遅牛早牛

時事雑考「2023年の展望-賃金交渉のゆくえと岸田政権の評価-」

(思いのほか手間どったうえに、ながくなりすぎたので後半は付録とした。例によってひらがなをふやしているが、付録は変換ソフトのままである。こんかいは施政方針演説をいじってみた。遅れたのですこし鮮度がおちているが、抜歯、検診のせいにしている。文中の「キシダ政権」とあるのは批判の対象にしているときの表記である。また、「思う」は「(他の人はどうであれ)自分はそう思っている」、「思われる」は、「そう思っている人がけっこういるから」といったニュアンスであろうか。「いえる」は「反論はすくないだろ」また「考える」は「理屈があるよ」という感じである。

 また、2002年に経団連と日経連が統合して現在の経団連となったが、経済同友会、日本商工会議所などもあり、文意において労働問題を中心にしているときは、経営団体あるいは経営者団体とするのが滑らかである。ということで「経営団体」にまとめた。頭のなかは旧日経連のイメージのままである。

 付録はおもに賃上げが中心になっている。いつかストライキについて提起したいのであるが、ストライキという「過去のはなし」がなぜか未来で待ちかまえている。それにしても物価高騰がひどい。そこで、心配はんぶん期待はんぶんの隠居が「もっと怒らなあかん」とこころのなかでさけんでいる、今日このごろである。文中敬称略あり。)

施政方針演説をすこしいじってみた

 23日の岸田首相の施政方針演説(全文)に目をとおした。ひさしぶりのことである。

演説は12項目で構成されている。その「1はじめに」には、「 政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです。 私は、多くの皆様のご協力の下、様々な議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります。「検討」も「決断」も、そして「議論」も、すべて重要であり必要です。それらに等しく全力で取り組むことで、信頼と共感の政治を本年も進めてまいります。」とあった。しごくもっともなことである。あたりまえのことをあらためて述べているのは、先だってのG7歴訪(独を除く)での各首脳との会談、とりわけバイデン大統領とのやりとりが、国内での議論をすっとばしているのではないかとの批判に「あとづけ」でこたえたものであろう。

 「国会で正々堂々と議論すればいいのだ」ということではあるが、正々堂々というのは、質問には誠実にこたえる前提ではじめて成立するもののであるから、答弁次第ということになる。

 昨年の答弁では「検討する」を頻発させ、泉代表(立憲民主党)から、まるで「けんとうし」と揶揄(やゆ)されたことが頭にのこっているのか、「検討」も「決断」も「議論」もおなじていどに重要だとまきかえしている。それはまちがいないが、問題は、検討、決断、議論の過程(プロセス)が重要なのであって、さらにそれらのプロセスがどの程度そとにひらかれているのか、であろう。過日、弊欄で岸田総理はエリート主義者ではないかとのべたが、プロセス軽視の傾向からそうのべたのである。課題志向と成果主義がつよいところをみると、あんがいあたっていると、内心ほくそえんでいる。べつに悪口でいっているのではない。総理がエリート主義の場合、よく気のつく脇役いわゆる黒子がプロセスを管理しなければ、総理が裸の王様になりやすいかな、というだけのことである。 

 日銀総裁でいえば、市場との対話であろう。対話などいらないといえばいらないが、たとえば醗酵を早めたり遅らせたりと、プロセス(醸造過程)に介入しないといい酒はできないのとおなじことで、政治においてもそういった対話がひつようであろう。

 「12おわりに」でのべている「多くの皆さんと直接話をしてきました。」ということも大切であるが、総理に求められている対話とは個別になされるものではなく、集団の意思形成の中核をになうものではなかろうか。「検討」とも「決断」とも「議論」ともちがう場面での、幻術や詐術ではない合意形成のことで、アートにちかいともいえる。今までに、対立構造をつかった人、過醗酵でドロドロにした人、麹をいれわすれた人などそれぞれの個性もあってさまざまであった。

 岸田総理の場合は、とくに大衆との意思疎通にたらざるところがあると感じている。

やっぱり「新しい資本主義」が見つからない、わからない

 さて、あらたな経済モデルをもさくしているとは聞いていたが、演説では「4⃣新しい資本主義」としてあげられ、⑴総論、⑵物価高対策、⑶構造的な賃上げ、⑷投資と改革、の4部構成となっており、⑷投資と改革には、【GX】【DX】【イノベーション】【スタートアップ】【資産所得倍増プラン】の5項目があげられている。残念ながら、どこがあたらしい資本主義なのかけんとうがつかない。資本主義の類型において「あたらしいなにか」が提案されるという期待は早がてんもいいところであった。しめされているのは、むしろ成長戦略とか、重点政策ないしは規制改革ではないかと思う。

 すこしキツネにつままれた気分で、さらに資本主義の構造や本質にかかわる部分をさがしたところ、「 それは、権威主義的国家からの挑戦に直面する中で、市場に任せるだけでなく、官と民が連携し、国家間の競争に勝ち抜くための、経済モデルです。 それは、労働コストや生産コストの安さのみを求めるのではなく、重要物資や重要技術を守り、強靭(きょうじん)なサプライチェーンを維持する経済モデルです。 そして、それは、気候変動問題や格差など、これまでの経済システムが生み出した負の側面である、様々な社会課題を乗り越えるための経済システムです。 私が進める『新しい資本主義』は、この世界共通の問題意識に基づくものです。」と記されていたが、あたらしいというよりも、ふるい資本主義のしっぽがみえた感じである。

 つまり「新しい資本主義」とは、中国や非民主国家の台頭をおさえこむため、本来アクセスフリーであるべきマーケットに関門をもうけ、また民間の自由な海外経済活動を規制し、国際経済を国家単位に囲いこむ重商主義的な国家資本主義ということであろうか。さらりとながされているが、百年前をほうふつとさせる内容でもあった。

 また、労働コストや生産コストの安さのみを求めるのではないというが、それ以外になにをもとめるのか。たとえば、SDGsのほうに論旨をのばしたいのか、であれば「権威主義的国家からの挑戦・・・」との書きだしがちがっていると思う。

 さらに重要物資や重要技術を守り、といわれてもレアメタルは不足気味だし、原材料の海外依存度は高い。おそらく経済安保のことだろうと思うが、なんか手遅れ感が強く、くわえてもっとも強靭なサプライチェーンは中国のことだから、今さらそんなことできるの、というのが正直な感想である。

 さらに、気候変動問題や格差などと、ひとくくりにしているが、対策の体系がべつものであるからこの二つはわけたほうがいいと思う。また、「様々な社会課題を乗り越えるための経済システム」といっても、どうすれば乗りこえられるのかがあきらかでないのだから、まるで白紙答案をふりかざすようなものであろう。ぐるぐるまわりの論理展開ではないか。

