遅牛早牛

時事雑考「世襲議員は議会の華なのか?」

(5月連休のにぎわいを聞きホッとしている。さて、統一地方選挙前半・後半と5つの衆参補欠選挙の結果は、日本維新の会の一人勝ちということか。あるいは立憲民主党と日本共産党の連れ負けなのか、いよいよ党勢が鮮明になってきた。

 自民党は4勝1敗で、勝利のようだが内容は微妙である。だから解散を急ぐ空気が急速にひろまっているが、今からでさえ遅れたタイミングになると思う。

 キシダ政権との対立軸を鮮明にし、勢いにのる維新の選挙準備がととのわないうちに解散総選挙をという目論見がうまくいくはずがない。アベ時代とはちがううえに、姑息で華がない。

 春の賃金交渉では満額回答の花が咲きみだれ久しぶりのあかるい光景となったが、本命が中小、非正規、未組織であることに変わりはない。また、満額であっても実質賃下げも起こりうるので油断できない。さらに、年金生活者は生活切りさげにうめいているから、市井にうといキシダ政権の弱点があらわになると、総選挙どころではなくなる。好事魔多しといいたい。

 だから、自民党が飽きられているのは正しいが、それだけではないだろう。まあ、野党の選挙協力しだいではあるが、アベスガ時代とはちがう時代文脈に入ったと考えれば、かかげる政策もすこしづつ変えなければと思う。

 一方、立憲と共産は嫌われている。とくに、反省に名をかりた党内抗争はさらに支持を失うであろう。それよりも立憲は2020年9月の合流に無理があったところが反省点ではないか。中道層が維新にながれはじめている現実を直視しないと先の展望がなくなると思うが、むつかしいところであろう。振子の左への回帰をひたすら待つのか、あるいは世間は維新に袖にされたと見ているのだが。どうする立憲、である。

 野党は、維新基軸が確定ということであろう。松井代表が鮮やかに引退したのが良かった。試合巧者である。おそらく維新あての人材ファイルがキャビネットからあふれるほどになるだろう。しかし、さばききれるのか。いつになるのか分からない総選挙のその日まで、緊張の連続である。今回は漢字ひらがな比率を漢字方向にすこし移しました。)

◇ 世襲議員を「議会の華」といえば反発も大きいだろう。リトマス試験紙ではないが、この「議会の華」という表現に違和感をおぼえず、「そうかもしれない」と受けとめる人は世襲議員に寛容であるから、容認派といえる。おそらく、「議員として仕事をしてくれればいいではないか」とか「本人次第」と答えるであろう。たしかに、選挙で選ばれたことは事実であるから議員資格を問われることはない。

 他方で、「どこが華なのか」という声も多くあがると思われる。政界では話題になることが華である証だと冗談半分でいう向きもあるが、話題によるというべきで、たとえば将来の総理候補にランキングされることなどはさしたる根拠がないとしても、華である証明といえると思う。

 公正な選挙によって選ばれた国会議員が、国民の代表として国政に参画する。参画にあたっては皆平等であると、理屈ではそうなっている。しかし、七光りほどではないにしても、なにかしら「えこひいき」があるように感じるのがふつうの人の感覚だし、反発の原因もそこにあるのだろう。

 また、よく二世議員ともいわれるが、三世もいれば隔世もいる。国会議員でなくとも地方議員や首長の二世、三世もすくなくない。まあ、家系図に記載されているのであれば、そのように呼ばれるのであろうが、しかし個人の事情もあって、そう呼ばれることが嫌だという現役議員もすくなくないことも事実である。

◇ そこで、世襲議員と二世議員とはどう違うのかと問われるとすこしもたつくが、簡単にいえば、世襲とは引きつぐものがあっての世襲だから、名前や家柄あるいは華麗な家系図だけではない、つまり引きつぐべき実体、実質をもっているということが重要で、だから世襲と呼ばれるのであろう。で、世襲される実体、実質とは、ズバリそれは後援会を中心とする選挙マシンとしての政治団体であるというのが衆目の一致するところだと思っている。

