衛隊は反撃態勢をとることになる。となった場合、敵基地攻撃がわが国防衛の主要課題になることは必至であり、そういった反撃にふみきらなければごうごうたる非難をうけることは目にみえていると思われる。好んで反撃するものではないが、抑止からいっても準備しておくべきであると考えている。(台湾侵攻のために在日米軍基地を破壊することが国際世論として許されるはずがない。また、情報活動によりいちはやく米軍戦闘機・艦船などは退避行動をとるので急襲の成功率はかなり低いと考えられる。だから、中国共産党が妄想にとりつかれないかぎり侵攻の可能性はかぎりなくゼロにちかいのであるが、問題は妄想にもいろいろあってということである。)

 さらに重要なのが朝鮮半島である。在韓米軍基地を戦略的に攻撃しないという中国側の切り札もあるが、在日基地同様在韓基地も攻撃対象になる可能性は高いといえる。いずれにしても、火事場泥棒的に北朝鮮が休戦を破れば第二次朝鮮戦争にいたる危険がいちじるしく高まるであろう。くわえて、その時点でのロシアの国情がどうなっているのか、はたして北方領土にロシアが部隊をおくるのか、おそらくその時点での状況により判断されるのであろうが、権威主義国といわれている中ロ北が無連携にことを起こした場合、わが国にすれば同時多発紛争の勃発であり、3方面への対応に苦しむことになる。ほとんどSF小説的であるが、可能性をいえばきわめてひくいが、しかしゼロではないということである。しかも、核保有国が相手となれば国内世論も微妙にゆれるであろうし、国論を統一するだけでも骨がおれるであろう。

 ともかく最初に引きがねをひいた国の責任は重大である。また、責任の重さをはるかにこえる決意がなければ着手できないことであるから、着手されれば枢軸3国の連携はありうると思うべきであろう。まあ、そういうことであれば、多くの予兆があるもので、急襲打撃ではなく、心理作戦にウェートがうつっていると思われる。

台湾有事は、おこれば台湾周辺にとどめられないであろう

◇ ということで、台湾有事と称される武力紛争を台湾周辺地域にとどめることはむつかしいという認識を中国に共有してもらうところに日米の意図があり、さらに決意があるのではないかと思う。ボールは中国にあるのだから、日米は実戦的な準備にいそしむ以外にどうすることもできないわけで、中国側の出方をみまもるしかないといえる。

 だから報道もふくめ、あるいは野党の一部さらに投稿欄や時事川柳などにみられる、戦前への回帰をあやぶむ心情については理解できるものの、賛同はできないのである。1990年代以降の中国の軍備拡大は驚異的であり、またその軍事力を足がかりに覇権的示威行動を展開してきたが、武力を背景とした現状変更の意図を否定する証拠は今のところないといえる。

 ところで、わが国の一連の安全保障への対応は、強硬的にみえるかもしれないが、現状を放置することは、力による現状変更が是認されるとの誤った認識を中国に与えることになりかねないのであって、それを防止するための、日米ともにパワーバランスは均衡させるとの意思の表明である。したがって挑戦状ではなく、中国にあてた東アジア平和構築への招待状であると筆者は考えている。すくなくとも日本の立場はそうであって、中国には軍拡と覇権行動を抑制してほしいという要望である。

 これに対し中国の外交は手練手管にはしる傾向がつよく、また操作的でもあり不安定な面がある。さらに十分な対話ができているとはいえない。とくに、軍拡と覇権行動が現在の中国にとってなぜ必要なのか、また国内的にそうしなければ共産党の統治にひびがはいるとでもいうのか、といったあたりの合理的説明がないことから、周辺国としては最悪の事態すなわち中国による武力行使への警戒をおこたるわけにはいかないのである。中国国民とよぶべきか、人民とよぶべきかすこし迷いがあるのだが、いずれにせよ国民あるいは人民こそ、中国が周辺国に与えている脅威について理解するべきであろう。でないと、溝は埋まらないし、人びとの利益にもならない。