 また、「 官民が連携し、社会課題を成長のエンジンへと転換し、社会課題の解決と経済成長を同時に実現する。持続可能で、包摂的な経済社会を創り上げていきます。」とつづく。せっかくなので、好意的にみまもりたい。

 ただ意地わるくいえば、それができれば苦労がないわけで、官民が連携などしてうまくいったためしがあるのかしら、もともと官の主要任務はこの国では民を監視・規制することであるから、連携などふむきであろう。一石二鳥のような書きぶりではあるが、「官民連携」のほとんどが虻蜂とらずにおわるというのが民間では常識だから、ビジネスにとって官民連携は鬼門とさえいえるのである。

 もちろん、社会課題を解決する過程で、あたらしいビジネスが派生することは少なからずおこりうるが、それらをかきあつめて成長のエンジンにするというのは、おとぎ話のたぐいであろう。

 社会課題の解決の結果がかならずプラス成長にむすびつくともいえない。演説の根底にはあいかわらずの成長主義が、わるいとはいわないがみえかくれしている。だから、課題解決を成長のエンジンに転換するといいつつ、経済成長が気候変動問題や格差をうみだしたともいっているが、ここらは整理不足であろう。

 とにかく、経済成長と社会課題の解決とを一度きりはなしておかないと、「成長が期待できない場合は解決には努力しない」とうけとめられるとまずいであろう。社会課題は課題として解決すればいいのではないか。

 そもそも、いままで30年にわたって低成長であった原因ですら、よくわかっていないのに、社会課題の解決と成長を同時に実現するというのは、すこし虫がよすぎるのではないか。ふつうの人はそう考えるわけで、経済にたいする現状認識のあまさがふきこぼれているようにみえる。ただし、反対ということではない、できればいいけど、できるのかなということである。

 かってにまとめれえば、「新しい資本主義」とはデカップリングを前提としたブロック経済体制をめざす指針であり、また米中対立を米側でささえるという闘争宣言であろう。老獪さも狡猾さもゼロ、なんらの工夫も勝算もない生真面目一本なところが心配である。それよりも、「新しい資本主義」ってはじめから、こういう考えだったのかしら、途中でかわったのではないかと疑っている。

 「ピケティ好みの労働と資本の分配比や再分配のあり方を連想したわたしがあまかったのね。」といいつつ、「こうなったら、国家統制資本主義だって、いいふらしてやるから」という声もでてくるであろう。

「構造的な賃上げ」その通りやってくれれば文句はない

 また、⑶の構造的な賃上げでは、「そして、企業が収益を上げて、労働者にその果実をしっかり分配し、消費が伸び、さらなる経済成長が生まれる。この好循環の鍵を握るのが、『賃上げ』です。」とでだしは順調で、よしよしであるが、「持続的に賃金が上がる『構造』を作り上げるため、労働市場改革を進めます。」とか「まずは、足元で、物価上昇を超える賃上げが必要です。」とか「公的セクターや、政府調達に参加する企業で働く方の賃金を引き上げます。」と加速されると、おいおいこれは保守政権の施政方針なんだろう、(労働組合の)運動方針と入れかわっているようだが、どうなっているの。と聞きたくなる。政府がここまでいいきっていいの、また「どうやって達成するの?」とだれしも思うであろう。まして、「 リスキリングについては、GX、DX、スタートアップなどの成長分野に関するスキルを重点的に支援するとともに、企業経由が中心となっている在職者向け支援を、個人への直接支援中心に見直します。」ときた。「個人への直接支援」といえば、雇用調整助成金(1981年)時代からの議論であった。また詳細不明ではあるが労働市場改革と通底するながれであのだろうと思う。企業に従属する労働者から独立した労働者へ、さなぎが蝶になるのだろうか。

「おろかもの」ではなく「はじしらず」、どちらでもいい政策が前進すればいいのだ

 そういえば児童手当の所得制限撤廃(自民党茂木幹事長)も民主党政権時代のてん末を思えば隔世の感である。こういった恥知らずともいえる変身こそが、出世する政治家にはひつようなのであろう。政策に実用新案権はない。ようやく子育てと社会政策とがむすびついたといえる。ここは、かたいことはいわずに評価しようではないか。(これですこし立憲民主党の支持率があがるだろう)

 ということで、「5こども・子育て政策」「6包摂的な経済社会づくり」においても、失礼ながら(?)連合的フレーズがちらばっているようである。むかしから政策的に近似しているところもおおいと感じていたので、撒餌(まきえ)とは思わないが、反射的に立憲民主党の方針がどうであったのかしらと、みくらべたくなる。というのも、立憲民主党の支持層である「労働者」への浸透がきになるからで、内心ではできやしないと思っていても、施政方針演説であるから政府としては、その方向にうごきだすわけで、来年、再来年とつづけば変化と成果があらわれてくるだろう。ということは、安全保障政策について今の時代、労働組合がえらそうに組合員を指導することは不可能であるから(下手をするとぎゃくに指導される)、社会政策、労働政策で政府に得点をかさねられると、政党支持のありかたに、ゆらぎがしょうじるかもしれない。いわゆる支援層の「ひび」である。

 そのひびにそって、政府与党が石のみをうちこんでくる。人びとの国防への関心が最高に達しているこのタイミングをねらっての陽動作戦なのかもしれない。しかし、陽動作戦にしては、てんこもりがすぎるのではないか。ということで、いよいよ難解な時代に突入するのか。

本当に「働く人の立場に立てる」のかが問われている

 さて、構造的賃上げのなかに、「(持続的な賃上げを実現していきます。) そのために、希望する非正規雇用の方の正規化に加え、リスキリング(学び直し)による能力向上支援、日本型の職務給の確立、成長分野への円滑な労働移動を進めるという三位一体の労働市場改革を、働く人の立場に立って、加速します。」という文章がさりげなくはさまれているが、そのなかにある「働く人の立場に立って」というのが意味深長であると思う。そういえば、コイズミ改革では規制改革のかけ声のもと、働く人ではなく、働かせる人の立場にたって、非正規雇用拡大に道をつけた。賃金がひくい非正規雇用者の比率が20パーセントから40パーセントに急増していった。そんなことやっていたから先進国のなかの低賃金国になるわけで、低賃金者だけを増やしてどうするのか。労働コストは安ければ安いほどいいというコスト至上主義が、安いだけの日本をつくりだしたのではないか。そういえば「トリクルダウン」という迷言もあったが、根拠のない政策が格差拡大の道をつけたともいえる。そういった反省にたっているのかどうかはべつにして、ここ数年にわたる官邸の賃上げ要請はマナー違反ともいうべきもので、いじわるく解釈すれば、長年にわたっての経営者の意をくみすぎた低賃金政策の記憶を消しさるためのパフォーマンスではないかしらと、憶測してしまうのである。それとも反省のけっかとしてのつみほろぼしなのか。