 よくいわれる「地盤」「看板」「鞄」の三点セットのアレである。だから世襲議員とはアレ付きの政治団体を、血統や親族関係を故として引きついだ議員の呼称であると、あくまで筆者の見解ではあるが、そのようにいえるであろう。

◇ 見方によれば、じつに恵まれた話ではないか。たぶん「やっかまれる」であろうし、場合によっては強烈な批判をくらうかもしれない。批判が批難になり、さらに「制限」あるいは「禁止」などとエスカレートしていくかもしれない。しかし、被選挙権をしばるのは憲法違反であるから、この問題は批難が限度であると考えている。

 それでも、何かしらの制限を課すべきだと考えるのであれば、むしろ政治資金の継承の仕組みについて議論したほうが現実的ではないかと思う。もともと、政治団体の資金は法律で開示義務を負わされているが、「鞄」というものが個人資産なのか、あるいは政治団体の資産をいうのか、また世間でいう相続なのか贈与なのか、ボヤッとしていると思う。大きく見れば政治活動のためではあるが、小さく見れば資産形成であるから、形成過程については使途と同じように透明性が求められるであろう。

◇ ところで、わが国の政治は資本主義だと思っていたが、今さら何をとぼけているのかという反応にすこしくじけている。もちろん一人一票の原則は貫徹されているが、それ以外については資金の多寡がなによりも大勢を決していると感じている。とくに情報宣伝といった活動においては資金量が決定的であることはいうまでもない。有権者への訴求は報道に比例し、報道量は権力に比例する。さらに活動総量は総体と資金量に比例するもので、構造として与党有利となっている。この既存状態における与党有利という原則が政治的安定性を支えているのであるが、近ごろはそのアドバンテージにあぐらをかいているようにも見うけられる。そのことが日本維新の会の躍進を生んでいるということであろう。

 ということで、投票権は平等であっても、被選挙権と当落は実質的には不平等な状況にあり、さらに政治活動は不平等そのものといえる。そもそも政治活動の平等性の確保には選挙関連をのぞけば根拠がなく、つまり原則自由だから資金の多い方が有利であるのはあたりまえといえる。

 こういった傾向は、職業選択の自由があっても現実は個別事情に大きく左右されているし、教育機会は本人の能力だけではなく経済的環境によって大きな差が生みだされている。

 ところで、医者の子は医者に、タレントの子はタレントに、もちろん歌舞伎役者の子は歌舞伎役者になる確率が高いことの事情は、ことの是非はべつとして一面の説得性をもっていることも事実である。しかし、その説得性が崩れる条件についてはあまり議論されてはいない。

 とくに、政治家の子が政治家になる事例については、他の事例とは異なる判断が人びとによってなされる可能性が高いことを忘れてはならない。また、投票によって当落が決まる宿命からはのがれられないわけで、世襲議員にとっては唯一ハラハラせざるをえない審判の時である。だから、取り巻きとしてはそうはならないように「ビバ世襲議員!」伝説をしつこく喧伝しているのであろう。世襲議員にはいろいろとご利益があると。

 そういった選挙区において、さまざまな利益をえている人びとが過半であるかぎり、否3割程度であっても、世襲議員は守られていく仕組みになっているのであるが、決してそれは完全なものとはいえない。

◇ 筆者は、世襲議員や二世議員に対しとくだんの反感をもったことはなく、ただ正直にいえば嫌味な連中とは思っていたが、敵愾心とか対抗心をもつことはなかった。しかし、引退してからは政界とは距離をおき、静かに観察することを日課としてきたので、マスコミからネガティブな扱いを受けている世襲議員については少し変わった見方をするようになったのである。もっといえば、世襲議員とか二世議員が徐々に繁茂しているのは、草木にたとえてしまったが、そうなる理由が厳然としてあるからではないかと考えるようになったのである。