 台湾有事が幻想つまり実体のない幻視なのか、あるいは靄(もや)で実態が見えにくくなっているだけなのか、どちらであってもこのままでは東アジアの軍事的緊張は高まるばかりである。この緊張感の昂揚は関係国の軍事体制の強化を必然化するもので、だれかれのせいであるといいあらそっているうちに緊張はさらに高まっていくと思われる。このスパイラルをとめることができるのは第一に中国である。おそらく中国の未来はいつまでも成長神話に依拠しつづけることはできないであろう。いずれの国も国力がピークを打ってからの先には長いいばらの道がつづくもので、国レベルでも相互の助けあいがひつようであろう。愛される国になることは自力ではむつかしいが、嫌われる国にならないことは自力でできるのであるから、どの国も武張ることはないと思う。

台湾への武力統合を否定しないことが幽霊の正体ではないか

◇ さて、軍拡と覇権行動に人権問題がくわわれば、欧米諸国は反射的に対抗行動をおこすのである。この時に、欧米社会にも人権問題があるではないかと、いくら主張してみても、それは火に油を注ぐだけのことであって、論争にすらならない。彼らの文明の本質はエゴイズムであり、文化はミーイズムであるから、どんな論争を展開してみても解決策につながることは希有のことであろう。また、彼らが先導してきた国際的な仕組みには優れた面も多々あるのだから、さらに失礼ながら、国際政治において中国流が世界標準になることはまずないのであるから、そこはきっぱりとあきらめて、国際場裏における問題解決は既存流儀を採用するべきである。台湾の武力統合が、中国にとって必要不可欠の方針でなければならない合理的理由はないのではないか。にもかかわらず、現状は(武力統合を)否定していないことを積極肯定とみなす解釈が一人歩きしていると思われる。そして、そのことが中国の不利、弱点を形成しているという足もとの事実にはやく気づくべきである。

 習体制において、武力統合のオプションは選択されないと宣言すれば、事態は飛躍的に改善されるであろう、残念ながらほとんどありえないシナリオとは思うが。

 正直なところ今の中国には過大な軍事力など不要ではないか。鎧冑をつけなくともじゅうぶんに頑健屈強であるのだから。にもかかわらず軍拡と覇権行動にこだわりつづけるところを深読みすれば、中国の真の狙いが西太平洋の支配にあると推測されるわけで、そのもくろみは周辺国への本格的な介入ではないかと疑うことは自然なことであろう。

 という文脈からは、台湾への武力侵攻は序幕であって、そのあとには帝国主義的二幕三幕が用意されているのではないかと疑うべきであり、さらに射程500キロから5500キロの中距離核戦力(INF)について、米ソ(ロ)間で全廃条約が機能している間、中国はせっせとINFの開発配備につとめ、最近では東アジア域内での比較優位を確立していることも、周辺国の疑心をかきたてているといっても過言ではないだろう。

 近年いちじるしい中国の軍事膨張はその質量においても、テンポにおいても、戦時を前提としたものと解釈する以外に理解のしようがないといえるもので、おそらく域内での完全な比較優位を彼らが確信する日に、なにかがスタートするのではないかと不安に思う。まさにその日が日米の抑止力崩壊の日であり、その日をできるだけ遠ざける努力と覇権主義的野心が潰えさるのをまつしか手がないのであろうか。

 といった認識にたっての岸田外交なのであろう。であれば 現実問題として日中間の外交対話が必須であって、とりわけ対立はしても真実と信頼の関係は構築できるわけだから、それぞれの政策の意図について嘘偽りなく語りあうひつようがあると思う。

 また、岸田総理の使命として、非欧米国の多様な価値観への理解をひろげていくことも重要ではないかと思う。なにもきれい事でいっているわけではない、国際世論を糾合することの大切さとその影響力を中国にていねいにつたえていくことも重要であろう。お節介かもしれないが、話しあって無駄になることはないと思う。

 そのうえで、むしろ非軍備の中国の出現こそが、欧米が心底おそれる事態であり歴史の大転換となる契機であることを静かにつたえればいいのではないか。いま中国がめざし歩いている道は、かつて欧米が闊歩した覇道であり、中国がおなじ道を歩いてもだれも驚かないし、尊敬もしないだろう。軍事力にたよらない平和構築の道こそ、欧米ができなかったもので、そうなればわが国も防衛力を強化すべき事由もなくなり、憲法の平和主義にふたたび光があたるであろう。これはありがたいことである。