 とくに、労働市場の改革は、流動化のありかたが重要であり、働く人の立場にたつ改革ならば賃金は上をむき、働かせる人の立場にたつならば賃金は抑制にむかうことは自明のことで、この道理を官邸が理解するのにすくなくとも30年以上かかったことになる。施政方針に、働く人の立場にたって労働市場改革をおこなうと記載されたことは有意義なことであると思う。しかし、評価は結果をまってからで、換骨奪胎がつねであるから、用心にこしたことはなかろう。

労働者への急接近には、自民党としての思惑と危機意識があるのでは 

 なんとなく、政権の姿勢にすこし変化を感じている今日このごろではあるが、「政治と労働の接点」をテーマとする筆者にしてみれば、自民党からの労働への急接近に「何事かあらん」と沈思黙考(古い表現だが)にいたるのである。

 そういえば昨年、芳野連合会長が自民党に接近しているという、いやみな報道があった。しかし、施政方針などをみれば政府と自民党から労働者への接近といえるもので、これにたいし反発や反論また批判もあるが、しかし演説の内容どおりにやってもらえるならば文句はない、と考える働く人あるいは労働組合員が着実にふえていくのではないかと思う。もちろん立憲民主党の政党支持率が期待値よりも低調なのは、政治的均衡からいって「こまったこと」ではある。

 この点、ちがう道をあゆんでいる国民民主党は、さらに中道右派色をつよめ、政権あるいは与党との距離をちぢめようとしている。これを筆者は「国民民主党のギャンブル」とよんでいるが、同党の首脳にとっては確信の道であろう。あえてギャンブルとよんでいるのは、政治の世界は「結果がすべて」であって、「勝てば官軍、負ければ賊軍」のたとえのとおりであるからで、良くいえばページがめくられる瞬間ともいえよう。

賃上げについての見通しと課題

30年を超える賃金停滞は株主(経営者)の勝利か

 ところで、30年をこえる賃金停滞について、わが国の経営者が勝利宣言をしないのはなぜなのか、という問いかけはよけいなことなのかといいたい。正直なところ、経営者は経済をかたらない、かたってはいけないということのようである。つまり、経営者は経済人ではないということなのか。

 もっといえば、株主にとって賃上げは利益侵害なのかということである。つまり、賃上げを容認する経営者は失格者であり、株主利益を損なう「罪人」であり、場合によっては株主代表訴訟の対象にでもしたいと思っている、ということなのか。また、ぎゃくに株主から文句をいわれない賃上げがありうるのかとも問うてみたい。

 やはり、資本と労働には本質的な対立があって、資本主義とははじめに資本ありきを原理とするもので、すべからく剰余価値の配当先は親である資本から始まるということなのであろう。だから、賃金停滞のわが国の30年間は、資本主義の原理原則に忠実な行為の結果であったといっていいのかもしれない。しかし、いくつかの国ではそうはならなかった、否そうはさせなかった。政治が適切に、あるいは労働者の利益を擁護すべき勢力が当然のごとく機能したことから、わが国からみればまばゆいほどの賃金上昇をなしえたと解釈できるのである。この彼我の差、つまり賃金上昇の差が経済における活力の差となって、もちろん原因と結果が入れかわってくるのであるが、経済成長にもおおきく影響してきたと考えられるであろう。

 たしかに30年間でいえば、デフレからの脱却には全国規模の賃上げがひつようであるという点ではまとまっていたといえるが、組織労働者というかぎられた範囲の賃上げ運動だけではでふれ脱却を背負いきれなかったといえる。ということで、賃上げを惜しんだために成長をうしなってしまった沈みゆく経済大国、衰退国家として、今日ではあわれみの対象になっているというのはいいすぎではあるが、残念なことである。

労働コストを削る時代は過去のもの、おおくの経営者の話は暗すぎる

 賃上げを惜しむ経営者をかつて「守銭奴」と批判した大物政治家がいた。彼の言葉は上品ではなかったが、的を射たものであったと思う。しかし、そのような事態において、政治家たるものが何をなすべきかについては何も語らなかった。語るべき言葉をもたなかったのであろうか。

 さきほど、経営者は経済人ではないと断言したが、もし経済人であればもっとはやい段階で賃上げに加担していたと思われる。一般的に賃上げ不足がわが国経済の活力をそこなわせていることは、1990年代においてはほぼ共通認識となっていたといえる。というのは、筆者は1994年ごろは連合本部で労働政策(賃上げ)を担当していたことから、経営団体(当時は経団連、日経連、同友会、商工会)との定例会見では裏方をつとめていたのであるが、連合側が「合成の誤謬」についてさかんに議論をふっかけても、経営側からの反論はほとんどなかった。『まあそうなんだが、そうはいってもね』という内心のつぶやきがきこえつつ、「(賃上げ)できる企業はしっかり回答するということで」というのが、いつものパターンであった。つまり、これこそが合成の誤謬の実践であったのである。

 経営者を集団化しても、経済人の集まりにはならない。といった一方的評価はとりあえずおくとして、夢物語的にいえば、わが国経済の真の問題を把握する経営者Xが経営団体をつきあげて、さらに労組幹部の尻をけりあげて「ストライキぐらいやれ」と禁断のフレーズをはなったかもしれない。もちろん、連合加盟の労働組合は賃上げについてはほぼ毎年、労使交渉で小幅ながらも改善していたのであるから、ストライキをひつようとする状況ではなかったといえる。むしろ、ストライキをひつようとする非正規雇用者にとって、ストライキを組織することが不可能であったというべきかもしれない。

 というようにストライキのない構造が主語不明でつくりあげられたといえる。主語が不明であっても、受益者はあきらかであった。ただ結果として30年間の賃上げ停滞をかえりみれば、それはそのまま経済停滞であって、潜在成長率といわれた数字でさえも実現できないしょぼい30年間であったともいえる。まさに労働者にとって受難の時代であったが、労資対立観念にもとづけば資本の大勝利というべきかもしれない。しかし、先進国はもとよりOECDにおいてさえわが国の資本効率の劣勢が顕著となっており、国際場裏においては労も資もどちらも敗者であったというべきかもしれない。

 ストライキは万能ではないが、価値観のことなる株主を説得するには、わかりやすい理由となったかもしれない。そろそろストライキの効用について検討してみてはどうかと思っている。ストライキのない時代をつくってきた世代としては勇気のいることではある。

賃上げ論も、30年間停滞していた(やる気のない冷凍経済から抜けでよう)

 さて、賃上げにまわされる資金はそもそもだれのものなのか。この本源的な議論が社会的に共有化されているとは思えないが、今回の賃上げにかかわる議論を通観したうえで、あらためて株主の立場を鮮明にするべきであると筆者は考えている。それにしても5%といえども、一桁内におさまる数字であるから、世の中平穏なのであろうか。しかし、今年だけでおさまるものではあるまい。来年も再来年も賃上げがひつようと思われる。あわせて物価上昇についても、賃上げ原資を考えればひつようと考えられるであろう。何年もかけて、価値秩序、価格体系を再編・調整していくところに、春の賃金交渉のかくされた機能があるのだから、格差解消にとりくむにしても基本的なところは事前につめておかなければならない。