 ここで「厳然として」などと、鉄ハンマーを奮いもつような表現を用いたのは、筆者自身がこの世襲議員というものには社会の法則にかなうなにかがあると感じているからで、そのなにかというのは、太古からつづいている社会を維持していく仕組みに、深くかかわっていることではないかと考えている。だからそういった言葉を無意識に使ったのであろう、と自分のことを他人ごとのように語っているのは、あまり自信をもてていないからであろう。その「なにか」の出現は、おそらく弥生時代あたりではないかと考えている。

 つまり早い話が、世襲議員というのは昔からあったもので、この国の政(まつりごと)においてはバージョン1にあたるものではないかということである。

◇ たしかに、今の時代は普通選挙が基本で、選挙権も被選挙権もひろく開かれているから、弥生時代とは異質な社会といえる。しかし、異質であるにもかかわらず世襲議員が漸増している現象だけを一面的にとらえれば、なんとなく似ているのではないかとふと思いいたったのである。弥生時代には農耕それも稲作が中心であったとする定説を受けいれるならば、稲作に投じる労働の調達とその支配(管理)のために、支配者あるいは支配層がひつようになる、といった歴史過程を考えてみても、集団において支配者あるいは支配層は必須のものであり、それは今日においても形式が変わったとしても、役割は変わるものではないといえる。この支配者あるいは支配層をどのように形成していくかは、集団の使命や目的にくわえ、これまでの経過や伝統などから規定されるものであると考えられるが、とくに支配者の条件が重要で、だれもがなりたいと思う役割については、厳しい合致条件を設けなければ、混乱をまねく危険があり、時に集団としての存続の危機にいたることになりかねない。ともかく円滑かつ紛れることなく支配者または後継者を決定していくことが最重要テーマであるから、血統をもって決定するという方式はさまざまな視点からも、合理的と思われる。

 ということから、おおくのケースにおいて支配権の継承には正当な血統基準が採用されていたことは、それなりの合理性があったといえるのではないか。その仕組みと今日の世襲議員が生まれる機序とが、直ちに同一のものというには少しためらいがあるが、といって否定することもないことから、おそらく相似しているというぐらいのことはいえると思う。

◇ さて、この世襲議員という、ほとんど身分ともいえる「立場」がどのような過程で決まっていくのであろうか。たとえば入れ札つまり内部選挙とか、談合(透明性のある話し合い)で決まっていくのか、など個人的にも興味がつきないものであるが、そういった信任を形成していく過程が民主的(透明性と納得性を満たすもの)であったとしても、答えはかならず血統者にいきつくという、子どもにも分かる仕掛けになっていることから、批判する者には「ひどい欺瞞」と映るのは当然のことであろう。

 しかし、当事者たちにしてみれば本当に「よくできた仕組み」なのであろう。だから、外部からは出来レースだと批難されても、政治結社の最大の目的が当選者をだすことであるかぎり、血統者に的が絞られていくのであって、全くのところ水の低きに向かう姿によく似ているといえるのである。

 それは政治団体の内部安定をはかる上で、もっとも効果的であるのが血統依存であるということを、集団がよく理解できているからであって、リベラル派やマスコミからどんなに批難されても気にすることはないのであって、それよりも経験に裏打ちされた集団智を大切にしていくということであろう。

 といいながらも、血統依存が成りたつ集団は一般的には少数といえるし、条件的にも限られてくるのであるが、なぜか自民党に集中しているところが、今日の政党政治を考えるうえでの重要な鍵といえるかもしれない。ともかく、古すぎるというべきか、あるいは逆に新しすぎるというべきか、現行憲法の価値観とはいささか趣のちがう流れではあるが、わが国の政治シーンを考えるうえでけっして無視できない存在であることだけは間違いないといえる。

◇ さて、仮に多少の議論があったとしても、血統なり家系がもつ不思議な説得力が消失してしまうことは、当分の間ないであろう。また、「弔い選挙」とおなじように情動による共感を演出しているといえるのであるが、ここでさらに重要なのは、結果的に勝率が極めて高いことが、ややこしい理屈をこえる「論より証拠」となっているのであろう。

