遅牛早牛
時事雑考「2023年の展望-3月の政治と三角関係」
(春はあけぼの、朝から花粉と黄砂に悩まされる。梅か桜かと優雅に暮らしたいと思っていたが、咳と鼻水としょぼ目がつらい。ところで明日は回答日、かんけいないが期待感がたかまる。さて、今回は高市大臣vs小西議員、防衛費増などをテーマした。もちろん、かな多めではあるが、すこしもどした。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というか、べつの場面で原稿を渡したら後日「漢字に変えておきました」と断り書きがかえってきて、すこしめげた。ので、すこしもどした。「すこし」も「少し」のほうがいいのかしらと、細かいことが気になる。杉下右京じゃないのに。今回も例によって敬称を略す場合がある。)
1予算案の年度内成立が確実に-参予算委員会は、高市大臣vs小西議員の模様
予算案の年度内成立が確実となった。内閣では、想定内とはいえほっとした空気に包まれていると思う。後は緩まないようにということであろう。
ところで、この国会は防衛費にとどまらず反撃能力など攻めどころがおおいことから、はげしい論戦を予想していたが、意外なことに派手はでしい議論は参議院においてもすくないようにみえる。
もちろん、委員会をやたら中断するのが野党の仕事といった時代は過去のもので、今は冷静に理路整然とやるのがトレンドなので、議論をつくすという議会の役割からいえば好ましいながれだと思う。と思っていた矢先に高市大臣と小西議員(参)の総務省文書をめぐる「たたかい」が勃発した。
争点は、2015年5月の参議院総務委員会での「放送法第4条」でいう政治的公平性について、「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」としていた解釈を、当時の高市早苗総務大臣が「一つの番組でも極端な場合は、一般論として政治的公平を確保しているとは認められない」と、解釈を変更した感じの答弁をおこなったが、そこにいたる経過についての78ページにわたる文書(さまざまな記録文書の集合)を提示しながら、小西議員が官邸からの圧力の証拠ではないかと高市大臣に質問したところ「(後に高市氏にかかわる4ページ分についてはと限定し)ねつ造である」と答えた。しかし文書の性格については、後日松本総務大臣が、部分的に不正確なものがあるようだとの条件つきで総務省の行政文書であると明言した。
世間では、当事者(大臣)がねつ造であると主張する部分をふくむ行政文書などと揶揄する声もでるなど、にわかに騒がしくなっているが、もとはといえば、中身はともかく行政文書を当時の所管大臣がいきなり「ねつ造」と処断したり、辞任するしないの啖呵のやりとりなどがあって、出発点からいえばずいぶんと脱線した感じがする。
というのは、2015年5月の高市大臣の答弁が解釈の変更にあたるのか、また8年も前のことではあるが放送事業者にどの程度の影響を与えてきたのか、つまり「びびった」のか「蛙の面になんとか」だったのか、その点が重要であるのに、そこになかなか行き着かないところが、筆者的には気になるところであった。
さらに翌年(2016年)にはいわゆる「停波」発言があったことにも関連してくるのだろうか。思えばアベ政権のメディア抑圧の典型例なので、それなりの意味のある争点だとは思うものの、防衛方針の直角変更などにくらべれば内容としての喫緊性は低いと思う。さらに、松本大臣が「解釈変更ではない」と明言したようであるが、78ページの文書のなかにも触れられているが、もともと「極端な場合」は一つの番組でも公平性を欠くと判断しうるわけで、そうしておかないと、「めちゃくちゃな番組」をながしても「一つの番組(だけ)だからいいじゃない」という理屈がでてくることへの防波堤がひつようであり、そのために「一つの番組だけで」と「一つの番組でも」という使い分けが生じていると思われる。
筆者は、2015年5月の高市大臣答弁は、すでにある解釈にたいし最後の戸締まりとして補足強調しただけではないかと受けとめている。うがった見方をいえば、官邸のうるさい人対策として結構うまいやり方であったと思う。
というのも、もし解釈を「変更した」というのであれば、趣旨からして法律そのものの変更に匹敵するものだから、にわか雨のような与党委員の質問への答弁でコソッとすまされるものではないだろう。ことの重大性からいって、委員会は直ちに閉じて、改めて理事会では内容ではなく「扱い」を協議すべきであろう。まあ大臣陳謝ですめばいいが、おそらく辞任は必至で大騒動になったと思う。(一つの番組に照準あわせるという基準変更が趣旨であるならば、8年間も放置していた野党の責任もきびしく問われるべきである。)で、そうはならなかったということは、そのときの委員会は変更とはとらえてなかったということであろう。だから変更ではないと総務省はいうのであろう。