 その第一は、資本と労働の取り分である。この30年間をいえば、労働も資本も失敗したのだから、好循環を実現する賃上げ構造を「もさく」するひつようがあるだろう。とうぜんのこととして、組織労働者だけではなく、広範囲の働く人の賃金改善の場をよういしなければならない。そうなれば、政・使としては労働組合がないことの不自由さ不便さを思いしることになるであろう。また公正競争をささえるうえでも、広範囲のはたらく人の賃金改善を議論する場がひつようとなるであろう。といいながらも組織率が16.5%では背負いきれないのであるが、賃上げを均霑(きんてん)させ、納得してもらわなければ、働く人のやる気につながらないのである。

 経営者のなかに、支払い能力をこえる賃上げとなったらこまるといった懸念のあることは承知しているが、それでも30年間の逸失利益を考えれば、賃上げの議論ができる場があったほうがよいのではという「提案」なのである。優位であったわが国経済をわざわざ停滞させたのであるから、たとえ経営者にとって気分が悪くなるような賃上げであっても、賃上げゼロよりはずっとましではないかということである。それと、支払ったものはいずれ実をつけてかえってくる。この原理をわすれていたからわが国経済が不調をきたしたのである。

 すべからず、まずは与えることからはじめなければならない、のである。あたえなかったから、経済の回転力がおち付加価値生産が低迷したのである。さらに、呼び水をだれが負担するのかというテーマである。そこで、財政出動とか政府のふところだけをあてにするようでは、みっともないといわれるであろう。

 賃上げは「人への投資」であると連合白書にはむかしからかいてあって、もっといえば、労働への分配であり、消費市場への投資であり、金融市場への投資であり、労働再生産(未来の労働)への投資といえる。この過程を通じて経済は拡大成長し資本へのリターンが結実するという資本主義の成功ストーリーを、経営者が信じていないというのが今日の「おかしな国日本」なのである。

 だから、株主に聞きたいのは、賃上げを忌避したことがどれだけ反資本主義的行為であったかを自覚していますか、ということである。この30年間、わが国の資本は大損をしてしまったのではないかしら。それは目先の損得にしばられて、大局をみうしなった「株主」の仮面をかぶった経済ど素人のあなたがたの責任ではないか。それにしても、この「あなたがた」が一向にみえてこないのである。

 今日、投資にあたってSDGsへの指向が評価されつつあるという。人への投資をおろそかにしてきた投資家がなんらの反省もなく、何をきどっているのかといいたい。投資判断が世の中をよくするといった使命からだけではなく、あくまで座礁資産をさけたいということであろう。なお使命感ということであるなら、「資本の匿名性」の砦からでて、どうどうと説明すればいいのであるが、そうもいかないと思う。「新しい資本主義」というなら投資家や株主の社会的役割や責任をかたってほしいものである。

賃上げができない国になってしまったことの弊害は多い

 わが国は、春闘方式の大成功によって、いつでも賃上げができるものとかんちがいしているようだが、真実は賃上げができない国柄なのである。さらにいえば、「金は天下のまわりもの」という格言がありながら、経済循環が苦手なのである。

 その原因のひとつが、企業の社会的役割を欠いた「株主中心主義」であり「株主利益の最大化」だけをもとめる株主総会であったと思う。また、「株主代表訴訟」が会社役員へあたえた威圧はそうぞう以上であったとも思われる。とくに、労働への分配を白眼視したことが、国内市場の縮小、経済の不調そして国家衰退へつながったといえる。これらは、筆者のごういんな見解であるが、それは他ほうで「株主」とはなんであるのかを問うているのである。

 さらに、先進国ではあたりまえであった公正基準が後退し、ぎりぎりまで利益をついきゅうする姿勢が称揚されるという、社会的退行現象がつよまったのも、かたよった株主中心主義が底流にあったからであろう。

 ふたつは、現在労働組合の推定組織率は16.5%である。ということは労働組合に非加入の労働者の比率が83.5%となるが、16.5%の労働者の交渉結果を83.5%の労働者に拡張適用する法律や制度そして組織力がない現状において、かつての春闘時代の「相場形成とその波及」機能をかたるのはむつかしいといえる。また、人事院勧告に依拠する官公労働者については民間準拠の原則からいって、賃上げの相場形成にさんかすることはできない。など、賃金決定への参加率の現状は、報道ぶりにははるかにおよばない劣勢にあるといわざるをえない。

 今日、連合をちゅうしんに産業別労働組合ごとに組織された春の生活改善闘争におおきな期待がよせられているのであるが、あるいみそれは虚構であって、労働者比で83.5%の労働者が、また企業数でおよそ96%(筆者の推定)の企業が、ともに不参加となっている「会員制の交渉場」できめられたことが、どういうりくつで社会全体にひろがっていくのかと考えれば、だれしもものすごく悲観的になるであろう。であるから、皮肉ではなく現状は「ほんとうによくやっている」といえる。

 つまり、組織率などの労働組合の実態からいって、全国規模で賃上げを推進することも、またコントロールすることも困難であるといえるのである。したがって、全国規模の賃上げを確実に実現するためには、政府としてあらたな作戦を導入しなければならないと思う。 

 たとえば、最低賃金を毎年100円いじょうあげるとか、政労使共催の「賃上げ実現共闘会議」を設置するとか、またそういった方針をかかげ、解散(賃上げ解散)総選挙にのぞむとか、世間的には暴挙、暴論のたぐいを提起するのでなければ、人びとの不安をつつみこむだけの求心力をえられなくなる、と思われる。ここがむつかしいところで、火をつけることについて今は腐心しているが、物価上昇率が4%をこえだすと、定昇込みで6%以上の回答(額でいえば20000円前後)がなければ実質賃下げになる。1975年当時のことを知る現役役員は労使ともにいないから、感覚的にわからないと思うが、物価上昇をおいかける賃上げには勢いがでてくるもので、いちど火がつくと満額回答でもおさまらなくなるのである。そこでキシダ政権は二つの課題をかかえることになる。ひとつは賃上げの「起動と波及」、ふたつは賃上げの「終息」である。

 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、今の日銀にインフレ減速のための「利上げ」ができるのかというのが、世界中の投資家のもっかの関心であって、できないと判定されれば円安へと流れる。円安が加速されればさらに輸入インフレがすすみ、さらなる利上げが求められる悪循環がおこり、いよいよ日銀として利上げ以外の沈静化策があるのか、あるいはあわせわざがあるのかといった綱渡り状況においこまれることになる。賃上げでの主役は組織率16.5%の労働組合であるが、政労ともに手をたずさえて「軌道と波及」と「終息」のふたつの課題に対応しなければならなくなるであろう。使がくわわればさらによい。