 そこでようやく東風が西風を圧倒する時代にはいるのである。武に走れば、武に染まり、富貴は離れる、これはともに望まざるところではないか。

国内の基地使用を容認しないという選択肢があるが、それは中国の侵攻に与することになる

◇ さて、日本が欧米サイドに立つとの旗幟を鮮明にしたことが、今回の特徴であろう。国内では、対米追従との批判がでているが、それは表面的すぎる。先ほどのCSISのシミュレーションの前提にあるように、台湾有事の帰趨は日本政府が米軍の基地使用を容認するか否かにかかっているといわれている。この判断は国家主権の問題であって対米追従という政府批判のジャンルの問題ではない。それでも、現在の日米関係では日本政府が拒否することはないと、いかにも日本政府を見くだした論評をいまだにつづけている面々もおおいが、事はそれほど簡単ではないのである。先ほど少しふれたが、人民解放軍により在日米軍基地が急襲打撃されれば、わが国はほぼ自動的に防衛出動となり、米国は自衛報復のため、また安保条約により出動し両国ともに戦時体制となる。おそらく大戦は避けられないであろう。(米国にとっては国外の基地ではあるが、第二の真珠湾攻撃とうけとめる可能性がたかいと思われる。いずれにせよ軍の動きはたかい精度で把握されており、急襲打撃の成功率はひくいうえに、先制攻撃はあとあと何かにつけて不利であるから、中国にとってきわめてハードルが高いといえる。)

 そこで、基地使用を容認すれば基地は攻撃対象となる。この場合の危険負担は同盟関係にはかならずついてくるもので、ここでゼロリスクを求めるわけにはいかない。

他方、基地使用を容認しなければ米軍による台湾防衛は空母に大きく依存せざるをえなくなり、補給体制がままならないことから、早い段階で台湾海域から撤退するであろう。とくに、在沖縄米軍基地の使用は台湾防衛上必要不可欠であり、西太平洋における米軍プレゼンスのキーストーンであるから、在沖縄米軍基地の使用不可は事実上日米同盟解消のながれをおこすかもしれない。

 そういう意味では国内の反米勢力にとっては争論の機会なのかもしれない。というより、激越な反米政権でしか「戦争に巻きこまれないため在日米軍基地の台湾有事への使用は容認できない」という方針はだせないであろう。おそらく、全面不容認ではなく部分不容認あるいは条件付き容認になるのではないかと思う。

 もちろん今日のわが国において反米政権が成立する可能性はきわめてひくいものであるが、そのことよりも、少なくない犠牲が発生するという事態の評価をめぐって、親米反米といった次元とは離れて、人びとの間にさまざまな議論なり葛藤が生じるであろう。

 現在のところポピュリズム以外の急進的政権などはみあたらない。政府は世論動向に右往左往させられるであろう。紛争は「あると思えばおこらないが、ないと思えばかならずおこるものである。」

 

「回避するにはもはや遅すぎる」から、日米の対中抑止力の強化の道を選んだ?

◇ すでに77年にわたって干戈を交えることがなかった、少なくともわが国領域は平和であったのであるが、その平和がどのように破られていくのかについて議論あるいは予測を立てなければならなくなったとは、人びとにとってはまさに驚愕の事態であろう。しかし、地球上では常にどこかでだれかが戦争や紛争で命を落としているのであるから、わが国にとっては非日常であっても、多くの国や地域では日常であることを直視しなければならない。

 わが国の事情をいえば、回避するにはもはや遅すぎるということであって、岸田総理はそのことを誇らかにバイデン大統領につたえにいったのであろう。米国との距離を調整することで状況をコントロールするという手法はもはや採用できない、いいかえれば米国とおなじレールの上を長らく走りつづけたから、べつのレールはないということである。乗り換えるには遅すぎるのである。

解散総選挙は今年の後半か?でなければ任期満了か?