 もちろん、単純に血統への信頼あるいは期待を標榜しているのではない。集団をまとめる旗印として血統への結集と団結を期待し、なおかつ信頼しているのであろう。思えば、自民党の下部組織はじつに現実主義的であり、また功利主義的ではないか、そしてさらに伝統社会のしがらみをしっかりと背負っていると思われる。もし学ぶとすれば、あまりないと思うが、そういった特性のありのままを受けとるべきであろう。

 ということから、しがらみのない立場がいい政治を保障する条件であるがごとき言説が定着しつつあるが、支援者との関係にかぎっていえば、しがらみがあるから、安定した組織活動が維持できているといえるのであって、そういう意味ではしがらみが絆となっているし、くわえて政治団体としての後援会が、その地域のまとまりや生活価値の体現者としての役割を果たしているのが真相であり、その象徴として世襲議員が祭りあげられているという面もあるのであろう。なんといっても若くして与党の要職に就いたり、閣僚に抜擢されたりという輝かしい処遇こそが、支援する人びとへのいわゆる「ごほうび」なのであろう。こういった名誉で満たされた思いというものは、他の分野ではなかなかえられないものである。さらに、地域ごとの政治活動の成果としても実感のこもったもので、野党の主張する政権選択の議論とは次元の異なるところに位置していると思う。

 この点について、たとえば労働組合などのいわゆる中間団体が政策・制度課題をかかげながら政治に参加している事例とはおおいに違いがあり、とくに祖父母の時代からという時間軸と、この地この場所という粘着性の高い地縁軸とが、世襲議員を介して「心情共同体」を形成していると筆者は受けとめている。また、こういったところが勁草たる所以ではないかとも思うのである。

 

◇ このように、風雪に耐えながら議席を死守しているという実績を誇る仕組みに対し、表からも裏からも異をとなえることは難しいと思われる。しかし、国民政党たる自民党の候補者選びが、一部とはいえ血統を軸にすすめられていると、つまり前近代性として世間に受けとられることはおおいに避けなければならないことであろう。であるなら、やめてしまえばいいのである。要するに政治結社の凝集性を高めるための方策であると割りきれば、血統者でなければならないという思いこみからは解放されると思う。しかし、多数意見は血統者であればよりやりやすいという判断であり、集団の意向もその方向で固まっているのであろう。こういった、集団の思いこみが固着していくことによって、新たな同志の出現をはばんでいることは否定しようもない現実であり、血統ゆえにまとまっていたとするならば、それが失われた時点から崩壊がはじまるのは当然のことであろう。

 それはともかく、政治団体が民主的に運営されるかどうかは保証の限りではないから、血統主義を嫌悪する者には差別的と感じられるかもしれない。しかし、多数の自薦他薦が討論会などをへて一人に絞られていく、といった不確実な経過よりも、明快で異論のない方式のほうが、政治団体の団結は守られるであろうし、さらに強化されていくと集団が思っているということではないか。とくに、地方議員の後援会が重合して国会議員の選挙組織が形成されていくことを考えれば、候補者選考過程ではできるかぎり異論を最小化することが求められるし、それはきわめて重要なことであろう。そこで、まとめやすいと思われる血統者に白羽の矢が向かうことになるというストーリーを理解することはたやすいが、それがいつまで説得力をたもてるのかという問題意識はのこると思われる。さらに、正当な血統者といわれている者の適性もあるであろう。

◇ 令和の時代に領主然とした存在が受けいれられるとは思えないが、事実は小説よりも奇なりで、あってもおかしくないというレベルではなく、あってあたりまえという域をはるかに超えた、これがこの国の政事の本流であるという無言の声が聞こえてくるような気がするのである。