労働組合が果たすべき役割は重要であるが、社会評価はそれに追いついていない

 少なくとも三代にわたって内閣総理大臣が経団連会長と連合会長に新年になると賃上げをつよくようせいしてきたのであるが、もともとは私的行為である賃金交渉に、総理大臣がかかわることが許される背景には、世間の理解があると思われる。それは、国際比較においてはなんといっても低水準であり、それも実質的には30年あまり改善されていないという実態があるからであろう。ふつうここまで官邸がのりだせば、経営団体がだまっているはずがないと思うのだが、経営団体も賃上げに大賛成というのは、よほどの低賃金であると考えているということであろう。

 ともかく、賃金が低水準でかつ停滞していることがもたらすマイナスについて、政府として看過できない、またその対策として「てきせい」な賃上げを早急に実現することいがいに方法がないというということであれば、運動会の綱引きの応援団よろしくかけ声だけにおわらせるのではなく、法律や制度におけるさまざまな課題を解決することにも尽力すべきではないか。とくに、わが国の労働運動にたいする間接的規制はさまざまな面できびしく、このままでは社会的な役割をはたせなくなると危惧される。

 感想であるが、労働組合を抵抗組織、反抗組織と考えている中小企業経営者もおおいのではないか。たとえば、民間企業での労組の経営参加は質量ともに諸国のそれにまさるともおとるものではないといえるのであるが、思い込みと偏見がつよすぎると思われる。

 その意味では、真の動機がなんであるのかはべつとしても、自民党が運動方針で選択的ではあるが労働組合への接近をもくろんでいることは、けだし時代への対応であると思われる。

今回、求められている賃上げを実現し、広げるには労働組合だけでは無理である

 見方をかえれば、賃金停滞をうちやぶる方法として、毎年賃上げにとりくんできた連合をちゅうしんにすえた「布陣」あるいは「たたかい方」では例年通りの結果におわるということであろう。では、連合での4~5%の賃上げがどこまで波及することができるのかが焦点になると思われるが、波及のさきについては連合の手がとどかないところであることから、そのさきはだれの役割となるのかが最大の課題といえる。

 つまり、官製賃上げが連合の影響力限界をこえた領域でうまく機能するのか、いいかえれば、連合の影響力限界とは交渉限界であるから、交渉いがいの方法で官製賃上げを機能させなければならないことになる。そこで利益誘導たとえば「賃上げ促進税制」などがあるが、中小企業では非納税企業が過半であることから、税額控除だけでは限界がある。また、新しい制度を考案しても、まずまにあわないと思われる。「言うは易し、行うは難し」である。

 ところで、「130万円の壁」問題が急浮上している。政府が賃上げの旗をふるのであれば、政府の責任でさっきゅうに対応すべきであろう。しかし、課税単位を個人とするのか子育て家計とするのか扶養家計にするのかは複雑でむつかしい問題であり、移行措置もふくめると十年単位の仕事になると思われる。

 個人と家族にかかわる価値観を背景においた、壮絶な闘争がよこたわっているので、うかいするしかないと思う。

 さいごに、「物価上昇を超える賃上げ」であるが、物価上昇については「過年度」なのか「当年度(予定)」なのか、各種の「政府補助」の評価をどうするのかなど、また賃上げについては「ベア」なのか、「定昇込み」なのかということと、連合の影響外についての「集計方法」や「速報体制」をどうするのかといった課題が残されている。

 来年以降については、本格的な賃金決定の仕組みを考えなければ「構造的な賃上げ」は実現しないであろう。(弊欄としては後日の話題としたい)

(付録)

①自己責任原則では賃上げの均霑(きんてん)化がむつかしくなる

 さて、この国では物価上昇(価格転嫁)がおこりにくい事情として、自己責任原則の固着があるように思える。もっとも、それが問題だから矯正すべきという論にはくみしないが、社会保障制度あるいは福祉制度を考案するにあたり、この自己責任原則があたかも岩礁のようにいく手をはばんでいることは間違いないと思う。

 とくに巷間となえられている自己責任には不思議なことに共助を排除するといったニュアンスがふくまれているのである。たとえば、「人に迷惑をかけない」ことが処世上の必須項目としておしえられた人も多いと思われる。もともとは独立不羈の精神を養うことの大切さをといていたと思うのであるが、人に迷惑をかけないことをうらがえせば、人から迷惑をかけられたくない、という思いと一体のものと理解されるのであるから、いわば狷介(けんかい)な人間関係へとはしりだしてしまう危険があるように思われる。また、人に迷惑をかける者にはきわめて不寛容になり、こまったときの助けあいとか、おたがいさまといった、いわば相互扶助関係をも否定的にうけとめていくのではないかしら。もちろんいきすぎればの話ではあるが、そういった自己責任についての潔癖さを煮つめすぎれば、もはや社会ではなくなるわけで、そもそも他人を信頼する動機も意義もみえなくなってしまうのではないかと、おおいに危惧するところである。共助の精神がなければ全国規模の賃上げはむつかしいといえるのではないか。

 そこで、みずからの責めに負うべきことと、そうでないこととの区分がひつようになるのであるが、前者の場合には、責任が軽重感をともなって認識されるのはとうぜんのことであるが、後者の責任がないとされる場合についても、なにかしらの責任をにおわせる意識が、どういうわけかおもてに出現するのである。まことに不思議なことである。たとえば、袋にまじっていた腐ったミカンについて、うけとった者の責任を云々することは、自然の原理からいっても不条理なことであり、どう考えてもミカンが腐っていたことについては、なんらの責めをおうひつようがないはずなのに、それとなく恐縮してみたりしているのである。恐懼しながら人の責任をうけとめて、そのうえで超然とうけながすところをみれば、責任において自他の区分をなんとしてもうけつけない原生代のような気分つまり空気があって、正直わかりようのない恐ろしさを感じてしまうのである。これでは容易に価格転嫁などできないであろう。

②社会全体にはり巡らされた、昔ながらの家族観センサー

 今回は、賃上げには「おいかぜ」のようであるが、キシダ政権が国会でつかっている理屈だけでは、物価上昇をカバーする賃上げの実現は困難であるといわざるをえない。

 とりわけ社会規範として、労働条件の向上が実現されにくい土壌が壁としてたちはだかっている。たとえば、民主党政権時代の子ども手当であるが、とうじ野党であった自民党や公明党のブルドーザーをしのぐ反対もすごかったが、それ以上に世間では「他人の子どもへ税金をつかう」ことへの反発が強かったのである。さらに、「チルドレンファースト」といったキャッチフレーズがいまいちよくわかってもらえなかったこともあった。その点、1月23日の演説では「こどもファーストの経済社会」と明記されているので、今のところ安心しているが、用語法としてまだまだ工夫のよちがあるように思える。