◇ さて、次の国政選挙はいつになるのであろうか。補選はさておき、総選挙は簡単にはできないものであるが、2025年10月までにはやらなければならない。が、同年7月の参議院選挙までにできないということであれば、衆参同時選挙はさらにリスクが大きすぎる(衆参同時大敗)ということであるから、そうなれば凶印の任期満了しかないということになるだろう。解散総選挙は与党にとって利のあるタイミングでやるから専権事項などとオツにかまえていられるのである。いつやっても不利であるなら、解散権などはタンスに入れっぱなしでいいことになるであろう。ということで、やるのであれば今年の後半ということになる。そこでの争点は、安全保障政策の大転換、エネルギー政策(原発再活用)、少子化対策などが中心で、久しぶりに本格的な政策選挙になるはずである。「なるはずである」というのは戦後77年にわたって低調であった国防のあり方について、また国民生活の基盤となるエネルギー政策の方向性について、あるいは国の未来をささえる少子化対策について、はじめて国民をまきこんだ大論争がはじまるわけで、3項のテーマは、もはやごまかしの利かないギリギリの状況におかれている。といいながら、与野党ともに候補者がきびしい論争にたえられないことから、選挙戦での議論は局地では低調になるかもしれない。なるはずが、そうはならないかもしれないということである。

 国防については、岸田総理の暴走の功あって、曲がりなりにも提案らしきかたちが示されたといえる。エネルギー政策も10年間、あたらずさわらず議論せずの「三ず」から、あたらしい原発政策(新安全基準、小型化など)を認知し安定供給の入りぐちにたつことができそうである。問題は少子化対策であるが、異次元という表現を持ちだしたところをみると、金融政策にならって「先にいきづまる」の卦がでそうで心配になる。行きづまるのかあるいは息つまるのか、どちらにしても中途半端ではどうにもならない。少なくとも「安心して子どもを生み育てられる社会」をめざすわけだから、保守グループの社会像、家族像とは表看板だけが似ているが、中身ではひどくぶつかるであろう。今日までうまくいかなかったのは、ひとえに自民党が政権を担っていたからで、1970年代に堺屋太一氏が『団塊の世代』を世にとうてから早いもので50年近い年月がすぎている。やる気の問題ではないとなれば、問題は自民党の古色蒼然とした家族観、生活観、ジェンダー観に問題があったとしかいいようがないのである、というのが筆者の見解である。(詳細は後日の機会に)異次元でなくともいい、普通の政策を本気で(予算をつけて)継続してやってくれればいいと思うのであるが、票だけを考えているようではこの国はおしまいである。

2025年の国政選挙が天下分け目の戦いになる?ネット空間が戦場化するだろう

◇ 仮に情勢がこのままで推移するとするならば、2025年の国政選挙が天下分け目となるであろう。つまり、反戦非戦グループが平和憲法をふりかざし、国民の意識に沈殿している厭戦気分をおおいに刺激すれば、すくなくない議席を獲得すると思われる。さらに、中国が侵攻を計画するならば、戦略としてわが国の世論操作をもくろむであろうから、プロパガンダ攻勢が激化するのは必至といえる。とうぜんそれへの対抗行動も活発化することから、フェイク情報の蔓延などネット空間が戦場化することが予想される。また、政党や政治家さらに官僚などへの工作もさかんになり、日頃無関心をよそおっている人びとも否応なく注目せざるをえなくなると思われる。政党それぞれが安全保障政策を明示する状況に追いこまれることから、政党再編の可能性もかなりたかいと思われる。後述するが、とくに野党の対応が焦点となるであろう。ともかく、大勢として国民の選択は反米にはかたむかないと思う。

ここまできたら、どちらにつくの?キシダは欧米についたが野党はどうする?

◇ 結局のところ、CSISシミュレーションの肝は、台湾有事における日本の役割が重要であることを浮かびあがらせ、そのとき日本はどのような判断をするのかと問いかけているところにある。ようするに、中国をとるのかあるいは米国をとるのかという二択問題なのである。シミュレーションといっているが、これは国家とくに国民にとっての重大事である。また、大戦を避けるために米軍の基地使用を認めないことで、戦争に巻きこまれるリスクを押さえこむことができたとしても、シミュレーションの結果からいえば、それは中国の台湾侵攻を成功にみちびくことを意味するもので、間接的に台湾をみすてたと批難されるであろう。さらに、仮に台湾が中国共産党の施政下にくみこまれたとして、その後の地政学的展開についての予測は困難である。なにがおきても不思議ではなく、わが国も関係をきることはできない。また、事は台湾にとどまらず朝鮮半島あるいは北方領土に飛び火する可能性もあることから、向かいの火事から逃れられても、となりの火事に追いかけられるわけで、安全な中立地帯はないといえる。台湾防衛に関与しないことは中立ではなく中国に与(くみ)することになるであろう。中国に与してなにかいいことがあるのであろうか。失うものとのバランスは取れるのであろうか。それで安全保障上の脅威が低減されるのか。対等な日中関係を構築できると思うのか。いよいよ、2000年来の課題が首をもちあげてくるのだ。パワーバランスなき対等交流が可能であるのか。合従する同盟国なくして「恙なきや」といえるのか。