しかし問題は、「解釈変更などしていません」といいつつ、無言の圧力を放送事業者にかけるところにあったと思われる。もっとも圧力をうけたと発信する放送事業者は皆無であろうから、なにもなかったことになり、政府が追求されることもなく、またひょっとして放送事業者が自己規制し、報道番組における内閣批判のトーンが弱くなるというおまけがつくかもしれない、そうなれば仕掛けた側としては大成功といった話であろう。いわゆるダメもと論である。
だから、対策された官邸のうるさい人も、おそらくまんざらではなかったはずで、まとめてみれば為政側としてうまいやり方ではあったといえる。先ほど、「アベ政権のメディア抑圧の典型例なので」と記したが、典型というのは被害の表明がなければ追及されないという巧妙ではあるが、いやらしい手口を多用しているということである。
ということを踏まえたうえで、今回予算委員会で提起されたということであれば、なにか隠し玉があるのではないかと誰しも思うであろう。とくに、成りゆきを見守っている永田町界隈では、資料の出方が何かしら恣意的あるいは操作的すぎることから、暗がりの先には闇があると受けとめているようであるが、そこまでいってしまうと、○○の勘ぐりになるのであろうか。
ともかく、このケースでは放送事業者が「何か」をいわないかぎり放送の公平性をめぐる議論にはならないということで、結局傷ついたのは「だーれだ」となる。もちろん、「ねつ造」と反射的に反応したのが最大のミスであったことに間違いない。「ねつ造」と発すれば「だれが」と返ってくるもので、かならず犯人捜しがはじまるのだから、ご自身が大臣であったことを完全に滅却しておられたのであろう。だから自損事故というかオウンゴールというか、自業自得ではあるが、気の毒な感じがしないでもない。もちろん最初から「確認のしようがない」と答えておけばすんだ話だと思う。事実、78ページの文書のすくなくない部分は、今では確認のしようがないものであるのだから。
2これも安倍晋三ロスの一種なのか
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」というが、目をかけられていた人をふくめアベ派にとって領袖の急逝の影響は強烈甚大であり、また残酷なものであろう。あらためて氏の存在の大きさを思い知らされたのであるが、同時に生存中には考えられなかった「反論」「反撃」や、それにともなう「反感」あるいは「恨み」が、雨あがりの裏庭にモクモクと頭をだす菌糸類あるいは粘菌類のように、ジワジワと出現しているということか。
過ぎた日は加速をつけて遠ざかっていく。アベ時代もすでに秋(飽き)を告げ、枯れ野原となりすぐに冬景色となるであろう。強気一本の日銀総裁もさる。
そういった時代の変化を象徴する出来事というか、あるいは工作であったかもしれない。もし工作であるとすれば、そのターゲットは明白で、虎の威をかりて威張っていた人への意趣返しであり、その人の減点の流布ではないかと推察するのであるが、いずれにせよ後味のよろしくないものである。
ただし、めったに外部にでることのない内部文書から、「そういうことだったのか」と合点のいく思いをした人も多いと思う。しかし、史料批判ができないかぎり講談、小説の世界であって、筆者としては「おもしろうてやがて悲しき政局かな」という心境である。さらにこんなことをやっている場合ではないのにと、この国の行く末を嘆じるばかりである。(芭蕉先生ごめんなさい)
3たしかに数字ありきではあるが、防衛のあり方の議論はひつようである
ところで、防衛費のGDP比2パーセント基準であるが、本来的には(防衛費)抑制の議論でなければならない。たとえば、1920年代から海軍軍縮交渉がはじまったが、各国とも膨張する軍事費を抑制することにおおいに苦労していたわけで、そこで軍拡競争をとめればなんとかなるのではないかと、財政当局が考えたのはとうぜんのことで、そのあたりの史実について詳しくはないが、軍艦は民政からいえばけっして生産的なものではなく、ひつようではあっても国民の日々の生活には寄与しないものであるという指摘はそのとおりである。という視点にたてば、今日までの1パーセント以内という基準は抑制基準として十分機能していたといえる。