 問題は、「子どもは社会全体でそだてる」という意識高い系の政策論が、「うちは子育てはおわったからいらん、不公平だろう」という現実本音論にはばまれてしまった経緯にあると思われる。意識高い系にしてみればとうぜんの理屈であるのだが、「うちは子どもがおらへんから」関係ないという人に、いきなり「あなたの年金はだれがささえるのですか」とか「20年後は見ずしらずの赤ちゃんがおおきくなって払ってくれるのですよ」といって、納得してもらえるのであろうか。民主党政権時代の挫折から学びきっていないのではないかと反省がてら思うのである。

 ここは北欧ではないのであって、社会保障制度の基本である社会保険が、たすけあいを一般化する、すなわち家族関係を超越したものであることの理解がまだまだすすんでいないのである。まだ、血のつながりを中心としたよき家庭・家族像が影響しているといえる。だいいち保守政党が生活価値観の柱にそれをすえているではないか。これらの強固な砦があるかぎり、「こどもファースト」の「こども」にひっかかりをおぼえる人がでてくるであろう。いわく「かぞくファースト」ではないかと。こういった、突然あらわれる壁が賃上げにもたちはだかってくるのである。

③値上げに対する反発、抵抗

 さらに、社会全体に共助をよしとしない「自己責任」原則が浸透していて、たとえば仕入れの値上がり分はまず経営努力で、といった社会圧力がはたらきやすいのである。ということから、ややもすれば従業員の賃金や経費のきりつめが先行することになるのである。たとえば、値上げ報道においてはかならず経営努力への言及があり、経営者の報酬ひきさげを求めているのかと錯覚してしまうほどの過激な報道もままみられた。値上げは「悪」という単純な正義感に迎合するだけでは、経済をかたる資格がないといえる。 たとえば、電力料金の引きあげは、原価構成上わかりやすいのであるが、それでも経営努力という言葉をつかって、まるで従業員の賃金引きさげが絶対条件であるかのいいまわしが過去には散見されたが、それでは価格転嫁の妥当性や情報公開などについて踏み込む視点がうしなわれることになりがちであろう。といった世情にまきこまれていく報道ぶりも悪循環を助長している気がしてならないのである。

 外に原因がある値上げであっても可能な限り内部で吸収していく経営姿勢を評価することは美談ではなく、自己犠牲や発注先への値切りへと安易に流れていくもので、とくに発注側が優越な地位にあれば、ルール違反をうむことにもなりかねない。

 ともかく公正な成熟社会というのは、理由があればすみやかに価格転嫁の努力をつくすもので、その方向でがんばることが働く者の労働価値をまもるということなのである。この労働価値をまもることへの信頼が企業の基盤であるとする経営者にであうことはまれである。というよりは安売りに興じるという気配さえ感じられるのである。わが国経済の衰えは、つねに価値減価を強要し、それに安易におうじていく意気地なしの企業風土にも、その原因があるように感じている筆者は天下のかわり者なのか、と反問している。

 

④待遇改善のための料金改定ははたして理解されるのであろうか、反賃上げのエートスはどこから来ているのか

 さて、賃金である。全国一律の賃上げであるのならまだしも、たとえば「配送員の待遇改善のため〇パーセントの値上げをします」ということが、ほんとうにうけいれられるのであろうか。安い配送コストで社会貢献をはたしてきた企業にたいし、感謝もねぎらいもなく、安いのはあたりまえ、値上げはけしからんという対応で世の中よくなるとは思えないのであるが、「賃上げのための値上げ」が円滑にうけいれられるとは残念ながら思えないのである。もちろん競争力があれば値上げは貫徹できると思うが、顧客のなかには内心おもしろくない者もでてくるであろう。

 ということで、どうも人びとのこころのなかには賃上げ反対のエートス(ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・行動の規範;広辞苑6)があるのではないかと、うらめしく思っているのである。

 そこで、そういった反賃上げのエートスがあるとして、なぜそうなったのかについてのヒントが、1月29日発表の共同通信社世論調査にあった。調査によれば、「あなたは物価上昇に見合う給与の引き上げが、はたらく人の多くで実現すると思いますか。思いませんか。」との問では、「実現すると思う」が16.5%、「実現しないと思う」が80.7%、「分からない、無回答」が2.8%であったという。つまり、人びとにとって賃上げとはわずか16.5%の世界のことなのである。ざっといって、6人に1人なのである。また80.7%、つまり5人のうち4人は「実現しないと思う」と答えているのである。これが世間の賃上げにたいする期待の現実なのである。まるで「およびじゃない」ということではないか。

 ところで、昨年の労働組合推定組織率が16.5%であったから、同程度の比率が「実現すると思う」と答えていることは、偶然の結果だけとはいえないであろう。

 政府方針や国会でのやりとりからいっても、また例年になく賃上げに力がはいっているにもかかわらず、賃上げが「実現すると思う」とこたえた比率が推定組織率とおなじ16.5%であったというのは偶然の一致ではあるが、とても低い期待値となるのはどうしてなのか。

 それはかんたんなことである。賃上げとはほとんど組織労働者の要求行動であって、外にひろがる構造にはなっていないからである。要求先の企業が雇用している非正規雇用者の賃金引き上げに労使が言及するケースがふえてはいるが、ごく少数にとどまっている。また、労働組合ではないが従業員団体として要求行動をおこなうケースもあるが、これもごく少数である。

 ということから、政府も旗をふっている賃上げ交渉のおくゆきが推定組織率を上回ることには構造上なっていないといえる。ぎゃくにいえば、労働者の組織化あるいは組織拡大が賃上げには有効にはたらくということであろう。たしかに、それ(組織化や組織拡大)以外の方法で、賃上げをひろく促進することはなかなかむつかしいということであろう。さらにいえば、厳しい環境のなかでも毎年賃金改善にとりくんできたことが、組織化された労働者にすればいわずもがなの評価と映っているのではないか、と思う。

⑤労働組合の機能を政府が肩代わりすることはまず「無理」である

 ここで、筆者の感想をのべれば、連合発足時(1989年)の推定組織率は25.9%(組合員数1215万人)で、その勢力を維持できていたならば、波及力という点ではもうすこしひろがっていたと思っている。まあ、因果関係のとらえかたの問題ではあるが、ちいさなことでも30年という長期レンジでとらえれば、おおきくながれをかえられた可能性があったと思っている。

 保守政党も経済団体もおおくの省庁も、おもてむきはべつとして、労働組合の拡大をのぞまなかったことにかぎっていえば、経済成長における個人消費の拡大をになう補助エンジンの役割(労働組合による賃金改善)を矮小にとらえつづけたといえるし、このことの帰結については、これからもしっかり背負ってもらわなければならないと考えている。