 となれば自力防衛の覚悟を決めるべきであるが、そのときにはわが国の安全保障とくに核抑止力について再定義しなければならないであろう。孤立したわが国をとりかこむ中国も、ロシアも、北朝鮮も核保有国である。台湾防衛をパスしておいて、米国の核の傘にもぐりこむことができるのか。考えだすと夜眠れなくなると思うが、自力防衛とは核保有までの道程をふくんでいるのではないか、少なくとも国内ではそういう声が高まるであろう。などなど、複雑なパズルをよみとけば、台湾有事への対応というピースがその後のわが国の命運に深くかかわってくることがすこしづつ腑に落ちていくであろう。爆走したキシダ総理はけしからんと思うが、賽は知らぬ間になげられていたのではないかと思うのである。

さて、日米協働のレールにキシダ政権はすでに乗っているが、与党また野党はどうするのか、乗っても乗らなくてもいずれも苦しい判断であろう

◇ 一般的にいって、シミュレーションの通りにはならないのであるが、提起されている問題はじつに深刻であると思われる。とりわけ、「台湾有事は日本有事」とのすりこみは、日本政府の選択肢のほとんどを入り口で排除するもので、今のところ巧妙なながれになっていると思われる。しかし、いずれ「台湾有事が日本有事にならない選択」を模索する野党の動きが活発化すると思われるし、与党内からも「ほんとうにそうなのか」という疑念がおこれば、わが国の安全保障をめぐる議論がようやく本物になったといえるであろう。キシダ政権はレールの上に乗っているが、乗らない野党もあらわれるであろう。与党内も逡巡するかもしれない。いずれにしても、レールに乗らないあるいは乗れない理由を精緻にくみあげなければならないので知恵をしぼるしかないであろう。自分の頭で考えることが自由の証であるから、現状を維持するにしてもあらたな枠組みを求めるにしても、独立国であるかぎり重たい苦しい議論をこなしていかなければならないと、70年世代の隠居は考えているのである。

結局、ながくやってもらうしかないというところに落ちつくであろう

◇ 岸田総理にはエリート主義の傾向があるようで、本人の「聞く力」というのは野党はじめ政治評論の世界での言語概念とはそうとうに開きがあるのではないか。つまり、いろいろと耳に入ってくるもののなかで、必要なものを選別していく能力を「聞く力」ととらえているようで、それはどちらかといえば「聞きわける力」ということではないかと思う。だから、本人にとってどうでもいいことやどうしょうもないことは、あんがい簡単に聞きながしているのではないかと思う。

 しかし、「台湾有事は日本有事」という安倍晋三氏の言葉については、ストレートにいやそれ以上にうけとめていると思われる。また、ロシアのウクライナ侵略への対応も反プーチン色が鮮明で、何かにつけてあいまいさを残す日本的外交の伝統からはかなり逸(そ)れているようにみえる。筆者が暴走宰相と呼びたくなるのも、予想外の「欧米か?」と突っ込みたくなるばかりの対応が故である。もちろん、4年8月におよぶ外務大臣経験と実績はゆるぎない自信となっているのであろう。

 派閥でいえば名門宏池会で、出身と書けないのは現会長だからなのであるが、そこを過日管前総理につつかれているのはどうしてなのか、よく分からない。しかし、たとえば中国との関係でいえば、宏池会が親中国的であると巷間つたえられていることが、中国側の心証にプラス効果があると考えてのことだというのが、いちばんの深掘りと思われるが、近ごろの暴走(爆走)ぶりをみれば、「そんなの関係ない」ということではないかと思う。

 まさかとは思うが、百に一つの政界再編つまり自民党分裂をも念頭にいれているならば、刮目すべき怪人総理であるといえよう。そこまでは無理として、大宏池会結成ぐらいはあるかもしれない。