 少なくともそういう世界が残されていることは事実であって、そこから選出されてくる世襲議員に、わが国の舵取りが委ねられているといっても過言ではなかろう。で、この現実をどのように受けとめていくべきか、ずいぶんと重たい課題ではあるが、これを進歩史観に立脚して「単に立ちおくれている地域」と切りすてるだけでは「不都合な事態」を回避することはできないと思う。

 立ちおくれているという評価は相対関係にある一方からの独断ともいえるもので、そのような評価を投げつけた側にもじつは大変な事態が控えているのである。それが不都合な事態ということであり、具体的にはリベラル派の価値観が途絶する事態のことである。率直にいえば、荒野を前に立ちすくむべきはむしろ左派グループではないか、多分そうなんだと思っている。

◇ さらに、余分なことをいえば、自民党の国会議員が閣僚になる確率は当選回数に強く相関することから、後援会を中心とする支援団体の動機付けは分かりやすく容易である。この点が野党との大きな違いとなっている。

 ところで、対抗する野党の支援団体はどうであろうか。2009年8月の総選挙で大敗した自民党はそれでも115議席に踏みとどまった。100を切るのではないかとまでいわれていたが、終盤では30議席ほどを守りぬいた感じであった。

 一方の民主党(1998年~2015年)は2012年12月の総選挙では60議席を下回った。当時の野田政権中枢から聞いた話では120程度の見込みだったといい、それならば再興が可能であると考えたという。また「筋肉質」仮説がささやかれていたが、結果は鍋の底がぬけたような惨敗であった。この差が両党の地力の差であり、地方組織あるいは支援団体の実力差であったと思う。土石流に襲われても倒されることのない頑丈な杭の役割を世襲議員の後援会組織が果たしていたと考えられる。それに匹敵するものを野党がもっているのか、政権を奪取できたとしても、問題は維持していくことである。その第一歩は逆風に耐えることであろう。そのためには鉄板支持層がひつようであると思うが、議論はそこまでは及んでいない。まだまだ時間がかかると思われる。

 

◇ これまでも、幾度となく見せつけられた自民党のたわみ強さのひとつが世襲議員にあると思ってはいたが、その世襲議員をささえる構造についてはまだまだよく分からないところがある。というのも、筆者のような主に労組系の選挙組織の中で活動してきた者には、その世界は遠くなかなか理解できないもので、内部構造については全くのところ不明なのである。

 だから、たとえば地縁血縁的集団がたくみに政治結社化していったのではないかと考えてみたり、あるいは集団の経験の中で生みだされた集団智ともいえるのではないかと持ちあげたり、ストーリーをまとめるのにずいぶんと難渋しているのである。

 といいながらも、筆者はそれらを称揚しているのではない。しかし、法違反があるわけでもなく、公序良俗を侵犯するでもない限りにおいて、感情面で複雑な気分があるからといって、やたら批難することは控えた方がいいのではないかと考えているだけである。

◇ さきほど弥生時代と不用意にもちだしたが、農耕社会である村落が支配者あるいは支配層を生みだし、開墾や灌漑あるいは農事を管理していく仕組みを作りあげるにあたって、もっとも重要なのは安定的なリーダーシップであることから、そのためには揺るぎのない支配者の決定方式が肝要であったといえる。仮に、有力な候補者が複数現れたときに、人びとがもっとも怖れるべきは「今日の分断、明日の分裂」であるから、べつに民主党のことを指しているのではないが、その事態を回避するためには黄門様の印籠よろしく血統の絶対性あるいは排除性にすがるのが最善策ということになるであろう。

 ここまでは血統と簡潔に表現してきたが、あくまでも「地盤」「看板」「鞄」の三点セットつき政治団体の継承者という意味で、血がつながっているだけでは十分ではない。つまり、直ちに動けるコア部隊と支援のネットワークの統括者としての立場にあることが重要であるといえる。

 かつて自民党と政権を争った民主党(1998年~2015年)については、所属議員の一人として、今でも思い入れがあるのは当然のことではある。それでも反省というか、さまざまな出来事を反芻することも多いのである。そこで多少奇をてらう表現になるが、民主党に欠けていたのはたとえば世襲議員というサスティナブルなものではないかと指摘したいのである。