しかし、それも外部環境との関係であって、今日のように安全保障環境が悪化している状況にあっては、対抗上防衛力強化とくに最適化を図らなければならないことは、おおくの人びとの賛同するところであろう。ではしぶしぶながらも、どの程度の防衛力を企図すべきなのか、これが難問である。とくに難しいのが、議論のスタートが想定からはじまることで、すべてが想定次第ということになり、エビデンスにもとづく政策立案からはあまりにもかけ離れることになる。さらに、現在の国力からして完全防衛は困難であるから、ある程度の被害を受容しなければ現実的な議論(ひつようとされる防衛装備について)がすすまないのであるが、この被害受容つまりリスク受容を前提とした話に一番弱いのが国会議員であって、極論すれば「一人も犠牲者をださない」というベースに立っていなければ思いつかない議論もすくなからず見うけられるが、その典型が非武装中立論であったと思っている。筆者としては、リスク受容とその最小化を前提にしなければ、防衛力強化の具体論はなかなか前進しないのではないかと考えている。たとえば、増額を重ねてもどこか中途半端な感じがしてならない、つまりすっきりしないということで、それは負担限界をきめての議論でないかぎり、なかなか決着はしないのではないかと思うのである。
4脅威の認識は難しいし、同盟関係の拡大はさらに難しいと思われる
他方、同盟関係あるいは准同盟関係を前提に、先々は集団的対応を予定するとした場合において、おたがいどの程度汗をかいているのかが、同盟を維持するための議論としてもっとも重要視されるのはとうぜんであり、そういう意味でわが国も仲間にいれてもらうためには、相場的に2パーセントぐらいの防衛費負担はあたりまえではないか、という議論が浮上しているということであろう。それは、1パーセント以内という、根拠があるようでないに等しい基準は、ずいぶん楽だよね、あるいはただ乗りじゃないのといった他国からのやっかみをふくむ指摘を予定的に受けとめたものであったともいえる。(対抗する国からは低すぎるという批難はでてこないものである。)
したがって、国際関係を考慮したうえでの「はじめに数字ありき」ではあったが、国内的には「物事には限度がある」という意志をしめすための抑制論なのである。だから、2パーセントが必達目標であるはずもなく、周辺の脅威の説明も抽象的な部分が多く、また脅威というのは見方によって変わるだけに、妥当な水準についての議論はかんたんにはまとまらないと思われる。さらに、国家財政に余裕があるわけではない、むしろ国民生活が物価上昇に圧迫されている現状を考えれば、政権としては慎重にはこばざるをえないと思われる。また日米同盟以外に准同盟を考えるとしても、どの国と結びまたどの国と結ばないのか、輪郭を鮮明にすればするほど副作用が強まるというジレンマもあるので、ことほどさようにかんたんな話ではないのである。まして、他国との装備の標準化などは10年単位の仕事になるので、緊急時対応とはいえないであろう。
5世論の大勢は防衛費増に向かっているようだが
もちろん、防衛費のGDP比2パーセント基準を、国内での議論をふっとばして対外的にひとり歩きさせたのは問題であるといえばその通りで、野党にしてみれば噴飯物であろう。まして防衛費増のための増税とくれば、昔なら倒閣運動に発展してもおかしくないといえる。しかし、現状はそうはなっていないのである。
野党の場合、口であれこれいっても身体が鈍っているのであるから迫力がないといえる。また、世論の大勢もある程度の増額はやむをえないと納得していると思われる、今のところは。
また、労働界では古くから「反戦平和運動」という領域があり、旧総評系(旧と表記したが新はない)では、反自衛隊的な対応かつ防衛費圧縮が正しい方向だと考えられていたのであるが、いまや反自衛隊的スタンスは皆無であろう。また、防衛費はひつように応じて適切に手当てすべしというのが大勢となっている。このようにおおくの労働団体の「反戦平和運動」の基本スタンスはすこしずつ変化しており、日米安保条約反対の潮流はすでに途絶しつつあるといえる。
くわえて、2015年安保法制が結果として安全保障環境にフィットしていたと感じている人びとが多数となっており、2015年当時の反安保法制を支えた勢力の衰退は顕著であり、いまだ回復の兆しはみられない。ということで左派グループとしては目を覆いたくなるばかりの状況といえる。とくに、中ロ北がわが国の安全保障上の脅威として、あざやかに国民の意識にきざまれていることを直視すれば、立憲民主党や日本共産党などの左派グループへの支持がただちに回復にむかうことは当面起こりえないといえる。
6問われる安全保障政策-立憲民主党は中道に寄せるべきである
だから、それがおかしいというのであれば、おかしいと堂々と主張するべきであるが、現実は煮えきらない姿勢に終始しているのではないか。またそれは一番のポピュリズムではないか。少なくともそのように思われている。とくに、昨年2月からのロシアのウクライナ侵略は、両党(立憲、共産)の理念政策とは相容れないものであることは明らかではあるのだが、そういった外部からの侵略にたいして両党の姿勢では十分に対抗できないのではないかといった勝手な思いこみがしずかに拡散していると思われる。つまり、これは風評被害の一種であって、両党の安全保障の考え方が正確に伝わっていないことから、誤ったイメージ先行の側面があるといえなくもないのである。