絶好の機会に野党は蝸牛の歩みか、音もなくズルズルと動いていく

◇ といった総理大臣の活躍をまえに、われらが野党はどのように対応するのであろうか。

 まずは安全保障政策と外交方針について、筆者としては幾度となく指摘してきたことであるが、2015年の安保法制からすでに7年、当時さかんに議論されたわが国をめぐる脅威にかぎっていえば、政府(アベ政権)があいまいに指摘していたいくつかの脅威が表にでてきたといえる。とくに、台湾有事が現実味をおびてきたことが世論につよい衝撃を与えているといえる。もちろん事象の発生確率をいえば、それほど高いとはいえないものの、事象の性格が衝撃的であるということであろう。くどいようであるが、事象について検討を深めれば深めるほどに現実味をおびてくるものであるが、そのことと事象の発生確率とは関係がない。のであるが、騒ぎが発生確率をあげてしまうという心理効果があるようで、気をつけなければならないことをつよく指摘しておきたい。

 また、北朝鮮の核保有については、長距離ミサイルの開発とあわせ、すでに保有国であるかの態度をにじませているが、あとX回の核実験で小型化が完成するとの観測もあり、「核にかこまれた日本」がうける脅威は圧倒的といえる。この7年間、たしかにトランプ現象があったものの、核・ミサイル開発の結果をみれば、なすすべもなく指をくわえてみていただけであったと難詰されてもしかたがないといえよう。もちろんわが国だけの責任ではないが、外交としては悲惨としかいいようがないだろう。悲惨ということでいえば、韓国もおなじである。(前大統領にとっての韓国の国益とはなんであったのかおおいに疑問である。)休戦中の敵対国が核保有をほぼ完成させようとしている。半島において北が小型戦術核を保有することは、通常戦力に対し決定的な優位をえることになるから、南北の軍事バランスは大きくくずれることになるだろう。(韓国の核保有については後ほど)

 

安保議論はこのままでは野党不利、そこで大右旋回あるいは大左旋回はどうだろうか

◇ 「核保有国が非保有国に敗北したことがない」という文脈が、今日のロシア首脳部の心のささえになっているのかもしれないという意味においても、ウクライナを敗北させるわけにはいかないであろう。ウクライナの敗北は一面において、核保有国絶対有利の神話を現実化するもので、北朝鮮の核化政策を裏書きし、イランを励ますことになり、非保有国の核保有という世界的潮流をうみだすことになる危険があると思われる。これではNPT体制のささえを外すことになりなりかねない。そうでなくとも現在のNPT体制には保有国による核独占という理不尽な構造があるわけで、この矛盾については保有国の核廃絶と核軍縮への不断の努力といういいわけを貼りつけて、いいようにごまかしているのであるが、それでもこの体制を各国は支持してきたが、保有国ロシアが非保有国ウクライナを言外に脅しているのであるから、道理も論理もあったものではないということであろう。昨年の夏にもふれたが、中国をふくめ保有国としてどう「おとし米」をつけるのかということだと思っている。が、特権にあぐらをかきつづけることだけはまちがいない。などなど早い話が国連でのG5常任理事国こそが、ならず者国家に堕す日は遠くはない、というよりもすでに堕しているということであろう。ロシアは巧妙に恫喝している、中国はINF廃絶交渉への参加を拒否し2000基近く配備した、英仏はタヌキ寝入りから爆睡状態になっている。米はオバマ時代に汗をかいたものの、トランプ時代にINF全廃条約を破棄(これはロシア、中国に原因があるといっているが)し、イラン核開発合意から離脱した。ようするに保有国には、核廃絶あるいは核軍縮の意欲はないということであろう。

 ところでなぜこの文章を挿入したかといえば、民主主義国対権威主義国というあまり根拠のないイデーをまにうけるのはほどほどにして、ならず者国対核被恫喝国という世界観がありうることをしめしたいからである。そのいわんとするところは、世界を支配しようとする、ならず者国が禁断の兵器と悪魔のルール(拒否権)をつかって、他が禁断の兵器をもつことを禁止している論理矛盾の世界があること、そしてその世界は無間地獄におちる危険が高いということである。さらにその世界にあっては、さしずめ印・パ・イスラエルはしっかり者で、北朝鮮はたのもしい挑戦者、イランは実直な巡礼者のようにみえてくる。また、ならず者国が核廃絶・核軍縮をさぼりつづけるならば、北朝鮮への対抗上韓国の核保有を禁ずる道理はなくなるわけで、同国の科学技術をもってすれば核保有は意志さえあれば時間の問題といえる。ということで、核は貧者の兵器として国家の枠をこえて拡散していくことになる。