 とくに経済団体(経団連)は、リーマン・ショック後には「六重苦」とさかんに政府を追及したが、六重苦のおおくはすでに解消されている。おもなものでいえば電力不足、コスト高はいまや世界的兆候であり競争条件としてはイーブンであろう。また円高はさり、円安となっている。のこる労働市場の硬直性も、非正規雇用が4割にたっしている現状において、さらなる流動化のイメージがえがけているとは思えない。これ以上の流動化はむしろ雇用不安につながり景気後退の原因になるのではないか。さらに、企業の自己資本比率をみれば過剰とも思える流動性確保の目的がわからない。低賃金政策の終着駅が、歴史にのこる「金あまり」であるとしたならば、「六重苦」とさわいだあれは「にわか芝居」であったのか。それよりも、労働環境や条件では、先進国のなかにあって劣後しているものもおおい。企業のDX化のおくれも経営者のセンスの反映ではないか、という指摘もある。さらに、経営者が経済人であるなら、衰退いちじるしいわが国への的確な処方箋をしめすべきではなかろうか。

 日ごろ思っていることであるが、たとえば経済財政諮問会議につどう経営者は豊かな知見でもって献策していると思われるが、経済団体あるいは経営者団体はどうであろうか、賃上げについては例年いじょうに積極的発言をくりかえしているようではあるが、結果に対する発言はないようである。団体の性格上、限界があると思うが、日本経済の盛衰にかかわる重要課題と認識しているのであれば具体的な行動があってしかるべきではないだろうか。

(六重苦:①円高②EPAの遅れ③法人税の高さ④労働市場の硬直性⑤環境規制⑥電力不足・コスト高)

⑥価格転嫁と便乗値上げは紙一重 消費者の気持ちは複雑

 「価格転嫁」があんいに使われている。消費者にすれば便乗値上げとの区別がつかないだろう。たとえば物価上昇分を値上げすることになれば、値上げが値上げをよぶインフレ経済になり、低所得層がうける打撃ははかりしれないであろう。そうなれば労働への分配を強化しなければ失政となるであろう。また、公的年金の給付についての議論もひつようになるであろう。今のところ価格転嫁は正義の旗となっているが、値上げは一体であるからうちわけは消費者からはみえない。

 一般的にいって、消費者にとって値上げは受けいれがたいものであるから、おそらく消費者の納得をえられるのは、先のことつまり消費者それぞれの所得(賃上げ)が確定してからだと思われる。直裁にいえば、賃金体系という価値秩序が改定され、ひとり一人の賃金が物価上昇分の補填とか、業種間の格差改善としてわかりやすいストーリーとともに説明されたときに納得されるものであろう。したがって壮大な賃上げのリンクからはずれた者や不足感がある者あるいは賃金差別感をもっている者は納得どころか、いぜんにもまして怒りをつよめるであろう。全員が納得できることにはならないだろうから、人びとが物価と賃金をてはじめに、生活全般をきびしく考える時代がきたということであろう。政治への関心が高まることを期待したい。また、投票率があがればちがう景色がみられるであろう。

⑦歴史に残る大事業に挑戦 ほとんどの労働者において「物昇を超える賃上げ」が実現すれば革命的である

 施政方針演説には「物価上昇を超える賃上げ」をおこない、とあるが、非組織労働者の賃金決定は経営者の専権であるから、おそらく均一な賃上げとはならないであろう。

 すでに、すくなくない企業が5%をこえる引き上げ方針を発表しており、マスメディアではあかるい雰囲気が先行している。

 来月(3月)中旬になれば、かくじつに賃上げ回答の快進撃がふたたびマスメディアをにぎわせるであろう。しかし、それらの数字(率)は世上の目標値となるのが通年のことで、あとの回答(中小規模)がまえの回答(大規模)をうわまわらなければ、全体として「物価上昇を超える賃上げ」とはならないだろう。賃上げが企業規模あるいは企業体力を反映するとしても、率は同等であるべきと考えられるが、労働組合のない中小規模企業の経営者の判断はべつのところにあるのではないか。たとえば業種的、地域的なよこならびの傾向がつよいと思われる。政府方針の影響はつよいのであるが、それでも、取引先が価格ひきあげをうけいれなければ、賃上げ原資が不足するので、物価上昇をカバーすることはむつかしいであろう。政府が個別の取引に介入することは困難といえるが、工夫次第ということか。

 製造業などの大企業において、何万点もの部品の単価アップを許容できるのか、「いちどゆるめる」と元にもどすことができないというのは現場の思いこみなのか、それとも事実なのか、購買担当部門として悩むところであろうが、なんらかの手当てをしなければ実質値下げ、賃下げになるわけで、この弊害もおおきい。わけても政府方針であるから、現場の腕力だけで単価上昇のながれを押しとどめることはできないであろう。と、よくよく考えてみれば「春闘方式」は以前にもふれたが、秀逸な仕組みであった、とあらためて当時の指導者に対し脱帽するしだいである。

 ここまで政府が介入することの是非はもちろんある。不快感をかくさない関係者もいるであろう。しかし、演説にそって施策をつみあげていけば、これは労使交渉をはるかにこえた異次元のひろがりになるであろう。もちろん、中核は労使交渉であるが、影響をうける労働者の範囲あるいは規模をいえば例年の数倍におよぶだろうから、ふるい表現ではあるが「革命的」といえる。賃上げ革命に成功すれば、政局に与える影響は爆風に似てきょうれつである、と思う。

 そういった春嵐とともに賃上げの風が吹きあれる季節に、従業員の顔色をうかがいながら、「うちは中小なので」といいわけを連発し、「納得はできないでしょうが、なんとか我慢してもらえる」水準を回答する経営者はまだいいほうであろう。おおくは、価格転嫁のめどをたてられず、一時金あるいはなにがしかの手当でその場をしのごうとするであろう。

 さらに、非組織非正規労働者の賃上げ率がどうなるのか。さまざまであると思うが、筆者はおおむね改善されると期待している。

⑧最後の決まり手は、労働市場の需給すなわち人手不足

 そこで、賃上げにためらいを感じている経営者の背中をおすのはおそらく従業員の離職気配であろう。これは世界共通のことで、労働市場の需給が賃金水準を決定する重要な要因であることから、たとえば米国では感染症対策のための生活支援を奮発すれば、手元に現金があるかぎり労働者は職場にはもどらないといわれている。

 労働者にとって使い勝手のよい紹介システムあるいは流動性にとむ労働市場があるならば、労働者側の週単位の意図的待機は人手不足感をつよめることから、求人増となりさらに時給アップにつながりやすいといえる。かくして、景気拡大期には流動性の高い労働市場の賃率は上がりやすいといえるが、景気後退期では一時解雇が急増しやすい。ということであるが、賃金そのものは下方硬直性を有しているので労働市場の流動性を高めることは一般的に労働者にとって有利であるといえる。