であるとしても、とくに立憲民主党としてはそれを否定し、積極的に国防政策を提起する活動をうちださなければ、政権をめざす政党とは認められないのではないかと思う。2021年10月の総選挙後、2022年7月の参議院選挙前にロシアのウクライナ侵略がはじまったわけで、衆議院議員は選挙では、ロシアへの対応についての審判をまだ受けていないといえる。
つまり、左派グループとりわけ立憲民主党としては、ウクライナ情勢のマイナス影響をうけやすいことを危惧するならば、次の総選挙に向けて安全保障政策を強化し、大々的にアッピールするひつようがあるということであろう。つまり、徐々に中道に寄せていく、またそのために支障をきたす発信はできるだけひかえるといったオペレーションも求められるのであるが、党内の事情もあって難しいかもしれない。
筆者は、同党の外部観測者として多少の友情心をもって考察してきた。そこで、内在する左派性が党勢拡大を阻害していることが明らかであるにもかかわらず、なお逡巡しているのはひとえに「党内事なかれ主義」によるものではないかと考えている。もし中道政党をめざすのであれば党内葛藤を乗りこえなければならないと思う。
7日本共産党は体制と体質を問われるかもしれない
日本共産党の場合は、党首選出方法への外部からの批判がつづくと思われる。ふつうにいえば、関心をもたれることもないのであるが、国政選挙がからめば外部からつつかれるということである。対策としては、党内改革委員会をもうけて党名はじめその他の改革を進めればいいと思うのであるが、共産党の組織論は歴史的に弾圧対策が中心であったから、今日においても組織防衛の色彩が強い、いや強すぎることから、改革すらうけいれられないであろう。そういう点でいえば、もっとも保守性の高い政党といえるのではないか、ゆえに筆者は変わらないと考えている。
8立憲・維新の国会共闘はどうなるのか-連立政権構想が鍵
国会の華は野党の質問であるから楽しみにしている。とくに立憲民主党と日本維新の会との国対共闘に注目しているのであるが、小成に甘んじていいのかというのが一番の批判である。小成というのはこれ以上のことは期待できないということであって、今求められているのはキシダ政権にかわりうるだけの支持を集める連立政権構想であろう。党の合併ではない、連立政権なのである。連立について批判くさい言説が流れているが、その発信源は「そうなって欲しくない」ところであると考えるのが自然であろう。よく野合であるとか、わかったような批判を耳にするが、連立政権構想(以下連立構想)が確認されればそういった批判は解消されるもので、自社さ政権が許容されるのであれば、ほとんどの連立政権が許容されるということである。
連立構想が綱領よりも優先されるのであるから、連立する政党間の矛盾はとりあえず解消できるといえる。問題は支援者との関係であるが、単独政権が難しい状況下で、連立により政策的に前進できると判断されるなら、「小さな妥協おおきな成果」をめざすべきではないだろうか。また、総選挙時に連立構想をしめすことができれば上々であろう。こういった方法をもちいなければ政権交代は不可能であり、わが国の進路修正の機会が失われるということではないか。いつも自民党にまかせるというのは自民党の間違いを是正できないことであり、わが国として衰退カーブから脱出する機会を永久に失うことになるであろう。
9連立政権構想では綱領の一部に鍵をかけることも
問題は綱領との衝突であって、一般的には綱領優先であるが、それでは連立が動かなくなるから、ときの知恵として「期限をきめて」また項目ごとに「綱領に鍵をかける」ことがひつようとなるであろう。
部分的に綱領に鍵をかける勇気がなければ政権交代は実現しないであろう。政権交代ができない状況を放置すれば、キシダ政権の暴走を抑止することは不可能である。しつこいようであるが、痛みをともなう改革の一丁目一番地は自己改革で、そのターゲットは綱領であり基本政策ではないか。歳費や諸手当や議員宿舎なども重要ではあるが、根本的な改革を避けてはいけない。綱領を作案した者にとって綱領はわが子同然いや自分そのものである。溺愛は身を滅ぼす。ひつようなのは、まさに身を切る改革ではないか。