 1989年ソ連邦崩壊時の世界の懸念は、ソ連時代の膨大な核兵器の拡散と管理であった。ブダペスト覚書のとおり、1994年にはウクライナ・ベラルーシ・カザフスタンから無事撤収できたものの、核兵器撤去のかわりに安全を保証されていたはずのウクライナは二度にわたってロシアに裏切られた。というように、現在のNPT体制が崩壊の危機にあるにもかかわらず、常任五か国の危機感がひくいのは大問題であって、無作為の罪といわざるをえない。つまり、まるで「ならず者国」ではないか、という逆転の発想である。

 さらに、ロシアのウクライナ侵略は、わが国の人びとの国防意識の大改変をうながしたことは間違いないもので、とくに自力防衛と集団的防衛との連携の重要性への理解がすすみ、それが政治分野へ押しよせつつあると感じられる。その押しよせつつあるものが、有権者の意思としてどのように結実するのかは現時点では不明ではあるが、今後の国政選挙への影響は少なくないと思われる。

 さらに、ロシアに対する制裁措置が世界規模でのエネルギー資源の高騰をまねき、物価高として諸国民の生活を直撃しているが、肝心要のエネルギー政策については気候変動対策とのかねあいもあって、多くの国が苦しんでいるといえる。だから苦しみの原因が、対ロ制裁という正義の戦いの故であるとしても、どこまでがまんすればいいのか、という点で時限爆弾を抱えているようなものであろう。

 わが国においても、危機下の対応をめぐり与党ですら怠慢であったとのそしりを免れないのではないか、と思う。だから、まして原発廃止では国民生活を守ることができないことから、各政党とも基本政策の見直しが喫緊の課題となっていると思うのであるが、それがなんともグズグズしているようで、ほんとうに大丈夫かといいたい。

 とくに、立憲民主党が安保原発の呪縛によって身動きのとれない状況にあると心配しているのであるが、安保政策において右旋回ができないのであれば、国会ですくんだままにおわることを避けるため、いっそのこと大左旋回をこころみてはどうであろうか。やけくそではなく、この国会では徹底して「昔の社会党路線」にもとづく論戦を挑んではどうかしら。というのも何かにつけて左バネがブレーキになるのだから、思い切って左路線で突っ走れば、その欠点や限界があきらかになり、党再生の肥やしになるのではないか、ということである。非武装とはいわないが、非同盟武装中立を追求するのであれば、憲法9条を改正するひつようはないし、集団的自衛権に関する憲法解釈を違憲として葬ればいいということになる。精神衛生上は最高のポジションといえよう。

 現状は野党第一党の旗幟が不鮮明であることが政治的閉塞の原因となっているのだから、そこを整理することの提案である。それが無理であるなら、いさぎよく日米同盟下の「限定的平和主義」に転向するべきではなかろうか。アメリカの戦争にまきこまれるという論は被害者意識と他人事の合体をベースにするもので、鬱陶しい面はあるが、あんがい人びとの心情に根ざす部分もあることから、政権交代は無理だとしても一定規模の議席は確保できると思われる。中途半端な現状よりもはるかに存続性の高いポジションではないかと思う。現実性におおきな問題がのこるが、理屈は一貫しているので「理想をかたる政治」というブランドは成立する。

明日(23日)からの国会は久しぶりの政策国会になるはずであるが

◇ 23日からの通常国会は、本格的な政策国会になるはずである。なんといっても野党の質問が議会の華であるから、活躍を期待している。ただ、十年前にくらべ有権者の評価軸がすくなからず動いているように思える。きびしく鋭くえぐるような質問が好まれた時期もあったが、立憲民主党の支持率の変化からここ何年かは柔らかさとか暖かさが好まれる傾向も感じられる。

 とくに野党の場合、「ではあなたならどうするのか」という視聴者発の反問がはねかえってくるようで、これは十年以上昔ではあまりなかったように思われる。おそらく、民主党への政権交代を有権者として経験したことが、国会での質疑応答に対する人びとの評価軸を動かしたのではないかと考えているのだが、はっきりとは分からない。