 労働力人口の激減という「とんでもない激流」にあるわが国にとって、とろとろしていたら人手不足倒産にいたる不安もでてくるだろうし、また事業承継を断念せざるをえない中小零細企業が続出するであろう。現状は人手不足による賃上げ競争に直面しているのである。これを直視できなければ経営者失格となるかもしれない。

⑨1974年の狂乱物価をどのように終息させたか あたらしい政労使のスクラムを

 ところで、筆者のかってな数字であるが、96%超の企業が労働組合をもたない、内心では「しめしめ」と思っていることはまちがいないわけであるから、ほとんどの企業経営者は本質的に反労働組合主義者といえる。すでに労働組合が結成されている企業においては、おおむね現状維持のスタンスが選択されているのであるが、建前も、本音も「労働組合はないほうがいい」ということであろう。

 また、経営者団体の本来任務をいえば、労働組合が既存である場合は、健全な労使関係の涵養が本務ではあるが、未結成においてはよくて傍観であるから、官邸がのぞむような賃上げが国中に波及する事態がおこることは通常は考えられないというべきであろう。こんかいは革命的賃上げ現象が起こりえる可能性が高いと予想しているのは、労働力人口の激減による人手不足パニックが背景にあるからで、すでに高齢者の労働参加もすすんでいるようである。

 価格転嫁がいきすぎれば、人手不足と重畳し高インフレをもたらす可能性が高いから、今年、来年、再来年の状況次第であるが、インフレ沈静化に舵をきりかえることになるであろう。1974年の狂乱物価の原因について1973年の石油ショック説が中心であったが、近年では1972年の列島改造説、円高対策としての金融緩和説が主流になっている。

 世界経済の動向次第ではあるが、好循環経済への移行はどう考えてもむつかしい課題であって、今年は「価格転嫁を促進し物価上昇を超える賃上げを実現する」という比較的分かりやすい目標となっているが、さきほどのべた高インフレがみえてくると、二次方程式がにわかに微分方程式になり、解がないことになるやもしれない。長期にわたってデフレあるいはデフレ的であったためになじみがないが、インフレ風が吹きはじめるとパニックに陥るリスクが高いといえよう。

 そこで、ハイパーインフレを予防し、好循環経済をかくたるものにするためには、政労使のスクラムがひつようになるのではないかと、例によっての先走りの妄想にひたるのである。

 1974年の春の交渉は約30%賃上げでおさまったものの、物価上昇の勢いからいって1975年は未曾有のことになるのではないかということで、日経連、金属労協(JC共闘)そして当時の福田総理と相談の結果、賃金政策の導入におよんだということであった。そのときの労働側の指導原理が「経済整合性論」で、論というより賃上げへの介入方針ともいうべきもので、賃上げを、ハイパーインフレの引き金にはならない範囲に自制するという、奇跡というほかない合意であった、と筆者はうけとめている。つまり、ことにおよんでこれだけのことができたという経験はしごく重要であって、労働者にとってはインフレは生活破壊につながることから、総合的には妥当な結論であったといえる。

 ということで、わが国のインフレは急速におさまったわけであるが、政労使関係をふくめ、とくに労働運動がデフレ向きになってしまったのは、なまじインフレ退治に成功したからではないかと、筆者もふくめ愚痴るむきもおおいのである。

⑩「政治と労働の接点」から「政党と労働組合の距離感」へ

 さて本論にたちかえるが、本来的に経営者は労働組合の結成には嫌悪感とはいわないが、それに近い感情ををいだくものであるから、官邸は経営者、起業家の反対をかわしながら、労働組合の組織拡大への支援策を考えるべきである。この文脈を55年体制以来の対立的思考でとらえられ、保守党からは利敵提言であるとか、また労働組合に依拠している野党からは「裏切り」だといった批難をうけるのは不本意であるのだが、いずれ誤解は氷解するであろう。

 その理由については、弊欄をとおしておよそ4年あまり、辛口ではあるが、与野党の基盤にかかわる数々の提言をのべてきたのであるが、ホームページの媒体としての実力不足が災いしているのであろう、なかなか伝わらないのである。HPが対象としているのは、あくまで民間労組の活動家であるから、政党への直通パスは慮外のことではある。もちろん筆者としての、政治理念にもとづく立ち位置(中道右派)からの支持政党はあるが、論評にあたっては公平な対応につとめている。2017年10月の野党政変(筆者の表現)をもって従前からの政治的かかわりは破算になったものと認識している。

 さて、たとえば「連合総研レポート2023年1月号No.382」に「『労組組織率16.5%』では見えない危機」(新谷信幸事務局長)が掲載されているが、「連合が結成された1989年当時の組織率は25.9%(組合員数1215万人)で、組合員数がもっとも多かったのは5年後、1994年の1270万人(24.1%)です。組織率は分母の雇用者数の増減の影響もあるので単純な比較はできませんが、組織率や組合員数の表面的な減少以上に労働組合の基盤の変化が進んでいると思われます。」ということで、連合と連合総研が労働調査協議会に委嘱して2~3年の頻度で実施している「労働組合費調査」の結果を示しながら「基盤の変化」、つまり財政基盤と専従体制の問題点を指摘している。 

 これは労働界の問題であるが、とくに全国の拠点で活動している労働組合役員とりわけ専従者のおおくは、地方組織などをつうじて地方・地域の労働問題や最低賃金などにかかわり、その役割は社会性をもつきわめて重要なものといえよう。

 ここからは、筆者の考えであるが、一般的に労働セクターがその理念や政策上の立ち位置から組織としてはおおむね野党支持であり、選挙時の支援もほとんど野党に集中していることから、現在の与党とりわけ自民党にとって強力な対抗者と認識されていることは事実であろう。とくに、2007年の参議院選挙あるいは2009年の政権交代につながった総選挙の記憶はおそらくトラウマとなっていると思われる。

 そこで、職場の活動をかわきりに中央共闘組織(全民労協)、連合結成、企業連合労組そして産別推薦の参議院議員として、政治と労働の接点に位置した経験をもつ筆者として、現在までの政権と労働組合のかかわり方が問題であるという主張ではなく、それはそのときの時代要請からきたものであるから、時代なりの意義があったと認識しているのであるが、では現在の時代要請に十分かなっているのかと自問するなかで、政権と労働組合のかかわり方については、「あたらしい方式」があるのではないかと、じつにそういう考えにいたったのである。

 ここで、「新しいあり方」を披露する気はない、あくまで同調をえてからのことと思っているから、提起するのは先のことである。おおくは4年あまりの弊欄において、ほとんど妄想といいながら、ときどきに記述してきた。

 

◇浜鴨に春遠からじの風情かな

注)一部字句等修正(2023年2月15日)

加藤敏幸