また、立憲民主党は綱領に原発ゼロ政策をうたっており、政権獲得後5年以内に、停止あるいは廃棄に取りかかるということのようであるが、失礼ながら本当に可能であると考えているのか聞きたいものである。これでは、「政権を担わない宣言」に等しいのではないか。このことは同党のほとんどの議員が理解していると思うが、エネルギー事情が奇跡的に改善しないかぎり、原発ゼロでは経済も生活も成り立たない。ということで、連立構想を工夫することによって、立憲民主党が陥っている原発ゼロの罠を回避することができるし、その連立への道が通じないことには連立相手が見つからないということであろう。原発ゼロ政策を破棄せよという権利は筆者にはない、理念として掲げるのも政党の裁量である。しかし、政権を担ったときのことを考えれば「方便」もいるのではないか、ということである。
最後に、日本維新の会には、新自由主義への批判なくして全国的国民政党への道はひらけないのではないかといいたいのである。維新に愛はあるんかと、まあ期待される分批判も強いということで、同党が今胸突き八丁であると思うので、最後の踏ん張りどころで一言申し上げたということである。
10好位置につけている国民民主党には踏み切り板が要る
衆議院では、来年度予算案にたいし国民民主党が反対にまわった。昨年度は「ガソリン税特例税率(25.1円/1ℓ)凍結トリガー条項」の適用について、自民党・公明党・国民民主党の3党でまえむきに検討することを条件に賛成にまわったと伝えられているが、これは永田町的にもめずらしいことであった。他の野党からはかなりきつい非難を受けた。もちろん評価は立場によって変わるから気にすることもなかろう。たとえば「予算に賛成するのであれば、それは野党ではない」といった画一的な評価が説得力をもっているとも思えない。
それよりも、国会での作法には議論があるとしても、案件についての賛否は「政党の裁量」であるから、他党がいちいち口をはさむことではないと明言したうえで、昨年度の野党からの非難は「すこしいい過ぎ」だったと思うが、問題は国民民主党として「賛成してガソリンが安くなったのか」という質問にどう答えられるかであろう。
結果をいえば、補助金でそれなりの対応ができたということではあるが、政治的アッピールとしての「見栄え」はけっしてよくなかったと思う。また、支援団体とくに連合の受けとめが、正直なところピリッとしたものではなかったところが、今ひとつどうなのかということで、連合自身のことではあるが、ここらあたりに今日的課題があると思われる。
つまり、「予算案に賛成なんかしたらダメじゃないか」と叱責口調で連合が国民民主党に意見をすることについて、あなたはどう考えますかと聞かれたらどう答えればいいのか、ということである。簡単なようではあるがどこかに罠が仕掛けられているようで、不気味である。
たとえば、1パーセントでも気に入らなければ反対するという考えもあるだろう。100兆円をはるかに超える巨額予算案であり、最大の支出項目が社会保障関係費でおよそ37兆円である。年金水準が低いという不満があっても反対して支出をとめることは望まない、と考えるのが常識的ではあるが、しかしその年金水準が低いことをもって予算案全体に反対することを阻む理屈もないのである。そういう意味では「賛否はからすの勝手でしょ」とまではいわないが、賛成にしても反対にしても理屈はなんとでもなる世界である。
しかし、理屈はなんとでもなるにせよ、その理屈がむつかしいうえに、未来が拘束されるかもしれない。たとえ1パーセントであっても言い分が通れば残りの99パーセントをふくめ全体を可とする行為の是非については永遠にとはいわないが、しばらくのあいだは議論がのこると思われる。また、前回はどうであったのかが判断基準になるとなかなか路線を変えることができなくなり、いちど賛成すればそのまま無間地獄に陥るというのはやや大げさではあるが、物事の一面をとらえていると思われる。
とはいっても、野党だから反対というのも画一的すぎるわけで、それだけでは易きに流れると批難されても仕方がないといえる。というジレンマの中でトリガー条項に目をつけて、新奇の対応を試みたのではないかと受けとめている。
今回は「賃上げのたすけにならない」ということであっさり反対にまわったところは、牛若丸のようで小気味がいいともいえるが、昨年末の弊欄(時事雑考「2023年になっても、とても気になること、ウクライナと国内政局」2022年12月30日)で「予算案に賛成するのか、気になる国民民主党のうごき」として縷々(るる)述べてみたが、背景にある自公との近接には見えない落とし穴もおおく、結果として党勢拡大につながらなければ賛成行動の意義を見いだすことはできないということであろう。また何事にも支援団体の理解が大前提となることから、月なみではあるが十分な対話がひつようである。
また、労働組合の組織論は保守的であり、外にむかう発言は改革派あるいは革新的とみられているが、自身のことについては慣性の法則が第一原理となっている。だから、かわることについては否定的かつ鈍感なのであろう。