 世間では「疾風に勁草を知る」とよくいわれるが、強い弱いという意味だけでいえば、民主党は疾風に弱かった。だいたいが逆風に弱いのである。それは無党派層ともいわれている「特定の支持政党をもたないとする有権者」の動向に強く影響されるからで、この層のメガネにかなえば大躍進であり、不興をかえば惨敗となる。また、政策指向が強い反面、醜聞や悪評に敏感に反応する傾向がある。だから窮地における助けとはなりにくいのである。やはり、固定支持層を厚くするのが一番であるが、筆者が左派グループと呼んでいる立憲民主党や日本共産党の固定支持層はむしろ漸減していると思われる。選挙のたびに議席をへらしていく長期低落傾向が鮮明になったのか、即断はできないが危機には違いない。

◇ さて、世間的にあまり評判が良くないにもかかわらず世襲議員が静かに漸増しているのには、世評を超越した合理的な理由があるということであろう。それが明らかになれば、多少なりとも野党の組織強化に役立つのではないか、と考えているのであるが、今の野党の土壌には、とても合わないということであろう。もちろん、世襲とはいっても制度化しているものではない。世襲もどきである。それでも現在の野党が否定的であるというのは分かるが、なぜそうなのかについての理屈は聞いたことがない。

 「失敬な」と一蹴されるだけとは分かってはいるが、それでも「あなたが長年にわたって苦労して築いた選挙地盤や後援会組織の後継者としてあなたの○○さんがよろしいのでは」という誘いを、どういう理屈で拒絶するのか。あっさりと受けいれてもいいのではないか。たとえば総理大臣あるいは大臣経験者なら○○に血縁者を入ってもおかしくはないケースもありうるのではないか。 といってみたものの、議論として実のならない木に水を遣るようで、内心ホッとするのであるが、残念な気もするのである。

 無理を承知でいえば「(議員を)稼業にするほどの根性がない」という声も訳知り連中のなかにはあるのであって、子々孫々政治に捧げる決心とはあまり聞いたことがないのであるが、そのぐらいの並々ならぬ決意の吐露があってもいいのではないか。つまり血統をくりだしてでも当選するんだといった、血へどを吐くほどの決意がなければ、国民として政権をまかせる気にはならないということか、とも思う。意気消沈している左派グループへの激励ではあるが、過激すぎて毒と変わらないかもしれない。いつまでも消沈することは許されない。消沈するだけなら、世襲議員の方がはるかにましだと有権者が考えはじめたら万事休すである。

◇ まさに現行憲法下において、古代の部族社会のように血統をつなぎ、また封建領主のように家子郎党を従え、あるときは家臣団のように、さらに名望を前面に押しだすという、よくもそんなことをこの令和にできるなと思うが、そういった感情はリベラル派特有のものかもしれない。

 本当の世間は、もしかしてかつての華族制度の復活を夢みているのではないかと錯覚してしまいそうになる。あんがい、古風な人びとの気持ちにはそういった復古的な願望があるのかもしれない。華麗なる系譜をわがことのように誇り、さらに楽しむ空間にリベラルなるものが入りこむ余地があるのだろうか。

 世襲議員をうむシステムと表現しているが、それにはどこか古代に根を下ろしたような、純朴でありながらも怪異なるものが、また現行憲法下の70年余ていどの時間では変えられないものが確実にあって、その意味において世襲議員というのは現行憲法よりもはるかに古い、いわば由緒正しき政(まつりごと)の様式であるということなのか。

 ひるがえって、自民党憲法草案がなぜあのような書きぶりになっているのか不思議であったが、そのことの背景にすこしだけ接することができた感じがする。未整理で、未完熟ではあるが、背景となっている保守の灯心は弥生時代からのもののようで、現行憲法を淵源とするリベラル派とは整合しないということであろう。

◇時空超え刻と光がむつみ合う 

 

加藤敏幸