 とはいっても、政権側が冷や汗をかく場面は国会以外おそらくないと思われることから、与党のごう慢病を予防するためにも、やり過ぎの感があったとしても、声を荒げる質問があってもいいのではないか、と思っている。しかし、それで政党支持率が上がることになるかどうかであるが、近年の経験でいえばむしろ負の相関もあったのではないかと気になってしかたがない。たしかに、鋭い質問だけに特化していたのでは、政権政党としての評価がえられられないことはたしかである。

立憲民主党と日本維新の会の国体共闘はすこし「こまい」のではないか

◇ 立憲民主党と日本維新の会が国会対策レベルの共闘を継続するという。正直なところ期待値が低いだけに、昼行灯ではなく闇夜の提灯になるかもしれない。しかし防衛増税を標的にすることについては、「野党の意見も拝聴しながら、あらゆる選択肢を排除せずに鋭意検討をすすめてまいります」というのが答弁ラインになると思われるので、肩すかしをくらうばかりで不発になるであろう。もともと、増税が存在悪であるのかといえば、際限なく借金をつづける次世代へのつけまわしよりも正直であるともいえるわけで、甲乙の決着がつくとは思えない。

 なによりも、安保政策の大転換というキシダプランの方が迫力では勝っているので、武装中立論いがいでは太刀打ちできないであろう。ようするに安保論議では野党が正面突破するのはむつかしいのではないか。そこで、正面突破なしに増税反対論だけをふりかざすことは、とりもなおさず国債負担を認めることにつながりかねない。もちろん、ほかの方法として歳出削減があるが、規模と恒久性に難があり、さらに具体的な削減項目をあげることはむつかしい。

 近年の国会のやりとりは成熟、あるいは煮詰まっているわけで、与野党ともなかなか新機軸をうちだせていないといえる。

 立憲民主党と日本維新の会は今国会中に連立政権構想ぐらいは世に問うべきであろう。そうすることは政策面では両党ともにパクッと傷口がひらくほど痛い目に遭うであろう。しかしそれが「身を切る改革」ではないのか。とりあえずのお手軽共闘ではないはずだから迫力のある対応が求められていると思う。

野党は、財源論はうしろにおき、キラキラ政策を積極的に提起したらどうか

◇ 国会の議論が煮詰まってしまっているのは、与野党ともに政策的に近接しているからであろう。似たものどうしの雰囲気がただよっている。その原因はわが国が各面でいきづまっているからである。閉塞感ではなく閉塞そのものである。だから、与野党間の距離が目一杯離れている論争をもちだせば、否が応でも盛りあがることになる。たとえば、野党が現在貨幣理論(MMT)にのっかれば、予算の使い道において従来にない大胆な再配分策、人への投資、子供への投資などキラキラ政策を提起できるであろう。もちろん財務省の縛りがきつくはなるだろうが、衰退しつづけるわが国にも投資先があることを、国会論議のなかで示唆することは大切なことである。財源を考えるのは与党の仕事だといえばいいのである。

いろいろなことがあるが

◇ ところで、せっかく当選しても国会に現れない議員がいる。参議院比例区での選出であるから、名簿登載は政党がおこなっている。事件のごとく大騒ぎをしているが、すごく売名的であるとうけとめている有権者も多いであろう。選挙公約といえども法律を越えることはできない。政党が処置すべきことではないか。

 れいわ新選組の水道橋博士議員が辞任し、次点者の繰り上げ当選になるが、以降一年ごとに辞任繰り上げを予定しているという。禁ずる法があるとは思えないから、そうなっていくと思われる。さすがに柔軟だね、と思う。「一年ぐらいでなにができる」という声が上がっているといわれているが、それは違うと思う。たとえば、3年後の1年間とあらかじめ分かっていれば、準備ができるから批判はあたらないであろう。それよりも国会には多くの課題が山積しているので、与党にはそちらのほうを向いて欲しいものである。このごろ与党の発信に硬直感があふれているが、なにをあせっているのか不思議である。一年交替制の評価は5年後になるだろうが、後ろ向きにとらえるだけが権威ではなかろうに。

◇鴨浮かび明日の寒波を確と待つ

加藤敏幸