11政治的中道層の再結集が望まれる
ところで、是々非々というか、「対決より解決」をかかげる中道派の国民民主党に、立憲民主党はじめ他の野党にはないどんな魅力があるのかが、とりあえずの関心事であろう。残念なことに、どう考えても単独の存在として、魅力にあふれているとはいいがたい。というよりも、広く知れ渡っているとはいえないのである。さらにきびしくいえば、あくまで立憲民主党の系統別れとしての存在と認識されていると思われる。系図からいえば立憲民主党よりも正系に近いといってもいいのであるが、この際そういうことはどうでもいいのであって、政党存在の究極としての本質あるいはブランドとしての認知がいまいちといえよう。
昨今、先進国における中間所得層の痩せ細りが、各方面にマイナス影響をおよぼしているとの認識が共通化しているが、政治の世界でも中間所得層に相当する中道層の散開化すなわち「ちらばり」が顕著となっており、それが安定的な政治軸の形成を疎外しているといった声も聞かれる。そういった現状を克服するためには所得階層と政治意識の関係についての詳しい分析をふまえ、中道層の再結集をはかるひつようがあるといえる。
さて、中道の魅力とは「後からしみじみ」感じるもので、前宣伝とか、あるいは玄関先で、また鳴り物いりで騒ぎたてるものではないのであるから、選挙的には苦しいといえる。だから無党派あるいは支持政党なし層、そしてやむなく自民党を支持している中道右派にたいして、なにをアッピールするべきなのかについて、ただちにつまびらかにすることはできないが、はっきりいえることは、かぎりなく右に舵をきることではないということで、その理由は重なるものは重複であり、重複するものは不要と思われるからである。
あくまで、むきはおなじでも中身が異なるからこそ価値があるのである。もちろん、政界は協調と競争の世界であるから、協調しても同化してはならない。したがって、与党とくに自民党とは、なにが、どこが、どのように違うのか、確としめして欲しいということである。
12立憲民主党の不人気のわけがわからないのがわが国の政治課題であるが、国民民主党はどう考えるのか
さて、今日的難問のひとつが、立憲民主党の不人気であろう。「(政党支持率が)もう少し高くてもいいのでは」とリベラル層は首をひねっている、そのことである。筆者もそう思っている。そこで、立憲民主党との比較において国民民主党についてはどうなのか、というのが規模ではマイナーであっても、政治上の立ち位置では最も広い中道に立つという意味でメジャーな同党への評価のありようにについて、考えるべきことがあるように思われる。
まず指摘したいことは、立憲民主党と日本共産党を筆者はまとめて左派グループとしているが、国民民主党としてこのグループ分けをどう受けとめているのか、である。
2020年9月の合流という経緯があって、また機微に触れることがあるので問わずにそのままになっているのであるが、ようするに合流が気にいらない「残党」なのかという問にどう答えるのかということである。
筆者は見解をもっているが、世間はもっていない。政治は世間でおこなわれるので、国民民主党のレーゾンデートルが世間では無関心ゾーンつまり欠落状態になっているのではないか。だから、与党にも野党にも、しっくりこないと感じていた若年層の一部がそのことに気づき、それが同党の支持が先の参議院選挙である程度ふくらんだ要因であろうという分析には同意する。ただし、膨らみ具合には不足感があり、結果には不満である。したがって、執行部にはさらに努力する責任があると考えている。
ということをふみ台に、いささか手前勝手な理屈をいえば、左派グループと範疇化した筆者のバイアスとなっているいわゆる左派性について、国民民主党はどのように考えているのかということである。
だれにでも左派性があるもので、そのベースは現状への不満である。この不満というのは社会性の中で感じるものとし、個人のそれについてはとりあえず切り離しておくことで理屈がクリアになる。社会的に存在する不満をどういう理屈で正当化するのか。この場合の正当化とは不満をもつことは正しい、その不満は正統であるということ、だから不満を解消する行為は正しいとする考え方である。つまり、不満を生みだす現状は改められなければならない、そういう不満を生じる社会は改革されねばならないということになり、改革の方法として手術が許容されることになる。
一方、保守とは現状肯定からスタートするもので、本来不満は個人の所有するものであり、個人の責任において解消されなければならないと考える。だから、所得が少ないと不満を持つのであれば、さらに努力をして成果をあげるなり、所得の高い仕事に変わればいいではないかと主張するのである。
この個人主義ともいわれている、すべてのことを個人に帰結させる考え方は往々にして行き過ぎを生じるものであり、その最大のものは、国家の否定である。国家からの恩恵がなく、あるのは戦費の徴発と動員であるから、愛国心も忠誠心もなくなるであろう。だから文化的しくみをつかって愛国心という神話(ラブストーリー)を生みだすのであるが、これは普遍的手法でもある。
13左派性の研究がひつようではないか
さて本論にもどるが、左派性とは現状に対するアンチテーゼ(否定的命題)を限りなく愛用する性癖ともいえるが、立憲民主党が手元にならべているアンチテーゼ集のどれがもっとも嫌いであるのか、国民民主党として明示するひつようがあるだろう。
さらに、左派性の頭上には理想主義という気球がうかんでいる。気球は完全立体である球体にほぼちかく美しくもある。だから左派性のなかには気球への憧れと、いずれ気球にとどく日がくると夢想する「現実逃避」の傾向がある。
という構造はまるで宗教団体のイデーに似ているとも思われる。よけいなことはおき、国民民主党が考える立憲民主党の左派性とはどういうものなのか、といった整理がいずれ役にたつ日がおとずれると確信しているのである。
14立憲民主党の「大きな一つの塊」論は空論なのか
過日、立憲民主党の岡田克也幹事長が「政権交代可能な政治の実現という大局に立ち大きな塊をめざす。働く人々を代表する政党は一つで十分だ(2023年2月19日党大会)」旨の発言をしたと伝えられている。この発言への反応はいろいろだと思うが、筆者としての感想は「働く人々を代表する政党」が成立するのかが疑問だよね、というものである。あえて優しくいいたい。「働く人々」とは政治表現である。本来は労働者、もしくは賃金労働者というべきであるが、労働者という表現がもつイデオロギー的匂いを嫌って、平易な表現にしているところが政治的である。働いていない人々以外が働く人々であるから、膨大な人数となる。この人数をまとめることはなかなか大変なことである。
つぎに「代表する政党」であるが、代表とはどういう役割なのか、意見を代表するということであれば、意見集約のプロセスを政党がもつということなのか。であれば「できっこない」といいたい、なにしろ推定組織率が今や16.5パーセントであるから、パイプのない未組織労働者から意見を聞くだけでも異次元の大仕事である。まさか雇用労働者の83.5パーセントから直接対面で聴取するつもりではあるまい、であれば心底では連合に期待しているのではないかと、またぞろ他人まかせではないかと批判されるであろう。
また、「もっぱら労働者を代表する政党」であるならわかりやすいが、ここでは労働者という属性が成立するのかが第一の疑問である。そもそも労働者が労働者であるという自覚を持つことこそがイデオロギーであって、そのイデオロギーを支える有効な理論は現実的にはないといえる。たしかに、おんぶに抱っこで選挙活動をたすけてもらったことから「役にたつ働く人々の組織」がおおきく一塊になればいいのだがという素朴な期待は分からないでもないが、それを壊してきたいきさつを無視して、今さらどんな話ができるというのか、という声が聞こえてくる。
さらに、働く人々ひとり一人がそれぞれの生活価値観をもっていることから、たとえば同一労組内においてさえ、政策・制度において利害が不一致あるいは衝突という事態が頻々と発生している実態(べつにもめているわけではないが)にある。さらに、安全保障やエネルギー政策さらに家族観、子育て、教育など労働者という属性でまとめられない分野が相対的に拡大しているのが現実であるから、「働く人々を代表する政党は一つ」というのは都合のいい幻想ではないかと思う。
筆者にして、古希をはるかに超えてもなお「政治と労働」あるいは「労働の政治参加」について、いまだにとらえられないでいる。だから日々苦悶、苦闘しているのである。そこは察して欲しいものである。それよりも、「2015年安保法制」を大綱認知し、「原発ゼロ」政策を凍結すれば、あんがい道が開けると思うが、その努力もせずに「一つの塊」といってみても詮ないものであろう。まあ、歴史認識みたいな話ではあるが。
15立憲、国民、連合の不思議な三角関係、変わる連合の役割
立憲民主党と国民民主党との不整合。間に立つ連合の不思議な姿、今日の政治閉塞の病巣の一つがこの三角関係にあるといえるのではないか。しかし、閉塞の罪を連合におしつける気はさらさらなく、そこは世間も連合にそれほどの役割を感じていないのであって、いいかえれば「勝手にフェードアウトしちゃっている」ぐらいの感じではないかしら、世間は。世の中ずいぶんとかわったとも感じているのであろう。
さらにいえば、なにがなんでも「立憲と国民を一つにする」というのであれば、人びとはその意図をふまえたうえで、賛否は別としても、連合の発言をその時の政治状況との関係において、それなりに解釈しようとするであろう。これがオピニオンリーダーというものである。しかし、そのような強い思い入れはないようにも見うけられ、2020年9月の合流でもって大仕事は終わったという認識なのであろうか。そういう意味では、連合の政治的役割がかわりつつあるというのが正確ないい方であろう。もう時代がかわった、というべきかもしれない。
16連合の地方における役割はのこる
さて、役割をかえつつある連合であるが、それでも最後の調整役として、地方においては扇の要としての役割を期待されていると思う。もちろん地方の事情にあわせ、47通りの役割になるとは思うが、選挙は現場でたたかわれるのであるから、地方における地方連合の存在感はまだまだ健在だと考えるべきであろう。野党選挙協力の調整も地方連合をぬきには考えられない地方もおおいと思われる。
その点、中央本部は現実的に再合流を企図する状況にはないようであるから、政策・制度課題の実現にむけて、政府、省庁、政党あるいは経済団体への働きかけを強化する方向へうごく可能性がたかいと思われる。そういう意味では賃金改善をはじめ働き方改革、少子化対策、男女平等施策など、政党とのしがらみからは離れた立場で要請活動を強化する方向にあるのではないかと想定している。だから、むしろよかったかもしれないとも思われるのである。とてもいい難いのであるが、先ほど病巣とまで述べた立憲民主党と国民民主党と連合との不思議な三角関係が固まれば固まるほど、連合の直接要請行動が生き生きとしてくるのかもしれない。さらに、要請される方も連合の要請には世界の潮流あるいは息吹が感じられるものが多いことから、むしろ真剣にうけとめるといった心的態度が醸成されるかもしれないなど、今は皮算用の域をでないが、可能性はたかいと思われるのである。
なまじ政治通でないほうが、うまくいく場面があるようにも感じられるのであるが、少し楽観がすぎるかもしれない。
17オピニオンリーダーとしての連合の役割に期待
ということで、連合が本来の役割であるオピニオンリーダーに復帰するのはそれはそれで吉祥ではないかと思うのである。世の中大事な時に、また気になるときに、「ところで○○はどういっているのかね」と参照される○○こそが、頼られるオピニオンリーダーというべきもので、たとえ嫌いであっても○○の発言が気になる、そんな○○になって欲しいと思う。
昨年度予算案に国民民主党が賛成したことの形而上の被害者は連合であると思う。この形而上の被害者というのは、ある仮説構成上の被害者の意であって、世間でいう被害者ではない。で、その仮説というのは「野党を仕切る連合」というボスあるいは黒幕伝説であって、そういえば大昔にはよく似た「はなし」があったのであるが、残念ながら民主党政権の崩壊をもって伝説はとおい過去のものになったようである。
「ちっとも仕切れてないではないか」と職場の活動家は愚痴るであろう。いや愚痴ではない、実相をつぶやいているだけである。だから、2020年9月の立憲民主党と国民民主党の合流とはなんであったのか。政党と連合だけの都合とはいわないが、少なくとも天下取りの発想にたっていたとは思われない。一つになれば、2007年参議院選挙、2009年総選挙の再来を期せると思いこんだ人たちがいただけではないか。しかし、夢はかえってこない。だから「災い転じて福となす(戦国策)」ことが大切であろう。
18政権、与党との関係がバージョンアップするのか
2月26日の自民党大会に芳野連合会長の姿はなかった。はじめからなかったのか、あるいは先行報道の影響をうけたからなのか、真相はわからない。筆者にとってはどちらでもいい話ではある。
ただ、先ほどの「予算に賛成するのは野党ではない」という言説とおなじで、鋳型にいれられた思考にはうんざりするだけの話である。前例をいえば笹森清(故人)元連合会長はどうであったかしら。政策・制度要求をまとめているのだから、巣窟(失礼)にのりこんでいって、満面の笑みであいさつをしてもいいのではなかろうか。あるいは啖呵の一つぐらいはきってウェブを賑わせてもおもしろいではないか。たしかに安全を優先する気持ちはわかるが、それは内部対策ではないか、トップを伸びのびさせてこき使う土壌ではないことだけは確かなようである。しかし、政労使会議は前進するようであるから、G7へ向けて社会対話や賃金改善をアッピールすればいいと思う。つまりページはすでにめくられたということか。
◇隅埃(すみぼこり)我慢するのは彼岸まで
加藤敏幸
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